00:01
ご着席ください。
聖書朗読をしていただきます。
今日の聖書箇所は、新約聖書の282ページ、 使徒の働き、26章、14節から18節までです。
では、七木澤姉妹、よろしくお願いいたします。
使徒の働き、26章の14節から18節まで、拝読いたします。
私たちは皆、地に倒れましたが、その時声があって、 ヘビウム語で私にこういうのが聞こえました。
サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。
棘のついた棒を切るのは、あなたにとって痛いことだ。
私が、主よ、あなたはどなたですか。と言いますと、主がこう言われました。
私はあなたが迫害しているイエスである。
起き上がって自分の足で立ちなさい。
私があなたに現れたのは、あなたが見たこと、
またこれからの地、私があなたに現れて示そうとすることについて、
あなたを放射、また承認に任命するためである。
私はこの民と違法人との中からあなたを救い出し、
彼らのところに使わせ、
それは彼らの目を開いて、暗闇から光に、
サタンの支配から神に立ち帰らせ、
私を信じる信仰によって彼らに罪の許しを得させ、
聖なるものとされた人々の中にあって、
御国を受け継げさせるためである。
では聖火隊に賛美をしていただきます。
賛美する曲は、新聖火455番です。
聖火隊の賛美に続きまして、
一田先生より、暗闇から光にと題してメッセージをしていただきます。
03:04
みかびをたたかえ、ひぼしせされ、
がいかをはぐるは、じかきにのり、
ひざしゅりまみゆる、
たちのひらで、
われらのつかれを、
ちくわいやして、
かちこめしめたも、
よのちからに、
ひざがたかわ、
ひざがたかわ、
じかきにのり、
かちのひらで、
ひばのたたかいは、
ときのまそび、
さきほらすのりは、
はぎにあらじ、
ひざしゅりまみゆる、
かちのひらで、
たたかいのわらは、
みぐをすてて、
あまつきさとの、
いえにかえた、
ひざしゅりまみゆる、
たちのひらで、
06:22
1年を迎えました。
報告によりますと、
死者1万5,854人、
3,155人の人は、
いまだ行方がわからない状態です。
そして34万人の人が、
避難生活を強いられているという状況であります。
このような多くの犠牲者、また甚大な被害、
そして今なお不自由な生活を強いられておられる
被災者の方々を覚えて、
私たちはこの場をお借りいたしまして、
ともに祈りの時を持たせていただきたいと思います。
どうぞその場にご起立できる方はご起立くださって、
ともにこのことを覚えて、
黙祷を捧げましょう。
神は我らの避け所また力。
苦しむ時そこにある助け。
それゆえ我らは恐れない。
たとい地は変わり山々が海の真中に移ろうとも、
たといその水が立ち騒ぎ泡立っても、
その水かさが増して山々が揺れ動いても、
川があるその流れは糸高き方の聖なる住まい。
神の都を喜ばせる。
万軍の主は我らとともにおられる。
ヤコブの神は我らの砦である。
めぐみ深い天の父なる神様、
今日今こうして見舞いにあります私たち、
昨年の3月11日のあのことを覚えながら、
今あなたに祈りを捧げています。
言葉にはできない私たちの想像を絶することでありますから、
09:02
どうぞ足りない言葉足らずの祈りでありますが、
お許しください。
しかし心の中にあるお一人お一人の思いを、
その祈りを天において受け入れてくださるようお願いいたします。
私たちが阪神淡路大震災において受けた
そのような被害を思い起こすことでありますが、
私たちは神様どうしてでしょうかという
そういう思いがいたしますけれども、
どうか今現実のその最中にありますこの全てを
あなたがご覧になって、
そしてあなたの限りないその慰めとそして哀れみとを
お与えくださるように、
私たちは今現地に行くことのできない、
またそのことを許されていないものでありますから、
本当に申し訳なく思いますけれども、
神様どうぞその地には私たちの兄弟姉妹方
また神の教会がありますから、
どうぞその場を通して、
今日も持たれているその礼拝を通して、
あるいは様々な追悼のその時をもってその人たちに、
あるいは天に帰られたその魂のために、
どうぞ主が慰めと励ましをお与えくださることを切にお願いいたします。
御言葉を持ってあなたが慰めてくださり、
また今日私たちにも語ってくださることをお願いいたします。
同じ日本に住む同じ同胞のこととして、
痛みを分かち合い、また神を愛し隣人を愛する者として、
どうぞ私たちにも今日語ってくださるように、
皆さんのうちにあるお祈りに合わせて、
主耶穌様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
御着席ください。
私たちは使徒の働きを呼んでまいりまして、
今日は二十六章、あと二十七、二十八で終わりますけれども、
選挙者パウロが囚われの身になって、
今はカイザリアというところに移されています。
総督フェストの前に連れ出されたパウロ、尋問を受けたときに、
私はカイザル、すなわちローマ皇帝に譲渡しますと、
12:02
そらく精霊に満たされて、精霊の導きによってそのように言いました。
そして総督フェストは、それではカイザルのもとに行きなさい、
すなわちローマに行きなさいと、ここにパウロのローマ行きが決定した。
それはすなわち、あの世パウロに現れた主御自身の約束が成就したという、
そのことを私たちは二十五章で見たわけであります。
そのパウロは今度二十六章において一節、
するとアグリッパ、これはアグリッパ王ですが、
アグリッパがパウロにあなたは自分の言い分を申し述べてよろしいと言った。
そこでパウロは手を差し述べて弁明し始めた。
パウロの弁明がまたここで許されたということ。
そして二節から次のページの二十三節までの、この中にパウロの弁明が記されているわけであります。
この弁明の全ては、かつて彼が自分の身の上に起こったその救いの体験、
その身技がここにもう一度記されている。
使徒の働きの急所で当時サウロの身に起こったこと。
それを彼がこのアグリッパ王の前で、弁明ではありますけれども、
証としてそれを述べている。それがこの箇所であります。
特にこの十四節から十八節まで、先ほどお読みいただきました。
そこに彼の証が書かれてあります。
今日は特にその中で十五節のところ、主がこう言われました。
もちろん主イエス様が当時のサウロ、今のパウロに現れなさった、その時にパウロに語られた言葉です。
そのパウロへのイエス様の語りかけは、今日を生きる私たちへの語りかけでもあるということ。
そのことも覚えながら、もう一度この箇所を見て、そしてイエス様の見言葉を通して私たちも聞いていきたいと思っております。
15:01
主がこう言われました。
私はあなたが迫害しているイエスである。起き上がって自分の足で立ちなさい。私があなたに現れたのは、あなたが見たこと、またこれから後、私があなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者また証人に任命するためである。
このイエス様のサウロへの語りかけの中、また私たちへの語りかけの中に、イエス様が私たちに現れてくださった、そして私たちを救い、そして神の国に入らせてくださるその約束をしてくださった、その目的は何なのかということがここに書かれてあるわけです。
何々するためである。これがイエス様の私たちへの目的。それが一つは、あなたを奉仕者にする、奉仕者に任命するためである。そのことをイエス様はサウロに、また今日の私たちにも語っていてくださっている。
奉仕者、それは捧げるものです。神に捧げるもの、これが奉仕者。何を捧げるのでしょうか。それは自分自身を捧げる。ローマ美典の手紙の中にもありました。
自らを生きた聖なる備え物として捧げなさい。私自身を、私の全てを、私の身体、存在、その全てを生きた聖なる備え物として神に捧げる。これがまず第一、奉仕者のあるべき姿。
自分の身を捧げるということを漢字で献身と書くわけですが、身を捧げる、献身者。この献身者という言葉は狭い意味と広い意味と両方あります。
狭い意味で献身者というのは、全てを神の働きに捧げるという、それは伝道者、宣教者、あるいは仏会者、そういう人たちのことを献身者、あるいは新学校に行って学び訓練を受けて使わされていく、そういう人たちのことを献身者、それは狭い意味での献身者であります。
私たちが神様の現れを受け、そして私たちが聖書を通し神様を知り、そして信仰告白をもって神様に従いますという、そのことをもって私たちが神のことをされた。
そして私たちも自らを生きた聖なる備え物として捧げますと、その誓いをしたそのときから、その人はまさに献身者であるわけです。その献身者、すなわちキリスト者、全ての人たち、それが奉仕者であるということ。
18:23
そして奉仕者、それは捧げるものでありますから、何を捧げるのか。礼拝を捧げます。あるいは賛美を捧げます。あるいは時を捧げます。そしてそれぞれに与えられたタラントを捧げます。
それが5タラントであろうと3タラントであろうと1タラントであろうと、そのことは問題ではありません。自分たちに神様から与えられているそのタラントを惜しみなく神に捧げる、あるいはお返しすると言ってもいいかもしれません。
そのことによって神様が喜んでくださる。そのことを私たちは願っていますし、何よりも宗爺様の願いがそこにあるわけです。そのために私はあなたを奉仕者に任命するのだとここで言っているわけであります。
私たちはこの見えない神様に何をもって仕え、そして何を捧げるのか。この見えない神様ご自身が、それじゃあ私たちにどのようにしてその神の存在、神の愛を私たちに示しなさるんだろうか。
それは神様の知恵として、見えない神は見える人を通して私たちにその神の存在、神の愛を表しなさるわけです。そうするならば私たちもこの見えない神様に何をもって捧げるのか。
それは見える形で人を通してその人に仕え、そしてその人に捧げ、そしてそれはすなわち神ご自身に捧げるのだ。
今日も教会学校で御言葉をいただきました。
これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのはすなわち私にしたのです。
見えない神様ではありますけれども、見える隣人に私たちがさせていただく、それはすなわち見えない神ご自身は私にしたことなのだと、それを喜んでくださる。
空腹である人にはそのお腹を満たすように、渇いている人にはその喉を潤すように、着るもののない人にはその着るものを与えて、病気をしている人には見舞い、牢にいる人にはその人を訪ね、そして旅をしている人にはそれを止まらせる。
21:17
そういうことを私たちがさせていただくということは、すなわちそれは神ご自身にさせていただいているということなのだ。
そのことをもう一度ここで覚えさせられるわけです。
私たちは教会を通してそのような法師という形でさせていただいております。
それはいろんな働きをしているわけですが、それはそれを通して主なる神に捧げている。
神様はそれを喜んでいてくださる。
そういうことを思うときに、時々、ああ、もったいないなということを思います。
もったいないというのは日本語の独特のニュアンスがあります。
もったいないな、それは皆さんが多くの、あるいはその量は問いませんけれども、足らんと与えられている。
なのにそれをまだまだ捧げきっていない。
神様はもちろん、もっと捧げてほしい、捧げられるのにと思っておられるはずだと思います。
私もいくつかの教会でともにおらせていただいて、自分自身もそう思ったときもありますし、
教会の皆さんを見ていて、ああ、もったいないな、もっともっと皆さんの与えられているタラントを神様に捧げ、
そしてそれを奉仕という形を通してでも、神様にそれを捧げなさったらいいのにな、もっと神様は喜ばれるのにな、そう思うんですね。
なぜそれをなさらないのですか、という問いかけに、いやいや私、まだまだとかいう、そういう返事もありますし、
いやいや、前に出るのがどうも苦手なんですとか、いろいろ理由はあろうかと思います。
でも私たちは教会で捧げる奉仕、少なくとも教会の奉仕というものにおいて、神に捧げるものである限り、
それはこの世と違う、そういう評価を与えられるものでありません。
あれは良かったとか、あれは駄目だったとか、そういうものを神様は一切おっしゃらない方ですね。
24:02
私たちは弱いもの、欠けたもの、また弱いものであります。間違いも時々します。
そういうのはもう前提として、当たり前として神様は、そんなことよりも私に捧げて欲しい、
皆さんに与えられたそのタラントを土に埋めて隠すことのないように、それを私に捧げていただきたい、欲しいのだと神様は言っておられるわけですね。
そして私たちの最終目標は、天に宝を積むことなんですね。
この教会の中で何か評価を受けたり、皆さんの良かったとか、あそこは駄目だったとか、そんなことではないのです。
この与えられたその奉仕、あるいは今与えられているそのタラントを捧げる、
それはまた私たちが成長していくための訓練でもあるわけですね。
私たちはこの教会という場を通して神様に練り、清められていく、そういう場であります。
ですからそこには恥ずかしいことも、何か自分の至らないところを見せるとか見せないとか、そういうことではない。
誰かが点数をつけてそれを評価するという、そんなこともしません。
ただただ神様は捧げてくれることを願って、そしてその人がより練り、清められたものに成長していく、そのことを願っておられるわけですね。
教会学校の子どもたちも前に出てお祈りしましょうと出てお祈りをするわけですね。
幼子のようにならなければ天皇御国に行くことはできない。
私たちは神様が、どの人も神様に仕え、そして神様に捧げるということをさせていただく、
その多くの機会があるにもかかわらず、それをしないということは、神様は本当に悲しまれておられるんだろうなと思うんですね。
どうぞこの教会を通して、皆さんがどんな形で見せよう、さまざまな方針を通して与えられているそのタラントを神様に捧げなさったらいいかと思うんですね。
私自身もなかなか人の前に立つということの苦手なものでありました。
今でもそうでありますが、しかし神様の訓練を受けて、そしてお祈りのために前に出る、あるいは証のために前に出る、その時はもう出させられたという、そういう思いでいました。
27:06
しかし御言葉を取り継ぐそういう奉仕、そのことを通して、自分は神様に捧げる、奉仕させていただく機会を与えられているんだ。
だからこの機会を無駄にしないで、一生懸命神様に捧げを奉仕しよう、そのように思ったわけであります。
ですからどうぞ皆さんのタラントを茂もなく神様に捧げていただきたい、そう願っております。
もう一つの神様のその任命の言葉、それは承認にするためである、あなたを承認に任命するためである。
そこにもう一つの任命の意味があります。それは証人になるためであるということですね。
パウロも今アグリッパ王の前で証をしているわけです。
自分の身に起こったことをもう一度思い浮かべながら、神様の業、誠の神は生きておられるということ、そして私の身に神の業が鮮やかに起こったその奇跡と言われるもの。
それをアグリッパ王の前で語ったわけであります。それを証というわけですね。
神を証しし、また神を褒めたたえ、そして今いる人たちにその神様を知っていただく、そのことを証というわけです。
この証というのは言葉だけでするということではありません。
星野富弘さんという方は絵で証をなさっています。
三浦彩子さんは自分は小説を書いていると言われますが、そうではありません。
私は小説を通してイエス様を証しているのですと、そのように言っておられます。
歌える人は歌でイエス様を主を証すればいいですし、どんな方法でも私たちがこのお方は偉大なるお方、そして私がこのお方によって救われて、今こうして信仰いただいて歩んでいますというそのことを証していく。
その証人に任命するためにあなたを救ったのですと、イエス様は三浦に、そして私にも語っていてくださる。
ですから証をしなさいという声が主からかかったら、もうためらうことなく、はいわかりましたと出ていく。
30:06
そういうまた備えもいつもしておく必要があろうかと思うんですね。
それが私たちの務めでありますし、またそれが喜びであります。
主エス様の私たちを任命されたその目的であります。
そして十七節、私はこの民と違法人との中からあなたを救い出し彼らのところに使わす。
これもまた主が三浦に、そして私たちに今日語っていてくださることの一つです。
私はあなたを使わす。
私たちは祈祷会で創世記を読んでおりますが、ヨセフの兄さんたちに売られたこのヨセフがエジプトに行くわけですけれども、奴隷として売られたそのヨセフは、
神様のご加護のもとで色々ありましたけれども、王に認められ、そしてパロ、エジプト王に次の地位を与えられて、そして貴金をしのぐためのそういう尊い働きをつかせられるわけですけれども、
そしてカナンの地にも貴金が起こって、ヨセフの兄弟たちもエジプトに行くことになります。
そこで兄たちとヨセフは対面します。ヨセフはこれは兄たちだ、自分を売った兄たちだということがわかります。
しかし兄さんたちは兄弟たちはまさか目の前にいるこの方がヨセフとはわからない、そういうところに今来ているわけですけれども、色々なことがありまして、ヨセフは45章の8節のところでこのように言います。
今私をここに使わせたのは、このエジプトに使わせたのはあなた方ではなく実に神なのです。私たちはこれを読むときに、このヨセフの言葉を聞くときに、ヨセフをエジプトに行かせたのは紛れもなく兄弟たち。
ヨセフを憎んで、ヨセフを殺そうか、いや少なくともエジプトに奴隷として売ってしまおうといった兄さんたちであったわけです。しかしヨセフの言葉、今私がエジプトにいるのは兄さんたちのゆえではなく、神が私をここに使わせたのです。
33:08
ヨセフもおそらく牢獄の中で何を思ったのか、あるいはどんな取り扱いを受けたのか。彼は今や兄弟たちの憎しみ、あるいは自分が置かれているここまでのそのことを、もう今はすべて神様に委ねて。
目の前にいる兄弟たちではなく、天に目を向けて、主に目を注いだときに、この言葉が出たわけです。私をここに使わせたのは、あなたたち、お兄さんたちではありません。実に神が私をここに使わせなさったのです。
そしてみんなが幸いを得るように私を前もってここに使わせなさったのですと、彼はここで告白したわけです。
神様はパウロをまた私たちを使わせなさっている。私たちはそれぞれ置かれた場所にいるというのは何かの理由があったのでしょう。ある方はいろいろな理由で教会を変わらなければならなかったということがあります。
しかし今私がこの教会にいるのは、実は神なのです。私をこの教会に置いているのは、使わせてなさるのは、それは神なのです。教職者もそうです。
もちろん教団の中の人事異動とかそういうことは形をとりますけれども、私たちはみんな信仰を持って私をここに使わせたのは、実に神なのです。
皆さんがあるいはそれぞれのご家庭の中にいるということは、私はここに生まれたから、あるいはそこに突入だから、いろいろな理由がありましょう。しかしそれは実はそこにお使わせなさったのは神なのです。
あるいはそれぞれの職場に使わされている、私がここを望んでここに就職したのだ、あるいは誰かさんの紹介でここに今勤めをなしている、それはそうでしょう。しかしもっと深い神様の身むねを思うときに、私をここに使わせたのは実に神なのです。
神が私を今ここにお使わせなさっているのです。それがこの御言葉にあります。私はこの民と違法人との中からあなたを救い出し、あなたを選んで彼らのところに、その場その場に使わせているのです。これが神様の御心であります。
36:23
そして使わされた私たちの使命、それが十八説のところ。一つは彼らの目を開きなさい。多くの人たちは心の目、あるいは魂の目に覆いがかかっていて見えなくなっています。
日本語でこれは仏教から来ているのでしょうか。悟りを開くということが言われます。それに似たようなことですが、真理をわかるようになる。何が本当なのか、何が間違っているのか、何が正しいのか、何が大事なのか、そういうものが多くの妨げによって見えなくなっている。
これが目が閉じられているということ。ですからその閉じられた覆いをとって、その人たちが心の目、魂の目を開くように、そのことをしていきなさい。しかしこれは人の力ではできないことです。
それでは何によってそれを私たちはしていくのか。それは精霊の働きによらなければそれはできない。
父親の山で教えられたこと、それは万事精霊、万事祈祷、すべてにおいて精霊の働きに委ねなさい。あるいは祈りをもって、それこそ人たちの目を開くように神様に祈りなさい。
県政によらず能力によらず我が霊によるなり、精霊によって彼らの目は開くであろうし、また暗闇から光に映されるであろう。暗闇とはサタンの支配。
それは現実に目の前にあるそのことだけではありません。私たちの心の中を暗くしているもの、それがサタンの支配であって。
そしてそこから神様の支配、光の中に私たちを入れてくださるこのお方、そのお方がまた私たちを使わし、今暗闇の中にある人たちに光をそこに与えていただけるようにともに祈り、そしてともに歩んでいきなさい。
39:05
このお方は光あれと言われると光ができたと言われるような、そういう力のあるお方。地の始め、それは防爆として何もなかった。
闇が大水の上にあり、神の霊が水の上に動いていた。神は仰せられた。光があれ、すると光があった。
お言葉を持って無から有を生み出されるこの万軍の主、このお方が今暗闇の中にある人たちを光の中に移してくださる。
そして彼らが罪の許しを得て聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。御国を受け継ぐことの権威を預けられる、これは何と幸いなことでしょうか。
マタイが言いました。
入和な人は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。これはマタイの福音書に通してイエス様が群衆に語ったその一節ですけれども。入和な人は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。
入和な人というのは何か物腰が柔らかいとかそういうことだけではありません。むしろ固くなさの反対という、そういう意味があろうかと思います。
では入和の反対としての固くなさ、それが聖書の言う罪ということですね。固くなである。自分が中心でその他一切のものを受け継げない。自分が自分の心の王座に座っている。それが最大の罪なのだ。
しかし神様の許しを受け、そして神様の慰め、そしてこのお方を知るということを通して、その固くなな心が溶かされて、そしてどんな神様のお言葉にも従順に従えるような、そういう入和な魂、心にしてくださる。
それが罪許され、そして永遠の御国を受け継ぐ者とさせていただく。心の王座に、このイエス御自身に座っていただく。イエス様の言われる通りに従っていく、そういう入和な従順な魂、それが神の御国を受け継ぐにふさわしいものだ、そのように言ってくださっているわけです。
私を信じる信仰によって彼らに罪の許しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。
42:10
それでは、どうすれば、そのように罪を許され、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継ぐ者とされるのか。
それは、私を信じる信仰によるのである。私を信じる信仰によって、イエスキリストを信じる信仰によって勝利が与えられる。信仰は勝利。
私たちは、この御言葉をもって、このパウルとともに、アグリッパ王の前にあるそのパウルとともに、信仰は勝利と声高らかに歌いましょう。お祈りいたします。
私はこの民と違法人との中から、あなたを救い出し、彼らのところに使わす。
恵み深い天の父なる神様、今日はあなたを覚えて、あなたの皆をあがめます。
あなたは偉大なるお方、そして私たちを救い、あなたは私たちをそれぞれに使わされるお方です。
どうぞ、私たちがそれぞれ置かれているところにある人たちを、サダンの支配から光の御国へと導いてくださることをお願いいたします。
そして私たちも、誠の神を明かしし、地の主を世の光として用いてくださいますように、そして私たちが全て神の子として地を受け継ぎ、そして幸いを得る者として一人ひとりを祝福をしてくださるよう、
お信じお委ねして、主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。