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2024-02-25 29:52

「愛と奉仕の恵みを注いでください」2024年2月25日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年2月25日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com
▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch/
 (聖書)ルカ16:8-11主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9. そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10.ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11. だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。

メッセージ題「愛と奉仕の恵みを注いでください」

*先週の説教を覚えていますか?神様の訓練として与えられる苦難。訓練の為には、身の回り
に起こることらに対して、偶然はない。誠実に反応すること。を学びました。そして子供たちを通して与えられることにも受け止めようと…しかし子供ではなく伝道師さんを通して。ある牧師の引退式に行かれたのですが、牧師先生と奥さんを通して?恵まれた方たちの証を伝えて下さるが
1.比較される働きの違い?なぜ私はその方たちのような働きができなかったのか!後悔と反省の時間を…
*できなかった理由? 1)元々私の内省的で消極的な性格の故に! 2)初めに信仰に入るとき受けた苦しみの故に。なかなか人たちの集まりに入れない、教会の方たちだけの交わりを。 3)日本で献身して神学校で、宗教多元論的な話を聞いて?自分の信仰が駄目にならないように気を付けることで・・・偏狭な心がもっと偏狭に! それでも、そんなことには気にしないで開いた心でそのような人たちと親しく過ごす神学生たちに対しては羨ましい反面、判断する心もありました。
2.ところが、イエス様は?私たちが気を付けていることを・・・分かっておられないのか!
*ヨハネ13:34互いに愛し合いなさい?それを新しい戒めと言いながら?相手は誰であれ関係ないのか? ここで、なぜ第2の戒めだけを言われるのか!神様が一番願われる互いの愛を実現することが第1の戒めの実践になるから!また弟子たちを遣わされながら、マタイ10:16羊を狼の群れの中に送り込む?ここで狼とは、私たちが担うのに難しい、また違う考え方を持っている人も?
#そして仕えることと関連して、具体的な御言葉を!ルカ16:8-11で…不正にまみれた富とは?
元々富とは人の心を不正にさせる傾向があるから。富は人を高慢に、神様よりもっと委ねさせ、罪の誘惑がより強く受ける可能性が。それは富がなくても同じ!人がけちになる、富に対する執着がもっと強くなり結局、金銭の欲があるなら信仰が駄目になり、難しい人生になる。Ⅰテモテ6:10
#では、ひょっとしたら私たちを不正に導くこともできる富をどう使うべきなか?ルカ16:9友達を作りなさい。なぜでしょう?富がなくなるとき、私たちを永遠の住まいに向かい入れてくれるから。
3.ところが私たちが作るべき友達は誰?また私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれる人は誰ですか?
*イエス様です!ところが、イエス様は今、昇天されこの世にはおられないのに!どのように?イエス様は目には見えないがこの世におられます。どこでしょう?教会です!1)教会はイエス様が頭であり、信徒たちがその体を構成しておられるから!教会と信徒たちの為に富を使うことはイエス様に仕えることであると…使徒22:7サウル、なぜ私を迫害するのか?従って教会と信徒たちに仕えるなら永遠な住まいに迎え入れると。 2)マタイ25章で25:31-40節に、イエス様が私の兄弟であるこの最も小さい者に仕えることで ここにはいろいろな誤解の余地が…私たちがイエス様に仕えるように、教会と信徒たちの為、イエス様が私の兄弟と言われる最も小さな者に仕えるなら、神様が喜ばれるでしょう。@引退された牧師ご夫婦は素晴らしかった。私たちも心開いて仕えましょう

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今日は、「愛と奉仕の恵みを注いでください」という対応を持ってメッセージを分かち合いたいと思います。
皆さん、先週のメッセージを覚えておられますか? 神様は訓練のために私たちに苦難を与える場合があるということです。
神様が私たちを訓練されるために苦難を与えられる時もあります。
その時、神様の訓練をうまくいただくためには、大事なことは、私たちの身の回りで行われる小さなことに対しても
偶然はないと思って、神様が与えてくださることだと思って、
そして神様が私たちにくださるこの御声をよく聞いて、誠実に反応することだと申しました。
ですから私は、神様が教会学の子どもたちを通して私に語ってくださることも
私は従順したい、従っていきたいとしっかり思っているところでありますけど、
先週、神様は子ども学校の子どもたちを通してではなく、伝道師さんを通して私に御声を聞かせてくださるような気がしました。
どんな話なのか、先週伝道師さんはある僕先生の引退式に行っていらっしゃいました。
引退式の礼拝は非常に恵まれたと伝えてくれました。
引退式の中で大勢の若者たちが僕先生を通して恵みをいただいて、
そして信仰生活を上手くできるようになりましたという感謝の証をされたと言います。
またある僕先生はホームレスの働きをされているんですけど、
僕先生の奥さんがいつものり巻きのご飯を作ってくださったと言います。
そののり巻きのご飯の力でホームレスの方たちの中で福音をいただいて救われた人たちも大勢いたと言います。
それで僕先生と奥様お疲れ様でしたという感謝の証をされたと言います。
そのことがあふれて引退式の礼拝が非常に恵まれたという話を伝道師さんが私に教えてくださったんですけど、
私はその話を聞いている瞬間、神様が私に何か大きな悟りを与えてくださったような気がしました。
なぜなら、その先生に比べて私自身は私がよく知っています。
03:04
私は人と付き合いがあまりなく、他人に方針はあまりしないで、愛を施すこともほとんどなかったから、
神様がその先生たちの働きを通して、私にあなたもそのようにしなさいと言われるような気がしました。
そして私は一瞬間、このことをずっと思いながら過ごしました。
一週間の間、私はその先生みたいに私は引退式ができるか、
私はその先生たちのように私はできなかったのか、悔い改めながら反省する時間を持ちましたけど、
皆さんが見られるのに、なぜ私にはそれができなかったでしょう。
これは弁明に過ぎませんが、私はもともと内静的で、人と付き合うことがうまくできない性格です。
活動的でもなく諸極的です。 また自分の考えが強すぎて、好き嫌いが強いです。
ですから対人関係の幅が非常に狭いんです。 私自身はこんな人間だと私は認めます。
そんな私がイエス様を信じるようになりましたけど、 イエス様に信じて教会に通い始めた時に、
父からすごい反対がありました。 その反対の中で、
信仰生活するために難しいことがありました。 また学校の友達の間でも、
信じるから今まで自分と同じようなこともしないし、お酒も飲まないから、 その関係性を持つのに私は非常に難しさがありました。
そのようなことによって、人間関係、人との関係の中で私は非常に萎縮しているような状態で生活したと言いましょうか。
しかし教会に来たら、教会の方たちには楽に 関係性を持つことができて、本当に教会にいるのが私には好きだと思ってきました。
ところがそのような私が日本で 日本人に対して福音を伝えたいと思って新学校に行きました。
新学校の授業の中で驚くほどの事件がありました。 授業の間の休みの時間で、
日本の新学生の先輩が私にこう言いました。 なぜイエス様だけがキリストなのかと言いました。
私はその意味がよくわかりませんでした。 後になってその先輩の話がどんな意味かわかりました。
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どんな宗教でも真理があるのに、なぜキリスト教はキリスト教だけ真理があると言います。
イエス様だけが真理だと言います。 また仏教はシャカモニがキリスト、イスラム教はマオメトがキリストなのに、
なぜイエスだけがキリストなのかと。 だから他の宗教をなぜキリスト教は尊重しないのかという、
そのような話が先輩の話でした。 それが事実、宗教打言論ということです。
私はそのことを韓国では全然聞いていない話だったから、 それによって私は教会の中でも心が閉ざされたと言いましょうか。
その時私が危機感を感じたのは、 この新学校通いながら私の信仰がダメになるんじゃないかと、
これから気をつけなければと思いました。 それで見てみたら、
牧師だって同じ牧師ではなく、 教会だって同じ教会ではないんだということがわかりました。
ですから教理的、信学的に何かこの暴行の知性で信仰生活してみたら、 狭い心がもっともっと狭くなりました。
それにも関わらず、ある韓国の新学生は、 そのような日本の新学生と親しく過ごすことを見て、
その新学生は韓国ではこんなことを学ばなかったはずなのに、 どうしてその新学生とうまく付き合うのか、
私なりに判断する心があり、また壁を作って、 あまり近づかないようにするようになりました。
それで私は今まで私のこのような行動が、 信仰のためだと、正しい行動だと思ってきました。
ところがそのようなことを一切考えずに、 心を開いて大勢の人を受け入れて、うまく使える人たちを見たら、
羨ましい心がある反面、判断する心もありました。 皆さんはどう思いますか?私が間違えたのでしょうか?
ところがイエス様は、私たちがこのようなことを気をつけるのか、 ことを知っていらっしゃるのか、知らないのか、
ヨワネ13章34節にはこう言います。 あなた方に新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいと言います。
じゃあイエス様はなぜ、第一の今しめ、神を愛しなさい、 第二の今しめ、隣人を愛しなさい、この二つを言わないで、
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第二の今しめだけで、お互いに愛しなさい、 これだけで今しめを与えてくださるのか。
その理由は、神様が互いに愛し合うことを一番願っておられるから、
第二の今しめを守ることは、そのまま第一の今しめも、 私たちが守ることになるんだということです。
それほど互いに愛し合うこと、 これが神様が願っておられることだということです。
皆さんそれは、神様はてっきも愛され、 雨を降られる時には、悪い人でも良い人でも、
区別なし、降らせてくださることを考えたら、 区別しないで互いに愛し合いなさいという言葉ではないかと思います。
ところがイエス様が弟子たちを派遣する時にも、このような思想が入っています。
マタイ中小中六説を見ますと、 私はあなた方を使わす、それは狼の群れの中にヒツリを起こり込むことと同じだと言います。
だから蛇のように賢く、鳩のように正直になりなさいと言います。
ここで狼の群れ、これは事実、私たちが使えるのに難しい、
私たちを相手にするのに難しい、この方たちを意味するのではないかと言います。
ですから、狼のような相手がいるんだとしても、 そのことを問いたださずに、行って使いなさいという意味ではないかと思います。
今まで私はそれを壁にしていたんですけど、 神様はその方たちに行って使いなさいと言います。
では私たちはどうすればいいのでしょうかと言いたいところで、
イエス様は私たちに具体的に今日のルッカの16章を通して、 私たちがどう実践すればいいか教えてくださいます。
それがルッカの16章9節だけをお読みします。
そこで私は言っておく、不正にまみれた富で友達を作りなさい。
そうしておけば、金がなくなるとき、 あなた方は永遠な住まいに迎え入れられるでしょうと言います。
ここで富を言われるのに、不正にまみれた富と言葉を使います。
ここを見てみますと、富が不正のものなのかと言われるかもしれないけど、そうではありません。
12:03
でもなぜイエス様は不正にまみれた富という表現を使ったのでしょうか。
ここで富は、人たちの心を不正にする傾向が強いということです。
富がたくさんあるなら、人の心は傲慢になりやすいです。
また富というものは、神様よりお金をもっと委ねる、維持するようになります。
またお金がたくさんあるなら、住みの誘惑に陥られる可能性がもっと強いからです。
ではお金がない人はそれがないのか? いいえ、そうではありません。
お金がない人は、お金がなければ人がケチになります。
またお金がない人がお金ある人よりお金に対する執着心がもっと強くなりやすいです。
結局私たちはお金があるかないかではなく、お金に対する欲、これが解決できているのか解決できていないのかということと同じです。
ですからシト・パウルは第一手もて六書つせつに、金銭の欲はすべての悪の根です。
金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、様々なひどい苦しみに突き刺される者がいます。
だからキリスト社たちは金銭に対する欲を解決しなければいけないよということをシト・パウルは教えてくださいます。
では金銭に対する欲、また私みたいに人との関係性を持ちにくい、
このような私たちはこれからどうすればいいんでしょうかと言いたいところで、
イエス様は不誠にまみられた富で友達を作りなさいと言います。
不誠にまみられた富、これは実はお金を意味するんですけど、お金によって友達を作り、
友達に恋を示し、友達に仕えるところにお金を使いなさい。
それがどうして賢い道なのか、旧説にこう言います。
金がなくなる時、金がなくなる時ってことは、金が利用する価値がない、
私たちが金に対してなくなるという意味は、この世を去る時と考えていいでしょう。
その時あなた方は永遠の住まいに迎え入れるからだと言います。
15:00
ではここで、私たちが友達として作るべき方はどなたなのか、
または私たちを永遠の住まいに迎え入れてくださる方はどなたか。
この方がイエス様です。
イエス様を友達として作り、イエス様のために富を使うこと、これが大事だということです。
ですから私のすべての悩みは、この言葉によって解決できます。
ところが今イエス様がおられるなら、イエス様のために、
イエス様を友達と作り、またイエス様のために私が持っている富を使えばいいんですけど、
イエス様は今目の前におられません。
焦点されて今おられないのに、どのようにイエス様に使え、イエス様のために富を使うことができるのか。
イエス様は今目の前には見えないんですけど、この世におられます。
どこにおられるのでしょうか。
それが教会です。イエス様はご自身の教会におられます。
もともと教会は形あるものではありません。
見えないところです。
教会はイエス様が頭であり、
信徒たちはイエス様の体の一部分、部分として存在するところ、
それが建物ではなく、目に見えない教会がそのことです。
ですから聖書は、
二人また三人が私の名によって集まるところ、そこに私いるよ、これが教会を意味します。
ですから二人三人が集まるところが教会であり、
それが建物ではないということが私たちはわかります。
ですからイエス様が頭であり、
信徒たちがその体の一部分、部分として教会を構成しているその教会のために、
また信徒たちのために富を使うことがイエス様に使えることだということを考えられるでしょう。
これは端的に私たちに教えてくださる聖書が、
使徒行伝22章7節です。
当時迫害者サウル、あとパウルとして名前を変えるんですけど、
そのサウルがキリスト社たちを迫害、また捕まって殺すために、
タマスコに行くところだったんです。
天から強い光が照らされて、
その光を撃たれたサウルは倒れてしまいます。
その時、天から声が聞こえるんです。
サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか、という声が聞こえて、
18:00
サウルが、主よ、どなたですか?
その時、私はあなたが迫害しているイエスだと言います。
サウルはイエス様を迫害していません。
サウルが迫害しているのは、初代教会に集まるこの教会と、
信徒たちだったのに、イエス様はなぜ私を迫害するのかと言います。
これから見てますと、イエス様の教会、
イエス様を信じているキリスト社たちの集まり、
それがイエス様ご自身と同じだということを考えているんです。
ですから、教会と信徒たちにダメに使えることが、イエス様に使えることであり、
その時、イエス様が私たちを永遠の住まいに、私たちを導いてくださることです。
このことは、私たちがいつも心にかけて、
いつも実践しようとしているところではありませんか?
ここではあまり問題、もっと頑張らなきゃいけないんですけど、
ここではあまり問題ないのではないかと思います。
ところがもう一つあります。
マタイ25章では、最後の時の裁きに対する例えがあるんですけど、
皆さん、最後の時、裁きのために、全ての人が裁きの座に座っておられるイエス様の前、
イエス様は救い主でもありますけど、裁き主でもあります。
裁きの座の前に全ての人が集まります。
その時、天使たちが羊とヤギを分けられるように、
偽人を右に、悪人は左に分けられると言います。
ここで偽人は誰なのか、悪人は誰なのかと言った時に、
マタイ25章34節からこう言います。
さあ、私の父に祝福される人たち、右にいる人たちに、
私の父に祝福される人たち、天地創生の時から、お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
あなた方は私が飢えている時に食べさせ、喉が渇いている時に飲ませ、
旅をしていた時に宿を貸してくれたんじゃないかと言われます。
その時、右にいる人たちがこう言います。
主よ、いつ私たちがあなたが飢えている時に食べ物を差し上げ、
喉が渇いている時に飲み物を差し上げたんでしょうかと言います。
その時、イエス様はこう言われます。40節です。
はっきり言っておく、私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことが、
私にしてくれたことだと言います。
21:02
どんな意味かお分かりになったでしょう。
イエス様が私の兄弟であると言われるような、
この社会的な弱者、この世では弱い、差別を受ける、
いろいろな問題を抱えていらっしゃる方たちに使えることが、
イエス様に使えたことだと言います。
ですから私たちがこの弱者たちを愛し使える時に、
イエス様が私たちを永遠の住まいに導いてくださるということです。
この部分に対して私は非常に物足りない、
非常にできなかったことを私は認めなければいけません。
私はある時マザーテレサを誤解しました。
マザーテレサはインドのキャルカタで、
貧民、病者、またみなしごたちのために献身しながら、
その時その人たちにイエス様を信じてくださいということを一言も言わなかったと言います。
それで私はこのマザーテレサの働きが正しいのかと、
私はなりに偏見を持っていました。
ところが私が今日の聖書から見ていますと、
マザーテレサはこのインドキャルカタにいる貧民、病者、みなしごたちが、
イエス様はこの人たちが私の兄弟だよ、私が愛する兄弟だと、
これをマザーテレサに言われたから、
マザーテレサはその人たちのために惜しみなく献身的に仕えてきたでしょう。
このことを見ていますと、私はどれほど行理と信学的な偏見を深刻的にとらわれていたのか、
私自身が恥ずかしいほどです。
それにもかかわらず、私たちの中でこう言われる人がいるかもしれません。
先生、救い論に対してイエス様は信仰によって救われることであり、
行いによって救われることではないのに、
なぜマタイ二十五書では愛を施すのか、使えるのか、
その行為をもって救いを言っていますか、と言うかもしれません。
いいえ、違います。
イエス様の恵み、神の愛、聖霊の感動によって私たちが罪人であった私たちが悔い改めて救われたとするなら、
このただで救われた私なら、どんな心が当たり前の心なのか、
私がこの救い、恵みによって救われたこれに対して、
24:05
私はどうすればいいでしょうか、どう報えればいいでしょうか、という心で、
イエス様を愛し、イエス様を使える、このことは当たり前だということです。
このことは行いによる救いを言うのではなく、
正しい信仰であるなら必ず伴うしかないこの良い行いであるということであり、
これが正しい信仰なのか、間違えた信仰なのかを分別できるようなことが、
この救われた後、私たちがどうするのか、良い行いが伴うのかということで分別することができるということを言われるでしょう。
このように私たちがこの世で、イエス様が私の兄弟だと言われるほどの方達をうまく使えるなら、
イエス様がこう言われるでしょう、今日のルッカの16章の後ろの部分ですけど、
あなたたちに多くのものを任せてあげる。
少なく、あなたたちは今小さなことに忠実であった、
ところが私はあなたたちに多くのものを任せようと言われるかではないかと思います。
私たちがこの世の中で、イエス様に出会うように、
教会と教会の信徒たち、またイエス様が私の兄弟だよと言われる方達に使えることを見て、
イエス様はこの世で、また天国で私たちに大きなことを任せてくださるのに違いがないと思います。
うらやましいことは、今度引退式を持っておられたという先生と奥様、この方たちは人に使えることがうまくできたような気がします。
またこの先生が引退された後、どうされるかと言いますと、
日本の各地域を回りながら、より幅広く使える働き、またイエス様の愛を伝える働きをされるんだと言うんですけど、
これからこの幸福祭を通して、神様はどれほど美しい働きが用いられるか、
その先生たちがうまくできることを祝福する心でいっぱいです。
これに比べて、私、今の私、本当に狭い心、行理的な偏見を持って心を開くことができなく、
まだ付き合うことも施すこともなかったから、神様が私を見られるのにどれほど情けない、情けない奴だと思われたでしょうか。
27:00
ですから私は今年、どうしても今年は心を開かなきゃいけないと思います。
また今までうまくできなかったんですけど、私は心を開いて、できればできるほど大勢の人々に心を開いて使え、
また大勢の方々と付き合いをしたいと思っています。
本当に私は今まで、甘く深刻的、行理的な偏見を持って心を開くことができなくた部分を指摘してくださった神様に感謝します。
願わくは神様が心狭い牧師のゆえに、私たちの教会の信徒たちが祝福されることがないように、
恵みを与えてくださることをぜひお願いします。
そしてこれから閉ざされた教会ではなく、開かれた教会として、私たちの教会の信徒皆さんは広いところで心を開けて思い存分働くことができるように祝福いたします。
どうか今年私たちは教会と信徒たちの皆さん、
また、イエス様がこの人は私の愛する兄弟だよと言われる方だったら、教会、私たちが思い存分その方たちのために使える、
それらの深刻的、行理的な偏見に捉えじゃなくて、本当にイエス様の心を持って用いられる教会になりますように、
開かれた教会になりますように、私は悔い改めを持ちながら神様に切に切に祈る心でいっぱいです。お祈り出します。
主よ、今まで牧師一人の偏見、狭い心によって教会が閉ざされていました。
主よ、この牧師が変わるように恵みを与えてください。
またイエス様がこの人は私の兄弟であるよと言われる方たちをうまく使える牧師になりたいと思います。
また開かれた教会になりたいと思います。恵みを与えてください。
またこれからも続けて私たちの過ち、足りないことがありましたら、神様たくさん語りかけてください。
イエス様の皆を通してお祈り出します。アーメン、アーメン。
29:52

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