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2024-08-16 59:03

TJARのこれまでとこれから 大会創始者 岩瀬幹生さん 実行委員 湯川朋彦さん

2002年にトランスジャパンアルプスレース(TJAR)を創られた岩瀬幹生さんに、大会が生まれた経緯やその後の成長についてお話を伺いました!

途中からは、現在の実行委員である湯川朋彦さんにも入っていただき、TJARのこれまでと、これからについて語って頂きました。

岩瀬幹生さんとともに

Summary

トランスジャパンアレプスレースの創始者である岩瀬幹生さんが、学生時代の冒険や登山経験について語ります。また、社会人になってからの挑戦やスピード登山への目覚めについても触れています。TJAR(Tokyo-Japan Adventure Race)は、岩瀬さんのアイデアから始まり、現在では確固たる大会として知られています。本エピソードでは、挑戦の過程や地元の関与の重要性が語られ、痛みを伴う成長の物語が展開されます。大会の創始者である岩瀬さんと実行委員の湯川朋彦さんが、これまでの大会の歴史や運営体制の変化、NHKの影響について話し合います。また、選考会の運営や選手の挑戦についても触れられ、大会がどのように成長してきたかが分かります。岩瀬さんと湯川さんが大会の歴史や今後の方針について語る中で、特に選手が自分のペースで挑む精神や大会運営の難しさについての見解が印象的です。また、岩瀬さんと湯川さんは、登山者の安全意識や装備の重要性について話し、山小屋との関係性の向上を示します。

学生時代の冒険
Speaker 1
IBUKI STATION
トランスジャパンアレプスレースの創始者であります岩瀬幹生さんに来ていただきました。
はい、ようこそお越しくださいました。急にお声掛けして来ていただいて、本当にありがとうございます。
IBUKI STATIONというポッドキャストをやっております。よろしくお願いします。
今日はゴール会場に来られているのは、毎年、毎年というか毎回。
毎回何か、この時期になると応援せざるを得ないというか、ワクワクしちゃって、どうしても来ちゃうんですけど。
ずっと大会はこうやって見守られている感じですかね。
大体そんな感じですかね、アクセントがない限り。
もう何回も聞かれているかもしれないですけども、改めてDJR、トランスジャパンを始められた時のことをちょっと伺えればと思うんですけれども。
最初って何で始まったんですか。他でも答えられてますよね。
学生時代にやっぱり、日本海から太平洋まで歩いてみたいという思いがあって、始めたんですよね。
学生の時だったんですか。
そうですけど、あの時は静岡から行って、南アルプスを越えて、車山公園ですかね。
巣箱に降りたんですけど、もうちょっと行きたいなという思いがあって、そこで終わっちゃったんですけど。
終わったんですか。
学生だったんで、ワンゲル部だったんですけどね。
ワンゲル部。その時はお一人ですか。
一人です。
ワンゲル部だったら山月の方は部内にもたくさんいらっしゃったと思いますけど、なぜお一人だったんでしょう。
一月以上かかったんですけど、大キスリングにザックを背負って、だから35から40キロぐらい背負って、一月ぐらい。
キスリングって言ったらお祈りみたいな、黄色い横に長い、うちの両親も大学のワンゲル部で、昔の写真見せてもらったらそういう。
なんか100リッターぐらい入るよね。
それにプラスアルファで。
あれに40キロ。
プラスいろいろ、小育てにキスリングと箱とか色々な食料を詰め込んで、一月ぐらい。
それは一月分の食料を入れたってことですか。
ほぼ入れましたね。
山小屋では補給はしなかったんで、昔の暗黙のループだよね。
その当時の食料って、多分今と全然違う食料だと思うんですけど、どういう食料?
昔はアルファ米が出たか出ないかぐらいのとこだったんで、多分お金もなかったから、普通のご飯を水でさらいで乾かして持ってったかな。
おかずもケチャップとニンジンを持ってくるんだけど、ニンジンが腐りかけてとか。
ニンジン生でもってったんですか。
生でもってた。
乾燥米がなかったかな。
もちろんフリーズドライとかもないですからね。
ないですよね。
それ何年の話ですか。
学校生で。
生歴で言うと何年。
何年になるんかな、ちょっと思い出せないですけど。
大学4年の時だったかな。
ということは22歳ぐらいですかね。
今はいくつですか。
今は69歳ですから。
ってことは47年前。
半世紀前ですね。
1970年代。
ちょうど生まれる頃だ。
そうなのかい。
じゃあその時にお一人で南アルプスから車山まで巡走されたんですか。
そのスタートは大浜海岸ですか。
じゃなくてあっちの旗泰居からいたんですけど。
じゃあそこから南アルプスに入られて、1ヶ月かけて巡走されて、
南アルプスでは来たらず一度降りて八津に行ったと。
そうですね。
海岸に乗って降りてつなげてたり。
北上されたっていうことですか。
北上したんですけど。
ワンゲル部の中でもそういうことやるのはちょっと変わった人って。
変わった人ですね。
社会人の挑戦
Speaker 1
誰も一緒に行こうとはならなかったんですか。
いや、ならなかったですね。
変な人がおらん。
多分大学だと夏合宿とかあると思うんですけど、
ご自身の夏合宿はこれだって言ってみんなが来てくれたりとかじゃなかったんですか。
それとは別で、クラブで合宿あったんだけど、
僕は4年になるとフリーになるんで、
自分で自分の夏休みを、というか夏合宿やったみたいな。
合宿じゃないですね。
一人一人一人旅だね。
どうでしたそれは。
なかなか大変だったんですけどね。
なるほど。
それが計画的には南アルフスだけだったんですか最初。
いや、やっぱり車山行ってスワスワ湖まであったんですけどね。
一旦車山まで入土されて、その後何が起きたんでしょう。
いや、まあ、そして卒業したって、
社会人になるとやっぱり夏休みしか取れないじゃないですか。
できても1週間だよね。
その中でもっと荷物を軽くしてスピードさないといけないなということで、
いろいろまたチャレンジをしまして、
あと例えば北アルフスを立山から上甲市まで1日やれて当たり前とか。
あとは南アルフスだと北岳からテカリまで1日でとか。
当時の道具でってことですよね。
当時ですね。
当時立山から上甲市まで1日で行かれてたんですか。
そうですね。
本当ですよね。
今の選手より早くないですか。
いや、わかんないですけど。
だって土井さんが初めて1日でっていう感じじゃないですか。
そんなことはないと思いますけどね。
そうなんですか。
じゃあどんどんご自身の工夫で軽量化されて、
北アルフス1日で抜けるような工夫をされていったという。
ちょっとその当時の装備で立山から上甲市まで1日。
あとその夜行ってる人があんまりいないかと思うんですけど。
確かに確かに。
タブーっていう感じ。
そうかもしれないですけど。
その頃はどうされてたんですか。
いや、そんなの無視して。
かなりの遺憾事でした。
もしかして。
そうかもしれない。
でもそうしないと行き着けないですよね。
もちろんそうですけど。
一応例えば国体に重装競技があったとか。
そういうのもやりましたけど。
そういうのも出られながら夜通し行くみたいな大会はなかったんですかね。
覇節寝とかありましたけどね。
あれは1日で終わっちゃうから。
途中でこう宿泊したりとかそういうのはなかったですけど。
そうか、じゃあ夜に山を走る競技自体は覇節寝とかでは行われてはいたけど。
そうですね。
アルプスをそんな夜に行くっていうのは。
そういうのはなかったかな。
かなり非常識で。
無謀登山者ですよね。
大丈夫でした?怒られなかったですか。
いや、そういうのも言ってくれない人も。
逆に。
特に何も言ってくれない。
そうだね。
早月越えで言われたこともあるね。
夜6時か暗くなるときにまた鋭木へ登ってくる。
バカがおるんじゃ。
そうなりますよね。
お若いですしね。
なんか若いやつが無謀なことやってるみたいになりますし。
そういうのに対しては。
いや、まあちょっと無視。
ちょっと無視。
ちょっと無視。だいぶ無視ですね。
まあ行けるし行けるんじゃん。
それはもう行けるっていう自信があった上で。
そうですね。地元の山から始めて順番に行こうね。
じゃあ山を走るトレーニングとかもされてたっていうことですか。
まあそうですね。
その頃は靴とかはどういう靴で。
普通の靴だった時もあるし、ちょっとアウトドア系の靴も。
靴も出始めでしたよね。
普通の山を走る靴じゃなくて。
トレイルランという言葉もない頃ですけど。
どっちかというとランニングシューズですか。
それとも登山靴のような。
ランニングシューズ系ですね。
ランニングシューズで。
でも今でもトレーニングの時はランニングシューズ軽いからいいですよね。
いいですよね。
そうですけど、その当時だと靴も重登山靴でみたいな。
スリング背負ってみたいな。
私はそういうイメージがあります。
日課ぼっかはいって。
まあまあそれはアンゲルの時代でしたけどね。
でも下島圭さんの本が出て、あれで刺激を受けまして、
あの人は八ヶ岳を8時間とか9時間で全裸重装していて、
あの人が使っていたのは普通の運動靴だったんですよね。
ボーとかやってみたら、できるじゃんみたいな。
じゃあ常識にとらわれずに。
軽快だよねって。
軽くしていったらどうなるかみたいなことを追求していたみたいな。
服はどんな格好ですか。
普通の靴で短パン。
Tシャツに短パンみたいな感じ。
そんな感じですかね。
先駆者ですね。
本当ですね。
ちなみに部内ではどういうふうに言われてたんですか。
本当にそういう活動を。
いやまあほっとかれたんですけどね。
ほっとかれた。
じゃあちょっと異端者ですか。
まあまあそうですけどね。
でも逆にやっぱりすごい人だってみなさん思われてたんですか。
いやそんなことないと思います。
なんか変な人やな。
でもお早いでしょ。少なくとも。
部内で一緒に山に行ったら。
ワンギルのときはもうまた別ですよ。ゆっくり。
スピードは出してないんです。
社会人になってからそのスピードを出して。
ワンギルのときはもう本当に片つむぎじゃないんですけど。
本当に思いにを背負って。
いっちらほっちら歩いて。
あれが嫌だったんですけどね。
社会人になるとそんなことやってると。
休みがなくなっちゃうんで。
休みの間に北アルプス全部行きたいから、軽くするしかなかったですね。
Speaker 2
なるほど。
Speaker 1
社会人になるとしょうがない。
まあそうですね。
だから今回もね、社会人の夏休み。
社会人の中で、できても8日とか9日が目一杯じゃないですか。
その中でこのレースが開催されるっていうのはまた追えているのかなと思うんですけど。
じゃあそうやってお一人で北アルプスを1日抜けたりとかされていて。
それをまた繋いで繋いでみたいな。
で、できるじゃんみたいな感じで。
そっか、1アルプスごとにやっていたのを、
じゃあ全部繋いでみようかって思い立ったってことですか。
そうですね。
それが何歳ぐらいの頃ですか。
30代後半ですかね。
結構経ってるんですか。
じゃあその社会人になられてからずっとそういう活動は続けられた。
学生時代はワンギルだったけど、社会人だったら三学会に入って、
ちょっと氷原へも行って、国体を始めてスピード登山っていうかそこら辺に目覚めて、
それからスピードを追求するみたいな感じになったんですかね。
国体でもご活躍とかされてたんですか。
一応選手もやったし、選手になれないんで監督もやらさせてもらったんですけど。
大会創始の経緯
Speaker 1
そうですか。
国体だとコースタイムの3分の1ぐらいで走りますんで、かなりむちゃくちゃ。
結構な装備でね。
いろいろちょっと変わってきておりますけどね、内容がね。
じゃあ全部繋げていったら面白いかもって思われたのが30代後半。
30代後半かなって思われて。
どうされたんですか。
何回か試走したんですけど。
試走。
もやしだずから入って、ここまでとか、ちょっと意見つけ方とか。
入ってなかったんですか。
ちょっと日数がかかりすぎですね。
で、あとはあれかな。
とまり、とまりっていうとこから浅日岳がありますよね。
白馬の北なんですけど。
そこからずっと北上していって。
あとは小高の、小高連邦を重装して降りてみたいなコース。
で、あと中は一緒だったんですけど、上南は一緒だったんですけど。
そういうコースも考えたんですけど、10日間ぐらいかかっちゃうんで。
大キレッとこうやって。
そうそう。
そんなコースもやったんですね。
やりましたよ。
一個一個やってるんですよ、しかも。
それも縦通ってキレッと越えてみたいな。
ちょっと日数オーバーしちゃうんで。
ちょっとキレッと多すぎですよね。
3つとも行く感じですもんね。
そうですね。
ちょっと危険ですしね。
天気が悪くって。
キレッととかがん状態を起こすのは危険かなと。夜にね。
で、今のコースに落ち着いた。
落ち着いた。
まあまあ安全かなみたいな。
だいたい何年ぐらい、今のコースになるまでだいたい何年ぐらい高層されてたんですか。
どうなんですかね。
いろいろ失敗して、3年から5年ぐらいなんかもがいてたかな。
大会の始まりと進化
Speaker 1
それを引きずり込んで。
引きずり込むというのはどういうことですか。
サポートをお願いして。
先回りしてちょっと食べ物とか補給。
そうですね。
じゃあそれを毎年。
ご自身で全部1回ずつやるっていうのがまた。
中央アルプスと南アルプスは以下略でいいんじゃないですか。
いやもう順番にやっていかないといけない。
できたらつながる。
そんな感じですかね。
投資での思想とかもされたんですか。
投資もしましたけど、
投資ができたのが今のコースの2年前とか4年前なんですけどね。
最初に2000年か1998かそこら辺で投資でできたんですけどね。
初めて投資に成功したってことですか。
そこまではうまくいかなかったんですか。
いろいろ曲があって、コースどうしようかとか。
そのチャレンジは誰かは知ってたんですか周りの方っていうのは。
なんか変なのがおかしなのがおるよみたいな。
それは例えば文章を書いてどっかに雑誌に出したりとか。
そういうのもちょっとやってたんですけどね。
山形とかに。
それでちゃんと記事になったりとかはしてたんですか。
記事も起こしてくれたこともあるんですけどね。
じゃあ一応すでにやろうとしてることが注目はされてる。
そうですかね。なかなか出してくれてなかったけどね。
寄稿するけど採用されないこともあった。
そうですね。
じゃあ毎回何かそういう文章に記録として残されて。
記録としては自分として残しておきたいんで。
今だったらブログに書いたりとか。
そういうのはある。
YouTubeにアップしたりとか。
そういう世界はなかったですよ。
すぐに出版社の編集部通らなくても自分で出せちゃう。
昔は半年とかその後とか1年後ぐらいに出てったらええとか言って。
でも山形とか載ってその反響はどうだったんですか。
あんまり変なのかなと思う。
ハセツネで呼びかけてはみたんだけど。
それは一緒に行きませんかと思うんですか。
いじまくんとかまっせたんとかが来てくれるようになったかな。
第2回とか第3回。
ゆかさん第4回目ぐらいだっけ。
変なことやってるわ。
プライついてくれるいただける方が出てきたかな。
ちょっと待ってください。
1回目はお一人ってことですか。
感想は私一人なんですけど。
7人で行ったんですよね。
みんなもうなかなか途中で。
ちょっと待ってください。
思想にまず成功したのが1回目で、その後第1回であるってことですか。
思想は何回もやってる。
コースが確定したのが、コースが確定して2002年が1回目なんです。
2002年が第1回と。
そんな感じですね。
7人の方が出場されて、お一人しか感想しなかったという。
その7人はどういうふうに集まったんですか。
やっぱり呼びかけて来てくれたんかな。
山のお友達とか。
それを見て面白そうと思えるモサたちが集まったっていう感じなのかなと思います。
そこで行く人たちも面白かった。
そうですよね。
だってその時は今のコースで415キロ8日間で行くよっていうコンセプトで募集したわけですよね。
もうそこから一緒なんですね。
一緒ですね。
名前も同じですか。
名前も一緒ですね。
じゃあそれはご自身で考えられたんですか。
いや、僕が考えたかな。
このロゴはイジモサさんが考えてくれた。
そうですか。
じゃあその頃からウォーズからこの大浜海岸というコースができて、
7人の方が出た最初の回っていうのは、周りには人はいたんですか。
いやだから全然いなくて、CPなんてないかな。
北アラプスのスタートも7人で行こうかって誰もおらんし。
スタート見送ってくれる人もいなかったんですか。
ほとんどいなかったかな。
ご家族がうちらほらぐらいかな。
じゃあ身内でサポートしてくれる人が見守る中でスタートして、チェックポイントもなくて。
チェックポイントもほとんどなくて。
紙コーチ着いたらホームの竹内さん、田中雅人さんの奥さんに紙コーチですって電話して。
大丈夫ですとか。
自分で電話するんですか。
自分で電話して。
自己申告。
自己申告で。
じゃあ行くよって。
でも一応大会本部みたいなものがあったんですね。
一応ありましたけどね。
あと中央を越えて一ノ瀬か。
一ノ瀬ではうちのお母ちゃんがみんなからデポを集めとってグバッと。
うちのお母ちゃん動員したんですか。
家族相当で。
両同して何させんねんみたいになりました。
そういうのもありますね。
7人ぐらいですんで、いつ来るかわかんないし。
そうですよね、その頃はGPSもないから。
そうですよね、ただ待つしかない。
待つしかないって。
1日2日、全然先職員ここで大丈夫みたいな。
その時お一人しか完走しなかった理由は。
やっぱなんかちょっとハードすぎたか、わけわからんですけど。
そりゃそうですよね、今だってハードなのに。
そうですね。
やれるっていう概念がなかったかもしれないですね。
全然いらないからね。
やったこと何回もされてたからだけど、他の方たぶんやれるって思えてなかったかもしれないですね。
かもしれないですけどね。
ある程度いけるかっていうイメージがつかないと。
そうですよね。
僕は何回も試走してるから、なんかいけるかなっていう感じがあったんで、行っちゃったんですけど。
他の方はね。
僕もちょっと途中で嫌になって、もう2時ぐらいでオフしちゃったとか。
もう嫌になって、その時もそうだったんですけど。
嫌になりますよね、暑いし。
もうなんでこんなことをやってんだ。
それでもそんな寝ずに帰ったんですか?
いや、だから途中でもう、僕らもう寝ないとダメだから、本当に睡眠はしっかりとって。
もう記録がなくなったらもう2時ぐらいでオフして、
今日は休みだって、寝ちゃってみたいな。
それで何日ぐらいで疲れたんですか?
だからその時は7日間と5時間ぐらいで。
ちゃんと制限時間内にね。
まあまあ。
辿り着かれているっていう。
それがじゃあ2002年。
2002年ですかね、第1回目ですかね。
で、そこからこんな大きな大会になっていった。
どういう。
そこから、どこまでかな。
飯島先生君が委員長になったのいつだったっけ、2008年だっけ。
Speaker 2
飯島さんとトナカさんと2人体制でやったのが2012ですかね。
Speaker 1
10年後。
Speaker 2
で、14から自分なんか入っているので。
Speaker 1
今、ゆかわさんが入ってくださいました。
Speaker 2
自分が最初に言ってた2008年なんかまだミラージュランドの駐車場に集まってた。
Speaker 1
駐車場の地下道みたいな変なとこだったっけ。
Speaker 2
駐車場の地下道じゃなくて上ですね。
本当に駐車場のとこに集まって、みんなでじゃあブリーフィングするぞって岩瀬さんが声かけて、
みんなちゃんと装備持っとるかって言って、持ってますみたいな。
Speaker 1
これで終わり?
Speaker 2
そんな感じで。
Speaker 1
持っとるかって終わりですか。
ご責任だな。
Speaker 2
で、みんなでゾロゾロ海外行って、じゃあ行こうかっていうそういうぼっか的なスタート。
2010も、12もそこ、12までそこ。
Speaker 1
12までそうだったっけ。
Speaker 2
そうですね。
12で番組NHKスペシャルになって、それを見たウォーズの関係者が、
地元でこの大会やってるの知らんかったからちゃんと盛り上げようっていうんで、
Speaker 1
開会式やったりとか選手控室作ってくれたりとかっていう今の形になったんですね。
そこら辺は飯島さんのすごい努力かなと。
大会の成長と未来
Speaker 1
すごいですね。
富山と静岡つないで、各山小屋も回ってお願いして。
あそこら辺から制度が変わったんですかね。
Speaker 2
そうですね。
みんなで実行委員の数も増えて、みんなで分担して、
長野あたりはもうがっちり飯島さんがやって、
で、ウォーズは畑中さんが富山なんで、
自分は東京ですけど、静岡の市役所とか県庁とか行って、
みんなで分担して、いろんなところ回って、
で、巨人化なんかも取るようにしてっていう。
Speaker 1
そういうのは大変でしたよね、多分。
岩井さんが実行委員長みたいな形はいつまでされてたんですか。
あれ、俺卒業っていうか、2010か2012だったっけ。
Speaker 2
12の時はもう飯島さん中心にやってた、
飯島田中体制でやり始めたんですね、確か。
Speaker 1
俺か、俺が12の時に山で当省に会っちゃって、
指ないよねって。
だから15本くらい指がないんで。
もう卒業して、飯島さんにお任せするということで。
じゃあ10年くらいはやられてたんですね。
そうなるのかな。
うちうちの大会だったよね。
一緒に出てましたもん。
実行委員長が一緒に出てたってことです。ずっと?
Speaker 2
実行委員自体がなかったよね、その時は。
だから岩瀬さんだけが実行委員みたいなもので、
岩瀬さんの元に選考会を通った人が集って出るみたいな。
大会の歴史と運営
Speaker 1
うちは合宿みたいな形でやってたから。
じゃあ運営体制というのはなくて、ご自身も走られながら準備して。
選手イコール実行委員みたいな。
ずっと出られてたんですか。
だからそこまではね、指がなくなるまでは出てたんですけど。
でも選考会は始まってたんですね。
一応やっとったよね。
Speaker 2
選考会は毎年、選考会Aっていうのを中央アルプスでやって、
選考会Bっていうのを北アルプスで。
2回も?
Speaker 1
AとB。
Speaker 2
それは何か、AとB違いがあるんですか?
年に2回だから、各年もやってたんで。
Speaker 1
実は選考会が昔はチャンス4回あった。
今は1回しかないけど。
Speaker 2
ただ基本ワンデーなんですね。
Speaker 1
橋、総力だけだったよね。
装備とかそういうのはなかったから。
中央だとね、スラの台からぐるっと。
Speaker 2
駒金を出て、黒川林道っていうところであんまり使われてないルートを登ってって、
基礎駒からずっと宇都木まで行って、ぐるっと戻ってくるっていうのを何時間以内に。
Speaker 1
半日ぐらいではみんな行ってたよね。
Speaker 2
選考会Bが立山というか、
Speaker 1
大山か。
Speaker 2
大山をスタートして、24時間以内に上甲地。
Speaker 1
え?
早くないですか?
大山から上甲地まで24時間。
Speaker 2
24時間。
Speaker 1
早っ。
Speaker 2
でも早い選手は上甲地から出る最終バスに間に合いましたっていう人もいたから。
Speaker 1
4時か5時っていうこと?
Speaker 2
そう、夕方の。
Speaker 1
陽気だね、陽気くんとか。
Speaker 2
みどりちゃんは間に合ってたんじゃないかな。
Speaker 1
間に合ってるな。
瀬さんはスターまでかな。
そこら辺は間に合ってたかもしれない。
すごい。
でも選考会しなきゃいけないぐらい、参加希望者がどんどん増えていったってことですか?
いや、その当時はそんなでもなかったですね。
いなかったね。
いなかったね。
全然。
ちなみに横浜さんはなぜ出たいと思われたんですか?
Speaker 2
2006年の報告会っていうのが原宿のノースのスペースであって、
で、報告会の参加者も30人ぐらいでちっちゃいんですけどね。
で、当時2006年大会の選手も6人ぐらいですかね。
みんなほとんど来てくれたんかな。
で、完走者2人。高橋かおるさんが完走した時。
高橋かおるさんと瀬さんが完走した時だと思うんですけど。
Speaker 1
この2人だけしか完走しなかった。
Speaker 2
完走しなかったんですよね。
だけど、残りの4人は完走してないんだけど、
もうこのレースがいかに楽しいレースかっていうことを、
みんな目をキラキラさせて語るわけですよ。
で、高橋かおるさんとかってもう、
アルプスの全図ってあるじゃないですか、地図。
あれをこうルートの部分だけピューって切り抜いてこんなの持ってて、
くるくるくるくるくるって巻いて、
軽量化ですとか。
Speaker 1
エスケープできないじゃん。
Speaker 2
エスケープできないじゃん。
みんなそれぞれに面白い工夫をみんなして、
こんなトレーニングしたとか、こんなことで軽量化したっていうのを、
まだ今みたいにギアがそこまで進んでない中で、
すごいみんな工夫してやっていて、
Speaker 1
なんかすっげー楽しそうだな、これはっていう。
もともと岩田さんも山はされてたってことですね。
Speaker 2
そうですね。
Speaker 1
それで引かれて目指した。
なるほど。
でもその当時の装備とかあれをオープンにして、
ずっと報告書ができてるのもすごいですね。
そうか、じゃあ早々期、
岩田さんの運営しながら自分も走るっていう早々期と、
もう今の飯島さん、田中さん体制っていうのは、
その2台しかないってことですね、ここまで。
変わったよね、そこで。
Speaker 2
実行委員自体はちょっとずつ増えてますし、
ほっとくと高齢化しちゃうんで、
若者を入れていかないと、
持続的な大会にならないので。
だけどなかなかみんな若い人は走りたい。
Speaker 1
走りたいよね。
一番面白いと思うし、一番楽しんでるのは選手だよ。
Speaker 2
今回も実行委員の原君も見事に落ちましたけど、
見事に抽選で落ちましたけど出たいと思ってる一人なんで。
Speaker 1
なんか抽選で落ちちゃうのはちょっと心苦しいような気持ちですね。
Speaker 2
そうですね。
Speaker 1
出たい人が出てほしいから。
今回は選考会でも抽選せざるを得なかったっていう。
最初は特に人数制限とかもなく。
人数がそれだけはつまらんじゃん。
出たい人。
出たい人で一応選考会クリアできればどうぞっていうことで始めたんだけど、
やっぱり問題があって、
走るのは早いんだけど、ツイレットが貼れない人がおるとか。
生活が、飯がしっかり食える。
食事が作れない人がおるとかいう人が出てきちゃったというのが問題だったんで、
Speaker 2
今結構いろんな細々とした項目まで選考会で審査するようになったんだよね。
昔は本当に岩瀬さんの知り合いとか知り合いの知り合いぐらいのところの人が出てたんで、
大体実力も経験値もわかる人が集まっていたし、
選考会ってやっていたときも知り合いの知り合いぐらいが選考会に来るぐらいのマイナーな大会だったんで、
NHKの影響
Speaker 2
大体みんなそこそこ実力がわかってる人たちで大会出てたんですけど、
だんだん知らない人がたくさん参加するようになってくると、
あの人本当に大丈夫なのかなっていうことが不安になり、
そうするといろんなチェックをせざるを得なくなってきたっていうので、今に至るですね。
Speaker 1
地図が読めない人とか、本当にツイレットとかが全然立たれない人がおるとか。
これは問題だろうね。
命に関わりますもんね、それは。
変なところで誘惑しちゃったりとか、そういうとこ、本当に命に関わるようなところがなおざりになって、
走るだけが早い人が集まってきたっていうのはちょっと危惧されたんで、
そういうのを補正するために、細かい項目で先行会をやるようになったんですよね。
飯島さんが実行委員長になられて、岩瀬さんはその実行委員に残ろうみたいな。
僕はもういいかな、指になくなっちゃったし、ずっと数年動けんかなということで、
飯島さんお願いしますということで、体制を。
そっから主催者で選手というか、一緒の展開になるかなと思いますね。
Speaker 2
今って何の肩書もないんですか、創始者とか。
Speaker 1
今、顧問です。
なんちゃって役員じゃないですか。
今日もフリーで山へ行ってきて、ちょっと寄ってこようかなと。
Speaker 1
応援応援、みたいな形で。
あれですよね、飯島さんは迷った時には、岩瀬さんに相談するっていうことを伺ったことがあって。
そうなんですか、僕なんてもうどこのクソだよ。
いやいやいや、それやっぱりね。
もう過去の事ですよ。今の今の人が今のスタイルでやってもらえれば全然大丈夫です。
2012年のNHKでまたちょっと大会のフェーズが変わっていったと思うんですけど、その後の変化ってどういうふうに見られてますか。
どうですか、ゆかさんそこら辺はNHKが入って。
Speaker 2
2012年でまさかNHKスペシャルになるとは思ってなかったんですけど、最初は東海のローカルの企画だったのが、
トントン拍子に企画が進んでNHKスペシャルになって、全国的にやっぱり反響があったし、
そのおかげで魚津のスタート地点で駐車場をこっそり使わなくても正々堂々と使えるようになりましたし、
大浜海岸もかつては大浜海道から入った右手の松林の中にこっそり、
Speaker 1
ブルーシートをひいて、みんなまとって。
Speaker 2
やって、時々警備員さんに注意される。
Speaker 1
許可とかあんまり取らずに最初。
でもみんなで合宿みたいな感じなら許可とか取らないですか。
楽しい合宿でしたけど、何も考えないで。
Speaker 2
ただ番組になった以上、その次にやるときには、
いろんなことをちゃんと許認可も含めて取っていかなきゃいけないというのは覚悟したし、
そういった手間はかかるんですけど、
その分たくさん全国の人にこういうチャレンジを知ってもらえたっていうのはものすごく大きくて、
ファンが増えたし、参加したいっていう人もやっぱり格段に増えましたし。
Speaker 1
NHKの影響すごいですね。
そこで憧れを持って挑戦する方もどんどん増えていったと思いますけど、
そこは調整は大変だけど、正しい進化というかと思って見守られていたって感じなんですかね。
そんな感じですね。
Speaker 2
ただ今回、久々にNHKの番組というか取材も入ってないですし、
一部ローカル局入ってますけど、
大会の進化と挑戦
Speaker 2
とにかく選手に並走するいわゆるランニングカメラマンをとにかくやめてくれっていうのはずっとNHKには申し入れてたんだけれども、
サポートになるじゃんね。
Speaker 1
選手についてずっと喰らいついてるだけで、選手としては安心感があるし、何かあった時には助けてくれるかなっていう。
それは本来のあるじゃないんで、やっぱり自分の身は自分で守るというか、
そこら辺も判断も含めて、行動も含めて、自分で判断していく選手であってほしいなと。
Speaker 2
今回NHKは、そもそもNHKから声かからなかったし、仮に声かかっても今回はお断りしようと思っていた。
Speaker 1
実行委員としてもそうだったんですか。
Speaker 2
そうですし、今回地方局で取材入ってますけれども、一切並走はしてくれるなということで、
並走厳禁というので定点取材だけにしてもらった。
Speaker 1
それを本来に戻ったみたいな。
Speaker 2
そのことで、今年の選手に影響があるようなところって見受けられたりしますか。
今年は放送ないんですかってファンの人に聞かれることはあるんですけど、
ファンの人で確かにまた番組になるの楽しみにしてたんですって言ってくださる方はいるんですけど、
選手はそれほど何か影響を受けたりはしてないんじゃないかなと思いますけどね。
Speaker 1
どうでしょうね。楽しみにしてる人もいるような気もします。
本人もそうなんだけど、メディアに出たい人はそうなんだろうけど、やっぱり本来はそうではないよね、この大会の。
それはやっぱり一人の、自分の力で挑戦するっていうのが本来のっていう。
そうですね、チャレンジというか自分のチャレンジ。
とはいえ大会もすごく有名になって、
登山道のあちこちに応援の方というか、普通の登山の方も知ってる人も多いですし、
本当にあちこちで応援されると思うんですけど。
そういうのは。
GPSトラッキングができるようになって、誰でも見られるようになったっていうのはすごいですよね。
僕らの時代だとね、どこに選手がおるかわからんし、
横浜さんと一緒に走ってても、那央ちゃんだったっけ、ニョンニョン入ったら、3日横からおらんかったよね。
どこにおるんじゃわからん、とか言って。
今はそういうことはないんで、ちょっとひと安心ではあるんですけどね。
で、至る所にCPが今年も増す、去年からか。
Speaker 2
CP自体の数はそんなに変わってはいないんですけどね。
大会運営の変化
Speaker 2
ただ、友人のCPが今年はちょっと増えて、スイッパー無くして友人のCP増やした。
Speaker 1
そうなんですか。びっくりした。チャウスでもCPおるし、ヒリダイラーでもCPおるし、こんなとこあるじゃん、みたいな。
なるほど。今まで無人で今年から友人のチェックポイントを増やした。
Speaker 2
百犬原とか、ヒチリダイラ小屋とか、高山浦避難小屋とかが友人になってますね。
その代わりスイッパーを置かなかったんですね。
スイッパーもさっきの取材のランニングカメラマンじゃないですけど、
スイッパーの問題っていうのもやっぱり以前から実行委員会の中では懸案事項というか、
スイッパーがいることによる安心感っていうのは大会の主催者としてはあるんですけど、
Speaker 1
それは逆に言うと、最高尾付近にいる選手にとって見ても安心感になってしまうっていう、
Speaker 2
その両立をさせるのはなかなか難しいし、最高尾になればなるほどリタイアする可能性が高いですし、
過去の例でも、ちょっと停滞温床になってもうこれはっていうんで、
実行委員会の方からリタイア宣言をした人もいるっていうような状況の中で、
スイッパーがつくことの是非っていうのは結構いろいろ議論をした。
結果今回は南に関してはスイッパーではなくて、
友人のポイントを増やして、何かあった時に軌道的に動けるようにした方がいいんじゃないか。
メディアと大会の関係
Speaker 1
それらのスタッフがおるんだね。
じゃあ北とかは今までと同じ友人のチェックポイントの数。
Speaker 2
そうですね。北もスイッパーではなくてマーシャルっていう形にして、
必ずしも最高尾につかんでもいいよと。
真ん中から後ろあたりを適当に合前後して動いてくれればいいよっていう形にはしました。
今までスイッパーだと最高尾の人の50メートル後ろぐらいに
結構ピタッと張り付いてた事態もあったりしたんで、
それはそれであんまり良くないよねって。
Speaker 1
本当にそれだけで安心感があるよね。
Speaker 2
スイッパーもすっごい疲れちゃうんですよね。
Speaker 1
俺は疲れるよね。
自分で走った方が楽だよね。
その選手のペースでずっといかにかからね。
なるほど。
じゃあTシャツに書いてあるラン・ユア・オン・レースっていうのは
そういう自分の挑戦をしてるっていうことなんですかね。
あれはどういう表現なんですか。どなたが。
Speaker 2
あれは応援Tシャツは毎回飯島さんが自分でデザインするので。
飯島さんデザインなんですか。
Speaker 1
ロゴからあれだね。
そうなんですね。
でもそういう精神が引き継がれてるんですかね。
いいですね。
始められた時はこんなに大事になると思われてましたか。
全然思ってなくて。
もっともう、得体の後ろののが集まって
懐かしくだみたいな。
内輪の懐かしくだから始まってるから。
すごいですね。
テレビに出ちゃって全国放映されてっていうのは
ちょっと想像もつかなかったですけどね。
なんかテレビを入れるときに
岩瀬さんはテレビを入れるのが反対で
反対です。
飯島さんは個人的には入れない方がいいかもしれないけど
大会を知ってもらうっていう意味で入れた方がいいっていう風に
意見が分かれたっていう風なのを聞いたことがありまして
Speaker 2
入れない方が良いっていうのは
Speaker 1
やっぱりサポートになっちゃう。
さっきのお話じゃないですけど
選手自身個人の力じゃなくなっちゃうからね。
それはちょっとフェアじゃないかなと。
いうことで。
テレビが最初に入った時っていうのは
並走はダメだよっていうのは
お願いはしてたけどっていう感じになった。
Speaker 2
ですけど結局
今回もローカル局の人とも随分やりとりしたんですけど
このレースのダイナミックさとか
を出すにはやっぱり確かに絵的には
動いてる絵が欲しいんですよ。
Speaker 1
ドラマがないといかないよね。
何かあった時にシュッて捨てるというと
やっぱり張り付きになっちゃうのかな。
そんな感じだと思いますね。
Speaker 2
NHKでしかもNHKスペシャルになったもんだから
もうヘリは飛ばせるし
カメラマンもガンガン大量投入して
ものすごい体勢で最初
Speaker 1
選手より優秀なカメラマンがいっぱいおったな。
Speaker 2
元選手ですからね。
Speaker 1
みんなそうだもんね。
一方で映像で実際の山の中の様子が見えることで
大会の様子が分かったりとか
それを見て山に憧れたりとか
大会に憧れ方が増えていったっていうのも事実だとは思うんですけど
それは本当に嬉しいですけどね。
それはやっぱり嬉しいっていうのはあるんですね。
Speaker 2
今回もしNHKからオファーがあっても断ろうって言ってたのは
もうみんなに知ってもらうっていう役割は一定程度果たしたよねと。
あとはもう一回元の姿に戻ろうみたいな。
ところでNHKからあっても断りさせたろうし
選手の変化と挑戦
Speaker 2
地方局からの話もとにかく
Speaker 1
映像だけはやめてくれっていう。
ちなみにこれだけ有名になると
逆にもっとスポンサーをつけてとか
商業的に予算を増やして
それどうすればいいかわからないですけど
お金がもっと動くようなものにしていくっていうのは
Speaker 2
あるかもしれないですけど。
商業的にするのは無理だと思っていて
なぜなら30人っていうやっぱり
今人数的な制限がありますし
今はいろいろ山小屋との話し合いなんかの中で
30人っていう人数になって
40ぐらいいいんじゃないのとか
50ぐらいいいんじゃないのって話はあるんですけど
これもう30でも結構運営側としてもいっぱいいっぱい
Speaker 1
2、3地以降は選手の間が空いちゃうからね
最後の方は訳のわからない選手がボロボロになってくるし
それをサポートするだけというか
ちょっと見守っていくだけでも大変かなと思いますね。
Speaker 2
だから選手の規模が大きくならない
Speaker 1
大会エリアが広すぎるので
確かに選手の数は潜在的にそんなに多くないですよね
スポーツのイベントとしては成立しないと思っていますね
Speaker 2
商業的な意味では
Speaker 1
公営権とかどうですか
Speaker 2
公営権ってなるとさっきの選手をずっと取るみたいな
そういう話になってくるので
Speaker 1
それはしてほしくないなっていう
すみません、別にそうしてほしいというわけではないですけど
いろんなアレがありますもんね
経営者的な人からね
しかもゆかさんとかおかしそうなんで
Speaker 2
まあまあ、こんな感じで可愛くやってる
Speaker 1
これぐらいがいいのかな
僕らも楽しめるし
選手も気負いなく
本当に夏休み楽しんでねみたいな感じで参加して
あとどんどん選手の年代というか層は変わっていて
今回も初出場の方も結構いらっしゃいますし
変わりますよね
元々岩瀬さんの知り合いの知り合いみたいな
そこから考えると
高齢化だよ
だいぶ世代も変わってきているのではないかと思うのですが
最近の選手をご覧になられて
何か感じられることとかありますか
スピード力とかすごいなというか
ベースとなる力はすごいなと思います
走る力
ただ山の経験がなかなか蓄積がされていないので
そこらへんのとこをしっかりきっちり
経験をしっかり積んで出てほしいかなと
何かあった時に対応できる対応力とか
欲しいかなと思うんです
どんどん山に入っていかないとそれ分からないので
そこはちょっと不安も感じるということなんですかね
どういうことをやればいいですか
やっぱり山に何回も入って
いろんな経験をするのが一番いいんじゃないですかね
とにかく山に行って
こういう天気だとやっぱり雷が打ったりとか
空を見てちょっとやばそうだなとか
すごい感じることも必要ですね
だったらどうしようこうしようということを考えて組み立てて
今日はここまでだったんだけど
もうちょっと頑張っていこうかとか
ここでステージしようとか
いろんな作戦を考えながら行けますよね
ただ単にガーッと行くんじゃなくて
周りの状況を見ながら
一番安全な行動力
反乱して組み立てて
行動できる力も欲しいのかなと思うんですけど
最近は5日を切るっていうタイムが出始めていて
今年も31歳の竹村さんも
土居さんと同じようなペースで
途中まで進むっていうような展開で
また若い5日切りの選手が出てくるという状況になってきてますけど
この4日台っていうのはイメージは
想像がつかないですけどね
それは岩井さんが感覚的には
僕らの時代だと寝ないで走るというのは論外だと思ったんですよ
やっぱりそういうのもやってみたんだけど
僕にはできない
結構寝られてたんですか
何時間くらい?
3時間とか5時間1日寝てましたよ
そうでないともう頭が回らないし
やばいというかどっかコロンと
転がっちゃうみたいなところがあったんで
僕は寝ないとダメだったんですけど
今の選手は寝ないでも行けれる力が
人によるとは思うんですけどね
そういうのもすごいですね
Speaker 2
7日間できっちり完走する基本計画っていうのが昔あって
そんなのがあったんですか?
岩井さんが作られたんですけど
1泊目がスゴなんですよね
だけど今でも自分も最初スゴで泊まりましたし
スゴで泊まる選手も今でも多いですけど
結構あそこ天場が狭かったり
Speaker 1
狭いよねあんまり快適じゃないね
Speaker 2
もう薬師越す人が最近は結構増えてますし
上位陣はだいたい越しちゃうし
さらにもっと上位陣は越してさらにそこで止まらないまま行っちゃうっていう
だからそこはどんどんスピード化してますよね
びっくりするぐらい
Speaker 1
そういうのはご覧になられて
どういうのがスゴイ素晴らしいなと思う
それが素晴らしいとおっしゃるのが岩井さんらしいなって
いやいや本当にスゴイな今の人は
最初に早月を行かれた時に
今夜にツルヒ登るのは非常識だって言われて
無視して行かれたって話でしたけど
逆に年齢的にはどっちかというと若い方が今増えてきていると思うんですよ
気づけば立場が逆っていうわけじゃないですけど
岩井さんをついで次の世代の方が運営をされ
そしてさらに若い方が走られるっていう風になってますけど
なんかそういう年齢的には逆になって思われることになります
それ新陳代謝でそういう風にしかないと続いていかないじゃないですか
それはしっかりだと思いますよ
そういう風に世代が変わっていっても
やっぱりこの大会のここは大事にしてほしいみたいなのっていうのはありますか
やっぱり基本的なベースになる
自分の身は自分で守るというか
登山者の安全と装備の重要性
Speaker 1
そういうところが大事にしてほしい
そう思います
ちなみに今いろいろ情勢でたぶん
飯島さんとかがお苦労されてると思うんですけど
山小屋のいろいろなところでお話を
そういうところで今でもたぶん夜山を行くのは
よくないって思われてる
そういう考えの方もいらっしゃるとか
そういう方もいらっしゃると思うんですよ
そういうことに対しては
どういうスタンスで向き合うのか
ドランスジャパンで映像化したんで
そういうのは少しずつ崩れているのかな
どうだというか山小屋の人にもよるんだろうけど
Speaker 2
好意的な山小屋が増えてるのは事実ですよね
未だに危険的な意見を持たれるところももちろん
あるにはあるんですけど
肯定的な方たちが増えてきてるのは事実なんですけど
一方でドランスジャパンを目指す人が
割とまだ経験が浅い中で
非常な軽装備で山に突っ込んでいって
親父さんに叱られるみたいな
そういうのがあると
逆にドランスジャパンの信用を
落としてしまったりすることにもなるので
山に入るトレーニングがとても大切なんですけど
身の丈にあったというか
自分の実力と向き合いながら
徐々にレベルを上げていくように
してもらえればなと思うんですけどね
そうすることによって
ちゃんとした選手が出てる大会だなって
山小屋の関係者にも認識されると
Speaker 1
選手的な人も増えてもっと増えるだろうな
昨日も日尻行ってきたんですけど
短パンでTシャツで風がビュンビュン吹いてて
カッパも着ないで
装備も本当に3リッターぐらいのザックな
3リッター5リッターぐらいのザックで
何持っとるんじゃみたいな人が
ヒョヒョヒョと来て
早いんだよね
なかなか早くて素晴らしいなと思うんやけど
何かあったときに
それはまずいよね
基本的に一晩ぐらいビバークして
何かあってもビバークして
一晩ぐらいは過ごせるような装備を
常に持っていかないと
やばいなっていうのが僕の考えなんですけど
山は巻き込みになるというか
山小屋の方がおっしゃるのも一理あるし
僕ら登山者というか
登山の人も山は巻き込みになるというのは
すごく大事ですね
分かりました
すごいいい話が
近藤さんすごい楽しそうでした
めちゃくちゃ楽しそうに
いい話してるかと思って
聞いてました私は
すごいいい話を聞かせていただいて
ありがとうございます
トランスジャパンの未来
Speaker 1
今後トランスジャパンを目指される方に
何かありますか
何回も言うけど
自分の身は自分で守る
なるほど
何かあっても自分で
対応できるような装備と気持ちを
持って動いている
分かりました
トランスジャパンをつくられた
岩地さんにお話伺いました
どうも長い時間
岩川さんも
途中から
飛び入りで
ありがとうございました
ありがとうございました
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