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今日のメッセージの題は、「私に従いなさい」という題です。
9月は、私たちの信仰を新たにしたいと思います。
私たちの信仰を新たにするということは、皆さん、信仰はもともと力があるものですよ。
信仰はただの理論ではありません。力あるものです。
信仰はものすごい力があります。
私たちが信じている神様は、見言葉によって天地万物を創造されました。
死んだ人も生かされ、太陽と月を止まらせ、
海を分けられ、見ることができない人を見させてくださり、
重い皮膚病も癒してくださり、天からマンナーが降られて、
また、岩から飲む水が出るようにしてくださる神様は、全知全能のお方です。
このように、神様を信じる私たちには、できないことは何にもありません。
これで素晴らしい私たちの信仰でありますけど、
今、私たちの信仰生活はどうですか?
私たちの信仰、なぜ力がないのでしょうか?
私たちの信仰は、神を知り、神を愛し、そのお方の見声を聞いて従うことです。
そうするときに、神様が共におられ、神様が私たちの中で働かれるんですけど、
私たちが神様より、この世を愛して、この世のことを得ようとして、
この世を愛し、この世を誇るから、神様が共におられないし、働かれないんです。
だから、私たちには力がないのではないかと思います。
神様は、このような私たちを哀れに思ってくださって、
ヤコブ4章4節には、
神に背いた者たち、世と友となることが、神の敵となることではあることを知らないのか、
世の友になりたいと願う人が誰でも、神の敵でありますと言います。
私たちが誇る、愛する、持ちたいと願っていることが、神様の敵のものです。
神の敵のものを愛しながら、神様が共におられることができるのでしょうか?
ですから、パウルはこれをよく知っているので、
この世の中のものを、排泄物として思いながら、キリストを得ようとして、
キリストと共にいたいと思って、キリストに従っていきました。
私、先週のメッセージをしてから、
皆さん、これをうまく理解できたのかなと思いながら、いろいろ考えたんですけど、
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もしかして皆さん、誤解の余地があったのではないかと思います。
では、この世の富と成功を愛してもいけない、誇ってはいけないと言う。
ただ、キリストを愛しなさいと誇りなさいと言うから、
キリスト社は金持ちになってはいけないのか?
キリスト社は名門大学に入ってはいけないのか?
後悔される方がおられるかもしれません。
いいえ、入ってください。いくらでも持っていてください。
しかし、そのようなことに心を奪われないで、そのことを誇らないでください。
代わりに、それを下さった神様をもっと愛し、神様を誇ってください。
そうするなら、皆さん、いくらでも持っていてもかまいません。
しかし、金持ちになったり、学歴が良い人は、
神様だけを愛し誇ることは優しくないと思います。
ダビデ、はじめは良かったんですけど、ダビデも世の中のものを持っていてから堕落しました。
ソロモンはもともと堕落して失敗しました。
世の中で成功した人は少ないんです。
世の中のことを持ちながら、神様も愛する、もっともっと愛することはなかなかできませんでしたね。
先週、韓国のチョヨンギ先生が送典されました。
チョヨンギ先生も、はじめは力強い、本当に純粋なキリストを伝えたんですけど、
最後はあまり良くなかったなぁ、という気持ちがあります。
しかし、皆さん、聖書の中で、ヨブ、またアブラハモは、最後も神様の見られるのに美しかったんです。
その理由は、その人たちは試練、訓練をしっかり受けられて、礼儀的に成熟していったからです。
では、どうすればいいでしょう。
イエス様の中二弟子をよく見てください。
その方たちは、最後まで、イスカリとユダを覗いては、最後まで、よくよくこのことができました。
その秘訣は、イエス様が弟子たちをはじめから、
私についてきなさい、私に従いなさい、確かな方向性を与え、そのように訓練をされたからです。
その方たちは、最後まで、自分が人たちに使徒になっても、世の中に何を持つ人になったとしても、
最後までイエス様についていくことに精一杯頑張りました。
だから彼たちは、最後まで変わることではなく、褒められる信仰ができました。
私たちもそれができる理由、世の中のことを持っていても持たなくても、
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私たちの目標は、イエス様についていくことです。
イエス様に従うことです。
これを今日は、マルコ二書のレビューを通して、一緒に分かち合いたいと思います。
まず初めに、超人になったレビュー。
マルコ二書の十四節に、それで通りかかりにアルファイの子レビューが、
主人様に座っていることを見かけて、と言います。
皆さん、このような光景は、あってはいけない光景です。
神様から選ばれた民、ユダヤ人が、どうして獣のようなローマの手先になって、
超人になりますか。
ローマの植民統治下に、超人は、公法的な泥棒、口頭でした。
ローマの代わりに、イスラル民から税金を徴収するんですけど、
決まった額だけではなく、自分のものをポケットマンに入れるものまで徴収したものなので、
貧しい民たちから、超人によって苦しみをたくさん受けました。
ですから、山には狼、町には超税人ということを言いながら、
イスラル人たちは彼たちを、罪人扱いをし、かかりしませんでした。
また、民族の裏切り者として、礼拝にも参加することができない、そのような立場でした。
では、それを分かっているのに、なぜ礼拝は超税人になったのでしょうか。
イスラルは貧しい国です。お金を稼ぐ道がほとんどありません。
ところが、イスラルで一番優しくお金持ちになる道が、超税人だったんです。
それでも、イスラル民であるなら、民族を裏切る働きはしてはいけないのに、
礼拝はお金のために、何か恨みを持っていったのでしょうか。
お金さえあれば幸せになると、自分は考えたのでしょうか。
非難される覚悟をして、超税人になります。
民たちが悪口をすればするほど、もっともっと過酷に徴収をしました。
皆さん、世の中でこのような人を見たことありますか。
私は、私の親戚の兄をいつも考えるようになります。
私の母の姉になりますけど、
私の母の姉は、結婚して子供を産んだばかりなのに、
間もなく旦那さんが亡くなってしまいました。
周りから、若いお嫁さんが、旦那さんが亡くなったものですから、
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再婚しなさいと言って、再婚しました。
再婚するときに、一人息子がいたんですけど、
この息子を親戚の家に預かりました。
この息子が成長するのに、親戚の家を転々しながら成長します。
でも、母親の家が遠いところではありません。この町のあるところです。
だから、母親のところに行ったら、母親が、これからここには来ないでと言います。
また、母親と呼ぶこともやめなさいと言って。
その姉は、親戚の家を転々しながら成長したんですけど、
非常に苦しい人生を過ごしました。
その度に、自分の母と世の中の人々に復讐するために、
私は金持ちになりたいと思いました。
その姉は、どれほど金持ちになりたいと願ったんでしょう。
怖い人生を過ごしました。
ある時、私に出会って、私に聞きました。
お前は、あと何になりたいのと言って、私は大学教授になりたいと言って。
お金を稼ぐこともできないのに、なぜこんなことをしようとするのか、私を叱りました。
その方は、お金、お金、お金、お金がなければいけない。
お金があれば、私が願うことを全部できる。
復讐ができるんだと思いながら、その方は一生懸命、お金、お金と言いました。
世の中には、恨みを持っておられる方が大勢おられます。
その恨みを、それを返すために、復讐するために、
金持ちになりたいという方が、どれほど大勢いるのでしょうか。
たぶん、レビもそのような人ではないかと思います。
しかし、金持ちにはなったんですけど、考えもなかった問題が起こりました。
家族の中で、お金はあるんですけど、子供たちが学校に行けないんです。
妻が恋愛に行けない。妻が同窓会とか、社会活動ができなくなります。
だから、家でいつも泣き続けているところで、
その時、レビがどんな考えを持っていたんでしょう。
人生はこんなように過ごすことではないんだな。
人生はこんなものではなかったな。
どうしたらいいんでしょう。手遅れの後悔です。
皆さん、一度間違えた人生、一度間違えたこの人生、やり直しできますか。
聖書は、終わりの時の特徴を、第二手もて三書一節二節に、こう言います。
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しかし、終わりの時には、困難な時期が来ることを悟りなさい。
その時、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ホラーを吹き、傲慢になり、神をあざけり、
良心に従わず、恩を知らず、神を恐れなくなります。
一言で言えば、怖い世界が来る。
皆さん、今が怖い世界ではありませんか。
コロナによって緊急事態を経験しながら、皆さん、何を考えたんですか。
今、私が持っているこの仕事、これ、もしかしてリストラされるんじゃないか。
これがもしダメになるんじゃないかと思いませんでしたか。
将来の不安を感じて、自分が安心、安全のために、一番大事に思ったことは何ですか。
お金ではなかったですか。
お金を貯めていかなきゃと思わなかったんですか。
ですから、第2、第3のレビが続けて出てくる可能性がある世界です。
じゃあ、2番目です。
皆さん、人生のやり直しはできるのでしょうか。
今日のマルコ2書14節。
イエスは通りかかりに、アルファエノコレビが主禅所に座っていることを見かけて、
私に従いなさいと言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。
通りかかりにレビを見られたということです。
イエスはこの町に住んでいたものですから、
そのレビが座っている主禅所の周りを、いつも通りかかっているんです。
いつも通りながら、主禅所に座っているレビを見ていたでしょう。
ずっと関心を持っていたでしょう。
しかし、今日はレビの表情が違うんです。
人生の問題で深く悩んでいる、そのようなレビを見かけているんです。
多分、イワネ5章19節。
神様がレビに行われる何かを見たのでしょうか。
イエス様がレビに、私に従いなさいと言われます。
ところが、その意味をレビはわかったのか。
すぐ立ち上がって、イエス様に従うんです。
同じ聖書、ルカの5章18節には、
レビが一番愛していたお金、お金をたくさん稼ぐことができた仕事でも、
すべてを捨てて、イエス様に従ったと書いてあります。
ここで、イエス様がお話しなさった、私に従いなさいという意味は何でしょうか。
なぜレビはすべてを捨てて、イエス様に従ったのでしょうか。
その意味は、イエス様、あなたのことはよく知っている。
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私があなたの過ち、罪を全部許してあげるという意味です。
また、私があなたの人生の牧者になって、
あなたを助け、やり直しができるようにしてあげるという意味です。
そのために、今までついていた世の中のものではなく、
これからは私に従い、私の弟子になりなさいという意味です。
そうするなら、あなたを新たにさせ、あなたの人生をやり直しをしてあげる。
そしてあなたが幸せになり、最高の人生になることを、
私が助けてあげるよという提案でした。
それをレビは分かったのです。
神の御声を聞いたら、独長、分かるのです。すぐ分かるのです。
それを分かって、すべてを捨てて、すぐイエス様に従ったと言います。
イエス様は従うレビを、そのお言葉通り、新たにしてくださったのですが、
彼を聖馬体になるように助けてくださいました。
彼が書かれた聖書が、馬体による福音書です。
皆さん、福音書が四つあるのですが、記録目的も違いますが、
福音書を読む相手が違います。
この馬体による福音書は、ユダヤ人向けの福音書です。
しかし考えてみてください。
ユダヤ人は、超聖人を狼のように、罪人だと思っている存在なのですが、
超聖人出身者が記録した福音書を読みますか?
しかし、なぜ彼はユダヤ人向けの福音書を書かれたのか?
彼は変わったのです。
これ以上、超聖人レビではなく、聖馬体になっていたからです。
これから見ますと、イエス様がお話しされた17節。
私は罪人を招くために来た。
私は罪人を招いて、悔い改めさせ、新たにさせるために来たということです。
そうです。イエス様はレビを聖馬体ができるようにしてくださったのです。
皆さん、人生やり直ししたくありませんか?
しかし、人生やり直しできますか?
イエス様に出会うなら、またイエス様に従っていくなら、できます。
なぜなら、イエス様は私たちの牧者。
神に至る道であり、真理であり、命であるお方だからです。
私たちを使わされた神様の使命を成し遂げることができるようにしてくださるだけではなく、
永遠な天国まで私たちを導いてくださる牧者であります。
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イエス様には命の御言葉と精霊の力があります。
それによって私たちを新たにさせてくださるのです。
もしレビがイエス様に出会わなくて、イエス様に従わなくて、
続けてこの世とお金を愛して、その道をずっと続いていったとするなら、どうなったと思いますか?
お金は稼いだから安心感、高ぶりはあったでしょう。
しかし彼は家族に問題、社会問題、続けて悩みと後悔をしながら過ごしたかもしれません。
そうしながら彼は死んで、そして地獄に行ってしまったかもしれません。
ここで私たちは何を愛し、何を誇るべきことでしょうか?
お金とこの世の中の成功は私たちを傲慢にさせるかもしれないけれど、
聖者としてさせてくださいません。
この世の中で少しの余裕を与えてくださるかもしれないけれど、
私たちを天国に導くことはできません。
この世の中の百年は楽に過ごすようにしてくれるかもしれないけれど、
永遠な幸せと命、また天国の栄光をもたらしてくれることはできないでしょう。
ですから私たちはこの世の中でしばらくあるものを愛するんじゃなく、
誇ることじゃなく、イエス様を愛し、イエス様を誇らなければなりません。
皆さんお金あるんだって病気にかからないんですか?
身体が痛いことはお金で全部治すことができましたか?
お金でもこの世の成功でも病気を癒したり、死ぬことを防ぐことはできません。
しかしイエス様は病気も癒してくださり、天国まで私たちを導いてくださり、
この世の中で死んでも生きるように私たちをさせてくださいます。
イエス様には全てがあります。
私たちはこの世の中の成功、不器安楽に満足してしまえば、
だんだんイエス様を求めなくなります。
イエス様を従うことは嫌になってしまいます。
いや弱くなってしまうでしょう。
だから信仰の邪魔になります。
ですからパウロはイエス様を得るために、
全ての解決、救い主、助け主であるイエス様を得るために、
この世の中の全てを排泄物として思って、
それよりイエス様をもっともっと大切に思いました。
それを通してパウロは永遠の命、天国の栄光をいただくことができました。
ですから私たちも世の中のものを誇る、愛することではなく、
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全てができるようにしてくださるイエスキリストを愛し、
イエスキリストを誇りましょうということです。
3番目です。
ここで人生をやり直すということの秘訣は何ですか?
イエス様についていくこと、イエス様を従うことです。
イエス様に従うということは、イエス様との親しい交わりの中で、
見声を聞き従う、P.L.O.の生活で可能です。
私たちがこれから永遠にやるべきことは、P.L.O.の生活です。
イエス様と親しみの中で見声を聞き従うことです。
朝鮮人レビがイエス様に出会う、そして新たに生まれてから、
同じ立場にいた大勢の人が集まってきました。
中古説を見てみますと、聖書も驚いたように記録しています。
イエスがレビの家で食事の席についておられた時のことである、
多くの朝鮮人や杖人もイエスや弟子たちと同席していた。
実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
実に大勢の人がいて、聖書もびっくりしたということです。
なぜなら、彼らもお金さえあれば幸せになると思っていたのに、
お金さえあれば安全になると思っていたのに、
安全ではない、幸せではないことを悟ったのです。
手遅れな後悔ですけど、
その人たちは新たになる、やり直しができる道がないのかと思っていたのです。
しかし、レビが変わることを見て、
自分もレビみたいになりたいと思って、イエス様に出てきたのです。
本当に大事なのは、マタイの16章26節です。
人はたとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失うなら、何の得があろうか、
自分の命を買い戻すために、どんな代価を支払うことができるか、と言います。
人生をやり直すために、私たちはどんな代価を支払えばいいのでしょうか。
私たちにはできないのですが、イエス様は代わりにしてくださいました。
イエス様は私たちのために、十字架で血を流しながら死んでくださって、
私たちの代価をイエス様が支払ってくださったのです。
だから、私たちは十字架にかけられたイエス様に感謝し、
イエス様を愛し、イエス様を誇りに思って過ごすべきではありませんか。
神様が一番願うことは何ですか。
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これを教会が一番力を入れて行うべきことなんですけど、
それはイエス様を愛することです。
イエス様を知り、イエス様を愛することです。
また、神の見姿である一人の人がイエス様に出会って救われることができるように、
変わることができるように助けることです。
イエス様を愛することが第一の今しめ、
また一人の人がイエス様に出会って救われ変わることが第二の今しめではありませんか。
私たちがこのようにするときに、
聖書の一番大事な第一、第二の今しめを実践するようになります。
第一、第二の今しめを実践することが世の中で一番大事なことですから。
今、コロナの時代の中で世の中は不安です。
この時代にお金が大事だ、お金が大事だ。
皆さん、最近YouTubeを見てください。
YouTubeの中で、自分の仕事をプラス復興ができるようないろいろなことを宣伝しています。
それによってお金をもっと稼ぎたいという人がたくさん現れるでしょう。
お金、お金、不安の中で、コロナの中でお金、お金という人がたくさん現れ、
第二、第三のレビが現れるかもしれません。
彼らはお金についていくことが一番安全で安心だと思うかもしれないけど、
私たちは神に至る道であり、真理であり、命であるイエス様に従うように助けていかなければいけません。
なぜ私たちがイエス様を知り愛し、イエス様を誇る人になるなら、
神様が私たちに世の中の人々を会わせてくださるかもしれません。
結論的に、人生やり直しできますか?
みなさん今満足してますか?人生やり直ししたいと思いますか?
はい、できます。いつでも自分の人生、謝ったことを悟り、
これからはイエス様に従う生活、
すなわちイエス様と親しみの中で、
御声を聞いて従う生活をするなら、
イエス様はその人を聖者になるようにさせてくださるでしょう。
このように、この時、まことの人生のやり直しができるんです。
みなさん、イエス様から聞かれたでしょう。
私についてきなさい、そして今教会に来たりなさっているんじゃありませんか?
イエス様は私についてきなさいという意味は、
私があなたの人生、責任を持っていくから、
私があなたの人生、やり直しをしてあげるからという意味です。
じゃあイエス様、よくついていっていますか?
イエス様、よくついていく私たちになりましょう。
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私たち今、焦点がイエス様ですか?
世の中の何かによるですか?
もし焦点がイエス様じゃなく、他の何かだったとするなら、
それをイエス様に変えましょう。
子供、旦那さん、妻、家庭の幸せ、世の中の成功、祝福、
こんなことではなく、イエス様です。
イエス様についていくことです。
そうするなら、イエス様は私に一番最高の人生、
素晴らしい人生の道を、これからでも、いくらでも作ってくださるでしょう。
変えてくださるでしょう。
イエス様は私たちの幸せを願っておられるものですから。
ぜひとも、教会の皆さん、イエス様についていく。
これが私の人生の目的、唯一の目的として、
イエス様を愛し、イエス様についていく、毎日になりますように。
お祈り出します。
コロナによって難しい時期を過ごしながら、
世の中の皆さん、不安になっているところであります。
この時、私たちの人生の安心、
私たちの人生の保障は何なのか、思いながら、
いろいろ工夫されるかもしれません。
世の中の人々は、富、成功、
世の中の何かによって、安全を委ねるんですけど、
私たちはイエス様がおられます。
助け主、また救い主、イエス様がおられます。
イエス様に委ね、愛し、もっともっと、
イエス様を誇りに思って続けていきましょう。
危機の中でもっともっと輝く、
私たちの信仰になりますように。
イエス様の皆を通して、お祈り出します。
アーメン。