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2023-10-01 30:05

「わたしどもの信仰を増してください」2023年10月1日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年10月1日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄
▼教会へのお問い合わせ:tokyo.vine.church@gmail.com
▼メッセージの自動文字起こしはこちら
https://listen.style/p/tokyovinechurch/

ルカ17:1-10イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者 は不幸である。2. そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられ て、海に投げ込まれてしまう方がましである。3. あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒め なさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4. 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い 改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」5. 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増し てください」と言ったとき、6. 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の 木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。7. あなたがたのうちだれかに、畑を 耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言 う者がいるだろうか。8. むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕して くれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9. 命じられたことを果たしたからといって、主 人は僕に感謝するだろうか。10. あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしど もは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

サマリー

つまづきは避けられないことですが、つまづきの原因となるものは不幸です。つまづくことによって関係が崩れ、離れてしまう可能性も考えられます。しかし、信仰を持ってつまづいた方々を救うためには、限りない愛と許しを与えることが重要です。許すことによって、人々は変わり、救われる可能性があることが示唆されています。 ペテロという弟子は、最後までイエス様について行きましたが、イエス様は傷つけられました。弟子たちがイエス様を捨てる理由や期待感、イエス様と弟子たちの関係が語られ、イエス様の愛と許しの大きさが強調されています。 どうか、許しと愛を持つ新しい人生を過ごす決心をされた方々に、主の信仰が増し続けますようにお願いいたします。また、教会はキリストの愛を実践すべきですので、教会につまづいている人々を慰めるために、大きな愛と許しを与えてください。

つまづくことと関係の崩壊
今日は、つまづいた人をどう救えばいいでしょう というお題を持ってメッセージを分かち合いたいと思います。
じゃあ、つまづくこと。 みなさん、つまづくという言葉をよく使う。私たちはあまり使わないでしょう。
でも、漢字そのもので見れば、つまづくということは、 足を踏みますがいる。間違えて何か怪我をするとかね。
そういう時に、つまづくという言葉を使います。 また、何かに引っかかれて倒れるという時にも、つまづくという言葉を使います。
世の中に怖いことがたくさんあるんだけど、その中で一つが、 つまづくこと、また他の人をつまづかせることです。
イエス様は、マタイの中八章7節にこう言われます。 世は、非道をつまづかせるから不幸だ。
つまづきは避けられない。 だが、つまづきをもたらすものは不幸である、と言います。
また、ルカの中七章、今日読んでくださった1節や2節には、 これらの小さいものの一人をつまづかせるよりも、首に引きうすをかけられて、
海に投げ込まれてしまう方がましてある、と言われます。 海に投げ込まれて、
それで、それはもう死んでしまえ、ということですかね。
イエス様は非常に難しいお話をされます。 なぜなら、非道がつまづくなら、
人と人との関係がためになります。 また、この人から離れます。
たぶん、教会でつまづく人がいたら、教会から離れるでしょう。 また、神様からも離れるかもしれない。
つまづくということは、こんな怖い力を持っています。 また、つまづきが怖いのは、
私は悪いことをしていません。私は良い意味で信仰を持って働いたのに、 その人が見て、勝手につまづくんです。
だから、パウロがこう言います。 植物のことで私の兄弟をつまづかせるくらいなら、
兄弟がつまづかせないために、私は今後決して肉は口にしません。 パウロは自由を持っているから、立法の縛りじゃなくて、
自由を持っている。福音の自由ですね。 だから、お肉を食べました。
他の人が見て、なぜお肉を食べるのかと言いながら、自分の判断で、
自分が間違えた考えで、自分が勝手につまづく場合もあるということです。 とにかくこのようになっても、あのようになっても、
つまづいてしまったら深刻になります。 こんなつまづくことが、
普段、私たちの生活の中で、 過ちを犯すこと、許すこと、また、悔い改める中にもある可能性があります。
ですから、今日はこの部分を一緒に考えていたいんですけど、 結論から申しますと、つまづいている人をどう救うことができるのか。
つまづいている人が感動されるほどの愛を施す。
限りない愛を施すなら、その人が帰ってくるかもしれない。 とにかく帰ってくることは非常に大事なんですけど、私たちとしては、
限りない愛を施すことです。 じゃあ、キリスト社である私たちが当たり前とすることが、
許すことと愛することです。 イエス様は、兄弟が1日に7回あなたに対して罪を犯しても、
7回、悔いを改めますと言ってあなたのところに来るなら、 悔いを許してあげなさいと言います。
そうしたら弟子たちが、私どもの信仰を増し加えてくださいと言います。
許しなさいと言っているのに、なぜ信仰を増し加えてくださいと言ったでしょうか。
私たちが許す時には、この人を許してあげるなら、 2度も同じ悪いことをしないだろうと期待感があります。
許しと愛の重要性
また、私たちが許してあげるなら、この人はこれから全然人が変わって、 本当に良い人になるだろうと、この期待感を持って許してあげます。
しかし、1回、2回じゃなくて7回までも罪を繰り返し犯す人に見たら、
皆さんどう思いますか。 この人は許してもしょうがない。
この人はダメだ。 だから私は絶対これからこの人は許しない。
そしてこの人を諦めるかもしれない。 しかし許さないことは弱い兄弟を躓かせることです。
イエス様17章2節をもう一度読みましょう。
これらの小さい者の一人を躓かせるよりも、 首に引きうすをかけられて海に投げ込まれてしまう方がましだと言います。
なぜなら、もし私たちがその人をかわいそうに思って許さなければ、 彼が信仰から離れて、もしそのまま地獄に投げ落とされるかもしれません。
そうする場合は、その責任は私たちが取らなきゃいけない。 これはどれほど怖い話でしょうか。
ですからイエス様の弟子の教会は、 無限に許して、無限に愛する教会にならなければならない。
ところが、躓いている人を救うためには、 その人が躓いていることを忘れるほど大きな感動、
大きな愛、大きな許しをその人に与えて、 その人の心を慰め、感動を与えなければいけないということです。
これは非常に難しいです。 どのようにこれができますか。
この兄弟を見るじゃなく、神様を崇めてみるなら、それが可能になります。
みなさん、クワの木は根が深いということです。 しかし神様はクワの木だとしても、それを根元から抜け出して、それを海にも植えられるお方です。
ですから神様は、私たちがこの根深い弱さ、 根深い罪を持っている兄弟だとしても、その人を変えるし、
その人が新たになることを助けることができます。 この神様を信じるとき、7回も悪いこと、繰り返し繰り返し悪いことをする兄弟を、私たちが許すことができます。
人を許すということは、信仰の一番価値ある実りです。
なぜなら、みなさん一人の人は全世界より大切なお方だからです。
人間一人の人は神の見姿です。 神様の見姿がこの人です。
だから、この人を一人が救われるのは、神様が喜ばれることです。 また、この人がもしつまづいて地獄に落ちてしまうなら、神様がどれほど悲しむでしょう。
だから、神様を考えるときに、7回罪を犯して許してくださいと言うなら、7回でも許してあげて、とにかくその人を救い出す。
その人が地獄に行かないように助けることは非常に大事です。 これ以上、世の中で大事なお働きはありません。
もし、それができたとして、私が許したよという偉そうに言ってはダメです。
信仰を持って救う
イエス様の弟子たちは、必ずやるべきことをやったという、取るに足りない下部の姿勢を持たなければなりません。
兄弟を愛すること、兄弟を許すことは、キリストシアの当たり前のことだからです。
どうしてそれが当たり前のことですか? 皆さん忘れてますか? 過去の私たちの姿。
過去私たちはどんな人ですか? エピソード2章1節から3節がよく教えてくださいます。
さて、あなた方は以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
この世の支配する者、かの空中の勢力を持つ者、すなわち不従順な者たちのうちに、今も働く霊に従い、悪霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
私たちはみんな、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、
他の人々と同じように生まれながら、神の怒りを受けるべきものでした。
皆さん、私たちの過去の姿を、この聖書よりもっとうまく表現してくださる聖書があります。エピソード2章の1節から3節。
皆さん、過去私たちは罪と過ちを得て死んでいたのです。
私たちは悪霊、悪霊に従って空上を拝み、自分の心の欲するままに行動して、神の怒りを受けるべき存在だったのです。
結局私たちは裁かれて地獄に行けばいいものでした。
そのような私たちが、神の恵みによって、イエス様の致勝によって、罪を清くしてもらって、
祈祷され、神の子供になり、天国に行くものになったということを考えるときに、
昔私たちも、呪われるべき存在が、今、祝福されるべき存在になったという、これだけで私たちは大きな許し、大きな愛をもらった人。
だから、ほっきりと他の人にも許しと愛を施そうとは、当たり前のことではないでしょうか。
ですから、イエス様は今日、主の祈りで教えてくださったように、私たちが私たちの追い目のある人たちを許しました。
だから私たちの罪も許してくださいと祈ったでしょう。
皆さん、罪の許しには条件がついています。
祈りには条件がついています。
罪が許してもらい、祈りの答えをいただくためには、私たちに追い目のある人たちを許しましたという前提、条件が必要です。
もしかして、私が祈っているのに答えがなかったとか、私が祈っているのか、救われているのかよくわからないときに、
皆さん、必ずチェックしてみなければいけないことは、私に追い目のある人たちを許したのか、これをチェックしてみなければなりません。
なぜなら、それはキリスト社として当たり前のことだからです。
許してもらったでしょう、だったらあなたはもう許してあげなさいよということです。
ですから、私たちは許すべきですけど、私たちが許されないということはなぜでしょう。
また、心の中で憎しむ感情が残っている。
また、許してもこの人間は変わらないんだよということを、自分が勝手に考えるからです。
しかし、そうではありません。神様が働くなら、その人はいくらでも変えることができます。
だから、自分の感情のゆえに、自分の何か、自分の考えのゆえに、この人は変わらない人間だよ、
この人は彼に許されないよ、言わないで、神様に私に強い信仰を与えてくださいと、祈らなければなりません。
イエス様は十字架で、この許しと愛を実現されました。
イエス様は十字架を背負う前に、みんながイエス様を捨てて逃げたとします。
マルコ14章50節にこう言います。
弟子たちはみんなイエスを捨てて逃げてしまった。
ペテロの信仰とイエス様への最後の行動
それなのに、その中でギリの男、ペテロは最後までイエス様について行ったんです。
だから、最初のお庭のところまで行って、彼はついて行って良いことをしたのか?
いいえ、イエス様はもともと傷つけてしまいました。
イエス様の目の前で、私はその人を知らないよと、3度も否定したからです。
大勢の方々がイエス様に傷つけられました。
皆さん、弟子たちを叱る者ではありません。
なぜ弟子たちはイエス様を捨てて逃げたでしょうか?
弟子たちはイエス様に詰めついてからです。
イエス様をついて行く時に弟子たちはどんな期待をしているんでしょう?
この人は必ずローマを追い出して、イスラエルを救うお方だと信じてついて行ったのに、
最後に見てみたら、イエス様は十字架にかけられ、もう最初に捕まえられ、
そしてこれから十字架にかけられて、苦難を受けて何とか言うから、
弟子たちの期待感が崩れた、その時にイエス様に彼たちはつまずいたんです。
とりあえず失望してつまずいたでしょう。
イエス様の立場から見ると弟子たちによって傷つけられたんですけど、
弟子たちの立場から見ればイエス様に傷ついたんです。
そしてイエス様はつまずいてしまったんです。
だから彼たちはイエス様を捨てたでしょう。
その弟子たちを見てイエス様はどうされたんですか?
弟子たちの期待と失望
彼たちは私を捨てるから、私も彼を先に捨てようってしまおう。
と言ったんですか?
いいえ、ヨガネ13章1節を見ますと、
最後の最後に世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれたと言います。
最後の時イエス様は自己中心的な弟子たちがイエス様を捨てて離れることを知っていながらも、
最後の最後までこの上なく愛し抜かれたと言います。
またイエス様は十字架に死んで、3日目に復活されたこの後は、
散らされている人一人一人の弟子たちに訪ねていて、一人一人を全部回復されたんです。
また君主がいます。
君主はイエス様をついていきながら、最後はイエス様を裏切って、
彼たちはイエス様を十字架にかけろーとしました。
なぜ彼らがそうしたんでしょう?
イエス様は名車だから、ローマからイスラエルを救ってくださると信じたのに、
無気力で捕まえることを見て、つまずいて、むしろ反対側に立ったんです。
この反対側に立った君主に対してイエス様はどうされたのか、
十字架上で無限な愛と許しを宣言されました。
ルカンの23章34節
父よ、この人たちをお許しください。
皆さん、イエス様の十字架の愛は、つまづいた弟子たちの心を取り戻される、
このつまづきをカーバーできるほど大きな許しと愛であり、
世の中にキリスト教によってつまづいている全ての人の心を取り戻すほど、
大きな寄生と大きな愛を施してくださったんです。
イエス様の愛と許し
先週、創世記23章でアブラムとロットに対するメッセージを申し上げました。
アブラムとロットの財産がますます増えていき、動物がたくさん家畜が多くなったでしょう。
アブラムの家来たちとロットの家来たちが戦うんです。
なぜなら、動物が多いので食べさせる土地、草が足りなかったからです。
だから信じる兄弟たちが戦うから、アブラムは先にこう言います、提案をします。
創世記13章9節です。
あなたの前にはいくらでも土地があるのではないか。
ここで私たちは別れよう。
あなたが左に行くなら、私は右に行こう。
あなたが右に行くなら、私は左に行く。
アブラムは先に実であげたんです。
だったらロットはどうするべきですか。
叔父が先に決めてください、私は後決めますと言わないで、
ロットは素早く良い土地であるソドモのところにパーンと移してしまったんです。
みなさん、今まで家族以上大切に大切に面倒を見てあげたロット。
彼が金持ちになったのは、アブラムは全部助けてあげたからうまくなったでしょう。
しかしアブラムの恩を返すことはできなく、彼は素早く自分を見て、
ああ、これが良いと思って、自分はそこに先取りをしてしまったんです。
その心を見て、ロットを見て、アブラムはどれほど寂しかったでしょうか。
アブラムはロットのゆえにつまずいてしまったんです。
この時神様がアブラムの心を見ておられ、
アブラムのところに来てくださって助けるんですけど、アブラムをどのように助けるのか。
アブラムのつまずいた心を全部カバーできるほど大きな慰め、
大きな報いを約束することによって、アブラムを慰めてくださる。
これが聖書、創世紀2・3章の14節から16節、私を読んでみましょう。
主はロットが別れていった後、アブラムに言われた、
さあ目を開けて、あなたがいる場所から東西南北見渡し方がいい。
見える限りの土地をすべて私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫は大地の砂粒のようになる。
大地の砂粒を数えることができるか、
あなたの子孫もこのように数え切れないほどの子孫を与える。
皆さん、神様がアブラムに何て言うんですか。
あなたにこのような大きな報いを与えるから、
あなたは心を慰めていきなさい。
想像もできない大きな報いを約束を受けた、
その神様の助けによって、アブラムはロットを許すことができたんです。
ロットに対する寂しい心、躓いた心を勝ち抜き、
自分を裏切ったロット、創世紀14章では、
戦争に、命がけて戦争に参加してロットを救い、
また創世紀17章には、ロットの家族のために鳥なしの祈り、
最後の十人いたら許されますかと言いながら、
ロットの家族のために、鳥なし祈りを通して彼を救うことができたんです。
私が今日皆さんに申し上げたいのは、
私たちの共同体、物足りないことばかりです。
たくさん物足りないことがあります。
しかし、全てがうまくできないとしても、
これだけはよくやりましょうということ。
これは、私たちに罪を犯した人を許してあげることです。
これだけはよくやりましょう。
誰が私たちを躓かせたとしても、許して、また愛してあげることです。
また、躓いて、境界から離れている人がいたとして、
その人を愛を持って、その人をずっと助けて、
恵みによって使えることです。
そうするとき、キリスト教で一番大事な第一の言いましめ、
第二の言いましめ、その愛の実践が可能です。
皆さん、許されないのに愛ができますか?
ですから、私たちは誰かに寂しい心がある、
だから許すことができないと、
許すのに引っかかる何かがあるなら、
私たちは第一の言いましめ、第二の言いましめはできません。
だから私たちはこれから、全てを許してあげる、
全てを祝福してあげることを心に決めて、
これを口でいつも宣言していきましょう。
ローマ書、中書、中節、実に人は心に信じてきっとされ、
口で公に言われして救われるからです。
ですから心で、私は許すんだ、私は愛するんだ、
続けて語りながら、口で続けて、
私はこの人を祝福します、この人を祝福します、
許します、愛します、続けてやっていきましょう。
これがイエス様の心、十字架の愛であり、
十字架の愛の実践のためには、この愛をすることが非常に大事です。
聖書はこう言っています、マタイ古書46節です。
自分を愛してくれる人を愛したところで、
あなた方にどんな報いがあろうか、
超人でも同じ心を知っているのではないか。
神様は私たちが難しいと思う敵さえも許して、
敵さえも愛しなさいと言います。
神様は私たちがもう大きな業界を大きく作って、
もう世界選挙をたくさんしなくても、
そんなこと肌だけではなく、許すこと、愛すること、
これをうまくやること、それを一番喜んでおられます。
皆様よくご存知の、ウィクトール・ユーゴの
レイ・ミジラボルという小説、ご存知でしょう。
フランスの貧しい時期ですね、その田舎、
飢えている家族を食べさせるために、
パン一切れ盗んだ罪で、
19年間監獄に苦労しててた、ジャンバル・ジャンという人。
その人はこの世に出て、どれほどこの世は愛がなく、
冷たく感じたでしょうか。
彼はこの世に対して、人に対して、
多分彼は神様に対しても、徹底的に躓いていたかもしれません。
老から、いざ老から出たんですが、
飢え寒さに疲れている彼。
ある田舎の教会の神父さんが、
この飢えて寒いところで寝ている彼を受け取って、
そして一晩休ませてあげる、その恵みを施します。
その恵みを受けたのにも関わらず、
ジャンバル・ジャンは夜、
教会の銀で作ったこの皿、器を盗んで逃げるところで、
警察に逮捕されます。
警察によって神父の前に引き連れて出た時、
警察がこう言います。
この銀の器は教会のものでしょう?
その時、神父さんが、
あなた、これ、この経代にあげたものですよ。
経代を、この銀で作った、この金のロウソクの台も、
教会に対しての信仰を増す
食材もあなたにあげたのに、
なぜこれを持って行かなかったんですか?
それで、これを持って行きなさい。
そうしながら、
警察を帰らせ、彼を自由にさせてくれる。
彼はそのような大きな許しの上、
大きな愛を施す神父さんの心に感動されて、
その感動によって全世界に対してつまづき、
そして氷のような冷たい、
冗心の中にいた彼の心が解きながら変わり始めます。
彼はこの神父さんのように、
許して愛する新しい人生を過ごそうと決心します。
これから見てますと、人は教えて変わるのではなく、
許されて愛を受けるとき、
変わるんだなぁということがわかります。
私はその場面をもう一度見ながら、
どれほど気がとがめられたのか。
あの神父はこのように許して愛するのに、
なぜ私は牧師なのに、今までそれが敵だったのか。
それをイエス様が十字架で見せてくださり、
それが聖書が強調する愛なんで、
私は教えるばかりで、
そのような愛を一度も実践したことがないんです。
ですから私は思います。
私が死の前に、一度でも、
本当に聖書的に許し、
一度でも愛してみたいと思います。
皆さん、この許しと愛は、
教会に通う信徒だけではなく、
この世の中の人々は、
教会は当たり前でしょう。
教会はキリストの愛じゃないか。
十字架は許しと愛を教えるどころではないか。
教会は当たり前として、
世の中の人々はそう信じています。
それで訪ねてくるのに、
許しと愛を実践する教会になる
教会が牧師がそうではない。
そうではないとき、
世の中の人々はどれほど失望して、
つまづいてしまうでしょう。
私たちのゆえに、
教会に対してつまづいて、
イエス様に対してつまづくなら、
二度も教会に来ないでしょう。
そして、この兄弟が地獄に行くなら、
神様がどれほど心を痛んでおられるでしょうか。
神様は私に何と言われるでしょう。
これらの小さなものの一人をつまづかせるよりは、
首に引きうすをかけられて、
海に投げ込めてしまう方がましだ、
と言われるのではありませんか。
では、つまづいている人たちを
変えられる大きな愛は、
どのように見せてあげることができますか。
イエス様は分かりやすく教えてください。
一日に七回、あなたに対して罪を犯しても、
七回、悔い改めますと言って、
あなたのところに来るなら、許してあげなさい。
このぐらいなら、
人々はいくら大きくつまづいたとしても、
許される愛に感度して戻ってくるようになるでしょう。
ですから私は祈ります。
主よ、私共に信仰を増し加えてください。
人を許し、人を愛する、
そのことができる信仰を与えてください。
牧師に対して、教会に対して、キリスト教に対して、
つまづいている全ての人の心が、
再び主に戻ってくるように、
つまづきをカバーできる大きな恵み、大きな愛、
大きな許し、そのことができるように、
イエス様の愛を私たちに与え、
そして私たちの教会が、
教会の本来の使命を担うことができる共同体にならせてください。
一人でももっと救う教会にならせてください。
お祈り出します。
主よ、教会は当たり前として愛を実践するべきですが、
牧師が愛がないから、
教会が冷たく物足りなかったことを考えるときに恥ずかしいです。
その間、私のゆえにつまづいている方たちを、
どうすれば救うことができるでしょうか。
ぜひとも私たちに信仰を増し加えてください。
つまづいている人たちを心から慰めることができる大きな愛、
大きな許しができる信仰を与えてください。
私たちの力ではできません。
神様の御心を与えてください。
そして一人でももっと救う教会にならせてください。
イエス様の御名を通してお祈り致します。
アーメン。
30:05

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