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さて今回は、皆さんが共有してくださった大学の講義録とか教科書の抜粋ですね。これを手がかりに、日本国憲法が定めている精神的自由について、ちょっと深く見ていきたいと思います。
思想良心の自由、それから心境の自由、表現の自由と、私たちの内面とか社会での活動にすごく深く関わる権利ですよね。
これが実際どう解釈されて、時にはどんな問題を引き起こすのか、一緒に考えていければと。
これらの自由って、個人の尊厳に本当に直結する非常に大切な権利ですね。なぜ憲法でわざわざ保障されているのか、そして現実の事件になった時にどういうふうに扱われてきたのか、その白心の部分を今日は探っていきましょう。
ではまず、思想良心の自由、憲法19条ですね。
これは心の中のことだから、国家ってなかなか干渉しにくいはずですよね。なのになぜ憲法に明示されているんでしょうか。
それはですね、やはり戦前の教育直後とかですね、ああいうものを通じた思想統制への強い反省があるわけです。
国家が個人の内心にまで踏み込むことへの強い警戒感の現れと言っていいと思いますね。
資料にもありましたけど、大阪府水田市の例、教育委員会が私立の小中学校に、君が言うの歌詞をちゃんと暗記している生徒の数を報告させたっていう。
これなんかは内心の自由に踏み込むのではって、市長も懸念を示したと。
そうなんです。調査そのものが特定の思想を持ってるかどうかを探ることにつながりかねない。それがどう利用されるかっていう不安も見ますよね。
これがまさに憲法19条が保障する内心の自由を侵害する恐れがあるんじゃないかという指摘につながるわけです。
あと教員の方が卒業式なんかで国旗日の丸への起立とか、国家君が言うの最初を拒否したっていう事例も裁判結構ありましたよね。
たくさんありましたね。最高裁はですね、規律最小を命じる職務命令、これ自体は特定の思想の表明を無理やりさせるものではなくて、あくまで儀礼的な外から見える行為を求めるに過ぎないと。
だから直ちに憲法19条に違反するものではないという立場なんです。
ただこれは内心の一番大事な部分、核心部分への直接的な制約、例えばフミエみたいなものとは違うんだと。あくまで間接的な制約に留まると考えてるんですね。
なるほど、間接的。
でもだからといって何でも許されるだけではなくて、命令に違反したことへの懲戒処分があまりにも重すぎる場合は、それはちょっとやりすぎでしょうと。裁量権の逸脱だとして違法になる可能性もあるということは示唆していますね。
バランスが難しいですね。
次に信教の自由、憲法20条ですね。内心の自由ともすごく近いと思うんですが、そもそも宗教とは何かっていう定義自体がもう難しい問題を含んでますよね。
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小儀資料にあった蔵飛ぶスパゲッティモンスター教の話、あれはちょっと笑ってしまいましたけど。
あれは面白いですよね。
でも確かに何が宗教で何を信じるかって他人が簡単に判断したり評価したりすべきじゃないっていう本質的な問題を示唆してるなと。
まさにその通りです。あれはいい例えかなと思いますね。その曖昧さがあるからこそ、例えば運転免許の写真で宗教上の理由で被り物をどこまで認めるべきかとか、そういう現実的な問題にもつながってくるわけです。
ああ、なるほど。旧統一教会の解散命令請求の問題もこの信教の自由と関連してきますよね。
非常に注目されていますね。ここで大事なのは宗教法人としての解散と宗教団体そのものの活動の自由っていうのは法律上は一応区別されるという点なんです。
解散命令が出ると法人格がなくなって財産が生産される。でも信者さん個人の信仰とか宗教団体としての活動そのものを直ちに法律で禁止するということではないんですね。
なるほど。法人格はなくなるけど信仰自体は禁止されない。
そういうことです。ただもちろん活動の拠点とか物理的な基盤が失われることで、事実上あるいは間接的に信教の自由が制約されるんじゃないかという可能性はあって、その点が今後裁判で争われていく可能性は十分ありますね。
なるほど。そして国家と宗教の結びつきを禁じる政教分離原則。これも憲法20条と89条ですね。これもやはり戦前の国家信仰体制への反省が大きい。
その通りです。国家とある特定の宗教が強く結びついてしまうと、どうしても少数派の宗教が弾圧されやすくなる。そういう歴史があったわけですね。それを防いで信教の自由を実質的に守るために国家は中立でいなさいというのが政教分離原則の趣旨ですね。
でもこれもまた完全に分離するというのは現実には難しいですよね。津市の地震災訴訟。あれは市の体育館建設の地震災に黄金を出したことが争われたけど、最高裁は合言と。
最高裁はここで目的効果基準という判断基準を示したんですね。目的効果基準。つまりその行為の目的がそもそも宗教的な意味合いを持つものではなくて、かつその効果として特定の宗教を援助したり、逆に圧迫したり、そういうことにならなければ社会の常識から見て相当とする範囲内であれば許されるんじゃないかという考え方です。
うーん、でもそれって結構曖昧な気もしますけど。
そうなんです。なので分離原則を骨抜きにしてるんじゃないかっていう批判もこれは根強くありますね。
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一方で那覇市の甲子宮訴訟。これは私有地を無償で提供してたのが違憲と判断されましたよね。
ええ。
これは津市の地震災とはどう違うんですか。
宗教団体に対して市の土地をただで使わせるというのはさすがにそれは政教分離原則に反するでしょうとされた事例ですね。
なるほど。
文化とか歴史的な経緯とかが絡んでくると、この線引きはさらに難しくなる側面がありますね。
いやー本当に難しいですね。そして最後に表現の自由憲法21条です。
はい。
これについては映画宮本から君への助成金拒否協定の取り消し訴訟がすごく印象に残っています。
ああ、あの事件ですね。
出演者の一人が有罪判決を受けたことを理由に一度内定してた助成金が取り消されたという。
この裁判で最高裁が特に重視したのが異色効果という考え方です。
異色効果?つまり芸術作品の内容そのものじゃなくて、例えば出演者の不祥事とかそういう理由で公的な女性を取り消すっていうことがもし広く行われるようになると、
表現する側がなんか自主規制しちゃうんじゃないかと、義勇にものが作れなくなる、そういう恐れがある、この異色効果を懸念したわけです。
それで最高裁は助成金を交付しないっていう決定は裁量権の逸脱乱用で違法だと判断したんですね。
そうです。あの薬物乱用防止っていう行為、それ自体は重要だけれども、じゃあ助成金を交付しないことがその行為目的達成に具体的に役立つのかというと、それはちょっと考えにくいと。
それよりも表現の自由に対する異色効果の方が重大だと思ってみたんですね。
なるほど。
公的な支援を行う上での行政の裁量にもやはり限界があるんだということを示した非常に重要な判決だと思います。
今日は思想、良心、信教、そして表現といったこの精神的な自由をめぐる憲法の考え方と、それをめぐる具体的な事例、そして裁判所の判断というのを駆け足でしたが見てきました。
内心の自由を守ることの重要性、それから宗教と国家の適切な距離感、あと表現活動を萎縮させないことの難しさ、いろいろと考えさせられる論点がありましたね。
そうですね。どれも民主主義社会の本当に根幹をなす自由です。
ただその自由を保障することと社会の秩序を維持するとか、あるいは公共の利益との間で常に緊張関係が存在するわけですね。
社会が変化していく中で、そのバランス、線引きっていうのは常に問い直され更新されていく、そういう課題だと思います。
本当にそうですね。そこで最後に皆さんに一つ問いかけをして終わりたいと思います。
個人の内心の自由とか表現の自由を最大限尊重すること、これと例えば教育現場での規律の維持とか、あるいは芸術文化への公的支援における公平性とか公益性、
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そういった社会的な要請との間で、これからの現代社会において私たちはどういうふうにバランスを取っていくべきなんでしょうか。
答えは一つではないかもしれませんが、ぜひ皆さんの考えを深めるきっかけにしていただけたらと思います。