1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/09/22:聖日礼拝(旧音源)
2013-09-22 55:23

2013/09/22:聖日礼拝(旧音源)

2013/09/22 聖日礼拝(旧音源)




00:01
みなさんに祈っていただいて、先週は、小国教父の先生方と青年たちと21人が、近土日です。
プサンの、かつての八犬教会の、スヨンの教会で、献師を持たせてもらって、たくさんの恵みをいっぱい浴びてもらって、無事帰ってきました。
続いて、10月13日、14日にも、一泊剣士会の分かち合いがありますし、今回もらった恵みを生かしていきたいと思っておりますので、
教区の青年たちの信仰のせいとのために、それぞれ教会の青年会とかのリバイバルのためにも、祈っていただけたらと思っております。
お祈り、ありがとうございました。
では、今日も、隣の方々と挨拶をしたいと思いますので、握手をしながら挨拶をしました。
よくいらっしゃいました。ありがとうございます。
では、一言お祈りいたします。
恵みを引きたい天皇父親様、今日も私たちに、主が新しい一日を譲ってくださった。
また、主の宮に、主の民を、民様が集めてくださったことを、心から感謝いたします。
今日も、主を愛して、心から礼拝する兄弟姉妹のこの礼拝を、どうぞ喜んで受け取り下さいますように。
それから、賛美の中、御言葉の聞く中、祈りの中に、天の扉を開いて、我らに、この群れの上に、主の恵みを豊かに豊かに注いで下さいますように、お願いいたします。
このものは隠して、神御自身が、私たちにお語り下さいますように。よろしくお願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン
はい、今日は、使徒信条のシリーズメッセージ、9番目です。
私が信じるのは、我は聖なる行動の教会を信ず、という題です。
日本の言葉にですね、出る杭は打たれる、という言葉がありますね。
03:05
少し変わっている人が入ってきたり、あるいは周りから見て、ちょっとでも目立ったりすると、たちまち打たれる、ということですけれども。
それでですね、日本では、みんなと一緒、という傾向が強いではないかなと思うんですね。
こんな状況があります。大きなクルーズがですね、事故にあいまって、沈没しそうです。
船長さんが、そこに各国のお客さんがいてですね、乗客を海に飛び込ませるためにですね、それぞれの国のお客さんに何と言うか、ということですけど。
アメリカ人には、飛び込むと疲労になりますよ、ドブンと。
ドイツ人には、飛び込むのが規則ですよ、と言われたら、みんなドブンと飛び込むそうです。
イタリア人にはですね、何と言うんでしょうか。
飛び込むと女性にモテますよ、ドブンと。
日本人には何と言うんでしょうか。
みんな飛び込んでますよ、そうです。
誰が作ったのかわかりませんけれども。
私は牧師ですから、このような日本人の傾向を信仰に適応してみました。
2つの教会があると聞きました。
A教会は、大抵の信仰の水準も熱心も法師も適当にしている教会です。
そうすると、必ずしもそうではないかもしれませんけれど、大体みんな低い水準でずっと行く稽古があるんですね。
誰かが、一人がですね、熱心にですね、祈りとか法師化をするとしたらですね、
ほどうとしなさいよ、ストレスをくれないで。
で、良い信仰を持とうとする杭を打ってしまう。
それでみんな平均信仰のレベルが引き下げてしまう。
B教会があります。
みんながなかなか熱心です。
祈りも法師も礼拝も本当に熱く誓い求めて礼拝する。
力意図に捧げる教会があるとしましょう。
その教会のレベルが、平均レベルが高いですね。
その教会に新しい信者が入ってきたとしましょう。
そうすると、周りのみんなが熱心なんですね。
熱心に法師として、熱心に祈って、熱心に礼拝を捧げていく。
06:02
そうすると、周りがみんな熱心だから、
自分も熱心にしなきゃ。
サボったら打たれると思う。
みなさん、みんなと一緒という傾向は、
教会全体の進行に良い影響も及ぼすことができますし、
良くない影響も及ぼすことができます。
一人一人が礼拝を熱くしたい、求めて礼拝を捧げる教会。
一人一人が伝道にも法師にも祈りにも熱心に祈る教会。
一人一人が死のためなら、本当に熱心に礼拝する教会。
そうすると、みんなが教会全体の進行もレベルが上がるんですね。
だからみなさん、自分一人一人の進行も姿勢がとても大事なんです。
自分が熱意を持って礼拝したり、法師をしたり、伝道したり、祈ったりしたらですね、
周りも熱意を持ってそうなれるんです。
特に日本はそういう敬意が強いですね。
以前、福岡教会にある婦人が新しく信者になったんですね。
その方と親しい2,3人がいたんですけどね。
彼女たちは、いつも講壇から見たら右の一番後ろに座るんですね。
そうして、賛美の中でも祈りの中でも楽しくおしゃべりするんですね。
新しく信じた彼女も、彼女は少し親しいから、いつもそこに座ってるんです。
いつも喋ってもいいかなって、一緒に賛美の中でも喋ったり、メッセージの中でも喋ったり、周りから影響を受けてしまったんですね。
皆さん、教会という神の教会は、もちろん一人一人一人の婦人がありますけれども、
それが組み合わさって一つの体になるんですね。
エペゾーション、御言葉にもあるように、
イエーサマーカフィラーであって、私たちはみんな一つなんです。
皆さん、眠っていたら、足がいくら歩きたくても歩けないんですよね。
手で何か持とうとしても持てないんですよね。
目が開いていると、足も手も体も自由に動けるんです。
09:05
私たちはみんな一緒にあって一つである。
そしてお互いに信徒の上に立って歩むこと、それが教会なんです。
そういう意味で今私たちが学んでいるこの使徒信条は、
栗ちゃんの信徒の物差しであり基準なんですね。
ですから私たちが告白しているこの使徒信条のように生きる栗ちゃんであればいいです。
この使徒信条はすでに英理100年ものから教会で使われた信条なんですね。
今日はその中で教会とは何なのか、
それを共に御言葉から教えていただきたいと願っています。
皆さんの知り合いの栗ちゃんの誰かから教会って何ですかと聞かれたとしました。
そうしたら皆さん何と応答するんです。
それぞれお答えがあるかと思いますけれども。
この福音書の中を見たらこの教会という言葉はただ2回出てくるんですね。
それが今日の16章の18節、それから18章の17節2回です。
皆さん、教会というと何を思い浮かびますか。
東海道ではないんですよね。あるいは礼拝の後継でもないんですよね。
今日御言葉から教会の本質を教えて学んでいきたいと思っております。
まず18節をもう一度一緒に読みたいと思います。18節です。
では私もあなたに言います。
皆さん、教会は誰が建てますか。
教会はイエス・キリストが建てます。
12:00
ですから教会の創立者はイエス・キリストなんですね。
私たちは創立じゃなくて設立なんです。
創立はイエス・キリスト。
教会を建てられる方もイエス・キリストです。
その教会を保ち続けられる方もイエス・キリストです。
そして終わりの日にこの教会時代を完成して終了させる方もイエス・キリストです。
では皆さん、明太に教会は誰が建てたんでしょうか。
イエス・キリストです。
イエス様が皆さんを用いられて建てて下さいました。
ですから主体はイエス・キリストなんですね。
地上のすべての教会はイエス・キリストが建てられました。
聖書1ヶ所を見てみたいと思います。
エペソビトの手紙1章22節です。
新学生書374ページ。
エペソ書第1章22節。
では一緒に読みたいと思います。
また神は一切のものをキリストの足の下に従わせ、
一切のものの上に立つ柱であるキリストを教会にお与えになりました。
教会の柱はイエス・キリストです。
イエス様が教会の柱。
ですから教会は私たちは誰に従いますか?
イエス・キリストに従います。
そのイエス様の御言葉に私たちがこの真理を覚えていただきたい。
ですから皆さん、教会は究極的に使徒が建てるわけではありません。
対策メンバーが建てるわけでもありません。
建築献金で建てるわけでもありません。
神の教会はイエス・キリスト御自身が御自分の御心にかなって教会を建てられるということです。
15:05
この真理を私たちがいつも覚えておれば、
この私たちは謙遜でありますね。
柱はイエス様です。
牧師でもありません。
開拓メンバーでも役員でもありません。
教会の柱はイエス・キリスト。
そして権威ある御言葉だけがあるわけです。
それを覚えると、私たちは教会の中でいつも謙遜に、
自己主張をするのではなく、
お互いに従い合う、支え合う、祈り合う、
そして柱であるイエス・キリストにお仕えする教会となります。
どんな教会が皆さん幸せな教会でしょうか。
自己主張の人々が集まって100人、1万人であっても、そこは幸せないんですよね。
幸せない教会。
いったいあるイエス・キリストのこの権威に、
みんなが謙遜になって、従って、
お互いが謙遜に従い合う、支え合う教会が幸せな教会なんですね。
妙大に教会がそのような教会であった人、そう願っております。
その次、2番目としては、
教会を何の上に建てるかということです。
18節を私がもう一度お読みしますと、
私はこの岩の上に私の教会を建てます。とありますね。
イエス様が岩の上に教会を建てる。
そしたら教会を建てるために、でっかい岩盤が必要なのか。
そうではないんですよね。
18節のこの岩というのは、
16節のペテロの信仰の告白をさせます。
どういう意味かと言いますと、
13節から読んでいただきましたが、
イエス様がデヒパシとピリポカイザリアという使用に行かれたですね。
イエス様が、デヒパシにこうさせないと言われました。
あのさ、人々は私のことを誰だと言っているの?とさせないわけですね。
そしたら、デヒパシはですね、
もうイスラエル中を回っているわけですから、
多くの人々からいろんな話を聞いているわけなんですね。
18:00
先生、パプテスマの両目だと言っている人もありますし、
ある人はエリアだと、ある人はユベンガだと、エレーメアだと、
そう言っていますよ、と答えたんですね。
そうしたら、イエス様が今度は、
15節、あなた方は私を誰だと言いますか。
さあ、他の人がエレーメアとかヨハネラとか、そう言っている。
そう、結構。
そうしたら、あなた方は私を誰だと言いますか、とお尋ねになりました。
その時にペテロが16節、答えたんですね。
あなたは生きる神の巫女、キリストです。
イエス様が自分にとって、どなたなのか、ペテロはよく知っていました。
信じていました。
あなたは神様です。神の巫女です。救い主です。
この三つの信仰が、この一文に入ってあるんですね。
神です。生きる神です。神の巫女です。
キリストは救い主という意味ですから、あなたは救い主です。
という信仰がこの中にあるんですね。
その話を聞いて、イエス様は、
では、この教会を、私の教会を、その信仰の上に建てる、というお話です。
皆さん、教会は建物でもなく、制度でもなく、組織でもあります。
もちろん、組織も建物も必要です。
しかし、本質的、究極的に教会を建てるためには、信仰がなければ、ペテロのような信仰がなければ、教会は存続できません。
教会は、皆さん、ペテロのように、イエス様に対する信仰を告白する人々が集まります。
今の時代の私たちは、日本とかはですね、特に目に見える博売がありませんから、
この人を信じようですね、どこで自分が告白してもですね、博売される、そういうことはないんですけれども、
この諸外時代含めて、今も宿題中のその国々では、この人信条を告白するということは、
もう、今この状況で自分が信仰を告白して、捕まえられて、処刑されても、私はいい、という覚悟のもとで告白すること。
21:14
これが人信条なんです。
ですから皆さん、教会の成立、存続、成長において、最も重要なことを一つ選ぶとするならば、信仰なんです。
信仰がなければ、ある期間は持てるかもしれません。
しかし、信仰がない教会はいつの、いつかになると、教会は後もなくなくなってしまう。
アメリカにある一つの教会があります。
皆さん、ご存じかもしれませんけれども、クンチャル・タークというロバーツ・シューダーという牧師が勃開していた教会があります。
アメリカで楽に恋愛するために、ドライブイン教会が始まります。
広い駐車場があります。
それで、車に乗ったまま駐車場に泊めて、その中でラジオで牧師がメッセージをついて帰る。
教会の外観がクリスタルになっているんですね。
ある一時期、1980年代に、あの教会はものすごい勢いで成長しました。
何万人の群れが集まる、群衆が集まる教会、世界から注目を浴びる教会でした。
みんなが真似をしました。
こうしたら成長できるんだ、こうしたら成長できるんだ、みんな真似をしました。
しかし、残念ながら、このロバート・シューラー牧師のメッセージは、
信仰を教える、キリストの十字架の福音を教えるのではなく、ポジティブ信心を教えていました。
不可能はない、不可能はない、こうしたら幸せになる、こうしたらできるんだと、それをものすごく教えていました。
私も大学生のときに、不可能はないというロバート・シューラーの本を何度も読んだことはありますけれども、
今はあの教会はどうなったのか。
何年前か、大きな腐敗を返すことができなくなって、悪立ちになって、教会は閉鎖してしまった。
もう建物はあるんですけれども、息子さんが引き継いだんだけれども、やっていけない状態になってしまったわけです。
皆さん、それほど信仰が最も重要なんです。
皆さん、お一人お一人の信仰がこの明太に教会を建て上げていくんですよ。
24:04
皆さん、お一人お一人の信仰は自分一人で終わってしまうのではなく、皆さん、お一人お一人の信仰が皆様の建物の信仰を建て上げる。
皆さん、お一人お一人の信仰がこの明太に教会の信仰を建て上げていく。
それをぜひ覚えていただきたい。
ですから皆さん、この信仰をよくよくしっかりと知ることは、まるでビルを建てるときの基礎工事、基盤工事と同じです。
ですから皆さん、信仰を建てていくときに、手抜き工事をしてはいけない。
手抜き工事がどれほど大きな事故を起こした、一つの例ですけどね。
1995年でした、韓国であったある撤退デパートが一瞬に崩壊してしまって、なんと501名が死亡して、900何人かが怪我をした、もう大惨事があったんですね。
原因は手抜き工事です。
基盤工事も柱もですね、例えば10本あるはずなのに5本しか建てない。
そして大丈夫、大丈夫、大丈夫、お金を儲かっているし、もうソウルですね、一番ど真ん中にあってですね、お金を結構儲かっていました。
しかし、基盤工事、柱工事、官員を手抜きしてしまって、ないがしろにしまって、
あの日もですね、それも今日は営業休止して、しばらく休止して、それを建て直しますという意見がありましたけれども、
オーナーさんは、もういい、大丈夫、大丈夫、一日休んだらものすごい損しているから大丈夫、やれ。
それで一瞬に崩壊してしまった。
オーナーさんはですね、それで破産してしまって、あの月はですね、後もなく亡くなってしまった。
皆さん、このように基礎工事はとても重要なんです。
勤労の工事もとても重要なんです。
来週は、妙谷教会の設立29年の本当に素晴らしいお祝いの出会いです。
今まで皆さんが色で捧げられて、そして教会を立て上げてまいりました。
27:05
今からが最も大事です。
どういうふうに一人一人の勤労の工事をしっかりとして、教会の勤労をどういうふうに立て上げていくか、これからが大事です。
ですから教会は皆さん、信仰も共同体です。信仰の共同体です。
ですから一人一人の勤労が大事なんですね。
もう言うまでもなく、牧師の信仰が大事です。
役員の信仰、すべての教会員の信仰が良くなければならない。
周りを見てご覧ください。
最初は小さな群れで始めた教会ですけれども、やっていくほど教会が恵まれて成長していく教会があるんですね。
しかし、昔は多くの信者がありましたよ、怒ってはいるんですけれども、
次に牧先生はあちこち政界の講師で行かれていますけれども、教会は静まって静まって静まっている教会も、なぜでしょうか。
信仰が問題です。
神様を喜ばせることができる信仰を教会一人一人が持っているかどうかそこにかかっているわけなんですね。
イエス様が出来たときに、あなた方は私を誰だと言いますか?と言われました。
この朝、皆さん、イエス様が皆さんお一人お一人に問いかけております。
あなたは私を誰だと言いますか?
あなたは私を誰だと言いますか?
今、この状況であなたは私を誰だと言いますか?
イエス様の問いかけです。
この朝、明太に教会に我らに主が問いかけを投げ仕切られております。
あなたは私を誰だと言いますか?
イエス様はあなたの応答を待っておられます。
30:00
イエス様はあなたの応答が聞きたいんです。
それが信仰、告白なんですね。
自分がイエス様とどのような関係を持っているか、それを言い表したのが使徒信仰であり告白なんですね。
この時代は異教の時代、異法の時代でした。
ギリシャやヨーマや様々な偶像、神々があった時代なんですね。
その偶像だらけのあの時代の中で、その状況の中で、
私はこの偶像、あの神ではなく、唯一の神様だけを信じる。
その決定付けた、それが使徒信仰、告白なんです。
この時代の人々は、自分が告白した通りに、使徒信仰に生きるクリスタンでした。
信仰を告白した通りに生きる信者です。
皆さん、簡単に考えてみたら、イエス様を信じない人は、
イエス様を救い主とか、天皇、父なる神様とか呼ばないんです。
なぜでしょうか。自分とそういった関係がないからですね。
しかし私たちは、天皇、父なる神様とかですね、呼んでいますよね。
なぜでしょうか。自分との関係が結ばれているからなんですね。
これが、告白・信仰というパターンです。
この朝、あらためてイエス様が、あなたにこのように問いかけておられました。
あなたは私を誰だと言いますか。
イエス様がこのようにあたっておられました。
私があなたのため、あなたの罪のため、命を捨てるほど、
あなたを愛する救い主だと本当にわかっているなら、
もしあなたが、私はあなたの究極の裁きでもある、
究極の裁きでもある死の支配さえも、
あなたのために打ち破ったイエスだと知っているなら、
あなたは、その小さな小さな問題に対するその仕方も変わってくるだろう、
とイエス様が語っておられました。
33:01
皆さん、私がイエス様を誰だと告白するのか、
実は皆さん、これが私たちの生涯において最も重要な課題ではないでしょうか。
しかし、イエスを救い主として、神様を天皇、お父様として告白できることは、
人間の意思ではないんですよね。
聖霊様の恵みなんですね。
聖霊の恵みによって、
ああ、イエス様が救い主なんだ、と告白できるようになるんです。
皆さんは、千年を受けられましたね。
ある方は、5年前、10年前、20年前、30年前、
もっと古い方は、50年前、60年前、受けられた方もいらっしゃるかもしれませんけれども。
聖霊は、皆さん、よくご存知だと思いますか。
敵霊もありますし、神霊もありますけどね。
イエス様と共に、私のすべては神になります。
そして、イエス様と共によみがえられる。
だから、私のものは一つもないわけなんですね。
すべては神のものによみがえられるわけなんです。
そうすると、神のために生きること、
それが、千年を受けた信者の生き方なんですね。
こんなお話があります。
アメリカのあるバッテスト教会のお話です。
時々、教会に来る中道者の一人がいました。
その礼拝にも、その人が礼拝に来たんですね。
僕先生が、中道者を真古に導いて、千年を助けたい。
今日、勝負を見ろと思って、礼拝が終わって、
中道者に近づいて、
今日、なかなかいい天気ですね。
氷でもいっぱい飲みながら、話をしませんか。
いいですよ、と話をしました。
僕先生が、中道者に、イエス様の隙の内の話をしたんですね。
そうしたら、なんと、その日、この中道者の方の心が開かれて、
先生、私はもう死にたいです。受け入れたいです。
受け入れました。
そしたら、僕先生が、また来週、もう心が変わっちゃ大変ですから、
36:01
そしたら、今日、千年を受けましょうか。
そうしました。
バセスという教会が大体、新年の千年祝があるんですよね。
それで、行きました。
千年を受ける。
そして、入る直前に、その方がですね、
先生、ちょっとお待ちください。この大和と、
出します。
そしたら、僕先生が、そうですね、濡れたら大変ですね。
いや、そうじゃなくて、文字文字しながら、
私は千年を受けますけど、この左右には千年させたことはありません。
といった作り話がありました。
皆さん、千年というものは、
信仰、告白するというものは、
私たちのすべての一切のものが、
人と共に死んで、人と共によみがえって、
すべて捧げたということが、千年であり、
それが、信仰、告白です。
この一心情は皆さん、
初代教会の千年というのは前に、
その千年を受ける人が、
私はこの通りに信じます。
この通りに生きたいです。
と、自分の口で、ここから、
ここから、告白したものが、
言い表す。
それが、人心臓ですね。
それを踏まえてみますと、
中途半端な千年、中途半端な告白はなくて、
この告白に、真実に生きようとする、
私たちがあるわけです。
願わくは、皆さんお一人お一人の方が、
キリストと共に死んで、
キリストと共によみがえる恵みを、
神の福音の恵みをですね、
日々味わっていただきたい。
そして信仰に生きる、告白に生きる、
私たちでありたいと願っております。
この一心情をよく見ますと皆さん、
主の祈りと違うところがありますけれども、
主の祈りは、
天に増します我らの父よとありますね。
私たち、我らが司会です。
司御です。
告白するんですね。
しかし、人心臓は、
我らじゃなくて、我は。
私が信じる。
で、原来のですね、人心臓は、
私は、私はと変えましたね。
我らじゃないです。
私が信じる。
私が、あなたが神様を誰だと信じているのか、
39:05
あなたの真行告白が何なのか、
それが人心臓の告白なんです。
それが問われているんです。
この朝、問われている。
だから私たちは、人心臓を告白するたびに、
自分も立行をもって、
質問を見舞いに立って、
私が神様を、イエス様を、聖霊様を、
誰だと信じているのか、
そしてどういうふうに生きているのか、
それが人心臓告白なんです。
どうか皆さん、皆さんが、
告白通りに生きる私たちであります。
それから、人心臓の中で、
今日のタイトルにもありましたけれども、
行動の教会という言葉がありますね。
行動の教会。
そのところをちょっと見てみたいと思いますが、
行動の教会とは何でしょうか。
それは皆さん、地上には、
多くの教会がありますね。
ニョーダンに教会もありますし、
タルニー教会も、西部教会も、
韓国も、アメリカにもですね、
多くの教会があります。
神様は、教会をご覧になるときに、
個別にご覧になることもありますけれども、
地上にある全ての教会を、
一つの神の民として、
神様を信じる群れとして、
一つとして見られるということです。
ですから皆さん、
今日私たちから礼拝を来ていますけれども、
私たちは、
差別、個別の教会ではありません。
神様は、全人類にある、
この世界にある全ての教会を、
一つにして、
一つとして礼拝を受け入れてくださるんですね。
ですから私たちは、
決して独立的でもなく、
孤独でもなく、
全ての教会は一つであること。
神様はそれを一つとして受け止めてくださる。
そして同じとして、
恵みを施してくださるという意味なんです。
ですから、目には見えませんけれども、
多くの教会から私たちは、
あらゆる形として支えられていることを、
ぜひ覚えていただきたい。
感謝のことは、
仏からはですね、
神様の恵みでですね、
アメリカ、
ソウルで、
ブサンで、
多くの人とさんが、
多くの教会の皆さんが、
僕先生方がですね、
妙なに教会を覚えて祈ってください。
42:03
その支えられていること、
なんと感謝なことでしょう、皆さん。
高度の教会は、
そういう意味であります。
その次の18節のですね、
果てすの門も、
それには打ち勝てません。
これはありますが、
そのところを、
もう少し見てみたいと思います。
この果てすとは、
死んだ者が行くところ、
死の身体支配するところです。
私たちの人生を脅かす、
様々な苦しみ悲しみ、
その最後、
究極的なことは、
死です。
その死の支配が、
果てすの門で、
私たちを見つめているんです。
しかし、その果てすの門さえも、
教会には打ち勝てません。
抵抗できません。
どんな力も、
どんなにパワーのある者も、
教会を打ち勝てません。
クリシャンを打ち勝てません。
なんででしょうか。
イエス・キリストが、
死を打ち破って、
そしてその力を、
イエス・キリストを救い主として信じる我らに、
その力を与えられていますから、
死の支配を私たちは、
ものともしません。
それが、教会の力です。
どんなものも、
私たちを、
イエス・キリストの愛から、
引き離すことはできないんですね。
その確信を持っていた。
教会は、
2000年の歴史の中で、
この人信条を繰り返して告白してきました。
ですから、
この時、
その状況で、
この教会は、
信仰、告白をしてきたわけなんですね。
時には、
反映の中で、
時には、
白雀の中で、
時には、
リザーバルの波に乗ってですね、
その時、
その状況で、
自分たちはこの信仰を、
告白として、
貫いてきたわけなんです。
だから、
今の教会が、
あるわけなんですね。
もしですね、
45:00
1000年前、
この地上の全てのクリスタンがですね、
告白をやめてしまって、
みんな逃げてしまったら、
今の教会は、
存続しないわけなんですよね。
誰かが、
世界どこかで、
その時、
その状況で、
何があっても、
どんな白雀があっても、
どんな誘惑があっても、
甘い誘惑があっても、
信仰を貫いて守ってきた、
告白した、
神の人たちがあったから、
今の教会、
信仰があるわけなんです。
ですから皆さん、
私たちにも、
その尊い責任があるわけなんです。
この時、
この状況で、
この時、
この日本で、
私たちが、
どのように信仰を告白するか、
そして、
どのように生きるかによって、
30年後、
50年後、
100年後、
日本の教会の様子が、
今、
私たちの信仰の姿から、
見えてくるわけなんです。
1930年代、
ドイツに、
ボン・フェッパーという、
有名な先生がいました。
39歳で、
なんと、
ヒトラーの政権の下で、
準拠された、
若手の、
国宣先生ですけれども、
あの時代、
ドイツでは、
ヒトラーが、
政権を持って、
脅迫して、
ユダヤ人発売から始めて、
ドイツの、
ほとんどの教会が、
まるでヒトラーを、
神みたいに、
崇めて、
恋愛して、
伝わっていきます。
その時に、
この、
ボン・フェッパー先生が、
ドイツのツリーさんに、
こういう風に訴えていました。
皆さん、
今、
この状況で、
私たちは、
どのような信仰を告白、
すべきなんです。
教会が、
この、
悪の政権に、
立ち向かって、
平和を求め、
そして、
地に植えてかわき、
キリストを、
救い主として、
告白すべきではありませんかと、
ドイツのツリーさんに訴えました。
それで彼は、
処刑されたわけですけれども、
48:00
しかし、ドイツの教会は、
僕たちが、
先祖に立って、
信仰を守ろうとする信者たちに、
聖徒にも、
上の者に従いなさいと、
言っていますから、
この政権に従いました。
これが、
教会を保っていく、
道です。
と、脱却していきまして、
こんな時代を、
送ったわけなんですね。
皆さん、
この朝、
私たちにも、
問われています。
今、
この状況で、
この日本で、
この時代に、
日本にいる、
我らクリスチャンが、
皆さんお一人お一人が、
クリスチャンが、
教会が、
何をすべきなのか、
クリスチャンとして、
教会として、
どのように、
生きるべきなのか、
今日の、
私の信仰告白が、
明日の私を、
決定付けます。
今日の、
明太に教会の、
信仰告白が、
10年後、
30年後、
明太に教会の様子を、
決定付けます。
これは、
歴史という流れを、
から見てみますと、
とても重要なんです。
今日の、
自分の信仰、
自分の告白、
自分の信仰の様子で、
これで終わりじゃありません、皆さん。
終わりじゃありません。
最後に皆さんにお話したいことは、
今日の、
あなたの信仰告白が、
今日の、
あなたの生き方が、
我らの生涯を、
決定付ける。
今日のあなたの信仰態度が、
明太に教会の、
将来を決定付ける。
今日のあなたの信仰態度が、
この教団、
この日本の教会の未来を、
決定付けるということで。
皆さん、
最後にですね、
今、
子供たちがですね、
小学校で、
来週の運動会のために、
一生懸命ですね、
顔がですね、
真っ黒になって、
組体操をしているんですね。
組体操を皆さん、
ご存知でしょう。
韓国では、なかなかしないんですけどね。
例えば、
プラミトを食べるとしますよ。
しかたあって、
2段、3段、4段、5段、
一番上の1人があるんですよね。
プラミトは、
1人、1人、1人、1人が、
あって、
51:00
組み合わせて、
1つになるわけです。
その中で1人が、
真ん中の人、
子供がですね、
ちょっと、
こう言ったら、
全体が、
崩れ落ちてしまうわけです。
今回は、
ストレートに、
私の信仰が、
教会の信仰を立てます。
お祈りします。
では、今日の御言葉を覚えてですね、
主の御前に、
お祈りしたいと思います。
このように、
お祈りしましょう。
神様、
私の信仰を、
引き上げて下さい。
我らの信仰を、
高い所へ、
引き上げて下さい。
明大に教会の信仰を、
高い所まで、
主を引き上げて下さい。
そして、
この時代、
この状況で、
主を告白する者として、
信仰に生きる者と、
私でいて下さい。
それぞれ示されたまま、
祈っていきたいと思います。
御一生に、
お祈りいたしました。
かれりや主よ。
一人一人よ、
主よ、
アーメン、
主よ、神様感謝します。
我が一人一人を覚えて下さい。
我の信仰、
神様、
強くして下さい。
主よ、
主よ、
主よ、主よ、
我が一人一人が、
神様愛し、
すべて者を支えて、
神と共に歩むことができますように。
共に歩むことができますように。
主よ、
どうぞ一人一人の信仰を、
引き上げて下さい。
強めて下さい。
みんな一つになって、
本当に成長する教会でありますように、
我が一人一人を、
神様が、
強めて下さいますように、
お願いをいたします。
あなたの恵みがありますように、
主の恵みがありますように、
どうぞ、
我が信仰を、
強めて下さい。
大きくよろしくして下さい。
それでは、
私が一言お祈りいたします。
愛せるつながみ様、
今日の御言葉を感謝いたします。
どうぞ主よ、
私たち一人一人が、
この朝、
イエス様からの、
お問いかけに、
あなたは、
私を誰だと、
言うのか。
その時に、
指紋ぺてろのように、
主よ、
あなたは、
生ける、
神の御子、
イエス・キリスですと、
告白して、
そして、
告白通りに、
生きるものと、
54:00
はじめて下さい。
明太の教会を、
ここまで主が、
守って下さい。
導いて下さった恵みを、
心から感謝いたします。
またさらになお、
これからの、
我らの信仰を、
その教会を、
あなたの心にかなった教会として、
みんなが一緒に、
立ち上げていくことができますように、
どうぞ主よ、
我らの信仰を、
高いところまで、
引き上げて下さいますように、
お願いいたします。
互いに励まし合い、
互いに尊重し合う、
互いに支え合う、
そのような教会でありますように、
主よ、
我らを主よ覚えて、
豊かに祝して下さい。
様々な事情がありまして、
教会から離れている、
兄弟姉妹が、
そういうことを覚えます。
主よ、どうぞ覚えて、
彼らが主の身元に、
立ち上げてくることができますように、
その信仰を、
主よどうぞ改めて、
あなたが本当に、
リバイバルを起こして下さいますように、
お願いいたします。
様々な病気の中で戦っている、
兄弟姉妹たちの、
身体の病気、
心の病気を、
主よ、
あなたの癒しの、
あの手で、
主よどうぞ癒して下さいますように、
お願いいたします。
今日の御言葉を書いておきます、
その皆によって、
お祈りをいたします。
アーメン。
55:23

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