これは、ヨハネ14章21節です。 私の受け手を受け入れ、それを守る人は、私を愛する人です。
愛する人がいるなら、私も愛し、私自身を彼に表すということです。
このように神を愛する人には何があるのか。 これが神明記とか聖書にたくさん書かれてありますけど、1節だけ読んでみましょう。
もしあなたが、あなたの神主の御教えをよく聞き従え、
今日私が命じる今しめをことごとく忠実に守るならば、
これは何ですか。 あなたが私を愛することを示してくれるなら、
あなたの神主はあなたを地上のあらゆる国ために遥かに勝ったものにしてくださる。
あなたが、あなたの神主の御教えを聞き従えば、愛するなら、これらの祝福はすべてあなたに望み実現するであろう。
皆さん、私たちが神様から祝福されるために、神様祝福くださいくださいと必要ありません。
私が神を愛するなら、神様はすべての祝福を私にくださるのに違いがありません。
これが聖書で私たちに約束されたものです。
神の愛を、神の祝福をいただく方法は、私が神を愛すればいいです。
愛すればいいです。
しかし、自由意志を持っている人間、また、創世紀3章以来の建材のもとにある人間は、
神様から離れようとする傾向があると言います。
だから、神様に従うことができなく、結局、愛ができません。
ですから、旧約聖書は失敗しました。
では、どうすればいいのか。
神様は旧約聖書の中で、新約聖書で、イエス・キリストによって与えられる新しい時代のために大事なメッセージをくださるのですが、
これがエレメア31章33節です。
しかし、来るべき日に私がイスラエル家と結ぶ契約は、これである。
すなわち、私の立法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にこれを記す、と言います。
では、どうして、神の立法を私の心の中に入れ、またこれを記録することができますか。
このために、イエス・キリストが十字架で死んでくださって、私たちの罪を清めてくださり、清くなった心に神の霊、真理の霊、聖霊を与えてくださって、
聖霊がおられることによって、私は神の御言葉を知り、神の御胸を知り、神様の御意図を知り、神に従うことができるようにさせてくださる。
では、皆さん、キリスト教でいろいろな難しいことがあります。
キリスト教を理解するために、まず、少女が赤ちゃんを産んだということ、これを理解しなければいけません。
これは人間の知恵では理解できません。彼はもうできないから、でもこれを、聖霊がおられるなら、それが自然に認められます。
また、死者が復活した、死んだ人がどうして復活できるのか、理解できないけど、聖霊様をおられるなら、これは当たり前だと思うようになります。
今日、皆さん、教会学校の子供のメッセージを聞かれたでしょう。
ペテロと弟子たちは、イエス様が十字架に架かれる前に、イエス様を三度も否定しました。
イエス様は何か知らない、架かれると関係ない、強く反発しました。
なぜ、弱いから、自分も殺されちゃいけないと思って、自分はこれを知らないと否定しました。
しかし、その数日後です。
エルサレマン町に出て、尊いにイエス・キリストの復位を述べていたのです。
どうしてこんなことができたのですか。
聖霊様が来られたのです。
聖霊様が来られたら、以前はイエス様を否定して、イエス様をわからないと言っている人が、
次は、聖霊が望んでいれば、力強く復位を伝える人に変わったのです。
これが、聖霊によって変わったことです。
皆さん、聖霊様はどれほど素晴らしいのか、
私たちが想像もできないこともできる聖霊の働きがあります。
この聖霊様の助けが、私たちに必要なので、神様が私たちに送ってくださいました。
皆さん、皆さんは、使徒信条、また主の祈りを覚えようと、いろいろ覚えたことはありますか。
私は覚えたことはありません。
覚えたこともないのに、主の祈りと使徒信条は、私が自然にできました。
私は、とりあえず覚えてもないのにできるのか。
聖霊様が来られたら、これが自然にできるのです。
不思議、不思議です。
私は、家で追い出されるほど迫害を受けました。
その時、マルコ10章の29節、30節。
私と福音のために、父、母、家、兄弟を捨てた人は、この世では100倍を受けるが、
100倍を受け、後には永遠の命を受ける。
私はそれを覚えたこともありません。
それが聖書の中にあるとは覚えません。
全然わからなかったのですけど、それは私は覚えていました。
どうして、聖霊様が、私が忍ぶことができるように、あらかじめ入れてくださったのです。
私の胸の中に、私の心に、これは記されていたから、
私は覚えてもないのに、それをわかっていました。
すべて、聖霊様がなさった働きです。
皆さん、聖書では、イエス・キリストを救い主、聖霊様を助け主と言います。
人を、罪から、悪魔から、地獄から救い出すことができる方は、どなたですか?
世の中に誰もいません。
イエス・キリスト、ただイエス・キリストだけです。
ですから、イエス・キリストを救い主と言います。
聖霊様を助け主と言います。
信者たち、イエス様を信じる人たちを、この世で保護し、教え、悟り、導き、
そして、助けて、天国まで安全に入るように、私たちを助ける方、
その方が、助け主、聖霊様です。
救いは、ただイエス様だけです。
私たちを、安全に天国に入れてくださる方は、ただ聖霊様だけです。
皆さん、聖霊様の助けが、なぜ大事なのか?
聖霊様は、第1コリント2章10節、11節を見ますと、
聖霊様は、神様の深いところを全部知っている。
聖霊様は、神様の身分を全部知ってから、私たちを助けてくださいます。
ですから、聖霊の助けは、完璧です。
聖霊様の助けは、神様の身分も知らないのに、私たちを色々助けてくださる方ではありません。
全部分かってから、助けてくださるから、私たちが一番、神の身分に沿う、
一番、神様の心に合う、働きができるように助けてくださいます。
ですから、聖霊の助けがなければ、
聖書の真理、キリスト教の大事な大事な、この革新、内容、また、礼的なことは分かりません。
キリスト教は、勉強でできるものではありません。
聖霊様の照らしが大事です。
今日、聖書朗読を、教会学の先生がやってくださったんですけど、
イザヤ6章を読みました。
皆さん、イザヤ6章は何ですか?
ウジワ王が死んだ時、イザヤが神様の前で、イザヤは最小ですから、神様に礼愛を捧げました。
その時、目が開かれて、神様が御座に座っておられ、
その神の栄光が、この神殿の中に満ちあわれる場面を、彼が見たんです。
多分、私がそこにいたら、見ることができたんでしょうか?分かりません。
しかし、聖霊様の助けによって、イザヤはそれを見たんです。
聖霊様が目を開いてくださったので、この霊的な実物を目で見て、
そこで自分は汚れた唇のものだと分かって、悔いを改める時に、
天使が祭壇の火を持って、私は自分の口を清めてくださり、
それで神の御声が聞こえるんです。誰が私のために行くか。
その時、イザヤが、「私はここにおります。私を使わせてください。」
普段、礼拝で、それをなかなか私たちが想像できないことが、イザヤには起こりました。
これを霊的なことを見せてくださる方、神の御胸を知らせてくださる方、これはどなたですか?
これは聖霊じゃなければいけない。
私はぜひぜひお願いしたいのは、今これは狭いところなんですけど、
ここに聖霊様が私たちの霊の目を開いてくださった時に、ここに神の玉座があり、
ここで天使たちがいろいろ賛美をしたり、かわしたりして、
その中で私たちの罪が明かされ、それを悔い改めを通して、神様から許していただき、
それで許しを許しのこの喜びの中で、主を私を使わせてくださいという献身に行うまで、
この礼拝の場面ですべてができることは、聖霊様が示してくださるだけ。
霊的な目を開いてくださらなきゃ、神様を見せてくださらなきゃできないことです。
このような霊的な働きが私たちの中で行われるように助けることが、
神の霊、聖霊様の働きなんです。
神の霊、聖霊様が私の中で働くなら、私たちに与えられる恵みはもう限りがありません。
私たちの信仰生活は、聖霊による信仰ですけど、
聖霊の導きに従って生きる生活、聖霊の力によって生きる生活、
聖霊の実りによって生きる生活です。
聖霊の実り、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、融和、節制、
これを通して、智慧があり正しい、また力もあり美しい人にさせてくださる、この聖霊様の助け、
これを通してイエス・キリストに見習った人になるように、聖霊様は私たちを作り上げてくださいます。
神の子供たちを助ける聖霊の素晴らしい働きはどれほど役割がたくさんあるのか、
聖霊様の助けをいただく人といただくことができない人はもうはっきり区分されます。
ここで大事なのは、聖霊様が私たちをどのように大切にし、
聖霊の導き、聖霊の助けをいただくことができるのか、
これが信仰生活がうまくできるのか、できないのかが書かれてあります。
ですから聖書は聖霊様との関係性に対して気をつけなきゃいけないよと言います。
エピソード4章30節に、神の聖霊を悲しませてはいけない。
あなた方は聖霊により贖いの火に対して保障されているからですと言います。
じゃあ皆さん、周りにある人がいます。
その人が私が嫌なことばっかりやるなら、その人と一緒に暮らすことができないでしょう。
この一緒に暮らすためには、私はこの方が好きなことを私も好き、
この方が嫌なことを私も嫌になれば、その方とうまく付き合いができるし、一緒に暮らすことができます。
聖霊様が私と一緒にいつまでもいるためには、聖霊様が好きなことを私が好きだし、聖霊様が嫌なことを私も捨てる。
そして聖霊様が一番好きなことをそこに一緒に一緒に暮らすなら、一番聖霊の働きがうまくできるでしょう。
私は以前からずっと皆さんに申し上げてきました。
聖霊様は田舎の少女のような、清い少女のような方だ。
聖霊様は静かな方、美しい方、純粋な方です。
この聖霊様をどのように私たちはこの一緒に暮らすこと、一緒に働くことができるのか、
聖霊様が好きなことを積極的にやるし、聖霊様が嫌がることは徹底的に捨てること、これをうまくやらなければなりません。
今日は聖霊様が一番嫌われること4つを皆さん考えながら、
この4つが私の中にあるのか、その4つのことが見えたら必ず切り捨てなきゃいけないということを皆さんに申し上げていきたいと思います。
徹底的に悔い改めなければなりません。
罪には三つの種類があると言いました。
一つは倫理・道徳的な罪。
これは誰も知っています。
倫理・道徳的に私は悪いことをしたと思ったら、すぐに悔いを改めることが大事。
二番目、関係性の罪があります。
皆さん、関係性の罪を私たちは軽んじる可能性があるんですけど、
関係性に対する罪はこれも大事なことです。
ある人と関係が悪くなれば、これを和解を求めるか、それを許してあげなければなりません。
関係がダメになったままにずっと続けるのは神様が嫌がります。
ですから、聖霊様が私たちの心の中で何か指摘してくだされば、これを改善していかなければなりません。
関係性の罪、また秩序の罪があります。
神様と私たちの秩序、また私たちの間の秩序、この中で何か関係を破る秩序を破ったことがあるなら、
それも悔い改めを通してそれを取り戻さなければなりません。
聖霊様の助けを本当に求めるなら、皆さん、罪を必ず悔い改めて、
罪が神様と私たちの間に邪魔にならない、妨げにならないようにしていかなければなりません。
罪、捨てましょう。
2番目、聖霊様は人格帯です。
人格帯である方は一番問題になることはない。
無視する、軽蔑する、差別する、このようなことはあってはなりません。
もし皆さん、妻と私の間に、私は妻に無礼なことをやる、何か無視する傾向がある、
これは妻と関係が悪くなります。
皆さん、子どもたちが一番怒ることは何か、父だとして子どもたちに勝手にやることです。
そうしたら子どもたちが怒ります。
このようなことも全部問題になります。
人格帯は無視したり差別したり、この人格を何か、諸別感を与えたりすることは絶対ダメです。
ですから私たちは聖霊様に対して、これをぜひ覚えていかなければなりません。
聖霊様が私たち一番寂しいと思われることは何か、聖霊様を無視することです。
いつも24時間、聖霊様は私と共にいるのに、
聖霊様を無視して私が罪を犯したりとか、悪いことをしたりとか、
それを聖霊様の前で悔い改めない、このことがあったらいけません。
聖霊を無視してはいけません。差別、悲しませてはいけません。
ぜひ覚えていきましょう。
また神様が一番嫌いなのは、この世を愛することです。
第1ヨワネ2章15節から17節。
世にあるものも愛してはいけません。
世を愛する人がいれば、おんちちへの愛はその人のうちにありません。
なぜなら、すべて世にあるもの、陸の欲、目の欲、生活の奢りは、
おんちちから出ないで、欲から出た。
欲から出たと悪魔から出たということです。
世にある欲も過ぎ去っていきます。
しかし神の御心を行う人は、永遠に生き続けますと言います。
大事なのは、神様が一番嫌いなのは、
陸の欲、目の欲、生活の奢りと言われる、この世を愛することです。
この世の愛する心があるなら、神様の愛はその人の中にありませんということです。
神様が一番嫌われるのは、この世を愛することです。
事実は私たちは、この世を愛する、
まあ、分かりやすい言葉で書いたら、
出世、お金、名誉、この世で成功、人間からの非道からの評判、
なんとかなんとか、こんなことを求めているなら、
神様はその人を愛していませんということです。
気をつけなければなりません。
神様、愛は競争相手を許しません。
妻を愛する、また他の人も愛する。
あなたはこの人を愛するのか、私を愛するのか、いつも妻は聞きます。
同じように神様も私たちに、
あなたはこれを愛するのか、私を愛するのか、それを聞きます。
アブラムが最後に何を神様から聞かれたんですか。
あなたはイサクなのか、イスマイルなのかと聞かれました。
その時イスマイルを追い出しました。
じゃあ次は私なのかイサクなのか。
その時アブラムはイサクをモリアさんで、
神様の前で生贄として捧げようとしました。
そうです。アブラムは何で神様から認められたのか。
神様以外愛する者ありませんということで、
神様から認められて祝福されたものです。
じゃあ神様以外ありませんか。
牧師は何を愛しますか。
牧師は神の業を神様よりもっと愛します。
牧師は教会、教会成長、神道を愛しながら、神の愛を逃してしまいます。
じゃあ皆さん、親は何を愛しますか。
神を愛するのか、あなたの子供を愛するのかといった時に、
いつもそこで私たちはもう神様じゃなくて、
自分の子供になってしまうこの場合がたくさんあります。
気をつけなければいけません。
アブラムみたいに神様から認められる私たちになりましょう。
あなたは私しかいないということをやっとわかった。
だから私はあなた、やうえ、いるえ、神様すべて備えてくださったように、
私たちも神様以外に他のことを愛してはいけないということを理解していきましょう。
エリー・メア2章27節にこう書いてあります。
あなたは普段、世の中のことを愛し、
偶像を拝みながら、何か観覧があったり問題があったら、
私の前に来て、主を助けてくださいと言うんだ。
普通はあなたは私のところに来ない。
世の中のことを愛したり偶像を愛したりしながら、
問題があって解決の道がなければ、私のところに来て、主を助けてくださいと言う。
そのような人に裁きがあると言われている。
なぜでしょう。神様より他のことばっかり愛しながら、
苦しい時に神様助けてくださるということは、神様には許せないということです。
私たちの中で、私の心、関心、神様よりもっともっと愛することがあるのに、
それを悔い改めないまま続けていくのは、これを注意していきましょう。
気をつけるべきことがたくさんあるので、最後に一つだけ、傲慢です。
約部四書六説、神は傲慢なものを敵とし、謙遜な者には恵みを与えてください。
傲慢という単語がどこから来たのか、これは天主教であるルシファから来ました。
ルシファはもともと賛美をリーダーする天主教だと言います。
これは賛美を導く間に、これを神様に栄光を与えるべき、
これを自分がこの栄光を取り戻す、自分が先取りしたいと思って、
神より自分が高ぶる、その高ぶりによって彼が天から落ちてしまった、
これを私たちが理解しています。
神様は傲慢な人を許されない、高ぶりは破滅の先立ちということです。
私たちは主の働きをみんなが頑張っています、教会に熱心にします。
しかし最後にためになる理由があります。
何か、自分は熱心にやってやったら、後になって何というのか、
主の恵みがそれを全部できましたと言うべきなのに、私がやったとしめます。
皆さん、これは簡単に言う、私がやったと思います。
その時、神様から見捨てられてしまうんです。
神様は神を愛する、神の前で謙遜な人を高ぶり、高く引き上げ、
神の前で傲慢になった人を敵にしてしまいます。
私たちがいつまでも主の前で用いられながら、謙遜にとどまることができるなら、
神様はいつまで私たちを祝福してくださるでしょう。
最後に、イエス様の謙遜です。
イエス様は三位一体の中で第二位の神様です。
ところがイエス様は神様をどれほど高く引き上げるのでしょう。
またイエス様は聖霊様をどれほど大切に思うのか。
マルコ3章28節29節でこう書いてあります。
はっきり言っておく、人の心が犯す罪やどんな暴毒の言葉もすべて許される。
しかし聖霊を暴毒する者は永遠に許されず、
永遠に罪の責めを負うと言います。
イエス様は何と言いますか。
人々は私を無視するのは良い、許される。
しかし聖霊様を無視するのは絶対許されないと言います。
人々はイエス様を暴毒するのは許される。
聖霊様は絶対ダメだと言います。
それほどイエス様は聖霊様を大事に大事に思います。
皆さん、聖霊様はどなたに働くのか。
聖霊様を一番大事に思われる方を大事にします。
ですから私たちは聖霊様を大切に思って、
そして聖霊様の助けを切に求める。
そして積極的に聖霊様を求め、一緒に行きましょう。
皆さん、張詠儀先生がうまくやったのはこれだと思います。
張詠儀先生はいつも言います。
聖霊様、あなたが牧師、私は福牧師、
あなたが先に行って私を導いてください。
歓迎します、来てください、来てください。
いつも聖霊様を先に先に先に大切にしながらついていく。
この牧会をしたから、聖霊様が全てを示してくださり助けてくださり、
張詠儀先生の牧会がうまくできるようにやってくださったということです。
私たちの人生も同じです。
これはただ牧会だけが神の御業ではありません。
世の中で皆さんのお仕事、勉強、すべてが神の御業です。
神の御業には聖霊様のこの働き、
聖霊様の助けなければ私たちはできません。
ですからすべてのことに対して聖霊様に祈り、
積極的に来てくださり、私たちを助けてくださり、
導いてくださいという求める心で
聖霊様と毎日毎日共に歩むなら、
このすべての働きを聖霊様が助けてくださるでしょう。
私は私たちの教会がアンティオキア教会の身のようになってほしいと思います。
始祷行伝13章2節3節、
彼らがアンティオキア教会の人々が主を礼拝し断食していると
聖霊が告げた、さあバルナバとサウルを私のために選び出しなさい。
私が前もって二人に決めておいた仕事をあてようとしましょう。
そこで彼らは断食して祈り、二人に手を置いて出発させた。
それを通してアンティオキア教会がヨーロッパを選挙するようになります。
アンティオキア教会は聖霊様の御声を聞くために断食しながら、礼拝しながら御声を聞こうとしました。
そして御声が聞こえられた時にはそれを分別し従うために断食までしました。
それで従っていくから神聖霊様はアンティオキア教会を通して世界選挙を始めるようにしてくださったんです。
私たちも小さな群れですけど、私たちが神様の御声を聞こうとして
聖霊様の導きを切に求め、ついていこうとするなら
聖霊様は私たち教会を用いてくださると信じます。
聖霊様が共にいてくださる礼拝、聖霊様の導きがある礼拝、
私たちのみんな、家族一人ひとりを聖霊様が助け、導き、保護し、教え、悟らせ、今日イザヤの礼拝のように。
皆さん何にもないところで自分が神様に礼拝するだけじゃなくて、
聖霊様がイザヤの目を開いて、神の玉座とそこにいろいろ働きをする天使たちを見せてくださり、
すべてを見せてくれる霊力の世界の中で導いて、そこで神様の見舞いで礼拝が行われる。
この礼拝の中で自分の悔い改め、神様のこの前に献身、それを神様が全部受け取ってくださって、
イザヤの旧約聖書では大公の福音書といわれるイザヤ書が書かれ、神様が大きく使ってくださったでしょう。
この素晴らしい見技ができるきっかけ、働きは聖霊様がイザヤをどれほど大きく用いてくださったのか、ここに書かれてあります。