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2020-08-30 31:56

2020/08/30:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(13)心の良い倉から良いものを出す

2020/08/30 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 -45


00:01
アーメン
改めて皆さん、おはようございます。
今日も朝から暑いですけれども、また変わることなく信仰を持って、
コロナの災いというか、恐れもある中で、皆さんが本当に礼拝をしたい、求めて、
暴かることなく、主の御前に、このように集っていることは、
本当に、それは信仰によるものであり、神様に喜ばれる行いだと思います。
今日もですね、ある意味で、今日の礼拝は、私たちの人生において、最初であり最後なんですね。
今日の礼拝でしょ。二度と来ないんですよ。
人生に、今日というこの時間、もう5秒前は過ぎてしまいました。戻せないんです。
だから、一瞬一瞬、今日の礼拝を、神様の御前に、礼と誠を持って、
これからの礼拝を、最高の礼拝を、お授けしていきたいと、そういう風に願っております。
一言、密着お祈りいたします。
良い人は、その心の良い蔵から、良いものを出し、悪い人は、悪い蔵から、悪いものを出します。
なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです。
神様、今日も私たちは信仰を持って、ただ、あなただけに信頼して、ここに集まりました。
どうかしよう。今から、本当に、神の御言葉を聞き出します。
私たちの礼の目を開いてくださって、あなたを見ることができますように、
あなたを知ることができますように、あなたにお会いすることができますように、
神様、豊かに祝福してください。
そして、さらにさらに、主を知り、さらにさらに、もっともっと、主に従い、主に使えるものとなりますように、
神様、祝福してください。
どうか、主の光が、命が、一人一人の魂の中に、本当に満ちあふれるほど吹き込まれますように、
どうと主を祝福して、その魂を一人一人、お守りくださいますように、
イエス様の皆によって、お祈りいたします。アーメン。
はい、今日も、このイエス様のたとえ、私たちへの問いかけ、13回目になります。
タイトルは、「心の良い蔵から良いものを出す。心の良い蔵から良いものを出す。」という題でございます。
今日の、ルカノ福音書の第5章の、この39節から始まるイエス様のたとえ。
03:04
39節を見ますと、イエス様はまた、一つのたとえを話されたとあります。
でもですね、よく読んでみますと、いくつかのたとえが、つついているような感じもしますね。
例えば、タランドのたとえとか、住人の娘のたとえとか、
一つのストーリーになっているようで、そうでないような、今日のたとえになりますが、
そこからですね、絞ってですね、一つの教訓を、今日一緒にですね、学び、主の御言葉を、一緒にお受けしたいと思います。
初めにあたり、皆さんに一つお聞きしたいと思います。
皆さん、私たちの信仰の標準は誰でしょうか。
イエス・キリストですね。誰かは人ではないんですよ。
あるいは牧師でもないんです。もちろん、この世が神父のようになりたいな、
誰々の先生のようになりたいな、という思いがあるかもしれません。
それが悪いものではありませんが、
私たちの信仰の標準、それはただお一人イエス・キリストです。
ヘブル人への手紙12章2節を見ますと、こういう御言葉があります。一緒にいただきたいと思います。
新約聖書ヘブル人への手紙12章2節です。
ヘブル人への手紙12章2節
私の聖書では440ページです。
それでは2節を一緒に読みたいと思います。
笛を合わせて一緒に読みましょう。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、イエスは御自分のために。
アーメン
私がもう一度読みますので、皆さんご覧ください。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
イエスは御自分の前に浮かれた喜びのゆえに、恥ずかしみをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
アーメン
06:00
ここにですね、信仰の創始者であり、完成者であるのは誰ですか?
イエス様ですね。
ですから、イエス・キリストが私たちの信仰の創始者である、完成者である、つまり信仰する私たちにとって、誰を何を標準にしたらいいのか?
それはイエス様です。
イエス様が信仰の唯一の標準であり、基準であり、模範であるということなんですね。
ですから皆さん、私たちはどのように信仰したらいいんですか?
どんな生徒になったらいいんでしょうか?
誰のようになったらいいんでしょうか?
皆様の心の中にもね、いろんな願いがみんなあると思うんですよ。
それはイエス様のように考え、イエス様のように物を言い、イエス様のように行動し、イエス様のように生きることを、私たちはみんな望んで願っているんじゃないでしょうか?
例えばですね、人は誰かをとても尊敬する、あるいは愛する、そしたらその人の真似をするんですね。
偉大な誰かのようになりたいとか、今の若者たちといったら、アイドルの誰々のようになりたいとね、その人が着ている洋服を買う、女性だったら同じ化粧品を買って塗ったりね、真似をする。
誰々のみたいになりたいというものがあるんです。真似をする。
ある意味でですね、子供のような言葉になるかもしれませんが、
イエス様の真似をしていいんじゃないかなと思うんです。
イエス様が考えられているように考えること。
イエス様が話されるように私たちも話す。
イエス様が行動するように私たちもそれを真似してのようにする。
イエス様のように生きる。
イエス様のように人を愛する。
イエス様のように人を許す。
イエス様のように誰でも受け入れるように真似をする。
それが従っていくことじゃないでしょうか。
これが意味としてですね、信仰が成熟するために私たちは普段、
良い悩みをすることはいいと思うんです。
イエス様は何を話されたんだろうか考える。悩む。
心配じゃないですよ。悩むんです。考えるんです。
09:04
イエス様はどんな行動をしたんだろうか考える。悩む。
イエス様はどんな思いを持ったんでしょうか。
ようにですね、よく考えて、深く考えて、あるいは悩んでですね、
そしてそれを答えをね、その答えを、その模範を、その標準をどこから見つけたらいいんでしょうか。
この神の聖書から模範を、モデルを、標準を見つけ、見出してほしいんです。
そしてイエス様の足跡をついていきたいというわけです。
だからね、ある意味で成熟する信徒は、成熟した信仰を持った生徒は、
よく考え、よく聖書を読む人なんです。
ある意味で簡単すぎますね。
どうですか皆さん、普段よく考えていらっしゃいますか。
どうしたらイエス様のようになれるんだろうかと、悩んでいらっしゃいますでしょうか。
それが必要なんですよ。
そういった意味として、今日の御言葉から、今日のたとえから、
イエス様が何を話されたのか、
イエス様の思いは、イエス様の価値観、イエス様の世界観はどんなものなのか、
イエス様が今、このルカノ福音書6章で、今日の大章はですね、弟子たちですけれどもね、
その弟子たちにイエス様が何を言っておられるのか、
彼らに何を教えておられるのか、それを学びたいんですね。
そしてそれを自分のものにしたいです。
さあ、今日のたとえをですね、簡単にまとめて話をすると、
最初は盲人が盲人の手引きをすることはできない。
二人とも穴に落ち込んでしまう。
その次は、十分に訓練を受けた弟子は死のようになる。
またその次は、人の目にある塵より、まず自分の目にある針を取り除きなさい。
そして良い人はその良い心から良いものを出す。
悪い者は悪い蔵から悪いものを出す。
なぜなら、人の口は心に満ちたものを話すからだ、とね、
御言葉を淡々とつなげていかれるんですね。
実は皆さん、今日のこのルカノ福音書の5章の御言葉は、
マタイの福音書の第5章から7章に書かれている、いわゆる三条推訓ありますよね。
12:06
そのマタイの福音書が詳しくほとんど書かれていますけれども、
ルカノ福音書はマルコの福音書の三条推訓のちょっと宿書版みたいなね、
ルカノ福音書版なんですよ、今日の御言葉は。
そして今日はイエス様が今までと違ってですね、
パリ裁人たちとかそういう人々ではなくて、
12人のイエス様の弟子たちにイエス様が話された例えなんです。
さあ、そこに一つ考えてほしいものがあります。
どうでしょうか、ペテロとかアンデレとかヨハネとかマタイとか、
彼らはイエス様に出会って弟子になる前までは、
両親だったり主税人だったり、それぞれ別々自分の人生を歩んできたわけなんです。
そこまでイエス様とはある意味で無関係の人生だったんですね。
だから、いわゆるこの世的な人生観、物質観、金銭観、価値観、生き方を持って生きてきた人々ですね、
ペテロとかヨハネとかみんなそうなんです。
私たちも同じなんですね。
イエス様に出会うまで本当にイエス様は救い主だ、この救い主他にはいないと信じるまでには、
それぞれ私たちはこの世的な生き方をしてきたわけなんです。
私たちが悪いことをしたという意味じゃなくて、この世的な生き方をしてきたわけなんです。
しかしイエス様に出会ったからは、イエス様に出会ってから弟子になった彼らはいわゆる新しい人生が始まったわけなんです。
だからどうですか、マタイとかマルコとか聖書よもとのペテロたちに、
私、ついてきなさい。あなた方は今から人間を取る良い人になるんだ。
そして彼らは何もかも捨てたじゃないですか。
網を捨て、船を捨て、家族も後に捨て、イエス様についていったじゃないですか。
それは大きなことの象徴的なニュアンスがあるんですよ。
網を捨てた、船を捨てた、ある意味で職業も捨てたわけなんですよね。
自分のふるさとも後にしたわけなんです。
つまり今まで愛していた、愛着を持って大事にしていた、そういったすべてのものを後にした、手放した、捨てた、
15:04
というのはもう生き方を変えるという意味なんですね。
古いものは過ぎ去った身を、すべてが新しくなったその人生をスタートしたわけなんです。
でもどうですか。その頭の中には、記憶の中には、この体についているのはどうですか。
今までの癖や風習や考え方、生き方が身についているんですよ。
言葉についている、口についている、考え方に、生き方についているんですよね。
一瞬に変えたらいいんだけれども、一瞬に変わらないんですよ。
自分自身を見ても、ちょっと余談ですけれども、ある意味で一番変わりにくいものが何なのかとみたら、
何だと思いますか皆さん。人間なんですよ。人なんです。一番変わりにくい。
もちろん不可能だという意味ではありません。変わりにくいんですよ。人は変わりにくい。
だから神の力が、精霊の力が必要なんですけれども、ペテロとかその十二の弟子たちは、
今まで自分が大事にしていて握りしめて持ってきて歩んできたその生き方から、
もうさよならしなさいと、別れなさいと、そして新しい生き方をしなさいと、
そういう意味としてイエス様が教えられたメッセージが、いわゆるサンジョスイクンのあのメッセージなんです。
それがこのルカノクイーン書は、ちょっと短めになっていますけれども、
今日の読まれた三十九節からのこれは、いわゆる古武の的な生き方ではありません。
この世の人生観価値観ではないんですよ。違うんです。
というのはイエス様の弟子として召された弟子たち、天皇市民とされた弟子たちが、
どんな生き方をしたらいいのかを教えておられる。
だから私たちもこれを学ぶべきなんです。
イエス様が標準だからですね。
私たちはこの世的な生き方を捨てて、天の生き方、天的生き方をしたいと願って、
イエス様についていっている我々じゃないでしょうか。
さあ、ではそれが何なのか。本能に入ってみましょう。
今日の三十九から四十五節のこのたたよですね。
私もよく考えました。祈りました。
そしてこれを一つにまとめて絞ってみました。
18:04
それは一言で言うならば、まず自分自身を変えりみなさいというメッセージだと思うんです。
まず自分自身を変えりみなさい。
まず自分自身のことを変えりみなさい。
つまり、自分が盲人なのかどうか、自分を変えりみなさい。
知りなさいというメッセージだと思うんです。
あなたが今良い実を結んでいる良い木なのか、悪い実を結んでいる悪い木なのか、知りなさい。
自分自身を変えりみなさい。
そして自分の目に塵があるか針があるか、それを気づきなさい。
知りなさい。自分自身を変えりみなさいというメッセージですね。
今自分自身の霊的な状態、その生き方がまっすぐなのかどうなっているのか知りなさい。
そのためにはまず自分自身を変えりみてみてくださいというメッセージだと思うんです。
ところが皆さんいかがでしょうか。
自分自身を知ること、自分自身の霊的状態、自分の魂が今どんな状態なのか、
それを自ら知って気づくことは簡単ですか難しいですか。
意外と難しいんですよ。
決して良いではないんですよ。
正直に私たちは今日の御言葉のように、
人の目にある塵はよく見かけるんですね。よく見るんですよ。
でも自分の目にあるそれが塵であろうが針であろうが、
なかなか気づかないものが我々じゃないでしょうか。
それが私たちなんですよ。
ある意味ですね、神様は私たちの目を、この前面を見るように顔のここに神様がつけて作ってくださったんですね。
だから当然人は前を向いていくから、ここにあった方がいいんですよね。
ここにあったり、ここにあったり、ここにあったりしたら大変なことになるじゃないですか。
でもそういった意味として、自分を見るより前を見るから人を先に見るんですよね。
そうなってるんですよ、私たちの目は。
だから例えばスマホのカメラとか鏡を見ない限りは、
自分の状態を自分を見るのはまず難しいんですね。
21:03
難しいんですね。
だからある意味ですね、人の欠点や人の様子や人がミスしたこと、
人の失敗はもう見ないでねと言われなくても、よくもう見るんですよ。
見ては分かるんです。
それでね、先生ここについてますね、ネクタイがちょっと斜めになってますね、
ボタンが入れ間違ってますね、人のことよく見えてくるんですよ。
でも自分自身の様子はなかなか見えてこないのがあればいいんです。
そういった意味として私たちはみんな弱い存在で愚かな存在であることを認めざるを得ない。
また自分のチリや自分の失敗や自分のミスには気づきにくくて、
人のミスや人の失敗、それに対してですね、ゴーシップと言いますか、
つぶやくの悪口をするのが好きなんですよ、人はね。
テレビを見ながら政治家の悪口をするのが好きである。
それは楽しい。
他の国の人々を悪口するのが楽しい。
人の話をかけてするのがなぜか楽しいなんです。
それが私たちなんですよ、実は。
認めたくないかもしれませんが、それがある意味で私たちのありのままなんです。
また私たちはですね、自分自身に対しては寛大なんだけれども、
人に対しては厳しくしやすいのが私たちであるかなと思いますね。
だからどうしたらいいんでしょうか。諦めるんじゃない。
だから絶えず、イエス・キリストを通して、その方が標準ですから、
イエス・キリストを通して、神のこの御言葉を通して、
自分自身をいつも変えりみることなんです。
このような生徒が成長し、成熟し、本当にイエス様に似ていくんですよ。
だからさっき申しましたように、そういった意味としての悩み、考えは素晴らしい悩みだと思うんです。
私は今、正しい信仰生活をしているんだろうか。
私の信仰はこのままでいいんだろうか。
私の今、自分の霊の状態は、自分の魂は本当に神様に喜ばれるものなんだろうか。
イエス様の標準に近いんだろうかどうかを考え、悩む人でありたいんですよ。
その悩みは、イエス様に神様に喜ばれるものだと思うんですよ。
24:03
うちの子供の一人が、誰かと言いませんが、何週間前に悩みがあると。
何なのかと、その月の授業に聞いたら、今自分は、自分の信仰はこれでいいんだろうか。
お父さんが牧師だから、牧師の娘で信仰生活して教会に来てはいるんだけれども、
本当にこのままでいいんだろうかと、結構悩んだみたいなんですよ。
それで私が言いました。その悩みはいいことなんだよ。
問題は何の悩みもないことだと思うんですよ。
だから、悩むということは、自分自身を責めなさい、責めなさい、虐待しなさい、そういう意味であります。
繰り返して申しますと、霊的に成熟した生徒はいつも、まず自分自身を変えります。
そして、いつも標準であるイエス・キリストを見上げて、イエス様を通して自分自身を見る。
この神の御言葉を鏡のようにして、標準にして、いつも自分自身の心、生き方を、歩み方を、この御言葉にイエス様に照らしてみること。
そして、自分の魂が今、きれいなのか、汚れているか、まっすぐなのか、傾いているか、健康であるか、病んであるかを、いつも帰り見ることが大事なんです。
皆さんいかがでしょうか。また、自分自身のことをよく帰り見て、考えて、悩んでいるでしょうか。
自分の顔とか外見は、高みを見ればいいんですけれども、自分の心、霊的状態、自分の生き方、今自分の魂のコンディションは何を見たらわかるのでしょうか。
そんなアプリがあればいいんですよね、スマホにね。自分の霊の状態は何ですか、それでピンを押したら、あなたは75点ですよ、みたいにね。
そんなものがあるかどうかわかりませんけれども、唯一ありますよ、それは神の御言葉なんです。
ですから、霊的に成熟した生徒は、この信仰の標準である神の御言葉を通して、自分自身を照らしてみる。
そして、知る、気づく、悟る、そして、それをね、軌道修正するようにただして、修正して、直して、時には砕いて、時にはね、もう悔い改めて、決心して、イエス様に近づいていく。
27:05
標準に近づいていくこと、それが信仰生活ではないでしょうか、みなさん。
だからね、ある意味で、このままでいいよ、とか、自分を標準にしたり、人を標準にするのは危険だと思うんですよ、危ないと思うんですよ。
標準があるんですよね、標準がある。
そのために簡単に大事なことを二つ話をしたいと思います。
一つはね、まとめになりますが、ね、どのように信仰生活をすればいいのか。
まず、自分自身を変えりみてください。
標準は人ではなく、神の御言葉でありイエス・キリストです。
だから、よく聖書を読んで、そこからイエス様の言葉、イエス様の行い、考えを見て、学んで、そしてそこに自分自身を照らしてみて、
今、自分の心が魂、言葉、行い、生き方がどんなものなのかを、よく照らして気づいてほしいんです。
だから、みなさん、いつも聖書を開いてください。朝でもいいでしょ、午前でもいいでしょ、夜でもいいでしょ。
聖書を開いて、読んで、黙想して、学んでください。
二つ目、そのためには、イエス様の言葉、行い、考え、生き方を見て、真似して、それをね、学んでください。
今日の御言葉から学ぶとですね、自分が孟子なのかどうか、まず知らなければならないんですね。
実は自分の、この霊の状態が孟子なんですよ。自分もわけがわからない。
自分の魂も今、沈みそうな意地がけているのに、自分がね、他の人、ここに行くんですよ、行ったら、一緒に落ち込んでしまうわけなんですね。
それをしないためには、本当に良い方向に正しく導くためにはどうしたらいいんですか。
自分がまず、孟子なのか、見ているのか、見えてないのか、まず知って、気づいて、自分自身がね、正しい信仰をすることなんです。
そのための第一段階としては、自分を築くことなんです。
そしてまた、自分が良い身を結んでいるかどうかを、御言葉を通して、照らして、わかることなんです。
メッセージを終わりたいと思います。
最後にね、聖書を一箇所開いて終わりたいと思います。
30:03
ピリピリ人への手紙、第一章、六節。
ピリピリ人への手紙、第一章、六節です。開きましょう。
ピリピリ人への手紙、第一章、六節。
それでは382ページですが、六節一緒に読みたいと思います。
あなた方のうちに良い働きを始められた方は、キリスト、イエスの日が来るまでに、それを完成させてくださることを、私は固く信じているのです。アーメン。
皆さん、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストを見上げて、その方を標準にして、真似して、学んで従ってまいりましょう。
今は弱いかもしれません。今は欠けただけかもしれません。失敗が多いかもしれません。
時には汚れてしまうことがあるかもしれません。自分自身を見るより他人を見てしまうことがあるかもしれません。
しかし、今のこのピリピの御言葉のように、良い働きを始められた方、私のうちにこの救い、そしてこれを生としてくださる良い働きをされたイエス様が、神様がですね、どうですか、それを完成させてくださること、
それを固く信じて、どこまでも標準であられるイエス様を見上げて、従っていきたいと願います。お祈りしましょう。
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