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今日は、信仰と愛と救いという対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
私たちには父母がいます。 父母は人生を長く過ごされたから、子どもたちがどうすれば幸せになり、
失敗がない人生を過ごすことができるのかをよく分かっています。 だから、自分の経験をもとにして、子どもたちにいろいろな話をします。
ところが、子どもたちがよく聞いてくれればいいんですけど、 父母の話をなかなか聞いてくれません。
自分勝手に過ごします。 そうしながら、自分も結婚して年取って、あと子どもができたら、
その子どもが幸せになってほしいと思って、 以前、父母が言った言葉がよかった。
それで、父母のように子どもたちにいろいろ話をします。 しかし、子どもたちはなかなか受け入れてくれされない。
これが私たちの現実ではないでしょうか。 神様はこの全世界を設計されたお方、想像されたお方です。
また、神様は私たちを一番愛しておられます。 ですから、この世の中を設計した方として、
私たちは幸せ、祝福な人生を過ごすように、 その秘訣を私たちに教えてくださるんですけど、
それが聖書の見言葉です。 ところが、現在のもとにある人間は、なかなか聖書の見言葉を受け入れてくれないですね。
気の毒だと思います。 神様は私たちを愛しておられて、命と祝福を与えてくださることを願って、
命じられたことが、第一の今しめ、第二の今しめ、 愛しなさいということです。
神様を愛するなら、神様からの全ての恵みと祝福と命をいただきます。
また、隣人を愛するなら、隣人がむしろ私を助けてくださいます。 そして、私が幸せになるようにさせてくださいます。
だから、人生の幸せと祝福の秘訣と教えてくださることが、第一の今しめ、第二の今しめ、
愛しなさいということ。 愛するときに幸せがあるよということです。
ところが、皆さんどう思いますか? 聖書が愛しなさいと言ったとき、皆さんが素直で愛しましょうという気持ちになりますか?
さあ、今日のメッセージの題は、 信仰と愛と救いです。
私たちの信仰生活は、第一の今しめ、第二の今しめ、 愛することを実践することです。
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しかし、これが救いとは全く関係がないように見えます。 信仰生活は信仰によってやること。
救いも信仰によって救われます。 では、第一の今しめ、第二の今しめはどこに行ったんですか?
第一、第二の今しめは、実践してもいい、 実践しなくても私たちには何の問題もないと思っておられませんか?
そうしてみれば、私たちの信仰生活で、 愛が足りないのではないかと思って、今日のメッセージを準備しました。
今日読んでくださった聖書、ルカの出世の25節からは、 ある立法の専門家が、人生の最大の問題、
救いと永遠の命に対する問題を持って、 イエス様の前に来ました。
そしてイエス様に質問します。 これは25節です。
先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができますか? 永遠の命を受け継ぐということは、死なないで、
永遠に生きることができますか?ということです。 皆さん、死ぬことは嫌でしょう。
死にたくないでしょう。これは人間の希望です。 だから、死なないで、永遠に生きる。
これが永遠の命を受け継ぐことができますか?という質問です。 それに対してイエス様の答えは、これです。26節です。
立法には何と書いてあるか? あなたはそれをどう読んでいるか?と言いました。
だったら彼は立法の専門家ですから、 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である死を愛しなさい。 また、隣人を自分のように愛しなさいと言います。
第一の今しめ、第二の今しめを言います。 そうしたらイエス様が何て言うんですか?
正しい答えだ。それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる。
永遠の命が得られると言います。 じゃあ、ご覧ください。
彼はイエス様を試みようとして質問したんですけど、 救いと永遠の命は、
愛、第一の今しめ、第二の今しめの実践と関係があるとイエス様が言われています。
それを立法の専門家はよく理解できなかったように見えるから、 より具体的に教えるために、イエス様は30節から37節まで、
良きサマリア人のたとえの話をされます。 ここに立法学者にイエス様が信仰と愛と救いの関係について、
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大事なメッセージをくださるんですけど、 私たちも愛の実践が伴う信仰のために、
今日3つのことを一緒に考えていきたいと思います。 ぜひとも今日のメッセージを通して、信仰によって救われるんだということ、
そこには正しいです。それは間違いがないので、 今日のメッセージを聞いて誤解の予知がないように、
ぜひとも今日のメッセージを理解していただきたいと思います。 まず立法の専門家がイエス様に、
先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか? と言った時、イエス様は、立法には何と書いてあるか、
あなたはそれをどう呼んでいるか? と言いました。 永遠の命はどういただくことができるのか?
これは非常に大事な質問です。 その答えはどこにあると言いますか? 立法、今の言葉で言えば聖書にあると言います。
ところが、あなたが聖書をどう読んでいるかと関わりがある。 ここで大事なのは、私たちが聖書をどう読んでいるかということです。
私は教会に出て、聖書を全部わかってから信仰生活をする人はいません。 私は牧師ですけど、私が聖書を全部知っているとは言えません。
それほど聖書の範囲は大きい、広いですから。 ですから大抵、牧先生から教えてもらうんです。
私は教会に出た時に牧先生から聖書を学んだんですけど、 救いは信仰によって与えられる。
その信仰という、その先生が言われた信仰は何なのか、 今になってわかりましたけど、それが協理的な信仰だったんです。
カルバンという信学者が聖書をあちこち聖書を選んで、それを整理した。 そして自分なりに体系を立てた協理的な信仰でした。
例えばカルバンの救い論、予定論ということがあります。 その意味はすなわち、あなたは
世の初めから神様があなたを救うように定めた。 あなたは神様に選ばれた人だ。
だから選ばれた人だからあなたは今信仰を持つようになり、 それで選ばれて信仰を持っているから
信仰を持った後、あなたがもし世の中で過ごしながら過ちを犯したり罪を犯したら悪いことをしたとしても、
神様があなたを悔い改めさせて、あなたを権限をさせても、 天国には連れて行こう。
あなたの救いは確かだ。問題ない。 だから安心しなさい。神様はあなたを愛しているよ。
私はずっとそれを教えてもらいました。 今もそのような救いの確信を持っていらっしゃる方が大勢いると思います。
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カルバン主義者はみんなこのように信じています。 私たちは長老教バプテスト教会もカルバン主義者なので、みんなこのような信仰を持っていると思います。
ところが私はここで聞きたいことがあります。
神イエス様をこんなに大事に思っておられる、 聖書全体がそんなに大事に思っておられる、
第一の今しめ、第二の今しめを守ることはどんな意味があるんですか? 既に救われたから、
まあ今しめを守ってもいいし、守らなくても問題がないんですか? どうせ私は救われたから。
そうしてみれば信じるんだと言いながら、愛もなく行いもなく、 自己中心的な利己的な信仰、
理論的実践が伴い信仰を持っていっても、 何の問題意識も持っていないのではないでしょうか。
ただ主の日に礼拝だけ熱心に参加して、 信仰的な義務何項目うまくやれば、
信仰生活をうまくする人だと言います。 大勢の人がそれが信仰ではないかと思っています。
もともと信仰ってこんなもんですか? 愛の実践は大事ではないですか?
なぜ私たちが信仰がこのようなレベルだと満足するようになったのか。 これが、距離のゆえです。
イエス様は当時もパニサイ人たちは自分なりの距離を持っていました。 そしてそれを信じていました。
そうしながら今、立法学者がイエス様に指摘されていることではないでしょうか。
私たちにも同じような質問をイエス様はします。 あなたは聖書をどう読んでいるのか?
その時、私はこのように信じれば永遠の命を得ると、私は信じていますよと言われるようにすることと同じです。
では、聖書がこんなに大事に思っておられる愛の実践、 キリスト教は愛です。神は愛です。
愛の実践、大一大二の今しめはどこに行ったんですか?
私たちは信仰の実践がない信仰生活をしながらも、 これが過ちだということをわからなく、
もっと大きな問題は、愛の実践によって与えられる神の命と幸せと祝福を味わうことができないから、
イエス様はどれほど気の毒だと思っておられたのでしょうか。
私たちは信仰の本質を確かに回復して、イエス様から褒められ、命と祝福を得られる信仰生活をすることを願います。
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そのために、今日の聖書に現れる良きサマリア人のようにしなければなりません。
良きサマリア人のたとえ、これは皆さんご存知ですから、私は聖書を簡単に読んで読み上げていきましょう。
30節から35節です。
ある人がイエルサレムからエリコに下っていく途中、オイハギに襲われた。
オイハギはその人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると道の向こう側を通っていった。
同じようにレビビトもその場所をやってきたが、その人を見ると道の向こう側を通っていった。
ところが旅をしていたあるサマリア人がそばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして自分の老婆にのせ、宿屋に連れて行って解放した。
そして翌日になるとテナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して行った。
この人を解放してください。費用がもっとかかったら帰りかけに払います。
道端でオイハギに襲われて、財産も奪われ半殺しになって助けを切に求める人がいました。
この人が誰が助けたんですか?
当たり前として助けるべき人は、いろいろ言い訳をしながら知らんぶりにして通っていきました。
結局その人はユダヤ人と敵の関係にあったサマリア人が助けたと言います。
その時イエス様は、誰がオイハギに襲われた人の隣人と思いますか?
行ってあなたも同じようにしなさいと言われたことを見たら、信仰は理論、教理を重んじるものではなく、愛の実践が大事であることをわかります。
私たちは教理を論じながら、救われたのか救われなかったのかをいろいろ調べるんですけど、イエス様は理論ではなく愛を実践しなさいということです。
結局救いは信じることも大事ですが、サマリア人のように行いが伴う誠の信仰を持っている人に与えられることだと、その後の27節、28節、37節を読んではよくわかります。
皆さん、イエルサレムからエリコに下っていくその道はまるで今この世と同じです。
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道は険しく、泥棒が多い、老いはぎが現れて、そして人を襲う、そのような道だったんです。
皆さん、今も同じじゃないですか。いつ老いはぎに襲われるか予測できない、怖くてつらい人生ではないですか。
また、いきなり老いはぎに襲われて、すべてを奪われたことは今も同じです。
予測できない事故、また本人の過ちによって誰でも被害を受けることができます。
川口で私が駅で降りてみれば、いつも放送されるものはあります。
オレオレ詐欺に気をつけてください、皆さんオレオレ詐欺に気をつけてください、いつも放送します。
年寄りが多いからオレオレ詐欺に騙されて財産を全部奪われた人がたくさん現れたからです。
最近はコロナの感染によって混乱に遭う人たちがたくさんいます。
コロナにあったら2週間は家で隔離されなければいけません。
お仕事どうするんですか。やることいっぱいありますけど何にもできない。
ですから今もその時のように盗人と大詐欺に襲われて、大詐欺に襲われて倒れている人たちがたくさんいます。
その方たちを知らんぶりにして助けなければ、私たちも第2第3の祭司とレビ人になります。
しかしサマリア人は大詐欺に襲われたユダヤ人とは敵のような関係だったんですけど、
彼はその人をユダヤ人であるか聞くこともしないで、ただ助けたんです。
ただ愛を施しました。そして自分ができる全てをやり尽くしたんです。
じゃあここで信仰とは何でしょうか。神様が本当に願われる信仰とは何だと思いますか。
ただ理論、教理ではなくイエス様を信じるんですが、イエス様のように愛によって使える真っ事の信仰を持つこと、それを神様が願われるということです。
しかし皆さん、私もそうですけど皆さんはどうですか。私たちはサマリア人の話が出たら
いつもみんなが良心の過削を感じます。心が弱くなります。今までそんなことできなかったからです。
いつまで信仰生活しながら、キリストシアでありながら良心の過削に患う信仰生活をしなければいけませんか。
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良心を過削を受けない信仰のために、今日は私たちの隣人を確かにして、その隣人だけはしっかり助ける、救う、癒す、実践がある信仰生活ができればと思います。
では具体的にイエス様が言って、あなたも同じようにしなさいって言ったんですけど、私たちが愛を施すべき隣人はどなたですか。
今全世界に追い剥ぎに襲われて助けを必要とする人がどれほど大勢いるんでしょうか。
一体私たちはどこまで行って、彼らを全部使いなければいけませんか。
そうするなら正しい信仰で永遠の命を得るのにふさわしい信仰ですか。
イエス様が言われる愛が必要な私たちの隣人はどなたですか。
皆さんあんまり悩まないでください。私たちは全世界の人々を全部使えることはできません。
ですから今日、3つの不利の人、その方たちだけしっかり助けていきましょう。
まずはじめに自分の家族です。第一テーマで5章8節に見ていますと、自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり信者でない人に劣っています。
未信者よりもっと悪い人が信者の中にいるんですけど、その人が自分の家族、自分の家族の世話をしないものです。
皆さんこれは信じるものであり信じないものであり、これは人間の道理です。
本性を持っている人だったら、正しい人間だったら、これは家族は当たり前として使えるでしょう。
神様は家庭を一番大事に思います。 家庭は神様の大きな計画があります。
ですから誰よりまず家族を顧みて、家族の救いができなかったら、家族の救いのために祈りから全てをやり尽くさなければなりません。
また家族は自分自身がなければ、自分自身の他の誰が助けますか? 自分が助けるしかない。自分の家族でしょう。
まず家族を愛しなければなりません。 二番目、信仰の家族です。
カラディア六書十節を見ました。 ですから今時がある間に全ての人に対して特に信仰によって家族になった人々に対して
善を行いましょうと言います。 私たちは全ての人に善を行うべきですけど、特に信仰の家庭に善を行うべきだと
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聖書は強調しています。 皆さん、信仰を持っている私たち、
教会に通して出会った私たちは神様が結び合わせてくださった家族です。
それは誰より先にこの方たちを顧みて、その方たちを愛しなさいということです。
今この教会の家族は天国まで一緒に行く家族です。
皆さんごめんなさい、皆さんのご家族の中で天国まで一緒に行けない方がいるかもしれません。
しかし信仰の中にある教会の家族だけは天国まで一緒に行く方です。
永遠に私たちは一緒に過ごされる方です。 ですから教会の家族には絶対心を傷を与えたり
痛みを与えたりしたことはあってはいけません。 みんなよく使えなければなりません。
この上の2つ、自分の家族と教会の家族です。 この家族を愛するのは誰も知っています。よくやっています。
ところが私たちが神の身宿を成し遂げるためには、これからこの3番の方、この方を大事にしなければなりません。
3番の方は神様がいろいろな経路を通して、使いなさいとして手を合わせてくださった方です。
この方には神の計画があります。 私たちが神の見こえを聞かなきゃいけない理由は、毎日神様が私たちの身の回りで働いておられる方です。
その日、その日、神様が働かれる間に、神様が私たちに、この方はぜひあなたが助けてくれればいいな、
この方はぜひこの方を愛して使いなさいと言われる方がいます。 その見こえは逃してはいけません。
その方には神の計画があるからです。 ですから私たちは神の見こえを聞いて、私たちが知るか知らないか、
その方は助けなければなりません。 イエス様は毎日神様の見こえを聞いて、従って助けた生活をしました。
ヨハネ古書では、ペデスターの生贄の傍らで38年になった病人を癒して、イエス様はこう言われます。
これがヨハネ古書17節と19節です。 私の父は今もなお働いておられる。
だから私も働くのだ。 子は父のなさることを見なければ自分からは何にもできない。
父がなさることは何でも子もその通りする。 その日イエス様の身の回りで働いて、神様はその日、
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38年間病気を持っていらっしゃった方、 その方を助けなさいとイエス様に言われたんです。
ですからイエス様はその方を助けたんですけど、 イエス様は私と同じような条件ですから、
イエス様は特別な力があってその方を助けたことではないんです。 神の計画があるその方を神様の見こえを聞いて従うから、
イエス様を通して神の力が現れただけなんです。 皆さん、私たちの命と力の手どころは神様です。
誰でも神の見こえを聞いて従うなら、その人を通して神の奇跡が行う。 神の力が現れるようになっています。
これが隣人を助ける力です。 私たちは世の全ての人、また遠くまで行って大勢の人に使えることはできません。
しかし先ほど申し上げた自分の家族、 教会の家族、神様がその日その日助けてくれと言われたその人たちは、
私たちが逃さないでよく使えることを願います。 この方たちがイエス様が言われた私たちの隣人なんです。
大事なのは自分の同情心で勝手に使えることをやめましょう。 使えることをうまくできなければ、ひどためにすることはあります。
なぜママボーイが出ますか?なぜパパゴルが出ますか? 無条件家族だとして可愛い可愛いからうまくやってあげたら、
悪い癖が出て悪い習慣になってしまった。 その人は結局本人も辛いし、これから周りの方をたくさん辛くされるでしょう。
ですから私たちも使える時も私たち思いのまま勝手にすることではなく、 神様に聞いてみることは大事です。
結局私たちはイエス様の代わりに、神様の代わりにその方に使えることだからです。
2番目、使えるんですけど自分自身が現れ、人々から尊敬されるために働いてはいけません。
哀れに思う心、愛する心で使えることが大事です。 良きサマリア人は応急掃除もしてあげ、宿屋で済ませ、
そしてこの次の日に両肥まで与える、その働きをしました。 誰が見てたんですか?
誰も見てませんでした。 ただ彼は自分に感動があったところで神様に従ったと思います。
ユダヤ人より彼が良い信仰者でした。 そうです。私たちはもう人を助ける医療的な知識もなく、お金もなく、
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何もなくても、その人を哀れに思って祈ってあげ、愛を施すことはできるでしょう。
この時大事なのは、なぜお前がこんな事故を起こしたのか、気をつけるべきではなかったのか、
責めたり叱ったりしないで、ただ愛してあげることです。 助けてあげること大事です。
牧師伝道師じゃなくても、心を尽くして祈って助ければ、その人が一番の信仰者です。
ここで牧師伝道師、私たちは一人でうまくできない働きもあるでしょう。
ここで二人、また三人が共同体の祈りで、私たちは大きな働きができると思います。
先週私たちはこれを実践しました。いろいろ知事を聞いて、教会みんなが心を合わせて祈ってあげました。
皆さん、共同体の祈りは大きな働きを発揮することができます。
私たちが先週のように毎週毎週行う生活をするなら、愛を実践する信仰生活になるでしょう。
マルコ2章では、宗部の人が4人の友達が寝言に寝かせたまま運んできたところがあります。
彼らたちの愛によって働く行いがある信仰を見て、イエス様は理由も聞かないで罪を許し、癒しを与えてくださいました。
私たちの中で一人が抱えるのに難しいことを、教会が中心になって行われるなら、
その教会は、ただ礼拝の儀式だけを行うことではなく、愛の実践を行う、神様が喜ばれる教会になるでしょう。
もっと大事なのは、このようにして癒され救われた人は、自分のように追い剥ぎに襲われた苦しみの中にいる人をよく助ける信仰を持つことができるでしょう。
事実、この良きサマリア人はどなたなのか、イエス・キリストご自身です。
イエス様はユダヤ人から排斥されました。
でも、この世の追い剥ぎに襲われていたユダヤ人一人一人をよく助けてくださり、救いのために十字架を血を流して死んでくださるほど愛を施してくださいました。
私たちもイエス様のように、今の時代、追い剥ぎに襲われている方たちを、イエス様の皆によって、イエス様の愛をもって助けること、それによって今の時代、愛を実践する教会になりましょう。
私たちは行いによって救われることではなく、信仰によって救われます。
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しかし、正しい信仰であるなら、第一、第二の今しめを大事に思う信仰になるでしょう。
この信仰を生活する時に、この実践を伴うこの愛の中で、神の喜び、神様の命が現れ、それが私たちに救いの革新をもっともっともたらせてくださると信じます。
お祈り出します。
主よ、キリスト教は愛なんですけど、愛する時、命、喜び、幸せがあるんですけど、いつの間にかキリスト教は距離だけが残り、信じますという話だけが残り、愛がなくなってしまいました。
愛の実践を取り戻す教会にならせてください。
今日学んだ自分の家族、教会の家族、そして毎日神様が示してくださる方をよく使えて、神様に褒められる、喜ばれるこの教会にならせてください。
イエス様の皆を通してお祈り出します。アーメン。