学校教育におけるデジタル化への疑問と紙媒体への回帰
チョロQさんとポカポカおしゃべり、チョロっとラジオ。 今回もテーマを決めておしゃべりしていきたいんですけども、今回はなかなか重いですよ。
何でしょう? いやいや、事前まで喋ってたじゃないですか。 バレバレじゃないですか。
ちょっとね、気になるニュースを見たんです。 これはスウェーデンかな?
スウェーデン、外国。 そう、1ヶ月ほど前なんですけども、スウェーデンが160億円を投じてタブレットを廃止し、紙の教科書に戻すというニュース。
学校ですよね。いわゆる学校教育で、デジタル優先の教育の結果、学力低下と集中力の欠如が深刻化し、スクリーンは学習を阻害するという結論に至ったというニュースを見まして、
学校教育、そうだよねと思いつつ、こういう明確な結果と判断をしたというニュースを見まして、今回のテーマなんですけども、学校教育について思っていたこと。
思っていたこと、自分たちの時代に。 そうなんです。このニュースもそうなんですが、これは現在進行形で、当然今の学校教育について思うこと、考えていることあると思うんですけども、実際にちょっと当事者ではないし、
駿球さんは佐藤さんを通わせたりするので、つながりはあるんですけど、ちょっとそれにすると、時間がいくらあっても足りないのはさっき話しててわかったんで、あくまで我々が受けてきた教育、学校教育、
特に小学校、中学校、高教育ですよね。について思っていたこと、いいところも悪いところもあると思うんですけども、ちょっとそれを話していけたらなと思いますよ。
失われゆく学校の温かい要素と地域との繋がり
はい。まず、勉強とはちょっと違うことだけど、今は都内の学校とかは少なくなったよねっていう、動物を飼う。
あー、いましたね。
中学はともかく小学校はウサギだったりとか、結構いる学校って多かったよね。
ウサギがいたんじゃないですかね。
そういう関わりみたいなのがあったりとか、今は結構そういうのがなくなってるって。あるところもあるんだろうけど。
確かに校庭開放とかしてても見ないですもんね。
知り合いの学校は亀を飼ってたり、クラスでなんか水槽があってそれぞれ金魚だったりっていうのもあったらしくて、それがもう6年生までずっと小学校あったよとか言ってて。
でもそうすると当番だけじゃなくて、なんかあれ?ご飯あげてないんじゃない?だらだらやってねーよーとかなったり、みんなで弱いものを守る。
それまさに生き物係じゃないですか。
そうですね。それバンドだよね。
バンドですね。
でも本当そうそうそう。
そういうことだよね。ありましたよね。
でもそれって本当に大事なことなんだろうなって。私も赤い目、本当によく言われる雑種のウサギみたいな赤いお目目のウサギがいて、はぁーと思って。
なるほどね、確かにね。うちなんかは、僕がね、全息なんかあったりするのもあって、家ではペットとかは飼わなかったんですけど、そういう家庭でもそういう生物に、生き物に触れ合う機会があったという意味では、それは学校としてはすごくいいあり方の一つではありますね。
うん、あると思う。
なるほど、確かに。
あと今は結構、もうリタイアされた方とかが多いのかな。中学はないけど小学校の近くだと旗を持って立ってらっしゃる方。地域によって民生員さんがやられてるって聞くけど、本当そこによって違うみたい。老人会がやってるところがあったりとか。
不敬の方がね、当番でやったりとかもしてるところありますね。
ただ、不敬の方ってやっちゃうと、今は共働きで働いてる方がほとんどなので、難しいから。でもそれっていいのかなって。それも地域戦があるみたいだけど、「おはようございます。」とか言う言葉、子どもに対して。
それって一番いいんだろうなって。それを返せる子を返せない子とか、いつも返してるのに今日返さない子とか、その違いもいつも立ってる方がわかるじゃない。
なるほど、なるほど。
それって昔から続いてる良いことなんだろうなって。
地域性って感じですよね。
うん。
なるほど、そうですね。それはすごくいいことですね。
いいことだと思う。
それこそ、アレルギーの子が増えてるから、大変みたい。プールとかでも入れない子も出てきてるし、そういうのは大変みたいだから、そういうのは夏休みにやれっていうのは、全部の学校では難しいかもしれないけど、やっぱりそういうふうに人と人がつながったり、弱いものを助けるっていうのを小さい頃に教えてもらうのは一番いいんだと思う。
確かに地域コミュニティとつながるっていうことは、学校という場所を介していないとなかなか難しいだろうなと。
野放しでは行けないね。
誰かおじさん声かけてきたら、怖いじゃんって。
そうそうそうそう。ほんとほんと。小松くん、こんにちは。怖いよね。
おはよう、元気?って。公園でいきなり話しかけられたら絶対近寄っちゃいけないからね。
みんな走って逃げるよね。
一応ね、道端に立ってやってたら、それは大丈夫っていう。そこから地域に入り口としてコミュニケートしていくってことは、すごく確かに学校を介さないと難しいかなという感じはありますね。
勉強の意義と「なぜ」に答えられない教育への不満
今は里子を預かってるから、余計思うことないなと思う。
なんでかっていうと、やっぱり来る子によって違うけど、多いのは一人っ子だったりとか、愛情をよく知らない子は、弱いものを助けることを知らないのよ。あまりにも。
それこそ歩いてても、自分よりも下の子とか、あとはご年配の人とか、自分が譲ることを知らない。それを知る場所として学校を使ってほしいなって。
なるほどね。
勉強だけじゃないっていう。
そうですね。それはありますね。
それを分かった上で、中学に上がってほしい。
中学に上がった上で、やっぱり勉強とか、いろいろやっていく。さっきのスウェーデンの話じゃないけど、その中で思っていくのが、教科書、分かるの。
紙ベースでずっと持ち歩くのは大変なことなんだけど、やっぱり紙で書いてあること、自分がちゃんとペンで書くことが、結局はよく覚えたなって。
私たちが今大人になって、ミーティングでも全部タブレットだったり、紙がなくなってきて、でもその時に忘れてしまうこととか、見返せばこうだったねって言うんだけど、見返さないと覚えてなかったり。
そうじゃなく、紙ベースでやった時には、意外といちいち見返さなくても頭に入ってたり。
頭に入るスピードが違うんだなって、すごいそれは今でも感じる。
この歳でも紙でやったほうが早い時もある。
やっぱりそれはケースバイケースで、ただ計算式とかやっていく分には、わざわざ紙ベースじゃなくてもいいんだと思うの。何回も何回も問題を繰り返してやるから。
そうじゃなく、暗記したりとかしていくものに関しては、やっぱり教科書、ちゃんと紙ベースであったほうがいいんだろうなって。
ただ、子供にランドセル、あれ全部持って歩くのは大変。
もうちょっと考えながら、一気に私たち1学期、2学期、3学期とか、冊数分けて渡すとか、何とか考えてあげたほうがいいのかなって。
そこのデジタル学習とかね、そこにフォーカスするとそこだけでも結構長くなっちゃうんですけど、やっぱりデジタルテキストは情報的な空間の座標を持ちにくい、
デジタルの空間的不安定性という特性で、固有需要感覚が乏しいというふうに今は判断されている。
研究結果が出ているようなんで、やっぱり書いたほうが身につくみたいなことの裏付けにはなっているだろうなというふうには非常に考えられますよね。
そうなんだよね。今言ったみたいに、数学の計算式をやる分にはタブレットでもいいよねって言ったところで、それを理解していないときに、
これなんだっけってやるのは、そこでやるんじゃなくてノートに書いてやっていったほうが、こうかこうかこうかって間違えたものもちゃんと残っていてわかりやすい。
わかったものに関しては、ガンガンガンガンタブレットで進めていくの全然いいと思うの。問題集として。
テキスト、ただそこに説明文も載ってるんだったら、ちゃんと紙ベースのほうがいいのであろうと私は思う。どうでしょう?
なるほど。いいと思います。
いいと思います。いいかどうぶん。
でも、俺、喋っていい?
いいよ。
3時間くらいこれについて喋れそうな気がするんだけど、このトークテーマ決めて、
ちょっと思いついたのは、これチキリンさんとそれこそ先月やった梅原大吾さんの対談の本があって、そこでも学校教育についてお二人の意見が書かれていたんですけども、それに非常に共感したんですけれども、
やっぱり、僕が一番共感したのは梅原大吾さんの、なぜこれを勉強するのかということに答えられる先生がいなかった。
そうね。
だからつまんねえんだよなって。
今でもわかんないのが、まだ中学はともかく、小学校の算数、計算式はいい。
でも、わざわざ何を何分の何、これを何分の何、これは何分の何でしょ?
なんでね、わざわざ何分の何って書かなきゃいけない、読解力はわかる。
でも、今でも意味がわかんねえって私は思うのね。
何に必要があるんだろう?
分度器、分度器なんか使うって、やる、コンパスで絵を描く、そんなの何が関係あるのだろう?
そうなんだよね。梅原さんが言ってたのは、音楽の時間もやでさ。
何でみんな一緒に決められた音楽を練習しなきゃいけないんだよ。
それも合唱ね。
音楽をやると気持ちよくなるよとか、あなたが嬉しい時にこういう歌を歌うと、その気持ちが表現できる感じがするよとか、
つらい時でもこういう歌を歌うと前向きになれるよ。
だから、その時に思った音が出なかったら気持ち悪いから、こういう曲を練習してみたら?みたいなことだったら、
あ、ちょっと音楽勉強してみようかな、吹いてみようかなって気持ちになるんだけど、
とにかく決まったことをやれと。理由はないみたいなことで。
そうね。
なると、それは寝るしかないみたいな感じになってくる。
そこは先生たちもさ、もうちょっと柔軟に言えばいいのにね、それこそノウハウが違ったりとかもするし、そうすることで違う記憶力とかも上がったり、また疲れが取れたり。
っていうこともあるけど、
俺もこれは実体験としてそうなんだけど、
なんで小学校5年か6年、そうだね、5年か6年の時に、なんで国語を勉強しなきゃいけないんですかって、俺も聞いたことがあって。
一回確か持って帰ったんだろうかな。
で、翌日か何かに先生が言ったのは、新聞読むためかなって言って、
んーって思って、別に国語は嫌いじゃないし、本読むことは嫌いじゃなかったから別にいいんだけど、
納得はいかなかったんでしょうね、その先生が持ってきた回答に。
やっぱ俺も、なんで、ちゅるけいさんは俺の性格をもうわかってるからだけど、やらなきゃいけないことがよくわかってないのにやれって言われると、全然動けないから。
そうだね。
数学とかもそうだし、音楽もね、さっき言ったみたいに、やれば気持ちいいし、いい曲だなとか、美しいなとは思うのよ、なんか音楽鑑賞会みたいなことあったりとかして。
で、それはいいんだけど、じゃあなぜこれをやったほうがいいよとか、覚えておけよとかいうのが全くわかんなくて、
これは中学に行くと顕著になるけど、僕歴史好きだから、その社会のね、歴史の時間もあるんだけれど、暗記になるわけですよ、点の取り方が、評価がされ方が。
それだったら電気を読んでたほうが面白いし、時代劇小説を読んでた、時代小、劇?
しばりおとらおさん先生の本を読んでたほうが、全然なんか身につくのに、何年って覚えてることは何の役に立つんだろう、というのをすごく思ってて。
だからそう、単純に先生なんか答えればいいのに、逆に日本人ほど、自分の国の歴史を知らない人たちはいないんだよって。
どの国も、ちゃんと世界的に自分たちがどういうふうな歩みをして、こういう国が出来上がってきたんだっていうのをわかった上で、世界に出て、ちゃんと話をするから、みんな理解してくれる。
それを知り換えしなきゃって。
そういう説明が一切ないじゃないですか。
だから、これは本の中でチキンさんがおっしゃってたんだけど、それって先生の敗北ですよね。
梅原さんが寝るってことは、その授業がつまらないってことじゃないですか。
もしこれが資本主義社会の中で塾だったら、塾の先生だったら、授業がつまらないってことで、当然成績は上がらなくて評価は落ちて、最終的にクビになりますよねと。
先生の評価としてすごく低いまま言っちゃってることを、学校では特に、高教育ではそれが行われてしまってると。
これは良くないし、
その学校の点数の取り、チキンさんは高学歴、その容量を良くできるタイプの人間だから、上手いこと点数を取ることにはすごく長けてるんだけど、
これと、当然よく言われてるように、社会で生きていく能力とは全く合致しない、むしろ自分で考えることができない人間を生み出すだけの機関になってる。
今それ聞いて私が思ったのが、たぶん一緒に仕事をしてた時に、聞かれた時に、
学校教育における評価基準と競争の意義
そういう尺子調器の答えを出せば、私は言わないタイプだったと思う。
それは単純で、私は自分がバカだから、言われたことを私は、ちょっと小松君と違って、
学校から反対しないから、やりはするけど、言ってることはわかんないやと思うと、自分でわかる解釈を勝手に作り出すの。
私バカなのに何言ってるかわかんない。
再構築って感じですよね。
いつもそれをやってたのね。
だって何言ってるかわかんないんだもん。
でもそれは自分の頭をちゃんと使ってるじゃないですか。
でも先生がそれをやる仕事なんだろうなってずっと思ってた。
俺は結果的に、高校大学含めて、それがなるほどなって思う先生に巡り会わなかったんですよね。
個別にいい先生はいるんですよ。
性格の良い先生はいるんだけど、
あ、なるほど、勉強って、この科目、この勉強はこういうことのためにやるのか、
なるほどな、じゃあちょっと勉強してみようかなみたいなモチベーションにさせてくれる先生はいなかった。
それこそ歴史とか地理とか、取り暗記図、テスト、暗記してやればいいんでしょって。
だから教科書ほぼ丸暗記。
ここからここまで試験、はい、丸暗記。
私勝手に問題作って、私パソコンの部活だったから、ガーッと問題作って、
友達にあげて、あっという間に人はみんな100点取る。
私は90何点なんだけど、100点取れないので自分で作って。
試験問題対策でありますね。自分で問題作ってみるパターンですよね。
教科書網羅すればいいんですよ、ここからここまで。はい、網羅しました。
重要なのここ。ここぐらいしかもう問題にできないですよね、みたいな。
そうそう。
作り手側の意図がつけて見えてくるパターンね。
先生に楽器を割るときに問題くれって言われた。
なんでお前の友達たちはみんな頭いいんだって。
私別に出し惜しみするタイプじゃないから、みんなに友達に渡しちゃう。
なんでみんな点数そこだけ高いんだよって言われて。
お前のクラス平均点高いんだよって言うからそうなんだって。
そうなんですねって。私これ作ってるんですよって。
くれって言われて。先生翌年そこから出したらしい。
結局そこはパターン化だから、
先生が悪いとは思わないんですよ。
なぜなら、もっと大きい構造的な話になってくるので、
それは歴史とか国の作り方みたいなところまで遡っていくことができるので、
ここでは話さないんですけれど、
学校で感じた感覚としては、なぜ勉強するのか。
当然子供だから、学校に行くと友達がいて楽しいというのは感覚としてあるので、
なぜ学校に行かなくちゃいけないのかっていう疑問はなかったんですよ。
ただし、なぜ勉強しなきゃいけないのか。
なぜ科目ごとにこういうことをやらなきゃいけないのかっていうことの疑問は答えがないまま。
あと不思議なことがあったのが、国語でそれがあってそれは何を指すでしょうって。
確かに一個しか見当たらないものもあるけど、
たまに解釈の仕様によってこっちも当てはまるよねっていうのも答えは絶対これ。
それ答えがこれなのわかるけど、先生この言い方だったらここも入りませんって言っても、
いやそれは違うんだ。違う理由を教えてくれないんだよ。
それをここしか当てはまってないからね。
いやいやそうじゃなくて、私の解釈をお待ちですかって。
ごめんごめん、入るね。
おかしいって。それは違うって。答えじゃないかって。答えとかそういう問題じゃなくてって。
何を求められてるかわかるから、テストの時にはちゃんとそこを書くけど、違うよね。
そう、だから我々が小学校の頃ってもう40年とか前じゃないですか。
そうすると当然ね、教師からの暴力とかもあったから、
それは外すんですけど、教育っていうのは全く別の話になってくるんで。
ゆるかったんで、先生の机の上とかバサバサみたいなのがあって、
そうするとテストがあって、先生がその場で丸つけたりするじゃないですか。
先生の手元に答案が、答案というか模範回答みたいなのがバサッと置かれてて、
それと合ってるかどうかだけをチェックしていく作業じゃないですか、丸つけて。
その先生にある模範回答の、特に文章問題とか、何と何が入っていることみたいなのを見て、
ものすごい冷めた記憶がある。何これって思って。
私ね、先生に聞いても無駄なんだって思ったのが、
それこそ単純なカッコだったり、Xだったりとか、
それこそ何とか方式、何とか式で当てはめてやらなきゃいけない。
みんな先生たちもそれで教わってきて、何とか式でやらなきゃいけない。
それでやらなきゃ答えがちゃんと導けないのは分かった。それでやります。
先生、なんでこの式じゃなきゃダメなの?って。
あったね。
聞いても先生は絶対分からない。
そんなこと考えるお前がおかしいんだって。
そっか、分かりましたって言ったのに、聞いても無駄なんだって。
私引いちゃうためだからそれで。
数学俺全然できないんだけど、因数分解ってあるじゃないですか。
決まった形にしなきゃいけないじゃないですか。
こっちが前でもこっちが後でも結果同じじゃないみたいなことって、パズル的にあるじゃないですか。
ん?って思ってる。
やっててものすごいケアレスミスが多いの。
数学の点数だけ悪くて。
だって何の意味があんねんこれにっていう、疑念があるままやってるから点数が悪いんですよ。
単純に先生言っちゃえばいいんだよね。
先生、本当は複雑なものがあるんだけど、自分そこまでまだ全然理解してないんだよ。
でももっと大きな数式があって、そこを解いていくと全部こんな細かな式じゃないと、ちゃんとしたものができないんだよ。
ごめん、それをやるために頑張って勉強して上に上がったくらい。
私なら言っちゃうのに。
たまにこうYouTubeで見るんだけど、
某、新学校、新学塾の、今でしょうの人がいるところがあるじゃないですか。
その人の授業とかの、授業そのものはわかんないんだけども、前段階の、
君たちはこれから1年かけてそれぞれの大学を目指すわけだが、みたいなことを、前向上があって。
それでやっぱり各学科の人が、だから学問の面白さはそれだけじゃない。
なんとかかんとかで、なんとかかんとかで、なんとかかんとかで世界が広がっているんだ。
君たちはこれからものすごい努力をして、この学問を詰め込み式に学ぶわけだが、学問の本質はそこじゃない。
だから君たちはやるべきことのためにこれを1年間頑張っていくみたいなことの前向上があるんですよ。
それはだからその人たちの、塾の講師の人たちのほうが矜持を持っているわけですよね、その学問に対する。
その熱意が伝わると、ちょっとこう、頑張るか。
やらなきゃいけないんだなという。
覚悟が決まるというか。
その熱量で君たちは1年やらなきゃいけないみたいなことがあると、
一個も大学受験したことないんだけど、ちょっと勉強してみるかみたいな感じで、
ほどされるわけですよね、学問の面白さみたいな。
そういうこと必要じゃない、そもそも。
でもそれはお金払って1年間勉強させてください、この受験のためにみたいなところにはあるんだけども、
学校にあってしかるべきではないかと、やっぱ思っちゃうんですよね。
教えること必要だからね。
当時やっぱその感覚欲しかったな。
1年間仕事も勉強したくはないんだけど、勉強はしたくないんだが、
こういうことを学ぶとこういう世界が広がってるよとか、
こういうものの見方ができると世界は面白いんだよ。
そもそも学問というのは世界の切り取り方、世界の見方の一つなんだっていうことが、
今はね、なってみればわかるから、歴史を学んだりとか、何かを学んだりっていうことの意味がわかるんだけど、
それをやっぱり小学生とかにもわかるように何かあってほしかったな。
で、その時に先生がもう、めんどくせえやつって来て思って。
ってなるじゃないですか。
それが嫌ですよね、嫌だったね。
想像つくよね。
そうすると、今なら威圧的にならないけど、その頃は威圧的にね。
そう、殴られたからね。
やれって。
うるさい、ツコンって感じだったから。
ああ、みたいな感じ。
それは当然時代だから、各先生をどうこうは、個人的にはあるが言わないけれども、
そういうのを欲しかったよね。というのは、いまだに根に持ってる。
根に持ってる。
私よく思ったのは、頭のいい人にはわからないんだなって思ったの。
なんか要領のいい人が勝ちじゃないですか。
これは僕の学校論をちょこっとだけ言うと、やっぱり競争で、
上手いやつとか、要領のいいやつとか、足の速いやつとか、面白いやつとか、
真面目なやつとか、無口なやつとか、いろんなやつが地域的に集まってるわけじゃないですか。
そういうのが、同学年で集まっていろんなやつがいて、優劣はつくんだけども、
そこに置かれることによって、自分の立ち位置を明確にすることが学校であるってことが必要なんじゃないか。
要は競争しないと、自分が足が遅いのか速いのかわかんないじゃないですか。
競争ね。
だから、足は遅いけど勉強が得意なんだってやつが評価されるのと、
勉強できないけど足が速いやつが評価されるのは、全く同基準でいいってことが学校であってほしいんですよね。
そうだね。
かつ、面白いやつも同基準であってほしいわけですよ。同評価であってほしいわけですよ。
かつ、俺みたいなオールさんも同評価であってほしいわけですよ。
オールさんだったんだ。
オールさんはオールさんですごいよね。
すごいね。
じゃないですか。
平均取れるんだもんね。
っていう評価価値を与えてくれるのが学校であるべきじゃないかなと思うわけですよ。
クラス単位の競争の無意味さと教育の構造的問題
当然得意なんだ。一応俺の名誉のために言うと得意か僕は4とかいい評価になるんですけど、
要はそれがいい悪いではなくて判断基準を自分で体感してくださいよという、
この地域にいる同じ年齢の人間、ホモサピエンスの中で、
あなたは2番目くらいに足早いよと。
あなたは結構いい感じで文章書けるよ。
なんかさ、もう地域的なものもあったんだろうけど、
私の時代で半数近くが小学校の時に中学受験をするとか塾を行ってて、
中学でそれこそ塾に行ってない人は誰も1年からほぼいない。
たまにね、ちょっと親の関係とかで行ってない人とかいたけど、それ以外みんな行ってるような学校だった。
そうするとさ、クラス単位とか学校単位での成績の…。
クラス単位の競争って全く意味ないね。
そう、それも学校単位もあったの。
あの学校バカじゃんって。
私は横浜なんだけど、横浜の中で何番って。
なんて、暇考えたもん。だから誰なのにって。
それでやったから、偏差値いくつっていうのをつけられても、
他の全国平均でいくともうちょっと偏差値が高かったのね。
だからそれだけ競争させられてたから、勉強で。
みんなそれなりにレベルは上がっただろうけど、
とにかくあのクラスに負けちゃいけないじゃないけど、
お前たちは一番悪かったんだって。
なんだろこれ、みたいな。
クラス単位のあれは本当に意味がないなぁ。
だって、お前らが決めたチーム編成じゃん。
俺たちが、よしみんなリレーで一番なりやすい、来いよみたいな感じで立候補したとかじゃないじゃないですか。
クラス編成そっちで決めて、そっちで優劣決めんなよっていう。
男の子とかバカだからさ、運動会とかでさ、棒倒したかみたいな、
ちょっと暴力性の高い競技になると一丸となるんだけど、
よく考えたら全く意味ないよね。
だって向こうが決めた編成で勝った負けたをさ、やったってさ、
あんまり足の歯切れ固められたらさ、みたいな。
いや、先生も苦労しただろうなって今聞きながら思った。
俺はその時言語化能力がないから、
黙ってた。
結局ふてくされてるだけだ。
言語化能力があれば言ってたと思うんだけど、
もやもやっとしたまま、
なんか納得いかねえなーっつって不良になる気買いもなく、
てかめんどくせえからそんなの、
ゲームしてたいなーみたいな感じで生活してたけど、
それとは別にいい面で言えば、
コミュニティとして家の近い友達ができるとか、
無理やり俺の言ったことにつなげると、
別に学力、得意分野が同じ趣味じゃなくても、
友達にはなれたりするわけじゃないですか。
それが小学校、中学校の得効率のいいところだよね。
そこを越えて生活したり、
上手くやっていく方法なんかをなんとなく掴んでいくことは必要じゃないですか。
転校生が来たりとか、恋に敗れたりだとかするわけでしょ?
とかもありつつ、でもそんなに痛い目に合わないじゃないですか。
そういうドラマがありつつ、
なんとなくの予行演習的なことができることはすごくメリットですよね。
ということはあるんで、それ自体機能としてはあるんだけど、
能力向上機構としては、
はなはな納得がいかなかったと、私かように思うわけであります。
日本の教育っぽいよ。
理由なんかどうでもいいんだもん。
これをやれって言ったらこれをやる。
以上でしょ。
そうね。
いいの。これをやりなさいはいいの。
説明する人が説明できればいいだけなんだよ。
制服問題に見る思考停止と説明責任の欠如
これはうちはなかったけど、
じゃあなぜ制服を着なきゃいけないんですか?という答え。
問いを持った生徒に学校側が全く答えられないっていうのは、
それは一社会人として仕事を成していますか?という話を。
企業責任、企業側の説明責任みたいなことになるわけじゃないですか。
単純なのにね。
だってみんなが同一の服でいれば、
それこそ良い服を買える、良い服を買えない。
そういう差も区別ない。
親も楽。お金あるないじゃなくて、
毎日働きながら子供の洋服どうだのこうだの大変なのよ。
問いに対して、こういう意見があり、
かつこういう意見があり、生徒側からもこういう意見があり、
さあどうするみたいなことがあればいいけれど、
いや規則だからみたいなことでなるのが。
うちの学校はなかったけど、
ちょっとだけ離れた学校が、塾で一緒だったところが私服だったのよ。
そこの理由は、子供たちが生徒会で、
制服やだってなって投票になって、
じゃあ私服にしましょうって。
その代わりずっと私服だよって言ってしまう。
この三学年がいいよってなったから私服になっちゃって。
いつも可愛かったよ。
髪もカーリ巻いて。
だからそうしろっていう話じゃなくて、
やっぱり決めつけという言葉で僕は言いたくないんだけど、
思考を奪っていたから。
今のマニュアル化と一緒だよ。
俺は個人的にはマニュアル化そのものが悪いとは思っていないんですけど、
目的がないままですよね。
目的がこういうふうにしたい。
制服が悪いってわけじゃないじゃないですか。
制服問題で言えば。
じゃあ選ばせないことが問題なのか。
とか、
いやいやそうじゃなくて、
うちの学校の方針とか、私立とかね。
とか校長先生でも誰でもいいんだけど、
明確な主義主張があって。
でも学校としては、
我が校としては、
あるいは私が赴任している間の我が校としては、
各生徒に平等な環境を与えたいという、
うんたらかんたらがあって行為したいと思います。
いやいやそうじゃなくて、今我々の感覚としては。
っていう議論とか、
主義主張があってなら、
それは、いわゆる訴状に乗ってるわけじゃないですか。議論の。
じゃなくて、
規則です。
以上。
みたいなことに反応してたんですよね。
だからその、
めんどくせえなと言われようが、
そこの決めつけに反抗してたんじゃないですか。
世の中の不良は、みたいなことですよね。
あったら単純だよね。
制服そのもので言ったらさ、悪いことすれば学校だって救われるじゃん。
もちろんそれはそういうメリットがあったりとか、
だからそれを、
議論の余地がなかったわけじゃないですか。
あるいは俺みたいなめんどくさい人が、
自分で言っちゃった。
めんどくさいって思われるって言ったらしい。
当時当然言語化できないから言ったように、
不機嫌になってるだけだったんだけど、
疑問を持ったらいかんというのがね、
すごく嫌だったっていうことかな、やっぱり。
疑問を持ったら、上から押さえつけるだけだったからね。
現代社会で求められる「問いを立てる力」と過去の学校教育
そう、いまだに僕は疑問だらけで、
社会を生活してるんですけどね。
でも今はそういうのを、
求められてるじゃないですか。
問いを立てるみたいなこととか、
ビジネス書とかにはそういうことが書いてあるじゃないですか。
今を疑え、みたいなことを。
世の中改善していかなきゃいけないよね、みたいなことの能力で、
結局、当時の学校では言い出せなかったなっていう感想です。
急に可愛く求めたね。
長くなるからさ。
今日暑いなーって私、うんうんが多くなったけど。
端的に言うと、やっぱり繰り返しになるけど、
俺の言語化能力がなかったね。
子供だから当然ないんだけど、
でもなんか納得いかねえなーっていうまま過ごしてたんで。
素直に思うのは、普通の役職と同じで、
縦割りで普通にやっている先生たちがいっぱいいた。
聞かないと殴られる。
上からなんかでバーって叩かれる。
そんなことが多い時代だったと。
こういうのが今は少しは改善されているといいなとは思うんですけどね。
それを現代社会に照らし合わせると時間がもうないんで。
また今度はね、今今で結構な問題があるので。
そうね。
しかもやっぱりそれは我々の意見もあるんだけど、
多くの人が、あるいは多くの本当にプロがね、
考えたり改善に向けて動いてるんで、
あまり意見はありながらも、
まあまあそれはそれとして擦り合わせていくほかはないので。
それは頑張ってほしいなとは思うんですけれど、
もちろん僕も学校の先生やってる友達もいますから、
それは本当に頑張ってるんで、
悪くは言わないんですけれど、
そういうので変化にはしていかなきゃいけないんでね。
ここでは話さなくても、
この録音が終わった後に話す。
愚痴のように話すだけなんですけどね。
こんな感じで。
今月もチョロットラジオをお聴きいただきありがとうございます。
番組への感想は、ハッシュタグチョラージ。
全てカタカナ表記でXにポストしてください。
チョロットラジオは毎週月曜日朝6時更新予定です。
来週もぜひお聴きください。
それではありがとうございました。