00:01
しかし私は真実を言います。私が去っていくことは、あなた方にとって益なのです。
それは、もし私が去っていかなければ、助け主があなた方のところに来ないからです。
しかし、もし行けば、私は助け主をあなた方のところに使わします。アーメン。
主よ、感謝します。
私は、主に守られて、導かれて、このように主の日、主の宮に私を集めて下さって、そして今、神に配して礼拝をしております。
しかし、礼拝は神のためのものであります。神の栄光を表して下さい。
私の礼拝が、自己満足のものとならないように、日々、仇、自我を砕いて、主の前に比例をして、ただあなたの御顔と恵みを求め、
主に教えられる通りに生きる力を、精霊によって与えていただいて、御心にかなった者へと、我らを聖徒させて進めさせて下さいますように、お願いいたします。
主よ、心の中にいろいろな考えがあるでしょうか、煩雑な世の心配があるんでしょうか、恐れがあるんでしょうか、主よ、全て取り除いて下さって、
本当に、ピュアな心、純粋な心を持って、神の恵みをしたい者、したい求める者とさせて下さい。そして、十分に神の恵みをいただく者とならして下さい。
感謝します。この者を隠して、本当に精霊様、一人一人の魂の中にお語り下さい。悟りを与えて、気づきを与えて下さって、本当に信仰を引き描いて、この清めの成果の道を歩まさせて下さいますように、お願いいたします。
主よ、心を開いて悟る耳をお与え下さいますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
はい。ヨハネの訓示書のメッセージをやっておりますけれども、今日は書を前後変わってですね、ペンテコした礼拝ということもありまして、
ヨハネの訓示書に精霊様についての御言葉がいくつかありますけれども、その中で今日は十六章の七節から十五節を選択させていただいて、
そこから全ての真理に導き入れる御霊、全ての真理に導き入れる御霊という題にして、メッセージを共にお受けしたいと思います。
まずですね、すでに御導入の方もおられますけれども、ペンテコステって何なの、精霊降臨って何なのと思われ方もおられるかなと思いますしですね、
03:03
まずこの精霊降臨日、ペンテコステが何なのか、ちょっとスライドの二番目からちょっとスライドをご覧いただきながらお話したいと思います。
前にちょっとご覧いただけますか。
簡単に表に作ってみました。家様の生涯をちょっと見ますと、
公の生涯が三年ありました。そして家様が十字架で死なれるその日は、
ユダヤ人の祭りとしては杉越の祭り、子羊を捧げて、その罪が呪いがパスオーバーしたその日の時でもあります。
家様が十字架で死なれて、三日後復活なさいましたね。
そしてよみがえられた家様は弟子たちとこの地上で四十日一緒にいてくださいました。
そして四十日後、手に引き上げられました。焦点が当たったわけですね。
そしてその時に、いわゆる使徒の働きの一所発説、待っていなさい、祈りなさい、約束した祭りが来るよ、
でもそれがいつなのかわからなかったんですね、弟子たちは。
そしてひたすら集まって約束を待って祈っていたところ、ちょうど十日後、精霊様が下って来られました。
それを使徒の働き二章を見ますと、御殉節の日にとなっていますね。
ですから御殉節は五十日目の日になります。
いつからなのか、それはイースター、家様が復活されたその日から数えて五十日目の日が御殉節、これをペンテコストと言ってですね、その日になります。
その日に精霊が降臨させた。
御殉節はスイコシの祭りと考えると、ユダヤ人としてはその年の初穂の収穫の日にもなりますね。
麦の収穫の日にもなります。
だからこういうふうに流れて、だからそれをペンテコステと言うんですね。精霊降臨、聖日と言います。
これをちょっと頭に入れていただきながら話をまた進めていきたいと思います。
この日を記念してキリスト教会は礼拝を捧げているということであります。
まず最後にお話したいということは、イエス様は神様です。
06:02
神様と同じ本質を持っておられるお方です。
そしてもはやこの地上での障害を堪能して、
イエス様は無自分を使わせてくださった神のところに、
いいですよ、画面。
すみません、娘。
ひじんちゃん、これ下ろして。
閉めてね、これ、画面。
もはや地上での障害を堪能して、
イエス様は自分自身を使わせてくださった神のところに帰ると、
このヨハネの口に何度も語られました。
そして私が帰ると、
今日の7節にもあるように、神様が助け主をあなた方のところに使わせてくださいますよと語ってくださいました。
それが今日の16の7節にありますけど、私がもう一度読めますので、
聖書をお持ちの方はご覧くださいますか、7節ご覧ください。
読みしますね、7節。
しかし私は真実を言います。私が去っていくことは、あなた方にとって益なのです。
それはもし私が去っていかなければ、助け主があなた方のところに来ないからです。
しかしもし行けば、私は助け主をあなた方のところに使わせますとあります。
もう一箇所開けましょうか。
同じヨハネの福音書14章の16節を開きたいと思います。
ヨハネの福音書14章16節。私の聖書では210ページです。
この16節は一緒にお読みしたいと思います。
よろしいですか、一緒に。
私は父にお願いします。
そうすれば父はもう一人の助け主をあなた方にお与えになります。
その助け主がいつまでもあなた方とともにおられるためにです。
アーメン。
この通り、イエス様は何度も弟子たちに、
私が言ったら、私は神様にお願いしますね。
そうすると父は助け主を使わせてくださるんですよということです。
ところで皆さん、ここで一つ、誤解しないでほしいことがあります。
だからといって、聖霊様は、イエス様はこの地上におられないから、
ただの変わり者、ピンチヒッターではないです。
そういう方ではないです。
09:01
聖霊様は三名一体の神様です。
神様、イエス様、聖霊様は一人の神であって、
全く本質において同じお方であります。
イエス様がいないから、変わり者として聖霊様、
ちょっとイエス様ぐらいにはなれないので、ちょっと劣るかもしれませんけど、
イナよりはマシだろうと、それで聖霊様を送ってくださるわけではありません。
全く同じ方であります。
ここで、私たちの理性では理解し難い三名一体のことを、
ちょっと定義だけをお話したいと思います。
三名一体、それは神様、イエス様、聖霊様がどういう関係なのかを、
キリスト教会はほぼ2000年かけて、それをも成立して語っています。
こういうふうに語っています。
唯一の神は、父と子と聖霊の三一角を持つ三名一体の神であり、
その本質において同一であると言っています。
もう一度お申し上げますね。
唯一の神は、父と子と聖霊の三一角を持つ三名一体の神であり、
その本質において同一であると。
それが三名一体の神。
だから、聖霊様はイエス様神の霊として、神の人たちに来てくださる。
そして何をなさるのか。
それは今日の16章のところに、イエス様がこの聖霊様を助け主と言って、
その助け主が何をされるのか、その方がどんなことなのか、
一つ一つ丁寧に教えてくださいました。
だから、そこから聖霊様が誰なのか、
そして私たち信者の教会のために何をなされるのかを学びたいと思います。
まずその前にですね、私たちはそれぞれこの聖霊様に対するイメージを
いろいろ持っているんじゃないかなと思いますね。
ある方は聖霊様と言ったら、火、炎をまず思い浮かべたり、
あるいは暑いとか、あるいは何かの爆発とか、
あるいは何かの神秘的なこととか、
いろいろイメージを持っているんじゃないかなと思います。
全く間違っているわけではありませんが、
今日はイエス様の見口を通して語られた聖霊様について、
12:01
正しい理解と、そして理解だけではなく、
そこからその聖霊様を常に経験して、
共に歩んでいきたいと思うわけであります。
なぜなら、まずこのたとえをちょっと話をしましょう。
あとからでも話をしますけれども、
私たちは皆、御霊、聖霊によって救われます。
聖霊様によらないと人は救われません。
だから皆さんは救われましたか?
誰も救われていないんですかね、答えがない。
皆さん救われましたか?
救われました。
救われた人は、聖霊様によって救われるわけです。
そして、その救われた者は、
聖霊に満たされて、聖霊様と本当に一つのようになって、
親しんで歩む人がいる。
しかし、聖霊によって救われてはいますけれども、
聖霊との関係がちょっと遠い。
そういうことがあり得るということです。
ちょっとひとつ例えで話をしたいと思います。
夫婦がいます。
同じ家で暮らしています。
ところがある夫婦は、お互いによく話し合って、
とても親密になって、
夫婦が心も体も精神も一体になっています。
お互いのことをよく理解し合っています。
助言を求めて、助言を聞いて、
従って、助け合って、
そういうふうに一緒に食事をして、一緒に寝て、
そういうふうな夫婦がいます。
もう一首の夫婦がいます。
戸籍女夫婦は夫婦であります。
同じ部屋に暮らしていますが、食事も別々にして、
部屋もそれぞれこもっていて、何の対話もなくて、
テレビもそれぞれの部屋で好きなものを見て、
会話もなかなかなくて、
お互いに理解し合うこともなくて、
助け合うこともない。
夫婦は夫婦です。
同じ家には暮らしてはいます。
さあ、どっちの夫婦が望ましいと思いますか、皆さん。
それは言うまでもないでしょう。
精霊様との関係も似ていると私はそう考えます。
精霊だと救われてはいます。
救いが偽りではない限りはね。
救われてはいないんだけれども、
全く会話のないような夫婦みたいに、
精霊様がおられるんだけれども、
聞こうとしない。
学ぼうとしない。
従おうとしない。
助言を求めることもなかなかない。
そういうことも、だからまず、
今日はその精霊様に対する正しい聖書の知識を、
15:02
まず学びたいと思います。
大事なのは、精霊様は霊でありながらも実体であります。
何か幻想的な煙みたいな方ではないんです。
霊でありながらも実体でありますから、
聖書を見て、またキリスト教の歴史を通して、
また我々自分自身のことを通して、
精霊様にお会いできますし、
精霊様を経験できますし、
精霊の満たしを経験できるということであります。
さあ、まず精霊様は誰なんでしょうか。
今日の十六書の七節をまずご覧ください。
そこにイエス様は精霊様を指して、
何と仰っていましたか。
助け主と仰っています。
助け主、助け主。
さあ、この神科学聖書、日本語の聖書はこれを助け主と訳していますが、
もっと豊富な意味がここにあります。
助け主の意味は、今日四つまず話をしたいと思いますので、
覚えていただきたいんですけれども、
まずは慰め主という意味があります。
それからもう一つは助言者という意味があります。
慰め主、その次は助言者。
三つ目は弁護者。
弁護士の弁護者。
そして四番目は取り出す者。
こういう四つの意味が含まれている言葉が、
この助け主という言葉であります。
慰め主、助言者、弁護者、取り出す者。
だから皆さん、精霊様は私たちにとっては、
慰め主であって、助言者であって、弁護者であって、取り出す方であるということなんです。
それをイエス様が語ってくださいました。
そして精霊様、この意味、このアイデンティティ通りに働いてくださるお方であります。
聖書の時代も、百年前も、今の時代も、これからも、永遠から永遠までおられる方です。
まず、これを一つずつ見ていきたいと思います。
まず第一、慰め主です。
精霊様は慰め主。私たちを慰めてくださいます。
でも、よく考えていただきたいことは、
だからといって、どんな時でも慰めてくださる、
そういう精霊の慰めは、安っぽい安価なものではないんです。
私たちが信仰を守るとして奮闘している、努力している時、
18:04
時には倒れて、時には疲れて、時には罵られて、時には恥を吐いている時、
御言葉通りに歩もうとしている時、精霊様は私たちを慰めてください。
そして、私たちの内におられて、天皇平安で私たちを慰めて、
古い立たせてくださって、そして、もう一度精霊の人として立ち上がって、
信仰のために生きるもの、福音のために生きるように、イエスのために生きるように、
慰めてくださる。ただの感情的な慰労をくださる方ではない。
何のために慰めてくださるんだろうか。主のためであって、神のためであります。
それが結果的に自分のためのものでもあります。
ただの慰労、慰めをもらうなったら、どこかいいセミナーに行ったほうがいいかもしれません。
精霊様の慰めは、それを遥かに超える天のものであります。
二番目、精霊様は助言者であります。まことの素晴らしい助言者であります。
私たちは人生の一分先も知ることはできないです。
また、いくら常識や知識が豊富な人であっても、自分で自分のことはよくわからない。
人のことはなおのことは知らない。人生のことはなかなか知らないわけであります。
時には、どこに行ったらいいのかわからない。この決断をどうしたらいいのか迷うこともある。
あるいは、福井を伝えたい時にどう言ったらいいのかわからないこともあります。
あるいは、この人にこういう助言をしたい。あの人にアドバイスをしたい。
したくならない時があったりするんですね。何と言ったらいいのかわからない。
そんな時に、私たちには精霊様がおられる。
そして、精霊様は助言者であって神の霊ですから、そして最高の助言者ですから、
すべてのことをご存知の方ですから、その方に助言を、アドバイスを、導きを、真理を求めるのです。
これが精霊様との関係なんです。
良い夫婦は、良い親子がお互いにアドバイスを求めて、アドバイスをしてもらって、
それに従って歩んで、そして素晴らしいことが起こる関係ですよね。
21:00
同じなんです。精霊にアドバイスを、真理を、導きを、皆さん求めてください。求めていらっしゃいますか。
すべての必要に、その場合にふさわしい助言をしてくださる方が精霊様である。
誰にどういう声を聞くか、どういう助言を聞くか、誰から影響を受けるかによって、人の人生は違っていきますね。
覚えていてください。
人の言葉と精霊の助言、アドバイスは全く違います。
また精霊の人の助言も、人の一般的な助言と全く違います。
精霊の人の助言や言葉は、神の知恵から来たものですから、そこに真理と命と恵みと希望があります。
そこに従うものは、希望があります。
真理に導き入れていただきます。
3番目、精霊様は弁護者です。精霊様は弁護者です。
精霊様は私たちの川に立ってくださって、私たちを訴える、告発するサタンに対して私たちを弁護してくださる。
サタン悪魔は私たちを告発します。倒そうとします。
罪を犯して謝りをしてもあなたは信者なのかと、そうしてもお前は信者なのかと告発します。
恐怖心を、恐れを、思い込みを、つまづきをさせるのが悪魔なんです。
罪悪感を感じさせる。それはただの特技なんです、特技なんです。
疑わせる、主を遠ざけさせる。
その時に精霊様は私たちの川に立ってくださって、あのサタンに対して弁護してくださる。
この者は神の者なんだと弁護してくださるんですね。精霊様は神様であり、精霊様が弁護してくださるならば、どんな者もその精霊様を勝つことはあり。
この世は、サタンは私たちを罪に定める、そして何もできないものに、無力なものにさせようとする時に、精霊様は私たちを慰めて、助言をしてくださって、弁護してくださって、もう一度奮い立たせてくださるお方であります。
24:00
覚えてください。サタンは倒すのが特技です。
しかし、弁護者のある精霊様は私たちを奮い立たせてくださる。
四番目、精霊様は取り成すものです。
一箇所、聖書を開きたいと思います。ローマ書にね、その深い意味がありますので、ローマ人への手紙、八章二十六節から二十七節を読みたいと思います。
ローマ人への手紙、八章二十六節から二十七節です。私の聖書では三百二ページです。
それで私は二十六節を読みますので、二十七節を一緒に読みたいと思います。
二十六節。
三魂も同じようにして弱い私たちを助けてくださいます。
私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、三魂ご自身がいいようもない深い埋め気によって私たちのために取り成してくださいます。
二十七節を一緒に。
人間の心を悟り極める方は三魂の思いが何かをよく知っておられます。
神の御心に従って聖徒のために取り成しをしてくださるからです。
アメン。
ここの二十六節と二十七節、二回も出てくるんですね。
私たちのために取り成してくださる方が誰ですか。
聖霊様なんです。
だからその聖霊様と親しんで近くしていつもその方と交わりを持っていく人は取り成しをしてもらうんですね。
上限をしてもらう、助けてもらうんですよ。
だからその人生が進行が違うんです。
そうでない人と。
聖霊様は私の弱さを知っておられます。
助けてくださいます。
どういうのかわからない時にも、聖霊様はいいようもない深い埋め気によって皆さんのために取り成してください。
それは神の御胸通りに取り成してくださるんです。
私のいいように都合のいいようにしてくださる聖霊様はしもべ途中ではないのです。
神の御心通りに取り成してくださって真理に導き入れてくださる。
ですから皆さん、ですから四つ前にお話をして、ですから聖霊様はなくしては救われません。
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そして聖霊様はなくしては神の御心にかなった信仰生活もできないわけなんです。
もちろん聖霊様は助言者であって、助け主であって、慰め主であって、神の御霊であって、真理の御霊ですから、
その聖霊の満たし、聖霊の導きなくしては真理を知ることもできませんし、そこに進むこともできないわけなんです。
皆さんは聖霊によって救われたのでしょうか?
そうであるならば、聖霊によって信仰生活をしてください。
一番麗しい素晴らしい信仰生活は、聖霊によってする信仰であります。
聖霊によって救われた。
そうしたならば、その聖霊によってこの信仰も進めていってください。
そして、今日の聖書に戻りまして、
イエス様がその聖霊様に来られたら、何をするのか、三つ大事なお話をしてくださいました。
今日の十六章の八節をご覧ください。
八節、私が読みます。
聖霊様が来ると、その方は聖霊様ですね。
聖霊様が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせますとあります。
ですから皆さん、聖霊様は、このイエス様のお言葉から言いますと、三つの大事なことを働かれるんです。
その三つのことをお話ししたいと思います。
一つ、罪についてです。
罪について、世にその誤りを認めさせるんです。
九節一緒に読みましょうか、九節一緒に。
罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。
聖霊様は、罪について、世に人々にその誤りを認めさせるんです。
罪については何なのか。
それは、聖霊様がですね、人々がイエス様を信じない、それは誤りですよ、間違いですよ、それを認めさせるサトスということで。
だから、聖霊様の第一の働きは、イエスは神であることを知らないこと、イエス様を救い主として信じないこと、
それが罪ですよ、誤りですよ、それは間違いですよ、
それを認めさせる、気づかす、サトス、そしてその方によって従って、神を神として、イエスを主として認めさせる、救いの働きが聖霊の働きであります。
30:10
もう一度申しますね、救いの働きは聖霊様による働きであります。
ここで一箇所、聖書を開きましょう、もう一箇所ね、新約聖書の、
コリント人への手紙第一十二章三節です。私の聖書では330個ページです。
第一コリント十二章三節、三節、十二章の三節です。一緒に見たいと思います。
ですから私はあなた方に次のことを教えておきます。
神の見たまによって語る者は誰も、イエスは者あれよと言わず、また聖霊によるのでなければ、誰もイエスは主ですと言うことはできません。
ここの講話にはっきりと書かれているんですね。聖霊によるのでなければ、誰もイエスは主ですと言うことができない。
つまり聖霊によるのであれば、誰もイエスは主ですと告白できるということであります。
ですから、さっきも申しましたように、私たちは聖霊によってイエスは主ですとスクイヌスとして受け入れて信じるようになった。
誰によってですか?聖霊様によってです。
ですから皆さん、私たちの信仰は聖霊様によってスタートできたわけなんですよね。
そしてその聖霊様によって導かれて成果をなす、清められるこの信仰の道を、真理の道を歩むことができるんです。
だから信仰生活はある意味で、聖霊なくしてはもう始まりも進みも終わりもできないわけなんです。
何から何まで私たちの信仰は聖霊様によるものであります。これが聖書の教えであります。
クリチャンの人生は、聖霊によって始まり、聖霊によって清められ、聖霊によって成長して、やがてイエス様にお会いするのです。
2番目、4の福音書に戻りまして、2番目は、義についてとあります。
16書の10節、私が読みます。また、義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです、とあります。
義についてというのはどういうことでしょうか。それはイエス様が神のところに帰られる。
33:03
そしてこの地上は、もはやイエス様を見ることができない。
つまり、イエスは神でありますよ、それを人々に、彼らは認めていなかったんですね。その誤りを認めさせる、悟すということであります。
今日も同じです。多くの人々は、イエスは神であることを、イエスは主であることを認めないのです。
もちろん、知らない人も多くあるでしょう。
だから、聖霊によって、人々がイエスが主であること、そしてやがて再認として来られることを認めさせる。
イエスは神であることを認めさせるんです。それを誰かですか、聖霊様がなさることである。
もちろん、聖霊は真理の御霊であるからです。
だから、聖霊によって目が開かれて、真理が真理になることを知ることができる。
認めるようになる、その素晴らしさが、聖霊様によってなされるということであります。
ですから皆さん、私クリスチャンは、本当に何が正しいのか、義というのは正しさと言い換えますね。
だから、聖霊に満たされた人は、真理が分かります。
何が真理なのか分かって、そこについていきます。
3番目申しましょう。それは、裁きについてと言っています。
ヨハネ16の11節、私からお読みします。裁きについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです、とあります。
この世を支配する王様の王とも訳されています。
つまり、この世を支配する者というものは、この世の王様でもあります。
つまり、当時の人々のことを言いますと、イエス様を罪に定めて、裁いて、十字架に処刑したものであります。
ですから、今の私たちにはどうなのか、それは、そこからそれを受けて、神を神として認めさせない、主をイエスを主として認めさせない力、闇の力である。
それは既に裁かれているということであります。
それを聖霊様が来てくださって、悟す、認めさせるということであります。
36:01
生きているようであるが、実は死んでいるようである。
自由の者であるが、実は奴隷である。
イエスを拒否する人々に、それが誤りですよ。
それを認めさせる力は、聖霊の力である。
ですから皆さん、聖霊様は、人が救われるためにも働いてくださる方であって、
救われた人が真理によって生きるために、神の心にふさわしく生きるために、助けて助言して、取り成して、希望を見出してくださる方も聖霊様であります。
ですから、聖霊に満たされて、聖霊に捉えられて、聖霊の支配を受けていくのは、
クリスチャンとして、実は必然的なものである。
当然のものである。
聖霊様は神様であります。
決して神より劣る者ではありません。
聖霊様は生きておられ、イエスを主と信じる人々の魂の中におられて、
同時にどこにもおられるお方であられます。
終わりになりますが、このヨハネの福音書を記した記者ヨハネは、
このヨハネの福音書をだいたいAD90年頃、記録したと言われています。
ですから、AD90年は、さっき見たように、
すでにこの人の働きの御殉節のあのペンテコステをみんな経験して、
何十年も経って過ぎている時点でありますね。
そして、あの人の働きペンテコステのあの日に、
聖霊に満たされて、その弟子たちが、クリスチャンたちがどう変えられたのか、
そして福音が教会がどう拡散していったのか、
この90年代になったこのヨハネは、それをもうまるまるリアルに知っていて、
経験しているわけなんですよね。そうでしょ。
そしてそれがここまで来たわけですから。
聖霊様と一緒に歩む人たちが、
どれだけ福音にふさわしく、うるわしく、美しく歩んできたのか、
聖霊によってどれくらいパワフルな力を持って大胆に福音を述べ伝えたのか、
ヨハネはそれをずっと見てきました。経験してきました。
そして神の霊感によって、他の福音書、マタイとかマルコとかルカには記録されていない、
39:03
この聖霊様についてヨハネは詳しく書いておいたということであります。
だから私はこの朝、この使徒ヨハネを通して私たちに語ってくださるその声に耳を傾けたいと思うんですね。
まるでこのようにこの朝、私たちにこの神様がね、このヨハネを通して私たちにこのように語っているんじゃないでしょうか。
聞いていてください。
皆さん、イエス様が語られた、約束された助け主聖霊様は本当に来られましたよ。
私は見ました。あの御殉節の日、経験しました。
そして聖霊の働きによって、あの御業によって、イエス様が使徒に依られたあの公の生涯の3年の時に、
我々は祈りもまともにできなかった。伝道もまともにできなかった。
神の力はもう何にも持っていなかった。本当に情けなくて愚かな我々弟子でした。
しかし、こんな私たちは、あの聖霊降臨によって、聖霊に満たされることによって、
もはや私たちは未熟で愚かなクリエイチャンじゃなくて、
二度とイエス様を知りませんと否で逃げる弟子ではなくて、帰りました帰りました。本当の弟子になりました。
もはやイエス様のように祈れるようになりました。イエス様のように福音を伝えられるようになりました。
イエス様のように私の仲間はみんな殉教しましたよ。
これによって教会が始まり、福音が拡散していき、
そしてこの福音がエルサレムから世界に広がっているのではないでしょうか、日本の皆さんという声を聞いているでしょうか。
これが聖霊に捉えられて、その支配を受けて満たされている弟子のこの朝、
イオハネの国書を通して神様が語ってくれます。
皆さんもイオハネのように弟子たちのように聖霊に満たされていてください。
聖霊によって歩んでください。
そしたら、この以前は愚かで臆病の者だった、本当に未熟だった私たちもこんなに変えられたんじゃないでしょうか、と証を皆さん聞いていてください。
聖霊によってみんな変えられます。
変えられないものはないです。拒まない限り。頑固でない限りみんな変えられます。
イオハネもペテロも、あの経産的だったピリポも変えられました。みんな変えられました。
42:04
聖霊によって、聖霊の恵みであります。
このイオハネのメッセージに耳を傾けて進んでいこうではありませんか。お祈りしましょう。