1. 名谷教会
  2. 2011/07/03:聖日礼拝(旧音源)
2011-07-03 43:33

2011/07/03:聖日礼拝(旧音源)

2011/07/03 聖日礼拝(旧音源)


00:02
使徒の働きの4章5節から12節です。新約聖書の233ページをお開きください。
それでは、お読みいたします。使徒の働き4章5節。
翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
大祭司、アシナス、カヤパ、ヨハネ、アレキ・サンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
彼らは、使徒たちを真ん中に立たせて、あなた方は何の権威によって、また誰の何によってこんなことをしたのか、と尋問し出した。
その時、ペテロは聖霊に満たされて、カイラに行った。
民の指導者たち、並びに長老の方々、私たちが今日取り調べているのが、病人に行った良い技についてであり、
その人が何によって癒されたとか、ということのためであるなら、
皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。
この人が治って、あなた方の前に立っているのは、あなた方が十字架につけ、
神が死者の中からよみがえらされていたナザレジン、イエス・キリストの皆によるのである。
あなた方、家を建てる者たちに捨てられた石が、石杖の石となったということは、この方のことである。
この方以外には、誰によっても救いはありません。
天の下でこの皆のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。
それでは、聖火体の賛美、420話に続いて、
内田牧師より「信仰は長寿なり」と題して、説教をしていただきます。
03:26
聖火体の賛美、420話
聖火体の賛美、420話
聖火体の賛美、420話
皆さんおはようございます。
暑い日が続いておりますが、今涼しい賛美をいただき、ほっとしているところであります。
本当に神様の恵みの中に、今日もこうして礼拝へと導かれたことを感謝しております。
今日も御言葉をいただきたいと思います。
一言お祈りをして、今日の御言葉を開かせていただきます。
人はパンの実に生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉による、
06:01
「恵み深い天の父なる神様、こうして七月も第一聖日を迎え、
あなたがまたこれからの日々を支え導いてくださらぬことを私たちも信じて委ねています。
これまでの歩みの中であなたが多くの恵みとまた祝福を与え、そして支えられてきましたことをもう一度覚えつつ、
また新しい月も日々あなたと共に会いませていただきたく願っております。
主御自身が私たちをとらえて、また私たちを導いてくださるその御愛とまた御慈愛と憐れみを覚えつつ、
またあなたの御前にひれ伏して、そしてあなたをこよなく愛しまたお慕い申し上げて、
これからも会いませていただきたく願っております。
日々十字架を忘れやすいものでありますけれども、もう一度この生産の時を通して、
あなたがどれほどお苦しみを受けられ、そして肉を裂き血を流してまで私たちを贖い、そして神のことをしてくださったことを、
もう一度心から覚えて御前に食い改め、またあなたのことをしてふさわしく歩めるようにどうぞお導きくださるようお願いをいたします。
こうして礼拝に集うことができたことをありがとうございます。
決して私たちの捧げる礼拝が形式的なものとなりませんように、私たちが恵みを求め、またここに今生きておられる主がおられるということ、
そのことを覚えて私たちがあなたを求めて、そして捧げる礼拝を持つことができるように、そして用意されているこのプログラムの一つ一つ心を込めてあなたにお捧げいたします。
生産式も毎月の第一日曜日があるから生産をするのではなく、私たちを贖いとってくださったこのお方に感謝を捧げ、
またこの恵みを私たちが共に味わいつつ、そして協会の一致と、また更なる選挙の働きに向かうためのその生産式であることをどうぞ私たちもう一度覚えて、そして恵み豊かな式典となることができますよう、今からどうぞお導きください。
その前に必要な御言葉も備えられていますから、神様どうぞ神の語られるそのお言葉に耳を傾けていくことができますよう助けてください。
語るものは小さく乏しいものでありますけれども、御言葉が神の言葉、そして神御自身でありますから御言葉の前に比例付して、あなたの今お声を聞かせてください。
09:01
しもべは聞きます。主よあなたがお語りください。おゆだねし主キリストの皆によってお祈りいたします。アーメン。
今私たちはこの情報源の主流というのがテレビになってきていますね。
ですけれどもそのテレビが今ほど普及する前はラジオが主流であったんですね。そういう世代を生きておられた方ならわかると思うんですが、でもそういうときもラジオで結構楽しめたし、またそのラジオからいろんなものを養い受けた。
決して不自由だとは思わなかったし、今思うと懐かしいなというそういう気もいたします。それは見るということよりも聞くということに重きがあったわけですね。またそうせざるを得ない時代であったということも言えますが、見るよりも聞くというそういうことがあった。
私自身の小さな体験ですけれども、新学校で3年間過ごしました。そこでは全くテレビのない世界ですね。それは強制的なのか、そういう事情があったのか。
もちろんすることもたくさんありましたが、その1日の時間配分、その中でそういうテレビがない、そういう中で過ごしたということ。それは決して不自由でも何でもなかったし、今思うとむしろ充実しておった。
それではその時間を何に割いていたんだろうか。それはもちろん学び放し、そして神様と対話する。神様との交わりに多くを割いていた。またそのための時間が備えられていたということを今にして思うわけです。
ですから、私たちのもう一度日々の生活の中で聞くということ。ラジオだけではないのですが、神様との交わりの中で神に聞く。あるいは私たちが神様に問いかけながら、そして神様のお答えを聞いていく。そういうことが自分の日々の生活の中でどのようになっているだろうか。
もしそういうものが自分の中に今少し壊れかけているとするならば、それをつくろって、もう一度そういうところに私たちが戻るべきであろう。今日の御言葉にもそのようなことが示されているわけです。
この教会の図書の中にこういう本がありました。まさに御言葉に聞くということですよね。漢字もこの耳辺のこれが当てられているということは本当にふさわしいことだな。御言葉、神様のお声をずっと聞くという、そういう静まりのとき。それが私たちにとって非常に大事であるということ。
12:25
この御言葉に聞くという本の最初のページにこのように書いています。
クリスチャン生活の豊かさは何によって決まるのでしょうか。はっきり言ってそれはその人の毎日のディボーションの持ち方によるのではないかと私は思っています。ディボーションというのは神様との交わりのとき、あるいはお祈り、黙想のとき、そういうのを含めてディボーションと言うんですが。
そしてそのディボーションにとって一番大切なことは何かといえば、御言葉をいかに学び、それをどのように味わうかにかかっていることは言うまでもありません。クリスチャンが聖書を毎日読むのは当然です。しかし、ただ読みさえすればよいというだけのものでもないはずです。
ですから御言葉をじっと聞く、もちろんそれを味わい、そして自分の中に蓄えていく。これが私たちにとって非常に大事であるということを今日も御言葉から教えていただきたいと思っております。
今日は使徒の働き、使徒行伝の四章を開いていただいておりますが、この中に今日は二か所キーワードとして覚えていただきたいと思います。一つは四章十二節のこの方以外には誰によっても救いはありません。天の下でこの皆のほかに私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。
この方以外に誰によっても救いはありません。何というその確信に満ちた言葉でしょうか。これはペテロが語っている言葉なんですが、ペテロをはじめイエス様の弟子たちがこういう言葉を通して確信を持ってそれを世に訴えていった。これが彼らの宣教、そして私たちの宣教の基盤になっているということ。そのことを改めて覚えたいと思うんです。
この方以外にイエスキリスト以外に誰によっても救いはありません。天の下でこの皆のほかに私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。
もう一つは四章の十九節の言葉ですが、ペテロとヨハネは彼らに答えていった。神に聞き従うより、あなた方に聞き従う方が神の前に正しいかどうか判断してください。
15:05
これは逆でもいいですね。あなた方、ここでは宗教指導者たち、あなた方あるいは人間全体と言ってもいいと思いますが、あなた方に聞き従うよりも神に従うこと、それはどちらが神の前に正しいでしょうか。
そういうことを今日私たちに問い直されているという気がいたします。
実は初め私は使徒の働きの三章を準備していたんですけれども、そして先週の案内にも七月三日は美しの門の奇跡を語るというふうにしておったんですが、どこでどうなったのか。
使徒の働き四章、信仰は長寿なりと、これも主の導かなと、そのように今は思わされています。
彼らが宗教の働きに出た最初のときに、美しの門というところにある足がたったない、そういう人が置かれていたという記事が出ています。
そしてペテロとヨハネがその男の人を見て、そして私にあるものをあげようと。私たちには金銀はない。しかし私にあるもの、それは名ざれ人、イエスキリストの名によって歩きなさいという、そのことを彼らがしたときに彼の足が立ち上がったわけですね。
いわゆる主の名によってその奇跡が起こり、彼は癒されたわけです。それを見た宗教指導者たちがペテロやヨハネたちを捉えたということがあるわけですね。
四章の三節、彼らに手をかけて捉えた、そして翌日まで留置することにした。イエス様の弟子たちは今宗教の働きに出ていっているわけですが、そこで不思議な技がなされて、そしてたくさんの人たちが死を信じる、そういう現象が起こってきたわけです。
私たちにとっては何と素晴らしいことだろうと、今にして思うんですが、しかし中にはそれを良しとはしない、面白くないという人が当時いたということですよね。おそらく今日にも同じようなことがあるかと思うんですが。
それがいわゆる宗教指導者たち、六節にあります大祭司アンナ、スカヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族、そういう人たちが宗教の働きに出ている弟子たちを捉えて、そして留置所に入れたわけです。
18:17
彼らは何が気に入らないのか、これはイエス様にした仕打ちと同じことですね。
要するに、彼らがそういう技をするということは、けしからん、そして七節、あなた方は何の権威によって、また誰の何によってこんなことをしたのか、彼らには彼らの主張があったわけです。
自分たちの信じている神の権威と、その何よって以外にそんな技をしてはいけないし、あるいはあってはならないことだ。しかしその裏には自分たちの立場とか、自分たちの地位とか、そういうものがあったでしょうし、そういうことを守ろうとする思いがあったでしょうし、
あるいは人々がそういうのに動かされて、みんながそちらに流れていくのを気に入らないということがあったようですね。ですから、ペテロやヨハネたちを捉えて、お前たちはそんなことをするものじゃない、何の権威によって何の何よってそんなことをするのか、そのことを問い正したわけです。
要するに、我々の許可なしに一切のことをしてはならぬ、そのことを言ったわけです。それに対してペテロたちが語った言葉、それがその技をなさったのはイエス・キリストというお方です。そしてその方の何よって私たちが技をするとき、その不思議な技が起こるんです。
ですから、この方以外には誰によっても救いはありません。天の下でこの皆のほかに私たちが救われるべき名は人に与えられていないのです。キリストの権威とキリストの名によってのみ癒され、そして救われるのです。そのことを彼らは語ったわけです。
おそらくペテロやヨハネたちにとって、こういうことを言えたというのは私たちも驚きだと思うんですね。当時のその地域を、あるいは宗教界を牛耳っている指導者たち、リーダーたちが彼らを問い詰め、そしてそういうことはしてはならぬと言ったときに、彼らはなんと大胆にこの言葉を語ったということ。
それはなぜそういうことが言えたのかということ。それは発説にこのようにあります。ペテロは精霊に満たされて彼らに言った。精霊に満たされているからこそ彼らは自分たちを問い詰めている人がどんな人であろうとも大胆にそのことを語った。自分たちが信じていること。
21:24
そして今目の前に起こっているその技をストレートに語ることができたということですね。私たちの信ずるキリスト、それは道であり真理であり命です。私を通してでなければ父のもとに行くことはできない。
あの言葉をキリスト御自身が言ったわけですね。私は道、真理、命。私を通してでなければ、私以外の者では決して父の身元、天国に行くことはできないのです。
それをそのまま弟子たちも信じ、そしてその言葉に従ってこの方以外に、この方の権威とこの方の名以外に救いはないのです。その確信をもって彼らはそれを言うことができたわけです。
しかし、ペテロやヨハネはこの時どんな思いでそれを言ったのか。あるいは私たちにもしそういう同じような状況が起こったときに、そういう人たちを前にしてはっきりと確信をもってこの方以外に救いはないのです。このお方の名によって以外は救われないのですと言えるだろうか。
そう思うわけです。私たちがそういう立場に立ったときに、私たちはまず一つ、精霊に満たされなければおそらく言えないでしょうし、あるいは祈りを持っていなければなかなかそういうことは言えないと思うんですね。
なぜかと言いますと、この21節、彼らは脅した上でとありますよね。脅しとか、あるいは彼らの脅迫とか、そういうものがあったわけですね。
ですから私たちがこの確信を持つということ、それはなかなか難しいことであります。ですけれども私たちは、自分自身の証を通してこのことを人々に伝えることができる。
私が救われたのはこの方によるのであり、この方の名によって私たちは見出され、そして救われたのです。私たちはもう一度この確信の言葉を今日いただいて、私たちも外に出て人々にこれを伝えていくわけです。この方以外に救いはありません。
24:18
おそらくいろんなことを皆さんはおっしゃってくださると思うんですね。山に登るのにいろんな登り方がある。私たちもその天国とか、いろいろそういう、それが神様というものであるならば、そこに行き着く道は人それぞれいろんな方法があってもいいんじゃないですか。そうおっしゃってくださる方々もいます。
私たちはただただ聖書を信ずる者として、私たちは今日この四章の十二節のこの言葉、これをただひたすら信じて、この方以外にイエスキリスト以外に誰によっても救いはありません。天の下でこの名のほかに私たちが救われる名は人に与えられていないのです。
もちろんいろんなことを言ってくださる方と議論しあったり、あるいは何か論争をする必要はありません。私たちの信ずる、この聖書が言っている神の言葉、これをただひたすら私たちは信じて、そして私もこの方の権威と名によって救われた一人です。
そのことを証ししながら人々にこの救いを導き、そして神様に救っていただく。私たちのできることは人々に福音を伝えて、そして神様の身元に連れてくる、そこまでですね。
その方を救い、そして神の国に導き入れてくださるのは、それこそイエスキリストの権威と皆によるのです。そのことを私たちはもう一度覚えたいと思います。
それをペテルたちが大胆に語るものですから、この宗教指導者たちはますます彼らを責めるわけです。
そして十七節、しかしこれ以上民の間に広がらないために、今後誰にもこの名によって語ってはならないと彼らを厳しく戒めよう。
十八節、彼らを呼んで一切イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じた。
ここに宗教指導者たちが彼らに一つの命令を与えたわけです。一切イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない。
かたやペテルたちはイエス様の弟子として、この方以外に誰によっても救いはありません。要するにイエスの名によって語ったり教えたりするわけです。
27:12
ここに二つの命令があるわけです。イエスの名によって語ってはならない。イエスの名によって語ります。
こういうところにペテルやヨハネたちが立たされて、そして私たちもそういうところに立たされるということがあったときに
先ほど言いました、私たちはあなた方という人たちに聞く、あるいはそれに従うのか。神の言葉、聖書の言うお言葉に聞き、従うのか。
それを判断し、そして決めなければならない。そういうことが起こってくるわけです。
もしそういうものがないとするならば、あるいは今までなかったとするならば、それはそれで幸いでしょうし、今後おそらくそういうことが起こってくるでしょう。
信仰に入れば入るほど、聖書に従おうとすればするほど、そういうことがこれから起こってくるわけです。
そのときに人の声に聞き従うのか、神の声に聞き従うのか。どちらが神の前に正しいかどうか判断し、そして結論を出し、行動を起こす。
今日私たちはこのことを問われていますし、またそのことをしっかりと自分の中で整理して、そしてここからそれぞれに使わされていきたいと思うんです。
要するに彼らは、先ほども言いましたように、二十一節、彼らは二人をさらに脅した上で、あるいは二十九節、主よ今彼らの脅かしを御覧になり。
要するに宗教指導者たちはペテルたちに脅しをかけて、自分たちの命ずることに従わせようとしたわけです。
イエスの名によって語ったり教えたりしてはいけないぞ、そうするとまたお前たちを捕らえるぞ、あるいは攻めをするぞ、そういう脅しをかけて自分たちの命令に従おうとさせる。
しかし、かたや神の命令はイエスキリストの権威と名によって福音を伝え、そしてそのお方が救いをなしてくださるんだ、という神の声を聞き従うということですね。
私たちの中でクリスチャンホームでない家庭に生まれ育った方、その方があるときに信仰を持たれたという経験をされている方がおられると思うんですね。
30:15
その方がお家の中で私はシュウエスキリストを信じて、この方を自分の神として、もちろん三密体の神、この方を自分の神としてこれから信じてこの信仰生活をしていきます。
お家の方に告白するしない、あるいはそれが自然な形でそういうことがお家の中で伝わるわけですね。
聞かれたらはい、そうですと答えるわけですが、お家の方はそれはならぬ、どうしてそういうことになったのか。
うちにはうちのそういう先祖代々を祀っている神々もあるし、仏様もあるし、このうちにはこのうちの信仰というようなものがある。
その家族みんながそれに今までしてきた。
なのにお前だけがどうしてそういう違った信仰を持ってしまったのか、投げかわしやと。
そんなことをするならもうお前はこの家族から縁を切ってもらおうかというような厳しい言葉をかける家族もあるわけです。
それは私の家族のことですが、そういうことがあるわけですね。
いわゆる脅しをして、そして何とか信じた神をもう一度捨てさせて、そして自分たちの思うそのことにもう一度聞き直すようにそういうふうに迫ってくるわけですね。
その時に私たちはどうするのか。
神に聞き従うよりもその人間たちの言う言葉に聞き従うのか。
どちらが神の前に正しいかどうか判断し、そして決断し決めなければならない。
そういうことがあろうかと思うんですね。
あるいは色々な責任ある立場の人たち、あるいはリーダーの人たち、その人たちがこのキリスト信仰に立って色々な働きをなし、世にあって働きをしている。
そういう中で色々なことを決めたり物事を動かし、あるいは人との関わりの中で自分自身も動いていかなければならない。
その時に人々は皆さんがこういうふうに言う。
しかしどうもそれを聖書に照らし合わせてみても、自分がこれまで育ててくださったその信仰に立つと、どうもそれは神様の前に正しいことではないという板挟みになった時にどうするのか。
33:17
人々の言う言葉に聞き従うのか、それとも神様の言葉、あるいは聖書の言う言葉に従うのか。
ましてや仲互いをしたり、そこで亀裂が入ってプロジェクトがダメになってもいけない、大変なそういうところに立たされることがあるわけですね。
しかし私たちはどんなことがあっても、神に聞き従う。見言葉に聞き、そして従うという、これを私たちはさせていただくわけです。
そこで私たちに必要なのは、やはり精霊に満たされるということ。
そしてパウロがここで言っております。
二十九節主よ、今彼らの脅かしを御覧になり、私の下辺たちに見言葉を大胆に語らせてください。
ですから脅かしがある、あるいは時には甘い言葉で誘惑してくる、そんな時にも主よと祈らざるを得ないわけです。
そして大胆に神様の見言葉を信じて、それに聞き従えるように助けてください。
もしこれを言ったら、これがああなってどうなって、ああなって大変なことになるかもしれない、もうそんなことはもう委ねて。
とにかく神様がこう言っておられるなら、私はそれに従いますという、本当に厳しい状況でもありますけれども、それをさせていただかなければならない。
例えば百人の中で九九人が自分たちはこうだ、しかし私一人、自分一人が、いやそれはわかるけれども、聖書が言うのとは少し違う、少しどころか大変違う。
聖書はこう言っていると、もうこれは間違いない、それこそ確信があるわけですね。
聖書はこう言っている。別に九九対一で対立する必要はないんですが、そのときにその九九人の人たちの前で、私は聖書がこう書いてありますから、私はその御意見には反対です。
あるいは聖書がこう言っていますから、聖書にはこう書かれていますから、それではなくこちらの方をどうか私の意見として申し述べさせてもらいますという、それがこの神に聞き従うということですね。
36:07
私たちはどうしてもそういうとき、この九九人、耐性型の言うことに流されやすいし、あるいはそのことの方が楽ですし、自分が併せさえすればそれで何の波風も立たないし、その方が無難であろうということを選び取るならば、私たちは神の言葉に聞き従うということです。
信仰に立っていないということ、信仰とは本当にそういう中で私たちが試されますし、また私たちが日ごとのそれこそディボーションの中で何をしているのか、本当に神に聞き従うということを日々なし、
またそれが自分の中に体質として染み込んでいるならば、どんなときにもそのことをさせていただく。それが脅しであろうと、あるいは甘い誘惑で私たちを虜にしようとしておったとしてもそれを退けて、そしてただただ聖書にはこうあります。
あるいは神様はこのように言っておられます。あるいはイエス様の言葉の中にこのように言われています。ですから私はその神の言葉に聞き、そして従います。それがまさに私たちの信仰である。
ペテロやヨハネたちもそれをしたわけです。そのことを通して何が起こったのか。ますます人々が彼らの言うことを信じて、そして弟子たちがますます増え広がった、宣教がますます盛んになり、そして多くの信ずる人たちが起こされたということがこの使徒の働きの中に記されているわけです。
ペテロやヨハネたちがそれこそ脅しに屈して、そして彼らの言うこと、人間たちの言うことに聞き従っていたならば、もちろんペテロやヨハネたちの身は安全です。
そして彼らも心を痛めたり、そして苦難を覚えたり、そういうことはありませんけれども、福音というものは一向に進まない。むしろ彼らの信じていることが無に帰してしまう。
私たちもいろんな神様を知らない人たちの中に出ていくときに、そういう板挟みの状況になることがあります。
39:07
それこそお家の中でお前がそういうものを信じるなら、もう私たちはお前たちと縁を切るというようなことがあったとしても、私たちは別にあなたたちと縁を切るつもりはございません。
私はただただこのお方を信じて、この生涯を会いましていただきます。それをどのように言うかは人それぞれあろうかと思いますが、しっかりとそこに立って、そして揺るがないその信仰を明かししながら、そしてまた家族の人たち、周りの人たちと一緒に何かをやっていくということですね。
そうするならば、いつしか必ずその家族の人、周りの人も、あなたの信じているそのお方、あるいは信仰、それは間違いない。お前がそこまで信じている神様。
そして最近、あなたは以前のあなたと全く違う、そういう何か喜びや感謝や、そして何事においても本当に良い状況になってきている。
そのことを見るときに、私たちはあなたの信じているものが間違いない、確かなものであるということを彼らは認めるようになるわけですね。
私たちはそうしようと思わなくても、それこそイエス・キリストの権威と何よってそのことを信じ続けていくならば、必ずや周りの人たちはそのことに気がつきますし、そして周りの人たちもやがてこのイエス様に捉えられて信仰を持っていく。
ですから私たちが神に聞き従い、そしてこのイエス・キリスト以外に救いはないのだというその確信を持っていさえすれば、私たちにとっては本当に不思議な技、こんなことが起こるのかと思うような祝福されたそういう技が次から次と起こされていく、そういう証もいくつも聞きました。
そして私たちのこれから使わされていく、そのところどころでもこれから起こるだろう、そう信じています。
ですから今日私たちは二つのこと、このお方以外に誰によっても救いはない、このイエス・キリストの権威と何よって以外に救われるべきなはないのだ。
42:06
そしてもう一つは私たちは人間の言葉、私たちの周りの人たちが言うその言葉、それが甘い言葉、脅してあってもそれに聞き従うよりは神に聞き従う。
そのことをもう一度覚えて、どちらが神の前に正しいのかどうか、そのことのみを祈りつつ判断し、そして行動を起こすという、そのことをさせていただきたく願っています。
お祈りをして聖三式に入らせていただきます。
神に聞き従うより、あなた方に聞き従う方が神の前に正しいかどうか判断してください。
天の神様、もちろん私たちは神に聞き従う方をとります。どんな状況におかれても私たちは神の御言葉を聞き、またそれを信じて従っていきます。
そのような確固たる信仰を今日もう一度与えられ、またそれぞれにお使わしくださいますように。
使わされるそのところに神様の御業と祝福があらわされますように、真摯委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
43:33

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