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みなさま、おはようございます。今日からこのマルコの福祉書の6章が終わって、7章に公開が入ってまいりました。
この世界には様々な言い伝えや、敷き足りや、習慣があります。
けれども、その本来の意味が忘れられて、その形だけを大切にしていくような、そういうものが受け継がれてまいりました。
日本には、自信祭や役払いや、つい最近はこのお盆がありました。
数え切れない習慣や実施があります。でもその意味がわからなくて、何か形式的にそれを行っているわけであります。
キリスト教会においても同じであります。教会にも様々な行事があります。
みなさんは、今見ていらっしゃる礼拝順序の中で、
講読文や、あるいは信仰告白、招営や、様々なものが組み込まれています。
その一体何のためにそれをしているんだろうか。
ただそれがわからないと、順々にそれをこなしてしまうというような、形式的な礼拝になりがちであります。
けれども、その一つ一つ、ただ礼拝において、説教が礼拝ではなくて、その一つ一つの意味があり、
その意味を知って、私たちが神様に向かっていくならば、みなさんの喜びが、あるいは信仰があふれていくわけであります。
さて当時、ユデアの国では、集約聖書を解釈し、民主主義に教える立法学者たちがいました。
ところが、彼らは歴史の中で境界化して、まことに神様を信じ、まことに神様を愛していくという信仰がなくなってしまって、
ただ形だけのものが受け継がれていったわけであります。
そして形だけのものを多くの人たちに、あなた方はこれに従って来なさいよ、このような生活をしなさいよ、と言って、
この願辞絡めにしたわけであります。
さて、そういう中でイエス様は、その中で穢れと清めに聞いて、ずばり語られました。
さて、このところに繰り返されている言葉があります。
みなさん、聖書を見てください。
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8節と9節とこの13節、少しずつ表現が違いますが、語っていることは同じであります。
8節には、あなた方は神の忌ましめを捨ててと書いてあります。
9節には、ないがしろにしています。
さらに13節を見るならば、無にしています。
少しずつ違うのは、前文のG写語も違うからであります。
あなた方は捨ててしまった。どういう無にしていたのでしょうか。
神様の言葉を捨てるということは、あなた方の生活の中で、神様が言われることに聞かないで、ないがしろにしている。
あなた方の生活で、神様の言葉に従って当てはめていないんだ、という意味であります。
そして神様の言葉を信じているクリスチャンで、この13節にあるように、あなた方は、同じようなことをたくさん行っていると言いました。
すなわち、イエス様は、形だけの信仰ではなくて、命があふれる信仰生活があるように願っています。
神様が私たちに願っていることは、罪によって私たちが、神様から離れてしまった私たちが、神様との交わりに回復するということ、形ではありません。
一つ一つに命が通っていなければ、私たちは食い荒らされなければならない。
さて皆さんにお尋ねします。皆さんの今日のこの礼拝は喜びでしょうか。
何かワクワクするような感じがあって、神様を信じていくならば、というような楽しみがあるでしょうか。
もしそういうものがなくて、クリスチャンだから礼拝に来なければならない。
ちゃんと椅子に座ってですね、聖書を読まなければならない。お祈りをしなければならない。
ならないならないでですね、本当にもう形だけのクリスチャンになってしまう。
さて一つの例として、例えば食事前の手洗いであります。
確かに衛生的には手を洗うことは大切なことでありますけれども、
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彼らはこの清めの儀式をしてからでないと、食べることはしませんでした。
清めの儀式というのは、ただ手だけではなくて、手首もあるいは腕も洗うわけであります。
よく皆さんは日本の神社などに行くとですね、必ず口を注いでですね、手を洗って清めて参拝をします。
あるいはまたテレビでも見たことがないでしょうか、
イスラム教徒の方々がですね、礼拝するときにですね、
もうあちらこちらをですね、洗いながらですね、清めて礼拝をしている。それが儀式であります。
でもイエス様の弟子たちは、この清めの儀式をしないで、さっさと食べてしまったわけです。
すなわちイエス様は、人々の言い伝えはどうでもいいと言われたからであります。
これは大変なことでありました。
確かに手を洗うということは、衛生的で必要なことです。
でもイエス様は、儀式をしなくてもいいと言われました。
まことの意味は何でしょうか。
清宗の中には、そのような原始的な教えがあります。
例えば、ユダヤ人は清いけれども、日本人は汚れている。
ですから市場に行けばですね、自分たちが敬仏して差別していた日本人と接するから、
市場から帰ったときには、この体を洗ったというわけです。
私たちが考えるとおかしなことでありますけれども、そういうふうに考えていました。
それをイエス様がどのように壊しておられるのかを見ることができました。
だから人々はびっくりしました。
イエス様は何と言われたんでしょうか。
人は何を食べたって汚れるものではない。
人間の汚れは心の中から来るんだと言いました。
皆さんが思っている思いや考え、外に現れたらびっくり両手になります。
私もこのところで立っておれることはできません。
けれども、あなた方の心の中から生まれる思いや考えや、
それがやがて行動となって生活になり、習慣になっていく。
ですからそれが大切ですよ。
あなた方の口に入ってくるものは、そんなに大切ではない。
ですからイエス様は、食べるものよりも心をきれいにしなさいと言いました。
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是非たちは習慣に縛られずに自由な生活をしていました。
そういう中で何が神様に喜ばれるのか、何が神様に嫌われるのか、
そのことを知って、彼らは神様に喜ばれるような、そういう生き方をしていたわけです。
現代では表面的には軽々なクリスチャンのように、神様を恐れ、礼拝をし、
ある人は言います、先生、私は教会に行っています。
あるいは洗礼も受けました。聖書もよく読んでいます。
信心深そうに見えます。
けれども実はその心を見るならば、随分神様から離れている人がいるのかもしれません。
さてイエス様が喜ばれ、そこに神様の祝福が伴う生活は一体どんな生活でしょうか。
清め派に属している私たちの教会は、清めであるとか、あるいは自我の託殺があるとか、
洗礼の伐授がある、あるいは洗礼の満たし、あるいは人材振興、そういう言葉を使って語ります。
でも難しいことはわからなくても、その本質は何かと言いますと、
私たちは神様から離れてしまった私たちが、神様によって回復せられて、神様と交わりを持つものになった。
もし人が罪を犯しているならば、その分かったときに悔いを改めなさいと言いました。
私たちは知らず知らずのうちに罪を犯してしまいました。
私たちの思いや言葉において、またあるいは行動において、私たちは聖書を読むことによって成長します。
聖書を通してこれは神様が喜ばれることだ。あるいは反対にこれは神様の喜ばれないことだ。
聖霊が示してくださって、知らなかった罪に気づいたならば、神様ごめんなさいと言うわけだ。
さらに強められて成長していきます。それは私だけではなく、神様と同じ。
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皆さんが今日このところから帰って、家族と交わり、そして家族の中に本当に神様のご愛を伝えているか。
今は政権層に座っているけれども、本当に家族を愛して、家族のためにお金を使い、時間を捧げているか。
一人の青年がイエス様のところに訪ねたときに、イエス様は彼にいました。
彼はイエス様に尋ねました。
聖書の中で一番大切なことは何ですか。神様を愛するということ。
自分を愛するように人を愛することだ。これが立法の中心だと言いました。
私にはこんな賜物がある。こんなことができる。あんなことができる健康だ。大切な部分があります。
でもそれよりも大切なことは、皆さん自身がイエス様を愛しているか、いないかではないでしょうか。
そしてイエス様を愛して、今日の礼拝においても、その間際を喜んでいるだろうか。
それに聞かなくても一番自分がよく知っています。
ですからパウロは、どんなに素晴らしいものを持っていても、賜物や力があったとしても、山を移すような信仰があったとしても、イエス様に対する愛がないと、それは所詮無であると言いました。
聖書のことをたくさん知っているということと、神様の御心に生きていることは別次元であります。
さてここで注意しなければならないことは、言い伝えの中にも決して悪いものではないものがあります。
例えばクレッシャーに、私たちに与えまいと言うならば、イエス様の復活の日を記念して日曜日に礼拝と言います。
ある意味立法であり、言い伝えでもあります。大切でしょう。
けれども本当の意味は、私を愛し蘇られたイエス様が私たちを招いてくださる。
そしてそこで神様を礼拝し、そして御鼓動を聞き、神様と共に歩む。
ですからもし皆さんの礼拝がここで輝いていなければ、ただの立法主義者的な礼拝と同じであります。
毎週毎週、復活の朝、トマスがその集会にいませんでした。
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みんなが喜んで感謝しているのに、そのトマスだけが一週間、悲しみと不安の中にいた訳であります。
その次の日曜日にはトマスがいましたから、イエス様が現れてトマスに声をかけられました。
そしてトマスはそこでまた喜んで誓わされていました。
皆さんもそうなんです。本来の意味を忘れて、形だけの行為になっていくと危険なんです。命が通わなくなっていく。
奉仕も一緒です。献金もそうです。賛美も清算式もそうです。
その本来の意味を忘れると、ただ形だけになってしまいます。
そして自分はやっているけれども、その他の人はどうだという訳です。
皆さん、礼拝では上手に歌わなくていいんです。神様を喜んで歌うことです。
また祈りに上手下手はないんです。
このことは来週の修法の信仰生活の書法編で触れました。
真心から祈る祈りに上手下手はないんです。
人々が感心するような祈りをしたいと思う人はキースト帳書店に行ってみてください。
そこで売っている祈祷書を買って、そのまま祈ればいいわけです。
それを安置して祈るならば、すごい祈りだなと多くの人たちが言うかもしれません。
でも神様はその一人一人の心をご存知であります。
さて、このところで親孝行について少し触れたいと思います。
あなたの父と母をやまえ。また、父や母を罵る者は死刑に処せられるとこの10節で言っています。
皆さん親孝行をしておられるでしょうけれども。
そういう中で親を罵ったことがある人はいます。
お母さん、それでも母親かよ。お父さん、それでも父親かよ。
そういったことはないでしょうか。
罵ったら死刑になる時代があります。
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そう思うときに私たちはみんな死刑になるんじゃないだろうかと思います。
それほど大切に扱わなければならない。
でもこのような聖書の言葉に対して立法学者やパイサイ人たちは
親孝行するのはめんどくさいから。
10節に
父や母に向かって私からあなたのためにあげられるものは
コルヴァン、すなわち捧げ者になりました。
といえば、その人には父や母のためにもうやら何もさせないようにしています。
これは神様への捧げ者になりましたから。
両親のために尽くさなくてもいいと考えたわけです。
もっと言うならば、私は神様に控えているから。
その他のものは、親孝行もそうでありますけれども
小さいものだからしなくてもいいんだというわけです。
そんなことはありません。
確かに私たちは神様を愛して大事にしていくものであります。
だから家族はどうでもいいかというとそうではありません。
聖書を読んで
私は神様第一です。
イエス様も父や母を捨てて私についてきなさいと言われました。
だからもう私は面倒見きれませんからよろしくと考えてみればですね
実に馬鹿らしい理論が通用したわけであります。
この両親に対して大事に尊敬するとか
物の知らないばかりではなくてそれ以上に捧げてきなさい。
捧げてきなさいと言っています。
精神的にも肉体的にも
父親を尊ぶということは
年をとってきて自力では生きていけない
父親の面倒を見るということです。
自分の持っているもので
父や母に対して養っていくということです。
私たちは聖書の御言葉を読むときにですね
だんだんと心が重くなってきます。
頭が上がらなくなることがあります。
自分が裁かれていることに気づいてきます。
神様というけれども
あなたは両親を愛しているのか
両親を養っているのか
と問われるからです。
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私はそのことは大事だと思います。
私は以前
クリスチャンになるときに
両親から反対を受けました。
さらに新学校に行くときにはさらに
教会まで怒鳴り込んできました。
母は泣きながらやめてほしいと言いました。
父はせっかく大学まで行かせ
そして会社も就職しているんだから
今さらがまた勉強する必要はないだろうと
私の心の中では神様の言葉
あなたは私に従ってきなさい
という神様の召しの言葉と
あなたの両親を敬いなさい
大切にしなさいという言葉が
交差していくわけであります。
神様に従いなさい
両親に仕えなさい
どちらが大切なのか
どちらも大切です。
私は後ろ髪を引かれるように
新学校に行ったことを覚えています。
もしあの時に信仰を捨ててしまったり
新学校に行かなかったならば
私の家族は救われなかったでしょうし
私の信仰すらもなくなっていたと思います。
そして今の私はありません。
それは皆さんがこれから
さまざまな信仰と
この世との関係の中で
葛藤していく経験であります。
どう選択したらいいのでしょうか。
神様はその都度教えてください。
そして一番は
自分も両親も子供も
どうしたら救われるだろうか。
どうしたら神様の皆が
あがめられるだろうか。
悩みますよ。
皆さんの一番近くにいる者が
皆さんの信仰をよく知っています。
皆さんがどのような信仰を持っているのか
家族に聞いてみたらすぐ分かります。
牧師とか電動車は本当に貧しい生活です。
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両親に小遣いをあげたり
また何かを買ってあげたい
またどこかに連れて行ったりすることも
なかなかできません。
病気をしたらすぐに病院に行くということもありません。
なかなか田舎に寄生することもできません。
そんなとき子供として一体どうなんだろうか
と思うことはたくさんあります。
けれどもその世の中でできることは
いつも神様に祈り
私の家族が信頼し合って
喜んで
イエス様の安息の中に
歩むことができるように
と祈るくらいです。
そしてある時両親に聞いたら
両親もやがてイエス様を信じるわけですが
一番嬉しかったことは何ですか
と聞いたら
子供が喜んで生活している
神様を信じて教会に行っている
そういう状況の中であるけれども
それは横において
信じようが信じまいが
子供が本当に喜んで
家族で仲良く助け合って生活している
それが一番嬉しいんだと言いました。
そうですよね皆さん
親なる皆さん
本当に子供が幸せで生きているような姿を見るならば
これ以上の幸せなものはありません。
聖書の御言葉で
頭が上がらなくなります。
そして真面目な人ほど
真面目な人ほど苦しくなってきます。
でもこのことは何度でも言いますけれども
大切なことなんです。
この時に
イエス様がなぜ
十字架にかかってくださったかを
知ることができます。
イエス様は何のために来てくださったのか
私と神様との交わりが回復できるよう
神様の言葉を正式ではなくて
まことの回復のために
弱い私の罪のために
何にもできない私のために
あえて十字架にかかって死んでくださった
そのイエス様が
頭が上がらなくなる
何にもできなくなる
自分であるけれども
ふと上を仰ぐ時に
イエス様が私のために死んでくださったんだ
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そしてそこから感謝の言葉
さて十四節以降には
イエス様は本当の信仰とは何かということを
言っています。
本当の信仰をユダヤの人たちの中には
見出せなかったわけです。
ツロ地方のツロフェニキア生まれの人で
一人のリーシャ人が
イエス様のところにやってまいりました。
というのは幼い娘が
汚れた霊につかれていたというわけです。
イエス様に向かって
悪霊を追い出してくださいとお願いしました。
するとイエス様は
まず子供たちに満腹させなければなりません。
子供たちのパンを取り上げて
子犬にかけてやるのは良くないことですと
ずいぶんひどいことがお話されました。
ユダヤ人のパンすなし
ユダヤ人に与えられた恵みを
良人であるあなた方に与えることはできない
ところが女の子は答えていました。
主よその通りです。
でも子犬でも
食卓から落ちるパンくずは
いただけますと二重を言いました。
人イエス様そうまで言うのですかと言って
彼女の信仰を褒めて
この娘を癒した。
さて前の方にですね
はじめその彼女が
イエス様の元に行ったのは
娘が苦しんでるから
娘を助けてくださいという考えがありました。
けれどもやがて
イエス様との会話の中で
娘が問題なのではなくて
私を助けてください
と言って
自分に問題があるように変わってきました。
確かに娘の病が癒されることも
大切なことであります。
けれども一番は
彼女自身がイエス様の前に出て救われる
それが一番大切であるということを
イエス様によって教えていただいたわけです。
そしてそのことによって奇跡が生まれていました。
神様との関係の中で
自分は神様を愛しているだろうか
私は誠を持って
今日このところで
神様を恋愛しているだろうか
形ばかりの信仰ではないだろうか
と問わなければなりません。
親孝行においても
尽くすことにおいても同じであります。
尽くそうと思えば思うほどできなくなります。
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自分の足らなさ、弱さ
何も持っていない
それが分かってきます。
形式的なものは
すぐに化けの皮が剥がれていきます。
神様の恵みというのは
できないことができるようになる。
何もできないけれども
まことに神様の方を向いていくならば
イエス様がそこに奇跡を表してくれます。
ですから心から
主に感謝してみてください。
形だけではなくて
今日の恋愛を終えたというのではなくて
ここに主がおられて
復活の主が見ての抜き傷を示し
あなたの足らないところすべてを
本当に全部きっくるめいて
許して愛してくださった。
それを喜んで
そしてここを使わされてください。
どうぞ皆さんの信仰は
表も裏も
共感している時も
あるいは家で仕事をし
あるいは家族と交わっている時も
同じでしょうか。
それでは一言お祈りいたします。