今日は、「天国で再び出会う為に、愛の実践が必要だ」という内容でメッセージを分かち合いたいと思います。
今は四旬節の時期です。 今度の四旬節には、イエス様が十字架を背負う前に、私たちに言われたことの中で
二つのことを特に関心を持って分かち合っているところなんですけど、先週、その初めのことを申し上げました。
まず、愛する弟子たち。残されている弟子たち。 自分は今、神のもとに行く。残されている弟子たちに何を語ればいいのか。
先週、まず初めには、終末論ということと、再臨するよということを教えてくださいました。
皆さん、終末論は大事です。 私たちみんな、いつかは死にます。
この世の中の終わりはいつ来るか分かりません。 ところが、私たちの終わりは、もう間もないかもしれない。
私のふるさとから連絡がありました。 私より2歳上の私の親戚がいるんですけど、
この親戚がジェンリーチューセンで問題があって、亡くなったということを話してくれました。
それで私に、兄もジェンリーチューセン気をつけろよ、と言われました。
2歳上の人が亡くなった。私どうなるか分からない。 人類の終わりはいつかは分かりません。私はそこにはあまり関心がありません。
しかし、私自身、個人の終わりはいつ来るか分からない。
終わりということだったら、何が一番心配ですか。ヘブラリー書9章27節に、
また、人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。
一度死ぬ、これで終わりではないんです。 この後は裁きを受けることが定まっている。
みなさん、救いと裁きは個人の事柄です。
他の人が代わりにしてあげることはできません。 私たちは子どもたちを愛しています。
しかし、子どもの救い、子どもが神様から裁きを受けるのに、親が何ができますか。
できません。ただ祈ることはできますけど、この以外はできません。
裁きによって永遠に命が与えられるか、 永遠の罰が与えられるか決められるんですけど、
そこを私たちはどうするかできません。 永遠の命か、永遠の罰か、準備する期間は私たちが生きているこの世だけです。
死んだらもう準備できません。 だから生きている間準備しなきゃいけない。
私の親戚みたいに、この2年後私が死んでしまうかもしれない。 私の準備期間は2年に過ぎません。
皆さん、永遠な地獄なのか、永遠な天国なのか、 天国に入らなきゃいけないでしょ。これは当たり前のことです。
信仰の一番大事なのは救いですから。 そのために2年残っているなら、
毎日毎日をどう過ごせばいいでしょう。 それを私たちが考えなければいけないことはイエス様が教えてくださったんです。
もう一つは再輪信仰ということです。 イエス様は再輪なさいます。
再輪なさる理由は裁き主として来られることもありますけど、
イエス様を再び来られる理由は、ご自分を愛するご自分の花嫁をお連れに来られるんです。
じゃあ皆さん、私たちはみんなイエス様の花嫁。 御礼に参加するべき花嫁です。
今イエス様の花嫁として準備できてますか。 花嫁の一番大事なことはイエス様だけを愛することです。
私たちはイエス様以外に、また世の中の何かを愛してるんじゃありませんか。
そこを下ろしておいて、イエス様をもっと愛しなきゃいけない。 信仰で一番大事なのは救いなんですけど、救いはイエス様を一番愛する人が天国に入る。
でもイエス様よく正直に教会に来られる皆さん、 イエス様を愛してますか。
教会に行って何かすれば祝福されるか、いろいろなことを考えるかもしれないけど、 イエス様を愛してますかといった時にどう答えますか。
いや、イエス様は私あんまりそんなに愛してないような気がする。 なぜ?分からないから。
イエス様はどんなお方なのか分からないから。 分からないからイエス様を愛することができない。
だったらこれからもっともっとイエス様にだって知りたい。 もっとイエス様に愛したい。
その準備をする期間、私だったらこれから2年、 もし私の親戚みたいになるんだったら、もっとイエス様知りたい。
もっとイエス様愛したい。2年残ってます。 これは信仰の本質じゃないですか。
準備しなきゃいけない。 それをまずイエス様が先週教えてくださったことです。
じゃあ今週はまた大事なことです。 キリスト教が言っている愛は何なのか。
またその愛の実践と関係して 宗の晩餐、十字架がどんな意味があるのか、それを今日一緒に分かち合いたいと思います。
皆さん、私はみんな知っていると思っている信仰について
皆さん、信じるなら救われ天国に行くと思いますか。 そうではありません。
信じるんだって何を信じますか。 神様を信じる、イエス様を信じる。
イエス様を信じるんだったら、イエス様が互いに愛し合いなさいと言っている。 愛はしていないのにただ信じることをしてやっている。
これは矛盾ではありませんか。 イエス様を信じるならイエス様が言われた、互いに愛し合いなさいということを今実行しているでしょう。
その意味で信仰とイエス様が言われたことを行うことは非常に関係があります。
その部分を一緒に今日考えていきたいと思います。 その前に今週は受難週です。
受難週の中で大事な木曜日、金曜日のこと。 今週木曜日、金曜日をこのように考えてぜひ過ごしてくださいという意味で
2000年前、木曜日、金曜日、何があったのかを少しわかっちゃってこれから始めたいと思います。
2000年前の木曜日はユダヤ人に一番大事な杉越の祭りの時でした。
だからイエス様と弟子たちが杉越の祭りの食事を一緒にするように場所を決めているんですね。
食事の途中でいきなりイエス様はこのたらいで水を汲んで、そして弟子たちの足を洗い始めた。
その意味は何なのか、それを後ほど皆さんとわかっちゃいたいと思います。 また食事の途中で
いきなりこのような話をします。 ヨワネ13章21節です。
はっきり言っておく、あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている。 私がパン切れを浸して与える人がその人だと言いながら
イスカリティユダヤにパン切れを浸して与えた。 ところがイスカリティユダヤはそのパンを取ってそれで出てしまいました。
なぜイエス様はこのイスカリティユダヤにいきなり食事の場でその話をされたのでしょう。
イエス様はイスカリティユダヤが裏切ることをわかっていました。 裏切ることだったらこの後どうなるかもわかっていました。
それでイスカリティユダヤがそのことを悔い改めて
ああ私が間違い事を食わたてていました。 それを私は悔い改めますということを導くために
イエス様はそのような話をいきなり答え的にされた。 イエス様はイスカリティユダヤを救いたかった。
愛したから。 だからイスカリティユダヤがこれからあなたは悪いことしてはいけないよと言ったのに
彼はパン切れを受けてそれで出てしまいました。 拒否。
私は私の道に行きます。あなたが何と言っても私がやりたいことをやるよと言ってしまいました。
結局イスカリティユダヤがいない状態で最後の晩餐式を行いそれから国別の説教を行い
それでオリエビアマに行ってお祈りをされる。 その時にイスカリティユダヤが連れてきた
軍兵たちによってイエス様は逮捕されるようになります。 それが木曜日の夜遅くです。
そして金曜日に入りますけど金曜日の朝早く 夜明けの1時頃
大祭司長アンナスの家でペテロがイエス様を3度も否定することをイエス様は見ています。
悲しかったでしょう。 本当に今までペテロにやってあげたことは本当に虚しい気持ちになるほどのイエス様の心ではなかったでしょうか。
そして夜明けの3時にサンヘドリン公会が招集されます。 そこでサンヘドリン公会がイエス様を尋問します。
それでイエス様を死刑に宣告するようになります。
ところがローマの植民地であったイスラエルには死刑をする権利がなかったので
ローマが持っていたので自分たちが死刑という宣告をしたんだけど死刑するためにはピラードの力が欲しかった。
だからピラードのもとにイエス様を送ります。 これが夜明けの3時の頃です。
ピラードがイエス様を尋問しました。 罪がないんです。
どうすればいいのか。周りはもうウワウワとして十字架にかけろ殺そうといろいろな話を聞くから彼はもうそれをなんとか避けたかった。
それでヘルデ王のところに送りました。 ヘルデ王は本当に悪い。イエス様をからかうだけでもう取り戻された。
6時半 ピラードは第二尋問を行います。
それで罪がないことをもう一度確認します。 しかし罪がないことをわかっていながら
ユダヤ人たちが民乱を起こすんじゃないかとそれが恐れてイエス様を死刑をするように命じた。
じゃあ十字架刑を受ける前に 鞭打ちで半殺しをします。
それで鞭を打たれてそれから十字架のこの重いものをそれを背負って頃から丘に登るんですけど
それで今日教会学校の教えてくださったいろいろなことがそこにあるんですね。
金曜日朝9時に十字架にかかられそして午後3時に息を引き取られたということです。
そして金曜日土曜日そして日曜日3日目の朝早くイエス様が蘇られたということです。
これが今週にあることです。 私はこの記事をずっと書きながら
本当におかしいことと思いました。 今イエス様はどんなお方ですか。
イエス様は全世界の持ち主、また万王の王、万主の主です。
万王の王、万主の主を目の前にして世の中の権力を持っていると思っているこの人たちが何をしたのかを考えています。
罪がないことを知っていながら与党主裁判をし、罪がないことを知っていながら民心を恐れて死刑を宣告したということです。
これがどれほどとんでもないことでしょうか。
後ほど彼らはその目の前にあるこの全世界の裁き主であるイエス様の前に自分たちが逆に裁かれるようになっているのに
彼らは今世の中で持っているこの権力をそれを持ってイエス様を十字架にかけて殺したのです。
これから見ますと、今世の中で私たちが持っていることはどっちほど全部なくなるもの、消えてしまうもの。
だから私たちはこの世で何があってもどんなことを持っているんだとしても謙遜にならなきゃいけない。
また人は真実でなければいけない。
謙遜と真実さを持って私たちが世の中に私たちの生活をしなきゃいけないんだなということを、この1週間のことを考えていただければと思います。
今日は2番目のこととしてイエス様が行われた2つのこと、禅促式と死の晩餐、まずは禅促式のことです。
なぜ禅促式が必要なのか。
ユダヤ人たちは歩いているこの土地が砂の上にスリッパを履いて歩いているような状態です。
だから一番汚くやりやすいところが足です。
イオハネ第2章を見たら金の金霊のところで見ていますと、家の前にはいつも水亀がありました。
水亀に水をいっぱい入れておいて、家に入ってくる人は水亀の水を持って全部手足を洗うことです。
当時奴隷の中で一番身分が低い奴隷が足を洗ってあげる奴隷だと言います。
しかしイエス様は弟子たちの足を洗ってあげるんです。
そうしながら13章14節に
ところが主であり死である私があなたたちの足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。
私たちが隣人を愛するべきですけど、どのように愛しなきゃいけないのか。
その人の一番汚いところを自分の手で洗ってあげるように他の人に使えること、これが愛することだよということを教えます。
ところが今日ペトロが、いや私の足は絶対洗ってはいけません。洗わないでください。
次にイエス様が主の晩餐式を行います。
主の晩餐が何を教えることなのか。 キリスト教で一番大事な十字架を教えてくださることです。
イエス様はなぜ十字架で死んでくださったんですか。
第一話の3章8節には、罪を犯す者は悪魔に直しますと言います。
私たちは罪によって悪魔の奴隷になっています。 罪の奴隷、悪魔の奴隷。
もう皆さん、今キリストシャドウと言っている人の中でも、
罪の奴隷、悪魔の奴隷になっている状態に今ままいるかもしれません。
じゃあどうすれば、罪の奴隷、悪魔の奴隷から私たちは自由になれますか。
聖書はヘブライション9章22節。 血の流しがなければ罪の許しがない。
血を流すということは死ぬという意味なんです。 誰か罪のために死ななければあなたの罪は許されない。
だからイエス様は私たちみんなの罪を背負って、それで贖いの死を死んでくださいました。
イエス様が十字架で私たちの身代わりに死んでくださったから、罪が許され、呪いが解決でき、
サタンから解放され、救いをいただき、天国に預かるものになり、
またこの十字架によって神様と和解ができ、人々と和解ができ、
また私たちには癒しと回復の希望を持ちようになります。
その中で最も大事なのは、十字架によって祈りを行った人の家には、
命の聖霊様が入ってきてください。 この聖霊様が救いの印であり、
神の子供の印であり、すべての印であります。 この聖霊様はどうして私たちの家に入るようになったんですか?
十字架によって、十字架の恵みによって入ってくるようになった。 ですから私たちはこのイエス様の十字架は、救われる時だけ、
私の罪を告白します。イエス様は私の心に来てください。信じます。 これで一回だけ使うんじゃなくて、私たちは十字架を毎日毎日、
十字架によって生きる生活にならなければいけません。
ところが、私たちはすぐ忘れちゃう。
前と私が違うのは、65歳過ぎたらもう頭が変になって、すぐ忘れちゃうんです。
朝約束したのに、もう夕方になれば全部忘れているから。 私とあまり約束して、僕は信頼しない。こんなこと言わないでください。
年取ってみてください。全部忘れてしまいます。 イエス様が十字架でやってくださった、これを素晴らしいことを、
いつまでも覚えていかなきゃいけないのに、私たちはすぐ忘れてしまう。
だから、信仰を持って教会でやることと家でやることは全く違います。
また職場に行ったら、もともと違います。 自分の力で生きながら、また再び罪の奴隷、悪魔の奴隷になってしまうことではないでしょう。
どうすればイエス様の十字架の愛、恵みを、いつまでもいつまでも覚えながら、私たちはそれを忘れないで、
もうこれから10年、20年、100年、1000年経っても、それを忘れないようにできますか。
それによって私たちから頂いて、もう罪を勝ち抜き、サタンを勝ち抜き、また神の子供たちで自分の信仰と天国を私たちはしっかり保って、これから永遠に永遠に勝利の人生ができますか。
忘れちゃうんですよ、すぐ。 だから今日見言葉を聞いても忘れてしまうから、もう見言葉を頂かない人のように生活している私たち、このバカなような私たち。
その私たちをためにイエス様が十字架を忘れないように、特別な方法で教えてくださるんですけど、これが
いつも私たちが食べている朝昼晩、ご飯を食べて
スープを飲む、パンを食べてサカセキを飲む、同じように
食べ物、1日3食を食べる食べ物を通して十字架を覚えるように、忘れないようにさせてくださったんです。
これが主の晩餐なんです。主の晩餐でもう西洋の世界ではパンを食べ、
韓国、私たち日本と韓国ではご飯を食べるでしょう。じゃあパンを食べ、ご飯を食べるのはイエス様の体が私たちのために
裂かれたことを覚えさせる。イエス様はムチを打たれて体が裂かれました。
またイエス様は十字架に釘にかけられる時にイエス様の体が散らされました。
イエス様の体が裂かれたのは、イエス様が私たちを生きる命のパンになってくださるために
イエス様は体を裂かれてくださったんです。パンを食べるために、ご飯を食べるために
私はイエス様の十字架の恵み、十字架の功労によって生きるんだということを私たちがいつも記憶して、それを通して勝利の人生を過ごすように。
また主の晩餐式でサカセキを飲む、私たちはスープを飲む、これはイエス様は血を流してくださったことを覚えるためなんです。
マタイ26章28節、これは罪を許されるように多くの人のために流される私の血、契約の血である。
イエス様の血によって私たちは罪から許された。 だからサタンは私を手を出すことができないんだ。
罪が許されたから私は神の子供、そしてこれから天国に入るんだ。
これすべてこのスープを飲むとき、サカセキを飲むとき、それを覚える覚える覚える。
このように主の晩餐のパンとサカセキを通してイエス様と体、血を飲み、喰いをしながら
私たちはいつも十字架の恵み、罪呪いから私たちは解放され、悪魔と地獄から解放され、神の子供になり天国の救いをいただいた。
これをいつも覚えて、これを宣言して、そしてこれを持って勝利の人生を過ごすように教えてくださった。
こんな大事な大事な十字架。 イエス様はこの十字架をどのように背負うようになったんですか。
皆さん十字架は世の中で想像できないほど怖い怖い怖い、この殺し方です。
十字架にかけられて、それでこの3つのところに釘を打たれ、そのここで自分の体重がかけられていったら、この体がどうなるんでしょう。
この痛みをどのように感じるでしょう。これを何十回失神するほどの痛みがある。
皆さん、イエス様はその十字架を考えるときに人間だから
ああ難しい、私は嫌だ嫌だと思っていたのではないでしょうか。
しかしイエス様は血せまりの祈りを通してそれを乗り越えられた。教会学のメッセージで教えてくださったんですね。
イエス様は血せまりの祈りを通して、私は避けたいんです。しかし私の願い通りではなく、神様の御胸が私に成し遂げられました。
それを3度も3度も祈りながら、上から十字架を背負う力をいただけました。
それで大胆に十字架の前に進み出てきました。
なぜこのことを覚えることが大事なのか。皆さん、私たちには自分の十字架があります。
イエス様は言われたんですね。信仰告白した人には、あなた自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。
皆さん、自分の十字架を私たちみんな持っています。
皆さんの十字架は何ですか。まあ、もともと私たちの男性だったら、私たちの家族があります。
子育ての義務がある。また、お仕事。
また、教会で私たちが持っている使命があるでしょう。
この一つでも私たちが分かります。逃げてはいけません。これ私たちJMをやらなきゃいけない大事なことです。
子供たちはどんな十字架があるんですか。勉強です。
また、子供たちは信仰。勉強と信仰、しっかりやっていかなきゃいけないんですけど、
事実、これは難しい。これは真面目にやろうとしたら、皆さん、難しい。
以前、私が会社にいるときに、私たち会社の生活と信仰ということが、これはうまく待ち合わない、できない。
会社で信仰、信仰と言ったら、もう大変ですから。
だから会社では信仰がないふりにして、教会に行ったら偉そうな信仰を持っているように、
そのように、もう両面性を持っている人生じゃないですか。
それじゃなくて、私は信仰を持って会社でも勝利し、また教会でも信仰生活をうまくやりたい。
どうすればできますか。子育て、みんな苦労しているでしょう。
皆さん、子育てほど私たち、大事な忠実感はありません。
今日、主の晩餐式をする意味を整理してみますと、私たちはイエス様の体、また血を飲みます。
それはどんな意味ですか?イエス様と体と血を飲みます。
食いします。これはイエス様と一体になる。主の晩餐式を通して、イエス様と私が一体になる。
大事ですよ。また、家族みんなが同じパン、同じ酒を飲むでしょ。
これを通して、私たちは神様、私たちみんなが家族ですよ。あなたが決めてくださった、あなたがつけてくださった、家族ですよということを神様に言われることです。
私たちは主の晩餐式を通して、各々家族です。だから私は、私の娘と言いながら、ユナさんが言いました。
そうです。家族です。3番目、主の晩餐式を通して、イエス様の十字架を背負って、私たちは救われた。
だったら、私も私の十字架をしっかり背負って、家族を救い、教会を救い、それから市民をジェームになっていきます。
決断の時間でもあります。イエス様と一体になり、教会の家族がもう私たち家族だということをもう一度確かめ、
神様の前で、私も私の十字架をしっかり背負っていきますという、決断の時間です。
このように、このような心で主の晩餐式を行うとき、イエス様が喜んで喜んで、主の晩餐式に現れ、上からたっぷり力を与えてください。
これから恵みと力によって、私たちがこの世で勝利の人生ができるように助けてください。
皆さん、キリスト教は愛です。
教理的に信じます。だから救われました。こんなことやめて。信じるなら、あなたは愛するはずだ。
これをぜひ覚えながら、信仰イコール、愛する心イコール、使えること、それをしっかり覚えて、これから生活していきましょう。
そうするなら、神様が喜んで喜んで、私の子をうまくやった。
そして御臨済をもって、最後まで助けてくださるでしょう。お祈りいたします。
イエス様は公的生涯の最後の時、ご自分が父のもとに行くことを考えながら、
この世で残された弟子たちを、本当に最後まで最後まで愛し合いました。
そして公的生涯の最後の時に、弟子たちに永遠な命が与えられるような人生を過ごすためには、
これから愛すること、使えることが大事だよということを、私たちに教えてください。
そしてそのことを、イエス様は十字架であげないの死を通して、私たちに対する愛を示してくださいました。
どうかどうか私たちもイエス様に見習って、私たちの十字架をしっかり背負って、イエス様についていきたいと思います。
どうか死を私たちはできません。しかし、あなたが力をくださるなら、できます。
私たちに豊かな恵みを与えてください。イエス様の皆を通してお祈りいたします。アーメン。