神様は私たちに何か要求されることではありません。
愛しよう、私は愛してるから、私が愛するくらい、あなたも私を愛してちょうだいという気持ちですかね。
愛を求めています。
それは聖書のあちこち、聖書の大事な出来事があったところに、必ず神様が私たちを愛したいことが現れています。
簡単に申しますと、創造の時、神様は人間を神の見姿で作られた。
なぜ見姿で人間を作られたのか。
愛するために、愛するために。
またシュチュエジプトのところで、シュチュエジプト中級書4節に、
シュチュエジプトをさせた理由が、目的が、カナンに入るためにシュチュエジプトをさせたんじゃなくて、
あなたたちを私に導いた。
私に、カナンに行くんじゃなくて、私に。
また、イエス様が中二弟子を呼ばれた時、マルコ3章14節にありますね。
イエス様が弟子たちを友にいるために呼ばれた。
友にいるため。何か使おうとするんじゃなくて、友にいるため。
また、十字架は、罪によって神と敵になった私たちを、神を愛する家族にさせたいと。
それで十字架を背負ったんです。
聖霊を送ってくださった理由は何か。
これからは外じゃなくて、あなたの心の中に、あなたの家に入りたいと思った例として、イエス様は来られたんです。
神様の恋とは、私たちと共にいたい。
また、愛したいということです。
神様と愛の関係にいるなら、世の中の全ての祝福があります。
それが、創世紀1章2章です。
全世界がエデンというそのと対応される幸せそのものでした。
そこで永遠に過ごせばよかったのに、創世紀3章。
邪悪の知識の木の実を食べた。
それがなぜ問題になるのか。
皆さん、神様と私たちの愛をどうするんですか。
神様を愛する。
これ、何をもって愛するということを示すんですか。
いや、感情的にあなたを愛するから、わーとあなたを愛しますよ。
言葉じゃなくて、神様と愛をどうすれば愛するんだと言われるんですか。
これが、ヨワネ14章21節に書いてあります。
私の受け手を受け入れ、それを守る人が、私を愛する人。
私を愛する人は、私の父も愛される。
私もその人を愛して、その人に私自身を表す。
神に出会いたいなら、神を愛せればいい。
愛する人に必ず現れます。
出会ってくださいます。
神様は人間と愛したいと思って、人間を作られた後に、人間に見言葉を与えました。
これが創世紀2章17節。
ただし、邪悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死ぬよ。
食べると必ず死ぬということは、関係がダメになる。
関係がダメになる。
皆さん、イノワの話では、結婚するときに約束するでしょう。
どんな約束をするのか。
世の中であなたには男性が私しかいない。
世の中に私に対して女性はあなたしかいない。
その約束を破られたら、これはダメになる。
それで、邪悪の知識の木を食べたということは、
神を愛するのではなくて、蛇を愛して、蛇の話を聞き入れたということです。
聞き入れて従ったということです。
だから、見言葉を聞き入れて愛することが、神を愛することなので、
神の話を聞かないで、蛇の話を聞いたということは、
蛇を愛して、神の話を聞かないで、
蛇を愛することなので、神の話を聞かないで、
蛇の話を聞いたということは、
蛇を愛した、神との関係がおかしくなった。
ここが問題なんです。
皆さん、夫婦の間に相手が不倫をしました。
本当にあってはいけないこと。
しかし、不倫をした後の夫婦関係は、
これからどうすれば取り戻されることができますか。
よく考えてみますと、無理です。
ダメです。
いくら言ったとしてもダメです。
一回でダメです。
これが、今、創世紀2章17節の意味です。
人間もダメになるのに、
神様との間に私が不倫をしてしまった。
神との関係、できますか。取り戻されますか。
取り戻されますか。
できません。これは絶対にできません。
相手は神ですよ。
人間だとしたら、何とか何とか許してくれとか何とか言いますけど、
相手は神様ですから、これはできません。
道がありません。
もうそれで地獄に行くしかないということです。
人間は道がないんですけど、
むしろ被害者である神様が私に先に恵みを与えてくださった。
これは、ヨハネ3章16節。
神はその一人子を与えるほどにこの世を愛された。
一人子を信じる者が誰も滅びないで、永遠の命を得るためである。
この見事もを成し遂げるために、イエス・キリストが救い主として来られて、
十字架の苦しみを通して私たちの罪を清めてくださって。
それで清くなった私たちに、神の霊、聖霊様を。
聖霊によって私たちは神を知り、神との交わりができ、
聖霊によって私たちは全てが回復された。
皆さん、これは何という恵みでしょう。
これをよく見ていますと、
それほど神様は私たちとの愛の関係を取り戻しかかったということです。
大事なのは、私たちの信仰生活は何でしょう。
儀式を守ることですか。いいえ、愛することです。
信仰生活は神様との愛の関係を取り戻すことです。
それで愛の関係の中にいるなら、
神様は私たちを祝福してください。
例えば、新明記28章1節に、
もしあなたがあなたの神主の御声をよく聞き従い、
今日私が命じる今しめをことごとく忠実に守るならば、
これはどんな意味ですか。愛するならということです。
あなたの神主は、あなたを土地のあらゆる国民の遥かに勝ったものにしてください。
あなたがあなたの神主の御声に聞き従えば、
これは愛するならということです。
これらの祝福は全てあなたに望み、実現するだろうと言います。
そうです。愛の中に入ったら、これから神の無限な祝福を与えられる。
私たちが願っている全てがその中に全部あります。
別のことをやる必要はありません。
愛が取り戻されるなら、神の祝福は私たちの豊かに与えられる。
ですから、信仰生活は神を愛することです。
よく考えてみてください。
粘心に教会は来ます。信仰生活は粘心にあります。
しかし、神は愛していません。
神様を愛することも頭に考えたことがない。
これは事実で我々じゃないですか。
儀式と本質。儀式をいくらうまくやっても、本質がなければ何の意味もないということはこれなんです。
ここで、御言葉を守ることは愛です。
そうです。御言葉を守ることは愛です。
その観点で、信仰生活、神を愛する生活のために、私たちには二つの信仰生活があります。
では、私がどちらに職しているのか、よく考えてみてください。
一つは、孟子による生活。これは旧約生一緒の生活です。
また、成齢による生活。これが新約生一緒の生活です。
旧約時代の信仰生活は、孟子として与えた立法を私が力を尽くして、よく研究してそれを守ることでした。
守ることによって、主は私があなたを愛しています。私が頑張ったでしょう。
それで主の前に進んでいて、神様の祝福をいただきたいと思ってやっている信仰生活。
これが立法による生活、孟子による生活です。
もともと人間は、自分が何かを頑張って、それを持って神の前に出ようとする傾向があります。
しかし、その生活は失敗でした。なぜなら、立法を守ろうとしたら、すべての立法をいつも守らなければいけない。
昨日までジェームを守っても、今日一つも犯してしまえば、ジェームを犯してしまうことになるから、立法を守ることによって神の前に出ようとしたら、これは誰もできません。
誰もできません。
だから神様は、孟子的な立法を守ることによって信仰ということはダメだから、
だから私たちを愛して憐れんでくださって、旧約聖書の時から私たちにいろいろ約束した頃があります。
エレミーは31章33つ。
しかし来るべき日に私は私イスラエル家と結ぶ契約はこれである。
すなわち私の立法をあなたの胸に授け、あなたの心に記す。
そして私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
じゃあ立法を心の中に、胸の中に授け、心の中で刻む、記す。どうすることですか。
じゃあこれを成し遂げるためにイエスキリストは怒られて、十字架で死んでくださり、
罪を清めて、それから私たちの心に真理の霊、聖霊を送ってください。真理の霊。
真理が私たちの心に来ておられます。
だからこれが私たちの胸の中に立法を置いていることと同じだし、心の中に置いてあることと同じなんです。
胸の中にあるから、だから私たちはこの聖霊様によく従っていけるなら、立法を守ることにできるでしょう。
だから聖霊によって生きることは神学聖書では一番大事だということです。
これを今日読んでくださったカラディア3章13節14節、イエス様の十字架は聖霊を送ってくださるためだったということです。
イエス様の十字架以来、神学時代に一番大事な役割は聖霊様がなさいます。
今、教会でいろいろな問題になることは宗教多言論ということです。
山に登る道はいろいろあるけど、登ってみたら全部同じだ。
仏教は釈迦森を通して、イスラム教はマオメトを通して、また他の宗教はそこに通して、
山に登る道は全部同じだ。
だから仏教は釈迦森がキリスト、イスラム教はマオメトがキリスト、イエス教はイエス様がキリスト、
このように信じる人が宗教多言論を信じるものだ。
すべての宗教は同じだと思うんです。
こんな間違いをする人はなぜそうするかというと、
みなさんこれは、彼らは聖霊を認めません。
だから旧約聖地と同じように、墓地による信仰生活をしているんです。
いつも理性、知性で聖書を解き明かしをしようとする。
だから理解できないから、自分の考えですべての論理を作って、それで宗教多言論が正しいと言われるんです。
聖霊を認めない、聖霊の働きを受け入れないから、そのようになる。
だからみなさん見てください、キリスト教、全世界のキリスト教の中で、
聖霊の働きを認め、受け入れて、それで聖霊による生活をしている、
教会、牧師、信徒たちが何パーセントだと思いますか。
ほとんどが自分の頭で信じている。
自由主義信学、またいろいろな信学は全部自分の頭で、
自分の頭で理性、知性で科学的根拠とか何とか言いながら、
それでもう科学的根拠がなければ認めないとか何とか言いながら、
頭で信じる。
頭で信じて、自分勝手な理解でこんな話をするんです。
聖霊様を送ってくださった理由は、自分の頭で神を知ろうとしても神は見えないし、
研究しようとしてもできないから、
聖霊様を送ってくださった、神のすべてを知っておられる聖霊様によって、
私たちは神を知り、神を理解し、神を愛するように、親しくなるように、
また神の身むねを従って、
聖霊によって人生を信仰を持って生きるために、聖霊を送ってくださったんです。
聖霊様によって親しみという言葉があるんです。
皆さん、教会で一番大事なのは親しみでしょう。
親しい関係性、親しい交わり。
これは聖霊によって生きる生活でできます。
人間の勉強でできるものではありません。
教会でいろいろ皆さん、一番前の教会でも同じだし、
牧師のメッセージを聞いて躓いた方がたくさんいらっしゃいます。
たまに私がメッセージをします。
神を愛しましょう。隣人を愛しましょう。
それで神を愛し、隣人を愛するように頑張ります。
でもなかなかできない。
ああ、説教難しい。
この説教通りできないんじゃないか。
牧師自分もできないくせにと言いながら、
みんな難しさを考えています。
メッセージは難しい。
そして失敗意識をたくさん持っています。
皆さん、どうすればできるのか。
自分の頭、自分の動力、自分の方法ではなく、
神様との関係の中で、
精霊様の照らし、精霊の力によって神を知り、
皆さん、愛しようとしたら、私が愛しようとするのは難しいんです。
しかし、私を愛してくださる神の愛を知って、
その愛に豊かになれば、隣人を愛するのは自然にできてしまいます。
だから神の愛が照らされることが大事なんで、
神の愛が照らされることなく、
自分の中から愛を持ってやろうとしたら、
この人は私嫌なんじゃないか。
この人は私を愛していないのに、私がどうして愛するのか。
いろいろな言い訳で、愛ができなくなっちゃうんです。
私たちの中には愛がありません。
神の愛が照らされるとき、
神の愛によって、隣人を愛することができるんです。
皆さん、これが大事なんです。
自分の動力で、メッセージ通りにやってみようとして、
今までほとんどの人が失敗しました。
だから、牧師のメッセージは難しい、聞きたくない、
教会は面白くないとか、なんとか言いながら、
つまづいてしまった。
自分ができません。
聖霊様の助け。
助け主、聖霊様の働きが大事なんです。
ですから、でも私たちが見事だ、見事だって言って、
聖霊を無視するなら、
ヨルダン川でパプテストを受けるときに 鳩のように精霊がたちました
それで終わったんですか いいえイエス様はいつもいつも精霊によって満たされました
ヨワネ3章34つ 神をおつかしになった方は神の言葉を感謝される 神は霊を限りなく与えるから
霊を限りなく 昨日も限りなく 今日も限りなく 明日も限りなく この霊をいただいてこの精霊によって働いたんです
主読ヨーダン中小38世 つまりなぜ論にイエスのことです 神は精霊の力によってその方を油注がれもらったと知りました
イエスは方々に巡り歩いて人を助け 悪霊を追い出しまた人を癒された
これは神様が共にいたからです イエス様の働きはすべて神様共に精霊様によって
精霊の働きによってできたんです 弟子たちも同じです
ペンテコスルの時 2000年の影響です
ペンテコスルのリバイバルが来てから それ一回で終わるんですか いいえ 次の日また精霊を受けます
次にまた精霊を受けます 働くたびに精霊を受けます
皆さんチョウヨンギ先生から学ぼうといろいろありますけど チョウヨンギ先生が南米に行って
集会をする時に 大きなメインスタディオに人がいっぱいいるとする
だったら 皆さんこの前に立ってメッセージをしようとしたら震えてもう言葉が出てこない
その先生どうするのか ホテルから出る前に30分間異言でチャーッと祈る
異言によって親から精霊に満たされる 祈ってから
それでメインスタディオに合団に立つなら もう皆さんを自由自在に
メッセージを通して癒しの力を通して働くパワーが与えられる だから働くんだと言います
皆さん私たちも同じなんです 私たちの力ではできません だから私たちは
いつもどんな場所でも精霊様来てください あなたの力なければ私はいけません
来てください切に切に求めて精霊に満たされて それで前に出て私がやるんじゃなくて
私のうちにおられる精霊様が神の御言葉を語られるんです 私の口を利用して
このように諸大業界の礼拝 賛美 御言葉 また交わり その中で奇跡を行ったり癒しを行ったり
様々なことが起こりました それで参加した人はみんな神を体験しました
礼拝はもともと神を体験するところです それはまるで精霊様がここに立って
オーケストラ 主義者のように私たちにいろいろ働きをかけていることと同じ
そうしたらこの中で精霊に満たされてみんな神を見る 神を体験する神様と何か接続を行います
それが働き だからもう決まった中法だけじゃなくてそこには即興誠意ということがありました
考えもなかったのにここで癒しはいきなり止まったり またいろいろな働きをしたりしました
今皆さん考えてみてください 私たちの礼拝 信仰生活 救い 成果 働き
この中で精霊の働きは一体どこにあるんですか 旧約聖書のように儀式はあるけど命の働きがない
精霊の働きが見当たらない でも礼拝守ったから自分は全部やったと思っていることこれが私にはいつも礼拝終わったら
申し訳ない気持ちがいつもあります 生きている礼拝
みんなが神を体験する 神の力によって何か自分の確信が得られたり病気が治ったり
皆さん私が一番申し訳ないことは 長い間教会で病を持っておられるのに 教会は今までそこに対する何の希望も与えられなかった
この礼拝は何でしょう 神様はどこにいるんですか
その神様と今病気を持っている方と関係ないですか 神は私たちを愛している
いくらでも癒やしたい 助けたい 守りたい
皆さん昨日の病は ある方病院入院されたと言ったらかっかりします
ここで礼拝を今何年ですか 7年8年やっているのに7年8年の間にこの礼拝というものが
教会というものが神をどのぐらい皆さんに見せてあげ 神を体験させ神の働きをその方たちに与えられたのかと言ったら
恥ずかしくて恥ずかしくてたの 牧師お前は何やってたのかと思う
私はすごく精霊の働きを考えるときに反省しています
最後に 精霊様をどうすれば私たちは力強い精霊様を受け入れることができるか
ルカの11章9節から13節です 求めなさいそうすれば与えられる
探しなさいそうすれば見つかる 叩きなさいそうすれば開かれる
私たちは求めなさい探しなさい叩きなさい これをつーっとやっているなら13節に何というんですか
あなたたちが悪いものでありながら子供には良いものをくれるんじゃないか まして
神様天の一番いい神様が私たちに精霊をくださらないか
だから私たちは求めることです 探すことです
叩くことです つーっと求めたら精霊様が豊かに望んで
その力によって今日生きるんです 明日は明日の力をいただいて生きるんです
または勉強しようとしたら子供たち 神様に祈ってその力で勉強するんです
お仕事も同じです神様から力をいただいてお仕事する そのようなやり方で私たちの人生を
精霊によって生きる生活として変わっていきましょう ぜひとも6月は精霊様をもっともっと深く理解するところです
今私たちの信仰生活を振り返ってみましょう 今このままでいいのか
精霊による働きが私たちどのぐらい当て余っているのか これを直していきましょう
本当に切に切に精霊に求めていく私たちになっていきましょう 生きている礼拝ってことは何なのかを私たちの子供たち
二世たちに見せてあげましょう だったらもう子供たちは自然にできるはずなのに
儀式ばかりの理論ばかりの面白くないことばかり やっているから子供たちが教会に興味がないんじゃないかと恥ずかしいです
これを私たちは直していきましょう 私たちは変わっていきましょう
これは精霊によって生きる生活として変わっていきましょう お祈りいたします
今日 助け主精霊様を送ってくださった神の身旨
また精霊様を無しには 神様が願っておられることができない何もできないことを分かりました
ところが今まで私たちは精霊によって生きることじゃなく 自分の力無理やり無理やり頑張って生きることばかりやっていいんじゃないかと思います
悔い改めます これから求めなさい探しなさい叩きなさい
切に切に求めることによって 精霊様は来られ精霊の導きによって精霊によって生きる生活ができるように
目込みを与えてください イエスサムの皆を通してお祈りいたします
アメン アメン