ですから神様は聖霊を通して神の愛、神様の祝福をいただくものにしてあげたいと言われています。
聖霊様はどなたに来ますか? 聖霊は清い霊だから清い人に来ます。
じゃあ私たちはどうすれば清くなりますか? 私たちはもう罪によって清くならないんですが、イエス・キリストの十字架の致勝によって
私は悔い改めることによって心が清くなります。 ですから聖霊はイエス・キリストの十字架の致勝によって
悔い改めて清くなった心に来てくださろうということです。 イエス・キリストを救い主と言います。
聖霊様を助け主と言います。 神様はイエス・キリストまた聖霊様を救い主と助け主として私たちに与えてくださいました。
これは神様が私たちにくださる全てです。 人間は罪によって地獄に行くしかありません。
地獄に行く人間をどのように救うことができるか。 罪によって地獄に行くのでイエス・キリストの十字架であがないの地を流してくださり
このイエス・キリストを信じる人をこの地を清めてくださって罪を清めてくださって私たちを救ってくださいます。
人間を救うお方はイエス・キリストしかいません。 十字架の父親しかいません。
ですから救い主はただ鬼イエス・キリストしかいません。 同じように助け主も同じです。
イエス・キリストを信じる人は世の中がこのイエス・キリストを信じる人を嫌がって
攻撃し迫害すると言います。 世の中が私たちを攻撃します。迫害します。殺そうとします。
私たちはどうすればこの世の中で信仰生活ができるし、うまく生きるし、また最後に天国まで行けるのか。
助けが必要です。ですから聖霊様は助け主として来てくださいます。 聖霊様がちゃんと守ってくださって導いてくださって一番安全な道で
私たちは天国まで守って助けてくださるから、私たちが天国に入れます。
ですから世の中の助け主はただ聖霊様しかいません。 聖霊様の助けは絶対できる。イエス・キリストの救いは絶対できる。
聖霊様と共に歩む人じゃなければ、皆さん私たちは安全に天国まで入るということはなかなか難しいことではないかと思います。
ですからイエス様を信じる人は必ず助け主、聖霊様と共に歩むことを学ばなければなりません。
ですから今日、聖霊と共に歩むことは大事なことです。 私たちの信仰生活を十字架の福音では2つと言います。
神様との親しい交わり、その中で神の御声を聞き従うことだと言います。
皆さん、信仰生活はこの2つで単純です。
ここで神様との親しい交わりをどうするか。 親しい交わりの極致。
一番親しい交わりを一番うまくやる方法は、聖霊による生活です。
聖霊による生活は2つで考えられます。 聖霊の導きをいただく生活。
もう一つは、聖霊の油注ぎで満たされる力をいただく生活。
導かれる生活、油注ぎで満たされる生活。
聖霊と共に歩むことは、聖霊の導きを受けることです。
今日読んでくださったカラディアー公書の中6節から25節まで、
私たちが聖霊に従って生きるなら、肉の欲を満たすことはありません。
聖霊に従って生きるなら、罪を犯すことはありません。
すごいでしょ。
また、聖霊に従って生きるなら、 聖霊の9つの身のりを結ぶ人になる。
聖霊の9つの身のりが何ですか。
愛であり、喜びであり、平和であり、寛容であり、 親切、善意、誠実、柔和、節制。
皆さん、この一つ一つ考えてみてください。
このような個人性ができた人は、世の中で一番美しい人です。
みんなから尊敬される人です。
このような身のりがないから、人々から無視されたり、 軽蔑されたり、この人は悪い人だと言われたりします。
この9つの身のりを結ぶ人は、 世の中の誰でも憧れるような素晴らしい美しい人になります。
もともとキリスト者は、こんな美しい人になっていました。
しかし、肉に従って生きる時、罪を犯します。
肉に従って生きる時に、一番問題は性的な問題が起こります。
人といっては汚くなります。
また、この世の中のすべてを愛し、この世の中のいろいろな空情に、 いろいろなむさぶりに陥ってしまいます。
また、人間関係がダメになり、デイスイン、また、 砲塔の道に走るようになります。
ですから、カラディア古書21説は、
このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできませんと言います。
神の国を消除してもらうことはできませんと言います。
言葉を変えれば、いくら自分は救われたと言ったかもしれないけど、
精霊の実りを結ぶ人ができなければ、 その人は天国に入れませんということです。
えっ、イエス様信じれば天国に行くんじゃありませんか?
イエス様を信じる人は、必ず精霊の導きの中で、 精霊様と共に歩む生活をしなければいけないので、
前半分はやって、後の大事なことはしてなければ、 天国に入る人がいないかわからないと、聖書を言っています。
だから、私は救われたと油断しないで、
最後までキリスト者の道を、 私たちがうまく進めていかなければなりません。
信じる人は、精霊の導きに従っていかなきゃいけないんですけど、
そこには妨げるものがあります。
肉の欲、精霊様が望む心と、 私の肉が望むものがあります。
これが2つ、いつも戦うんだそうです。
ですから、肉の欲が精霊を妨げ、 精霊の働きが肉の欲を抑え、
私が何かやりたいということを、 うまくできないようにすると言います。
ここで皆さん、人を嫌がること、人を憎しむことは、 神様がこれはダメだと言います。これはもう罪です。
しかし、人を憎しむことを自分勝手にできますか?
精霊様は人を愛しなさいと言うんですけど、 憎しむ人を愛することはなかなか難しいんです。
だから、自分の欲から出てくる、 この人は嫌だ、嫌いだ、大嫌い、
こんなこと、人は話をしたくない、 このような姿勢で続けていくなら、
その人には肉の身を結ぶ人になります。
相手を許さなきゃいけない。神様はこう言いますね。
救われたとしても、他の人を許さなければ、 神様もその人を許さない。
だから、許さなければ、 救いが取り消されるかもしれないということですけど、
私はそのような人は許さない。 続けて言ってしまえば、その人はどうなるんでしょう?
ですから、精霊様が望む心と、自分の肉が望む心、 そこはいつも私たちの中でトラブルがあります。
毎日の生活の中で私たちは、 この二つの声を聞くようになります。
これは、もう創世紀の初め、 天地創生から始めた時から、それは同じです。
創世紀2章、3章を見ていますと、エヴァが、 神様からこのチェンヤクの知識の木を見たら食べ、
その木を食べた人は必ず死んでしまうという話を聞きます。
しかし、ヘビが何と言うんですか?
ええ、それを食べると絶対死なない。 それを食べると目が開かれ、あなたが神のようになるか恐れるからだ。
ヘビの声を聞いたら食べるしかない。 神の声を聞いたら食べたらいけない。
葛藤があります。 その中で初めの人、エヴァは、ヘビの話を聞いてそれを食べてしまいました。
それでエヴァの園は消えてしまい、すべての祝福は逃れてしまって、呪いが臨むようになったでしょう。
私たちも同じです。毎日の生活の中で2つが現れます。 神の御声が聞こえてくるし、自分から、まだサタンから声が聞いています。
それが、もう日常生活の毎日です。 夫婦の間に、いつもこれがあるでしょう。
私は息子と間で、息子があるときは私にうまくやってくれます。
パパ、何か調子が良くないですか?と、うまくやってくれる時もあります。
でも自分の気持ちが悪ければ、いきなり人が変わります。 私になんとか、この無礼な話をバーッとします。
その時、この息子が父に言うことじゃないでしょう、と、心からバーッと出るんですけど、
昔は、もうそれでバーッと殴ってしまったんですけど、今はそうしません。
私はそれをグッと抑えて、神の声を聞くべきか、私の心から出る声を聞くべきか、として、
ああ、あなたにも気持ちが良くないね、それは私がこんな意味でやったもんだから、私たちはこれをこのように解決しようね、と。
私が、この少し私を緩めて、見越え通り言うことがやっとできたんです。
だから今は、あまり息子とトラブルとかぶつかるとか、あまりないんです。
夫婦関係の中でも、このようなことがうまくできればいいでしょう。
親子関係でこのようなことができれば、関係が良くなるし、それから息子もあまり悪いことをしない、まだ関係が悪くならない。
それで家庭が幸せが守られ、そして後ほど息子が私に、パパ、先ほどごめんね、悪かった、と言いながら反省することも聞くことができるので、
なんという幸いなのか。私が少し我慢すればよかったのに、今までそれができなかった。
理由は、私が肉の声を聞くのに早かった。
神の耳声を聞くこと、これがうまくできなかったということですよね。
長い親子生活をしています。私も40年以上親子生活をしています。
今になってやっと、やっと、牧師らしい牧師に似ているようになっているかなと思うんです。
なぜ親子生活を何十年やっても人は変わらないのか。肉の声を聞いて反応すれば、いくら親子生活を長くやっても変わりがありません。
精霊の声を聞いて反応するときに、私たちは変わって変わって変わって美しい人になるんです。
ところが、私たちは精霊の御声を聞くのは優しくありません。
ですから、中七節、肉の望むところは霊に反し、霊に望むところは肉に反するんだ、と言います。
私たちが霊の声を聞いて従う時には、肉の声を聞いたらいけません。
ところが肉の声を聞くしかない理由があると聖書は言っています。
続けて肉の声を聞く理由、だからそれが妨げになって神の御声に従うことができないという理由があると言います。
その始めは、まず霊力の権威の問題があります。
ローマ集六章中六節、知らないのですか?
あなた方は誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。
つまり、あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に忠実に仕える奴隷になって死に至るか、どちらかです。
私たちが今まで繰り返し繰り返し、ある場面で聞こえてくる二つの声の中で、ある声に聞き従ったら、その声が私に霊力の権威を持っています。
だから私がその権威に従うようになりつつあるんだということです。
教会で一番問題は何ですか?
牧師がメッセージをします。ほとんどの方はこう言います。
難しい話をするんだね、その話は。
戦士はそう言うかもしれないけど、今の時代そのような見言葉通りに生きる人が誰がいるのか、それはなかなか難しい。
従うことができないと思うんです。
そうして不従順してしまえば、来週牧師のメッセージを聞いても同じように不従順しやすくなります。
この次も不従順しやすくなります。
例えばこの牧師のメッセージはいつもこの人はこんな話をする人だと思って、メッセージを聞かないようにだんだん耳が固くなってしまいます。
だからメッセージをいくら聞いても不従順、不従順、不従順ばかりだから、メッセージが自分には何の役にも立たないし、自分の生活も変わりがありません。
またその牧師を見るたびに腹が立つ、このような傾向になっていくんです。
しかし一度でもいいから、牧師が自分の話をするんじゃなくて、神様の見声を伝えてくださることだから、
牧師じゃなくて神の見声だと思って、一度でもその見声を純粋に受け入れて従ってみたら、
来週は見声を聞き従うのはやりやすくなります。
この次はもっともっとやりやすくなります。
その間に見声の意味がわかるし、神様がそのメッセージをくださる、
ああ、これは私のためにくださるんだということがわかって、見言葉がだんだん楽しくなっていくんです。
だから見声を聞かないようにするか、見声を聞くようにするか、
そこにどちらを選ぶかによって、だんだん自分の信仰が良くなるか、
だんだん信仰生活が難しくなるか、ここにあるんです。
これを第2コリート中小3節から5節には、これが自分の心に固い要塞ができることだと言っています。
ある人がいます。その人は誰が言っても何とか否定的な話、批判的な話ばかりします。
この人は昔からこうなのかどうなのかわかりませんけど、いつも話を聞いたら響くみたいな話を返事をして、否定的な話をします。
次に次に次にとやっても、この人はだんだん否定的な話をします。
ある意味から見たら、その人は心の中で否定的な話をする固い要塞ができてしまったんです。
彼はもうこの否定的な話しか出てこないような人になってしまったんです。
これは自分自身にも良くないこと、自分をわかっていながらもそれはなかなか変わりません。
これは大抵夫婦の関係でそうあります。
奥さんが何と言ったら、旦那さんがね、こんなことやめなさい、うるさい、うるさいとか何とか言って、これは夫婦関係のあんまり良くない。
また、もう奥さんに無視する言葉だから、そんなことをやってはいけないということ、自分はわかっています。
でももう昔から習慣になっているので、何と聞いたらうるさいと言ってしまう。
夫婦関係がだんだん悪くなるし、奥さんはもう腹が立っているし、もう何とか旦那さんにうまくやってあげたい心が全くなくなってしまうような状況です。
そうするなら家庭がどうなるんでしょう。
その話を聞く子どもたちもそれを父親みたいに、もう結婚したら彼女にうるさい、うるさいばかり言うんでしょう。
家庭的に男性はみんな変な人間になってしまうんです。
こうしたらいけないなと思って、ある意味から肯定的な人とように奥さんが何と言ったら、
ああそうか、意味あるね、まあその話、いい話だね、OK、わかった、私はそうしてみよう、これ一回でもやってみてください。
次にもうこの話をするのは非常に優しくなります。
だんだん奥さんが尊敬する旦那になって、それは夫婦関係が良くなります。
そうしたら家庭全体が変わっていくでしょう。
なぜそうなったのか、自分の心の中で固い要塞みたいに否定的な話、偉そうな話で無視する子供のことの癖がなっているから。
これをあんまり遅くならないうちに変えていかなければなりません。
そうすることが私たちには大事です。
だから私がやっていくことが、私の中で礼儀的な権威を持って続けてそれをやらせるんだってことを、これを考えるときに私たちはだんだんだんだん癖を変える、そういう姿勢を持つこと、それが神様に従う、みこえに従うのに非常に大事です。
もう一つは真理を受け入れるんですが、適当に受けるんです。
じゃあ皆さん、私はたびたびこの話をしますけど、私は神様に全てを懸けます。あるときはわざわざ全てを懸けます。
あなたしかいません。あなたが助けてくださなければ私は死にます。私の家庭はダメになります。あなたしかいません。
私はもうあるときは神様以外何にもありませんという私なりに神様に全てを懸けることがたびたびあります。
なぜ?適当に信仰生活するのはダメだからです。
神は生きておられます。今も働いておられます。人格的なお方です。
人格的な生きておられるお方のメッセージを私たちは理論的にいつも考えます。
だから神様との関係性がだんだん理論的に、習慣的に軽く考えられます。
だから私の信仰さえ神様との全身全霊についていくのではなくて適当についていくようになります。
私はたびたびアブラムの家庭のなぜ問題があるのかとよく考えます。
神様がアブラムとエバに私はあなたたちに、さらに私は子供を与える、あなたに子供を与えると約束しました。
アブラムもそれをしっかり覚えているかもしれないけど、サライはだんだん神様の御声がしっかり受け止めることができなく、適当に受け止めるのです。
ですから創世紀16章2節ではサライはアブラムに言った、主は私に子供を授けてくださいません。
どうぞ私の女奴隷のところに入ってください。私は彼女によって子供を得られるかもしれない。
だからアブラムも彼女の言う通りに従ったということです。
なぜ神様を下さるということに自分の人生を懸けて信じてみようということはなかったでしょうか。
神様を下さると言っているのに下さらない。私は他の方法を通してやってみようと。
結局イスマイルが生んで、イスマイルがイスラム圏の先祖になって、今全世界の最後に一番、神様の子供たちに一番問題になるこの戦い、霊力の戦いがそこにあるんじゃありませんか。
なぜサライはそのようになってしまったんでしょう。神に全てを懸けなかったから。
神に全てを懸けなかったから。適当に懸けたから。だからそのような問題が来たのではないかと思います。
皆さん、信仰を持とうとするなら全てを懸けるべきです。
私はもう、ここに全てを懸ける信仰、これは私は大好きです。
ぜひとも皆さんも全てを懸けてみてください。もう死んだら天国。そうでしょ。生きたら奇跡。
そうじゃありませんか。このような覚悟で神の御言葉に全てを懸ける信仰。
曖昧な信仰じゃなくて、全てを懸けてみてください。そのような人の心を見て、全身全霊で信じる人に神様を全てを与えてください。
その信仰が大事です。
しかし、私たちにいろいろ不従順的な要素がたくさんあるとしても、
でもそれにもかかわらず、神様が私たちに精霊と共に歩む生活ができるようにしてくださいます。
私はこれはもう確かだと。なぜなら、それを可能にしてくださるために、イエス・キリストは来られ、
十字架で死んでくださったからです。
また、神様が助けに来る精霊を私たちに送ってくださったからです。
三密体の神様の中で、助け主精霊様、救い主神様が私たちに全てを懸けて来てくださったからです。
神様には失敗がありません。
三密体の神様は、あなたは私のものだ。私はあなたを必ず救い出す。
あなたを助ける。私は必ずあなたの道をまっすぐにできるように助けていくからです。
神様の決意がここで現れているからです。
イエス様は十字架を背負う前に、ヨワネ16章7節にこう言います。
しかし実を言うと、私が去っていくのはあなた方のためである。
私が去っていかなければ、弁護者は精霊様があなた方のところに来ないから。
私が行けば、弁護者、精霊様をあなたたちに送るからということです。
イエス様はこう言います。私が行くのがあなたたちのためだ。
私が行ったら、その方が来られる。
その方が来られるなら、その方が全て助けるから、あなたたちは心配がない。
と言って、イエス様は十字架復活焦点で行かれました。
イエス様は心配一つなく、安心して、後ほど来られる精霊様にあなたたちを委ねると言って、
イエス様は焦点されました。
一体、後ほど来られる精霊様はどんなお方だから、
イエス様は安心して、全てを任せて行かれたでしょう。
この精霊様は、私たちを助けるのに十分なお方です。
ご覧ください。ローマ集6章26節から28節。
これは精霊様に対して断的に教えてください。
同様に、霊も弱い私たちを助けてください。
私たちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが言葉に言い表せない、
うめきを持って取りなしをしてくださる。
人の心に見抜く方は、霊の思いは何であるかを知っておられます。
霊は神の御心に従って、正義なる者たちのために取りなしをしてくださるからです。
神を愛する者たち、つまり後継学に従って召された者たちには、
万事が益となるように、共に働くということを私たちは知っています。
ここで精霊様は26節、27節、私たちのために何をしてくださいますか。
取りなし祈りをしてくださる。
また28節には、私たちのすべて、万事を益になるように、共に働いてくださろうと言います。
皆さん、私たちは弱いです。失敗しかありません。
生きるいつも失敗、いつも過ち、いつも何か問題があります。
だから、ごめんなさい、ごめんなさいと言うしかありません。
しかし、ごめんなさいと言う私たちを精霊様が助けてくださって、
徐々に徐々に、だんだん勝利ができる人生として帰ってくる。
失敗してみたら、ああ、これが悪かった、ああ、こうするべきではなかったと悟らせてくださって、
これからはこうしてみよう、こうしてみよう、ああ、また失敗した、しかしまたこうしてみよう。
そして、だんだん成功の道に歩むように、私たちを助ける、
後ろから力を与えてくださる、取りなし祈りをしてくださる方は精霊様だと。
精霊様は私たちのすべてをわかっていらっしゃるから、私たちが過ちを犯すたびに、
私たちを徐々に徐々に変えて、励まして、もう一度やってみよう、もう一度やってみようかとやってくださる。
今日読んでくださったカレーヤー古書中六説からでも同じです。
あなたは精霊に従っていきなさい、力に従っていくならこんな問題があるよ。
また、力に従っている人は、もう神の国を創造することができなくなるよ。
しかし、あなたたちに神の国に入るように、精霊の実りができるように、
精霊様は何をしてくださる、24説、キリストイエスのものとなった人たちは、
力も欲情もや欲望もろとも十字架につけています。
結局、精霊様が助けることによって、私たちの憎または欲、
すべてを十字架にかけるようにしてくださるんだということです。
これは断定的なメッセージです。
誰が、精霊様が私たちを十字架にかけるようにしてくださって、
あなたたちは霊の実りを結ぶ人にならせてくださるということです。
精霊の働きは曖昧な方ではありません。
精霊は神様です。失敗はありません。
精霊の働きは、生まれた赤ちゃんが、
始め歩き方もうまくできなくて倒れたりする赤ちゃんを、
後になって、もう成人になって、うまく走る人になるように、
ずっと助ける役目を精霊様がなさります。
ですから私たち、今信仰が弱い私たちだとしても、
精霊様がこの心に来られるなら、私たちは必ずそのように作っておく、
ということは精霊様の働きです。
それが助け主という意味です。
パウルは、パウルもはじめは神様を迫害し、
またはキリスト者長を迫害する神に逆らう人でした。
しかし彼が変わったんです。
肉によく自分の知性、理性、知性、ここに従った人が、
だんだん神を知り、そして人間がぐるっと変わって、
迫害者が福音伝道者にシャーッと変わりました。
誰によって?精霊様によって。
徐々に変わった自分自身の変わりを見ながら、
彼が最後にこう言います。
カラデオ2章、中9節、20節。
私はキリストと共に十字架につけられています。
生きているのはもはや私ではありません。
キリストが私のうちに生きておられるんです。
私は今、肉において生きるのは、私を愛し、私をために身を捧げられた、
神の子に対する信仰によるものです。
皆さん、初めに肉が生きている人が、自分は肉は十字架にかけて死んだ。
これから信仰によって生きる。
どのようにこうなったんですか?
パウルを助けた精霊様のゆえです。
精霊様は素晴らしいお方です。
私たちも同じです。
過去、私は、私の肉の本性から出てくる否定的な感情、欲望、もう変な人間でした。
私は負けず嫌い、もう負けては寝られないような存在でした。
だから、勝ち抜く、競争相手を倒すために、ネタミン、ソシリン、なんとか変な人間でした。
私の頭には良いことは全くありませんでした。
欲望しかなかった。
役物のような存在でした。
しかし、このような人間を今に至るまで、精霊様は助けてくださり、助けてくださり、治してくださり、変えてくださり、変えてくださり、ずっと。
昔は、肉の欲望について罪を犯したり、ここに従ったもの。
毎日失敗し、情けない人間だったんですけど。
その中で、精霊様に従ってみようか、みようかと言いながら、神の御言葉に、精霊の導きに従順するようにして、
その楽しみによって、少し少し少し少し私を徐々に変えてくださり、私のうちに精霊様が、権威を持って力を持って助け始め、
私をどうして神の御胸が徐々に徐々に成し得られることになって、今70歳になってみれば、
以前、こんなに優しく肉の欲に従ったものが、今は思考・作語・訓練の訓練、いろいろなことを通して、
今は肉の欲よりは、精霊様の御声に聞き従うものにならせてくださったんです。
今は家族に対して、息子に対して、また教会の皆さんに対して、自分の何かを発信するよりは精霊の御声に反応する、
このような存在としてだんだん変わっています。だから、昔、教会でいろいろな争いがあったんですけど、これはほとんど牧師の責任でしょう。
今は全て良い方でしかいないので、私の問題によって皆さんが腹が立つよりは、
なんとかなんとか今は少し収められていて、皆さんとの関係が今は少し良くなっているかなと思います。
私は今まで頑固で口こ中心的で、なんとか自分を偉そうなここで過ごしてきた私を、
精霊様の働き、精霊様の粘り強い助けによって、私たちは今までこのようにこんな血が十万の人を精霊に従うものに
ずっと変えてくださったことに感謝、感謝しかありません。こんなもう何か目の前に見えることがなかった人間を、このように少し
謙虚な何かそのようなものにならせてくださったことに感謝し、これから70歳、80歳、90歳、100歳に至るまで、もっともっと精霊様、私を助けてくださり、
訓練させてくださり、もっともっと低くなって低くなって、皆さんの前で減り下って、みんなを使えるものにしてください。
それで私は神様に用いられるものになりたいと。 私はここでモーセを神様がなぜ40歳の時に低陽覚を学んだ一番力強い時に用いられないで、
80歳から120歳まで神様がモーセを使ってくださったのかが理解ができました。 40歳の時は世の中の覚も低陽覚を学んだものとして、いろいろな武術でいろいろな
力強いもうエジプトの王子様でした。 しかしその時には血が10万、世の中10万で彼を使うことはできませんでした。
やっと80歳になったら血がが死んでしまって、彼がだんだんだんだん神の御声を聞き従うのになったから、神様は彼を使ってくださったでしょう。
それで精霊に従っていくから、エジプトからイスラル人を導き出すところに神様を使ってくださったのではないかと思います。
では皆さん、今皆さんはどんな立場に立っていらっしゃるんですか。 今も自分の肉の声、自分の心の中で自分の欲望、
自分の目標、そこを直行じゃなければいけないと思って今過ごしていらっしゃるんですか。 そうじゃなければ精霊の御声、神様の御胸は何なのか、御声を聞いて従おうと思っていらっしゃるんでしょうか。
私たちには人間関係、いろいろな環境、また自分の目標、欲望、また世の中で自分の存在感、
自尊心とかいろいろなことがあったとしても、私たちは自分の欲望に従う人よりは精霊の御声に聞き従う者にだんだん変わっていきましょう。
私たちは精霊の御声に聞き従うことになったら、今まで私たちに力を持って支配してきた肉の力、肉の欲のパワーが打ち砕かれて消えてしまう。
私をそうしなければいけないと思いながら、私を押し叩いた、そのようなことがもう全て崩れて落ちてしまいます。
楽な気持ちになって精霊の導きにすっげえに従う者にしてくださって、それで神様が私をどのように導いても楽に従う者になって、
だから神様が私を使うのに非常にやりやすいものになった時に、いよいよ神様の道具、神様の御技に用いられる人になるのです。
私たちもそのような生活が積み上げられ積み上げ積み重ねられる時に、パウロのような私はキリストと共に十字架に死んでいます。
生きているのは私ではありません。私のうちにキリストが生きています。
これから私は信仰によって神様と共に歩むのですと言いながら、神様に用いられる者になるでしょう。
私たちみんなパウロのようにイエス様のように神様に用いられ、精霊に導かれる者になりたい。
ぜひとも今年の6月にはこのような決心をしていただければと思います。
お祈りいたします。主よ、強い自我、肉の欲に満たされていて、世の中で目標に満たされていたこの僕氏を70年間我慢してくださり、訓練させてくださり、
今はやっと精霊様と共に歩むこのような基礎的な人間として作ってくださったことに感謝します。精霊様、これからも私を導いてください。そして神様を喜ばせる者にならせてください。
失敗がない神様、感謝します。失敗がない精霊様が助け主として来ておられることを感謝します。
イエスキリストを信じることによって、精霊様助け主が私と共におられることに、なんという感謝、なんという恵みでしょう。ありがとうございます。イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン、アーメン。