00:00
おはようございます。
金曜日、週曜日は、
では、メッセージの前に、
03:01
私はあなたが生なるものが、
生であるから、
いますように、神様。
出てないです。
出てないです。
出てないです。
出てないです。
さっきまで出てました。
メインのボリュームを全部上げてください。
帰りました?
政府の男の声ですか?
ありがとうございます。
すみません。
いつ何が起こるかわからないですね。
人生というものは、いつ何が起こるかわからないです。
晩餐も準備をしても、
ふずあいが起きたり、
いくら自分の体を準備していて、
いざと横に出したら、
おかんと足首が折れたり、
何かがあるんですよ。
空港に行こうと準備していくと、
高速道路でパンクになったり、
いろんなことが起こるんですよね。
そう見ると、
私たちが一日一日、
こういうふうにね、
守られて生かされていることは、
神様の恵みをなくしては、
もう生きていけないんですよね。
ふと思い出せましたけれども、
2013年だったんですよね。
その年の夏の、
選挙チームが、
3チーム来たと思うんですよね。
一番先に、
いい君たちが来たり、
全部最後のチームを送って、
空港に、
06:01
ハンナと私一緒にね、
帰りの車が、
うちのワゴンでしたけれども、
大阪のあたりで、
車の調子が悪くて、
何か大きな音がパーンとね、
起きて、
ハンドルがおかしかったんですよね。
そして緊急止めて、
見たら、
後ろのタイヤがもう、
完全に破れてしまった。
それでですね、
緊急、
劣化してもらって、
タイヤはその場でね、
堺市のところで、
音爆してね、
帰ってもらいましたけれども、
その中でそう思いましたね。
もし、
彼らを迎えて、
神戸に来るとしたら、
人が多かったりして、
事故になったら、
大変なことになったかもしれない。
でも全部、
その年は何回もね、
神戸から神戸を何回も往復しましたけれども、
全部終わって、
帰りのときに、
天国に行ってもいいような、
牧師風を二人乗っていて、
遅い事故になって、
結果もなかったんですけどね、
そういうふうに帰って、
無事に帰ってきたんですけれども、
何がいつか起きるかわからないんです。
だから、
私がいつもお話ししましたように、
今日礼拝できるときに、
礼拝する。
明日礼拝したくても、
礼拝ができないんですよね。
その中で皆さん、
今日守られてですね、
一緒に集まって礼拝できる、
本当に心から感謝いたします。
今日は礼引きから、
あなた方の神となるため、
というタイトルに基づいて、
お話をしていきたいと思います。
皆さんは、
今までですね、
何か本当に、
とても欲しくて、
もう絶対に持ちたくて、
欲しくて、
もうそれを何とかしてですね、
手に入れた経験とかありますか?
あるいはそれが、
まあまあ高いもので、
お金を地味に貯めて、
やっと手に入れた、
そういうものないですか?
ありませんか?
お金が普通にあって、
普通に買えますか?皆さん。
私、中学の時の話ですけれども、
通学用の自転車が、
欲しかったんですね。
家から学校が遠かったんですよ。
歩いて1時間20分ほど、
歩いて行ったり、
家の町から学校の間に、
そっとした丘もあったから、
時にはその丘をね、
注意し急に、
今の息子みたいな、
遊び感覚で、
山を乗り越えて、
学校に行ったりして、
自転車が欲しかったんですね。
でも親が買ってくれない。
まあいろいろ事情があってですね。
それで家近くの自転車屋さんがあって、
そこの自転車が、
自分が欲しいものが、
ちょうどあったんですよ。
09:01
前にそこを通り過ぎながら、
あれが欲しい、あれが欲しいながら、
で、おこす買いを、
もう本当に、
少しばかりのおこす買いでしたから、
それをほぼ1年以上、
貯めて、貯めて、貯めて、
まあでも、
あの自転車がそこにあったから、
やっと、ね、
自転車を買って、
そしてそれに乗って、
あの初めて学校に行く時には、
もう本当に自分で飛行機掃除して、
学校に行くような、
本当に嬉しかったんです。
なんか欲しいものを、
自分が努力して、
自分の喜び、
比べ物にはならないと思いますけれども、
神様は、
永遠から、
私たち一人一人を、
ご自分のものにすることを、
切に、
熱心に、
願っておられました。
それは、
私たちの神となるためです。
それで、
私たちが、
神様を礼拝することを、
神様を熱心に、
願っておられました。
その先から話をして、
つなげていきたいと思いますけれども、
神様は、
アダムとエヴァを作り、
彼らと交わり、
彼らは神様を礼拝することを、
楽しみにしておられました。
しかしどうですか?
アダムとエヴァは、
罪を犯してしまって、
神様との交わりを、
礼拝もできなくなってしまいました。
でも、
愛に満ちた神様は、
彼らが生きていける道を、
開いてくださり、
守ってくださいました。
子息が増え広がりました。
ところがどうでしょうか?
そんな中で、
人間たちは、
また、
本当の神様を知らなくて、
罪を犯して、
堕落してしまいました。
堕落してしまった人々は、
あまりにも増え広がってしまいました。
神様は、
聖なる方だから、
堕落した人間たちを、
汚れた者たちを、
滅ぼすこともできますが、
そうなさらなかったのです。
そんな中で、
神様は、
ノアという人物を選び分けて、
性別して、
その家族と動物が生きるように、
箱舟を作らせてくださいました。
そして、
また、
もう一度、
生きる道を開いてくださいました。
哀れんでください。
そして、ノアの子孫は、また、
笛広がりました。
しかし、どうですか?
時間が経つにつれて、
人間たちは、
12:00
また、堕落してしまい、
その中で、
バベル塔を作り、
神様の権威に挑戦しようと、
しまいました。
神様は、全てを滅ぼすこともできる、
もう一度、
想像もできる神様ですが、
そうなかったのです。
彼らに、一斉に、
言葉だけ、
違う言葉だけ、
放させて、地上に散らしました。
滅ぼすことなく。
でも、どうですか?
その子孫たちは、笛広がる。
でも、また、
神様から離れてしまって、
神でいない神を拝み、
神を捨てて、
しまいました。
でも、そんな中で、神様は、
また、一方的な愛をもって、
アブラムという人を、
選び分けて、
性別して、
くださいました。
それは、ご自分のものとするため、
自分の神様、
ご自分の所有とするためであり、
神でいない神じゃなくて、
本当の神を恋愛するためでありました。
彼らの神となるためでした。
そして、神様は、
偶像の町から、
あのアブラムを、
その家族を、
選び分けて、
性別してくださいました。
その息子の遺作を選び、
彼を用いてくださいました。
遺作の息子ヤコブを清めて、
また彼も連達して、
用いてくださいました。
ヤコブの息子のヨシフを、
エジプトに移住させて、
神の先民を、
つながせてくださいました。
そして、ヨシフと、
その兄弟の子孫が増え広がって、
あのエジプトで、
430年がたって、
誰が生まれてくるんですか?
モーセが生まれてきました。
神様は、
そのモーセを選び、
彼を性別して、
イスラエルを、
エジプトから救わせて、
くださいました。
エジプトを、
またエジプトを、
あの王のパルを、
例的に解釈するならば、
そのエジプトと、
その王パルは、
パル王は、
サタンと、
その力や支配を、
意味するのではないでしょうか?
そのサタンの奴隷から、
その支配から、
神様が、
ご自分の民とするために、
彼らの民となるために、
エジプトから、
サタンの束縛から、
彼らを選び分けて、
性別して、
清めて、
救ってくださる。
15:03
実は、私たちも同じなんですね。
私たちは、
皆、以前は、
神様を知らないものでした。
知ろうともしなかったものでした。
サタンの奴隷でした。
私たちの神は、
偶像でした。
あるいは自分自身でした。
しかし、どうですか?
神様は、不思議な形で、
私たちを、
そのサタンの力から、
死という呪いから、
救ってくださったんですね。
救ってくださったんですね。
性別してくださった。
そこには、大事な目的がある。
それは、
神様が、
私たちの神となるためであり、
私たちが、
主なる神様を礼拝するためであり、
つまり、
私たちを神様ご自分の
所有とするためであります。
それが、
私たちが、
救われた理由であります。
神を礼拝する理由であります。
私たちが、
何か金持ちになって、
栄えて、成功して、
出世して、
良い人生を送るためではないんです。
実は、
それは神様がくだされば、
感謝のことであるということなんですよ。
イスラエルの民が、
エズプトから救われた目的と、
私たちがサタンの支配から
もう一回繰り返して申しますと、
私たちの神となるためであり、
私たちは神のものとなるためであり、
私たちは、
神様だけを礼拝するためで、
私たちは、
この世から選びを受けられて、
清められて、
救われて、
今、ここにいて、
主を礼拝しているんです。
しかし、イスラエルの人々はどうですか?
エズプトを出て、
アラノを通って行った時、
また、カナンというあの地に入って、
定着して、
数百年間住んでいる地に、
何が起きたのでしょうか?
彼らはまたもや、
徐々に徐々に神様を捨てて、
あの土地の構造を作って、
拝んで、
本当の神を自分の神にしなくなってしまいました。
生物として、
あのエズプトから接客神様がね、
清めて、清別して、
救出してあげたのに、
彼らはその神を、
何百年たって、
もう全く捨ててしまいました。
18:00
自ら罪を犯して、
自分自身を怪我してしまいました。
清められたのに、
清別してあげたのに、
自分自身を怪我してしまいました。
その結果、何が起こるのでしょうか?
神様は、
彼らを全部滅ぼすこともできますが、
神様は彼らを、
バビロンという国に、
その国を滅ぼさせて、
あのバビロンの奴隷にさせました。
そこで彼らは、
悔やみました。
でもまた、
哀れに深い神様は、
そんなバビロン保守の70年のうちに、
ネヘミアなどの人物を、
また起こして、
選んでくださって、
あの昔の、
孟子を選ばれたことのように、
主はネヘミアなどの人物を選んで、
彼らをまた、
あのバビロンから、
もう一度救出してくださるんですね。
昔は、
シス・エジプトだったら、
今回は、
シス・バビロンでした。
そして彼らを、
あのカナーに、
もう一度送り出してください。
今回は、
ちゃんと神様を信じて、
罪を犯してはならないよ。
あの無情を拝んではいけませんよ。
あの血の風習を習ってはいけませんよ。
私があなた方の本当の神なんだからね。
それで、
もう一度シス・バビロンをしてくださった。
バビロンの奴隷から、
会をしてくださったんですね。
まるで、
エジプトの奴隷から会をしてくださったように、
私たちを、
サトンのあの力から、
会をしてくださったことと、
全く同じですね。
ところが人間はどうでしょうか。
本当に愚かな者であって、
彼らは帰ってきて、
最初はね、
しばらくは神前を立てて、
神を礼拝して、
行きましたけれども、
また、
時間が経つにつれて、
神様から離れてしまって、
捨ててしまって、
敵われてしまいました。
その後だいたいで、
400年がまた経ちますね。
そして、
あのイスラエルのベツリヘムという町に、
誰がお生まれになりますか。
イエス様がお生まれになりました。
それは人々を救うためでした。
私たちを救うためでした。
神様、あの昔のお選びになったように、
アブラウムを、あるいはモーセを、
あるいはネヘミアをお選びになったように、
もう一回全く救い主を、
イエス・キリストをこの地上にお救わしになりました。
それは、
イエス・キリストを信じる者が、
21:02
神を礼拝するため、
私たちを清別するため、
神様だけを礼拝するためでした。
それから、
二千年がたって、
日本のある町々で、
韓国のある町々で、
神様は私たちをそれぞれ選び分けて、
救ってくださいました。
ある人は一年、二年前、
ある人は何十年前、
それぞれ、
あの韓国で、ある日本で、
神様は不思議な形として、
そこから選び分けて、
救いに導いてくださいました。
神様を知らなかった私たち、
偶像を礼拝していた私たちを、
その町の中で、
あのサタンの支配から、
救ってくださったんですね。
これは皆さん、
もう神様のパッション、
神の熱心としか、
言いようがないんです。
賛美の歌詞にもありますよね。
なぜ神様が私を救ってくださったのか、
いくら考えても、いくら計算しても、
わけがわからない、
わけがわからない。
もう神のパッション、
神の熱心としか、
表現できないんですよね。
あのノアから、
あのノアの時代から、
数千年が経っていても、
神のパッションは、
皆さん、神様がそこまでしてくださる理由は、
何だと思いますか。
こんなにも何千年が経っても、
神様は諦めず、
その時その時、
人々を起こしてくださって、
我々を救ってくださる、
離れたらまた帰らせて、
神を礼拝するように、
そういう風にして、
もう粘り強く、
しつこいほど、
私たちを握りしめてくださる、
神のあの愛の理由は何でしょうか。
今日のタイトルにありますように、
私たちの神となるためであり、
ご自分の主流とするためであり、
神様だけを礼拝するためであります。
これが、私たちが救われた目的であり、
生きる理由であり、
また今回来てくれた選挙チームが、
この明沢協会に、
あるいは他の町に来られた理由なのではないでしょうか。
自分自身の救いを考えてみますと、
私たちは偉いところは何一つもない。
24:02
救われなければならない、
何かの資格、特権、
理由を持っている人は一人もいない。
でも神様は不思議な形で、
不思議な恵みによって、
私たちをサタンの支配から、
この世の風習から、
価値観から、
生き方から、
考え方から、
我々をそこから選び分けてくださった、
区別してくださった、
整備してくださったんですね。
そうするならば、
整備された、
区別されたものとして、
どう生きるべきでしょうか。
どういうふうに歩んだらいいのでしょうか。
例引き開かないんですけれども、
この世の風習に習わない、
この世の人々の生き方、
価値観に習わない、
全く違った、
全く新しい生き方をすること、
それが信仰なんですよね。
それはイスラエルの人々が、
昔のエジプトの風習や、
これから入るカナンの風習に、
習ってはならないという神の、
御命令と同じなんです。
それは神様がね、
このレベキという27章あると思いますが、
27章のあれぐらい、
こういうふうに、
全く新しい生き方をするんですよ、
と語ってくださったんです。
本日の私たちのこの聖書をもって、
私がね、
私の息子イエスを主に渡したほど、
あなた方を性別してくれたから、
この世の人々の考え方や生き方や、
汚れたああいう思想や、
価値観に似たようなことを、
そんなことをしないで、
新しい生き方をしなさいと、
そのために作ってください。
皆さんいかがでしょうか。
もしかしてこの世の人々の価値観や生き方や、
似ているような、
言いこたはしていないんでしょうか。
そこから私たちは、
性別されたものなんです。
清められたものなんですね。
それは信仰なんです。
それは、
ご自分の所有とするため、
サタンの支配から、
あがなってくださった、
買い取ってくださった、
恵みなんです。
そこには、
私たちを罪の支配に奪われたくない、
ご自分のものにして、
祝福したいという神の強い愛が、
そこに込められている。
27:02
神の保障がそこにあるんですね。
アブラームを選んだ理由も、
イスラエルを救った理由も、
赤い服を作ってくださった理由も、
神をあがめるため、
神を礼拝するため、
神の所有とするためであります。
ですから、
もう一度お話ししますけれども、
我々が救われた目的、
洗礼を受けてクリスチャンになる、
その理由は、
今までの人生とは全く違った人生が、
始まるということである。
自分の人生の主人が変わり、
生き方が変わるということなんです。
皆さん違和ですか?
イエス・キリストを信じて、
皆さんの人生の主人が変わりましたか?
生き方が変わりましたか?
この世の風俗から離れているんでしょうか?
これを指して歩くこの道が、
信仰の歩みなんですね。
神様だけを礼拝するためなんです。
礼拝するという、
この礼拝の言葉の意味には、
次のような意味があると思います。
まずは、使える。
次は、褒めたたえる。
次は、礼拝する対象に、
全く侵害を置く。
次は、礼拝する対象を、
主とするという意味があるんですね。
神を礼拝するということ。
だから皆さん、
礼拝するという意味は、
教会に出席して、賛美して、
牧師の何かの話を聞いて、
献金をして帰るだけではない。
唯一の神にお仕えする。
その方だけを褒めたたえる。
もうその方に自分の全てを、
全く侵害を置く。
神様だけを自分の主とするということ。
それの表しな表現が、
この礼拝なんです。
そのような礼拝をする私たちがありたい。
天の神様だけを、
褒めて、褒めたたえて、
その方だけにお仕えする。
その方だけを自分の主とする。
その方だけに全く信頼を置くものであり。
そして自分の礼拝が、
誠実ごとの礼拝を、
このような健康をもって、
礼拝していこうではないでしょうか。
メッセージを終わりたいと思います。
神様は皆さん、
聖書の言葉にありますように、
30:01
妬むほど私たちを愛しておられる。
誰にも奪われたくないほど、
大切にしていてください。
いつまでも神様を愛して、
礼拝して、
お仕えして、
褒めたたえて参りましょう。
お祈りいたします。