イエス様の癒しと救い
お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、
死の御前へと私たちを今朝も招いてくださって、
あなたに聞こうとしています。
あなたがご臨在くださり、
私たち一人ひとりに御言葉を語りかけてくださることを感謝いたします。
神様、あなたは私たちへの限りない愛をお示しくださいました。
御子イエス様をあの十字架へと捧げてくださり、
御子の流された血汁によって私たちの罪を完全に許し、
神の子とし、それだけではなく、
復活の命、永遠の命を与え、
永遠なる日と共に生きる新たな命へと私たちを導いてくださっていることを覚えて、
心から感謝をいたします。
あなたは私たちと常に共にいてくださいます。
そしてまた、常に神の子として私たちを扱ってくださいます。
あなたの恵みの豊かさ、愛の深さ、広さ、高さ、長さを知るようにと招かれますけれども、
私たちはよくそれを忘れてしまうお互いであることを覚えます。
どうか主がこの時に御臨在くださり、
私たちに御言葉を開き、
またあなたのお声によって私たちにあなたの姿を教えてください。
あなたの愛を教えてください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいること、
施設におられる方、
ご自宅で礼拝を守っておられる方、
また心があなたから離れている方がいらっしゃることを覚えます。
お一人一人を主が帰りみてください。
慰めてください。
あなたの身元へと集うことができ、
置かれている場において主の御臨在に触れることができますように、
お導きください。
お願いいたします。
特に祈られたように今朝は、
綾名先生が池田中央教会で御奉仕をなさっています。
先生の上に主がどうか働いてくださって、
精霊様が語らせてくださいますように、
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
あなたが導いてください。
やすさまのお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
祈っていただいたようにまたお知らせしていましたが、
綾名先生は今朝池田中央教会で御奉仕をしています。
池田中央教会は午前9時半と11時から礼拝があるということで、
先ほど私の携帯に池田中央教会の玄関の写真が送られてきて、
ガクガクブルブルと書いてました。
祈っていただけたらと、
まあ祈ってくださっていると思いますけれども、
御奉仕が祝されるようにと願っております。
さて、今朝は一つの問いを皆さんにするところから始めたいと思いますが、
皆さんは調子が悪くなったらすぐお医者さんのところに行けるでしょうか。
どうでしょうか。
実は私はお医者さんのところに行くのにすごく腰が重い人間でして、
特に歯医者がすごく怖いんですね。
待合室の消毒液の香りを嗅ぐだけで何か悪いことが待っているんだな、
痛いことが待っているんだなと怖くなってしまうことがあって。
昔一度虫歯があったんですけれども、なかなか行けなかったんですね。
親知らずの虫歯だったんですけれども、
まあ行かなくてもどうにかなるかと思って放っておいたんです。
どうにかなるわけがないんですけれども放っておいたんですね。
でも東北で放射をしていたときにいよいよ悪化しまして、
何か食べていたときに親知らずがバキッと割れたんですね。
割れたら中から神経がむき出しの状態になってしまいまして、
口を閉じるだけで全身に激痛が走るという状態になってしまいました。
これはいかないと思ってすぐにお医者さんのところ、
歯医者さんのところに行きました。
見てもらうと先生に、これは痛いでしょうと、
なんでもっと早く来てくれなかったんですかということを
言われてすいませんでしたと言いましたけれども。
でもありがたかったことにその先生はすごく丁寧でして、
その日すぐに抜いてくれたんですね。
麻酔もかけて、親知らず抜いたら熱が出るかもしれませんよと言われたんですけれども、
熱も出ずに全く痛くなかったんですよ。
それを見てそのときに改めて、お医者さんってありがたいなということと、
そしてもっと早く来ていればよかったと心から思いました。
いちばんは自分では治せません。
どこかでまだ大丈夫だと思っているわけです。
でもきっと事実としては、
罪と病気の類似性
治せる人にもっと早く治してもらえばよかった、
そういうものだと思うのです。
良い教訓をいただきました。
実は今朝のお菓子を見ると、
イエス様も医者だとは言っていませんが、
ご自身のことを医者に似ていっておっしゃるんです。
今日の歌唱、特に32節を中心にさせていただきましたけれども、
31節の途中からお読みしますが、
そこでイエスは彼らに答えられた。
医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です。
私が来たのは正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためですとおっしゃられました。
お医者さんというのは健康な人というよりも
病気の人にこそ必要であり、
そしてお医者さんというのは
その病を癒すわけ、治療するわけです。
それと同じように、イエス様は罪人、
罪に絡み取られ苦しんでいる人を治療し、
癒すと言われるのです。
誤解がないように言いますが、
罪は病気ではありません。
ただ、罪と病気は似ているんです。
少し似ているんですね。
それはどういうことかというと、
病気がそうであるように、
自分の根性や根拠のない自信で
治すことはできないということです。
そして同時に、
それは放置すると悪化していくということです。
イエス様は、私は罪人の医者のようなものだと言うんですね。
自分の罪にある種、私たちも苦しみますけれども、
今朝のお箇所は、
イエス様のもとに、そのような罪に苦しむ、悩む、
私たちの救いと癒しがあるということを語っている。
そのことをご一緒に確認をさせていただけたらと願っています。
まず今朝は、この箇所に入る前に
少しだけ遠回りをしたいのですけれども、
今朝の箇所に入る前に、先ほど私は、
罪は病気ではないけれども似ているというお話をいたしました。
少しそのことを話しますと、
私たちが病気になるというのは一体どういうことを指すのでしょうか。
おそらく健康な体があるんですよ。
健康な体があって、けれどもそこに何か悪い菌が入ったりだとか、
過剰に心に負担がかかるとかしたら、
私たちは大体病気になってしまう。
もしかしたら、本来の体と心が持っている機能と言うんですかね。
それが痛んで、弱くてしまう。
そして通常の持っている、持つべき力が発揮できないということでしょう。
実は罪もこれに似ているんです。
そもそも罪というのは一体何なのかという話をしますと、
何か悪いことをしただとか、神様を否定することだといろいろ言えますけれども、
そもそも罪って何なのかと考えるときに、
私たちが目を向けなければならないのは、創世紀の1章から3章です。
ちょっとだけその箇所の内容をさらっと確認をしますけれども、
聖書というのは人間の罪の原因、人間が罪に陥った原因は何であるかというと、
アダムとエヴァの罪の始まり
アダムとエヴァがヘビーのおすすめによって、
善悪の知識の実を食べたことに始まるということを語るわけです。
私たちアダムとエヴァが善悪の知識の実を食べた。
これは一体何が問題なのかといいますと、問題はそれまで神様がアダムとエヴァの善悪を決めていたのに、
この実を食べることによってアダムとエヴァは自分自身で善悪の判断ができるようになったということです。
神様が善悪の基準をアダムとエヴァに決めていたのに、
アダムとエヴァは自分自身で善悪の判断、その基準を持つようになったということです。
この出来事はいろいろな悲劇を招くのですが、一番の悲劇は何かといいますと、
自分で自分自身のことを判断し、自分自身のことを見ようとするときに、
人間は本来の健康の姿から離れていってしまうということ。
ちょっと難しいので、どういうことかといいますと、
聖書が語る人間の健康な姿とは一体どういうものでしょうか。
いろいろありますが、一言で先日めて言うならば、それは神様との愛の関係の中に生きているということです。
神様との愛の関係の中に生きている。
キチクレでしかないんです、アダムは。聖書はそう書きます。
キチクレでしかないアダムのことを見て、神様はあなたは非常に良いと言ったんです。
そういう判断をなさったんです。アダムよ、あなたは非常に良い。
そしてそのアダムの存在を愛し喜ばれて、
アダムに新しいいろいろな使命をお渡いになったというのが2章に書いてありますよね。
けれども、そういうふうにキチクレでしかない人間を非常に良いと言ってくださって、
人間のあるし健康な姿と罪との関係
愛し喜んでくださるというのが神様の愛の判断です。
キチクレであろうと人間は非常に良いんです。
これはとても大事なことです。
聖書は人間は非常に良いものとして作られたと語ります。
そう言ってくださるのが神様の愛です。
その神様を愛され、神様を愛することが人間のあるし健康な姿として聖書は描きます。
しかし、実を食べたアダムとエバはどうしたかというと、
神様がやってきたときに体を葉っぱで隠して神様の前から隠れますよね。
神様の眼差しから隠れます。
なぜでしょうか。
自分で善悪の判断ができるようになったなら、
彼らは自分自身を見るときに自分がキチクレでしかないと思っています。
自分はキチクレでしかない。
非常に良いなんてとてもじゃないけども思えない。
いいや、神様が良いものとして作ったのに、
いや、私には外すべきところがあると言って自分を隠し始めた。
神様は非常に良いと言うのだけれども、
私はとてもそうは思えないが上回る。
なぜなら善悪の判断の基準が自分にあるからです。
私はとてもじゃないけど、そうは思えない。
その結果、人は本来いるべき神様の身元という場所から離れ、
本来あるべきあなたは非常に良いと言われる神様の愛の語りかけの愛の関係から離れてしまった。
見るべき方、聞くべきお方から的を外して生きている姿、生きている状態、
聖書はそれを罪と呼びます。
罪というのは的外れということです。
見るべきこと、いるべき場所からあなたは外れてしまっている。
それが罪という意味です。
罪からのずれとその結果
何か悪いことをしたということの問題、それもあるんですけれども、
ただそれだけの問題ではないのです。
もうちょっと根本的な問題です。
そしてボタンの最初の一つ目をかけ違えたら、全てがずれていってしまうように、
神様の愛から離れた人間には様々なずれが生じます。
創世紀の3章の次の4章で書かれているのは、カインとアベルの兄弟殺しの話ですね。
嫉妬に駆られて殺人が起きます。
そして創世紀のもうちょっと進んだところでは、
キチクレでしかない人間が傲慢になって、神様になろうとして高い塔を建てます。
バベルの塔ですよね。
でもこれらの出来事は全部つながっているんです。
最初のボタンの一つがかけ違うようになってしまった。
それで人間は自分のことが非常に良いと思えなくなった。
思えなくなったら何かでそれを埋めなければならない。
嫉妬が、傲慢が生まれてくる。
まさにそれが一つ目のずれが全てを歪めていく。
まさに罪の恐ろしさです。
でも改めて考えるならば、じゃあ一つ目のボタンはどこにあったのか。
それはあなたは非常に良いと言われる神様との愛の関係なんです。
これが一つ目のボタンです。
神言が死を恐れることは知識の始めと書きますが、その通りなんです。
神様との関係が一つ目のボタンにあります。
自分自身のことをある種良いと認められない。
これは私たちに当てはまるかもしれませんが、自分自身のことを良いと認められない。
だから私は良い人間なんだと証明をするために必死に何かを築き上げるということに心が奪われることがあります。
もしくは自分自身を良いとか価値があると証明できないことに、私たちは怒りや悲しみを深く覚えることがあります。
それで怒ってしまうこともあります。
でもどちらも根本的な問題はきっと私たちの最初のボタンを掛け違えているというところにあるんです。
それは何か。あなたは神様との愛の関係の中で生きる存在なんだよということです。
そしてその中で聞かなければならないのは、あなたがいろいろ歪んでいたとしても、あなたは非常に良いものとして作られたんだという語りかけです。
その神様との愛の関係ですね。
もしも本来いるべき場所にいない、本来見るべきお方を見ることができていないというのが罪だとするなら、
じゃあ罪が許され、癒されるということは一体どういうことなのでしょうか。
それは一つだけですね。本来いるべき場所に戻していくということです。
今朝の箇所を見ますと、今朝ルカの5章の27節から読んでいただきました。
この27節から28節の中には短い一つの話があります。
主税者に座っている主税人レビという人をイエス様が通りかかって、そしてこのところでレビという主税人に目を止められた。
そして私についてきなさいと言われた。
するとレビは全てを捨てて立ち上がり、イエスに従ったというのです。
この箇所は説明がないんですね。レビがそれをどう思ったかということも説明がない。想像するしかないのです。
罪の許しと癒しのメッセージ
ただ私はこうなのではないかなと思うんです。
主税人というのは当時高級取りの仕事なんです。
とてもお金が儲かるお仕事で、ヤクザみたいな仕事なんですけれども。
お金はたくさん入る仕事です。また誰でもできる仕事ではないんです。
だからおそらくレビは主税人になるために一生懸命勉強をして彼はその仕事に就いたことでしょう。
しかし主税人というのは同時に、ユデイ人でありながら当時そのユデイ地方を支配しているローマ帝国の雇われ職員になるということですから、
非常に同胞から嫌われます。裏切り者と言われて、あんな奴らは神に愛されないと言われている人たちです。
彼は富がありました。けれども思ったかもしれません。
本当に私はこんなことをするために生きるべきなのだろうか。本当に私は今いるべき場所というのは本当にここなのだろうか。
人には良いも悪いもあります。正しく生きたいけれども罪を犯してしまうということがありますし、
自分でもどうしようもないという矛盾を抱えて生きていきます。レビがまさにそのように。
ただイエス様の眼差しというのはレビのすべてを見つめるわけですよ。
彼が悪いこともしたでしょう。そのための選択もしたでしょう。
でも心の中でここにいるべきなのか正しく生きたいという願いもあるでしょう。矛盾があるんです。
でもそのすべてを見つめてイエス様が言われた言葉は、私についてきなさい。私についてきなさい。
罪人の医者、イエス様の処方箋はただこの一言なのです。私についてきなさい。
でもレビはこの一言にきっとある意味砂漠でオアシスを見つけるかのような感覚がしたのではないでしょうか。
自分の心の底から擦る場所、神様の愛、この方のところに行けばそれがあるのかもしれないと思ったのかもしれません。
イエス様についていけば、神様がこの世、そして私をどのように愛しているかがわかると、そう思ったのかもしれません。
福音書の中にはイエス様がこの世界の中で痛む人々を、先週見ましたけれども神様の身力によって癒したということが書いてあります。
ただ福音書の中で人々が癒されていくという出来事は、癒し自体が目的ではないのです。
癒しを通して、あなたみたいな神様に目を向けられないと思われていた人をも、神は愛しておられるんだよということを伝えるためですね。
その最終的な目的は、神様との愛の関係に帰ってくるということです。
そのようにイエス様は働かれました。神がこの一人一人を愛し大事に思っていることを伝えるためです。
そしてイエス様についていったならば、必ず見る光景がおそらくあったと思うのです。
それは十字架です。
ただ十字架の上においても、イエス様は目の前にいる罪人に対する愛を宣言されました。
父よ、彼らをお許しください。
その言葉の通りに、全ての人の罰、罪の罰を、あの十字架で身代わりに引き受けなさいました。
それは、どんな罪人であっても、ある種それは、ボタンがずれ続けて、
神様を否み、人を傷つけ、自分自身を傷つけ続けてしまっている、
そのような私たちの現実を見つめながら、私はそれでもあなたの罪を担い、あなたを愛していると伝えているということです。
そういう罪人であったとしても、そのあなたの罪の罰をもうすでに、
私は十字架で受けている、私はあなたを愛している、それを伝えるための十字架です。
今朝イエス様が言われます。
私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。
私たちは、微妙な表現なんですが、神のことされてますが、同時に罪許された罪人であり続けています。
私たちもは誰しも許された罪人です。
けれども大事なことは、この十字架に表されている神様の愛を信じ、そして信じ続けることではないでしょうか。
言い換えるならば、それは罪を許され、許され続けていくことです。
これはよく言われます。
罪は許され、そして許され続けていく。私たちは救われ、救われ続けていくという表現がされます。
ただ私がもう一つ表現として、こういう言い方がいいんじゃないかなと思うのは、
罪を許され、私たちは癒され続けていくお互いであるということです。
クリスチャンのスタートと本来の姿への回復
神様を信じて洗礼を受けることがクリスチャンのスタートと言われますけれども、
その通りに、イエス様の十字架の愛を受け入れ、罪に許され、私たちは神のことをされるわけです。
本来はもうそれだけで十分なんですけれども、しかし神様は我が子が本当にあるべき姿、
それを本来の人間の姿、神様が最初に想像して非常に良いと言われた、
あのアダムのように土暮れであろうとも、賭けがあろうとも、色々な問題があろうとも、
非常に良いと言ってくださる神様のもとに帰らなければならないということです。
あの愛の交わりに帰るように、あの愛の交わりに帰るように、
そこに帰っていくときに私たちは本来のいるべき場所、本来の見るべきお方、本来の聞くべき言葉、
それを私たちは聞きながら、本来の健康な人間の姿へと回復していくということですね。
癒され続けていくということです。
どうでしょうか。もう終わりますけれども、私たちは十分なのでしょうか。
神様の目から見たら、イエス様の十字架を信じて神のことをされているだけで十分なのですが、
しかし私たち自身は癒される必要がないでしょうか。
告白をいたしますと、私は自分の中にある歪みというものに今のを埋めくことがあります。
私でもそうです。私はそうです。
神様に愛されていると言われて、そしてここでこうやって語りながらも、
私自身もなお、いやそんなはずはない、もっとこうあらなければだめなんだという言葉が
自分の中にずっと響き続けることがあります。なかなかこれは根強いんですね。
そのような神様の愛の言葉に心の中で抗っている自分がいるんです。
そうすると、私自身もどこかで傷んでいて歪んでいるんですよ。
けれども、イエス様のもとに生き続けたいなと思うのです。
神様の愛の言葉を聞き続けたいと思うのです。
信仰というのは、自分で自分のことをどう見るかではありません。
信仰というのは、神様が私たちを見てくださっている眼差しを受け入れることです。
あなたは非常に良い、私の目にあなたは高価でたっといと呼ばれる、
神様が私たちの善悪の判断をしている、その判断を受け入れることが信仰。
それはリハビリのようなものなんです。
神様に本当に愛されていることを喜び、喜びを受け入れていきたい、そういうリハビリですね。
そして、本当に愛されていることを喜んで、愛されているからこそ、私たちは誰かを愛することができる。
愛されている喜びがある、神のことをされている喜びがある、その喜びが宣教へとつながっていくんです。
何かやらなきゃいけないことってたくさんありますよね。
教会の交わりも、そして私たちが外に出て行って伝えることも、結局はこの最初の愛に帰っていくっていうところが土台なんですね。
イエス様は今朝、私たちにこう言われるのではないでしょうか。
私についてきなさい、私についてきなさい。
処方箋のように、ある種私たちが本来いるべき場所ではなくて、見るべきお方ではなくて、聞かなくてもいい言葉に支配されているのであれば、
私についてきなさいとイエス様は今朝言われる。
そしてそのところで、私たちは少しずつ少しずつ、本来の神の形としての人間の姿を回復していく。
どうかもっと早く来ていればよかったと、そのような後悔にならないように。
主のもとで、私たちは神様の私たちへの愛を知らされていきたいと思います。
喜びに生かされ、宣教へつなげる
あなたは非常に良いという神様の声を聞きましょう。
癒されて、喜びに生かされて、クリスチャンであるって本当にいいことだよね、素晴らしいよねと。
そのような喜びを分かち合える、そのような群れであれればいいなと願っております。
一言お祈りをして、ステージを終わります。