神様が作られた全世界に法則がいろいろあります。 その中で種まきと刈り入れの法則があります。
皆さん、これを考えたことはありますか。 もともとエデンの園には創世記1章2章で見ていますと、
そこには私たちが巻くものがありませんでした。 なぜなら神様がすでにもう植えておられました。
エデンの園で人間が巻いたことはありません。 エデンの園はすでに木がいっぱいありました。
人間がやるのはこれを管理すること。 収穫することは人間がやったでしょう。
いつから巻くこと、植えることが始まったのか。 これはノアの洪水の後です。
ノアの洪水の後に創世記8章22節を見ますと、 地の続く限り種まきも刈り入れも寒さも暑さも、
夏も冬も夜も昼も夜も止むことがないと言いました。 その時やっと種まきという言葉が出てきますね。
ノアの洪水の後、人間が巻く働きをしなきゃいけないのか。 でもその前は何だったのか。神様がすべて巻いてくださいました。
すべて神様が木を与えてくださった。 良かったですね。
ところが聖書はすべてが時があると言います。 コエレット3章2節。
生まれる時、死ぬ時があるように、 植える時もあるし、植えたものを抜く時があるんだ。
植えることも、 植える時に植えなければいけない。
植える時、植えなければ、 刈り取る時に刈り取るものがない。
これは本当に深刻なことです。 勉強も同じです。就職も同じです。
就職する時期に就職しなければ、 あと就職が難しくなる。
いろいろ皆さん、子供たちを通して経験されているでしょう。 その部分があるので、時が大事だということをまず考えていきましょう。
ですから、ヘブライ書4章16節には、 だから哀れみを受け、恵みに預かって、
慈儀にかなった助けをいただくために、 大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
慈儀にかなった恵み。 その時その時、慈儀にかなった恵みを、
私たちはいただくために、 主の前に、礼拝に出なければならない。
じゃあ、今日注意するべきことがあります。 今日大事なこと、カラディア6章7節です。
思い違いを知ってはいけません。 神は人から侮られることはありません。
人は自分が撒いたものを、また借り取ることになるのです。 神は侮られることはない。
神様を騙そうとする人がいます。 人間、頭がいい人間です。
自分は撒かないで、何とか借り取ろうと思います。 これは全部泥棒ですよね。
自分は撒かないで、他の人のものを盗もうとする。 これは大間違いです。
また、悪いことを飢えながら、良いことを撒こうとする。 これも許せない。
ですから聖書は、自分が撒いたものを、 自分は借り取るようになるんだ。
事実を考えてみますと、これほど怖い見言葉はありません。
あなたが撒いたものを、あなたは借り取るんだ。 だから撒く時、気をつけろよというような、本当に大事な警告です。
特にキリスト者たちは問題があります。 神様は愛だ。神は恵みだと言いながら、
キリスト者たちは、もちろん恵みは大事ですよ。 恵みはなければいけません。
しかし、飢えないものを借り取ろうとする人がたくさん、 キリスト者たちの中にたくさんいます。
例えば皆さん、子供たちが勉強はしないのに、 教会で熱心に祈ります。
良い成績をください。 これは大間違いですよね。
その時、神様は人から侮られる方ではない。 だからあなたが撒いたものを、あなたが借り取るのだ。
だから、撒くごとに熱心にやりましょうということです。 人間がやることがあるし、神様がやることがあります。
神様は何をされるんですか? 神様は恵みを与えてください。
力を与えてください。知恵を与えてください。 人間はそれを持って働くんです。
ですから、全てが成し遂げることは、 人間の100%、神様の100%。
神様は全力尽くして私たちを助けてください。 その助けをいただいて、私たちはその恵みによって全力尽くして働く。
これは神様の御業を成し遂げる方法です。 それから見てますと、
撒かなければ借り取ることができないのに、 私はまず撒いたのか?
また何を撒いたのか? これが収穫の時期に一番問われることです。
今年撒いてないのに、今何か期待していることはありませんか? 悪いことを撒きながら、いいことを借り取ることをいつも期待していることはありませんか?
これは神を侮られる、人から侮られない方を騙そうとすることだと考えれば、 これは収穫の時、気をつけなければいけないですね。
ところが、もっと気をつけるべきことがあります。 マタイの中古書13節です。
イエスはおこたえになった。 私の天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。
私たちが植える、蒔く、そして借り取るようになるんですけど、 そこに気をつけるべきことがマタイの中古書13節の言葉です。
この見言葉は、カラディア6章は、キリストシャーの倫理問題を取り扱っています。
私たちは1年間熱心に信仰生活しました。
ところで、その中で倫理的な部分を見落としてはいけないということです。
なぜなら、キリスト者たちは倫理の問題を軽く考える可能性があります。 なぜなら、私たちはすでに
イエス・キリスト十字架の恵みによって、罪を許していただきました。 救われました。
天国を手に入れたと思うこともあるでしょう。 私はすでに救われたから、天国に行くから、
これからどう生きるべきか、自分勝手に生きる可能性があります。 そうしながら人々をつまずかせたり、悪い影響力を与えたりする場合があります。
聖書は人をつまずかせることを厳しく取り扱っています。 マタイの中八章6節
しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人を つまずかせる者は、大きな石うすを首にかけられて、
深い海に沈められる方がましである。 私が牧師ですから、たまに
牧師たちの性的な問題と言いましょうか、いろいろな過ちに対して、 なかなかないんですけど、
メスコムから出てくる場合があります。 ただ牧師たちの世界ではいろいろなニュースが出てくるので、
私がアメリカで尊敬するある有名な先生が、 最近何かスケンダルに巻き込まれたという話があって、
残念だなと思いました。 牧師たちも人間だから過ちをする可能性があります。
しかし、メスコムからそのニュースを聞いた人は、 教会に悪口をするでしょう。
まだ教会に来ないかもしれません。 これはみんなに知らされてしまえば、これから伝道はできなくなります。
本人は主の前で熱心に悔いを改めて、徹底的に罪を捨てて、 それで神様から救いは与えられるかもしれませんけど、
神様を恥をかけることになります。 人間の存在目的は何ですか?主の栄光のために。
人間の目的は主の栄光のために、 主を喜ばせるために生きることは人間の一番の目的です。
しかし、一番の目的がダメになってしまったということです。 これが私の天の父が応援にならなかった気はすべて抜き取ってしまうという
御言葉に当てはまるのではないかと思います。 ですから神様は三乗の推訓で、
いつもは聖なるものになれ、私は聖なるものだからと言います。 救われた私たちに
非常に大事なのは清い生活です。 ですからパウルはキリストシャーの倫理についてお話ししながら、
収穫の法則とつながってメッセージをします。 カラディア6章7節から9節です。
思い違いをしてはいけません。神は人から穴取られることはありません。 人は自分の撒いたものをまた刈り取ることになるのです。
自分の肉に撒くものは肉から滅びを刈り取り、 霊に撒くものは霊から永遠の命を刈り取ります。
頼まず禅を行いましょう。飽きずに励んでいれば時が来て身を刈り取ることになります。
自分の肉に撒くということは何でしょう。 これは自分の肉が願う、欲する、
その通り自分が何とかやることです。 結局自分の肉に従って生きる人は滅亡と言います。
この滅亡ということは救いを失うことなんでしょうか。 生きている間にダメになるということでしょうか。
いろいろな意味があるでしょう。 滅亡になってはいけません。だから自分の肉に撒く人はダメなんです。
霊に撒く人、霊に撒くということは 精霊様に敏感になって精霊によく従おうと言います。
精霊によく従っていくなら精霊様は私たちに 永遠の命を与えてくださろうと言います。
ですから私たちは神の栄光のために まだ福音伝道に邪魔にならないように
救われた後、神道たちとしての 聖なる群れとしてのふさわしい生活をしなければなりません。
そうしなければ天国に行けない。 これではありません。
ところが私たちを救うために十字架で すべての血を流し犠牲になってくださった
イエス様の恵みに感謝して この感謝の心で私たちは聖なるものになろうと
頑張っていくことなんです。
これが聖徒としての当たり前の生活であり 神の恵みが自粛的に私たちに与えられる秘訣です。
この時神は栄光を受けられ また伝道の道が開かれます。
ですから救われた後の 神道たちの倫理的な生活は大事です。
倫理的な生活を巻いて神の栄光を勝ち取る。 命の救いを借り取る。
素晴らしいじゃありませんか。
だからキリスト者の倫理をしっかり 私たちが頑張ってやっていきましょう。
では私益の面でどのように収穫するのか。
救われた私たちは主の恵みに感謝して 何とか熱心にやろうと頑張ります。
何でも熱心にやれば神様は喜ばれるのか そうではありません。
救われた後の私益の面で 私たちがよくやらなきゃいけないことがあります。
これがすべて神様から何とかをいただいて それで働かなければいけない。
私は新学校を2000年度1年度4月に卒業しました。
3月に卒業して4月に九州のある教会に赴任しました。
あなたたちは行ってすべての民を私の弟子にしなさい。
はめ!
それで教会に行って熱心に弟子訓練とか 弟子にする働きをしました。
向こうの教会は平均年齢が65歳なんで 65歳の何かお年寄りの方たちを
弟子訓練とか何とか言いながら とにかく熱心にやりました。
初めは人が集まるように見えたんですけど だんだんだんだん来なくなり
いつもの方以外は教会に残らなかったと言いましょうか。
私は焦りがあって こんなに熱心に弟子訓練をするし
熱心に祈っているのになぜこれがうまくできないのか 私の熱心が足りなかったのか
これでもっと熱心にしようと思って頑張りました。
その中で韓国で選挙主たちの集会があると
それで私はそこに参加しました。
そこには私を教えてくださった 私の先生のような方が一緒に参加して
今その方はアレンティーナの選挙主で やっていらっしゃるんですけど
その方に出会って 日本で頑張ったのに何にもできませんでした。
実りがありませんでしたと言いました。
その方は初めは私に
あなたが日本で礼拝者として神を礼拝する これがまず大事だ。
日本でも神を礼拝する人がいるってことを あなたがいるところでやりなさい。
そうしながらずっと話をしているところで
三蔵の水君のマタイの七章中七節を 私に教えてください。
すべて良い木は良い実を結び 悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく また悪い木が良い実を結ぶことはない。
だったら皆さん実りがないってことは何でしょう。
私が今悪い木っていうことです。
ショークを受けました。
しかし問題は私が悪い木なんですけど 何が悪いのかがわからなかった。
何を間違えて何が悪いから今私には実りがないのか これがわからないんです。
結局わからないまま苦労しながら
僕は5年目に教会の中で問題がありすぎて
辞めました。
それで韓国に追い出されたと言っていいでしょう。
韓国で2年間浪人しました。
それでいつも神様に尋ねることがあります。
何が問題でしょうか。
私が何が問題で日本で私は献身したのに 実りもなく教会の問題が3席で家族もみんなダメになり
私はこのような状態になってしまったんですかと。
その時私は韓国で十字架の福音という若者を 群れの中に行って一緒に勉強しました。
そこで
イエス様はどのように働いたのか見ろ。
何か見せてください。
これはヨハネ公書17節と9節は20節です。
イエスはお答えになった。私の父は今なおお働いておられる。
だから私も働くのだ。
そこでイエスは彼らに言われた。はっきり言っておく。
子は父のなさることを見なければ自分からは何事もできない。
父がなさることは何でも子もその通りする。
父は子を愛して子自分のなさることすべて子に示してくださる。
私は教会のために主のために何でも熱心にやってました。
何でも。
何があったら全て熱心にやりました。
しかしイエス様は私みたいに何でも熱心にやったことではありませんでした。
神様の働きを見て
神様から示されることを熱心にされた。
自分は何でもかんでも熱心にやるんじゃなくて
神様との関係性の中で
神様の御声を聞いて従ったということです。
今まで私はこんな概念さえありませんでした。
私が働いたことはイエス様も働いたことでもないし
聖書が教えてくださることは全く違うものをやりました。