気分の変化と自己認識
みなさんこんにちは、yuumichikaです。
今日はですね、さっきほど、こう、ちょっと作った詩を今朗読してあげてみました。
なんかその過程で思ったことっていうのが面白かったので、
今日はお話をしてみようかなと思ってます。
ことの始まりは、なんか今朝もちょっとこう、気分低空飛行な感じだったんですね。
で、まあまあと。まあまあと。
そうですね、でもまあそれに気づいてよって思ったんですよね。
あの、というか、なんかダウナーだなあみたいな感じっていうのは、
ちょっとこう、無意識的かな、無意識的?
あの、行き届い、なんだろう、体感覚がちょっとこう置き去りになっている感じがあるかなと思ったんで、
もう一回それを気がついたら感じていきましょうみたいな、なんか今日調子出ないなって思っていることに気づいたら、
体の方に戻るかっていうことを少し意識したんですね。
で、でもそうすると不思議と、あれなんか、なんか柔らぐような、なんか楽になるような不思議だわと思って。
で、まあ曇りだからかなとか、昨日ちょっとこう外でたくさん働いたので、
まあ体が疲れているのかな、なんていう合流探しもよぎりはするものの、まああまり取り合わず。
まあ何はともあれ、今この感じは今しかないから、これはこれで感じていよう、呼吸と一緒にって思って。
で、別にその今気分が上がらなくとも、別に何も損なわれるものってないわ、ない気がするって思えたんですね。
これが昔だったら、例えばですけど、なんかこんな重たい気分でいたら、その重たい気分に見合うものが引き寄せられちゃうとか、
なんか今しかないから、今がこんな気持ちで、こんなつまらない気持ちでどうするの、焦りみたいな、なんかそういうことを思ってたこともあったんですけど。
なんか不思議と今日は、まあ今ね、多少上がらなくても、別にそのことが私や私のあるいは価値的なものにおいて、別に何も損ねることはないわってのは思えたんですね。
で、呼吸に痛みに気づいている、気分の重さに気づいているということをちょっと意識していると、思い出したことがあって、
昔読んだ本で、坂口強平さんの本で、ちょっとどの本だったかっていうのを忘れたんですけども、
なんかこう鬱っぽい状態、鬱は想像の母であるみたいなことを言ってたんですね。
創作の重要性
その鬱っぽい時ほど実は感覚感性が研ぎ澄まされていて、本当にこう新しい創作や表現に気づいていける、あるいは、なんかその打破しようとしてもがく中で生まれてくる作品っていうことが、
実はもうそれまでの自分の既定路線から外れた一歩を踏み出せるんだ、鬱の時はみたいな。
なんかちょっとすごいざっくりですけど、多分言葉が尽くせてないんですけど、なんかそういったようなことだったなと思い出して、
なんかそれまでの、鬱状態っていうのはそれまでの自分が嫌になっているから、一から新しいものを生み出せる機会なんだっていうこと。
そうだそうだと思い出して、でなんだなんだと思いながら、なんかジャーナリングしているページに思いつくままに書いたのが先ほどの詩になります。
そこまで書いた時に思ったのが、最近ですね、私はなんか物語をちょっと書いていました。
で、それもなんかこうふと、ジャーナリングをしたりする中でふと手が動いて、で、物語を書いてみることを許すっていう感じだったんですね。
そう、子供の頃から本や物語好きだったし、自分でちょっと書いては、なんかその自分のあまりの完成度の低さに途中で嫌になって途切れたりとか、
最後までとても書けない、なんかこうやるモチベーションが続かないみたいな感じで、なんかこう投げ出していくうちに、なんか自分はそういうことをするもんじゃないみたいにどっかで蓋してたりとか。
なんか自分そんなね、作家さんたちみたいなものを生み出せないのに、やる意味ないみたいな感じで思ってたんですけど、こう物語を書くとか創作するとか。
なんかそれを今もう一度ふとちょっと緩めて、許しながらちょっと書いてみる、出してみるっていうことをしてたんですけど、そのことについてもふと思うことがあって。
で、それは私の書く物語っていうのは、別に作品である必要はないかもみたいな気づきだったんですね。
なんかとても完成度が高い文学とか文芸とかじゃなくて、結局書いてて思ったのが、なんかこれはやっぱり私の生き様なのかもってことだったんですね。
なんかこう、どういうことかっていうと、作品の中に出てくるモチーフっていうのが、自分の関心があったことだったり、自分の中からその暮らしてきたいろんな経験の中からポロリンと出てきた組み合わせの表現だったりとか、直近で人から聞いた話だったりとかがモチーフとして、あるいはこう話の流れとして立ち上がっていくというか、
自分の中から出てくるみたいなのって、なんか完成度云々じゃなくて、確かにこれは私しか書けないのかもなって思ったんですね。
なんかそれを今言いながら私はちょっとじわっときてるんですけど、多分このじわっとなんかこう込み上げてくるものがかすかにあったのは、なんか昔、かつての私が喜んでる。
書いては書いては、結局自分でやってるんですけど、ジャッジして、こんなものとっても人には見せれない恥ずかしい、こんな完成度の低くてくだらなくて子供っぽくて、
自分でめためたに自分の作品を国標して協力してなんかこう捨てていくいった、それも私なんですけど、やっぱりでもそれにも傷ついていたのも私、傷ついていた私ってのは確かにいたんだなってことに今話しながら気がつき、
でですね、これがまた面白いんですけど、そうやって私の物語はもう作品ですらなくても私にしか書けない、もう生き様でしかないんだわ、みたいな気づきがあった。
ついでに、そうでもあるし、生き様みたいな起きたこと、私にしか書けないことみたいなものが入っててもいいし、入ってなくてもいいし、みたいにも思え。
生き様を込めること
で、その先にそういうふうに思えたのはやっぱり今、自分のこれまでっていうのを今までよりもさらに肯定できてるっていう、肯定でき始めたっていうタイミングがあったからこそだなとかって思ったんですけど、
なんかそういった何、私の経験、人生、生き様を全部含めるものが物語でもいいし物語でもなくてもいいかみたいな、
なんかこう2点3点って感じなんですけど、でもあのね、そこまで私の中でやっぱり矛盾してるわけじゃなくて、そんなにしゃぶ題返しっていうよりも、
一周して180度回転してまた元の向きに戻ってきたかと思いきや実は螺旋で一段上にいたみたいな、そんな感じ、どんな感じって感じなんですけど。
つまり最終的にどう思ったかっていうと、なんかそういった私の生き様、私というものを物語に込めてもいいし、ポエムとか詩に込めてもいいし、
でもそもそもそういう物語を書く、ポエムを書くっていうこと自体が生き様、私の生き様として出てもいいんだって思ったんですね。
なんかそういう創作に込めてる、表現に込めてるという生き様が私であるみたいな、あんまりそのもう私とかっていうこともあんまり強くないんですけど。
なので、あ、そうそう、なのであえて先ほどにちょっと朗読、作った詩の朗読ってことも試しに上げてみたって感じなんですけど。
なんかね、その小さな、あの今朝の本当に数十分の間にあった感じ方の変化っていうのが面白いなっていうのと、そういうことをやってるうちに、結構そのね、ちょっとダウナーだわみたいに思ってた気持ちっていうのもまた変化があって。
うーん、まあ多分そんなね、言ってても今日もなんかアゲアゲだわみたいな感じではないんですけど。
でもこのしっとりとした感じ、あの結構雨が降りそうでちょっと嵐の気配みたいな、この不穏な天気っていうのが私結構好きなんですけど。
今日も不穏な天気だわ、ワクワクみたいな感じがして。
うーん、そうですね、前向きさが、前向き度がちょっと上がったっていう感じが近いかもしれないですけど、そうそう、なんかこう自分の生き様?
私の生き様とか、私のこう命の時間の使い方の順度をもっと上げてもいいんだ、みたいな気づきだったのかな。
ちょっと言葉にすると今まだね、ふわっと当てはまっているような、当てはまっていないような感じなんですけど、そう、でも今日はそんな感じでした。
うん、ですね、なんかこの手放しなのかこう需要なのか、そういったものがこう何重にも畳みかけてくる感じっていうのが最近割とあるので、面白いわと思っているって感じです。
じゃあ今日は、今回はそんな感じで頑張っていこうと思います。
では皆さんここまでお聞きいただいてありがとうございました。またお会いできること楽しみにしています。
今日もどうぞ素敵な一日をお過ごしください。ではー。