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2025-07-25 1:25:13

#17 【前編】岩崎勉|激走!トランスジャパンアルプスレース

今回のゲストは #12 秋山穂乃果さんのトレイルヘッド(原点)となった人物、岩崎勉さん。

彼が挑んだのは、2年に一度開催される超過酷レース「トランスジャパンアルプスレース(TJAR)」。
富山湾から北・中央・南アルプスを越え、太平洋・駿河湾まで――415kmを走り抜ける、究極の山岳レースです。

初出場は2006年。そして完走までにかかったのは10年。
出会い、挑戦、挫折、そして完走――そのすべてを語っていただきました。

「走る」だけでは語り尽くせない、人生の縮図のような物語。
岩崎さんの熱く真摯な言葉を、どうぞお聴きください。

by ちばちゃん


Host: Tatsuo Chiba @tatsuochiba_jp, Marco Lui @marcolui
Guest: Tsutomu Iwasaki

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サマリー

トランスジャパンアルプスレースの基礎知識や歴史、出場を決意するまでの経緯について語られています。また、岩崎勤さんのトレイルランニングにおけるキャリアやトレーニング、ランニングを自身の楽しみとしている様子が描かれています。キャリアの中での挑戦と成長についても触れられています。本エピソードでは、岩崎勉さんがトランスジャパンアルプスレースへの参加を決意するまでの道のりや、マラソンから山を走る楽しさを見出した経緯が詳しく語られています。初出場時の心境や、競技環境の変化についても言及されています。岩崎勉さんがトランスジャパンアルプスレースに挑戦し、その経験やトレーニングについて語ります。自然の中でのランニングや山の魅力に惹かれ、完走を目指す過程での試行錯誤や仲間との交流の大切さが強調されています。岩崎勉さんのトランスジャパンアルプスレースへの挑戦を通じて、彼の過去の経験や人々に与える影響について深く語られています。特に、彼の完走を目指す姿勢とその結果が周囲の人々にも勇気を与えている様子が描かれています。トランスジャパンアルプスレースにおける挑戦と苦悩について語られ、特に2014年と2016年のレース経験が振り返られます。

トランスジャパンアルプスレースの概要
職場には、上司には相談して、どうしてもトランスジャパンに出るためには、
選考会があったりとか、思想をしたりだとか、
実績を、宿題をやるために、何度も山に足を運ばないといけなくなるので、
全てをトランスジャパンに捧げるような生活でした。
TRAIL HEADへようこそ。
TRAIL HEADは、トレーニングランニングコミュニティで活躍するキーパーソンに、
なぜ走り始めたのか、何のために走り続けているのか、
そして、これからどこへ向かって走っていくのか、
彼らの走る原点である登山口を探るポッドキャストです。
放送は僕、香港出身、日本在住のマルコと、伊豆在住の千葉さんでお送りします。
久しぶりですね、また。
久しぶりだね、ちょっとお互い忙しくて。
ダメだね。
収録してから。
ダメだね、定期的にやろうって約束、全然守れないね。
だってその間、結構追い込まれてたでしょ。
だって、映像2本ぐらい上がってたもんね、その間ね。
そうだね、仕事は頑張っていましたけど、TRAIL HEADはちょっとサボっちゃった。
ちょっとマルコも素晴らしそうだ。
僕もちょっとね、バタバタね、意外と結構、マウントコーヒー終わってからも
ありがたいことにお仕事いただいたりとかしてたんで。
DEEP JAPAN行ってたんだよね。
DEEP JAPAN、これをでも元々松永さんとのレース主催者間交流みたいな感じでお手伝いとか、
あとは3PIX?やつだったり。
はいはいはい。
そこはもう、やっぱり主催者間でいつも助けてもらってるので、
仕事というよりもお手伝いと、あとはどういうことやってるのかって勉強も兼ねて
スタッフ連れてやってるっていう感じだからね。
すごく大切なことなんだけど、やっぱり泊まりかけていくから結構時間取られちゃって。
ちょっとそういう余裕もしっかり作っていかなきゃいけないんだけど、
時間の確保と、あと今走ってるからさ、
ランニングもしないとということで、今ランニングもやってるんで、
なかなか時間の確保ね、大変だなっていう感じがね。
もうすごいね、継続的に走ってますね、今年から。
そう、だからもう来年H3って、
はいはいはい。
終わったら足の甲走ってたらね、ちょうどその日のイベントだったんだ、今年ね。
外輪ね、箱根の外輪参加やつね。
岩崎勤のトレイルランニングキャリア
外輪の。で、なんか、実は恥ずかしながら知らなくてさ、H3って。
で、その時いろんな人と会って、あと家近いしさ、家から近いし、
あとその富士箱根伊豆国立公園なんだけど、
富士と伊豆は自分で仕事としてやっちゃってるじゃん、レースを。
そことは関係なかったりとかするとこなんで、
出てみたいなと思って、いろんなとこで出たいんですって言ったら、
最終的にやってる人につながって、ぜひぜひみたいな話になったので、
ちょっとなんとか頑張って来年のMTFGOはH3に出れるようにしたいし。
100マイルデビューってこと?
どうだろうね。2周バージョンもあるんだって、100キロ。
だから、100キロにするのか100マイルにするのか、出れるかどうかっていうのが
多分結構人気みたいなんで、それもあるんだけど、出れなかったとしても
出る前提で、外輪座を練習場所としてはメインとしてやっていきたいなと思ってる。
じゃないとね、モチベーション持たなくなってきてるんだよね。
自分も走んないと忙しいとだんだん嫌になってきちゃうんだよね。
何のためにやってるのかって話になるから、自分自身も楽しむって結構
モチベーション維持ってすごい大切なんで、俺も50代だからさ。
だからこっからは自分も楽しむよ。50歳、50代は。
もう十分頑張ったりしろということで。
まだ頑張ってるけどね。
頑張ってるけど、ちょっと罪悪感を感じちゃうんだよね。
マルコはそのこと感じることないってよく言うけど、
自分が走り行ったりとか、やってることがちょっと罪悪感を感じちゃうんだよね。
日々走ってることとか、遊んでる時間を使っちゃってるんじゃないかなと思ってたんだけど、
ちょっと自分の気持ちの整理も難しくなっちゃうんで、
そこはもう50代からはちょっと変えて、
やっぱり自分の時間もしっかりとってく。
自分のランニングもしっかりやってくっていう。
ちょっと蹴り替えたいなと思ってます。7月5日から。
今度一緒に海外のレイズで出ましょうよ。
そうだね。
ワールドトリブルメジャーズのレイズ。
そうだね。
旅しよう。
それをあげるのもいいよね。
OK。久しぶりの本編だね。今回また。毎回久しぶりでよくないね。
今は岩崎さん。
岩崎さん。岩崎さんは前の回、去年の年末かな。12回目の秋山ほの子さんの回で出てきた人物ですね。
きっかけになった方ね。
やろうと思ったきっかけになった方ということで、ぜひ聞きたいということで今回実現したんだけど。
まあ個性的な。
そうですね。
だったね。
話もキャリア歴も長いから、今回はもう前後を分けないと。
分けても長いぐらいっていう話で。
いやでも面白かったですね。
トランスジャパンアップスレスのある意味歴史をたどるみたいな回にもなってるし。
本当に長く活躍されてて面白いなと思ったので。
ぜひ。
まず聞いてもらいましょうという。
多分これね、トランスジャパンアップスレス出たくなるかもしれないですね。聞いた方ね。
そうですね。ほの子ちゃんみたいにいつか。
はい、ではではでは。
岩崎勤さんのトレーニングヘッドです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
初めましてマルコです。
初めまして。
岩崎です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
すごい楽しみにしてますけれども、去年の12月からほのかちゃんの収録で初めて岩崎さんの言葉で名前が出てきたので。
それで何か次の回っていうかトレーニングヘッドこそ岩崎さんの話を改めて聞きたいなと思って。
自分が撮影の仕事を会社やってて、もう一人のパートナーは小関新平。
それこそTJRよく撮影しに行ったので、その繋がりで岩崎さんを紹介させていただきました。ありがとうございます。
はい、ありがとうございます。
千葉ちゃん。
ログオンしてるんだっけ?
もうしてます。
よろしくお願いします。千葉と申します。
普段はトレーニングの方の大会の主催とかをやってるんですけど。
うちの会社にトランスジャパンとかも出られたか関係者とかもいるので、ちょっとお話は聞いて、相当お話好きの方という話を聞いてるんで。
今日すごく楽しみにしていたんですけど。
ちょっと、我々普段トレイルヘッドってトレーニングコミュニティに対するポッドキャストだったりとかするんで。
僕らは知ってるんですけど、挑戦されてる、まずそのバックボーンとしてはこのTJAR、トランスジャパンアルプスレースっていうのがあるかと思うんですけども。
こちらどんなレースかっていうのを少しご説明いただきたいなと思うんですけども。
トランスジャパンアルプスレースっていう大会の概要なんですが、2年に1回開催されてまして。
日本海の富山は、具体的には宇和寿市のミラージュランドというところをスタートしまして。
日本の屋根といわれる北アルプス、中央アルプス、南アルプスを重装して、静岡県の静岡市大浜海岸っていうところ、太平洋にゴールっていう415キロ、累積標高27,000メートルのレースになります。
これを8日間以内でしたっけ?制限時間は。
はい、制限時間は8日間です。
それが、第1回が2002年から始まって、それを第2回から参加されてるんですかね、ずっと。
私が初出場したのは2006年です。
6年、第3回になるんですかね。
そうですね、はい。
もともとこの大会を始められた岩瀬美希夫さんという方と、山で知り合って、トリランレーとかで知り合って、最初にお誘いを受けたんですけれども、
その時は、ちょっと私まだ山で野営をしたりするっていう経験がなく、しかも日本アルピスに一度も足を踏み入れたことがない、まだまだ山の関してはもう駆け出しの頃だったので、
ちょっととても自分のやる世界じゃないなと思って、その時はもうちょっとスルーしてた、効かなかったふりにしてたんですけれど、そのうち身近な練習、仲間というか知ってる人が出るっていうことを知って、
具体的には2004年に高尾さんを走ってた時に、
今ちょっと名前変えられてますけど、茅ヶ谷さんから、今年これ出るんだけど一緒に出ないって言われて、
今年は無理だけど、2年後、次回狙ってみよう、出場を目指そうかなと思って、出場決意したのが2004年でした。
そうなんですね。茅ヶ谷さんはオールドファンにはすごく有名なトレーニングランドとして非常に有名な選手で、確か優勝もされてますよね、女性で、TJRのね、レジェンドアスリートですよね、我々の世界で言うとね、本当に。
そうですね、はい。
ってことはでも、あまり野営もしたことなかったってことは、バックボーンはもうランニングだったんですか、初めは。
そうですね、走歴は32年なんですが、ロードが32年で、トレイル31年で、ちょっと1年間のボックスが。
今は今年でおいくつなんですかね。
はい、58位になります。
58位なんで、でもあれなんですね、走り始めっていうのは、大学卒業してからっていうことですか。
社会人になってからっていうことですよね。
そうですね、陸上とかの経験は学生時代とかなくて、会社に入ってから始めたんです。
じゃあ全然スポーツ経験とかもなかったんですか、部活動やってましたとか、そういうのもあまり。
そうですね、部活に関しては学生時代は、ちょっとマイナーなんですけど、ハンドボールをやってました。
ハンドボールをやってたんですね。
ランニングの楽しみとモチベーション
ただ走ること自体はもともと苦にならなかったというか、長い距離を走るのが好きだったんですよ。
そうなんですね。
なので、学生時代もサッカーか陸上をやろうかなと思ってたんですけど、
一緒にサッカー部入ろうって言った友達が、ハンドボール部に引っ張られて、一緒について行ってそのまま僕も入っちゃったみたいな。
そうなんですね。石垣里上みたいな感じなんですね。
そうですね。
でも、初めのランニングはいきなりハードなことをやるつもりもなく、どういうきっかけだったのか、もっと軽い形から入られたんですか。
そうですね。本当に軽くて、当時横須賀の造船所に配属されてた時に、社内行き便大会っていう、地元の職場のミニレースというか、社内行事があったんです。
職場の先輩から、おい、明日から練習するぞって声かけられて、行き便大会に出ることになって、それに向けた練習で、お昼休みに会社の周りをちょろっと昼休みに走り始めたのがきっかけです。
でも、そこから1年たれてトレーラーに入るって、わりと30年前だと、わりとあまりトレーラーっていう言葉もなかったと思うんですけど、山を走るっていうところのきっかけはどういったところだったんですか。
最初、走り始めて、最初はもう行き便大会だけだったんですけど、東京の本社に転勤になったんですよ。
それまでは、会社の独身業から職場まで通勤なんみたいなことをしてたのが、電車通勤になって、走るっていう生活が、位置がゼロになっちゃったんです。
せっかく走ったこの習慣をやめるのは、おったいないなと思って、たまたま本屋さん、図書館でランナーズっていう雑誌を見つけたんですね。
そしたら、市民ランナー、誰でも大会に出れるっていうことを目から鱗で知って、強制的にそういう大会に申し込んだところ、
そのとある大会で、ランニングクラブを主催している方に声をかけられて、一人で練習してるんだったら一緒に走らないかって声かけられて、
横浜にあるTMクラブっていう、当時そこで割と有名なチームだったんですけれど、そこで練習をすることになったんです。
たまたまクラブが藤戸山競走にすごい熱心に取り組んでいるクラブで、何もしなずに山頂コースにいきなり申し込みしたんです。
そうなんです。当時は5号目とか会社内で山頂コースに出れたですし、当時は競走とかもなかったんで、出ようと思えば確実に出れたっていう先着順ですね。
今の話、時代が1990年代の話ですね、おそらく。それぐらいってことですかね。
そうですね。1932年前ですから、あ、31年前ですから、今。
そうですね。
そうですね、はい。
丸子さんはピンとこないと思うけど、これぐらいの時代の時ってもちろん東京マラソンとかないわけ。
そうですよね。
格闘士のマラソンとかなくて、テレビ中継でやってるマラソン大会、トップアスリート向けの東京マラソンであるわけ。東京国際女子マラソンとか、東京国際マラソンとか、
テレビでやってるマラソンはトップアスリートのための大会っていうイメージがあって、今みたいな感じで、誰でもネットでマラソン大会出ようかっていう雰囲気はなかったですよね、確かに。
そうですね。
割とその、おじいさんの趣味みたいな感じの雰囲気でしたよね、たぶん当時。
初期のマラソン経験
だから確かに、どういう大会があったんですかね、当時ね。オウメマラソンはあったんですかね。
そうですね、オウメマラソンはありましたね。
そうですね、あんまり確かに。
何に出てたんですかね、皆さん。
当時の本、雑誌まだね、残ってるんですけど。
大丈夫、大丈夫。
あまり記憶にないぐらいってことですね。だから、藤戸山競争と。
藤戸山競争も、藤戸山競争とか、あとトレランで言うと、大阪府チャレンジ登山大会ですとか、
ひばさん、スカイランとか、あの辺、結構、かなり昔からある大会ですよね。
そもそも破設年もないのよ、まだ、たぶん。
ないね。
破設年自体がないから、たぶんちょっとかなり今の状況が違う中でやられてるってことですね。
そうですね。
じゃあ、それでも、その藤戸山競争に出た時に、その山を走るとか、そういうのに割と取り憑かれた感じなんですか。
ちょっとこう、違うな、みたいな。
そうですね、その初期の頃は、あの、労働をメインにやってたんです。
最初はハーフマラソンからフルマラソンに注力してた時期が結構あって。
大体、夏だけ富士山、秋から春まではフルマラソンっていう、そういう取り組みを10年ぐらいやってました。
そこの10年間は、ロード中心みたいな形だったんですね。
そうですね。で、トレイルも走ってたんですけど、それはあくまでもフルマラソンの走力を上げるっていう目的で、
当時から高尾神波とかの、その辺は走ってました。
でも、その間は結構割と、どれくらいの記録を目指して走るランナーだったんですか、マラソンでいうと。
そうですね、その横浜のクラブの先輩が東京国際とか、福岡とか走ってたような、市民ランナーでも。
トップですよね、それだと。
そんな、当時、全然次元の違う方から一緒に走ろうって言ってもらえて、すごい嬉しかったんで、
エリートレース、例えばベップを置いた、まずは目指そうかなと思いまして、当時2時間40分が出場点だったんですけれども。
まずはサブスクリーンを目指しました。
なかなかハードルが高いですね。
そうですね。
レベルが高いことをやられたってことですね。
そうですね、ただでも最初本当に、初フルは3時間40分ぐらいで、普通のランナーだったんですけど、
そこからサブスクリーンは無理だっていうふうに言ってた人もいたんです、私のこと。
それが、とりあえず目指そうと思って目指したら、何とかサブスクリーンができました。
今度その次の上の、豊富読売マラソンっていう、今でもあります。
それが当時2時間50分が出場点でして、ベップの前にまず豊富を目指そうということで、2時間50分切りをステップとして目指していました。
そこからもうそれは達成されたんですか?最終的にはどこまでマラソンのキャリアが行かれたんですか?
そうですね、ベストが2時間48分なんですけれど、練習量を増やせば記録は伸びるだろうっていうふうな見通しはついてたんですけど、距離を踏めば踏むほど記録が伸びてましたんで。
ただ30代半ばぐらいで仕事がすごく忙しくなってきて、出張もすごく多くて、練習をこれ以上増やすのは環境的に結構厳しかったんです。
記録がたのちになっちゃって。
あと、私生活もちょっといろいろあったりして、だいぶフラストレーションが溜まったときに、一回限りのつもりで覇説寝にちょっと出たんです。
それはいつぐらいなんですか?覇説寝がもうできてるってことは何年ぐらいですかね?
そうですね。覇説寝に初めて出たのが、2000年代ってことですかね。
TJRに出る前ってことですよね?
そうですね。出る前ですね。2000年ぐらいですね。
2000年ぐらいなんですね。で、出られたと。
岩崎さん、当時どういう仕事されたんですか?
当時は機械メーカーのエンジニアをやってました。
電気関係が専門で、工場の生産設備の電気設備の設計をやって、全国の工場を回ってました。
かなり忙しかったですね。
そうですね。もうおかげで、出張ということで全国を旅行できてたんですけど。
さっき横須賀とか横浜とかって地名出てるので、神奈川とか東京ベースにして出張する生活だったんですか?
そうですね。勤務首都圏が多かったんですけど、四国の愛媛県から大阪、名古屋、あと神奈川、東京、埼玉に勤務、それぞれしていました。
すごくお忙しいからマラソンがっていうところから競技時間が24時間じゃないですか。
最終的にトランスジャパンって8日間のレースだったんですけど、そこからどうやってスイッチできたのかすごい興味深いんですけど。
もう忙しいのに。
忙しくなってマラソンもできないぞって時に8月に会って、そこからどうなったんですか?
そうですね。当時の8月、初めて8月に出たのは1999年なんですけど、当時はそんなにまだ今ほどレベルが高くなくてですね。
1回で辞めるつもりが会場で知り合った人と来年もう1回会おうっていう約束をしてしまって。
よくある。
そうですね。で、出たんですけど、それが2回目出た時に招待選手に選ばれました。
で、総合20位以内の選手が招待選手の僕としの。
それで2回目で辞めるつもりが3回、4回と。走っていくうちに山を走る楽しさに芽生えたっていう感じです。
じゃあ、ハセツネからトランスジャパンへっていうところなんですけど。
そうですね。
トランスジャパン、いわせさん、トランスジャパンを始めたいわせさんともハセツネとか山中に帰ると必ずお会いする感じになって。
こんな大会あるよ、やるんだけどどう?って言われて洗脳されていったって感じですかね。
その大変さも全然分かってないんですよ。実際コースを行ったこともないですし。
距離は長い距離にちょっと憧れを持ってたので、日本海から太平洋ってすごいなんかロマンがあるなと思って。
まあありますよね。
そうですね。で、トランスジャパンを出ようと思う前はアメリカ横断レースにちょっと憧れを持ってた。
東から西に行くとか。
ビッグフィットトランスアメリカとかっていう。あれはさすがに会社辞めないと出れないような大会なんですけど、2ヶ月とかですから。
でもトランスジャパンだったらお盆休みで8日間。
なるほど。
ハードルが低いなと思って出場するレースに参加するという観点で言うと。
これならちょっと冒険が日本に居ながらできるなっていう。
今トランスジャパンって結構参加資格が厳しいじゃないですか。そもそも出ることも。
当時の出場資格っていうのはどうだったんですか。
当時も一応選考会っていうのはあったんですけど。
ただ、今よりももうちょっとシンプルでして。
具体的に言うと、北アルプスの立山から室堂から上高地までを
ある時間以内で行くか、もしくは中央アルプスのコースを
ある制限時間内で行けば、一応基本的にOKみたいな感じだったんです。
そうだったんですね。
じゃあ一回試走というかそれをチャレンジして自己申告で出場みたいな感じですか。
そうですね。一応選考会っていう期日を決めて、2回開放されて
どっちか出れる方で出てくださいみたいな感じで。
中央アルプスの方のコースでみんなと一緒にスタートして
時間内に、規定時間内にゴールできてOKもらったっていう感じでした。
これで初めて出たのが2006年ということなんですね。
はい。
実際じゃあ割とぶつけ本番ってことですよね。
試走を中央アルプス1回だけやって、他のコースあまり把握してない中
行くぞって感じだったんですか。初回は。
さすがに414キロぶつけ本番は怖いので。
2004年に出場を決意したときには、そのときもちょっと夏場だったので
ちょっとアルプスに行く暇がなく、翌2005年に南アルプスを重走しました。
それが私の初日本アルプスです。
はい。
これはちゃんと戦場畑から日尻岳まではいきました。
北アルプスに関してはもう全く未経験で。
すごい。なかなかですね。
当時はどこまでの覚悟というか、行けるところまで行ってみようかというのか
それとももう完走するつもりで行くのか。
特に1回目、これから何回もチャレンジするじゃないですか。
初心だったときの岩崎さんの心境を改めて聞きたい。2006年の気持ちを。
はい。今から考えると無謀という感じなんですけど。
もうほぼノープランですね。
というのは、ロードでのウルトラマラソンは経験はしてたんです。100キロを超える。
それまで大会でリタイアしたことが一度もなくて、何とかなるだろう、何とかしようっていうぐらいのノリで出てしまったんですが。
これは出ることによっていろいろ、本当に勉強したというか気づかされたことが多かったんですけど。
事前の計画が非常に重要です。
もちろんね。だったと思いますよ。
それはそうだろうな。そうでしょうね。すごいな。
そうなんです。今だったらちゃんとプランを作って、計画的にレースに臨むんですけど。
当時は流れというか、本人は一応真面目なんですけど、適当な感じで行ってしまって。
最終的には足裏にも豆がいっぱいできてしまって。
豆の処置が悪くて、可能しちゃったんですね。
どうなったかというと、足裏がもうジンジンして、
剣山で足裏を突き刺されるような、剣山の上を歩いているような一歩一歩が痛みになったんです。
トランスジャパンへの挑戦
それが中央アルプスに入ってからなんですけど、そうなると足が踏ん張れないんです。痛くて。
そうすると足取りもおぼつかなくなりますし、それでもスピードが極端に落ちてしまって、
中央アルプス降りるところでタイムオーバーという形で1回目終わってしまいました。
2006年だったんですね。
ノウハウというか情報というか、あまり計画立てるにも情報が今と違ってないですよね。
どうしたほうがいいとか、ギアはこれのほうがいいとか、こういう対策とかっていうのは情報があったんで、もう手探りって感じですよね。
そうですね。手探りですね。
これでかなり叩きのめされたんだけど、逆にその時の気持ちはどうなったんですか。ずっとやるから多分思われたんだと思うんですけど。
そうですね。次こそはリベンジしようということで、今回はダメだったけど、
次は完走できるように頑張りたいというふうに思いまして、全く辞める気はなかったです。
ライフスタイルはマラソンから完全にトランスジャパンアルプスの方のトレーニングというか準備とかっていうふうに、かなりこの時にはシフトチェンジしてる感じですかね。
そうですね。というのはトランスジャパンをメインレースに考えるようになってから、山に行く頻度が増えたんですね、もちろん。
特にアルプスに通うたんびに、山の魅力というかにすごい魅せられてしまって、すっかり山に惚れ込んでしまって、ロードを走ることに苦痛を感じるようになってしまったんです。
なので完全にもうロードをメインから山メインに切り替わりました、トランスジャパンを通じて。
でも笑っちゃうけど、最初は労働で2時間48分、それ以上に自己ベストを更新するのにもっと時間をかけないといけない、悩んでいるのにこれからもっと時間かけるという課題解決してないだけじゃなくて、進行してしまってるじゃないかっていう。
そこらへんはどういうふうに解決したんですか?マルクの言うとおり全然問題解決になってないというか、むしろ時間がないっていう。
ライフスタイルの変化
そうですね、おっしゃる通り、確かに山へ行く方が遥かに時間がかかる。
もうそれは無視ですね。
無視で最終的に。
それもあれですか、ライフワークバランスをちょっと変えるとか、仕事でちょっとこういうことをやりたいからちょっと仕事を落とさせてくれとか、なんかそういうことをやったんですか。
そうですね、職場には上司には相談して、どうしてもトランスジャパンに出るためには選考会があったりとか思想をしたりだとか、実績を宿題をやるために何度も山に足を運ばないといけなくなるので、
それはもう何ですかね、全てをトランスジャパンに捧げるような生活でした、その頃。
もうキャリアは捨てたみたいな、もうキャリアは捨てるっていう、割り切ってって感じですかね。
そうですね、はい。
なんでそこまで魅了されてるっていうかを知りたいのと、今まで同じような体験ありましたか。
その時30代後半40代になって、TJRと出会って、ぼっとしてそれに専念したいっていう経験がまず、それまで岩崎さんの人生にあるかどうかって聞きたいのと、そしてTJRのところどこが魅力があって、それほど時間をかけたいのをすごく聞きたい。
そうですね、まず今まで趣味というか、いろんなことに取り組んできました。走るっていうこと以外に、マリースポーツというか、船の免許も持っていまして、
ボートとかヨットとか、カムとか、スキューバーダイビングとか、あと自転車もロードとマウンテンバイクもやりましたし、
そうですね、マシー火薬をやって節内海横断をしたりとか、リバー火薬もやったりとか、スカイスポーツ以外はだいたいトライしました。
トレイルランニングの魅力
でも、例えばマリースポーツ、海のスポーツだと海に行かないとまずできないんですよね。
あと機材とかもすごいかさばりますし、1回1回すごいお金がかかるんですけれど、走るっていうことは、靴さえあれば極端な話、待ち着きでも走れますし、いつでもどこでも走れる。
例えば出張先で朝早起きしてちょっと走ったりとか、週末、例えば月曜日とか金曜日、週末の前後に出張を入れて、土日は出先で山を走ったりとかっていう楽しみもできて、
自分がこう続けられるスポーツだったっていうのが、まずランニングだったと。
トランスジャパンもそうなんですけど、トレイルランニングにハマったっていうのは、自然の中を走る楽しみや喜びが無限に感じられて、自分にとっては。
季節、春夏秋冬、それぞれの趣き楽しみもありますし、すごいいろんな動物とか花とか、風もそうですし、互換で感じるものがすごい心地よくて、辛い時はもちろんあるんですけど。
ということで、どんどんトランスジャパンに向けてトレーニングをして、山に入る機会が増えるたびに、どんどん深みにはまっていったっていう感じですね。
トランスジャパンに、特にそれに私がずっと10年以上取り組んできたかというと、先ほどの山の魅力もそうなんですけど、山で暮らす人との交流っていうんでしょうか。
例えば、山小屋のご主人とかは、そこで働くスタッフの人もそうですし、山で仕事をする人とちょっと関わり合いが出たりして、自然だけではなくて、そこで暮らしている人とのすごいコミュニケーションとか。
もちろん、山を走るランナーとか登山者とのコミュニケーションもそうなんですけど、そういうところがどんどんどんどん自分が魅力に感じたところですね。
トランスジャパンに関して言うと、私にとってはなかなか完走するのが難しかった。
なので、どうすれば完走できるかなっていう、色々試行錯誤することによって、自分自身の足りなかったことに気づかれたり、ブラッシュアップする過程も面白かったっていうのがあるかと思います。
小野川さんがテレビで見る2012年大会のときって、完走できてないじゃないですか。
はい。
それまで今2006年に出て、それまでの間も何回か出てられたと思うんですけど、完走はここまで2012年までされてるんですか、ちなみにこの2012年の段階で。
してないんですよ。
ってことは2006、8、10、12、4回連続、完走できずって感じだったってことですね、そのときは。
実はその間の2008年と2010年は出場してないんです。
なるほど。2006から一気に2012年飛ぶってことなんですね。
そうなんです。
なぜ出なかったのかっていうと、ちょっと理由がありまして、2007年にちょっと山のレースで怪我をして入院をすることになっちゃったんです。
はいはいはい。
で、そのきっかけとなったレースっていうのが、箱根トレイルレースっていうのが2007年にやったんですけど。
まさか箱根50Kのことですか、それ。
そうです。はい。
箱根50K出てたんですね。
出てました、出てました。
僕は行きました、それ。
はい。
こんなところに箱根50K出た人がまたいるとは。結構見分けでましたね。
そうなんですよ。
箱根50Kで怪我したもんね。
そうなんですよ。で、この時、下りでちょっと飛ばしすぎてですね、急なタイトな右コーナーで曲がりきれず、コースアウトしたんです。
コースアウト。
曲がりきれず道をオーバーランしちゃったんですけど。
はいはい。
それだけだったら別に大したことないと思うと思うんですけど、当時道の両側がささやぶみたいな感じになって。
箱根ですからね。
それを機械でコースの部分を勝手整備されてたと思うんですが、その切り株が駐車針みたいなすごい鋭利な感じになってまして、それが見事に足に突き刺さっちゃったんですよ。
ああ、痛い。
刺さったのが折れて中に残って、それだけだったらいいんですけど、ちょっと足が動かなくなってリタイアをしたんですよ。
スタッフの方にちょっと怪我をしたんでリタイアしますと言って、足に入っている異物を取らなくちゃいけないということで救急搬送されたんですが、
その後の措置が悪くて、中で足が可能してしまって、入院することになってしまった。
入院なんですね。
当時、実は翌月に海外のステージレースを、初海外レースをエントリーしてたんですけど、それがパーになってしまって。
で、それはそれでちょっと残念なんですけど、それはゴビマーチっていう、250キロぐらいのステージレースだったんですけど、直前過ぎてもうキャンセル、もう全部パーになりまして、
あと、身内からランニング禁止令が出たんです。
やめなさいと、そんな危ないこと。
で、自分の中ではやめる気はもうとうなくて、トランスジャパンも当然出る気満々だったんですけど、一旦ちょっと周りの反発を抑えようと思って、素直にマラソンを走るっていうことをまず封印したんです。
再挑戦と成長
一回やめてるんですね、走るのね。
ただ、好きなのにやめるっていうのはすごく辛くて、見ざる聞かざる言わざるというか、一切ランニングの情報がもう目に入らない、耳に入らないように、ちょっと心を閉ざす感じでやってたんですけど、
ただ、せっかくトレーニングしてある程度体を作ってたのを、運動をやめるとまた元に退化しちゃうじゃないですか。
それがちょっと惜しくて、走ることはやめるけど、他のスポーツをしようとして、自転車をそれで始めたんです。
ロードバイクとマウンテンバイクをやって、あとシーカ役、当時愛媛県に行ったので、愛媛県ってすごいスポーツ天国なんですよ。
というのは、道が良くて信号が少ないんで、自転車とかランニングには最高の環境です。
周りは海で、特に節内海は割と波が穏やかなので、シーカ役なんかもすごくしやすいですし。
なので、走ること以外はもういろんなことやってました。
走るのを休みしていて、周りの人の反発を一回抑えるために。
お許しが得られるまでは、ちょっとつなぎで、ひょっとしたらそういう自転車とか、他の面白みを知ってはまるかもしれないなっていうふうにも思いながらやってたんですけど。
だいぶ封印されてるじゃないですか。12006年。
7年でダメだよとか、8、9、10、11、4年間の空白があるとですかね。
トランスジャパンの出場に関してはそうなんですけれど、ランニングで言うと、2007年に怪我をしてから、1年ぐらいは一応建前上ランニングはしてなかったんですけど、ただトダンはしてました。
走らないっていうことを約束してました。
走ってないっていうことですね。
歩きのみで、トレランって結構登り歩きますよね。
ほぼトレランなんですけど、律儀に走ることはせずに山歩きをしたりしてました。四国の山がいいんですよ、すごく。
四国山地って、東西に一本山があるんですけど、愛媛県って石鎚山がある石鎚山系、それから西赤石、東赤石山系っていう3つの山が連なって一つの四国山地の愛媛県を構成してるんですけれど、
これがなかなかいい山で、すごいちょっとおすすめエリアなんですよ。
マルコは今徳島に住んでるんで。
まだ愛媛に行ったことないんですけど、自分は徳島の上山、隣は鶴木山、あの辺の山を走ったことないんですけど、愛媛の山行ってみたいですね。
そうですね、ぜひぜひ。
ずっと行くと愛媛から徳島って繋がるんですか?四国山地を重装していけば。
一旦ちょっと降りると思うんですけど、でも基本的には連なってる。
徳島までは私ちょっと行ったことないんです。山ずっと稜線沿いに。
それも面白そうですね。
確かに、確かに。
トランス四国。
トランス四国。
そうですね。
じゃあそれで封印してるような、してないような。
封印してるやつが、ランニングダメって言われてるのに、よくトランスジャパンにまたいいよって話がちょっとまた、どこでどうだったかって聞きたいんですけど。
はい、失礼しました。
愛媛県の勤務が、仕事から転勤で、またどこだったかな、関東の方に戻ってきたんですけれど、
その時に、走ってもいいっていうことをまたお伺いを立てて、
ほとぼりが冷める頃に、1年余りぐらいですけど、それで何とか渋々お許しを得て、
また再会しました。それが2009年ですね。
はい。
これほぼリハビリしてるだけの感じですよね。怪我した後に、悲観的に言うと実質。
そうですね。
元気になったら、もう走ってるぐらいのタイミングですよね、これね。だからもう我慢できなかったってことですよね、多分。
そうですね。スポーツはずっと続けてました。
ご理解が、終わりですよね、周りがね。
まあ、何とか渋々、走ってもいいよっていうことになって、また再会したんですけど、
ただやはり、ランニングっていう走力の面では、やっぱり歩くのだけだと、走力自体落ちてしまうんですよね。
あと自転車とかも、バイクで心配機能はある程度維持できても、走るっていう走力が落ちてしまっていて、
2010年の先行会に実はトライしたんですけれども、トランスジャパンの。
ちょっと走力的に、何とかギリギリ出場資格というか、宿題をこなして2010年に臨んだんですが、
走力的にもちょっとギリギリで余裕がない状態だったのに加えて、先行会の前日にちょっと食中毒になってしまって、体調が最悪だったんです。
はい。
それで2010年はダメでした。
本選に出てないってことですか、本選に出たってことですね。
はい、本選には出られませんでした。
はい、それで2008年と2010年が2回お休みをしたっていう。
2010年は2回目だったってことですね。
はい、そうです。
2回目はどういう感じでやってたんですか。まだこういう風にやったら完走できるぞっていう確信もないまま、試行錯誤の続きみたいな感じだったんですか、その時も。
そうですね、さすがに2012年に関しては、それまでの思想とかを通じて、何とか完走できるかなっていう。
何となくこう、うっすらと見えてきたというところなんですね。
そうですね、2012年に関しては、その2006年とも全く違う準備をして臨みましたが、結果ちょっと足りずだったんですけど。
でも結構いいところまで行かれたってことですよね、その時間制限時間内に。
そうですね、最終関門に引っかかってしまって、
当時は旗渚ダム、旗渚第一ダムに関門があって、そこの関門時間をちょっとオーバーしてしまったっていう結果でした。
で、そこから本来はリタイアなんですけど、そこからまだやるぞっていう感じで、
当時は、なんて言うんでしょうか、
そのTransJapan Alps Raceの、
トランスジャパンアルプスレースの、
トランスジャパンアルプスレースの、
参加者、出場者全員が主催者であるっていう。
はいはい、言ってましたね。
岩瀬さんのその理念があったので、
それ以前の初期の頃っていうのは、制限時間関係なく、
それぞれのアルプスレースの参加者全員が主催者であるっていう、
初期の頃っていうのは、制限時間関係なく、
それぞれの思いで大浜海岸を目指すことができたんです。
あ、そうだったんですね。
第一回に除きに、
時間オーバーで目指されてた方も、
その個々の体の状態に合わせて、
目指してた人もいましたし、
すごい私も、
ちょっと悶々としてたんですけれど、
ちょっと制限時間が、
もう過ぎてしまったので、
感想はないと。
時間ない感想っていうのもないけれども、
大浜まで労働を走るだけだったですし、
そうですね。
どうしようかっていうところで、
当時、赤石層ですかね、
静岡の温泉が旗名木ダムから、
5キロほど行ったところにある、ご存知ですかね、千葉さん。
いや、僕ね、伊豆の人間なんて知らないんですよ。
あっちのほうは行かないんで、すいません。
そこの食堂のおばさんにですね、
葉っぱをかけていただいて、
実はその方っていうのは、
チャウス小屋のご主人の奥さんだったんですけど、
その方から、もうやるんなら、
とことんやりなさいよっていうふうに、
劇をちょっと入れてもらって、
自分は大浜海岸、太平洋を目指して、
このレースに取り組んだっていうことに、
改めて気づかされて、
そこで腹を決めたというか、
よし、じゃあもう、とにかく大浜海岸まで行こうと、
というふうに決意して、そこからはもう、
迷いなく、時間はかかりましたけど、
ゴールまで行ったっていう、そういう感じです。
でも、そこからどれくらいで行かれたんですか?
1日以上でしたっけ?
そうですね、1日、
そこからは1日はかかってなかったんですけど、
1日は、
1日、そこからは1日はかかってなかったと思います。
最終的に、
8日と、
約9日間ですね。
24時間弱ぐらいだったってことですね。
レースのゴールと運営の裏側
そうですね、深夜にゴールしました。
これって、レース、
僕、普段主催してるほうなんで、
運営がプラス24時間になるって結構えらいことなんですけど、
主催者もちゃんと見守ってくれてたってことですよね?
正直ですね、そのときどうされたのかは、
知らないんですけども、
当時は、
田中雅二さんが、
田中雅二さんの奥さんが、
スーさんね、スーさん。
スーさんが事務局として連絡係をされていて、
当時、GPSとかもなかったので、
通過間、チェックポイントを通過したら、
何時何分にどこどこ通過しましたっていうのを、
携帯メールでメッセージを送るっていう、
そういうシステムだったんです。
そうですね、でもスタッフはもうみんな、
解散してましたから。
そうですよね。
そのままゴール、誰もいない大浜海岸に、
一人で行ったっていう感じ。
もう一度、ゲートとかもなく、何もないようなところを走ってるっていう。
そうですね。
でも、それがたまたま、そのNHKが、
スーさんが、
たまたま、NHKがテレビ取材に入ってた年だったので、
そういう形になりますね。
NHKの人も、まだ走るんですか?みたいな、
ずっと密着されてるんですか?
そういう形になりますね。
そういう形になりますね。
NHKの人も、まだ走るんですか?みたいな、
ずっと密着されてたんですか?
事情も分かってて、
ついてきますよ、みたいな感じになったんですか?
裏方の本当のところは分からないですけど、
レースとしては終わっても、
まだゴールを目指してる選手がいるっていうことで、
一応一旦、
撮影班は一旦終了になったみたいなんですけど、
一部、まだ走ってる選手がいるから、
ちょっと追っかけるみたいな感じになってたんだと思います。
でも、よく分からず、何か撮ってる人いるな、みたいな感じで、
もう一人でひたすら行って、
たまに消息のメールを送ってたみたいな感じですか?
一応、ここにいますみたいな。
そうですね、大衆喚問でオーバーになってからは、
もう、何て言うんですかね、
大会自体はもう終了なので、
スタッフはもう全員解散して、
それぞれ帰宅されて、
スタッフはもうゼロの状態で、
単独で、
自分の挑戦っていう感じで、
続行してた感じですね。
反響と周囲の理解
そうですね。
でも、この模様がそれこそ、
後の日本代表が生まれるきっかけになるんですけど、
これテレビで、
放映されたことで、結構反響があったんですか?
この2012年の時間外でも、
約1日かけて完走したってことに関して、
結構大きな反響とかがあったんですか?
当時は。
そうですね。
自分はあんまり、
当初は考えてないんですけど、
例えば山とか行くと、
声かけられるようになります。
僕は静岡県に住んでるんで、
山のレースって、
僕らはマウントフリー、UTMFとかもやってるんですけど、
一般の人は圧倒的に、
トランスジャパンアルプスレースの方が有名なんですよ。
トランスジャパンアルプスレースって、
静岡県の人は圧倒的にトランスジャパンアルプスレースの方が有名なんですよ。
だから、かぶらぎさんよりもつきしょうさんの方が有名なんですよ。
静岡県って。
トレランって言うと、
富山県から太平洋までやってるやつって、
よく言われるぐらいなんで、
多分結構大きな反響があったんでしょうね。
そうですね。
すごい勇気をもらえたとか、
諦めずに、
その方は別にランニングをしてるとかじゃないんですけれども、
例えば体の具合が悪い方とか、
いろいろ人生に悩んでる方とか、
そういう方から励まれて、
大きな反響を受けたりとか、
そういう方から励まれて、
そういう方から励ましをもらったとか、
メッセージをいただいたり、
声をかけられたりすることが、
すごいありました。
そこから、この頃に関しても、
ご家族とか、心配されてるじゃないですか、
走ることに対して、
そこは完全にご理解いただいて頑張るよって感じとか、
それだけでもなったんですか。
そうですね。両親は、
心配はずっとして、
それ以降もしてましたけど、
山に行くことに対して。
ただ、
気をつけて頑張るよっていう、
そんな感じだったかと思います、周りは。
職場もさらにご理解深まったみたいな感じなんです。
その頃は、もはやライフワークバラさんも完全に、
トランスアラートジャパンに完全に寄ってる感じですよね。
職場の。
そうですね。
ただ職場の人も、
やはり山とか、
走ることに興味がないかっていうのは、
私がこういうことしてるっていうのを知らない人も結構、
多かったんです。
知ってる人は結構、
声かけて応援してくれるんですけど、
知らない人は全然、
それまでと変わらなかったです。
でも、
職場ではごく普通にお仕事をされている、
たくさんの方と同じっていう認識の仕事の仕方だったってことですよね。
なんか、ちょっと勇気取っていいよとか、
仕事言うときに、
勇気取っていいよとか、
勉強してあげるよとか、そういうことは全くなくっていう。
そうですね。
一部の方は、
すごい興味を持って応援してくれてる方は、
確かに職場、いましたけれども、
職場というか、
他の部署の方なんかは、
結構、
声かけてくれたりしたんですけれど、
ただ、基本的には、
あまり変わらずです。
すごいですよね。
普通に言うけど、
そのライフワークバランスをしっかりとって、
トランスジャパンにやるって、やっぱすごいなと思うんですけど、
この秘訣というか、
こういうことを気を使っているとか、
なんかあるんですかね。
その生活自体が大変かなと、
ライフワークのバランスの保ち方が、と思うんですけど。
そうすると、2016年までに関しては、
自分の中で、
トランスジャパンの命みたいな感じだったので、
むしろ、それを目指すことによって、
日々の、
いい意味の緊張感というか、
生活に張りがあるという、
感じがまずできていたのと、
不節制もあまりせず、
仕事も両立するために、
仕事も頑張るみたいな感じで、
そうですね。
生活、自分自身だけでは割と大きい存在で、
ありつつ。
秘訣というのは、特にないですね。
ある程度、
あったおかげで、いい意味の緊張感を持って、
日々生活、仕事ができていたかなという、
感じです。
むしろ、
仕事にとってもモチベーションになったというか、
やり続けるモチベーションになったという感じですかね。
そうですね。
マイナスになることは、ほぼなかったですね。
休みを取らなくちゃいけない、
休みを取らなくちゃいけない、
休みを取らなくちゃいけないところだけは、
会社に事前に申請して、
休みを確保することは、
していましたけど。
でも、2006年で、
完走できなくて、
2012年は一応、制限時間に間に合わなかったんだけど、
完走したが、
それで、乱されてなかったということですかね。
それがまたチャレンジしたいというのが、
またどこかに、
達成しないといけないという気持ちというか、
そのモチベーションは、今度はどこにあるんですか。
はい、そうですね。
それは、2012年に、
挑戦の継続と次の目標
確かに、日本海の山湾から、
大浜海岸、太平洋までは、
ちょっと時間かかったけれども、
行けたんですけど、
でも、まずは到達するということは、
大体としての完走ではないじゃないですか。
はい。
時間内完走ということができなくて、
当時、
岩瀬さんとの付き合いのあった、
同じ、
トレラン仲間の他のメンバーは、
大体みんな完走されてるんですよ、時間内。
そういう人は。
僕だけできてなくて、
すごい出来の悪い、
勝手に師匠と思ってたんですけど、
面目が立たないという、
思いがすごくあって、
かつ、時間内完走をしないと、
本当に、
トランスジャパンを完走したことにならないということを、
すごく痛感しまして、
時間内に、
時間内に完走しようという、
次の目標が、
2012年以降に、
気づいてから、
その思いがさらに強くなったという感じです。
むしろ、
思いが強くなったと。
はい。
時間かければいけるんだと。
でも、そうじゃない。
だから、
与えられた様々な条件を全てクリアして、
到達してこそ本当のトランスジャパンだということに、
再確認、
したっていう感じです。
そこから完走するまでは、
3回を要するってことですかね。
14、16、18で完走って感じですか。
2016で完走したんですが。
じゃあ、次の次で言えば完走ですね。
はい。
2014年、
次の2014年は、これはもう、
何としても、
完走するぞと。
完走できるっていう手応えも持って、
実は望んだんですけれど、
2014もちょっと結果ダメだったんです。
はい。
台風があったみたいですね。
台風の影響で結構大変なレースの年ですから、
2014っていうのが。
制限時間が3時間延長って書いてありますけど。
はい。そうですね。
この時、なぜダメだったかっていうと、
野党反動機に台風が接近をして、
両線がもう、
本当に暴風、
体が吹き飛ぶぐらいの
強風になった年だったんですけど、
この時、
非常にちょっと悔やまれるというか、
ところなんですけど、
他の選手と同じように進んでいて、
位置残しから、
先へ進もうとしたんです。
位置残しというのは、
立山の村から薬師に向かう、
立山の一番、
ちょうど峠に進む手前のところだったんですけど、
そこから最初進んでたら、
風が強くて、
眼鏡が、
吹き飛ぶそうな、
眼鏡のフレームを持ってないと、
眼鏡が吹き飛ぶような風だったんです。
眼鏡がないと、
行動スピードが当然落ちるだろうなと。
そうですね。
デポポイントには予備眼鏡っていうのは
持ってたんですけれど、
その先まで、
かなりの距離、
私は、
近視と乱視があって、
視力はそんなに良くないものですから、
眼鏡がないと、
感想は厳しくなるだろうなと思って、
そこだけだったらいいんですけれど、
台風が、
まだ接近しつつある状況で、
より天候が悪化していくっていうのが、
容易に予想されるような状況だったんです。
その時点で、
風がこんだけ強いということは、
そこから先、
進む途中で、
身動きができないような状況になったら、
まずいなっていうふうに考えて、
他の選手は、
そこを突っ込んで、
結構慎重派というか、
無理していくのはやめて、
ちょっとリバークして、
台風をやり過ごしてから進もうというふうに、
ちょっと考えたんです。
【佐藤】すごいですね、
冷静に聞くだけ聞くと。
すごいですね、もうね。
【河村】はい。そこで、
その後、
他の選手はもうみんな行っちゃったんですけど、
自分だけは、
台風をやり過ごしてしまえば、
風も弱まって、
その先進むのが安全だと思って、
ちょっと停滞することを
決意したんですが、
ただ、
一応ルール上、
リバークはキャンプして、
というのが原則だったので、
キャンプ場って言うと、
来町沢キャンプ場まで
戻らないと
ないんですよ。
立山のエリアって。
来町沢まで戻るって、
何時間かかけて、
進行方向と逆方向じゃないですか。
【佐藤】はい。
【河村】いつもどころか、むしろ戻らないといけない。
ただ、
トランスジャパンの挑戦
失格とかルール違反とかっていうことになったら、
もともともないので、
仕方がなく来町沢キャンプ場まで戻って、
そこで
シェルターを張って、
台風の通過を待ってから
スタートっていう風にしました。
【佐藤】結果的にそこがかなり響いたというか、
時間内に
いけなかったってことなんですか、最終的には。
【河村】その通りです。
【佐藤】それはさらに募りそうですね。
次に思いがかなり。
【河村】そうですね。
2014年が結果的に、
そこで足止めを食らって、
上高地の通過関門に間に合わなくなって、
終了ということになりました。
【佐藤】そこがさらに短くなって、
次で感想をするんですけど、
その次の時は満を持してって感じだったんですか。
【河村】そうですね。2016年は
満を持して臨みました。
排水の陣ですね。
【佐藤】排水の陣ですね。
【河村】そうですね。
【佐藤】もうここで乾燥できなかったら、
足を洗わないといけないかなというぐらいの
気持ちで。
【河村】ここは結果として、
乾燥時間はどれくらいでいけたんですか。
【佐藤】乾燥時間は
7日と
17時間ぐらいだったかなと。
【河村】これで乾燥してという形で。
【佐藤】はい。
【河村】じゃあついに
結実したってことですね、そこでね。
【佐藤】そうですね。
【河村】結実してこれで
トランスジャパンは一回一区切り、
それともまだ情熱はさらにいくぞって感じになったんですか。
【佐藤】そうですね。
千葉さんすいません。
一時中断って大丈夫でしょうか。
【河村】そうしたらどうしよう。
【佐藤】また再開する?
【河村】また再開、どっかで次にもう一回
リスク消してここから話したほうがいいかもしれないですね。
【佐藤】じゃあこれ前編だね。
【河村】前編という形で。乾燥してから今の岩崎さんというのを
後半で聞きましょう。
【佐藤】一旦
上半戦の収録を終了していて
後半戦をまた再開するってことなんですけど。
【河村】全然まだ到達しないっていう。
乾燥まで到達しないっていうね。
意外とってわけでやっぱり色々あったよね。
そこまでに。
【佐藤】諦めないね。TJRのAの愛はもうやばい。
【河村】一番愛してる人なんじゃないかっていう
感じだけど
まあでも後半はいい感じで乾燥できたかっていうね。
確信点もあるんで。
ちょっと後半もぜひ皆さん聞いてもらいたいなってことで。
【佐藤】そうしましょう。
じゃあ今回はこれで終わりましょう。
01:25:13

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