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2024-12-01 37:16

「待降節の福音」2024年12月1日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2024年12月1日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) エペソ2:8-10 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9.行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10.なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト․イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
ローマ 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

メッセージ題 : 待降節の福音(なぜイエス様はこの世に来られたのか)(エペソ2:8-10、ローマ
*クリスマスの4週前から、イエス・キリストの来られることを待望する、アドベントの時期です。今は再び来られるイエス様を待ち望んでいますが、なぜイエス様はこの世に来られたのか?再び来られるのか? *この世は辛い。創世記1:1なぜ神様はこのような辛い世界をわざわざ創造?そうではありません。幸せな世界を創られたのに!サタンの誘惑、人間の不従順、罪によって!*黙12:9サタンはなぜ人間を誘惑したのか?神の代理者に罪を犯させ世界を。神を苦しめる為

1.原罪の故に苦しみ、病、死と地獄を避けることが出来ない人類!どうすれば良いでしょう?
*福音があります。ヨハネ3:16 神の御姿である人間を愛された神様が・命の道を。創世記3:15そのメシアを送って下さる為に旧約聖書で・・・メシアを送って下さった。メシアは十字架で死なれ復活されることによって・・・罪と不従順の代価を支払われ、サタンを滅ぼされ、救いの道を開かれた。またヨハネ1:12信じる人に神の子供の資格と特権を!

→誰が十字架と復活によって成し遂げられた、救いと永遠の命を得ることができるのか?エペソ2:8,9自らの力ではなく神の恵みによって?ではどんな人に神の恵みが与えられる?知りません。恵みで、タダで、プレゼントなので誇ることできない。

*救いは謎です!大事なのは・・・本当に救われた人は何の為に救われたのかを知って、過去の生活を捨てて、キリストに見習った善い業に励んで生きるようになる。エペソ2:10

2.その「善い業」とは、何なのか? ローマ6:16
*人間には悪い前例があります。創世記3章のアダムとエバの・・・創世記2-3章で、神様は善悪の木の実を食べると死ぬ。しかし悪魔は絶対死なないと。どちらの話に従うべきなのか?→初めの人間は神様の御言葉よりサタンの話を聞いて? このようなことを2度もしてはいけない!
*ところがサタンの立場で見てますと?以前は自分の奴隷だった人間が今は神の子供?諦めるのか?いいえ、取り戻そうとする。ルカ11:24‐26そのようなサタンの仕業に騙されない方法?
→誰の話を聞き従うのか!私たちは2度も、創世記3章の事件を犯してはいけない。箴言4:23

3.大事な御言葉、フィリポ2:12 自分の救いを達成するように?どうすれば良いでしょう。
1)放蕩息子のようにしてはいけません。ルカ15章、離れるというのは、心の中心の微妙な動き、人間は自由意思があるので、それを逃すと・・・徹底的に神の事を選ばなければ、毎日のデボーションでお祈りと御言葉を持って自分の状態を確かめ、取り戻さなければ。罪は大便のようで・・・
2)積極的にイエス様の内に留まり、共に歩むように。どのように?親しみとPLOで・・最後のとき箱舟は?大患難のときを備え・・ルカ21:36 

3)攻撃が最善の防衛。主の為に積極的に生きること@ヨハネ10:10イエス様が来られたのは、羊が命を受ける為、もっと豊かに受ける為に・・・イエス様の救い、神の御言葉、聖霊充満、聖霊の油注ぎ、神様との交わり・・・すべてが命。それを味わう間に、病気が癒され、健康と喜びと美しくなる、最後は天国!イエス様はこのすべてを与える為

00:00
今日は、待降節の福音という題を持って、メッセージを分かち合いたいと思います。
じゃあ、待降節の時期になりました。 待降節というのは、
メシアであるイエス様が来られることを待望しながら待つ時間ですけど、
クリスマス4週間の前から始まります。 今は、イエス様が再び来られる、再臨を待望する時期であります。
じゃあ、なぜイエス様が2000年前、この世に来られなければいけなかったのか。 これはキリスト教の一番初めになる、大事な質問です。
これが、私たちは福音として伝えるんですけど、福音は英語で言えばグッドニュースなんです。
これはすべて皆さんご存知の内容ですけど、私たちの革新、また伝道のために、もう一度皆さんと分かち合いたいと思います。
じゃあ、皆さん、この世で生まれてみたら、この世はどうですか。
難しい世界です。 私は、サクちゃんがこの世で生まれて、今一番質問しているんじゃないかなと思います。
母親の体内にいる時には、世の中に出たらどうなるかなと、いろいろ期待してたんですけど、世の中で生まれてみたら、世の中は本当に質問する、それしかないんじゃないかなと思って、
かわいそうなサクちゃんとは思っているんですけど、創世記1章1節でこう言います。
初めに神は天使を作られた。 神様がなぜ、こんなに難しい世界をわざわざ作られたんでしょう。
こんな難しい世界だったら、作らなければならない方が良かったんじゃないかなと思います。
しかし、そうではありません。 それを説明するために創世記を書かれて下さいました。
神様は良い世界を作って下さいました。 これは創世記1章2章、エデンのソノを見てたらよくわかりますね。
しかし創世記3章、悪魔の誘惑によって人間が罪を犯してから、この世の中がこんなに難しくなりました。
なんと子供の童話に出てくるような話をするのか、創世記は神話ではないのか、という人がいるかもしれません。
それは理性知性で創世記のことが理解できないから、そのような話をすることもありますけど、
しかしよく見て下さい。今は聖書が言われた通りになっています。
悪魔がエデンのソノにいる人間を誘惑しました。 誘惑した理由は2つあります。
1つは、この世の管理者、神の大理者であるアダムに、
03:03
人間に罪を犯させて、大地はね三種八種、罪を犯す者は悪魔に直します、という神様のルール通り、
この世界を悪魔が手に入れたかった。
手に入れるのにアダムを騙して、アダムが自分に従わせるなら、
この世の中が自分に従うようになっているから、だからアダムを積極的に、アダムを誘惑されないから、
アダムの妻であるエーヴァを誘惑して、エーヴァによってアダムが罪を犯させるようにして、世界を手に入れた。
もう一つの理由がありますけど、人間は神様の見姿です。
神様の見姿である人間を自分の奴隷として入れて、人間を苦しめながら、
神の見姿である人間を苦しめながら、人間を一番愛する神様を苦しめようとする。
これを本当に悪い意図がありました。
皆さん、サタンという意味は敵対者だという意味です。
神を敵対する者という意味でサタンです。
悪魔の意味は盗んだり、誇ったり、滅ぼしたり、ダメにする。
そのようなやつなんですけど、この悪魔、サタン、一人のものです。
悪魔、サタン、神に対してはサタン、人間に対しては悪魔です。
一人のタンス、一人のものですけど、この奴たちが天使の三分の一が堕落して、
三分の一を自分の奴隷として悪霊、悪霊共を率きしながら、世界を今煩わせています。
聖書は確かに言います。
罪と悪魔によって、人間の不従順によって、この世の中はこんなに難しくなったということです。
ところが世の中の人々は聖書をよく分かりません。
分からないまま、この難しい世界で、自分の力と自分の知恵で、
何とかうまくいこうとしながら、頑張るんですけど、
人間の努力によって少しの成功はあるかもしれないけど、人間の限界はしょうがないでしょう。
生きている間、罪を犯しながら、病に患いながら、苦しみながら、死んだ後は地獄は免れることはできません。
結局、アダム以降のすべての人類が、現在の中で生まれ、苦しめながら、死んで、それからどこに行くのか、
みんないいところに行ったと思うかもしれませんけど、聖書は確かに言います。
火と異様が燃える、火の池に落ちられて、そこで永遠に罰を受けるんだ。
これが今の世の中の現実ではないかと思います。
06:00
罪のゆえに、苦しみ、病、死、地獄を避けられない人間、どうすればいいでしょう。
ここにグッドニュースがあります。
弥勉三書十六節、神はその一人子をおあたりになったほどに要愛された。
一人子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためであると言います。
神様は自分の見姿で作られた人間、人間をどれほど愛されるのか、
その人間が罪を犯した時、罪を犯したから諦めるんじゃなくて、
その人間を愛して、この人間が救われる道、生かされる道を備えてくださったんですけど、
それが創世紀三書十五節、女の子孫として、私はあなたに名写を送ってあげる。
この名写を待ちなさいと言われたんです。
その名写を送る準備を旧約聖書でずっとされました。
アブラウムを通して、ダビデを通して、それで名写を私たちに送ってくださったんですけど、
このメキシオ人として来られたイエス・キリスト、完全な人間の体で来られて、
私たちの罪の問題、罪の代価の問題、悪魔の問題、不従順の問題をすべて解決するために、
十字架で死んで復活されました。
人間の不従順の罪をどのように解決されたのか、イエス様は律法を完全に守られました。
また人間の罪を贖うために十字架で苦しめられて、
血を流しがなければ罪の許しがない。
だったら誰かの血を流さなければいけない。
その血をイエス・キリストは十字架で死んでいきながら流してくださいました。
また3日目に復活されて、この死の力を持っている悪魔を滅ぼし、悪魔の支配下にあった人間を救う、
救い出して、地獄に行くべき人間を天国に行くように導いてくださいました。
それだけではありません。
罪によって神様と敵対する状態だった人間を神様と和解させてください。
神の子供になるようにしてください。
それだけではありません。
神の子供の力、資格、特権を与えてくださって、
これからはイエス様のように悪魔に対して、罪に対して、不従順に対して、
勝ち抜くことができるパワーまで与えてください。
じゃあ誰がイエス様が十字架と復活で成し遂げられたその救い、
また永遠の命を手に入れることができるか、祝福されることができるか、
自分の知恵と努力によって救われる人は誰もいません。
09:04
ですから今日の聖書、エピソード2章8節9節は、
神様の恵みによって救われるようになった。
恵みによって。
でも皆さんは、私は神の恵みをいただいて救われた。
だったら、どうして他の人には恵みがないので、私には恵みを与えられたんでしょう。
なぜでしょうか。
恵みを与える人も別にいるし、恵みを与えられない人も別にいるんでしょうか。
私たちは分かりません。
とにかく私には恵みがあって、その恵みによって信じるような心が与えられて、
そして、イエス様信じますかと言ったときに、私ははいと言うんですけど、
それが私の力、知恵で出たことではありません。
私が救われたということは、一体どのようにできたのか、
それは本当に私たちは分かりません。
以前、私はイエス様を信じて教会に通い始めてから、
家で迫害がありました。大騒ぎになりました。
その大騒ぎの中で、私の母が考えたそうです。
なぜ他の人は全然教会に行かないのに、
なぜ私の息子だけは、日曜日になれば教会に行きたくてたまらないのか。
それを考えたときに、昔、母親が高校生のときに、
隣にお友達が、あなたのために祈っているよ、あなたのために生き残っているよ、
イエス信じなさいよと言われたお友達が考えられた。
そのお友達の祈りが、あなたによって私に及んだということです。
そうです。私が救われるときには、誰かの祈りがあったんです。
もし皆さん、日本と韓国と中国にいる私たちが救われたのには、
誰の祈りがあったのか、もちろんイエス様の取りなしの祈りもありますけど、
アメリカの先に信じた、アメリカの人の祈りがあったんじゃないか、
またヨーロッパの人の祈りがあったんじゃないかと、いろいろ考えられますけど、
神様が恵みをくださったのには理由があるでしょう。
その背景があるでしょう。私たちは分かりません。
だから私がどのように救われたのか、事実は私たちは分かりません。
だから聖書は、これは神様のプレゼントだと、タオルだと言われています。
私たちは恵みによって、ただ救われました。誇ることはありません。
ところが、この後が問題です。
私は救われましたという後、どうなるかによって、この救いは本当なのか、
これがあなたの希望に過ぎないのか、いろいろ考えられますけど、
本当に正しい救いをいただいたなら、印がある。
12:06
われおもすくいし、くしきめぐみ。
本当にこの賛美は、救われた人が誰でも賛美する、素晴らしい賛美です。
このような心で何をするのか、今日のエピソード2章の10節を見ますと、
良い業をするために、あなたに恵みを与え、あなたを救われたというものですから、
救われた私たちとしては、神の恵みに感謝しながら、その恵みに応える意味で、
これから昔の自分のように過ごすのではなく、
これからは、私のために死んでくださったイエス様に見習って、
そのイエス様のために過ごすことが大事です。
救われた後の変化、あなたが救いを与えられたんですか、
救われたんですかと言ったときに、何をもって説明ができるか、
救われた前と救われた後の私の生活を通して、それを表すことができるんです。
以前にも分かち合いましたけど、
キリスト教の救いのために2つの行為があると言いました。
1回救われたら、永遠に救いを失わないという行為もあるし、
得られた救いだとしても、失うこともあるんだよという行為もあるんだと。
その2つとも、聖書に根拠があるから、
これが間違えたということはできないんですけど、
どんな行為を信じるかによって、
その後の信仰生活にいろいろ影響を及ぼすことができるんだということを考えなければなりません。
私たちが肝に銘じるべきことは、
エペソン2書8節、恵みによって救われたと言われたその聖書が、
次に、なぜならと言いながら、2書10節に、良い業のために救われたと言います。
良い業をために救われたから、
これからは良い業を行って歩むことが信仰生活ですよ、
キリスト者として当たり前のことですよということです。
では、その良い業って何でしょう。
私は今日、これを皆さんに説明したいと思います。
ローマ書6章16節で、
知らないのですか、あなた方は、誰かに奴隷として従えば、
その従っている人の奴隷となると、
つまり、あなた方は罪に仕える奴隷になって死に至るか、
神に忠順に仕える奴隷になって気に至るか、どちらからです。
15:00
私たちは信仰を持っていて救われたという後に、
あなたは何についていくのか、何に従うのか、
それが救われた後、私たちが良い業と言われる時に一番問われることだということです。
なぜなら、人間には心痛い前例があります。
創世記3章で、2章で、神様がアダムとエバに、
チェンシャン、チェンアクの知識の木、その木の実だけは食べてはいけない。
食べると必ず死んでしまうと、
神様は強く食べたらいけないよと言われた、
そのチェンアクの知識の木の実を悪魔が食べなさい。
原始で死ぬことではない。
それを食べるとあなたは神になるんだ、神のようになるんだという話をするんです。
その時、私たちは食べるか食べてはいけない。
どちらに従うべきでしょう。
そこに神の御子よに聞き従うべきなのに、
悪魔の話を聞いて、とって食べたんです。
だから、人類は聖書通り悪魔の奴隷になって、
それでこんなに苦しめられていることなんです。
ですから、救われた後、私たちが気をつけなければいけないことは、
二度も悪魔の話に聞き従うことではなく、
神様の御子よに聞き従うべきだということです。
今日、子供の過去でもメッセージがそこですね。
人質は世の中の常識に従うか、神の御言葉に従うか、
世の中の常識に従うか、神の御子よに聞き従うか、
それができないから、
ジャカレアが口が聞けない訓練を受けたということをお話ししたんですけど、
皆さん、今私たちに一番問われることはこれなんです。
信仰の本質は、神様と親しい交わりの中で、
その御声を聞き従うことだと私たちは分かち合っています。
これは神様の御声です。
しかし、世の中の人々はこう言います。
どうして今の時代、神様の聖書通り過ごすことができるかと言います。
それはどなたの話ですか。
これは神様の御声ですか。
私はこれは悪魔の話ではないかと思います。
私たちが神様の御言葉で生きたいです。
死を生きるように力を与えてくださいと祈るなら、
守ることができるように上から力を与えてくださるはずなのに、
私たちは勝手に決める。
今の時代、神の御言葉通り生きる人はいるのか。
ダメだよ、いけないんだよと言うからいけなくなります。
結局、悪魔の話に聞き従う世界になってしまったのではないかと思います。
皆さん、人生を過ごしながら、いろいろ選択するべき過程がある。
18:03
こっちか、こっちか。
また、皆さん、人生の重要な意思決定の時に、
これをするかしないかという時に、
私たちは神の御声を聞き従うことができればと。
これが聖書が言われた良い技ではないかと思います。
皆さん、悪魔の立場から考えてみてください。
人間は以前は自分の奴隷だった。
自分の従う者だった。
しかし、今は神の子供になりました。
じゃあ、私の奴隷が神の子供になったから、諦めよう。
悪魔はこうするんですか。
悪魔は諦めません。
悪魔は粘り強いんです。
神の子供になったのにも関わらず、
昔自分のものだと思って、それを取り戻そうとするんです。
このような聖書があります。
ルカの11章24節から26節です。
汚れた霊は人から出て行くと砂漠をうろつき、
休む場所を探すが見つからない。
それで出てきた我が家に戻ろうと言うんだ。
汚れた霊が人の心の中に占領して行ったんですけど、
この人から出て行った。
なぜ。
イエス様を信じるから、
イエス様を、聖霊様を心に入ってくるから、
悪魔が出て行ったんです。
出て行くなら、それで全部終わりなのか。
終わりではないということです。
悪魔が外に出て、砂漠をうろつき、
休む場所を探すが見つからない。
悪霊もどこか休む場所を欲しがるんです。
その悪霊が休む場所はどこですか。
人の心なんです。
だから昔は私はそこで住みちゃったんだけど、
今はそこから出てしまったから、
私が昔行ったその家に帰りたい、帰りたいと思います。
だからイエス様を信じますと言うんだけど、
そこ昔私の家なのにと思いながら、
そこに入ろうとする。
そのためにどうするんですか。
その人に対して誘惑したり、騙したり、
いろいろ神の声を聞くよりは私の話を聞けと、
いろいろいろいろやりながら、
私たちの心を自分が取り戻そうとするんだということです。
この時私たちは絶対悪魔の話を聞くのではなく、
神様の話、お話を選択する。
これが一番大事です。
もし神様のことを選択しなくて、
誘惑に負けて、騙されて、
悪魔の話を聞き従ったとするなら、
早く早く悔い改めなければなります。
悔い改めないまま、
悪魔の話に聞き従う、ずっとやっていくなら、
どうなるのか。
悪魔が来るのは、
21:01
盗んだり、放ったり、滅ばしたりするためなんだ。
なぜ私のキリスト者なのに、
こんな生活がこんなに難しいのか、
こんな人生、こんな難しい人生を過ごすのか。
それはキリストになったのにも関わらず、
神の御声を聞くよりは、
悪魔の話を聞き従った結果なんです。
だったら私たちは早く悔い改めてしよう。
神の助けをいただきたい。
神様の助け、守り、
神様の保護膜をお願いします。
恵みをお願いします。
神様に出てくればいいんだけど、
悔い改めないで、
神に出てこないで、
続けて悪魔の話を聞くなら、
キリスト者はどこまで堕落するのか、
どこまでダメになるのか、分かりません。
皆さん、キリスト者に、
悪霊に取り憑かれることもありますか?
ありますよ。
どうして?
悪魔の話を聞き従うばっかりするなら、
そうするしかないでしょう。
私たちが助ける人がたくさんいるんですけど、
まずはキリスト者なのに、
神の御声に従わないで、
悪魔の話を聞き従うばっかりする人を、
その人のために私たちは祈り、助け、教え、
これをたくさんやらなければいけません。
結局、人生は選択です。
誰の話を聞き従うのか。
私はイエス様を信じてから救われたから、
私はもうこれからは永遠に地獄に行かないから、
大丈夫だという人。
甘くなって油断して、
救いということ、イエス・キリストの犠牲を、
何か卸すかにして私たちが生きるなら、
私たちはどこまでダメになるか分かりません。
だから油断するのはダメです。
神言4章23節に、
何を守るよりは自分の心を守れ、
そこに命の源がある。
私たちは自分の心を守らなければなりません。
私たちは恵みによって救われました。
これは行いによることではありません。
しかしその後、救いを守ることは、
私たちがやらなければいけません。
ピリッポ2章12節にこう言います。
だから私を愛する人たち、
いつも中旬であったように、
私が共にいる時だけではなく、
いない今はなおさら中旬でいて、
恐れおののきつつ、
自分の救いを達成するように努めなさい。
救われたのに、
なぜ救いを達成するように、
救われたのに救いを達成するように、
これはどんな話ですか。
このことを通して、
信学者たちは、
ああ、私たちの救いは、
24:01
きっとされるだけではなく、
成果と栄華の過程を通して、
結局死んで天国に行く時に、
そこに完成だということです。
その時までは油断してはいけない。
その時までは、
誘惑を騙されないように、
気をつけなければいけないということです。
では、救われた後、
私たちの救いを達成するために、
私たちはどうすればいいでしょう。
まずはじめに、
ルカの中高生に出てくる宝塔息子。
宝塔息子のようになってはいけません。
宝塔息子は父の家にいることは嫌だったんです。
父の子供なのに、
父の家で父が嫌だ、
あっち、あっち、
何か話を従うのは嫌だったから、
あらかじめ父が亡くなる前に遺産をいただいて、
遠くの国に行って、
自分勝手に過ごしました。
結果、
波乱万丈な人生になりました。
その理由は、
父の家を離れたからです。
私たちは父の家を離れるか離れないか、
体が父の家から出てから、
宝塔息子なのか、
いいえ、
家にはまた、
上の息子、
家にいる宝塔息子もいました。
父の話を聞きたくない、
自分勝手にやりたい、
それ全部宝塔息子です。
私は宝塔息子になってはいけません。
神様から離れるのは体がいるか、
共にいるか共にいないか関係なく、
父の話を少し嫌がる、
父に従おうと嫌がる気持ちになる、
その時から来る問題があるんです。
人間には自由があります。
自由意志があります。
だから私たちは、
神に従うこともできるし、
従わないこともできます。
でも私たちは徹底的に、
神様に従う訓練、
従うことを学ばなければなりません。
もし罪を犯して、
自分勝手に過ごしたことがあったなら、
早く悔いを改めて、
それを取り戻すことが大事です。
そのために、
キリスト者たちは、
毎日のデボーションという時間があります。
聖書を読みながら、
祈りながら、
神様のいろいろな助けを求める時間がありますけど、
その時、
私は今の状態は、
神様と共にいるのか、
神様から今離れているのか、
それを考えながら、
身体も霊位も精神的にも、
全て神様のイエス・キリストの
自称によって清く洗う、
そのような働きをしなければなりません。
皆さん、
罪ということはどれほど怖いのか、
罪は霊的なウンチです。
ウンチ。
大抵、ウンチということがあったら、
27:01
ああ、早く水で洗わなきゃいけないと思うんですけど、
罪は霊的なウンチだから、
霊的なウンチは何をって洗いますか?
これはイエス・キリストの自称しかありません。
ウンチを洗わなければ臭いが出て、
そこに虫、
またいろいろ細菌が集まるように、
霊的なウンチであるこの罪を、
そのままほたらかしておけば、
病気も来るし、呪いも来るし、
悪霊たちがそこに集まります。
ですから私たちは早く、
イエス・キリスト自称によって清く洗うことを、
していかなければなりません。
大正和の一書九節、
自分の罪を公に言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
罪を許しあらゆる不義から、
私たちを清めてくださいます。
これを毎日、毎日洗わなきゃ。
毎日顔を洗ったり、お風呂に入ったりするように、
私たちの霊と精神的な部分と体を、
霊的に洗うことが大事です。
幸い、フォート息子は父の家に帰りました。
幸いです。
父に家に帰らなかったら、
彼はどうなったんでしょう?
それは天国に行って、神様に聞いてみましょう。
2番目、積極的にイエス様の家に留まり、
イエス様と共に歩むごとに、
力を入れなければなりません。
私たちはどのようにイエス様の家に留まり、
イエス様と共に歩みますか?
それが、神様との親しい交わりと、
神の御声を聞き従うことによってできます。
神の御声をどう聞くの?
聖霊様を通して聖書、祈り、願教、教会を通して聞きます。
親しみの中で御声を聞き従う、
これが神の家に留まる方法であり、
神様と共に歩む方法です。
皆さん、ノアの洪水の裁きがありました。
その時に箱舟の中にいた人は全部救われました。
箱舟の外にいた人は全部殺されました。
救われなくて死にました。
今の箱舟は何でしょう?
教会学の子どもたちが今の箱舟は何でしょうと言ったら、
教会ですと言いますけど、
私たちはイエス・キリストの家なんです。
イエス・キリストの家にいるところが滅ぼされないで、
永遠に生きる秘訣なんです。
イエス・キリストの家にいることの大事さ、
イエス様は私たちが何と言いますか、
終わりになって行けば行くほど、
目を覚まして祈りなさい、目を覚ましていなさいと言っています。
30:03
私たちは今、本当に大事な時期で過ごしています。
今は世の中は安全に見えます。
しかし、いろいろ世界は終わりの時の印がたくさん現れています。
いつイエス様が来られるか分かりません。
いつイエス様が来られた後は救いのチャンスはありません。
イエス様が来られる前、
イエス様を信じて救われる、この働きをしなければなりません。
3番目、攻撃することが一番の防御の方法です。
積極的に主のために生きることが一番安全です。
私は牧師ですから、牧師としてやるべき働きは、
教会の信徒たちのために絶えず祈ること、
また毎週2編の説教を準備します。
日本語が弱いから苦しながら文章を作るんですけど、
たまに教会学校の子どもたちとか、教会学校の先生たち、
本当に日本語上手いですね。先生たちからたくさん学びます。
メッセージを準備して、今週は何をするかしよう、
これをどのように解釈すればいいですか、
聖書を読みながら、祈りながら、ずっとやっていくうちに、
もう罪を犯す時間がだんだん少なくなります。
これは嬉しいことです。
説教を準備するときに皆さん、祈りながら、
この部分はどうすればいいのか、この部分をどう解釈するか、
中間詩を読んだり、いろいろことをやります。
また、他の先生のメッセージはどうされたのか聞きます。
そうしながら、2編の準備をするんですけど、
そのとき、説教を上手くすること、立派にすること、
口の何かこれは事ではありません。
聖霊の注文、聖霊の油注ぎが働きをされるものですから、
聖霊の油注ぎを与えられるように切に祈ります。
そうする間に、1週間、1週間、1週間過ぎています。
私の目標は、死ぬまでメッセージをすることです。
死ぬまでメッセージをさせてくださるなら、私は一番幸いです。
なぜなら、このようにメッセージ準備、
また、教会の皆さんにために祈ったり奉仕したりする間に、
これが私の信仰を守ってくれる、私を成長させてくれる。
また、これがイエスサムとますます親しみを深み与えてくださる、
愛を維持する方法です。
本当に皆さんが牧師をさせてくださる、
これが私の信仰を守る一番素晴らしい道、安全な道です。
私が感謝しているのは、私はメッセージだけでもこんなに難しいのに、
33:03
皆さんはお仕事しながら、家庭に仕えながら、
そうしながら教会がこのメッセージをしたり、また教会にいろいろな奉仕されたり、
わあ、皆さん素晴らしいです。
皆さん、その状態をいつまでも続けてください。
私はどこにいても、私にメッセージをさせてくださればいいのに、といつも思います。
なぜなら、メッセージをさせてくださったら勉強するから、何か準備することがあるから、
させてくださらなければ、皆さん、私は信仰のために準備する、何が弱いでしょう。
信仰のために準備する、積極的に主のために準備することがあったら、
それが事実、私の信仰を守らせてくださること。
だから、皆さん、これを今やっていらっしゃる奉仕、これを続けてやってください。
これが自分の信仰のために一番大事だと思います。
この世は百年であり、天国地獄は永遠です。
永遠に至極の中で生きるのか、永遠の炎の池の中で苦しむのか、どちらかです。
救われるのか、救われないのか、そこにイエス・キリストがある。
イエス・キリストの十字架があります。
ですから、皆さん、地獄、天国、それを考えるときに、
救いというものはどれほど大事なのか考えられます。
私たちを救うために、天の栄光を捨てられ、
この地に懲られて十字架を背負うまで、私たちを愛されたイエス様、
本当に感謝し、褒めたたえます。
結論を申し上げます。
ではね、ちゅっしょちゅっせつに、
盗人が来るのは盗んだり、ほふったり、滅ぼしたりするためのほかならない。
私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためだと。
イエス様が来られたのは、私たちに命を与え、また豊かに与えるためだと言います。
ですから、イエス様が私たちに下さった救い、神の御言葉、
精霊十万、精霊の油注ぎ、神様との交わり、
神の知恵と知識の豊かさ、神の栄光の光、
皆さん、この素晴らしいことは限りがない素晴らしいことですけど、
この全てが命です。
私はそこに携わったり、ここを何かそれを持って働いたりするところで、
私には命がますます与えられます。
この命が私を癒してくださり、命が私を救ってくださり、
命が力になって他の人を奉仕することができる全てのパワーです。
この命が私をもっと若くさせ、健康にさせてくれるし、
喜ばせてくれるし、美しくなるように助けてください。
36:01
だからこの命をたっぷりいただいて、この世で立派に過ごしながら、
天国で永遠に大きな報いをいただかせるくださるために、
イエス様が来られたんです。
今度の対抗説、アドベント、
対抗説の福音というテーマを通して、
皆さんにこのメッセージをさせていらっしゃるんですけど、
救い主イエス様を深く受け入れ、命を得て、もっと豊かに得ることによって、
大勢の方々に命を分け与える祝福な対抗説になりますように。
お祈りいたします。
主よ、クリスマスが近づいています。
対抗説の期間、私たちを愛して、
ご自分の全てを私たちのために与えてくださった、
犠牲してくださったイエス様を深く出会い、
愛をもっともっと感じて感謝する私たちにならせてください。
どのように得られた救いなのか、
救いがどれほど大事なのか、
深く感じる対抗説にならせてください。
イエス様の源を通してお祈りいたします。
アーメン、アーメン。
37:16

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