今日は、真理とは何かという対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
私が昔々、大学生の時に、図書館で勉強していました。
図書館で勉強すると、テーブルが大きいものがあって、向こうはもう学生があって、私もここに座っているんですけど、
私のこの向こう側に座っているある姉妹が、
このメモをしているこのノートがあったんですね。
それをそっと見てみたら、こう書いてあります。
真理は変わる。時代によって状況によって変わる。
そして状況真理ということを、これ書いてあるんです。
たぶん、彼女は哲学を学ぶ、哲学科の先生か、哲学の授業を聞いているかなと思いますけど、
その時、私は機械工学を学んでいるものとして、私は心からこう思いました。
真理が変わってどうするの?状況によって真理が変わったら、これは真理がないんじゃないかと思って、
ふっとしたことがありました。
私はこの状況真理という、それを学んでいる彼女の気持ち、またその深い意味を当時は分からなかったんです。
今、今日のメッセージを準備しながら、昔のことがぷっと思い出されて、
ああ、こんな深い意味を学んでいるのに、私は機械工学をする、
何かこんなエンジニアの気持ちで、簡単にそれは違うんじゃないかという考えをやってしまったなと思います。
じゃあ、今日のテーマ、「真理とは何か?」という言葉は、
実はピラドがイエス様の目の前で、自分一人で、自分一人ごととして語ったことです。
これは本当に大きな意味があって、私たちが生きている、私たちの人生のすべての状況には真理があり、正解というものがあります。
では、今、私たちの人生の難しい場面が、難しい状況がたくさんある中で、私たちは過ごしているんですけど、
その中で真理は何なのか、それを今日一緒に考えてみたいと思います。
まず、私たちの人生は非常に難しいです。
難しい理由は、分からないから難しいんです。
今、何か起こりました。なぜこんなことが起こるんだろう。
また、この状況の中で、これをどう解決すればいいんだろう。分からないんです。
だから難しいんです。
ですから、人生はゴリ夢中だという話もします。
もともと人間は、神の見姿で創造されました。
神様の冷静、神様の知性、神様の器用さを持っているものとして創造されました。
しかし、人間が罪を犯して、第一ワネ三種八節、悪魔に属したからは、
悪魔が人々の目を眩まして、何にも分からないようにさせてしまったんです。
救いの道であるイエス様も知らなく、なぜこの世で生まれたのか、なぜ生きるのか、
また、死んでからどこに行くのか全く分からない。
だから、生活するために虚しく生きながら、地獄に行くべきものと存在されました。
また、コレイルト七種十四節を見ますと、神様も私たちが将来のことを分からないようにしたということです。
なぜでしょう。弱い私たちが神様に委ねて謙遜に生きるために、神様はそのようにされるということです。
こうしてもああしても、非常に難しい人生です。
また、私たちが苦しむ理由は、罪が多いからです。
過去の過ちに対する後悔。皆さん、過去の過ちに対する後悔はありませんか。
私は年取っていけばいくほど、昔々の私の過ちが思い出されて、非常に苦しい時があります。
また、今の問題をどのように解決するべきか。
また、将来の様々なこと、将来の不安がない人は誰もいません。
この中で人間はどう生きるか。人間は賢いですね。
人間万事、最大が馬という話を聞いてみましたが、
私は、これは皆さんご存知だと思いますけど、これは中国語の古字です。
ある老人が馬を失いました。
ああ、馬を失った時、悲しんだんですね。
しかし、この馬が他の馬を一匹連れて戻ってきたんです。
ああ、すごい嬉しいと思いました。
しかし、その馬を乗りながら、自分の息子が馬から落ちて、足を骨折して障害者になりました。
悲しんだんですね。
しかし、戦争が起こりました。
他の健康な息子たちは全部戦場に出て、全部死んでしまったんですけど、
自分の息子は戦場に出られなくてよかった。
だから喜んだ。
人生は、これがうまくできなかったところは悲しむことでもない。必ずしも。
うまくできたとして、それが必ずしもいいことでもない。
ああ、人生難しいなということが、今日のこの人生は、最悪の最悪が馬という話です。
これは本当に賢い話ですね。
じゃあ、このぐらい人生の将来は誰もわからないということ。
しかし、私たちの人生、キリスト者の人生はどうですか?
人生の将来わからないんですか?
キリスト者は人生の将来わからなかったらいけません。
人生の答え、人生の真理、それもわからなければいけません。
聖遺書は、私たちのすべての状況の中で真理があると言っています。
世の中のすべての人は問題を持っています。
問題がないように見えるんですけど、実際その人の心の中には悩んでいる問題があります。
世の中のすべての家庭は問題を持っています。
ある幸せに見える家庭の中でよく見てみても、その中で問題があります。
じゃあ、この問題を解決しなければ幸せがないんじゃないですか。
私たちの人生の問題、どのように解決すればいいでしょうか。
そこで知らなきゃいけないことが、すべての状況の中に真理があるということです。
真理があるということは、正解があるということです。
正解をよくわかって、それをしっかり握って、我慢していくなら、
神の御胸が成し遂げられるし、人生に正しく生きることができるし、成功的な人生ができるということです。
では皆さん、この正解を知りたくありませんか。
この真理はどなたですか。
イエス様はこう言われました。
ヨハネ14章6節、イエスは言われた、私は道、私は真理、私は命である。
私を通らなければ誰も父のもとに行くことができない。
この御言葉をよく見てみますと、すべての問題は神様から離れて生じた問題であり、
神様に出会うとき、それが解決できる。
しかし神様に出会おうとしたら、道であり、真理であり、命であるイエス・キリストを通して、
神様に出会うことができる。
ですから私たちはすべての問題を解決するために、イエス様に出会わなければいけないということを、
今日の宣書が教えてくださることです。
ここで真理はイエス様です。
イエス様の御言葉です。
ですから真理と解答を知るためには、イエス様に聞かなきゃいけない。
神様に聞かなきゃいけません。
じゃあ例えを持って考えていきましょう。
ルカの7章中1節から、ナインという町で住んでいるヤモメがいました。
ヤモメに一人息子がいたんですけど、そのヤモメの一人息子が死んでしまいました。
ヤモメは夫が死んだ時に息子がいたから、息子によって何とか希望を持って過ごしていきました。
ところが息子さえ、一人息子さえ死んでしまった。
その時彼女の希望はすべて消えてしまったんです。
じゃあこのような状況の中で真理は何ですか。
一人息子が死んだ。私はダメになった。
これから私の人生、悲しむしかない。これが真理ですか。
いいえ、その状況の中で真理はイエス様で、人格大であるイエス様で。
後ほど真理は来られるでしょう。
その真理が来られて、死んだ息子を生かしてくださいます。
そして世の中の人々に、イエス様は命を与えるお方。
死んだ人も生き返らせるお方だと示してくださり、神様に栄光を与えることになるでしょう。
ですから私たちは今の状況、今の現実だけ見て、
ああ、これだ、ああだということは、これは愚かなことです。
この状況の中で真理は、私たちはイエス様に出会ってみなければわからない。
イエス様に聞いてみなければわからないということです。
ヴォーゼがイスラエル人たちを導いてシュチュエジプトとしました。
みんな喜びました。
ところが、エジプトの精鋭部隊が追いかけてきます。
じゃあ、シュチュエジプトしたのに、エジプトの精鋭部隊が追いかけてきます。
この状況の中で真理は何ですか。
シュチュエジプトはしたけど、みんな滅ぼされることですか。
再びエジプトの奴隷として戻されることですか。
いいえ、その状況の中で真理は、神様の見心です。
神様の見心は、エジプトが二度もイスラエル人たちを苦しめないように、
豪海の海の中でエジプトの兵衛部隊を滅ぼすことでした。
イスラエル人たちが荒れに出て訓練を受けているのに、
エジプトの軍隊が来て、それで物を連れ出して、エジプトに連れて行くなら、
それはできないんじゃないですか。
だから、エジプトに出たイスラエル人たちが何が真理なのか、
その状況を見て、よく知らなければなりません。
また、アラノの生活をするようになったんですけど、
アラノは夜はものすごい寒く、昼はものすごい暑いです。
人間が生きるところではできません。
しかし、そこにわざわざイスラエル人たちを連れ出して、そこに過ごされるんです。
その状況の中で真理は何ですか。
新明記8章2節3節、こう言っています。
あなたの神主が導かれた、この40年のアラノの旅を思い起こしなさい。
こうして主はあなたたちを苦しめてためし、
あなたの心にあること、すなわちご自分の今しみを守るかどうかを知ろうとされた。
主はあなたたちを苦しめ、飢えさせ、あなたの洗浄も味わったことがないマナを食べさせられた。
人はパンだけ生きるものではなく、
主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたたちは知らせるためであったと。
これがアラノの訓練の目的です。
神様はこのような大きな御胸を持ってイスラエル人たちをアラノに導いておられるのに、
イスラエル人たちはその状況の中で真理を知らないまま、
いつも口癖のように不平不満ばかりしました。
ここで私たちのみんな、
当面の問題を一緒に考えていきたいと思います。
私個人的に今まで過ごしてきながら、
一番難しかったことが何だと聞かれたら、
子どもを面倒見ることだったと言いたいと思います。
子どもの問題。
私は今も子どもの問題を抱えているところなんですけど、
子どもに問題が生じたら、親はもう死にます。
この言葉が激しいんでしょうか。死ぬほどです。
子どもは親のアキレス腱と言われるものです。
親は子どもが何か痛みがあったり、子ども問題が生じたり、
子どもがいろいろ苦しんでいることを見たら、
死ぬほどの苦しみを持つようになります。
皆さん、みんな経験しておられるでしょう。
子どもを考えたら胸が痛い。
しかしどうすればいいかわからない。
だからもっともっと苦しむんです。
ですから子どもの問題があったら、
恋愛を捧げるときも、恋愛に心があるんじゃなくて、
子どもの問題どうしようかと思う。
祈るとき、賛美するときも、
子どもの問題でいつも悩んでいることではないでしょうか。
神様に集中するべきなのに、牧師もそうですよ。
私も神様に集中するべきなのに、
頭の中には子どもの問題があって、
どうしようかという心がいっぱいある中で、
礼拝を捧げたり、またメッセージをしたりします。
これはダメじゃないかと思って、いろいろ祈りました。
いったい子どもの問題どうしたらいいか。
この状況の中で真理は何なのか。
祈っているところで、
神様が私に第一ペトロ古書7説を教えてくださいました。
思いはゼロよ、何もかも神にお任せしなさい。
神があなた方のことを心にかけていてくださるからです。
ここで心にかけていてくださるという言葉は、
看護師さんが患者さんをケアする。
ですから私たちが神様に任せなさい。
神様が私の子どもを面倒を見てくださるんですけど、
看護師さんが患者さんをケアするように、
神様が私の子どもをケアしてくださるという見言葉がこれなんですよ。
そうするなら私たちはアメンとしながら、
任せますと祈ります。
でもしばらくだったら、また私がそれを持ってきて、
私がまた子どものことでどうしようどうしよう悩みながら苦しむんです。
任せられないんです。
どうすればいいでしょう。
皆さん、任せるのには信仰が必要です。
信仰がなければ、いくら見言葉があるんだとしても、
アメンと言いながらまた持ってきて自分がまた悩みます。
ここで信仰があるためには、何か来ることが必要です。
来ること、照らされることが必要です。
これがわかりやすいところ、
創世紀中号章のアブラムがあります。
神様がアブラムに、
大いなる国民、あなたの名を高める、そのような立派な約束をしました。
それを信じて、創世紀中号章1節から3節を信じて、
アブラムは自分のふるさとを捨てて、神様についてきました。
信仰によって出てきたんですけど、
何年経っても、もう中号章は何年でしょう。
10年近くなっても子どもをくださらない。
ですからアブラムは心にも、神様に対する不満、不平にいっぱいになっています。
また心配しながら、神様、なぜくださらないですか。
神に出会ったらいつも、なぜくださらないですか、なぜくださらないですかと言います。
そのうち神様は、創世紀中号章5節、6節を言われます。
夜遅く、テントの中で過ごしているアブラムを連れ出して、
天の星を見ろ、天にも輝いている星を見ろと言います。
あなたの子孫はこのようになると言います。
その時、何があったのか聖書には書いてないんですけど、私はそのようなことを思い出しました。
アブラムに信仰が来たと思います。
空を見たら、星がいっぱい。
今より昔は遥かに近くに見えるし、大きい星が見えているでしょう。
こんなにでっかい星を作って、天に飛ばされておく、
このような神様が私に子供一人を与えることができないかという信仰がパッと来たんです。
ですからアブラムは、信じますと言います。
そしたら神様はこれを、きっと思われたと言います。
その告白をきっと思われ、OK、わかったと言います。
それからは心配、不平しないで、神様がくださることを確かだから、
だから私は神様が導くとおり、私に指示されることを行いながら、その時を待てばいいんです。
このように信仰が来ることです。照らされることです。
このように信仰が来る時に、私は任せることは、本当に任せることは、二度も心配しないで。
神様ができることをはっきりわかっているから、心配しないで、これから私は主に従うことができます。
しかしアブラムの家庭に、アブラムは信じたんですけど、
つまり、彼は信じることができなくて、まだ問題が生じるんですけど、
これから続ける聖書を通して見ているとわかりますけど、
なぜ神様は子供をくださると約束したのに、それから25年経ってから、それから子供をくださったのか、
なぜその間には子供をくださらなかったのか。
神様に問題があるのではなく、アブラムの信仰に問題があった。
皆さん、アブラムの名前の意味がご存知ですか。
これは、良い父、グッドファーダーです。
アブラムはいつ、いつも、アブラムはどんな時でも良い良い父のレベルにとどまる。
良い父のレベルを超えることができない。
神様はアブラムを、ある家庭の良い良い父として呼ばれたんじゃなくて、
一切の民族の、もう永遠になる民族の信仰の先祖として呼ばれたんです。
信仰の先祖として呼ばれたのに、小さな家庭の中で良い父としてとどまるしかない。
この信仰を見て、このようになれば当てるのに問題ないのに、信仰ができていない、器ができていないんです。
ですから神様は、アブラムの名前を変えてあげるんです。
アブラハム、アブラムハムはグレイトファードです。
グッドファードじゃなくて、グレイトファードになってから子供を与えてくださいます。
今日、教会学校のシリア・ペニキア女の娘がアクレイに取り憑かれました。
そのアクレイを、娘からアクレイを追い出してくださいと言ったのに、
彼女はイエス様に進みていました。異邦人の女なのに。
彼女の信仰、素晴らしくありませんか。一切の中でこんなに立派な信仰を見たことがない。
母親の信仰のゆえに、娘のアクレイが出てしまいました。
今日本当に素晴らしいメッセージでした。
多くの場合、神様は私たちに答えをくださらない理由は、
私たちの信仰の器が小さすぎるからです。
皆さん、ある人が、神様は私にたくさんのお金を稼ぐようにしてください。
たくさんのお金を稼ぐようにしてください。
神様はなぜ、くださらないのですか。
たくさんのお金が与えられたら、この人がどうなるか、よくわかっていらっしゃるからです。
ダメになるからです。だから、あなたの信仰の器をしっかり作りなさい。
そうすれば、お金はいくらでも与えるから、神様はそう思われるでしょう。
では、器ができていない人にお金が与えられたら、