1. 名谷教会
  2. 2015/09/27:聖日礼拝(旧音源)
2015-09-27 37:25

2015/09/27:聖日礼拝(旧音源)

2015/09/27 聖日礼拝(旧音源)




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それでは本日は、ヘルシークリティアライフ第4回目でして、
愛こそ最高の治療薬です、という題を持って、共に御言葉の恵みをお受けしたいと思います。
それでは、一文のようにですね、メッセージに入る前に、お互いに挨拶しましょうか。
ようこそいらっしゃいました。おはようございます。
ようこそいらっしゃいました。
はい、それでは一言お祈りします。
神は愛なり。
私たちは心から信じて告白し賛美しています。
そうか、愛の主よ。
ここに沿っている我ら一堂の上に、主の愛を知ることができるように、主よ愛を教えて。
また、私たちもイエス様の愛のように、主を愛し、また隣人を愛する者とならせて下さい。
御言葉に耳を傾けて、心を開いて、子供のように素直な心を持って受け止めて、そしてその御言葉に命令に従う者とならせて下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
はい、今日はですね。
愛こそ最高の治療薬です、という題です。
メッセージに入ってですね、まず、アメリカであった自治体のことを確かしますね。
アメリカのですね、CNNニュースで報道された不思議な愛の史跡がありました。
1995年アメリカでですね、双子、お姉さんの名前はカイル、妹の名前はブリエールという女兄弟が生まれたんですね。
ところが妹のブリエールは、生まれる時から体重も1キロもなく、心臓病、ひどい心臓病をかかっていたんですね。
それで当然、妹の心拍数や血圧や、あるいは呼吸が非常に危なかったそうです。
医療陣もですね、いろんな努力をしましたけれども、無駄でした。
それで急速に、生まれたばかりですからですね、急速に悪くなっていました。
ところがその医療陣の中にゲイルという看護師さんがいてですね、彼女が以前読んだ本の中で、ある治療の事例を思い出して、
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妹の姉のカイルをですね、インキュベータの中にいる妹の横に寝かせてみましょうという、そういう話をして、医療陣を説得して横に寝かせました。
ところですね、不思議なことが起きました。
この生まれたばかりの赤ちゃんですよ。こういうふうにですね、お姉ちゃんが本能的に自分の妹の肩の上に抱っこするようにですね、拍するように手を置いてずっといたそうです。
不思議なんですよね。これは本当に本能的な愛だったと報道しています。
それから奇跡が起きました。妹のブリエルの心拍数や血圧や呼吸がですね、もう正常値に戻ってきてですね、もう命が救われたそうです。
それでその後どうなったのか。こんなにですね、立派なお嬢ちゃんに育ったそうです。
皆さん、愛こそ血から命を作り出す最高の治療薬ではないでしょうか。
愛は皆さん、本当に死を乗り越えて命を救う神様が私たちに与えてくださった最高のプレゼントだと思うんですよね。
ところが皆さん、私たちが生きているこの時代、今日はいかがでしょうか。
子どもたち、あるいは青少年たち、青年たち、会社員、あるいは定年退職した人たち、あるいは高齢者たち、親や子ども、
みんなが一番願っているもの、欲しがっているものは愛であるかもしれません。
2015年、今からですね、100年前より私たちの生活は確かにとても便利に豊かになってきました。そうなんですよね、皆さん。
交通手段もとても発達して、生活水準もとても高くなって、日本人の寿命は世界最高であって、
このようにですね、いろんな生活や経済、文化はとても便利になって豊かになってきましたけれども、
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人間の精神はそうではないのではないでしょうか。
いわゆる社会学者たちは今日のこのことを指してですね、精神の荒廃の時代と言われます。
その例で、皆さんよくストレスという言葉を使っていますよね。
皆さん、ストレスという言葉、いつからそれが使われたのか、皆さん知っていますか。
調べてみたらですね、ストレスという言葉が生理学的に用いられたのは、もう短いんですね。1936年からだと。
その前までは、いわゆる物理学で物体に圧力を加えると、それで油断が生じる、そういう現況、ストレスという物理学で使われた言葉が、
1936年、カナダのある学者がですね、ハンズという学者が、そのストレス学説を発表してから、多くは生理学的にその意味で用いられた。
それほど、昔じゃなかったストレス、昔じゃなかった鬱病とか、様々なものが現在に入って通ってきたのではないでしょうか。
でも皆さん、なぜこのような社会になっているのでしょうか。
いや、その質問より、何がこのような人間のこの精神の荒廃を根本的に解決することができるのでしょうか。
その答えは、ただ愛、他にはないと思います。
まずは、人と人の間のその愛を、実は私たちはみんな必要としています。
愛を欲しがっているんでしょうか。
それぞれ度合いや形や姿は違うかもしれませんけれども、実はみんなが愛を欲しがっているのではないでしょうか。
妻は夫の愛を欲しがって、
夫は妻の愛を欲しがっていますし、
子供は親の愛を欲しがっていますし、
親も子供からの愛を欲しがっているんですね。
生徒たちは先生からの愛を願っている。
信徒は牧師から愛を願っている。牧師も信徒からの愛を欲しがっている。
そう思いませんでしょうか。
あとは、こう申し上げますとある人々は、
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愛なんてそんなのいらないと言われるかもしれません。
ところが、そのように言われる人であればあるこそ、実は一番愛を願っている人だと思うんですね。
ただそれを隠しているだけだと思うんですね。
今日の人々はみんな、実は本能的に、霊的に、愛を必要としているんですよ。
アメリカのある皇帝であったエピソードです。
一人のハンジがいました。
とても真実な栗さんのハンジでした。
そしてこのハンジはですね、主にいわゆる青少年犯罪の裁判をよく担当していました。
ある裁判のことでした。
万引きのことで何回も捕まえられた、16歳の亀ですけども、マイセルという少年でした。
このマイセルのお父さんはアルコール中毒でもしょっちゅう息子をぶん殴っていました。
ところがこのハンジさんは変わったような判決をしたり、そのプロセスがあるんです。
そのハンジさんは裁判でお父さんに一枚のペーパーを渡して読んでくださいと。
読んだらですね、そこにこういうふうに書かれている。
マイセルはあなたを愛しています。
そしてあなたの息子マイセルは毎日このように心から叫んでいます。
お父さん、私はお父さんの愛が好きです。
それからですね、このペーパーを読み終わったら、今度はそのマイセル子供にですね、
こういうふうに十回大きな声で言ってね。
お父さん、お母さん、愛しています。
それを言うようにします。
そしてお父さんには、その奥さんや子供の名前を読んでですね、
パパが悪かったら許してほしいと、そういうふうにも言わせるんですね。
そこにいたそのマイセルの家族をみんな抱きしめても涙をする。
そこにいた、法廷にいたみんなの目頭が熱くなってくる。
その後、あのマイセルは不良児からも全く変わってですね、
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そして家族の愛も本当に回復するようになったそうです。
このような裁判を、この判事は、逆子供をですね、その青少年たちを今まで6000名ほどの裁判をして、
彼はこのような形で不思議な裁判をしていました。
彼はこのようにお話をしていました。
その子供たちのお話をよく聞いてみますと、とても心がつらかったです。
この青少年犯の中ではほとんどの子供たちが食べるものがなくて、
自分を面倒に見てくれる家族がいなくて、
愛を受けたことがなくて、それで犯罪を犯してしまうケースがほとんどでした。
このように判事さんは、刑罰のための刑罰じゃなくて、
その子供たちが、青少年たちが家庭や社会に戻って、
政治的に生活して愛のうちに育つように、そういうふうに助けていたんですね。
そうするとですね、10年20年経って、
そのあの時の犯罪者だった子供たちが立派な家庭を持って、素敵な家族を持ってですね、
その判事さんにお礼に来ることがよくあるそうです。
皆さん、今日の私たちは、みんな愛を必要としています。
そのためにはまず、家政での愛の回復が最も大事です。
家政の回復は一言で言うならば、それは愛の回復ではないでしょう。
失った愛、錆びてしまった愛、凍ってしまっている愛、
いつの間にか高くなっている関係の壁、
その失った愛を取り戻して、凍ってしまった心が溶けて、
高くなっている関係の壁を壊して、そこで愛の回復が起こらなければなりません。
皆さん、信仰と私たちの信仰と人格は全然別のものではありません。
一体です。一つなんです。
ですから、愛に関係に人格にもし少しでもひびが入っているならば、
神様から受けた愛あるいは恵み、喜びは、
そのひびから恵みも喜びも漏れても、
まるでですね、皆さん、ひびが入っているパケットに水を注いでおいても、
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ちょっと経ったら漏れてしまうんですよね。同じなんです。
我々の信仰と人格、恵みと人格はもう一体ですから、
見言葉によって、祈りによって恵みを受けました。
しかし、もしも家庭であるいは関係の愛という部分にひびが入っている、
そしたら神の恵みがそこに漏れてしまうんです。
ですから皆さん、私は神様から恵みを、愛を受けるとと同時に、
そのひびから漏れることがないように、それを直さなければならないんですよね。
これが受けた恵みを保ち続ける方法なんです。
皆さんいかがでしょうか。
もし皆さんにはひびが入っているところはないでしょうか。
もしも少しでもひびが入っている部分があるならば、
家様の御前に来て、指令をして求めましょう。
主よ、この部分を直してください。
そういうふうに直してやっていただこうではありませんか。
決してですね、人のことのように傍観してはいけないじゃないでしょうか。
ですから、教会はこのように愛を必要としているこの時代に、
神様が立ててくださった唯一の希望であり、唯一の希望なんです。
教会がなぜ教会なんでしょうか。教会はどういう役割を果たすべきでしょうか。
教会は愛であり、教会は愛でなければなりません。
クリーチャンは愛であり、クリーチャンは愛そのものでなければ、
1-1はゼロなんですように。
教会から愛を引くと、実は何も。
クリーチャンから愛を引くと、何も残らない。
皆さん、これが本当の教会とクリーチャンの姿ではないでしょうか。
このようにみんな愛を求めています。
愛を必要としています。
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その人々を愛して、根本的に彼らの人生を救うことができる場所は、
ただ教会、イエス・キリスト、他にはないことを、
私たちは愛をもってそれを示していくこと。
これが信仰ではないでしょうか。
なぜ教会がこの時代において唯一の希望なんでしょうか。
それは神様が愛であり、
愛の神様がその最高の愛を自ら実践して、
私たちにその愛を注いで教えてくださったからではないでしょうか。
ですから皆さん、私たちは神の愛をいただきまして、
人々を愛して、
だから教会はこの時代において唯一の希望なんです。
では皆さん、こういうことを想像してみてください。
病院ですけれども、患者さんばかりいて、
看護師もお医者さんも一人もいない病院。
家なんですけれども、生まれたばかりの赤ちゃん10人いて、
お兄ちゃん、お姉ちゃん、お父さん、お母さんもいないお家。
考えたくない光景なんですよね。
またこれはどうでしょうか。
さあ、3つのうち1つを選んでみてください。
どんな病院がいい病院でしょうか。
1、患者さんが一人も来ない病院。
2、患者さんが多いんだけれども治療できない病院。
3、患者さんが多くてみんな治って退院する病院。
皆さんが病気になったらどこの病院に行きたいでしょうか。
患者さんが一人も来ない病院に行きたいでしょうか。
患者さんはたくさんいるんだけれども、一人も治療できない病院に行きたいんでしょうか。
そうではないですよね。
患者さんがもう大勢来るんだけれども、みんな治って、
うれしい顔して退院する病院に自分やあるいは家族を入院させたいんですよね。
境界も実は同じなんです。
どんな境界が健康な境界なんでしょうか。
どんな境界がヘルシーな境界なんでしょうか。
実は心に病んでいる人々、あるいは弱さを抱えている人々、
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愛を必要としている人々、
そしてそのような人々だけではなく、立派な大人の信者があって、
愛することができる、ケアすることができる、フォローができる信者がいる境界が、
実は健康な境界なのではないでしょう。
先ほど例えて、そんな方はいないと思うんですけれども、
赤ちゃんばっかりいると大変なことになるように、
境界でも赤ちゃんのような信徒さんもいていいでしょう。
当然、拝聴してほしいですし、その人々が信徒が成長、成熟して立派な大人のクリスチャーになって、
神の愛に満ちあふれた信者になって、また弱っている赤ちゃんのような信徒をケアして、
フォローして、愛して、お世話する境界が、
実は神様が願われる境界ではないでしょう。
イエス様はこう言われました。
私は健康な人のために来たのではない。
病人のために弱っている人のために、この地に来たのだと、イエス様が言われました。
弱さを抱えている人々が癒やされる境界、
魂に弱さを抱えている人々が癒やされる境界、
愛を引き落としている人が来て、本当に愛されて、それによって快くされて、
その人が愛することができる信徒に成熟できる境界、
それが皆さん、ヘルシー境界ではないでしょう。
私は僕一つ言って、
ミョダニー境界がこのような境界になったらいいなと、
いや、ならなければないと考えていました。
霊肉が弱っている人々、
愛を引き落としている人々、
あるいは、とても霊も心も体も健康な人々が境界に来て、
支え合う境界、一つになる境界、
そしてみんなが立派な、居得のような信者になるヘルシー境界になったらいいなと願っています。
どんな人が来ても、さらにさらに健康になる境界、
癒やされ、回復され、自由の御徒され、
美女をいただいて、夢が表示できて、生きる意味が分かってきて、
死のために生きるクリスマスでありたい。
今日午後、今井館にお見えになるその次先生の境界は、
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今回は先生たちが主に来ましたけれども、
その先生たちが2年前、3年前、4、5年前は、
ほとんど不良児みたいに、社会的にも学校にも行けない子どもたちがほとんどだったそうなんですね。
ところが、その先生は本当に奥様共に、
共同生活するように、愛を持って、養って、育てて、
愛して愛して、晴れやかで立派に変わって、牧師になりたい、選挙金になりたい、立派な仕事を持つようになって変わっているという明かしを、
昨日のことを分かって明かしをつけました。
皆さん、それが実は健康な境界なんです。
この資料において、みんな諸国のような信者ばかりいる境界は実はありません。
天国にはあるかもしれませんけど、
天国には境界はいりませんから、信者にはない。
みんな一緒に、妙大に境界が霊も肉も人格も成立した境界、
そのためにみんなが支え合って、手を取り合って、
使いながら、祈りながら、歩んでいきたいと思うんですね。
皆さん、よくご存知の香川豊子先生のこと、皆さんご存知でしょうね。
その先生がとても貧しい新学生のときだそうです。
たぶん1920年頃だと思うんですけれども、血格を患っていました。
当時は血格という病気は伝染病みたいな病気でありますから、みんな避けて一緒に暮らさない、隔離をさせられた時代。
ところが、この香川先生が新学生のときに、長男という先生の、
その先生もとても貧しい牧師の家庭で、そこでお世話になったそうなんです。一緒に暮らしました。
その長男先生もとても貧しくて、子供も大勢いたそうです。
でも、にもかかわらず、その血格に患っているこの香川先生を、
新学生なんですよね。自分の家に受け入れて、何にも食べられない彼のために、食事や会合をして、ずっと面倒を見てくれた。
その香川先生が立派な新学者になって、特に貧民救済の働きをよくされたという、それを本屋だけ読みましたけれども。
このように皆さん、愛は言葉ではなく、アクションなんですよね。行動なんです。行いなんです。
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正座を一か所開きましょう。
ヨハネの福音書15章13節。新学生書のヨハネの福音書15章13、17節です。212ページです。
まずは13節一緒に見ましょうか。ヨハネの福音書15章13節。212ページ。よろしいですか。
13節一緒に見ましょう。
人がその友のために命をしているという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。
17節も一緒に。
あなた方が互いに愛し合うこと、これが私のあなた方に与える今使命です。
そうなんですよね、皆さん。
ところが、誰よりも私たちにその愛を身をもって実践してくださった方、それが神様でありイエス・キリストです。
今日の歌詞を7節と8節をもう一度一緒に読みたいと思います。
第一ヨハネ4の7節、8節です。
ご一緒に。
愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。
愛のある者は皆神から生まれ、神を知っています。
8節も。
愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
はい、皆さん、そうなんですね。
ですから皆さん、愛はクリスチャンの生き方であり、いや、生き方でならなければなりません。
他のものはないと言っても囲んではないと思うんですね。
ですから、教会が愛である理由、クリスチャンの生き方が愛でならなければならない理由は、
私たちの内に神の愛、イエス・キリストの愛があるからです。
そして私たちはイエス・キリストの愛の中にあるから、留まっているからなんです。
私は特に趣味をあまり持っていませんけれども、一つ言うならば、あえて言うならば温泉が大好きなんですね。
日本に来てますます好きになりましたけれども、温泉の中でも源泉流しの温泉が好きなんです。
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オリジナル源泉水をそのまま使っている温泉、皆さん知っている、いいところがあれば紹介してください。
皆さん、イエス・キリストの愛は源泉流しのようなものです。
渇くことのない愛の源泉、限りのない愛の源泉なんです。
私たち、本当、教会が愛の生徒になる、愛に満ちる教会になるためには、
どんな人が来ても癒されて、愛されて、回復されて、みんな成熟して、神の恵みを体験するには、
まず、この変わることのない、渇くことのない、限りのないこの源泉水のようなイエス・キリストの愛の中にとどまり続けること。
そして、その愛をあふれるほど受け続けることなんです。
聖書1ヶ所を開きましょうか。ガラテア2章20節。ガラテア人への手紙、2章20節。
366ページです。ガラテア人への手紙、2章20節。
ここも一緒にお読みしましょうか。
私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる神父によっているのです。
ここにですね、今私が肉にあって生きているのは、私を愛しとありましたね。
私を愛する、つまりはどんな愛なのか、ご自身をお捨てになった愛。
その信仰によっているのです、という言葉なんですね。
つまり、イエス・キリストの愛にあって私は生かされているということです。
本当にそうなんです。皆さん、私はイエス・キリストの愛によって生かされているんです。
そして、また周りの家族や兄弟姉妹たちの愛によって支えられているのではないでしょうか。
ところが皆さん、私たちは根本的に、人間は愛を自ら作り出すことはできません。
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人間の意志や決断には、それによる愛には限界があると思います。
人を愛するにも限界を感じる。
自分を施すにも限界がある。
許しにも限界がある。
同情するにも限界があるんですね、実は。
だからといって、これは罪というものではなく、これがそもそも我らの姿なんですよね。
しかし皆さん、イエス・キリストは、神様はもう愛そのものであられますから、誰から愛を受けないと愛せない方ではないんですよね。
永遠に人類70人を同時に永遠に愛せることができる方がイエス・キリストである。
しかし私たちはそうではありません。
だから、ヘルシー・キリシャンは、ヘルシー・チャーチは、イエス様のその愛のうちにとどまることです。
そこでイエス・キリストの愛をあふれるほど受けることです。
ヘルシー・キリシャンは、愛せよ愛せよ、愛せよ愛せよ、がんばる人ではなく、イエス様のかけぎりのない愛のうちにとどまり続ける人なんです。
そうすると、イエスの愛が自分の愛になるのです。
イエス様の愛が自分のものになりますと、イエス様の愛によって人々を愛せるようになる。
イエス様の愛が自分の愛だからその愛によって人々を生かす。
イエス様の愛をもって人々を癒す。
イエス様の愛をもって人々をケアすることができるようになる。
そうでなく、努力で、意気で、決心で、愛しようとしますと、しばらくは続くかもしれませんが、いずれにしてもその愛が尽きてしまうときが来るんです。
そして、我慢できなくなってしまうんですね。
ともに自分にも、自分としての愛は限界があるなと思って、子供のために我慢しよう、我慢しよう、愛せよ、愛せよ、思っても、
時には爆発までは来ませんけれども、あるんですよね。
だから、イエス様の愛のうちにとどまり続けることが大事。
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ヨハネの福音書15章9節を開きましょうか。
ヨハネの福音書15章9節。
さっきの212ページですね。ヨハネの福音書15章9節。
この御言葉を読みまして、今日のメッセージを終わりたいと思います。
一緒に読みましょう。
父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。アーメン。
この最後の御言葉を心にとめていてほしいです。
私の愛の中にとどまりなさい。いつまでも私の愛の中にとどまりなさい。
愛する皆さん、イエス様のこの渇くことのない愛、限りのない愛の中にとどまりましょう。
そして、イエス様の愛が皆さんの愛になってほしいんです。
イエス様の愛こそ最高の治療薬です。お祈り申し上げます。
37:25

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