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2023-03-12 34:11

「霊的な分別力、見る目と聞く耳」2023年3月12日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年3月5日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄 
動画によるメッセージはこちら:https://www.instagram.com/tv/CprD1IdpvPo/?igshid=YmMyMTA2M2Y%3D
教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com
マタイ-16 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
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今日は、礼的な分別力、その中で、見る目、聞く心という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
終わりの時の特徴ということは、イエス様が惑わすこと、惑わされることだと言われました。
人生100年、人生熱心に過ごしました。熱心に働きました。
しかし、神様から見ていますと、無駄なことばかりやりながら、天国に行かず地獄に行くんだとしたら、
皆さんこれはどれほど悔しいことでしょうか。 なぜ無駄なことばかり人生で過ごしましたか。
騙されています。 自分自身はこの道が一番幸せ、一番祝福の道だと思って、
人生を尽くして、その道を一生懸命走ってきたのに、
JMをやってから、人生の終わりの時に見てみたら、
それが道じゃなかったということを分かったら、 皆さんどれほど、どれほど、
自分の人生は一体何だったのかと思われるのではありませんか。 ですから、そんなことがないように、
神様がイスラエルの民の真ん中に立って、 神の下振りをずっと下ろしておられる。
それは、この下振りに合わせて、人生を、また人生のすべてを、 正しくやりなさいということだったでしょう。
しかし、今も神様は下振りを持って立っておられると、私は信じています。 しかし、その下振りが、皆さん目には見えてますか。
目に見えるのか、目に見えないのか、これは大きな差がありますけど、 この下振りを見ることは、私たちの知恵と知識によることではできません。
これを見るのことは、神様の全的な恵みであり、 神様が示してくださるとき、やっとこれを見ることができるんです。
そのために、私たちに要求されるのは、 正しい心の姿勢なんです。
第一ペトロ古書古説には、分別力は神様が 見せてくださるときに見ることができるんですけど、
誰に見せてくださるのか、 謙遜な人に恵みとして見せてくださると言います。
さて、分別力と関係して、 イエス様が私たちに非常に大事なたとえを教えてくださいました。
これが、四つの畑のたとえだったんです。
今日は分別力のための、四つの心の畑というたとえを一緒に考えながら、 分別力の大事なことを一緒に分かち合いたいと思います。
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まずイエス様は、福音書をよく見ていますと、 ほぼほとんどのイエス様のメッセージは、たとえを用いて話されました。
なぜイエス様は、たとえを用いて話されるのか。 その理由は、私たちの心の中心に、あなたは何を願っているのか、それを見るためだったんです。
イエス様が行くところに人が集まりました。 そしたらイエス様は教えられた。
これが福音書のパターンなんですけど、 イエス様が行くところどころ、人が、おびただしい人たちが集まりました。
なぜ集まったのか。何の目的で集まったのか。 パンを得るためなのか。
私を見るため。私を目的なのか。 パンなのか。真理が知りたいくて集まったのか。
十字架の福音を分かち合いながら、非常に大事なのは、 イスラル人たちがアラノの40年間の生活の中で、
神様はモーセには道を示してくださいました。 しかしイスラル人の中には、奇跡だけ見せてくださった。
なぜイスラル人たちは道を示さずに、奇跡だけで、 モーセは道を示してくださったのか。
それは、モーセは道をお願いしました。 しかし種たちは、水がなければ水をください。
パンがなければパンをください。奇跡的にそれを与えてください。 奇跡を願ったから奇跡をくださり、
モーセは道を願ったから道を示してくださった。 それだとしても、なぜ神様はモーセはそれを、
イスラル人たちはそれを見せてくださったのか。 じゃあ皆さん、
これをよく聞いてください。 私は妻が妊娠するまでは、
見ごもっている女性をあまり見てなかったような気がします。 なぜ見ごもっている女性をあまり見てなかったのか、
私は関心がなかったんです。 しかし妻が妊娠してからは、
よく見てますと、見ごもっている女性が多いですね。 私が結婚する前は、
妊娠、育児、
子ども教育とか、こんなことには私は全く関心がありませんでした。 ある人がその話をしたとしても、聞き流してあまり
わからなかったか。 なぜなら私は関心がなかったからです。
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しかし妻が妊娠してからは、 これがどれほど大事なのか、そのような記事、またそのような本だけ、私が探して、それを読んで、それを理解しようと思いました。
ここから見ても大事なのは、私たちは自分が関心を持っていることだけを見ることになり、
聞くことになるということです。 ですから、イエス様がご自分を求めてくる人に、
何を願っているのか、何を願っているのか、いつも聞かれたんです。 真理に関心を持っている人は、真理を語ったら、
ああそうですか、とわかりますけど、 真理に全く関心がない人に、いくら真理を教えるんだとしても、
彼らの真理に関心がないから、 時間の無駄遣いになるかもしれません。
ここで、私たちは自分が関心を持っていることだけ見えてくるんですけど、
皆さんは何を関心を持って、 この教会に来られたのでしょうか。
じゃあ、心の焦点、また、関心によって、 イエス様は私たちの心には4つの畑があるんだと教えてくださいました。
これが、マタイ13章の例の話ですけど、 道端のような心、
石だらけの心、 茨のような心、また、良い土のような心があると言われました。
じゃあ、まず、道端のような心です。 どんな人がこのような例なのか、それは宗教主導者たち、
パリサイ人たちのような立法主義者たちです。 彼らは自分の熱心によって、自分が一番よくやっているんだと自負している人たちでした。
それで、うまくやっているのになぜイエス様のところに来るのか。 彼らたちの関心は、
イエス様に対する妬み、それでイエス様の弱点を探して、 非難する口実を得るためにイエス様のところに来ました。
じゃあ、イエスが過ちをするのかしないのか、そればっかり見ている人に 真理を語っても、彼らは真理に耳に入ってくりません。
真理を語りながら、何か少し間違えたとか、何か少し気になる、 その部分だけを何とか捕まおうとしました。
だから真理を語っても、 誤解してイエス様は非難ばかりしました。
だから、その心には神様が願っておられる天国の実は身を結ぶことができませんでした。
2番目、石だらけの心がありました。 それはイエス様の元に来たほとんどの人が石だらけの心でした。
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彼らは真理に関心があるということよりは、自分の問題解決、
とにかく食べて生きるのに問題がないように、何とか助けをいただく心に関心がありました。
だから、いつもイエス様によって自分の問題が解決できるのか、できないのか、
解決できたら感謝、解決できなかったらイエスも何にもないねと思うこの気持ちで、
そしていくら祈っても何ができなければ恨みをする人、 またその人たちは自我が下ろされていない。
だからイエス様の御言葉が耳に入ってこないんです。 聞いても従わない、変化がない人でした。
その人たちも天国の実りはありませんでした。 次は、茨の地のような心があります。
簡易であり若い金持ちの青年、 またイスカレッドユーダーのような人たちがここにあります。
彼らは 永遠の命に関心があり、また大きな熱心でイエス様についていき、
また切磋な心に求めることもありますけど、 自分の人生の優先順位の一番いつもお金、
また世の中の富に関心がありました。 彼らはもう富のためにはイエス様さえも裏切ることもできる。
富のためにはイエス様を捨てることもできる人たちでした。 その人たちも結局身を結ぶことができませんでした。
4番目、良い土の人たち、弟子たちでした。 私たちは良い土になりたいんですけど、
イエス様がパン一つ魚二匹で 5000人を食べさせている奇跡を行いました。
皆さんこれだったら イエス様はすごい働きをされることでしょう。
次にイエス様が十字架の話をしたらみんな逃げてしまいました。 躓いて。
その時イエス様が弟子たちにこう言いました。 ヨハネ6書68節ですけど、
あなたたちも離れていきたいのかと言った時にペトロがこう言いました。
主よ、私たちは誰のところに行きましょう。 あなたは永遠の命の言葉を持っていますから。
永遠の命を得る真理があなたにあるので、私たちはどこに行きましょうか。
弟子たちはイエス様が永遠の命だということをわかっていた。
だからイエス様に出た弟子たちの関心は イエス様を愛する、また永遠の命に関する真理を知りたい。
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そのことを聞きたくてイエス様のところに来ました。 結局この弟子たちを通して100倍60倍30倍の
身を結ぶことができました。 じゃあ皆さんこのように
みんな同じようなメッセージを聞くのにも ある人は身を結ぶことができる。
しかしある人は身を結ぶことができない。 なぜでしょう。
ここに4つの畑に分かれる心の姿勢、この人たちの関心はどこにあるのか。
それによって神の秘密を見る霊的な分別力が与えられる場合もあるし、
与えられない場合もあります。 与えられなければ自分の努力で天国を身を結ぶ、
天の国、神の国を身を結ぶことはできません。 今日読んでくださった聖書、マタイ13章11節
イエスはお答えになった。 あなた方には天の国の秘密を悟ることが許されているが、
あの人たちには許されていない。 神の国の秘密がある人には
許されている。 しかしある人には許されていないということです。
心の状態によって、 関心がどこにあることにかよって、
しかしあなた方は目は見るから幸いであり、 あなたの耳は聞いているから幸いだと言います。
じゃあ、この幸いの心、幸いの耳を持っているのか、 そうではないのか、
みなさんはどうですか? 身を結ぶ人になりたくありませんか?
身を結ぶための良い土をマタイ13章23節に見ていますと、 身言葉を聞いて悟る人が良い土だと言われています。
身言葉を聞いて悟る人、 そうするためにはどのように神様が分別力をくださるのか、
これを今日わかっちゃいたいんですけど、 弱音の福音書は礼儀的な分別力の章だと言います。
弱音の福音書には、礼儀的な分別力を与えられるか、与えられないか、 それを決める心の姿勢に対して、大事なことを私たちに教えてくださいます。
私たちの心は、今、礼儀的な分別力を与えられるのか、与えられないのか、 与えられなければ、自分の努力でできるものではありません。
昔、私はこう言いました。私は牧師だから。 牧師は神徒とは違う、礼儀的な分別力を与えられるでしょうと思いました。
違います。そうではありません。 牧師だって、礼儀的な分別力があるのか、違います。
聖霊の賜物があるんだって、分別力がありますか? 違います。
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では、どんな人に分別力があるのか? 私だとしても、牧師だとしても、このような心を持たなければ分別力はありません。
牧師が分別力がなければ、教会はどうなりますか? だから、私たちはこのような心をぜひ持ちたいんですけど、3つのことをぜひ覚えてください。
まずはじめに、神を恐れ敬う人に分別力が与えられます。
詩編の25章の14節。 主を恐れる人に主は契約の奥義を悟らせてくださいます。
主を恐れ敬う。 どうすれば、主を恐れ敬う人になりますか?
今、若者たちはほとんど神様を軽んじっています。 しかし、ある人は神様ということは本当に大切に思っておられる人もいますね。
じゃあ、どんな人にそうできるのか? 聖霊の働きがある人です。
聖霊の働きを、主を知り恐れ敬う霊と言います。
聖霊様が働かれるなら、主を知り恐れ敬う心はできます。
恐れるということは、恐れ敬うということは、神様の栄光を見て、神様がどれほど素晴らしいお方なのかを自分はわかってから、
神様を大切に思う心、思んじる心、それが恐れ敬う心です。
恐れ敬う人に分別力を与えられたらどうなるのか?
私たちの心の中で、神様の御心に従いたくないと思っている固い要塞があります。
壁があります。
その恐れ敬う人に分別力を与えられたら、その固い要塞が全部破られてしまいます。
そのような人は、信仰の伝統、社会的な通念、また人々のいろいろな評価、そんなことは関係なく、
御言葉がそうであるなら、御言葉のために命を懸けるような心で御言葉に従います。
その人たちは、御言葉の素晴らしい実を結ぶことができるんです。
恐れ敬う心があるのかないのかは、その人たちの話し方とか、いろいろな行動を見たらすぐ分かります。
恐れ敬う心がない人と付き合ってはいけません。
神を軽んじっている人と、皆さんこれは大変な問題です。
恐れ敬う心を与えられることは、とりほど幸いでしょう。
私たちの子どもたちが神様に対して勝手な話し方、こんなことを絶対やらないように、
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恐れ敬う子どもになることを、ぜひ子どものために祈ってあげてください。
これが精霊の働きによってできます。
また2番目に、どんな人に分別力を与えられるのか。
神様の身むねを尋ね求める人に分別力を与えられます。
積極的に皆さん、神様の身むねを探していますか。
例えば、もし皆さんの今の生活の中で問題が生じました。
ああ、今までなかったのに、なぜ私にこんな大きな問題があるのか。
じゃあ、その時皆さんどうしますか。
大抵の方は心配します。
心配をしすぎて、落ち込んでしまって悩みます。
起立者たちはそうしてはいけません。
その問題があったらすぐ神様にひざまずいて、
神様に聞いてみなければいけません。
神様、私にこんな問題が生じました。
なぜですか、なぜですか。
私に何か問題がありますか。
どうすればいいですか。神様教えてください。
問題が生じた時に、神様に尋ねてひざまずいて、
答えが出るまで神様の前に留まることは大事です。
心配するのか祈るのか、
ぜひとも祈っていただきたいと思います。
積極的に神様に尋ね求めるなら、
神様は霊的な分別力を与えてくださり、
それを通してもっともっと親しみが良くなります。
サムエル上の三十章で見ていますと、
ダビデがサウル王を避けてペリシティ陣営に行きます。
イスラエル王から避けてペリシティ陣営に行ったら、
サウルのイスラエルとペリシティの間に戦争が起こります。
だから私もペリシティのために戦争に出なきゃと思いながら、
ダビデの陣営でペリシティの王に行って、
私たちも戦争に参加しますと。
そしたらペリシティの将軍たちが、
いや、彼がいつ裏切るかわからないから、
彼と一緒に出たらいけません。
そしてダビデはペリシティとイスラエルの戦争に出れないで、
そして自分の陣営に戻ってきます。
戻ってきたらアメリカの人たちが攻撃してきて、
自分の妻と子供たちと財産を全部奪って、
もう連れて行ってしまいました。
その時だったら皆さんどうしますか。
早く取り戻さなきゃと思ってもう出て行くでしょう。
ダビデはそうしませんでした。
神様にひざまずいて、
神様どうしたらいいんでしょうかと聞き始めました。
これがサムエル城の三十章の八節です。
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ダビデは主に作戦を求めた。
略奪大を追跡すべきでしょうか。
追いつけるでしょうか。
追跡せよ必ず追いつき救出される。
神様に聞いたら神様がすぐ答えをくださったんです。
神様はこのようにご自分に尋ねてくる人、求めてくる人を大好きなんです。
問題があったら必ず神様の前に出て、
私にこんな問題が生じました。
神様どうしたらいいんでしょうか教えてください。
私に何か問題があるなら教えてください。
すべて直します。
このように祈って始めたら神様が答えをくださるだけじゃなくて、
喜びながら一生にやってくださいます。
ぜひとも積極的に求める人に分別力、
また道、解決の案が出てきます。
また神の見事は通り、
行おうとする人に分別力と道を示してくださいます。
ヨワネ7章中を習わせてみますと、
この方の身心を行おうとする者は、
私の教えが神様から出たのか、
私が勝手に語るのか分別することができる。
行おうとする時に分別力が与えられます。
聞いてただ聞くだけの人は分別力はありません。
聖書よくわかっているから分別力はありません。
行おうとする時に分別力をくださって、
これをどうすればいいのかが分かるようになります。
また大事なのは、私たちは大抵人々の顔色をうかいます。
そうしてはいけません。
人を顔色を見るんじゃなくて、
神様の評価だけを大切にする人、
その人を神様が喜んで分別力を与えてくださいます。
皆さん、人々の顔色をうかうのはやめましょう。
人の判断、人の評価がなぜ大事でしょうか。
私たち一番大事なのは神様の評価です。
私たちは最後に神様の裁きを受けるでしょう。
人々からの裁きではありません。
人々の顔色をうかう人は卑怯な人になります。
神様はその人たちを使いません。
神様の評価だけを大切にする人、
その人に分別力が与えられます。
最後に、神の手を求めるんじゃなくて、
神の御顔を求める人に分別力を与えます。
私たちが誤った意図で神様を求めるなら、
24:00
礼儀的な目がもっともっと悪くなります。
先ほども申し上げましたけど、
アラヌの40年間の生活の中で、
アラヌの中で皆さん40年生活したら、
足りないことばかりで問題がたくさんあるでしょう。
その時、イスラエル人たちは神を恨みながら、
なぜこんなところに連れ出して私たちを苦しめるのか、
いつも恨みながら祈りました。
叫びました。
その時、神様は彼らの願いを全て叶えてくださったんです。
しかし、そのように神様が問題があったら、
神様に恨みながら祈るなら、
神様は答えをくださるんですけど、
問題があります。
これが詩編の106の15節です。
主は彼らにその求めるものを与えられたが、
彼らのうちに病気を送って、
痩せ衰えさせられた。
皆さん、アラヌでいろんな問題があるのは、
二つの意味があります。
一つは訓練。
それをこの苦しみの中で、
あなたはどうするのかを見ています。
それを通して、神様を信じて、
今日素晴らしい、
なぜろの、よみがえられる、
生きがえられるその場面、
信じて乗り越える人もいるし、
そうじゃなくて、
それを通して悩み、不満する人もいます。
それを乗り越えるように。
また、私自身に治すべきことがたくさんあります。
私自身は今、神様から何十年ですか、
今も訓練を受けています。
なぜなら、私の中に
治さなければいけないことがたくさんあるからです。
イエス様は良い牧者です。
しかし、私は良い牧者ではありません。
中人への教会を導くのに、
弱点がたくさんあります。
これを治さなければ、
私は導き手としてふさわしくないから、
神様は家庭の問題、子供の問題、
いろいろな問題を通して、
私自身がそれを治すまで訓練されます。
それを分別するべきでしょう。
しかし、神の手を求める人を通しては、
分別ができません。
いつも神を恨みながら求めるから、
答えはくださるんですけど、
悪い癖がつくんです。
そして、いつも問題があったら、
叫ぶ、恨む、解決できたら感謝。
だから、神の身もねは絶対わからなくて、
自分の問題解決ばっかりするんです。
40年間、神様は私を助けてくださった、
感謝しますと言うかもしれないけど、
40年の荒野の生活の訓練は、
何の意味だったのかは全くわからない。
分別力が全くない人になってしまいます。
27:00
私たちは分別力が大事です。
100年人生は見えるかもしれないけど、
この後何があるのかは、
礼儀的な目で見ることができなければいけません。
これを見るのが分別力なんです。
最後に大事な、
弥勉の第9章にある教訓を一緒に分かち合いたいと思います。
弥勉9章1節に、
さてイエスは通りすがりに、
生まれつき、目の見えない人を見かけるようになった。
生まれながら目が見えなかった。
赤ちゃんの時から目が見えなかったとしたら、
みなさん、この人はどれほど不幸な人でしょう。
だから周りの人がみんなこう言います。
かわいそうだ、かわいそうだ。
神様、ひどいんじゃないですか。
恨みながらいろいろ議論します。
この人が目が見えなくなったのは、生まれながらでしょう。
自分の罪ですか、両親の罪ですか。
みんなこれを議論しています。
その時イエス様は、何と言いますか。
9章3節を見ますと、
本人が罪を犯したからでも、
両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。
要するに、彼が目が見えないようにこの世で生まれたのは、
イエス様が世の光であり、
イエス様が癒しの献身者だということを、
この人を通して示すために、
彼はその世に生まれたということです。
皆さん、それを聞いた時、悔しくありません。
なぜ私ですか。
私は幸せに生まれるべきであり、
なぜ私は、他の人は、
みんな目を見るような人状態で生まれるのに、
なぜ私だけが目が見えないように生まれたんですか。
と言うんじゃありませんか。
彼は目が見えない状態で生まれて、
ずっと育てられたから、
お仕事できないから、貧しいでしょう。
人生苦しむでしょう。
しかし、彼が幸せなのか不幸なのかは、
ただ100年生きていることだけで、
この人幸せ、不幸だと判断してはいけません。
私たちの人生は、
100年この世と、
この後、永遠な天国と地獄があります。
この世プラス、
この後の永遠な世界も全部含めて、
私たちの人生は幸せなのか、
不幸なのかを判断しなければなりません。
彼が生まれて100年は、
いくら頑張っても、
世の中の人々が見るときに貧しくて、
不幸に見えるでしょう。
しかし彼は、
イエス様に出会って、
自分の使命を全うすることができました。
30:03
イエス様によって目が開けられ、
イエス様が世の光であり、
癒しの献身者だことを、
全世界の人々に明かしすることができました。
この人は、自分の使命をよくやりました。
後にどうなりますか?
この世では、少し貧しかったかもしれないけど、
イエス様が世の光であるということを、
この人同士で証明することができたから、
彼は永遠な天国で、
永遠に祝福される人になったでしょう。
この人は幸いですか?不幸ですか?
幸いです。
ただ、この世の中で何とかうまく生きたい。
幸せに、お金持ちになって、
うまく生きたいと思って、一生懸命働いて、
神様からの与えられた使命は、
全然わからないまま、
この世を去っていくなら、
この人はどうなるんでしょう、その人は。
地獄に行くでしょう。
100年、幸せかないかわからない、
この世の中で、苦しみの中で、
まあ、でも安らかに生きたと思うかもしれないけど、
永遠な世界には、地獄に行くとするなら、
この人は幸せですか?不幸ですか?
皆さん、これを、目に見えないこの世界を見る。
目に見えないこの人生全体を見て、分別する。
これが霊力の分別力です。
皆さん、今、分別力を持っていますか?
ただ、世の中である人はよくできる、ある人はよくできない。
それだけで、ああ、この人はダメだ、この人はいい。
このような判断は、神様が見るのに、
霊力の分別力があるとは言えないでしょう。
是非とも、是非とも、霊力の分別力を持って、
神様が何を願っておられる。
私たちは何の使命を持って、この世で生きたのか。
どんな生き方が、永遠に永遠に祝福されるべき人生なのかを、
よく見極めて、私たちのこの百年の人生をよく過ごし、
そして、永遠の天国に行く、私たちになれればと思います。
この人が、霊力の分別力がある人です。
私は、子どもたちのために祈るとき、いつもこの祈りをします。
イエス様をよく信じて、主の御業によくよく用いられながら、
永遠の天国に入る子どもにならせてください。
これが、一番幸いな人になる秘訣です。
子どものために、いつもこのような祈り、
そして、親が模範を見せながら、
子どもたちがうまくついてくるような子どもになるように、
私たちをよくよく助けていきましょう。
33:00
みんなが、この世でも幸せ、
永遠の天国でも幸せになる私たちになりましょう。
お祈りいたします。
主よ、この世は百年、天国地獄は永遠ですけど、
この世でも幸せにならなきゃいけないですけど、
永遠の天国で入って、
永遠に神様に祝福されることよりもっと大事なことはないのですが、
聖霊様、どうか私たちに礼的な分別欲を与えてくださって、
最高に祝福される私たちにならせてください。
孟子はこれがありました。
孟子は、パラオの宮廷で王族の子として過ごすよりは、
自分のため立ちと共に虐待されることを選びました。
彼は、神様がくださる永遠な命、
永遠な祝福に目を向けたからだと言いました。
孟子が持っていたこの分別力を、
私たちにも豊かに与えてください。
イエス様の源を通してお祈りいたします。
アーメン、アーメン。
34:11

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