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2024-08-11 35:43

「私たちが置かれている状況の中の真理」2024年8月11日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年8月11日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) ヨハネ14:6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 

Ⅰペトロ5:7思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

メッセージ題 : 私たちが置かれている状況の中の真理 (ヨハネ14:6,Ⅰペトロ5:7)
*大学時代の経験、状況真理って?状況によって変わるのが真理なのか?深い意味も知らなく
*ヨハネ18章で、ローマの総督、ピラトは・・・イエス様の目の前で、真理とは何か?とひとりごとを
*私たちが担っているすべての状況で、真理、正解があります。それが何か、どう見つけるのか

1.私たちの人生、本当に難しいです。人生は五里霧中!
私たちの人生が難しい理由?神の御姿で創造されたが・・・罪を犯して!Ⅰヨハネ3:8、Ⅱコリント/4:4 悪魔は人間の霊的な目をくらまして・・・救いの道も、人生の存在意味目的も、どう生きるべきかもわからないように! また、コへレト7:14 神様も人生の将来を知らないように?難しい人生
#人間万事、塞翁が馬?間違ったことも良いことになれるし、良いことも悪いことに?分からない

2.では、私たちの人生に正解はないのか?聖書は、私たちのすべての状況に真理があると・・・
*この世のすべての人は問題を・・・今の私にある問題、どう解決するべきか?→ここで知るべきこと。すべての状況の中で真理、正解がある!それを知って従って行くなら?御旨が、成功の人生
*ヨハネ14:6私は道、真理、命、私を通らなければ神に出会えない。←真理は人格体、イエス様
#例え)ルカ7章、ナインの町の寡の一人息子の死。その状況の中の真理は?真理が来られると‐出エジフトされたイスラエル民、目の前の紅海、後ろは追いかけてくるエジフト兵士、真理は?‐イスラエル民の荒野の生活。人が住むことが出来ないところで、真理は?申命記8:2,3 しかし#状況の中の真理を知り対応する事例が。 ‐ヨハネ18章のピラト、罪がないイエス様を殺してくださいと?どうしたら?しかし目の前に真理がおられるのに、暴挙を防ぐ為に死刑宣告?愚かな!
‐洗礼者ヨハネ、マタイ3章、ヨルダン川で洗礼を施しているのに、イエス様が・・・どうして人間が神様に洗礼を?彼は真理であるイエス様に聞いた!マタイ3:14,15それによって神様の御旨が
#目の前におられる真理であるイエス様に聞くのか、自分勝手にするのか、天国と地獄の違い‐荒野で5千人に食べ物を与えた事件は、大宣教命令ほど難しい!しかし真理であるイエス様に聞くなら*神に聞くまでは?難しい状況、神を恨まないように。環境の中の真理を知る為に祈りを

3.私たち皆に、当面な問題・・・子供の問題をどうしようか?
*子供は親のアキレス腱!子供に問題が生じると、心がすべてその問題に奪われ・礼拝,賛美しながら
*子供の問題の状況の中で真理は何でしょうか?問うと・・・Ⅰペトロ5:7看護人が患者をケアするように
→任せますと言いながら、また自分が持って?任せるのには信仰が必要。しかし信じるのには
#創世記15章、アブラムの不満、心配は子供!神様が約束されたのになぜ?信仰の器の問題/アブラムをアブラハムに変えてからイサクを!←多くの場合、神様が答えて下さらない理由は?
#神様は自ら子供たちを訓練されるが、子供が抱えている問題を通してⅠコリント10:13信じましょう!@神様は絶対善。信じる人には偶然、運命はない。必然だけ!真理はイエス様と親しみPLOで

サマリー

今日のメッセージでは、真理とは何かという対応を考えます。人生の難しさや苦しみの中で、真理を知り、イエス様に出会うことが解決の道であることを学びます。目の前におられるイエス様に聞いてみればよかった。真理のイエス様に聞いてみたら真理を聞くでしょう。真理通りやれば、これは神の御心が成し遂げられるでしょう。親の信仰の訓練のゆえだと思います。子供たちが抱えている難しいことを神様が自ら訓練させておられること。これからも子供たちのために、私たちが立派に育てるように助けていくことが大事だと思います。

真理とは何か
今日は、真理とは何かという対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
私が昔々、大学生の時に、図書館で勉強していました。
図書館で勉強すると、テーブルが大きいものがあって、向こうはもう学生があって、私もここに座っているんですけど、
私のこの向こう側に座っているある姉妹が、
このメモをしているこのノートがあったんですね。
それをそっと見てみたら、こう書いてあります。
真理は変わる。時代によって状況によって変わる。
そして状況真理ということを、これ書いてあるんです。
たぶん、彼女は哲学を学ぶ、哲学科の先生か、哲学の授業を聞いているかなと思いますけど、
その時、私は機械工学を学んでいるものとして、私は心からこう思いました。
真理が変わってどうするの?状況によって真理が変わったら、これは真理がないんじゃないかと思って、
ふっとしたことがありました。
私はこの状況真理という、それを学んでいる彼女の気持ち、またその深い意味を当時は分からなかったんです。
今、今日のメッセージを準備しながら、昔のことがぷっと思い出されて、
ああ、こんな深い意味を学んでいるのに、私は機械工学をする、
何かこんなエンジニアの気持ちで、簡単にそれは違うんじゃないかという考えをやってしまったなと思います。
じゃあ、今日のテーマ、「真理とは何か?」という言葉は、
実はピラドがイエス様の目の前で、自分一人で、自分一人ごととして語ったことです。
これは本当に大きな意味があって、私たちが生きている、私たちの人生のすべての状況には真理があり、正解というものがあります。
では、今、私たちの人生の難しい場面が、難しい状況がたくさんある中で、私たちは過ごしているんですけど、
その中で真理は何なのか、それを今日一緒に考えてみたいと思います。
まず、私たちの人生は非常に難しいです。
難しい理由は、分からないから難しいんです。
今、何か起こりました。なぜこんなことが起こるんだろう。
また、この状況の中で、これをどう解決すればいいんだろう。分からないんです。
だから難しいんです。
ですから、人生はゴリ夢中だという話もします。
もともと人間は、神の見姿で創造されました。
神様の冷静、神様の知性、神様の器用さを持っているものとして創造されました。
しかし、人間が罪を犯して、第一ワネ三種八節、悪魔に属したからは、
悪魔が人々の目を眩まして、何にも分からないようにさせてしまったんです。
救いの道であるイエス様も知らなく、なぜこの世で生まれたのか、なぜ生きるのか、
また、死んでからどこに行くのか全く分からない。
だから、生活するために虚しく生きながら、地獄に行くべきものと存在されました。
また、コレイルト七種十四節を見ますと、神様も私たちが将来のことを分からないようにしたということです。
なぜでしょう。弱い私たちが神様に委ねて謙遜に生きるために、神様はそのようにされるということです。
こうしてもああしても、非常に難しい人生です。
また、私たちが苦しむ理由は、罪が多いからです。
過去の過ちに対する後悔。皆さん、過去の過ちに対する後悔はありませんか。
私は年取っていけばいくほど、昔々の私の過ちが思い出されて、非常に苦しい時があります。
また、今の問題をどのように解決するべきか。
また、将来の様々なこと、将来の不安がない人は誰もいません。
この中で人間はどう生きるか。人間は賢いですね。
人間万事、最大が馬という話を聞いてみましたが、
私は、これは皆さんご存知だと思いますけど、これは中国語の古字です。
ある老人が馬を失いました。
ああ、馬を失った時、悲しんだんですね。
しかし、この馬が他の馬を一匹連れて戻ってきたんです。
ああ、すごい嬉しいと思いました。
しかし、その馬を乗りながら、自分の息子が馬から落ちて、足を骨折して障害者になりました。
悲しんだんですね。
しかし、戦争が起こりました。
他の健康な息子たちは全部戦場に出て、全部死んでしまったんですけど、
自分の息子は戦場に出られなくてよかった。
だから喜んだ。
人生は、これがうまくできなかったところは悲しむことでもない。必ずしも。
うまくできたとして、それが必ずしもいいことでもない。
ああ、人生難しいなということが、今日のこの人生は、最悪の最悪が馬という話です。
これは本当に賢い話ですね。
じゃあ、このぐらい人生の将来は誰もわからないということ。
しかし、私たちの人生、キリスト者の人生はどうですか?
人生の将来わからないんですか?
キリスト者は人生の将来わからなかったらいけません。
人生の答え、人生の真理、それもわからなければいけません。
聖遺書は、私たちのすべての状況の中で真理があると言っています。
世の中のすべての人は問題を持っています。
問題がないように見えるんですけど、実際その人の心の中には悩んでいる問題があります。
世の中のすべての家庭は問題を持っています。
ある幸せに見える家庭の中でよく見てみても、その中で問題があります。
じゃあ、この問題を解決しなければ幸せがないんじゃないですか。
私たちの人生の問題、どのように解決すればいいでしょうか。
そこで知らなきゃいけないことが、すべての状況の中に真理があるということです。
真理があるということは、正解があるということです。
正解をよくわかって、それをしっかり握って、我慢していくなら、
神の御胸が成し遂げられるし、人生に正しく生きることができるし、成功的な人生ができるということです。
では皆さん、この正解を知りたくありませんか。
この真理はどなたですか。
イエス様はこう言われました。
ヨハネ14章6節、イエスは言われた、私は道、私は真理、私は命である。
私を通らなければ誰も父のもとに行くことができない。
この御言葉をよく見てみますと、すべての問題は神様から離れて生じた問題であり、
神様に出会うとき、それが解決できる。
しかし神様に出会おうとしたら、道であり、真理であり、命であるイエス・キリストを通して、
神様に出会うことができる。
難しい人生の中での真理
ですから私たちはすべての問題を解決するために、イエス様に出会わなければいけないということを、
今日の宣書が教えてくださることです。
ここで真理はイエス様です。
イエス様の御言葉です。
ですから真理と解答を知るためには、イエス様に聞かなきゃいけない。
神様に聞かなきゃいけません。
じゃあ例えを持って考えていきましょう。
ルカの7章中1節から、ナインという町で住んでいるヤモメがいました。
ヤモメに一人息子がいたんですけど、そのヤモメの一人息子が死んでしまいました。
ヤモメは夫が死んだ時に息子がいたから、息子によって何とか希望を持って過ごしていきました。
ところが息子さえ、一人息子さえ死んでしまった。
その時彼女の希望はすべて消えてしまったんです。
じゃあこのような状況の中で真理は何ですか。
一人息子が死んだ。私はダメになった。
これから私の人生、悲しむしかない。これが真理ですか。
いいえ、その状況の中で真理はイエス様で、人格大であるイエス様で。
後ほど真理は来られるでしょう。
その真理が来られて、死んだ息子を生かしてくださいます。
そして世の中の人々に、イエス様は命を与えるお方。
死んだ人も生き返らせるお方だと示してくださり、神様に栄光を与えることになるでしょう。
ですから私たちは今の状況、今の現実だけ見て、
ああ、これだ、ああだということは、これは愚かなことです。
この状況の中で真理は、私たちはイエス様に出会ってみなければわからない。
イエス様に聞いてみなければわからないということです。
ヴォーゼがイスラエル人たちを導いてシュチュエジプトとしました。
みんな喜びました。
ところが、エジプトの精鋭部隊が追いかけてきます。
じゃあ、シュチュエジプトしたのに、エジプトの精鋭部隊が追いかけてきます。
この状況の中で真理は何ですか。
シュチュエジプトはしたけど、みんな滅ぼされることですか。
再びエジプトの奴隷として戻されることですか。
いいえ、その状況の中で真理は、神様の見心です。
神様の見心は、エジプトが二度もイスラエル人たちを苦しめないように、
豪海の海の中でエジプトの兵衛部隊を滅ぼすことでした。
イスラエル人たちが荒れに出て訓練を受けているのに、
エジプトの軍隊が来て、それで物を連れ出して、エジプトに連れて行くなら、
それはできないんじゃないですか。
だから、エジプトに出たイスラエル人たちが何が真理なのか、
その状況を見て、よく知らなければなりません。
また、アラノの生活をするようになったんですけど、
アラノは夜はものすごい寒く、昼はものすごい暑いです。
人間が生きるところではできません。
しかし、そこにわざわざイスラエル人たちを連れ出して、そこに過ごされるんです。
その状況の中で真理は何ですか。
新明記8章2節3節、こう言っています。
あなたの神主が導かれた、この40年のアラノの旅を思い起こしなさい。
こうして主はあなたたちを苦しめてためし、
あなたの心にあること、すなわちご自分の今しみを守るかどうかを知ろうとされた。
主はあなたたちを苦しめ、飢えさせ、あなたの洗浄も味わったことがないマナを食べさせられた。
人はパンだけ生きるものではなく、
主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたたちは知らせるためであったと。
これがアラノの訓練の目的です。
神様はこのような大きな御胸を持ってイスラエル人たちをアラノに導いておられるのに、
イスラエル人たちはその状況の中で真理を知らないまま、
いつも口癖のように不平不満ばかりしました。
真理の探求と対応
結局カデスパーネアネ不従順して、
もともと1年で終わるべきアラノの訓練が40年になって、
それでもアラノで全部死んでしまいました。
アラノに導いた神様の御胸、
状況の中で真理を知らないまま不信仰しただけ。
私たちも今の状況の中で、
なぜこれなんだろう、なぜこうなんだろう、
いつも状況ばかり見て恨みを持って神様に不平不満をしたら、
私たちもイスラエル人のようになってしまうかもしれない。
皆さん、状況の中で真理をよく知って、
それに対応した良い事例が先例者ヨアネです。
またピリッポもいます。
ヨアネ18章でローマのソウドクロのピリッポは、
難しい状況に直面しました。
人々は罪がないイエス様を連れてきて、
この人を死刑にさせてくれと言います。
ピラドがイエス様を尋問してみたら、罪がないんです。
どうしたらいいでしょう。
その状況の中で真理は何ですか。
そのイエス様、真理であるイエス様が目の前におられるのに、
彼は真理がどうすればいいかわからなく、
そこでイエス様の前で自分が独り言で語った言葉が、
真理とは何かと言ったんです。
彼はこの真理へのイエス様に聞こうとしないで、
暴挙を起こすんじゃないかと思って、
イスラエル人たちの話通り聞いてしまいました。
それでイエス様に死刑の宣告をしました。
結局彼は延々に呪われる人になりました。
その状況の中で真理は何ですか。
イエス様への聞く姿勢
目の前におられるイエス様に聞いてみればよかった。
真理のイエス様に聞いてみたら真理を聞くでしょう。
真理通りやれば、これは神の御胸が成し遂げられるでしょう。
しかし彼は真理であるイエス様に聞こうとしないで、
人々の状況を見て、
また偉い自分、ローマの総督である自分の権勢ばかり信じて死刑を宣告した。
しかし洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々にバーティスモを施していました。
その時イエス様がバーティスモを受ける自分の前に来るんです。
神様が人間にバーティスモを受けるために来られる。
ありえない状況ですね。
その状況の中で真理は何ですか?
その時洗礼者ヨハネは自分の頭、自分の考え通りしないで、
真理であるイエス様に聞いたんです。
マタイ3章14節15節です。
私こそあなたからバーティスモを受けるべきなのに、
あなたが私のところに来られるんでしょうか?
と言ったらイエス様はこう答えます。
今は止めないでほしい。
正しいことをすべて行うのは我々にしそわしいことだ。
それであなたが私にバーティスモを施しなさいと言う。
だから洗礼者ヨハネはイエス様にバーティスモを施しました。
これによって神の御胸が成し遂げられたんです。
じゃあ目の前におられる真理であるイエス様に聞くのか?
聞かないのか?
聞いて行うか?
聞かないで自分勝手に行うか?
これがピラー島と洗礼者ヨハネの違いでした。
これは天国と地獄の違い。
真理を知ることと真理を知らない人の違いです。
皆さん、5000人がパン5つ、魚2匹で食べさせる時間がありました。
その時イエス様は弟子たちに、
この人たちにあなたたちは食べるものを与えなさいと言いました。
その時ピリポは何と言うんですか?
ダメです。できません。
この大勢の人々にパンとか何とか食べ物を与えようとしたら、
200デナリオン、200万円の費用ですよ。
そのお金がないから私はできません。
その状況の中で真理はどうなったんですか?
イエス様です。
イエス様が働く時に5000人が満腹するほど食べることができました。
イエス様、真理が働くなら、
5000人が満腹するほど食べられるのに、
私たちは真理を知らないまま、ダメですと言います。
イエス様が私たちに大選挙命令を行いました。
あなたたちは行って、全ての民を私の弟子にしなさいと。
私たち今何を言っていますか?
無理です。
他のところでは分からないけど、
日本人は勝手にイエス様と言ったらダメです。
そんなことは失礼です。
しかしイエス様、真理であるイエス様は何と言うんですか?
私に委ねて、私が語る、教える通りにしなさい。
だったら私がやるからと言われているかもしれません。
皆さん、アラノで5000人を食べさせることも難しいけど、
大選挙命令を従うことも難しいです。
しかし真理であるイエス様に聞き従うなら、
今も真理であるイエス様は大選挙命令を
うまく成し遂げるようにしてくださるでしょう。
私たちはいつも自分の頭で考えて、
これはダメですというピリッポのような考え方を
悔い改めなければいけないかなと思います。
結論的に私たちは神様から聞くまでは、
私たちが置かれている状況、
環境の中での真理を知ることはできません。
難しい状況、難しい状況にいるということで、
神様を恨まないでください。
むしろ神様の前に出て、
この環境の中で真理は何ですかと、
神の身分を教えてくださいと、祈らなければなりません。
真理が照らされるなら、
私たちが置かれている今すべての環境の意味が、
ああ、分かった。
またその環境をどう乗り越えて、
どう生きるべきか示されるでしょう。
だったら私たちも今の環境の中で、
神様の身分を成し遂げられ、成功する人生ができます。
洗礼者ヨハネとピラー島の違い
ここで私たちのみんな、
当面の問題を一緒に考えていきたいと思います。
私個人的に今まで過ごしてきながら、
一番難しかったことが何だと聞かれたら、
子どもを面倒見ることだったと言いたいと思います。
子どもの問題。
私は今も子どもの問題を抱えているところなんですけど、
子どもに問題が生じたら、親はもう死にます。
この言葉が激しいんでしょうか。死ぬほどです。
子どもは親のアキレス腱と言われるものです。
親は子どもが何か痛みがあったり、子ども問題が生じたり、
子どもがいろいろ苦しんでいることを見たら、
死ぬほどの苦しみを持つようになります。
皆さん、みんな経験しておられるでしょう。
子どもを考えたら胸が痛い。
しかしどうすればいいかわからない。
だからもっともっと苦しむんです。
ですから子どもの問題があったら、
恋愛を捧げるときも、恋愛に心があるんじゃなくて、
子どもの問題どうしようかと思う。
祈るとき、賛美するときも、
子どもの問題でいつも悩んでいることではないでしょうか。
神様に集中するべきなのに、牧師もそうですよ。
私も神様に集中するべきなのに、
頭の中には子どもの問題があって、
どうしようかという心がいっぱいある中で、
礼拝を捧げたり、またメッセージをしたりします。
これはダメじゃないかと思って、いろいろ祈りました。
いったい子どもの問題どうしたらいいか。
この状況の中で真理は何なのか。
祈っているところで、
神様が私に第一ペトロ古書7説を教えてくださいました。
思いはゼロよ、何もかも神にお任せしなさい。
神があなた方のことを心にかけていてくださるからです。
ここで心にかけていてくださるという言葉は、
看護師さんが患者さんをケアする。
ですから私たちが神様に任せなさい。
神様が私の子どもを面倒を見てくださるんですけど、
看護師さんが患者さんをケアするように、
神様が私の子どもをケアしてくださるという見言葉がこれなんですよ。
そうするなら私たちはアメンとしながら、
任せますと祈ります。
でもしばらくだったら、また私がそれを持ってきて、
私がまた子どものことでどうしようどうしよう悩みながら苦しむんです。
任せられないんです。
どうすればいいでしょう。
皆さん、任せるのには信仰が必要です。
信仰がなければ、いくら見言葉があるんだとしても、
アメンと言いながらまた持ってきて自分がまた悩みます。
ここで信仰があるためには、何か来ることが必要です。
来ること、照らされることが必要です。
これがわかりやすいところ、
創世紀中号章のアブラムがあります。
神様がアブラムに、
大いなる国民、あなたの名を高める、そのような立派な約束をしました。
それを信じて、創世紀中号章1節から3節を信じて、
アブラムは自分のふるさとを捨てて、神様についてきました。
信仰によって出てきたんですけど、
何年経っても、もう中号章は何年でしょう。
10年近くなっても子どもをくださらない。
ですからアブラムは心にも、神様に対する不満、不平にいっぱいになっています。
また心配しながら、神様、なぜくださらないですか。
神に出会ったらいつも、なぜくださらないですか、なぜくださらないですかと言います。
そのうち神様は、創世紀中号章5節、6節を言われます。
夜遅く、テントの中で過ごしているアブラムを連れ出して、
天の星を見ろ、天にも輝いている星を見ろと言います。
あなたの子孫はこのようになると言います。
その時、何があったのか聖書には書いてないんですけど、私はそのようなことを思い出しました。
アブラムに信仰が来たと思います。
空を見たら、星がいっぱい。
今より昔は遥かに近くに見えるし、大きい星が見えているでしょう。
こんなにでっかい星を作って、天に飛ばされておく、
このような神様が私に子供一人を与えることができないかという信仰がパッと来たんです。
ですからアブラムは、信じますと言います。
そしたら神様はこれを、きっと思われたと言います。
その告白をきっと思われ、OK、わかったと言います。
それからは心配、不平しないで、神様がくださることを確かだから、
だから私は神様が導くとおり、私に指示されることを行いながら、その時を待てばいいんです。
このように信仰が来ることです。照らされることです。
このように信仰が来る時に、私は任せることは、本当に任せることは、二度も心配しないで。
神様ができることをはっきりわかっているから、心配しないで、これから私は主に従うことができます。
しかしアブラムの家庭に、アブラムは信じたんですけど、
つまり、彼は信じることができなくて、まだ問題が生じるんですけど、
これから続ける聖書を通して見ているとわかりますけど、
なぜ神様は子供をくださると約束したのに、それから25年経ってから、それから子供をくださったのか、
なぜその間には子供をくださらなかったのか。
神様に問題があるのではなく、アブラムの信仰に問題があった。
皆さん、アブラムの名前の意味がご存知ですか。
これは、良い父、グッドファーダーです。
アブラムはいつ、いつも、アブラムはどんな時でも良い良い父のレベルにとどまる。
良い父のレベルを超えることができない。
神様はアブラムを、ある家庭の良い良い父として呼ばれたんじゃなくて、
一切の民族の、もう永遠になる民族の信仰の先祖として呼ばれたんです。
信仰の先祖として呼ばれたのに、小さな家庭の中で良い父としてとどまるしかない。
この信仰を見て、このようになれば当てるのに問題ないのに、信仰ができていない、器ができていないんです。
ですから神様は、アブラムの名前を変えてあげるんです。
アブラハム、アブラムハムはグレイトファードです。
グッドファードじゃなくて、グレイトファードになってから子供を与えてくださいます。
今日、教会学校のシリア・ペニキア女の娘がアクレイに取り憑かれました。
そのアクレイを、娘からアクレイを追い出してくださいと言ったのに、
彼女はイエス様に進みていました。異邦人の女なのに。
彼女の信仰、素晴らしくありませんか。一切の中でこんなに立派な信仰を見たことがない。
母親の信仰のゆえに、娘のアクレイが出てしまいました。
今日本当に素晴らしいメッセージでした。
多くの場合、神様は私たちに答えをくださらない理由は、
私たちの信仰の器が小さすぎるからです。
皆さん、ある人が、神様は私にたくさんのお金を稼ぐようにしてください。
たくさんのお金を稼ぐようにしてください。
神様はなぜ、くださらないのですか。
たくさんのお金が与えられたら、この人がどうなるか、よくわかっていらっしゃるからです。
ダメになるからです。だから、あなたの信仰の器をしっかり作りなさい。
そうすれば、お金はいくらでも与えるから、神様はそう思われるでしょう。
では、器ができていない人にお金が与えられたら、
親の信仰と子供の訓練
器ができていない人に子供を与えられたら、その子供がどうなるのでしょう。
どうして、アブラモ、イサク、ヤコブにその続く信仰の検証が行われ、
永遠に何千年も続けるイスラル民族の信仰の洗浄になるでしょうか。
ですから、アブラモの信仰が強くなること、大きい器になることを神様は待っていたんです。
それが25年かかったということです。
私たちも同じです。
子供たちが苦しむ理由は、親の信仰の訓練のゆえではないかと思います。
親の信仰の器を作っておいて、そして神様が全ての問題を解決してくださるかもしれません。
だから、子供が問題になって苦しむ理由は、親の信仰のために、信仰の訓練のために、それをやっているのではないかと。
ですから、私たちの親が早く大きな信仰の器を作ること、信仰を成熟することが大事。
これが子供のためであり、それが神の見守りであり、聖教の中で真理ではないかと思います。
では皆さん、私たちの信仰が強くなる、信仰の器が大きくなる、この方法は何ですか?
神の御言葉を聞いて従うことです。
中旬、中旬が信仰の器を育てる、大きくする方法です。
御言葉を聞いて従う、大きくなる。
御言葉を聞いて従うことが信仰が大きくなる秘訣です。
ぜひ考えていただきたいと思います。
全ての聖教には真理があります。
それは神様から聞いてみなければ分かりません。
神様が、一般的に神様が私たちを教えてくださるのは、私たちの信仰が強くなることです。
成熟する信仰になること。
その時、子供たちも祝福され、家の全ての問題が解決できるでしょう。
だから私たちは絶対、環境だけ見て、神様の御胸を即断してはいけません。
神様の御胸を聞くまでは、私たちは分かりません。
私たちは分かりません。
神の御心を聞いたら、それらを感謝して任せ、祈りながら任せ、
その間、私たちがやるべきことをしっかり行え、
そうしながら、主の時を待てばいいんです。
また一つの側面があるんですけど、
神様が私たちの子供たちを、子供たちが持っている問題、
子供たちが抱えている難しさを通して、
子供たちを今、訓練されていられるかもしれません。
だから子供たちが成熟されるために、
神様は子供にこんな問題、こんな苦しみ、
こんな難しいことを宿題として与えていらっしゃるかもしれません。
それを通して、子供たちが今、神様が自ら訓練させておられる、
神様の見守りと信仰の成長
子供たちを育てておられる途中です。
だからここには、私たちが神様を信頼することが大事です。
第一コリード中小中三説、こう言っています。
あなた方が襲った試練で、
人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実の方です。
あなた方を耐えられないような試練に合わせることもされず、
試練と共にそれを耐えられるように、
逃れる道も備えておられる。
だから、耐えられなければ逃れる道、
耐えるまでの試練を下さいながら、
私たちは信仰を強くさせてくださっています。
だから私たちは、神様を信頼することが大事です。
また子供たちが自ら神様を求めるように、
神に祈るように、私たちは助けることが大事です。
下手に親が全部出てしまって、
子供がやるべきことも親が全部やってあげたら、
子供はどうなるんでしょう?
異常症になります。
自立ができなくなります。
どこまで神様がなさることで任せればいい、
どこまで親が出て何とか助けなきゃいけないのか、
難しい部分もありますけど、
それは神様に祈りながら、知恵を得ながら、
私たちはこれからも子供たちのために、
私たちが立派に育てるように助けていくこと。
それで神様に任せて、
神様自ら子供をケアして育てていくような、
神様が出されるように私たちが導いていくことは、
非常に大事だと思います。
神様は絶対善です。
私たちに良くないことは絶対くださりません。
神様がくださるのは全部良いことです。
まだ信じる私たちには、
人生は偶然または運命とかありません。
神様の必然だけです。
私たちが担っているすべての苦しみ、問題、難しさには、
神様の絶対善の身むねがあります。
ですから目に見えることだけで、
現実だけが真理ではありません。
神様に聞くまでは、
勝手に無闇に判断しないようにしましょう。
真理である神様に聞いて、
その教え通り従えて行いましょう。
そこには信仰が必要です。
ですからこれから私たちの信仰を増し加えていきましょう。
そうするなら神様は、
私たちを通して、私たちの子供たちを通して、
神様はこれから栄光を受けられ、
立派な御業を行われると信じます。
アメン。
お祈りいたします。
今日、私たちはみんなが持っている悩みを分かち合いました。
私たちが担っているすべての問題の中には、
私たちの人生を豊かに祝福されようとする、
神様の小糸があることを分かりました。
私たちみんなが、
神様の絶対善の身むね、小糸を良くして、
うまく従って主の身むねを成し遂げられ、
また、私たちも信仰によって成長するきっかけになれるように導いてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アメン。
35:43

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