外輪の。で、なんか、実は恥ずかしながら知らなくてさ、H3って。
で、その時いろんな人と会って、あと家近いしさ、家から近いし、
あとその富士箱根伊豆国立公園なんだけど、
富士と伊豆は自分で仕事としてやっちゃってるじゃん、レースを。
そことは関係なかったりとかするとこなんで、
出てみたいなと思って、いろんなとこで出たいんですって言ったら、
最終的にやってる人につながって、ぜひぜひみたいな話になったので、
ちょっとなんとか頑張って来年のMTFGOはH3に出れるようにしたいし。
100マイルデビューってこと?
どうだろうね。2周バージョンもあるんだって、100キロ。
だから、100キロにするのか100マイルにするのか、出れるかどうかっていうのが
多分結構人気みたいなんで、それもあるんだけど、出れなかったとしても
出る前提で、外輪座を練習場所としてはメインとしてやっていきたいなと思ってる。
じゃないとね、モチベーション持たなくなってきてるんだよね。
自分も走んないと忙しいとだんだん嫌になってきちゃうんだよね。
何のためにやってるのかって話になるから、自分自身も楽しむって結構
モチベーション維持ってすごい大切なんで、俺も50代だからさ。
だからこっからは自分も楽しむよ。50歳、50代は。
もう十分頑張ったりしろということで。
まだ頑張ってるけどね。
頑張ってるけど、ちょっと罪悪感を感じちゃうんだよね。
マルコはそのこと感じることないってよく言うけど、
自分が走り行ったりとか、やってることがちょっと罪悪感を感じちゃうんだよね。
日々走ってることとか、遊んでる時間を使っちゃってるんじゃないかなと思ってたんだけど、
ちょっと自分の気持ちの整理も難しくなっちゃうんで、
そこはもう50代からはちょっと変えて、
やっぱり自分の時間もしっかりとってく。
自分のランニングもしっかりやってくっていう。
ちょっと蹴り替えたいなと思ってます。7月5日から。
今度一緒に海外のレイズで出ましょうよ。
そうだね。
ワールドトリブルメジャーズのレイズ。
そうだね。
旅しよう。
それをあげるのもいいよね。
OK。久しぶりの本編だね。今回また。毎回久しぶりでよくないね。
今は岩崎さん。
岩崎さん。岩崎さんは前の回、去年の年末かな。12回目の秋山ほの子さんの回で出てきた人物ですね。
きっかけになった方ね。
やろうと思ったきっかけになった方ということで、ぜひ聞きたいということで今回実現したんだけど。
まあ個性的な。
そうですね。
だったね。
話もキャリア歴も長いから、今回はもう前後を分けないと。
分けても長いぐらいっていう話で。
いやでも面白かったですね。
トランスジャパンアップスレスのある意味歴史をたどるみたいな回にもなってるし。
本当に長く活躍されてて面白いなと思ったので。
ぜひ。
まず聞いてもらいましょうという。
多分これね、トランスジャパンアップスレス出たくなるかもしれないですね。聞いた方ね。
そうですね。ほの子ちゃんみたいにいつか。
はい、ではではでは。
岩崎勤さんのトレーニングヘッドです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
初めましてマルコです。
初めまして。
岩崎です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
すごい楽しみにしてますけれども、去年の12月からほのかちゃんの収録で初めて岩崎さんの言葉で名前が出てきたので。
それで何か次の回っていうかトレーニングヘッドこそ岩崎さんの話を改めて聞きたいなと思って。
自分が撮影の仕事を会社やってて、もう一人のパートナーは小関新平。
それこそTJRよく撮影しに行ったので、その繋がりで岩崎さんを紹介させていただきました。ありがとうございます。
はい、ありがとうございます。
千葉ちゃん。
ログオンしてるんだっけ?
もうしてます。
よろしくお願いします。千葉と申します。
普段はトレーニングの方の大会の主催とかをやってるんですけど。
うちの会社にトランスジャパンとかも出られたか関係者とかもいるので、ちょっとお話は聞いて、相当お話好きの方という話を聞いてるんで。
今日すごく楽しみにしていたんですけど。
ちょっと、我々普段トレイルヘッドってトレーニングコミュニティに対するポッドキャストだったりとかするんで。
僕らは知ってるんですけど、挑戦されてる、まずそのバックボーンとしてはこのTJAR、トランスジャパンアルプスレースっていうのがあるかと思うんですけども。
こちらどんなレースかっていうのを少しご説明いただきたいなと思うんですけども。
トランスジャパンアルプスレースっていう大会の概要なんですが、2年に1回開催されてまして。
日本海の富山は、具体的には宇和寿市のミラージュランドというところをスタートしまして。
日本の屋根といわれる北アルプス、中央アルプス、南アルプスを重装して、静岡県の静岡市大浜海岸っていうところ、太平洋にゴールっていう415キロ、累積標高27,000メートルのレースになります。
これを8日間以内でしたっけ?制限時間は。
はい、制限時間は8日間です。
それが、第1回が2002年から始まって、それを第2回から参加されてるんですかね、ずっと。
私が初出場したのは2006年です。
6年、第3回になるんですかね。
そうですね、はい。
もともとこの大会を始められた岩瀬美希夫さんという方と、山で知り合って、トリランレーとかで知り合って、最初にお誘いを受けたんですけれども、
その時は、ちょっと私まだ山で野営をしたりするっていう経験がなく、しかも日本アルピスに一度も足を踏み入れたことがない、まだまだ山の関してはもう駆け出しの頃だったので、
ちょっととても自分のやる世界じゃないなと思って、その時はもうちょっとスルーしてた、効かなかったふりにしてたんですけれど、そのうち身近な練習、仲間というか知ってる人が出るっていうことを知って、
具体的には2004年に高尾さんを走ってた時に、
今ちょっと名前変えられてますけど、茅ヶ谷さんから、今年これ出るんだけど一緒に出ないって言われて、
今年は無理だけど、2年後、次回狙ってみよう、出場を目指そうかなと思って、出場決意したのが2004年でした。
そうなんですね。茅ヶ谷さんはオールドファンにはすごく有名なトレーニングランドとして非常に有名な選手で、確か優勝もされてますよね、女性で、TJRのね、レジェンドアスリートですよね、我々の世界で言うとね、本当に。
そうですね、はい。
ってことはでも、あまり野営もしたことなかったってことは、バックボーンはもうランニングだったんですか、初めは。
そうですね、走歴は32年なんですが、ロードが32年で、トレイル31年で、ちょっと1年間のボックスが。
今は今年でおいくつなんですかね。
はい、58位になります。
58位なんで、でもあれなんですね、走り始めっていうのは、大学卒業してからっていうことですか。
社会人になってからっていうことですよね。
そうですね、陸上とかの経験は学生時代とかなくて、会社に入ってから始めたんです。
じゃあ全然スポーツ経験とかもなかったんですか、部活動やってましたとか、そういうのもあまり。
そうですね、部活に関しては学生時代は、ちょっとマイナーなんですけど、ハンドボールをやってました。
ハンドボールをやってたんですね。
ただ走ること自体はもともと苦にならなかったというか、長い距離を走るのが好きだったんですよ。
そうなんですね。
なので、学生時代もサッカーか陸上をやろうかなと思ってたんですけど、
一緒にサッカー部入ろうって言った友達が、ハンドボール部に引っ張られて、一緒について行ってそのまま僕も入っちゃったみたいな。
そうなんですね。石垣里上みたいな感じなんですね。
そうですね。
でも、初めのランニングはいきなりハードなことをやるつもりもなく、どういうきっかけだったのか、もっと軽い形から入られたんですか。
そうですね。本当に軽くて、当時横須賀の造船所に配属されてた時に、社内行き便大会っていう、地元の職場のミニレースというか、社内行事があったんです。
職場の先輩から、おい、明日から練習するぞって声かけられて、行き便大会に出ることになって、それに向けた練習で、お昼休みに会社の周りをちょろっと昼休みに走り始めたのがきっかけです。
でも、そこから1年たれてトレーラーに入るって、わりと30年前だと、わりとあまりトレーラーっていう言葉もなかったと思うんですけど、山を走るっていうところのきっかけはどういったところだったんですか。
最初、走り始めて、最初はもう行き便大会だけだったんですけど、東京の本社に転勤になったんですよ。
それまでは、会社の独身業から職場まで通勤なんみたいなことをしてたのが、電車通勤になって、走るっていう生活が、位置がゼロになっちゃったんです。
せっかく走ったこの習慣をやめるのは、おったいないなと思って、たまたま本屋さん、図書館でランナーズっていう雑誌を見つけたんですね。
そしたら、市民ランナー、誰でも大会に出れるっていうことを目から鱗で知って、強制的にそういう大会に申し込んだところ、
そのとある大会で、ランニングクラブを主催している方に声をかけられて、一人で練習してるんだったら一緒に走らないかって声かけられて、
横浜にあるTMクラブっていう、当時そこで割と有名なチームだったんですけれど、そこで練習をすることになったんです。
たまたまクラブが藤戸山競走にすごい熱心に取り組んでいるクラブで、何もしなずに山頂コースにいきなり申し込みしたんです。
そうなんです。当時は5号目とか会社内で山頂コースに出れたですし、当時は競走とかもなかったんで、出ようと思えば確実に出れたっていう先着順ですね。
今の話、時代が1990年代の話ですね、おそらく。それぐらいってことですかね。
そうですね。1932年前ですから、あ、31年前ですから、今。
そうですね。
そうですね、はい。
丸子さんはピンとこないと思うけど、これぐらいの時代の時ってもちろん東京マラソンとかないわけ。
そうですよね。
格闘士のマラソンとかなくて、テレビ中継でやってるマラソン大会、トップアスリート向けの東京マラソンであるわけ。東京国際女子マラソンとか、東京国際マラソンとか、
テレビでやってるマラソンはトップアスリートのための大会っていうイメージがあって、今みたいな感じで、誰でもネットでマラソン大会出ようかっていう雰囲気はなかったですよね、確かに。
そうですね。
割とその、おじいさんの趣味みたいな感じの雰囲気でしたよね、たぶん当時。
だから確かに、どういう大会があったんですかね、当時ね。オウメマラソンはあったんですかね。
そうですね、オウメマラソンはありましたね。
そうですね、あんまり確かに。
何に出てたんですかね、皆さん。
当時の本、雑誌まだね、残ってるんですけど。
大丈夫、大丈夫。
あまり記憶にないぐらいってことですね。だから、藤戸山競争と。
藤戸山競争も、藤戸山競争とか、あとトレランで言うと、大阪府チャレンジ登山大会ですとか、
ひばさん、スカイランとか、あの辺、結構、かなり昔からある大会ですよね。
そもそも破設年もないのよ、まだ、たぶん。
ないね。
破設年自体がないから、たぶんちょっとかなり今の状況が違う中でやられてるってことですね。
そうですね。
じゃあ、それでも、その藤戸山競争に出た時に、その山を走るとか、そういうのに割と取り憑かれた感じなんですか。
ちょっとこう、違うな、みたいな。
そうですね、その初期の頃は、あの、労働をメインにやってたんです。
最初はハーフマラソンからフルマラソンに注力してた時期が結構あって。
大体、夏だけ富士山、秋から春まではフルマラソンっていう、そういう取り組みを10年ぐらいやってました。
そこの10年間は、ロード中心みたいな形だったんですね。
そうですね。で、トレイルも走ってたんですけど、それはあくまでもフルマラソンの走力を上げるっていう目的で、
当時から高尾神波とかの、その辺は走ってました。
でも、その間は結構割と、どれくらいの記録を目指して走るランナーだったんですか、マラソンでいうと。
そうですね、その横浜のクラブの先輩が東京国際とか、福岡とか走ってたような、市民ランナーでも。
トップですよね、それだと。
そんな、当時、全然次元の違う方から一緒に走ろうって言ってもらえて、すごい嬉しかったんで、
エリートレース、例えばベップを置いた、まずは目指そうかなと思いまして、当時2時間40分が出場点だったんですけれども。
まずはサブスクリーンを目指しました。
なかなかハードルが高いですね。
そうですね。
レベルが高いことをやられたってことですね。
そうですね、ただでも最初本当に、初フルは3時間40分ぐらいで、普通のランナーだったんですけど、
そこからサブスクリーンは無理だっていうふうに言ってた人もいたんです、私のこと。
それが、とりあえず目指そうと思って目指したら、何とかサブスクリーンができました。
今度その次の上の、豊富読売マラソンっていう、今でもあります。
それが当時2時間50分が出場点でして、ベップの前にまず豊富を目指そうということで、2時間50分切りをステップとして目指していました。
そこからもうそれは達成されたんですか?最終的にはどこまでマラソンのキャリアが行かれたんですか?
そうですね、ベストが2時間48分なんですけれど、練習量を増やせば記録は伸びるだろうっていうふうな見通しはついてたんですけど、距離を踏めば踏むほど記録が伸びてましたんで。
ただ30代半ばぐらいで仕事がすごく忙しくなってきて、出張もすごく多くて、練習をこれ以上増やすのは環境的に結構厳しかったんです。
記録がたのちになっちゃって。
あと、私生活もちょっといろいろあったりして、だいぶフラストレーションが溜まったときに、一回限りのつもりで覇説寝にちょっと出たんです。
それはいつぐらいなんですか?覇説寝がもうできてるってことは何年ぐらいですかね?
そうですね。覇説寝に初めて出たのが、2000年代ってことですかね。
TJRに出る前ってことですよね?
そうですね。出る前ですね。2000年ぐらいですね。
2000年ぐらいなんですね。で、出られたと。
岩崎さん、当時どういう仕事されたんですか?
当時は機械メーカーのエンジニアをやってました。
電気関係が専門で、工場の生産設備の電気設備の設計をやって、全国の工場を回ってました。
かなり忙しかったですね。
そうですね。もうおかげで、出張ということで全国を旅行できてたんですけど。
さっき横須賀とか横浜とかって地名出てるので、神奈川とか東京ベースにして出張する生活だったんですか?
そうですね。勤務首都圏が多かったんですけど、四国の愛媛県から大阪、名古屋、あと神奈川、東京、埼玉に勤務、それぞれしていました。
すごくお忙しいからマラソンがっていうところから競技時間が24時間じゃないですか。
最終的にトランスジャパンって8日間のレースだったんですけど、そこからどうやってスイッチできたのかすごい興味深いんですけど。
もう忙しいのに。
忙しくなってマラソンもできないぞって時に8月に会って、そこからどうなったんですか?
そうですね。当時の8月、初めて8月に出たのは1999年なんですけど、当時はそんなにまだ今ほどレベルが高くなくてですね。
1回で辞めるつもりが会場で知り合った人と来年もう1回会おうっていう約束をしてしまって。
よくある。
そうですね。で、出たんですけど、それが2回目出た時に招待選手に選ばれました。
で、総合20位以内の選手が招待選手の僕としの。
それで2回目で辞めるつもりが3回、4回と。走っていくうちに山を走る楽しさに芽生えたっていう感じです。
じゃあ、ハセツネからトランスジャパンへっていうところなんですけど。
そうですね。
トランスジャパン、いわせさん、トランスジャパンを始めたいわせさんともハセツネとか山中に帰ると必ずお会いする感じになって。
こんな大会あるよ、やるんだけどどう?って言われて洗脳されていったって感じですかね。
その大変さも全然分かってないんですよ。実際コースを行ったこともないですし。
距離は長い距離にちょっと憧れを持ってたので、日本海から太平洋ってすごいなんかロマンがあるなと思って。
まあありますよね。
そうですね。で、トランスジャパンを出ようと思う前はアメリカ横断レースにちょっと憧れを持ってた。
東から西に行くとか。
ビッグフィットトランスアメリカとかっていう。あれはさすがに会社辞めないと出れないような大会なんですけど、2ヶ月とかですから。
でもトランスジャパンだったらお盆休みで8日間。
なるほど。
ハードルが低いなと思って出場するレースに参加するという観点で言うと。
これならちょっと冒険が日本に居ながらできるなっていう。
今トランスジャパンって結構参加資格が厳しいじゃないですか。そもそも出ることも。
当時の出場資格っていうのはどうだったんですか。
当時も一応選考会っていうのはあったんですけど。
ただ、今よりももうちょっとシンプルでして。
具体的に言うと、北アルプスの立山から室堂から上高地までを
ある時間以内で行くか、もしくは中央アルプスのコースを
ある制限時間内で行けば、一応基本的にOKみたいな感じだったんです。
そうだったんですね。
じゃあ一回試走というかそれをチャレンジして自己申告で出場みたいな感じですか。
そうですね。一応選考会っていう期日を決めて、2回開放されて
どっちか出れる方で出てくださいみたいな感じで。
中央アルプスの方のコースでみんなと一緒にスタートして
時間内に、規定時間内にゴールできてOKもらったっていう感じでした。
これで初めて出たのが2006年ということなんですね。
はい。
実際じゃあ割とぶつけ本番ってことですよね。
試走を中央アルプス1回だけやって、他のコースあまり把握してない中
行くぞって感じだったんですか。初回は。
さすがに414キロぶつけ本番は怖いので。
2004年に出場を決意したときには、そのときもちょっと夏場だったので
ちょっとアルプスに行く暇がなく、翌2005年に南アルプスを重走しました。
それが私の初日本アルプスです。
はい。
これはちゃんと戦場畑から日尻岳まではいきました。
北アルプスに関してはもう全く未経験で。
すごい。なかなかですね。
当時はどこまでの覚悟というか、行けるところまで行ってみようかというのか
それとももう完走するつもりで行くのか。
特に1回目、これから何回もチャレンジするじゃないですか。
初心だったときの岩崎さんの心境を改めて聞きたい。2006年の気持ちを。
はい。今から考えると無謀という感じなんですけど。
もうほぼノープランですね。
というのは、ロードでのウルトラマラソンは経験はしてたんです。100キロを超える。
それまで大会でリタイアしたことが一度もなくて、何とかなるだろう、何とかしようっていうぐらいのノリで出てしまったんですが。
これは出ることによっていろいろ、本当に勉強したというか気づかされたことが多かったんですけど。
事前の計画が非常に重要です。
もちろんね。だったと思いますよ。
それはそうだろうな。そうでしょうね。すごいな。
そうなんです。今だったらちゃんとプランを作って、計画的にレースに臨むんですけど。
当時は流れというか、本人は一応真面目なんですけど、適当な感じで行ってしまって。
最終的には足裏にも豆がいっぱいできてしまって。
豆の処置が悪くて、可能しちゃったんですね。
どうなったかというと、足裏がもうジンジンして、
剣山で足裏を突き刺されるような、剣山の上を歩いているような一歩一歩が痛みになったんです。
でも、例えばマリースポーツ、海のスポーツだと海に行かないとまずできないんですよね。
あと機材とかもすごいかさばりますし、1回1回すごいお金がかかるんですけれど、走るっていうことは、靴さえあれば極端な話、待ち着きでも走れますし、いつでもどこでも走れる。
例えば出張先で朝早起きしてちょっと走ったりとか、週末、例えば月曜日とか金曜日、週末の前後に出張を入れて、土日は出先で山を走ったりとかっていう楽しみもできて、
自分がこう続けられるスポーツだったっていうのが、まずランニングだったと。
トランスジャパンもそうなんですけど、トレイルランニングにハマったっていうのは、自然の中を走る楽しみや喜びが無限に感じられて、自分にとっては。
季節、春夏秋冬、それぞれの趣き楽しみもありますし、すごいいろんな動物とか花とか、風もそうですし、互換で感じるものがすごい心地よくて、辛い時はもちろんあるんですけど。
ということで、どんどんトランスジャパンに向けてトレーニングをして、山に入る機会が増えるたびに、どんどん深みにはまっていったっていう感じですね。
トランスジャパンに、特にそれに私がずっと10年以上取り組んできたかというと、先ほどの山の魅力もそうなんですけど、山で暮らす人との交流っていうんでしょうか。
例えば、山小屋のご主人とかは、そこで働くスタッフの人もそうですし、山で仕事をする人とちょっと関わり合いが出たりして、自然だけではなくて、そこで暮らしている人とのすごいコミュニケーションとか。
もちろん、山を走るランナーとか登山者とのコミュニケーションもそうなんですけど、そういうところがどんどんどんどん自分が魅力に感じたところですね。
トランスジャパンに関して言うと、私にとってはなかなか完走するのが難しかった。
なので、どうすれば完走できるかなっていう、色々試行錯誤することによって、自分自身の足りなかったことに気づかれたり、ブラッシュアップする過程も面白かったっていうのがあるかと思います。
小野川さんがテレビで見る2012年大会のときって、完走できてないじゃないですか。
はい。
それまで今2006年に出て、それまでの間も何回か出てられたと思うんですけど、完走はここまで2012年までされてるんですか、ちなみにこの2012年の段階で。
してないんですよ。
ってことは2006、8、10、12、4回連続、完走できずって感じだったってことですね、そのときは。
実はその間の2008年と2010年は出場してないんです。
なるほど。2006から一気に2012年飛ぶってことなんですね。
そうなんです。
なぜ出なかったのかっていうと、ちょっと理由がありまして、2007年にちょっと山のレースで怪我をして入院をすることになっちゃったんです。
はいはいはい。
で、そのきっかけとなったレースっていうのが、箱根トレイルレースっていうのが2007年にやったんですけど。
まさか箱根50Kのことですか、それ。
そうです。はい。
箱根50K出てたんですね。
出てました、出てました。
僕は行きました、それ。
はい。
こんなところに箱根50K出た人がまたいるとは。結構見分けでましたね。
そうなんですよ。
箱根50Kで怪我したもんね。
そうなんですよ。で、この時、下りでちょっと飛ばしすぎてですね、急なタイトな右コーナーで曲がりきれず、コースアウトしたんです。
コースアウト。
曲がりきれず道をオーバーランしちゃったんですけど。
はいはい。
それだけだったら別に大したことないと思うと思うんですけど、当時道の両側がささやぶみたいな感じになって。
箱根ですからね。
それを機械でコースの部分を勝手整備されてたと思うんですが、その切り株が駐車針みたいなすごい鋭利な感じになってまして、それが見事に足に突き刺さっちゃったんですよ。
ああ、痛い。
刺さったのが折れて中に残って、それだけだったらいいんですけど、ちょっと足が動かなくなってリタイアをしたんですよ。
スタッフの方にちょっと怪我をしたんでリタイアしますと言って、足に入っている異物を取らなくちゃいけないということで救急搬送されたんですが、
その後の措置が悪くて、中で足が可能してしまって、入院することになってしまった。
入院なんですね。
当時、実は翌月に海外のステージレースを、初海外レースをエントリーしてたんですけど、それがパーになってしまって。
で、それはそれでちょっと残念なんですけど、それはゴビマーチっていう、250キロぐらいのステージレースだったんですけど、直前過ぎてもうキャンセル、もう全部パーになりまして、
あと、身内からランニング禁止令が出たんです。
やめなさいと、そんな危ないこと。
で、自分の中ではやめる気はもうとうなくて、トランスジャパンも当然出る気満々だったんですけど、一旦ちょっと周りの反発を抑えようと思って、素直にマラソンを走るっていうことをまず封印したんです。
一回やめてるんですね、走るのね。
ただ、好きなのにやめるっていうのはすごく辛くて、見ざる聞かざる言わざるというか、一切ランニングの情報がもう目に入らない、耳に入らないように、ちょっと心を閉ざす感じでやってたんですけど、
ただ、せっかくトレーニングしてある程度体を作ってたのを、運動をやめるとまた元に退化しちゃうじゃないですか。
それがちょっと惜しくて、走ることはやめるけど、他のスポーツをしようとして、自転車をそれで始めたんです。
ロードバイクとマウンテンバイクをやって、あとシーカ役、当時愛媛県に行ったので、愛媛県ってすごいスポーツ天国なんですよ。
というのは、道が良くて信号が少ないんで、自転車とかランニングには最高の環境です。
周りは海で、特に節内海は割と波が穏やかなので、シーカ役なんかもすごくしやすいですし。
なので、走ること以外はもういろんなことやってました。
走るのを休みしていて、周りの人の反発を一回抑えるために。
お許しが得られるまでは、ちょっとつなぎで、ひょっとしたらそういう自転車とか、他の面白みを知ってはまるかもしれないなっていうふうにも思いながらやってたんですけど。
だいぶ封印されてるじゃないですか。12006年。
7年でダメだよとか、8、9、10、11、4年間の空白があるとですかね。
トランスジャパンの出場に関してはそうなんですけれど、ランニングで言うと、2007年に怪我をしてから、1年ぐらいは一応建前上ランニングはしてなかったんですけど、ただトダンはしてました。
走らないっていうことを約束してました。
走ってないっていうことですね。
歩きのみで、トレランって結構登り歩きますよね。
ほぼトレランなんですけど、律儀に走ることはせずに山歩きをしたりしてました。四国の山がいいんですよ、すごく。
四国山地って、東西に一本山があるんですけど、愛媛県って石鎚山がある石鎚山系、それから西赤石、東赤石山系っていう3つの山が連なって一つの四国山地の愛媛県を構成してるんですけれど、
これがなかなかいい山で、すごいちょっとおすすめエリアなんですよ。
マルコは今徳島に住んでるんで。
まだ愛媛に行ったことないんですけど、自分は徳島の上山、隣は鶴木山、あの辺の山を走ったことないんですけど、愛媛の山行ってみたいですね。
そうですね、ぜひぜひ。
ずっと行くと愛媛から徳島って繋がるんですか?四国山地を重装していけば。
一旦ちょっと降りると思うんですけど、でも基本的には連なってる。
徳島までは私ちょっと行ったことないんです。山ずっと稜線沿いに。
それも面白そうですね。
確かに、確かに。
トランス四国。
トランス四国。
そうですね。
じゃあそれで封印してるような、してないような。
封印してるやつが、ランニングダメって言われてるのに、よくトランスジャパンにまたいいよって話がちょっとまた、どこでどうだったかって聞きたいんですけど。
はい、失礼しました。
愛媛県の勤務が、仕事から転勤で、またどこだったかな、関東の方に戻ってきたんですけれど、
その時に、走ってもいいっていうことをまたお伺いを立てて、
ほとぼりが冷める頃に、1年余りぐらいですけど、それで何とか渋々お許しを得て、
また再会しました。それが2009年ですね。
はい。
これほぼリハビリしてるだけの感じですよね。怪我した後に、悲観的に言うと実質。
そうですね。
元気になったら、もう走ってるぐらいのタイミングですよね、これね。だからもう我慢できなかったってことですよね、多分。
そうですね。スポーツはずっと続けてました。
ご理解が、終わりですよね、周りがね。
まあ、何とか渋々、走ってもいいよっていうことになって、また再会したんですけど、
ただやはり、ランニングっていう走力の面では、やっぱり歩くのだけだと、走力自体落ちてしまうんですよね。
あと自転車とかも、バイクで心配機能はある程度維持できても、走るっていう走力が落ちてしまっていて、
2010年の先行会に実はトライしたんですけれども、トランスジャパンの。
ちょっと走力的に、何とかギリギリ出場資格というか、宿題をこなして2010年に臨んだんですが、
走力的にもちょっとギリギリで余裕がない状態だったのに加えて、先行会の前日にちょっと食中毒になってしまって、体調が最悪だったんです。
はい。
それで2010年はダメでした。
本選に出てないってことですか、本選に出たってことですね。
はい、本選には出られませんでした。
はい、それで2008年と2010年が2回お休みをしたっていう。
2010年は2回目だったってことですね。
はい、そうです。
2回目はどういう感じでやってたんですか。まだこういう風にやったら完走できるぞっていう確信もないまま、試行錯誤の続きみたいな感じだったんですか、その時も。
そうですね、さすがに2012年に関しては、それまでの思想とかを通じて、何とか完走できるかなっていう。
何となくこう、うっすらと見えてきたというところなんですね。
そうですね、2012年に関しては、その2006年とも全く違う準備をして臨みましたが、結果ちょっと足りずだったんですけど。
でも結構いいところまで行かれたってことですよね、その時間制限時間内に。
そうですね、最終関門に引っかかってしまって、
当時は旗渚ダム、旗渚第一ダムに関門があって、そこの関門時間をちょっとオーバーしてしまったっていう結果でした。
で、そこから本来はリタイアなんですけど、そこからまだやるぞっていう感じで、
当時は、なんて言うんでしょうか、
そのTransJapan Alps Raceの、
トランスジャパンアルプスレースの、
トランスジャパンアルプスレースの、
参加者、出場者全員が主催者であるっていう。
はいはい、言ってましたね。
岩瀬さんのその理念があったので、
それ以前の初期の頃っていうのは、制限時間関係なく、
それぞれのアルプスレースの参加者全員が主催者であるっていう、
初期の頃っていうのは、制限時間関係なく、
それぞれの思いで大浜海岸を目指すことができたんです。
あ、そうだったんですね。
第一回に除きに、
時間オーバーで目指されてた方も、
その個々の体の状態に合わせて、
目指してた人もいましたし、
すごい私も、
ちょっと悶々としてたんですけれど、
ちょっと制限時間が、
もう過ぎてしまったので、
感想はないと。
時間ない感想っていうのもないけれども、
大浜まで労働を走るだけだったですし、
そうですね。
どうしようかっていうところで、
当時、赤石層ですかね、
静岡の温泉が旗名木ダムから、
5キロほど行ったところにある、ご存知ですかね、千葉さん。
いや、僕ね、伊豆の人間なんて知らないんですよ。
あっちのほうは行かないんで、すいません。
そこの食堂のおばさんにですね、
葉っぱをかけていただいて、
実はその方っていうのは、
チャウス小屋のご主人の奥さんだったんですけど、
その方から、もうやるんなら、
とことんやりなさいよっていうふうに、
劇をちょっと入れてもらって、
自分は大浜海岸、太平洋を目指して、
このレースに取り組んだっていうことに、
改めて気づかされて、
そこで腹を決めたというか、
よし、じゃあもう、とにかく大浜海岸まで行こうと、
というふうに決意して、そこからはもう、
迷いなく、時間はかかりましたけど、
ゴールまで行ったっていう、そういう感じです。
でも、そこからどれくらいで行かれたんですか?
1日以上でしたっけ?
そうですね、1日、
そこからは1日はかかってなかったんですけど、
1日は、
1日、そこからは1日はかかってなかったと思います。
最終的に、
8日と、
約9日間ですね。
24時間弱ぐらいだったってことですね。