1. 名谷教会
  2. 2018/01/21:愛を熱く
2018-01-21 59:35

2018/01/21:愛を熱く

2018/01/21 新年聖会礼拝
藪野潤一師
ペテロの手紙第1 4:7~9

00:02
みなさん、おはようございます。
今日、信念世界が開かれていますことを、僕から感謝いたします。
今日の講師先生を紹介させていただきたいと思います。
矢部野純一先生、現在、大阪教区の花天教会の主幹督しておられます。
先生は、本当に教団の中でも尊く大いに用いられて、いろんな仏会の経験をなさいました。
お配りしましたチラシにもありましたけれども、長崎めぐみ教会の開拓もされて、7年間仏会なさって、
その後は、アラスカの日系神教会でも2年間仏会なさって、
そしてその後は、新学校の社幹もなさって、そのうちの半年くらいでしょうか、
この名谷教会で礼拝をご一緒なさって、みなさんもその思わじわりを持っておられることであります。
そして、現在の花天教会で15年間仏会なさっておられます。
私自身も明大の教会の牧師として、これから生かしていただきますデプロテーションとか、いろいろ大変お世話になっておりますし、
また、韓国の西洋の教会のセミナーにも、去年の11月にも奥様の先生もお見えになったりしましたけれども、
また今日、このようにして矢部の順一先生をご利用としてお招きできましたこと、本当に神様の備えとして感謝しております。
午前は開かれている御言葉から、愛を熱くという題にして御言葉のめぐみをお受けいたします。
では先生、よろしくお願いいたします。
おはようございます。矢部と申します。
先ほど御紹介いただきましたように、1995年、新学校の社間ということでこちらに来まして、
4月から9月まで、12月までですね、大体9ヶ月、家族でこちらの教会の礼拝に出席させていただいたという、そういう記憶がありまして、
その間はお交わりありがとうございました。
2年半ぐらい前に一度死にまして、斉藤先生には本当にその時はお世話になりまして、3ヶ月ぐらい礼拝の御用をしていただきました。
こんな話からするのもあれなんですけれども、私はその痛みの記憶というのがないんですね。
03:05
倒れた後のことは全く覚えていない。倒れる前も覚えていないんですけれども、教会で卓球をしておりまして、毎週卓球クラブというのがありました。
そこで気分が悪くなったそうです。
で、牧師館に戻って、家内に救急車を呼んでくれと言ったらしいんですけれども、全くそれも覚えていない。
気がついた時というか意識が戻った時はベッドの上だったんですね。
2週間ぐらいでしょうかね、薬で眠らされていたというようなこともありまして、その時は痛みもなかった。
ですから後からそういう話を聞いてですね、心臓が20分ほど止まっていたとかですね、
そういうことで本当に今生きているのはおまけのような人生かなとも思います。
しかし神様の本当に憐れみと皆さん方のお祈りに支えられて、報酬ができているということを感謝しております。
現在は食事と睡眠と運動とお薬を欠かすことなく、皆さんもそれは食事や睡眠は欠かすことないでしょうけれども、
至って健康なですね生活、毎日を暮らしております。
ここに来る前もですね、ストレッチを1時間ほどしてやってまいりました。
このようにしまして、今日はお招きいただいたことを感謝しております。
2回ご報酬させていただくということなんですが、病気してからですね、教区の講談交換とかそういったところはしたことあるんですけれども、
このように1日に2回説教するというのは倒れて以来なんです。
風邪もひきまして、今雨なめながらですね話しているんですけれども、不謹慎は思わないでください。
とにかくこういうのを出る限りしないといけないので、皆さん方にお手元にこういうレジュメを作ってまいりました。
何を話すのかというのはもうこれを見たらお分かりになると思います。
午後のもありますので、両方持っておいてください。
聖書の箇所がですね、かなりいろんなところに開けるんです。
それでご自分の聖書もお持ちくださればいいと思いますけれども、時間も限られておりますので、
この出ているところを読ませていただくというふうにさせていただきます。
ただし後で気がついたんですけれども、抜けているところもあれば、多少字の間違っているところもあるという、
誠に不十分なことで申し訳ありませんが、お付き合いいただければと思います。
06:02
一言お祈りいたします。
天皇お父様、お名前をあがめて感謝をいたします。
あなたが今年も私たち一人一人に御言葉を持って導いてくださり、
またそれぞれの群れにビジョンを与えてくださって出発させていただいていますことを感謝をいたします。
今日はこのようにしまして、
貧しい者をこの愛する先生方、また信徒の方々の群れに送ってくださって、
共に礼拝を捧げることができ、ありがとうございます。
しばらくの時です、限られておりますけれども、
あなたの恵みを共に分かち合うことができるように、
そしてまたここからあなたの約束をいただいて出発することができるようにしてください。
これからの時をお祈りして、
イエス様の皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
この礼拝とそして午後の聖会でお話しする一つのテーマはですね、
終わりの時代に生きるクリスチャンという、これが共通のテーマです。
それに従いまして進めてまいります。
第一回目といいますか、この礼拝では愛を熱く保って生きるということなんですね。
ご存知のように私たちは今、相当高度な科学技術が発達している時代に生きております。
その二十数年前にアラスカから新学校に戻ってきたというか、
学生たちの生活というのが、まずワープフォンを持っていましたね。
数は少ないけれどもコンピューターを持っていたんです。
私は何も持っていない。
学生の人に、先生これからコンピューターを使わないと飽きませんよと言われまして、
コンピューターを買ったという次第です。
今も仕事上使っておりますけれども、あまり使いたくないというのが本音なんです。
けれども、コンピューターというか、それで作ってデータに入れてとか、そんなことをしてますから、
仕事上今はどうしても立ち行かない。
コンピューターだけでなくて、今は本当にこういうスマホで、こと足りるような時代ですよね。
私もスマホを手にしたのは去年、それまでがらけで、でもやはりスマホが。
ですからだいぶ遅れながらついているというか、周回遅れかもしれないけれども、やっているというような。
でもそれで生活がと言いますか、私たちの本当にそれが変わったんじゃないかと思いますね。
09:06
極端な話、一瞬にして世界中の情報が入りますし、
また望むことなら自分のことを発信することだってできる、そんな時代ですね。
ですからこれまで生きていた時代とは違うという。
けれども、これほどまた変化に激しい時代はないわけです。
そういうコンピューターの発達に加えて、日進月歩のような勢いですよね。
また古い話で教授ですが、私が学生時代、コンピューターと言ったら大学の計算機センターという大きな建物があって、
そこでデータを1枚の紙に1枚ずつ打ち込んでやっていたという、そんな時代でした。
それがもうそんなことはそこもしていませんし、こういうタブレットで全部できちゃうというような時代です。
非常に変化が激しい。そしてあまりにも多くの情報が氾濫しているわけですね。
フェイクニュースという、本当じゃないそんなニュースまで飛び交って、一体どちらが本当なのか真実なのか。
見分けがつかないような。
けれどもまた私たちが生きているこの時代というのは、高度成長期のような時代ではないわけですよね。
ここにいらっしゃる方の多くはそういう時代を経験されていると思いますし、
私自身も子供の頃というのは1年ごと成長しますよね、背も伸びてくる。
それと時代も伸びている時代でしたので、こういう時代というのが当たり前なのかなと思っておりましたら、そうではない。
むしろ今日は停滞、あるいは下がっているというか、もっと言うならば没落の予感が漂うような、そんな不安な時代でもあるということです。
そしていろんな誘惑が私たちの心や体を蝕んでいる。
依存症、いろんな依存症がありますよね。
それから抜けられないということがよく言われます。
今日は電車で来ました。
電車を見ているとですね、電車の中で見ていますと、大抵の人はこうやっているのね。
横を見たら何しているのかな。
仕事をしている人もいるかもしれない。
誰かゲームをしたりとかね。
12:02
覗き見はよろしくないと言われるけれども、そうやって何しているのかなと。
私はもちろんカバンの中に放り込んで、電話がかかってきたら取るぐらいなんですけれども。
依存ですよね。
アルコールの依存もありますし、ギャンブルの依存もある。
特に若い人たちのそういう心と体が蝕まれているという。
ですから今の時代というのは変化、あるいは不安、誘惑の時代感と思います。
そういう中で生きておりますから、ストレスがかかるわけです。
そして傷つきやすくなっている。
けれども人と人との信頼は疎遠になっているという。
そんな時代かなと思います。
しかし聖書を見ますと、それは今に始まったことではない。
今が特別そういう時代とも言えない。
実は先ほど読んでいただきました冒頭のペテロの第一の手紙の四章の七節に、万物の終わりが近づきましたとあります。
2000年も前の言葉ですけれども、すでにその時代でももう終わりの時、終わりが近づいているというんですね。
イエス様が世に来られてそれ以来、今日に至るまで実は終わりの時代なんだということ。
2000年も続いているじゃないかと言われたらそうですが、私たちの時間のそういう間隔はものすごく長い。
けれども神様の運命から見たら、イエス様はこの世に来られてから終わりの時代なんだという。
そういう私たちが今生きております。
その時代の時に今お互い生かされているんですけれども、その時代の特徴は何なんだろうかなというのを見たいと思うんです。
この序論の一に今終わりの時代とありまして、その手も手の第二の手紙、三章の一節から五節まであります。
終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。
その時に人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不尊な者、神をけがす者、良心に従わない者、感謝することを知らない者、
けがれた者になり、情け知らずの者、和解しない者、素知る者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、
裏切る者、無公密な者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは経験であってもその実を否定する者になるからです。
15:03
こういう人々を避けなさい。
ここに終わりの日にはとありまして、終わりの時代の特徴がここにたくさんあるんですけれども、三つここで集約すれば、
自分を愛する者、金を愛する者、そして四節に神よりも快楽を愛する者とあります。
何を愛しているのか、自分を愛している、お金を愛している、快楽を愛している。
まあ、それぞれ胸に手をはてるとですね、一言ではないのではないかなと思うんです。
その根っこにあるものは結局はもう自己中心としか言いようがないわけです。
アメリカファーストとトランプ大統領が言ってますけれども、それは別に今に始まったことなので、自分ファーストなんですよ。
私が一番という、私が中心という。
それが肥大化すればこうやってアメリカ第一ってなるんでしょうけれども、誰だってその辺は持ってるわけなんですね。
私がファーストなんです。
でもそういう時代に私たちも生きている。
けれどもそういう時代に、じゃあクリスチャンとしてどういう生き方が、ということを見たいわけですが、
終わりの時代には愛が冷えるっていう。
これは弟子たちがイエス様に訪ねたわけですよね。
終わりの時にはどんな前兆があるでしょうか。
イエス様が、多くの不法が張り凝るので、多くの人たちの愛は冷たくなりますと。
これまた愛の24章です。
愛が冷たくなる。
もうすでにイエス様はそうやっておっしゃってる。
お帰りになって引いていただければと思います。
次もう行きますからね。
さっさと行かせてもらわないと時間があるんです。
とにかく愛が冷えるんだと。
その愛の冷えた状態というのを、ちょっとこのノアの時代の時と比べたらどうなるのか。
実はノアの洪水の直前の世界とほとんど変わらない、同じようなものなんだというのがわかるんです。
創世紀の6章ですが、ちょっとこれも読ませてもらいますと、
さて人が地上に増え始め、彼らに娘たちが生まれた時、
神の子らは人の娘たちがいかにも美しいのを見て、その中から好きなものを選んで自分たちの妻とした。
3節だと思います。
神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子供ができた頃、またその後にもネフィリムが地上にいた。
これらは昔の勇士であり、名のある者たちであった。
18:03
主は地上に人の悪が増大し、その心にはかることが皆、いつも悪いことだけに傾くのを御覧になった。
それで主は地上に人を作ったことを悔やみ、心を痛められた。
そして主は仰せられた。
私が創造した人を地の表から消し去ろう。
人をはじめ家畜や羽生物、空の鳥に至るまで、私はこれらを作ったことを残念に思うからだ。
地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
荘石六章にこのようにその当時の世の中の姿というのが出ております。
ここには肉の欲があります。
1節あるいは2節を見ますと、自分の好みにぴったりな、そういう相手を選ぶというかですね。
神の子らとこうあるんですけれども、これはおそらく敬虔な人たちのことを言うんでしょうね。
しかしそういう人でも、当時の人の娘たちでありますが、そういう女性の美しさに惑わされてしまって、気に入ったそういう女性を妻に芽たる。
もう自分の好みなら文句ないだろうというようなことでしょうね。
女性は美しさを競う、アピールする。
4節を見ますと、今度はネフィリムという人が出ますが、これは巨人だそうです。大男と言いますか。
ですから女性は美しさをアピールし、男性は強さあるいはたくましさがもてはやされるという、そういう時代だったんだという。
今ストレッチしてるとさっき言いましたけれども、昨年あたりから東大阪に教会があるんですが、そこの東大阪の私立のアリーナに週に1回ぐらい通ってまして、
ジムに行って300円で1回できる。行くとやっぱり凝った人がいるわけで、だいたい我々以上の年金でお暮らしになっている人たちが健康維持のためにバーベルをあげたりとか、何やかんややっておられるわけですよ。
中には非常にマッチョな人もいらっしゃるわけですね。見るからにムキムキというかね。それを見せるために半袖ですね。この歳でようやるなと思いながら私は健康維持のためにこうやって。
私の家内は同じ温水プールで歩行をして、膝がちょっと悪いもんですが、お互いそうやっていたわりながらというのか、奉仕ができるようにいろいろと工夫はしているんですけれども。
21:12
まあ今日もそのようにして健康事項というのは結構なんですけれども、しかし視点を変えればね、美しいことやたくましさというのがもてはやされているという。
でも神様の御目から見たらというのか、このいわゆる霊性の美しさとか豊かさというのは問われない。教会から一歩出たらそういうのは全く耳にもしないですよね。
教会だから私たちを清めてくださいとか言えるけれどもどうでしょうか。そういう霊性の美しさや豊かさがどこで問われるのか。世の中では問われない。むしろ目に見えるところの美しさやそういう豊かさがもてはやされている。
つまり神様を恐れる経験さというのは失われているという。そして悪が徹底して横行しているわけですよね。
5節を見ていただきますと、「主は地上に人の悪が増大し、その心に計ることが皆、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」
考えることはそんなことしか考えないという。
そして11節、「地は神の前に堕落し、地は亡虐で満ちていた。」
自己中心というのはどこまで行くかというとここまで行っちゃうという。
現代も残念なことですがそのような状態なんだなという。
自分を愛し、金を愛し、神よりも快楽を愛するという、そういう生き方風潮が圧倒的なんです。
みんな自分中心なんです。自分ファーストなんです。
そういう中でそれでも流れに差を指すようにして生きているのが私たちですが、愛を熱く保って生きていくのが私たちはないでしょうかということです。
2つのことで今日は見たいと思うんです。
1つはイエス様のお姿からですが、深い同情を寄せて生きるということ。
もう1つはこれはアブラハムの姿からですが、魂のために取り成すということなんですね。
もう既に本論に入りました。ちょっと聖書を読みます。
マタイによる福音書ですが、9章の35節、36節です。
24:01
それからイエスはすべての町や村をめぐって街道で教え、身国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを癒された。
また群衆を見て羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
ちょっと節を書くのを35とか36を打てばよかったんですけれども、打つのをここはちょっと忘れてしまいまして。
ここにイエス様の働きがまとめられているわけです。
イエスはすべての町や村をめぐって街道で教え、身国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを癒された。
というのがイエス様の働きのまとめのようなところなんですね。
ご存知のように、マタイによる福音書の8章と9章というのは、そのイエス様の働き、力ある業と言ったらいいでしょうか。
奇跡を起こしたり、癒しがなされたりとかいう、そういうのが一塊でなされている。
その最後と言いますか、まとめのようなところなんですね。
だからイエス様はいつでもどんな時でもと言いますか、こういう働きをなさったんだと。
街々村々をめぐり歩かれて、そしてユダヤ人の街道で教えられる、安息日にはね。
そして身国の福音を述べ伝えられる、野外でもなさったわけです。
そしてあらゆる病気やあらゆる患いを癒しになったという、癒しの技もなさった。
教えて述べ伝えてお癒しになる。しかもそれをめぐり歩いてというね。
その教えを受けた人たち、福音を聞いた人たち、あるいは病気を癒された人たちは、じゃあみんなイエス様を受け入れたんだろうかと。
もちろん受け入れた人もいるんですけれども。
この8章9章を見てまいりますと、むしろ非難するというんですかね。受け入れない人の方が多かったんじゃないかと。
あれだけ命を削りながら働かれたわけですよね。
寝る間も惜しんでというのか、食べる時間も割いてというか。打ち込まれた。
ところが人々はイエス様をどういうふうに評価したかというと、ここにあります人々の評価ですが、この人は神を怪我している。
これは中部の人を癒されたその時ですよ。あなたの罪は許されたとまずおっしゃったわけでしょ。
その時に神を怪我している。罪を許すことのできる方は神様以外にいない。そりゃそうでしょ。
けれどもその目の前にいるイエス様を神だとは信じない人にとったらもうこれは冒涜しているということになるわけですよね。
27:04
神を怪我している。あるいは不道徳だというんです。なぜあなた方の先生は主税人や罪人と一緒に食事をするのか。
魔体という人がイエス様に命されてね。そして弟子に加わっていくという、そのままいわば相公開というかそんな時のことですよ。
非難する人たちは直接イエス様に言えないものですから弟子たちにこっそりとこうね、あなた方の先生は主税人や罪人と一緒に食事をするのかという非難をする。
不道徳違うかという。私たちはそういう人たちとは食事はしませんよと、こう当時の宗教的な人たちは言うわけですよね。
あるいは経験さがない。なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。あなたの弟子たちは断食しないのか。
この断食というのは宗教行為であったわけですよね。けれどもイエス様の弟子たちは断食はしない。神様を敬うという、そういうのが何に違うかとこういうことを言う。
あるいは悪霊、悪魔の味方だって言うんですね。彼は悪霊どもの頭を使って悪霊どもを追い出しているのだと。
癒された人がいたんだけれども、そのことを見てですね、また非難するわけですよ。イエス様が悪霊の頭を追い出したという。悪霊だからだ、悪魔だからだと。こういうわけです。
身に覚えのある非難ならそれは甘んじて受けるということはあると思うんですよね。お互いね。
けれども自分にはそんな、したこともないようなね。本当に嘘八百のようなことをまくし立てられてね、非難されたらどうでしょうかね。
大抵の人は頭にくるですよね。怒りますよね。私はそんなこと言ってませんとかしたことはない。当然そうなんです。
で、イエス様だってそんな身に覚える、こういう非難をですね、もう浴び続けたわけです。
とにかく癒す度に、あるいは奇跡を起こす度に、人々は称賛しイエス様を皆受け入れるのだったのかという、そうじゃない。こんなですね、まあことを言い出してたわけです。
ところがイエス様はそうであってもね、いつもと同じような働きはなさったわけです。
すべての町や村をめぐって、街道で教え、身国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを癒された。
30:05
で、その相手の人たちはイエス様にどう映ったんだろうかなという。それはね、こうありますよね。
また群衆を見て羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らを可哀想に思われた。
可哀想に思われた。イエス様は可哀想に思われた。避難する人たちに対して腹立てたんじゃないんですよ。むしろ可哀想に思われた。そういう人たちも含めてね、可哀想に思われた。
元々の言葉は内蔵を表す言葉だそうです。これは私たちもよくわかるんですよ。感情の座がですね、内蔵にある。
なぜかというと胸が痛むとか言いませんか。本当に胸が痛むわけじゃないけれども、苦しい思いをした時にね、胸が痛むとか。断腸の思いですとかね。
日本語でもそういう言葉を使いますよね。ここに感情の座があるとは思いませんけれども。
胸が痛むとかね。そういうわけです。イエス様も可哀想に思われたということは、胸が痛むほどの同情を寄せられたということです。
多くの人はイエス様のことを正しく理解できませんでした。当時のそういう宗教的な指導者たちは、避難するわけでしょ。
けれどもそういう人たちに向かってイエス様は怒りをぶつけたりとか、もうわからん奴やなというようなことをですね、おっしゃらずに、
かえって胸が痛むような、心が切り刻まれるような、そういう思いを抱かれた。これが聖書の神様なんですね。
当時はギリシャ・ローマの世界ですね。ローマという大きな帝国というか、当時の地中海を支配していた、地域を支配していた、その中の東の端にあったパレスチナ地方です。
当時の一般的に考えられた神様というのは、ギリシャ・ローマの世界ではですよ。聖書の世界ではない、ギリシャ・ローマの世界では、
その時考えられていた神様というのは、あらゆるものに超越したお方で、人間一人のですね、悩みや苦しみに心を痛めるというようなことはしない。
もしそんな人の痛みや苦しみに同情を寄せるような神様であるとすれば、それは神様と違う。
33:05
これが一般的であったようです。
ところが、聖書が私たちに教えてくれる神様の姿というのは、ご自分の痛みとして受け止めて、ご自分の本当に心が切り刻まれるような、そういう思いをなさるお方だということです。
かわいそうに思われた。
だから私たちも、その神様のそういう哀れみというか同情を注いでいただいているわけです。
結局この神様であるイエス様は、人々に苦しめられて十字架につけられますよね。
当時の神様という考え方で言えば、神様らしくないことをなさったわけです。
超越してはあるけれども、神様であられるからこそ、本当の神様であられるからこそ十字架にまでついて下さる。
そのイエス様はここではね、人々が弱り果てて倒れているというふうにイエス様の御名には移ったわけなんです。
なぜなのかというと、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れているとありますでしょう。
つまり、羊飼いがいないと言うんです。
本当なら羊は羊飼いによって養われるんだ、守られるんだ。
けれども、その多くの人たちには羊飼いがいない。
これをコンニチューに考えれば、神の言葉を語り、伝え、解き明かす人がいないと言うんです。
御言葉によって養われていないから疲れ果てて倒れる。
イエス様はおっしゃったんですよね。
人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものだと。
まなかにそうなんですよ。
神の言葉によって生かされ養われているのが私たちです。
しかしそれを語り、伝え、解き明かす人がいない。
だから倒れてしまう。弱ってしまう。
多くの人は御言葉によって養われていないわけでしょう。
目に見えるところでは楽しく豊かです。
実際ね。本当に豊かな社会だと思います。
また、娯楽を楽しもうと思えば、いくらでも楽しむことのできる社会ですよね。
36:06
でもイエス様の運命には人々はもう倒れているんです。
弱り果てて倒れているんです。
だからこの人たちを見て深い同情を寄せずには掘れなかったんですね。
私たちは御言葉に養われているんです。
毎週、もちろん毎日御言葉を御自分で読んで養われることもあるし、礼拝で御言葉を聞いて養われているわけです。
何でも一回きりで全部というわけではないわけで、
私たちは地上にいる限り聞き続けないといけないんです。
寝駄目食い駄目もできませんけれども、御言葉の聞き駄目もできない。
毎週聞き続けなきゃいけないんですよ。
だからこれは特別なこういう政界に招いていただいていますけれども、
大切なのは毎週の平凡な礼拝の積み重ねなんです。
どうぞそれは大切になさってください。
聞き続けるんです。そして養われ続けるんです。
そうするとね、私たちの内側が豊かにされていくんです。
そういう私たちはどういう生き方をすべきなのかというと、主に習って生きるということなんです。
このヨハネの第一の手紙の三章十六節十八節ですが、
キリストは私たちのために御自分の命を捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは兄弟のために命を捨てるべきです。
世の富を持ちながら兄弟が困っているのを見て、
憐れみの心を途絶すようなものにどうして神の愛がとどまっているでしょう。
この愛がちょっとひらがなになっています。
子供たちを私たちは言葉や口先だけで愛することをせず、
行いと真実を持って愛そうではありませんか。
この三章十六節は日本イエスキリスト教団の今年の見言葉の一つです。
イエス様は私たちのために十字架で御自分の命を捨ててくださった。
それによって私たちはこの愛ということを知ったわけですね。
つまりイエス様は深い同情を、憐れみを十字架という具体的な行動で表してくださったわけです。
この十六節の最後の言葉ですが、
「ですから私たちは兄弟のために命を捨てるべきです。」というこの言葉があります。
兄弟のために命を捨てるという。
聞き様によっては激しい言葉なんですね。
39:02
命を捨てると言ったらこれは尋常じゃないわけです。
自己犠牲というのがよぎりますよね。
自己中心な私たちが自己犠牲に生きるというのは、
本当に自分の何かで変わらないんです。
変えられないんですよ。
あくまでも私が大切なの。
そういうお互いが自分を犠牲にして誰かのために生きるというか、
できるかというとね、
これは自分の努力や頑張りはできないわけです。
イエス様のその犠牲があればこそ私たちも変えられるんですけれども、
しかしそれでもあえて命を捨てるという兄弟のために。
これができますかと言われて、
すぐ手が上がる人というのはまずいないと思うんですよ。
まず一歩下がりますね。腰引きますね。
でもね、言い方を変えればこうじゃないかと思うんです。
それは17節なんです。
世の富を持ちながら兄弟が困っているのを見て
憐れみの心を閉ざす者にどうして神の愛がとどまっているでしょう。
こういう言葉なんです。
兄弟が困っているのを見て憐れみの心を閉ざす。
兄弟が困っているということは別に全く見ず知らずの人じゃない。
教会の兄弟姉妹たちですよ、ここでは。
皆さん方がここにいらっしゃる。
そうすると毎週のように顔を合わせる。
そういう兄弟姉妹たちですよ。
もちろんいろんなご都合で毎週来れない方もいらっしゃるかもしれないけれども、
いわゆる明太利教会のメンバーですよ。
顔は知ってますでしょ。
名前も知ってます。
それじゃなくて、もうちょっと深く知っていくと
その人の生活ぶりというのか家庭というか、そんなことも分かってくる。
知っている人は知ってある。
その人たちが、私の兄弟姉妹たちがどういう理由かわからないけれども困っている。
いろんな困り方があるわけです。
経済的な困り方もあればね、
あるいは人間関係での困り方もあるかもしれませんし、
健康的な困り方もあるかもしれませんが、
いろんな困窮というのは私たちは持っているわけですよ。
それを知っている。
その時に、ここに哀れみの心です。
つまり、イエス様があの倒れて弱っている人たちをご覧になって
かわいそうに思われたという、あの心を戸出してしまったら、
どうなのかと。
神様の愛がとどまってない。
でもその時に、私のできる範囲で何ができるんだろうかなと。
42:00
それを考えることは我々ができるんですよ。
自分たちの工夫でいろんなことができると思うんですね。
具体的なことはたくさんあるのでわかりませんけれども、
一つ一つ具体的なことからだと思います。困っているという。
その困っているのにどうしたら私はサポートできるんだろうかとかね。
これはやはり私たちの具体的な問題になる。
そこで兄弟のために命を捨てるという一つの形になるんじゃないかと思うんですよ。
別に命を捨てるという大がかりなことをする必要も、
まあ必要な時はあるかもしれんけれども、
大抵私たちの場合は、そこまでじゃなくても自分のできる範囲で
私たちの群れの愛する方々のために、
特に困っている人たちのために何ができるんだろうか。
こういう意識は大切だと思うんですよね。
自分中心じゃ絶対できないと思いますよ。
自分のことしか考えない。
でも、そうやって自分以外のところに目が開かれていくと、
私たちは少しでもイエス様に習うことができるんじゃないでしょうか。
先ほどね、聖火隊の方も賛美してくださったように、
主のように。
それが本当に日頃の生活の中で活かされていけば、
もっともっと素晴らしいことが起こってくる。
二つ目のことです。
愛、魂のために取り成すという、愛を熱く保っていくために。
アブラハムの霊からです。
ちょっと創世記読ませてもらいます。長いんですけれども。
その人たちはそこを立ってソドムを見下ろす方へ登って行った。
アブラハムも彼らを見送るために彼らと一緒に歩いていた。
主はこう考えられた。
私がしようとしていることをアブラハムに隠しておくべきだろうか。
アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は彼によって祝福される。
私が彼を選び出したのが、彼がその子らと彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正等を行わせるため。
主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためである。
そこで主は仰せられた。
ソドムとゴムラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪は極めて重い。
私は下って行って私に届いた叫び通りに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。
私は知りたいのだ。
その人たちはそこからソドムの方へと進んで行った。
45:02
アブラハムはまだ主の前に立っていた。
アブラハムは近づいて申し上げた。
あなたは本当に正しい者を悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。
もしやその町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。
本当に滅ぼしてしまわれるのですか。
その中にいる五十人の正しい者のためにその町をお許しにならないのですか。
正しい者を悪い者と一緒に殺し、そのため正しい者と悪い者とが同じになるというようなことをあなたがなさるはずがありません。
とてもありえないことです。
全世界を裁く方は抗議を行うべきではありませんか。
主は答えられた。
もしソドムで私が五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのためにその町全部を許そう。
アブラハムは答えて言った。
私は塵や灰に過ぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。
その五人のためにあなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。
主は仰せられた。
滅ぼすまい。
もしそこに私が四十五人を見つけたら。
そこで再び尋ねて申し上げた。
もしやそこに四十人見つかるかもしれません。
すると仰せられた。
滅ぼすまい。その四十人のために。
また彼に言った。
主よどうかお怒りにならないで私に言わせてください。
もしやそこに三十人見つかるかもしれません。
主は仰せられた。
滅ぼすまい。
もしそこに私が三十人見つけたら。
彼は言った。
私があえて主に申し上げるのをお許しください。
もしやここに二十人見つかるかもしれません。
すると仰せられた。
滅ぼすまい。
その二十人のために。
彼はまた言った。
主よどうかお怒りにならないで今一度だけ私に言わせてください。
もしやそこに十人見つかるかもしれません。
すると主は仰せられた。
滅ぼすまい。
その十人のために。
主はアブラハムと語り終えられると去って行かれた。
アブラハムは自分の家へ帰って行った。
創世紀十八章なんですが。
大きな災いが近づいていたというか。
ソドムとゴモラの街が裁かれるという。
やがてね。
この裁きというのは決して避けることのできない運命であったのか。
というとですね。
そこに住んでいる人たちの神様への態度が絡んでいたんですよね。
確かにソドムとゴモラの罪というのは。
沸騰点に達しているような状態です。
二十節を見ていただきますと。
ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく。
また彼らの罪は極めて重いと。
48:02
こういう風に言っています。
裁き、ごめんなさい。叫びですね。
ソドムとゴモラの叫びという。
この叫びというのは審判者に向かって正義を懇願する時の激しい訴えと。
こう言われています。
支えてあげられている人たちが叫ぶ。訴える。
その叫びや訴えが主に届くんです。
その届くと言いましても神様のほうでの寛容と忍耐が満ちるまで
その裁きや訴えが蓄えられていくというか。
しかし限界がある。
そして限界に達した時に裁きが形として現れるんですけれども。
このソドムとゴモラの裁きというのは単なる自然現象ではないわけですね。
神様の厳粛な裁きです。
しかしだからといって機械的にですね。
はいここまで満ちました。それで裁きますという。
そうでもないわけです。
というのはアブラハムがここで何をしたのかというと
その神様に対して虜しているわけですよね。
確かにソドムやゴモラの罪はもう悪徳はですね。
十分裁きに値する。
ところがアブラハムはその値するのはわかっているんだけれども
神様の前に出たわけですね。
この22節の最後の文章ですが
アブラハムはまだ主の前に立っていた。
アブラハムは近づいて申し上げた。
あなたは本当に正しいものを悪いものと一緒に滅ぼし尽くされるのですか。
これが取りなしての姿なんですね。
アブラハムという人は神様との親しい交わりを
常日頃から持っていたというのがわかるわけです。
わかるというのは何かというとこの17節なんですが
これ神様の言葉で私がしようとしていることを
アブラハムに隠しておくべきだろうかと
神様が一人ごとのようにおっしゃるわけですね。
どうしようかという。
アブラハムだけには話しておこうかなというそういうニュアンスがある。
これはもう神様との日頃からの交わりがあるから
こういうことを神様の方からふと漏らされる。
51:05
私がまだ新学生の頃ですけれども
バイオレット・マグラスという先生がいらっしゃって
講義を受けましてね
神様と二人きりになりなさいというこういう言葉を聞きました。
みんなで礼拝するというのはもちろん大切なんですけれども
また一面ね、神と二人きりになるという
そういう時間・場所というのも大切なんですね。
これは人からは見えない。
神様と私との関係ですよね。
アブラハムはそういう場所と時間を持ってた。
持ってたからこそ神様はこういう時にふと漏らしたわけですよ。
私がしようとしていることをアブラハムに隠しておくべきだろうか。
いや、彼だけには話しておこうかなという。
つまり神様の本音ですよ。
本音を聞き出すことができたのは
こういう日頃からの神様との交わりがあったからなんですね。
どうぞ密室とこうよく言われますけれども
大切にしたいと思いますよね。
そして彼は取りなしていきます。
22節からですが
アブラハムはまだ主の前に立っていた。
アブラハムは近づいて申し上げた。
あなたは本当に正しいものを悪いものと一緒に滅ぼし尽くされるのですか。
ほとばしるような旧礼愛です。
神様に向かってですよね。
天地を作られたお方。
全能の神様の前に
要は直談判しているという。
直訴しているということなんです。
そういうアブラハムの姿というのは
非常に大胆ではあるんだけれども
無功みずという部分もあるのかもしれませんよね。
こんな口の聞き方していいのかというね。
でもアブラハムはおそらくそういうことは
十分承知の上で出ているわけです。
それはそこには
つまりソドムやゴムラ町
もちろん老いのロトたちもいますけれども
54:01
たくさんの人たちがそこに住んでいるという
つまりそこに住んでいる人たちの
いわゆる魂の存亡がかかっているわけです。
魂が救われるかどうかというのが問題なんですね。
それでアブラハムはこのように神様に
肉吐くしたわけです。
世の中では物品を巡る値切りというのはあります。
大阪に住んでおりますと
値切ることは当たり前というような
そういう文化ですかね。
安く買えることが、手に入れることが
自慢になるという
そういう場所じゃないかなと思いますので
金銭感覚が非常に鋭い。
教会も地域によっていろいろと特徴がありますけれども
そういうとこではないかなと思いますね。
だから値切るということは決して恥ずかしくない。
むしろ当たり前というかね。
どこまでやれるかなというか。
教会におりましても
そういう姿を見て
私はこれは要せんわと思うんですけれども
平気で、平気というか
教会の財政を扱っている会計さんなんかはね
特にいろんな修理があって
業者との交渉とかするときにね
最後はこうやって
攻め合いしながらですね
やってますね。業者泣きそうな顔をしながら
これで勘弁してねというような感じで
そこまでして値切っている。
でもそれが普通というかそういう文化なんですね。
でもここでいう値切りは
物品をめぐることじゃない。
魂をめぐっての値切りなんです。
何とかしてソドム・ゴムラを助けたい。
そこにいる人たちを助けたい。
この一点です。
それで50人から始めてですね
10人までやっちゃうわけですよ。
10人正しい人がいる。
まさにその命を捨てるというか
捨て身になって
アブラハムは神様の前に出ているんですよね。
私たちもそういう肉迫する祈りというのを
捧げたいなと思いますね。
もちろんね
公のところで祈る場合
あまり肉迫するような祈りが聞かれたら
ちょっとビビっちゃうかもしれませんけど
しかしこれは神様と一対一でしょ
アブラハムがやっているのはね。
そういう密集性の時はどうぞ
ご自由にやってくださいというか
57:02
どんなに肉迫されてもいいと思いますよ。
日ごろ上品であられる方も
こういう時だけは思い切り
なさったらいかがでしょうかね。
これだけは神様は聞いてくださいよという
そういう祈りというのはお互い一つや二つというか
持ってん違うかという祈りの課題という
今年21日になりましたけど
今年は去年からの
継続した祈りもあると思います。
これだけは今年なんとかという
アブラハムの取りなしに対して神様は答えられたんです。
ほとばしるようなこの旧恋愛の中に
神様は答えてくださったんです。
答えてくださったんです。
神様のご計画というのはただ
ソドムとゴモラの罪はもう一杯になりました
だから裁きますという機械的なものではないと思います。
このような無私無欲な取りなしを
聞き入れてくださる。
結果を見たらお分かりのように
10人いなかった。10人もいなかった。
けども10人いたら許そうとまでおっしゃったんです。
ですから神様のご計画の中に私たちの
そういう取りなしを
聞いてくださる余地はあるんです。
でもしなかったらどうなるのかというと
それはお分かりでしょうが
神様はご自分のご計画をなさるんでしょうね。
今日こういう人たちを求めておられるんじゃないかと
思いますね。
ひるがえって日本はどうかと
数多いですね。1%いるのかな
クリスチャンは。
その中で礼拝に出席する人たちはどれだけいるのかなと
誠になんかこう
お寒い話です。しかしそれでも私たちに
チャレンジを与えてくださっているんです。
愛を熱く保ってね。
自分のできる範囲に残ってその愛を表していきたいし
このように数多の人たちのために
自分のこの人あの人のために
ほとばしる旧恋愛をもって
取り成していく。そういうお互いでやりたいと願います。
お祈りしましょう。
59:35

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