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コロナによって難しい今の時期、 教会は惨状の睡訓を分かっています。
苦しくて暗い時、 神の子供たちはどのように過ごすべきなのか、
一番よく教えてくださる聖書が 惨状の睡訓であるからです。
ところが、私たちを非常に苦しめていることは、 コロナによる恐怖や経済的な難しさというよりは、
私たちの過ちと罪、私たちの弱点、 それによって夫婦の間でトラブル、親子関係のトラブル、
また家族がうまく一致できない、 会わないということは非常に難しいですね。
また学校、職場、教会での人間関係の葛藤、 このようなことが私たちをもっと苦しめているのではありませんか。
ある人が私にこんな話をしたって、 それを話を聞きました。
考えれば考えるほど苦しくて苦しくて、 我慢できない状態。
またある人が私を無視した。 考えれば考えるほど自尊心傷つけられて眠れない。
本当に私たち苦しんでいることは、 人間関係の葛藤なんです。
ですから信仰生活の中で、 個人的な信仰も大事なんですけど、
他人との関係の中で、 祈祷、平和と喜びの神の国、神の気が成し遂げられること、 これが本当に大事なんです。
このためにイエス様は、 人間関係のための黄金律事を私たちに教えてくださいました。
これが今日読んでくださった、 マッタイの7章12節の聖書の成果なんです。
今日は7章の1節から12節の内容をもって、 人間関係のための黄金律事が何なのか、
それを一緒に考えていきましょう。 じゃあまず1番です。
人間関係の黄金律事、はじめは、 非道裁くな、
批判するな、ということなんです。 じゃあ1節ご覧ください。
非道裁くな、あなた方も裁かれないようにするためである。
裁くということは、批判するということです。
裁くことの本来の意味は、 正しいことと正しくないことを判断するということの意味ですけど、
今日の聖書で裁きということは、 豪的な裁きではなく、私的な裁きを意味します。
人を悪い言葉で傷つけること、
人を裏から悪く言うことなど、 批判することを意味します。
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人間は誰かが批判することを、誰かを批判することを、 本性的に楽しむということではないかと思います。
しかもそれは一人ですることではなく、 何人か集まって、それで批判することを好みます。
昔、皆さんの経験があるでしょう。職場の生活の時に、 上司から受けたストレスを、
同僚たちがお酒を飲みながら、批判しながら、それを発散します。 また、奥さんたちはご主人から受けたストレス、
子どもたちから受けたストレスを、 お友達に出会っておしゃべりしながら、それを解決します。
ところが、今このようにずっとやってきた習慣を、 業界に来て同じようにするんです。
心に合う人、何人か集まって、 あの信者はなぜそうなのよ、と言います。
牧師はなぜそんなことをやっているのよ。 この業界はなぜこんなことをやっているのよ、と言いながら、
自分が言いたいことを全部話をしながら、 その中で批判もします。
皆さん、私たちは優しく自分の話を、誰かが聞いてくれという気持ちで、 みんな集まってこの話をするのではありませんか。
しかし、イエス様は弟子たちに、このような批判をするな、と言っています。 なぜそうですか。
私が批判するなら、私も批判を受けるようになっているからです。
皆さん、世の中には秘密がありません。 いつかはみんなが分かるようになります。
誰かが皆さんに対して、また皆さんの子供に対して批判をしたという話を聞いたら、 何をしたいんですか。
では、お前は大丈夫なのかよ。 お前の子供は何がうまいってそんなこと言うの。
反駁したくありませんか。 そうです。
売り言葉に買い言葉。 いいことをしたらいいことをあろう、と言っているのではありませんか。
ともかく、批判をされた人は傷を受けます。
また、そのように言った人に対して悪い感情、恨みを持つようになります。
皆さんもこのような経験があるでしょう。 皆さんもこのように傷つけられたんじゃありませんか。
ここで批判そのものも問題ですけど、 批判する時に持つ理重の物差しがもっと問題です。
最近、韓国の政治界で話題になっている言葉です。 自分がやればロマンスで、他人がやれば不倫だという言葉です。
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理重の物差し。 自分と親しい人たちに適応する基準と、 親しくない相手に判断する基準が違います。
これによって韓国の国は分裂状態ですね。
皆さん、私たちもこのようにしてしまえば、 業界も分裂してしまいます。
皆さん、人を判断したり罪に定めたりする唯一の裁判官はどなたですか。 神様しかいません。
ところが、私が他の人を批判するなら、 私が神様のような役割をすることになるんです。
ですから、神様の怒りと裁きを受けるようになるんです。
結局、批判ということは、私の立場で、 私の基準を持って他人を見るから生じることなんですけど、
私たちはイエス様の弟子として、他人の誤ったこと、弱点よりは 他人の良い面を見る習慣を持たなければなりません。
また、他人の立場から考える習慣を持たなければなりません。
もし、私たちが他人の立場からこれを考えるなら、 批判するよりは理解する心、哀れに思う心を持つようになるでしょう。
ここでイエス様は、批判する人が持っている問題が何だと言われますか。
3節、4節です。
あなたは兄弟の目にある小屑は見えるのに、 なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、あなたの目から小屑を取らせてくださいと、 どうして言うのか。
自分の目に丸太があるのではないか。
ここで丸太ということは、私にある大きな過ちと弱点、また、罪を言います。
小屑ということは、相手にある小さな過ちと弱点を言います。
では、小屑を抜き取るということはどんな意味ですか。
私にある丸太を抜き取るということは何でしょう。
それは、私にある大きな過ちからまず直すということです。
そうした後、他人の小さな小屑を直すことができるでしょう。
では、私たちはどのように自分の目の丸太があることを分かって抜き取ることができますか。
鏡を見なければなりません。
鏡とは神の御言葉です。
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神の御言葉を私たちを照らして、見せてくださる鏡です。
バリサイ人たちは、神の御言葉を持って非難したり、他人を罪に定めたりする道具として使ったんですけど、
もともと神様が私たちに御言葉をくださったのは、他人を批判するためにくださったことではなく、
まず自分自身を顧みて反省しなさいとしてくださったことなんです。
御言葉の鏡の前で自分自身を見て悔い改めること、そして直すことをするなら、私たちの目から丸太が抜き取られていけます。
ですから私たちは、まず神様の前で自分自身を顧み、悔い改めることに力を入れなければなりません。
もし問題があるというなら、全て私のせいだ、私のせいだと言いながら、問題の原因を自分から探して悔い改めたら問題が優しく解決できます。
そうするなら目が楽になり明るくなります。
そのような時、他人の目のおがぐずをよく見て抜け取ってあげることができるんです。
パウルはローマ書7章24節に、私は何とみじめな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から誰が私を救ってくれるだろうと、嘆きながら悔い改めました。
なぜこんなことがあるんですか。自分自身が神の御言葉を見たからです。
ですから自分自身の答えがないから、イエス・キリストをあがめるようになりました。
ですから彼は救われてイエス様に見習うことができました。
皆さんイエス様の見心は何ですか。
8章で外院の刑場で捕らえた女性が人々に引き連れて出てきた時、人々は石殺して殺せ殺せと言いました。
その時イエス様は何と言われたんですか。
誰でも罪がない人がまずこの女に石を投げなさい。
そしてイエス様は私はあなたを罪に定めないと言って、これからは罪を犯したいけないよと言いました。
そして彼女のためにイエス様が十字架で死んでくださったのではありませんか。
私たちはキリスト者として、外院の刑場で捕らえた女性だとしても批判したり罪に定めたりすることではなく、
むしろ許して彼女のために十字架に背負ってくださったイエス様の見心を学ぶことができますように。
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批判することよりは哀れに思って祈ってあげることが大事でしょう。
ところがここで6節、神聖なものを犬に与えてはならず、また神獣をブダに投げてはならないと言います。
これはどんな意味ですか。
先ほど私たちは5節で、まず自分の目からマルトを取り除け、そうすればはっきり見えるようになって、
兄弟の目からオガグツを取り除くことができると言いました。
では他人の目にあるオガグツを取り除くために、私たちがどんな働きができますか。
私の目からマルトを取り除けるために、私が見言葉の前に立ったように、
他の人も自分の目からオガグツを取り除くことができるように、
その人にも聖なる神の見言葉、神獣のような神の見言葉を与えなければなりません。
使徒行伝2章で使徒パウロがイエルサレム住民に、聖なる神の見言葉を力強く伝えました。
この時人々は良心に打たれ、心を叩きながら悔いをあらためました。
彼らたちはペテロから神様の聖なる見言葉を伝えてもらったからです。
その日救われた人が3000人も超えました。
イエス・キリストの福音の中には、イエス様の愛と許しが現れています。
皆さん、批判したり罪に定めたりするのは、ひどい化したり変化したりすることはできません。
破滅しかありません。
しかし、神様の見言葉と福音のような愛があって、ひどい化したり変えることができるんです。
ここで注意するべきことがあります。
6節に、神聖なものを犬に与えてはならず、また神獣を豚に投げてはならないと言います。
ここで犬、豚、何でしょう?
これは福音の価値を知らなくて、見言葉を受け入れる準備ができていない人を意味します。
当時そのような人は、立法学者・パリサイビトだったんです。
私たちが主の見言葉に従って、ひどを批判するより、理解して受け入れることを力を入れてみたら、
愛だ、恵みだと言いながら、無分別に全てを受け入れやすいです。
罪を犯した兄弟の罪も大丈夫。
人文主義信仰も大丈夫。
世俗的なことも大丈夫だと言いながら受け入れやすいです。
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ところが、そのような人たちは福音の価値を知らなくて、
福音を足で踏みにじり、向き直って私たちを噛みついてくるかもしれません。
そうするなら、信仰・共同体が無実と混乱に陥り、
サタンの攻撃によって結局、教会がダメになるんです。
一人の人を救おうとしながら謝ってしまえば、キリストの体である教会がダメになり、
信徒たちが被害を受けることができるということなんですけど、
イエス様はこのような過ちに陥らないように教えてくださったんです。
以前の私たちもこのような経験をしたことがあるんですけど、
ですから、福音の価値をよく理解できなく、
見言葉を受け入れる準備ができていない方たちを優しく受け入れることは、
慎重にしなければなりません。
イエス様は悔い改めながら、弟子が支払うべき代価を支払おうとする人たちを
共同体に受け入れてくださったんです。
私たちは何でもいいです、何でもいいですじゃなくて、
この部分に対しては慎重にしなければなりません。
そうしなければ、キリストの体である教会がダメになるからです。
2番です。ですからイエス様は私たちに、
人に使える時、特別な姿勢を教えてくださるんですけど、
7節、8節です。
求めなさい、そうすれば与えられる。
探しなさい、そうすれば見つかる。
門を叩きなさい、そうすれば開かれる。
誰でも求めるものは受け、探すものは見つけ、
門を叩く者には開かれると言います。
私たちが他人を批判しないで助けようとする時に、
特に闇の力、暗闇の力にとらわれている霊的な問題を持つ人を
光の中で導く働きをする時に、
私たちは良い心を持って非道を助けたんですけど、
それが難しいことがあります。
なかなか難しい部分があります。
そうする時、皆さんどうしますか?
やっぱり私はダメだな。
あきらめる。私はこれをやらない。
として、神様の聖なる職務をあきらめる場合があります。
イエス様はこのような私たちに、
どんな姿勢を持つべきか教えてくださるんですけど、
求めなさい、探しなさい、門を叩きなさいと言います。
この御言葉は私たちが人々に使いながら難しくなって、
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あきらめたいという気持ちになった時、
あきらめずにこれをやりなさいということなんです。
まず求めなさいと言いました。
何を求めますか?
私の力ではできません。
聖霊十万を与えてください。
聖霊の分別力を私に与えてくださいと求めなさい。
求めるなら与えると言いました。
探しなさい。何を探せばいいですか?
私たちが助けるべき一人の人がどなたですか?
またその人を見つけたら、その人の霊的な問題が何ですか?
それを神様にこれを尋ねなさいということです。
そうすれば見つかると言いました。
叩きなさい。何を叩くんですか?
福音を受け入れないでしっかり締まっている固い自我を叩きなさい。
また妨げる敵である悪しき霊。
その悪しき霊は叩かなければなりません。
ですから私たちが一人の魂、他人を助けるために
このようにまでしながら祈りで助けようとするなら
神様はどれほど喜ばれるでしょうか?
神様がすべてを恵みとして与えてくださらないでしょうか?
ピリッポ1章8節に見ますとパウロがこう言っています。
私はキリストイエスの愛の心で
あなた方一同のことをどれほど思っているかを
神様が証してくださいます。
パウロは神様が私の証人だと言いながら
パウロがピリッポの信徒たちのために
求め探し叩いたことを自分自身が言っていることです。
私たちも一人の人のためにこのようなことをやりましょう。
私たちがある人のためにこのように助けようとするなら
神様は私たちの祈りを喜ばれ
その人を救うだけではなく
隠れたところで行われた私たちの働きも報いてくださり
永遠な天国の祝福を与えてくださるでしょう。
では3番です。
このように豊かに与えてくださる神様を知っている私たちは
他人に対してどうすればいいでしょう。
これが12節です。
だから人にしてもらいたいと思うことは
なんでもあなた方も人にしなさい。
これこそ立法と預言者であろうと言います。
信学者たちはこの聖句を
人間関係のための黄金律だと言っています。
では人にしてもらいたいと思うことを
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あなた方も人にしなさいということはどんな意味ですか。
私たちは認めてもらいたい
愛してもらいたい
尊敬してもらいたいと願います。
また理解してもらいたい
使えてもらいたい
許してもらいたいと願います。
それは私だけそうではなく
全ての人が私と同じような願いを持っています。
ですから私が愛してもらいたいと言ったとき
他の人もどれほど愛してもらうことを願っているかを考えながら
積極的に愛を施しなさいということです。
私が認めてもらいたいと言ったとき
他の人もどれほど認めてもらいたいかと
願いながら積極的に他人を褒めてあげなさいということです。
私たちがこのように認めてもらうことより認めてあげ
理解してもらうことより理解してあげ
愛してもらうことより愛してあげるとき
この世の中がどれほど美しい世界になるでしょう。
ところが結局全てが自分のところに戻ってくるようになるんだということです。
これはまるでこだまエコーと同じです。
私たちが山に登ってヤホーと言うなら
ヤホーと言いながらエコーが戻ってきます。
ストレスを解消するために
この悪いやつやと叫んでみてください。
そうするならこの悪いやつこの悪いやつと言いながら
私にエコーが戻ってくるでしょう。
反面私たちがあなたを愛してるよ
あなたを愛してるよと叫んでみてください。
そうするなら私があなたを愛してるよ
愛してるよとエコーが戻ってくるんです。
結局自分が行った全てが
自分に戻ってくるようになっているということです。
もし私たちが他人を認めてあげ愛してあげるのに
その人は私を認めてくれない
愛してくれないとしても
私たちは続けてやりましょう。
なぜなら私たちは人を見てそんなことをするのではなく
お話をされた神様を考えて行うからです。
そうするなら神様が働かれて
愛を受けるようにしてくださるでしょう。
他人を愛し認め祝福する人は
結局全ての人から
良い評価と認め愛を受けるようになります。
それだけではありません。
神様からも認めてもらい
豊かな愛を受けるようになるでしょう。
24:00
これから見ますと
まごとに自分自身を愛する道は
神様を愛し隣人を愛することです。
そうするなら
エコーのように
愛が自分自身のところに戻ってくるようになるんです。
最後にトマス・アキンパスという方が書いた
キリストに見習ってという本の一部を引用してみます。
この本の中で
他人の欠点についてという題の記事があります。
ここにこのような言葉があります。
あなた自身も
あなたの思い通り
うまく変わることもできないのに
どうして他人を
あなたの思い通り変えようとするのか。
他人は完全無欠を願いながら
自分自身の欠点は
直そうとしないのではないかと言います。
それほど自分の弱点を直すことが難しいと言うと話でしょう。
ですから神様は
カラディア書6章2節にこのような御言葉を下さいます。
互いに重荷を担いなさい。
そのようにしてこそ
キリストの立法を全うすることができるのです。
皆さん、欠点がない人は誰もいない。
人生の重荷を担っていない人も誰もいない。
自分自身に満足している人も誰もいない。
自ら自分の問題を直すことができる人も
誰もいないんです。
そのような人たちが集まっている
信仰協同体、教会、どうすればいいですか。
互いに重荷を担いなさいと言っています。
お互いに我慢して
お互いに慰めて
お互いに助けて
お互いに教えてあげて
お互いに仕えてあげなさいということです。
そうすることによって
神様が願われる
神の国と神の気を
成し遂げなさいということです。
大事なのは
自分も同じような罪人であり
同じような過ちと罪を持っていながら
無闇に他人を判断したり批判することではなく
他人の過ちを見るなら
私もそのような弱い人間だと思って
お互いに哀れに思って
祈ってあげる私たちになりますように。
謙遜に神様の助けをいただきながら
まず神の国と神の気を求め
一日一日を
神の恵みで生きる私たちになりますように。
またイエス様の十字架の愛を受けて
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信徒たちにうまく使えて
人間関係の葛藤がない教会
人間関係の葛藤がない私たちの教会になりますように
人間関係のための黄金律を
よく理解して実践していきましょう。
お祈りいたします。
死を過ちと罪によって死んでいった私たちを
イエス様の十字架の愛で
許して生かされたことを感謝します。
これから私たちもイエス様の愛によって
他人を許して理解してあげ
愛してあげるようにしてください。
恵みを与えてください。
イエス様の十字架の愛を
少しでも実践できるようにしてください。
今週はイエス様が十字架にかけられた
受難週です。
イエス様のその深い愛を
少しでも理解でき
実践できる私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン