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おはようございます。
ちょうどお盆休みの連休になっているようで、道路はちょっと車が少なかったように感じて、生えてこられたような気がします。
毎日暑い日が続いておりますが、皆様ようこそお越し下さって、共に礼拝を捧げることができることを感謝します。
私はこちらの教会に来させていただいて、数を数える、まだ片手で数えられるぐらいの段階なんですけれども、
皆様がまず教会においでになって、神様にご挨拶をなさってから、良い真との交わりの関係を持っておられるなと思って、うるわしいなと思っています。
そして、お祈りもそれぞれ独特、個性的ですけれども、非常によくお祈りをなさる教会だなと思って、数回同じ程度の歌詞を読んでいただいたんですけれども、
月に一回同じ程度の歌詞を読むというようなことからも、また新しい神様の恵みがしていられれば幸いかなと思っています。では、お祈りを。
恵み深い天の主を喜ぶことは、あなた方の力です。
天のお父様、あなたの尊いお名前と、私たちの福井のために流してくださった宮下様の父をあがめて感謝をいたします。
すぐ一週間も私たちの気づいているところ、また気づかないところで、あなたが十分な恵みを持って導いていてくださったことをありがとうございます。
どうぞ、この朝もう一度あなたの御前に自分自身を点検させていただいて、あなたの十字架の具合に応答する私たちと作り変えてくださるようにお願いします。
あなたはいつも新しい恵みを注いで、私たちを作り変えようとしていてくださいます。
どうぞ、そのあなたの働きに耳を開き心を開かせてくださいますように。
聖霊のおめでとうございます。
今日は、神はあなたを喜ばれるというラインにしているんですけれども、
今日の中心の御言葉は、五章の六節。
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義に植えかわく者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。というところからお話をさせていただくつもりです。
この後半がですね、その人たちは満ち足りるからですとありますように、神様が私たちを受け入れる準備はもう十分整っているということを、ここが教えてくれているように思います。
幸いな、こういう人は幸いだ、イエス様の口からこんなに幸いな人はないという話がいくつもここに書いてあるわけなんですけれども、その中に神様に受け入れられて十分満たされていく条件が備えられているということをここで謳われていると思うんですね。
義という言葉をよくお聞きになりますか。教会では聞くと思うんですけれども、一般の生活の中であまり私は聞いているような気はしていなかったわけです。
国語辞典などを見ても倫理的なこととか宗教的なことの言葉の説明として書かれている中に、キリスト教では神と人間の両者の関係の正しさについて表していると書いてありました。
神と人間の両者の関係の正しさですね。義というのは神様と私たちの関係について言っていることだというのですね。ですから人間と人間のことである前に神様と私たちの関係。
そしてよく聞くのはこの義というのは法定用語だと言われていますので、神様の裁判の座について出るときに神様がよろしいと言われる、そういう立場がこの義という、神の義ということなんですね。
それで教会に来た場合、全てを作られた神様が私たちを招いていってくださることがわかるわけですけれども、今日はどちらかというとキリスト教の基本の話をもう一度させていただくつもりですが、
それでやってきたんですが、ところが今日玄関のところでソンソン師説教集の偉大なる命令というのをいただいて読んでおりましたら、なんか私が言おうかなということが半分ぐらいは入っていたので、今日の欠けたるところはこれをかえって読んでいただいたら十分いいのではないかなと思わされています。
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神様という方が愛、人を愛しているということにおいて完全なお方であるというのはよくご存知であろうと思います。そして神様はあなた方も完全であるようにとおっしゃるわけですね。
神様の正しさは100%、神様の側は100%ですから、求められるものももちろん100%なんですね。ご自分が100%ですから相手に99でよろしいとはおっしゃらない完全さを持っておられるんですよね。
そういうのを聞くときにたじたじとなりますが、精神はそういう私たちを招いていてくださいませ。
今日はローマ人への手紙の3章の10節に義人はいない、一人もいないという言葉が旧約聖書から引用されています。
つまり神様の前に何のはばかりもなくそのままで100%よろしいと言われる人は世の中にどんなに探しても過去のどんな人を探しても今のどんな人を探しても完璧な人はいないと言って精神は明らかに言います。
ですから事務を振り、皆様も振り返られてそんなことはあるだろうかと思われる方と本当にそうだと思われる方と両方あるかもしれませんけれども、精神は私たちの完全に私は正しいと言えるような人はいないと言います。そこが一つのことです。
神様の正しさを私たちが知るときにはご存知のように旧約聖書のモンスの実会ですね。そこが一つ大きな私たちに対するテストの場所になります。
よく新学校にいらっしゃった工藤先生が救いに預かるときに森山里志先生から大学生の時代に一人呼ばれてですね、モンスの実会を開いてどうなんですかというふうに問い詰められてそこで悔いあらために導かれたということを何度かお明かしで伺っておりました。
そこには当の戒めがありますけれども、あなたには私以外に他の神があってはならない。あなたは自分のために偶像を作ってはならない。あなたはあなたの主の名を未来に口にしてはならない。
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安息に日を覚えてこれを聖なるものとせよという4つが神様と私たちの間の関係ですね。そして後半からまずあなたの父と母を敬えということから始まりまして、殺してはならない。
簡易してはならない。盗んではならない。あなたの隣人について必要な表現をしてはならない。あなたの隣人の家を押してはならないというふうに10個まで続いていきます。
一つは20章の中にそれが書いてあります。こうしてはならない、してはならないという非常に否定的な言葉で書いてあるので、本当に忌ましめという感じがいたします。前半は神様と人の関係、そして後半は人と人との関係です。よくご存知のことだと思います。
そして今日のこれの中にも書いてありましたけれども、イエス様が深夜ステーションの中でこのモーセの実会についてお話をされたのは、ある役人またある若い人、ちょっと呼び方が違いますけれども福音書の中に永遠の命を得るにはどうしたらいいですかという質問に対して、
イエス様はこの実会、10個のものを2つにまとめて教えました。それは神を第一として愛することと人を自分のように愛することのこの2つの忌ましめにこのモーセの実会がかかっているのだというふうにお話しなさっていることを皆様もご存知だと思います。
つまりそこには何かをして良いことをするというようなことは入っておらず、その人の動機が本当に神様をひたすら向いて求めている心であるか、そして人を本当に自分のように愛するようなものになっているかという動機がいつも問われているんですね。
このテストはなかなか厳しいです。そういう面で何かの行い、これこれをしたらここに何人行くとか、これこれを全部こなしたらというのではなくて、私たちの動機がどうであるかということはいつも問われるので、そこの面で100%ということはとてもお呼びがつかないという感じがします。
今ニュースを聞くと政治と統一協会の問題がよくありますけれども、献金というのも捧げに間ならない方向に行っているというか、そっちの方向に行ってしまっているので、私に捧げてくださいという、そういう意味からしている行動ではおそらくないと思います。
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恐れが反、その裏側にあって捧げていると思うんですね。有名なコリントの手紙の第一の手紙の13章の中の初めの方に、愛がなければ無に等しいという言葉があります。
たとえ私が持っているもののすべてを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ何の役にも立ちませんというふうにパウロが解説していますように、私たちの行いの背後に愛している人ということ、神様に喜ばれるように、そして人を愛しているということがなければ、
神様の前に義とされることができないというようなことが言いましめの中から分かっていきました。
そういう時に、こういう自分、本当に自分しか見えなかったり、自分の判断がいつも優先してしまったりするような私たちに向かって、神様は悔い改める、方向を変える、確かにあなたは地味人で100%ではないけれども、いつも神様の方に向き直げなさいという提供を私たちに向かってしてくださっています。
そして、そこにイエス・キリストの十字架という犠牲の愛、私たちの罪の磨いで死んでくださったイエス様の愛にいつも立ち返るように私たちを招いていてくださいます。
そして、今日は五章の義に飢え渇くもの、飢えると渇くと両方ですね。飢え渇きという日本語は一つですけれども、飢えるということと渇くということの二つがここでは一緒になっています。
本当にカラカラになって、空腹の極み、空きの極みのような神様の前に何とか私が立ちたいという、そこに大変乾いてカラカラになっている人は幸い。なぜなら道足りるからです。
この道足りるというのは、私はとりあえずビールとか今は飲みません。今は飲みませんが、昔から飲んだことがあります。ブラスに入れてガシュガシュガシュガシュガシュといっぱいまで入れると溢れてきますよね。
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そのように蓋ができないほどの状態になるという、溢れるところまで行くという言葉をこの道足りるというのは表しています。
ですから、詩編の23点に私の杯は溢れますと書いてあるように、溢れる状態のところまで、もうこれ以上はダメですよと蓋をしたくなるぐらい溢れてくるというのが、その人たちは道足りるからです。もう十分ですと言われるような状態になるということです。
それが、イエス様の願いの十字架によって備えられて、そしてそれを信じる私たちが受け取ることができるということを聖書は私たちに教えています。
お開きいただかなくてもいいんですが、このローマ人の手紙の3章のところに書かれているのは、ユダヤ人には立法が与えられているけれども、その立法を行うことによって誰も義とされないというところがここに書いてあるんですね。
そこの3章の21節から数節お読みします。
しかし今や立法とは関わりなく立法と預言者たちの書によって明かされて、神の義が示されました。
すなわちイエス・キリストを信じることによって信じる全ての人に与えられる神の義です。
そこに差別はありません。
全ての人は罪を犯して神の栄光を受けることができず、神の恵みによりイエス・キリストによる贖いを通して与えなしに義と認められるからです。
ここに書いてあります。
私たちはイエス・キリストを救い主として信じてその十字架の贖いを受け入れることによって、
その前に自分の罪を認めて神様の前に告白するということが必要ですけれども、
そのイエス・キリストの十字架の贖いをしっかりと信じることによって与えなしに、行いなしに神様によろしい。
あなたは100%ですよと言っていただけるということが聖書に書いてあります。
イエス・キリストを通して神様の私たちを十字架を通してご覧になるので、あなたには全然賭け目ないですよと言われるわけですね。
過去に何したこうしたってあったとしても、それをちゃんと神様にお詫びをしていけば、
神様あなたも100%100人中ですよと言って、神様が私たちを喜んで受け取ってくださるというのが、この聖書が私たちに約束していることです。
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短い霊話をお話しするんですが、私が前にアタシに使わされていたときに、かつて台湾の宣教師になっておられたご夫人がいらっしゃったんですね。
もう数年前に亡くなられましたけれども、その方が面白い霊話を教えてくださいました。
その皆様、正しい人がたくさんいる家と、そしてそうでない人がたくさんいる家では、どちらが平和だと思いますかと言われるんですね。
正しい家の人たちは、私は正しい、あなたが間違っている、私が正しい、あなたが間違っているというので、いつも異社会を起こしている。
しかし、そうでもないなと思っている人たちは、ごめんね、私が悪かった、私が違っていたかもしれないというので、そっちの家庭の方が平和だというふうにお話をされたんですね。
これ、なかなかいい話だなと思って、私は覚えているんですが、私たちの生活にも案外、細かいところで、私が正しいよと言って、浮きつけないことがあって、それから気分が揃えていったり、もしかしたら喧嘩になることもあるかもしれないんですね。
でも、私たちは、何か行いの正しさというよりも、動機を、神様があなたの言っているその動機は愛ですかと問われることを覚えて、
絶対、私が正しい、完璧に100%私が考えてやっていることが正しいということはありえないということを、時々思い出す必要があるかと思います。
この、ちょうどいただいた話の中に、家庭のことが書いてあって、夫婦が異社会を起こしていたら、そのまま親戚の家に行ってはいけないと言って、
そのお父さんから、ご両親から言われた、とにかく夫婦で問題があって解決していないなら、そのまま家に帰ってくるなという、そういう話がありました。
とにかく、まずそこで自分を変えに行って反省して、関係を作り直してから実家に帰ってくるようにという、なかなか賢いお父さんだなと思って読んだんですけれども。
大主様は、私たちを、イエス様をそうして喜んで受け入れてくださろうと、用意してくださっていますし、
21:03
していますけれども、私たちは確かにいろんな賭けがあって、愚かしいものであるということをしばしば反省してですね、
このイエス様の前に立ち、帰りながら、日々の生活を落ち着いていきたいと。
熱いデータにして、新学校を卒業して教師になった先生方のテストの答案用紙があるんですね。
それを私は一生懸命コピーしておったんですけれども、そういう点を見る中にですね、
この、偽人は信仰によって生きるというところを解説せよというようなのがあるんですね。
それで、出どころは旧約聖書の幅黒の2章4章、偽人は信仰によって生きるというのがまず出てきて、
新約聖書のあと3ヶ所、ローマ時代の手紙とガラス屋の手紙とヘブル時代の手紙に信仰による偽人は生きるというのが引用されているんですね。
だから解説をするときに、そっちの新約の3ヶ所も引用すべてになるとか言って、
天作の先生が書いてあったりするのを読むんですけれど、読んだんですが、
そのように私たちに神様が喜んで私たちを受け入れてくださるために、
私たちの100%だよって言ってくださるために、
神様の犠牲は最大級の、税上に払うことができないほどの犠牲をもって私たちを大切にしてくださっています。
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私たちもこの熱い毎日ですけれども、神様は私たちを許して愛して、
あなたは私の目に効果でたった120%だよと言われている自分自身をですね、
いつも確認しながら進んでいかせていただきたいと思います。
そしてその計り知れない神様の愛と恵みに対して、
それを受け取ることができる私たちであらせていただきたいんですね。
神はあなたを喜ばれるんですけれども、
私たちをどんな状態の時に愛してください。
私たちが住み人であった時にキリストが私たちのために死なれた。
そして不経験な子を弱かった頃に死んでくださいました。
そしてそこの5章の10節では、
敵であった私たちが日光の教えによって神と和解させていただいたとあります。
私たちは弱くて住み人で、敵であっても
イエス様は十字架であえて死ぬ身代になるということを選んでくださったというこのことを覚えながら、
義に渇いている人は私は正しくないし良くないと思っている。
もっと完全、神様の喜ばれるような完全になりたいと思っている人たちは
十分イエス様によるというこの意思を。