00:01
みなさん、おはようございます。
今日も、神によって支えられて、遠くから近くから、身動に集まってまいりました。
礼拝というのは、神様から恵みを受けるという理想です。
このところに主がおられる、主ご自身を意識して、
賛美を捧げる、祈りを捧げる、また自分自身を捧げていく、これが礼拝です。
ですからどうぞ、私たちも、礼拝の説教の恵みをくださいとか、
それもいいわけでありますけれども、それ以上に、
祈りを捧げるということを、どうぞ私たちは忘れないでください。
さて今日は、このマルコムスクニッション12章の28節から、
あなたは神の国から遠くない、というテーマで、
このお話をするように導かれています。
さて、この冒頭の28節に、立法学者の一人がいて、
彼らが議論するのを聞いていたら、
イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた、とは言われ、
彼らが議論していた、と言われる議論は、
イエス様の言葉辞を捉えようとしての質問、
先週学んだローマに対する礼金はどうだろうか、
復活の問題はどうなるのか、
このところに立法学者であるパリサイの人たち、
あるいはヘロゼソの人たち、
あと、里海派の人々が大勢いたわけです。
復活問題をめぐっては、パリサイ派の人々と、里海派の人々が対立をしています。
里海派の人たちはですね、復活はないと言って、
この18節以降の質問をしたわけです。
パリサイ派の一人とは復活を信じていましたから、
そのやりとりを強いていたわけです。
他の人もその一人であります。
彼は復活はないと言って難屈をつける、
この里海派の一人とは、はっきりと聖書に基づいて、
03:02
復活はこうなんだ、あるんだということを答えられた、
ゲス様のお言葉はですね、見事だと思います。
すなわちゲス様は、私たちと同じような意見を持っていると思って、
真剣感を持っていたわけです。
みなさま、思えば神様を信じているという人たちの中にも、
聖書の奇跡や復活、最後の審判を信じている人も、
人間的な合宿を持ち込んで、
聖書の奇跡や死因の復活は信じない。
ただ、この聖書を人生分のように自分の人生に当たらめて、
そして有意義に歩んでいこう、
そういうような人たちがクリスチャンの中におられるわけです。
すなわち、聖書の出来事を信じていないクリスチャンの方が、
この世の中、比較的多いのではないか。
けれど、私たちは、文字通り聖書のニコトラを全面的に信じています。
奇跡も復活も、あるいは災原も、天国も地獄も悪魔も、
見つかりも信じているわけです。
さて、一人の立法学者、バイザイ派の一人あったでしょう。
彼にも一つ質問したわけです。
それは、イエス様に、
全ての中でどれが一番の忌まつめですか、と質問しました。
それに対して、神様を愛しなさい。
人間を愛しなさいと言われました。
その立法学者たちは、
ああ、先生、その通りです、と答えられました。
彼が賢く答えられたので、
イエス様は、
あなたは神の国から遠くないと言われました。
あなたは、神の国から遠くないということは、どういうことでしょうか。
皆さんは、どのように受けられたでしょうか。
06:07
あなたはもう少し、
理解が少なく深くなって、
頑張れば、神の国に到達することができると言われたんでしょうか。
神の国はあなたの近くにある。
もう少しでは頑張れと言われたんでしょうか。
そういう恥じましもあるんです。
イエス様は、私たちの信仰を止めてくださっているのか。
あなたは神の国から遠くはありませんよ、と言って叫ばれてくださっているのか。
さて、皆さんは、この聖地の御言葉をどのように捉えられたでしょうか。
確かに私自身は、大きな恵みと励ましをいただきました。
けれども、もう一点、そこに、
こういう思いを私は受けたわけです。
それは、まだそこに合格していないと言われたように、
私は理解したわけです。
今日集まれた皆さんは、神の国から遠くはある。
いろんな趣旨や聖地のことも知っている。
信仰生活、何十年、頑張ってよく来られました。
本当にこれは感謝なことです。
けれども、その言葉の背後に、
まだ到達していない、反省していないと言われているわけです。
いや、私は信仰を持って、その恵みに預かっておられるという方は感謝です。
ですから、その恵みに預かった方々は、ほこごろいっぱい感謝をし、
喜び、神様の前に向かったらいいと思います。
でも皆さん、そうでない方も心配しないでください。
私たちは今日、到達するわけです。
09:06
さて、立法学者は、どれが第一の言いまくりですかと尋ねました。
前回の文章を見るならば、立法の中でどの言いまくりが一番大切なのですかと尋ねました。
どれが第一か。
どの言いまくりが一番大切かと聞かれたわけです。
一番だったら、それなら答えは一つだけではない。
いや、一つの答えでなければならないはずだ。
けれども、玄玉は、神様を愛するということ、人を愛するということを、この二つを教えられました。
神様からモースを通していただいた、石灰の日差しの十回は、皆さんがよくご存知のことであります。
玄玉は、神様のことが書いてあります。
そしてこの後半は、人のことが書いてあります。
彼は立法学者として、神様のお似て立法を人々に教えています。
そして、モースの十回を細かく細かくして、正確な隅々まで泳ぐように、
皆さん、600以上の見まし目があったわけです。
それは、人々が全部安心して実行することは大変なことである。
ですから立法学者がいてですね、人々に立法を守って生活するようにアドバイスをしていました。
皆さんもよくご存知であります。
暗黒に血を覚えて清掃せよという、この十回の中の一つ。
労働してはいけないので、それを細かく指定しました。
髪の毛を切ってはいけませんよ。
歩くときは、何歩までしか歩いてはいけませんよ。
現代風に言うならばですね、その安息道は、お金の話をしてはいけませんよ。
あるいは、お風呂を温かしてもいけませんよ。
あるいは、スマホを持ってもいけませんよ。
どんどん暗黒に血を覚えて清掃せよという一つの指定の中で、どんないましめを指定したわけか。
彼はどんどん増えていくいましめの中で、
12:00
先生、どのいましめが一番大切ですかと尋ねられました。
必ずですね、600以上のあるいましめ。
さらにどんどん増えていくいましめの中で、
何をどのように教えていったらいいのか。
どのようにこの律法を掴んでいったらいいんだろうか。
その律法のかなめとは一体何なのか。
皆さんもこの扇子とかお持ちであるかもしれません。
この一番のかなめ、扇子は左下にですね、閉じたりすることができ、
開くならばですね、600以上の様々ないましめがある。
さらにどんどんどんどん増えていく。
そのずっと根っこにはですね、根元には十の宝珠のいましめがある。
さらにもっともっとこのいましめのかなめは一体何なのか。
イエス様の言葉尾を捉えて、
イエス様を訴えようとするその質問とは違う声でありました。
ですからイエス様もその問に対してストレスに答えられたわけです。
さて29節30節。
イエスは答えられた。
第一のいましめがこれです。
聞けイスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神主を愛しなさい。
第四のいましめがこれです。
あなたの現人を自分自身のように愛しなさい。
これよりも重要ないましめはおかんにありません。
イエス様が第四のいましめと挙げておられるその言葉はですね、
イスラエルの人たちはもう耳に覚悟ができるほどにしょっちゅう聞いていました。
毎日の祈りにおいて唱えていた言葉です。
暴動の危険という言葉は、受け手の人に電話を取ってもらってください。
金井さんに。
ごめんなさい。
どうぞ、一緒に行く金井さん走るのではなくて、電話がかかったら受け手の方がどんどん来るようにしてください。
よろしくどうぞ。
この暴動の危険という言語の由来語はですね、危険なんです。
ですから手間の祈りと呼ばれています。
聞けイスラエルよ。
イエス様は人々が毎日唱えているそのことをここで話されたわけです。
15:06
あらゆるお手の中で大主のものである。
一言を言いながら、
神様を愛するということは、倫法の中の一番の要である。
あなたは神様との関係の中で愛するという感じを持って生きることこそを中心的なことである。
そういう中で問われることは、
じゃあ私は神様を愛しているかということが問われてくるわけです。
その神様を愛することによって、ここに書いてあるようになります。
心を尽くし、
命を尽くし、
姿勢を尽くし、
力を尽くしている。
さてこのところの言文を直訳するならば、
あなたの心のすべてから、
あなたの命のすべてから、
あなたの姿勢のすべてから、
あなたの力のすべてから、
心を尽くし命を尽くしという、
これはすべてを持ってということであります。
そしてそれぞれに、
あなたのということばかり、
他の人ではなくて、
あなたの心と姿勢と命と力、
すべてを持って神様を愛しましょう。
要するに、私たちの全存在を持ってということであります。
私たちのある一部分においてではなくて、
すべてを持って神様との交わりに生きるわけです。
一部分だけで付き合うというのは対することではありません。
神様は私たちの全存在の交わりを求めています。
皆さんは神様を愛しておられる。
けれどももう一度、一部分ではなくて、
自分のすべてを持って神様を愛し、
使え、歩んでいく。
18:02
さて、2023年の新しい年に私たちは入って参ります。
私たちは何を持って、何に向かって進んでいったらいいでしょうか。
何かを計画して、それを持って歩むということも素晴らしいことであります。
けれども、このことだけは忘れないでください。
とにかく神様を喜んでいく。
どんな計画やそういう準備がなくても、
毎日毎日毎週毎週、とにかく神様を喜んでいく。
神様を楽しんで歩んでいく。
神様を愛していく。
自分の全存在を持つ。
私たちは心を探っていただきたいと思います。
もうそうです。
自分の全存在を持って愛していきたい。
たしかに祈りの中で、この1週間、
神様は私たちを守り導いてくださってありがとうございます。
また神様からお言葉をいただいて、
どうぞ先生を通してお語りくださいということも、
これも素晴らしい祈りです。
神様の前兆から、
ある一つ一つのプログラムを、
祈りもあれば賛美もあれば信仰告白もある。
この区分がありますよね。
世上無毒もあります。世虚もあります。
その一つ一つを自分の、
簡単な言い方であるかもしれませんが、
命を懸けて。
感謝して喜んで。
それをまことに私と思えですという思いを持って、
神様に捧げていく。
これが礼拝なんです。
ですから、たとえこの礼拝の途中で、
日々倒れるようなことがあったとしても、
私はこの礼拝のこの賛美に、
言葉が前に離れて、
ご縁になるかもしれません。
両極端になるかもしれませんが、
この一つに全部を捧げるというように、
命を捧げていこうというような、
そういう礼拝であるならば、
私たちの人生は必ず変わっていく。
さて、ゲス様は、
21:02
第一だけじゃなくて、第二のことも話されました。
立法学者の問に対して、
第一だけ答えればいいわけでありますけれども、
第二のこの否定も語られました。
どれが一番大切なんですかと言えば、
一つ言えばよかった。
けれどもゲス様は、
第一と第二を語られたということは、
この第一と第二を切り離してはいけない。
いや、この第一と第二が、
もう本当は一つなんだということを教えておられれば。
神様を愛していますが、
隣人を愛していないということはあり得ません。
もし、そういうことになるとするならば、
神様を愛している愛は本物ではありません。
言い換えれば、
私たちの目に見える隣人に、
どう接して愛しているかによって、
目に見えない神様に対する私たちの関係がですね、
映し出されています。
私は神様を愛していますよ。
素晴らしい。
けれども、目に見えるその関係の中で、
その人が神様を愛しているかどうかが分かっています。
もし、
他人との関係が気まずいとするならば、
実は、自分が勝手に作り上げた神様の姿を
愛しているだけかもしれない。
結局は自分自身を愛しているだけ。
でも、目に見える隣人との関係では、
そうはできません。
それは化けの皮が剥がれるということです。
その人が他人を愛しているかどうかで、
神様を愛しているかどうかが確実に分かっています。
さらに一つは、自分の好きな人、
あるいは好意を持っている人だけではありません。
好きな人を愛するのは、
自分の思い通りのことをしているのでありますから、
そこには葛藤はない。
神様への愛の印となるのは、
自分にとって好ましくない人、
嫌な人、
敵対関係にある人、
つまり自然には肯定あり、
愛することができない人を愛しているわけです。
24:01
神様は私の目の前に一人の人を置いて、
しかも自然に愛することができない人を持って、
愛することができないけれども、
信仰のゆえに愛していくときに、
神様を愛するということ、
人を愛するということが一つになります。
ただし、それは許すということかもしれません。
特に葛藤ではありません。
自分を愛するように敵を愛せない、
人を許す、
さらに人と交わる、
この教会では兄弟姉妹と交わる、
交わるという言葉は簡単なようでありますけれども、
すなわちそれは会話である、会話、
挨拶の会話である、
自分の意見を言い、また人の意見を言い、
そのコミュニケーションといいますか、
交流といいますか、言葉の会話です。
さて、立法学者たちも、
立法の中にはその二つの中心があるということは知っていますか。
いつも勉強していますから、
よく知っているわけです。
けれども論語読みのろくを知らずだ。
彼らはこの世に生きていません。
ですからルカの訓書15章を見るならば、
イエス様はあなたが言われたことは正しい。
立法の二つの柱があるということはわかった。
それはその通りだ。
じゃあ、その通りにしなさいとイエス様はおっしゃいます。
すると彼らは困ってしまいます。
そして困ってしまって、
イエス様に、私の隣人とは一体誰のことですかと、
自分を弁護するように引き返しました。
それは立法。
27:03
そのあたし政治は知っているけれども、
彼らは隣人を愛そうとしなかった。
ですからルカの訓書の15章を通して、
ジョーキー・サマリアン事例の例えば、
イエス様があるときに、
弟子たちが手を洗わないで食事をしていると、
会社人たちから非難されます。
非難されたときに、
あなた方は父母をやまえという立法があるのに、
お腹を使っている父母がそのパンを作れと言ったときに、
これはコルマン、
つまり神に捧げるお悩み物です。
と言えば、
もう父母にありなくて済むように思っていると、
そのような会社人は非難しています。
これは神様に捧げるものですか。
目の前に困っている両親がいたとしても、
それは助けにならない。
そんなことがあるでしょう。
神様を大事にするということを通して、
隣人である父母を
なりやかにしているというわけです。
安息日においてもそうです。
安息日は主なる神様をあがめる日です。
その日こそ心を尽くして、
精神を尽くして、思いを尽くして、
主なる神様を愛さなければなりません。
というのも、
イエス様はこの安息日に
手の悪い人の手を癒してあげたという記事が出ています。
理想学者たちは、
イエス様がその安息日に
手がない人を癒してあげたり、
労働していると言って避難したわけです。
安息日をせんと覚えなさいということを
拡大解釈して労働してはいけない。
けれども、その中で本当に苦しんでいる人がいるならば、
イエス様はその人を癒してあげる。
癒されない。
イエス様は安息日に善を行うのと悪を行うのと、
命を救うのと殺すのと、
どちらがよいかと言って、
彼らの心の固くなさを言ったわけです。
神様のみを愛していけばいいという
固くなな愛される人たちに対して
イエス様は怒りを含んで、
30:02
彼らを見回した後、返す。
さて、私たち清宮は、
神様の前で自分はどうであるか、
そういう関係を大切にしない。
神様の前で罪であるとか、
汚れがあるとか、
その清宮が引き詰めている。
でも、周りを見ていない清宮とは一体何なんだろうか。
清宮のみを結ぶということは、
外の関係の中で求めている。
私たちは、立法の中で、
ザイクスのいましめがけを守ろうとするときに、
私たちはどんどんどんどん
心が固くなり、
狭い心になる。
周りは寝てこなくなる。
では、もっと困っている人を助けよう。
あるいは、日曜日の礼拝式の日曜日も、
社会に出て行って、
社会活動をした方がいいんじゃないかと思われるかも。
でも、神様は、
まず、神様を恐れ勝ち込むこと、
まず、神の国と、神の利等を大事に求めることを要求する。
それはなぜでしょうか。
なぜでしょうか。
もし、私たちが神様を大事にしていないと、
結局はいつの間にか、
人間を神様にして、
あるいは自分を神様にして、
それを愛すると言いながら、いつの間にか、
人間を絶対化してしまうからです。
そして、神様に対する信仰を捨ててしまうわけです。
人間中心主義になる。
イエス様は、
第一のこと、第二のこと、
神様を愛すること、人を愛すること、
その二つが大切だと言います。
そのことをよく知っている立法学者たちに、
あなたは神の国から遠くないと、
その言葉は、私たちにも言えることです。
あなたは神の国から遠くない。
正常なことを知っている。
信仰経験もある。
いろんな知識もある。
33:03
素晴らしい。
けれども、
恵みに寄ってきた。
けれど、あなたは神の国から遠くない。
神の国から近いと言う。
でも、何度も言いますが、
遠くないけれども、近いけれども、
まだ私たちは到達していない。
そして私たち自身は、
自分が実現不可能であること、
その立法の大切さがわかることは知っているんです。
でも到達できない。
けれどもイエス様は、
あなたの目の前に私がいるでしょう。
私があなたに語りかけているでしょう。
私を信じ、
私に従って共に歩み、
私により頼みながら、
それだけがあなたにかけているのでは、
他のものは全部ある。
その欠けた部分を持つならば、
あなたは、
神の国に入っていくことができる。
到達することができると言われたわけです。
イエス様のご愛は、
私たちの罪を背負って、
10日にかかって死んでくださいました。
そのことによって許してくださるわけです。
イエス様はそれをかかってくださることによって、
神様の愛の中に引き入れようとしてくださる。
ですからあなたは神の国から遠くないと言われた。
どうぞ皆さん、
私たちは全存在をもって神様を愛することができない。
けれどもまずイエス様が、
神様が一人子になるイエス様をここに送って、
まず全存在をかけて、
愛してくださったのです。
イエス様に寄りすがりつつ、
心を尽くして、
精神を尽くして、
思いを尽くして、
力を尽くして、
そうなると神様を愛することができる。
その人を愛することができない。
あるいは許すことができない。
さらにはこの今日座れた方々の中で、
自分自身を愛することも、
受け入れることもできない人もいるでしょうけれども、
その私たちも、
イエス様は自由主義家の真理を持って、
許して、
36:00
受け入れて、
愛してください。
そのことによって私たちも、
自分を許し、
受け入れ、
そして愛し、
また隣人をも、
許して、受け入れ、愛することができる。
イエス様は物事をここで伝えているんだろうと、
私を愛してくださっている神様を愛し、
神様を愛してくださっている自分を愛し、
自分と同じように神様に愛されている隣人を愛して生きる、
この信仰へと導いていく。
ですから、
今日ここで学んだ中で、
ああ、私たちは持ち上げた。
ダメだ。
そこがいいんじゃない。
それゆえに、目の前に全てを出してくださるんです。
ですから、イエス様、どうぞ私を愛んでください。
立法のことは百も承知、
全てのことは、いろんなことはもう知っている。
けれども、そこに到達できない自分がいる。
けれども、その自分を愛して、
信仰によって到達させてくださるあなたの皆を崇めます。
どうぞ皆さん、
今日の神様の招きによって、
私たちは神の国じゃない、遠くない。
大丈夫です。
信仰によって神様が到達させてくれる。
一言を言いましょう。