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2024-11-17 26:33

「憐れみ深い神様に感謝しましょう 」2024年11月17日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2024年11月17日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) 哀歌3:19-25 苦汁(くじゅう)と欠乏(けつぼう)の中で/貧しくさすらったときのことを20. 決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても21. 再び心を励まし、なお待ち望む。22. 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。23. それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。24. 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。25. 主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。

メッセージ題 : 憐れみ深い神様に感謝しましょう (哀歌3:19-25)
*収穫感謝礼拝!一年間を振り返りながら感謝することが沢山ありますが・・・何より信徒皆さんに感謝します。狭い家庭、インフラもないところで6年間、我慢してくださています。それはまさに!カタコームでの初代教会の信者と、アメリカ新大陸で移住したピューリタンの信仰と似ています。なぜ地下カタコームで隠して礼拝を捧げたでしょう?キリスト者として当たり前の十字架と思ったでしょう。なぜ新大陸に移って寒さと疫病と飢饉で死ぬまで苦労したでしょう?真の信仰を守る為

1.皆さんもビジョンを持って我慢してくださったことに感謝。その中で何より感謝は?十字架の福音を。
*なぜ十字架の福音でしょう?―>マルコ2:22新しい革袋に新しい葡萄酒が与えられるから!聖霊のリバイバルの為には、ただ熱心ではできません。正しくやらなければ!何が問題でしょう?自己中心的ではなく、神中心的に。=神の手を求める信仰ではなく、神の御顔を求める信仰を!
―>二つの信仰の違い?感謝を見ると分かる。条件的な感謝なのか、無条件的感謝なのか!
*また、なぜそれが大事なのか?マタイ7:13‐14 正しい信仰生活は?命に通じる門は狭い門細い道!しかしその道に行ける人は?神の御顔を求める人だけが行けるから!しかしその道には、孤独、十字架、不便、迫害、苦労が。条件的感謝する人は行けない、御顔を求める人だけ。

2.私たちの教会、16年目、ここにきて6年目、十字架の福音を求めていますが・・・足りないことばかり
どうしようかと思っていましたが・・・詩篇106偏と哀歌3章を読んで・・・感謝が出ました。*詩編106編は、長い間イスラエルをエジフトからカナンまで導かれた神様を振りかえて見ながら書いた詩編。また哀歌はイスラエルがバビロンの捕虜と連れて行かれるときの詩ですが・・・詩篇と哀歌の記者は感謝します。彼らは感謝する条件ではなかったです。しかし何に感謝するのか?―>実際、エジフトから解放され紅海を渡るとき賛美しました。しかし荒野に入ったら?神様が荒野の訓練をされた理由?出エジフト19:5,6彼らを祭司の王国として全世界を救いたかった。その為に奴隷の内面性を王なる祭司長の内面性に変えようとされた。しかし彼らは少しの不便さに不平をしカナンに入ったら世の習わしに同化され罪を犯していた。神様は異邦人の手に渡され苦労を与えたが、叫び求めるならいつでも憐れみ救われる神様を見ながら・・哀歌3:33
*究極的に神様は、彼らに対する夢を消さないで長く長く待っておられ、結局メシアを送られた

3.なぜこの話を?私たちにも同じです。回復とリバイバルの夢を与えて下さり、10年以上・・・しかし!
*私たちが新しい革袋を準備するのに上手くできないとき、主が捨てられると思ったら?しかし哀歌3:22₋25慈しみは耐えなく、待ってくださる神様!それによって、今年できなくても、希望が*教会の子供たち、2世たち、お年寄りも皆さんを長く待って憐れみと恵みを与えて下さる神に@皆さん、今年本当にお疲れさまでした。来年度も再び憐れみの中で助けを与える神様を信じるとき、希望があります。詩編106:48特に、子供たちを考えるとき・・・無限な可能性と神の憐れみで

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今日は、憐れみ深い神様に感謝しましょう という対応を持ってメッセージを分かち合いたいと思います。
1年を振り返ってみる時期が来ました。 収穫・感謝・礼拝です。
1年を振り返ってみながら感謝することがたくさんありますけど、 私はまず、神と皆さんのために感謝しています。
私たちは、5年6年間この場所です。この場所で、 狭いところで、
教会としてのインフラもなかなかできていないこの中で、 皆さんは6年間、礼拝をしてい続けていらっしゃることです。
耳に逆らうような説教を長い間我慢してくださって本当に感謝します。
私たちの教会の皆さんは、まさに 自分を捨てて、自分を十字架を背負って
信仰生活されていることと同じだと私は感謝しています。 これはいつも私たちは始めから申し上げたんですけど、
これはカタコム精神とヒュリタン精神を、 私たちはいつも皆さんに申し上げています。
考えてみてください。カタコムというところは、もともと墓地なんです。 地下墓地。
地下墓地で、この洞窟の中で隠されて、 太陽の光も見ず、
賛美一回、声を張り上げて賛美もできない。 叫び祈りもできない。
その中で、 その人たちは長く信仰生活しました。
しかし彼らは、キリスト者なら、これは、
キリスト者なら自分たちが背負うべき当たり前の十字架だと思って、 このカタコムの中で礼拝をし続けました。
またヒュリタンたちは、新大楽アメリカに到着して、 寒さと疫病、また飢饉によって、大勢の信徒たちが死んでいきました。
この死んでいくこの場面を見ながらも、 これが正しい信仰のために当たり前として払うべき代価だと思って、
我慢して、これを忍耐しました。
私たちの教会は、ここで開拓しながら、 私たちはカタコム精神とヒュリタン精神を
いろいろ申し上げたんですけど、 皆さんはこれを理解してくださって、
新しい武道士を新しい革袋に入れるべきだと、 その見言葉、またそのメッセージを考えながら、
03:01
この5年間、6年間、皆さんは苦労しておられることです。 また私たちがこのように、家庭で行う礼拝に参加するから、
子どもたちも、教会がこんなところだなと思いながら、 頑張ってついてきてくださったこと、本当に感謝しています。
まず私は、皆さんが十字架の福音、 牧師の厳しいメッセージを我慢してくださったことに感謝します。
なぜ厳しいメッセージなのに、私たちが十字架の福音を やっていかなきゃいけないのか。
マルコン2章22節、 新しい武道士は新しい革袋に入れるものだ。
新しい革袋は、ああいった革袋ができなければ、 新しい武道士はないよということ、イエス様が言われました。
リバイバルは、器が準備できたところに来るんだということです。 ですから、私たちは器準備のために、今まで頑張っているところです。
なぜなら、信仰生活は私たちの努力ではできません。 聖霊様の助けが絶対的です。
その聖霊様が来られるような、この器になるためには、 ただ人間的な熱心ではできません。
聖霊様が来られるように、正しい信仰をやらなきゃいけないんですけど、 じゃあ熱心にやればいいんじゃないか。
いいえ、熱心じゃなくて、信仰の内容をよく見ていかないといけない。 自己中心的な信仰なのか、神中心的な信仰なのか。
これ、言葉を変えれば、神の手を求める信仰なのか、 神の御香を求める信仰なのか、このような中を見ていますと、 全然違う信仰を持っている。
私たちは神中心的な信仰、神の御香を求める信仰をする時に、 聖霊様が来てくださいます。
聖霊様の力をいただいた時に、まことの信仰ができるんです。 この違いをぜひ理解していただきたいと思います。
例えば、二人の息子がいます。 一人の息子は、自分が何か感謝することがある時、
親に感謝します。 なければ、親にも何にも無関心です。
また、義務的に親に何かやってくれ、やってくれ、ということばかりです。 また、うまくやってくれなければ、親の誠意を失わし、
恨み、不平をします。 この息子がいるなら、親は非常に辛いでしょう。
また、一人の息子は、感謝の条件があってもなくても、 いつも親のところに来て感謝します。
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なぜ親に感謝するのかと聞いたら、私を産んでくださったんだ。 また、温かい愛を持って今まで育ててくださったんだ。
また、親が生きているから、私は親が生きていることだけでも感謝だと言います。
特別にやってもらうこともない、不要な義務ばかりなんですけど、
父母が生きていることが、自分には感謝だと言います。 皆さんは誰が新しい川袋の信仰だと思いますか?
聖霊様はこのように、神中心的な信仰、 神の御顔を求める人たちに注がれます。
これはまた大事な意味があります。 私たちの信仰生活は、広い道から行く生活ではありません。
狭い門から、細い道から行く信仰、これが正しい信仰です。 マタイ7章13節14節
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、 その道も広々として、そこから入る人は多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、 その道は細いことか、それを見出す者は少ない。
皆さん、ここで、滅びに通じる門がある、 命に通じる門があると言います。
ただ、広い道、狭い道、これじゃなくて、 滅びなのか、命なのかなんです。
ところが、細い道に行くことができる人は、 神の御顔を求める人だけが行くことができます。
どんな状況の中でも、神様は絶対善だということを信じて、 神様がなさることを全部認めて、
神を愛する人だけが、 狭い道、細い道に行くんです。
皆さん、細い道は孤独です。行く人がいないから。
私一人行くんで、ここ行ったら間違えるんじゃないかと、 確信がなければいけません。
広い道はみんな行くから、 まあ適当に確信がなくても、いくらでも行けます。
でも、狭いもの、細い道は、この道は命だということを 確信を持たなければ絶対行けません。
そこには十字架があります。不便です。 箱貝もあります。黒があります。
イエス様は鯉がありますが、狐も穴があり、 空の鳥も巣がある。
だが人の子には枕するところもない。 枕するところもないところに、イエス様だけが歩んでいきます。
ですから、うまくやってくれれば感謝。 うまくやってくれなければ不満、不平。
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他の人にせいにする。 その人は絶対その道は行けません。
だから、広い道に行くのか、細い道に行くのか、 この信仰は非常に大事です。
神を愛し、神の身もれをよくわかって、 どんな状況でも、いつも感謝する人だけが、
この道に行けるんです。 だから、神中心、神の御化を求める。
また、狭い門、細い道に行く。命に通じる。
そのことをみんな同じような流れを持って、 イエス様が三条の推訓で教えてくださったでしょう。
私は東京に来て、この教会に来て6年間、 十字架の福音を求めています。
十字架の福音に命があると思っているからです。
でも、私たちは十何年間、十字架の福音を分かち合ったとしても、 物足りないことがたくさんあります。
だから、この段階で、私は主に対してどのような感謝を するべきなのかと思ったんですけど、
聖書を読んでみたら、感謝が出ました。 私が今日紹介していきたいと思っているのは、
シヘンの106編、またエレミア・アイカの3章です。
シヘンの106編は、イスラエル人たちがエルサラムに戻ってきて、 もう今まで、アラノリからカナーに入って、
バベロンの奴隷になっていって、そこから取り戻された。 その長い歴史を考えながら、神様に賛美することです。
また、エレミア・アイカは、もう今すぐ、 バベロンに捕虜になって連れて行かれる場面を、
エレミアが見て書いた聖書です。 だから、エレミア・アイカは、今行っている苦しみ、
また、シヘンの106編は、歴史を長く見てから、 感謝することなんですけど、
彼らは、シヘンの106編の一節、こう言います。 「ハレルヤ、メグミヒクワイ、主に感謝せよ。
慈しみは徳しえに。」 ところが、彼らは、このように感謝する立場ではありませんでした。
感謝する立場でもないのに、なぜこのように感謝するのか。 実際、イスラエルは、エジプトの奴隷の状態から救われたんです。
そこから、出地エジプトに行った時、 豪海を渡る時は、もう神様に賛美します。
しかし、カナンの入り、一番初めに入ってから、 アラノに入ってからは、不便なことが一つ二つではありませんでした。
だから、40年間、ずっと口から、他の人のせいにして、 猛瀬のせいにして、神を恨みながら不平不満を、
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いつもやり続けたんです。 では、なぜ神様は、彼らを出地エジプトして、そのままカナンに行くんじゃなくて、
アラノで訓練をされたんでしょう。 神様の身分がありました。
出地エジプト中級賞5節、6節。 これは私たちにも同じです。
第一ペトロ、2章、9節にも、同じ言葉があります。 今、もし私の声を聞きしたい、私の契約を守るならば、
あなたたちは全ての民の間に、私の宝である。 要は全て私のものである。
あなたたちは私にとって、祭祀の王国、聖なる国民となる。 これがイスラエル人たちが、要要に語るべきことだ。
要要に語るべきことは、イスラエルに対する神様の目的は、これしかないんだということです。
奴隷の民であった彼らを訓練されて、王なる祭祀として、 祭祀は罪人と神様を和解させる役割。
だから、世の中の罪人を神様に和解させて、 救いの役割をする国としてイスラエルを選んだんです。
それをやろうとしたら、イスラエル人たちは奴隷の根性を持っているから、 根性を持っているから、なかなかこの王なる祭祀のレベルにならない。
内面性から全部変えなければいけない。 その変えるために、アラノに導いて訓練をされたんです。
ところが、彼らは神のこの身もねを知らなく、 いつも不平不満ばっかりします。
また、カナンに導いて入ったら、カナン民族たちのこの文化、 違法人の文化、未だらの文化、そこに惚れてしまって、
優しく同化されてしまいます。 神の選ばれた先民という意識がなく、
違法人の空城を拝んで、世の中の習わしに従って、 世の中の良いことをもう羨ましく思って、
だから、もう違法人と同じような罪を犯します。 その時、神様は、ぜひ私の心を悟りなさいと思って、
バベロンの捕虜に送って、苦難を受けられさせたんですけど、 民たちがバベロンで叫び求めながら苦しんでいる時に、
神様は彼らを救われて、イスラエルのイエルサレムに戻ってこられる。 だから、神様は今、訓練のためになさること、
そのことを分かったら、訓練を受けて、訓練を終わったら、もう良くなるから。 神の計画を成し遂げられるところだったら、祝福の民族になるから。
それを求めるんじゃなくて、ただ毎日が苦しい。 ただ、不便なことが一つ二つたくさんあるから、そればっかり考えながら文句ばっかりする。
このイスラエル民族。 神様はこの民族を見て、どうするべきなのか。
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その神様の身心を悟った預言者が、エレミー・アイカー3章30節にこう言います。
人の心が苦しめられ、悩ませることは、神の身もではなかった。 これはただの訓練であって、よく訓練を受けたら、これはもううまくできるはずなのに、
人々の心ではいつも神様は厳しい方、神様は私たちを殺そうとするんだと、このことばっかり考えたということです。
究極的に神様は彼らが元々救われた目的にふさわしく、大なる祭司として準備できることを長く長く待っておられるのに、彼たちはそれができなかった。
しかし神様はどのぐらい彼らを待っておられるんですか。 うまくできなければもうそのまま、あなたたちはダメだと思って、私のためではないと言われるんですか。
そうではありません。神様は一度選ばれたとしたら、神様の御霊は後悔がない。 神様が選ばれたと言ったら、それができるまで我慢される方が神様です。
いつまで我慢されるのか。一千年を一日のように我慢される。 これは神様は絶対希望を諦めないお方。
だから結局神様はイスラル人を通して名写を送ってくださったんじゃありませんか。
今も恵みと愛を施しながら、 元来て訓練を受けて大なる祭司の役割を担ってくれと思っておられる神様。
私たちはこの神様の身分を理解する、その受け入れることさえできれば、私たちには希望があります。
今私たちが上手くできない状態だとしても、神様の身分を理解したら、私たちには希望があります。
神様、今何をされているんですか。 神様は待っておられます。
忍耐しておられます。今年恵みを与えて上手くできなければ、来年やろう。 来年待っておられる。来年恵みを与えて上手くできなければ、また最大にやろう。
神様はいくらでも待っておられる。いつまで。私たちが死ぬまで。 生きている限り神様は待っておられる。
なぜ私はこの話を申し上げるのか。私たちも同じです。
10年以上、新しい革袋に新しいぶどう糸入れられるんだよと思って、 古い革袋じゃなくて新しい革袋を準備しましょう。
ということをメッセージを皆さん、耳が痛いほど皆さん聞かれたでしょう。 しかし私たちの状態を見てますと、上手くできていない。
だったら1年間、2年間、私の業界、前の業界まで含めた16年間、 十字架の福音をやっても上手くできなければ、神様も諦めてお前たち見捨てるよと言われるんじゃないかと私たちは不安があります。
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しかし神様は私たちが上手くできないんだことを諦める方ではないんです。 憐れみ深いお方です。
できるどころまで待っておられる。我慢しておられる。 また来年、また来年、恵みを施してくださるお方です。
私たちが生きている限り、無限に我慢しておられる。 愛と憐れみを持って私たちを助けてくださる神様。
それを考えたら希望が生じるんじゃありませんか。 それをエレミアが考えて愛歌3章を読んでくださったところ、主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。 それは朝ごとに新たになる。
あなたの真実はそれほど深い。 主こそ私の受ける分と私の魂はいい。
私は主を待ち望む。主に望みを置き、尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる。
私たちの主なる神様は愛と憐れみが無限なお方です。 私たちがうまくやれば神様は喜んでくださいます。
でもうまくできなければ、過ちばかり罪ばかりだったら 愛を持ってさーっとふさがれてください。
また新しい力を与えてくださり、もっと一回頑張ってね。もう一回頑張れ。 憐れみと愛がもう限りがないお方です。
この神様を見られる時、見上げる時に希望が生じます。
私たちは私は私たち教会の子供たち、二世たち、またお年寄りの皆さんを考えながら 憐れみ豊かな神様に感謝するしかありません。
間違えるならすぐ捨ててしまう神様なら、私たち子供どうしましょうか。
間違えたらすぐ捨ててしまう神様なら、私たち二世たちどうしましょうか。 しかし神様は絶対そんなことありません。
豊かな愛を持って 最後まで待ってくださる神様です。
だったらそれを考えたら、私たち子供たち、今うまくできなくても 大丈夫、大丈夫。神様待ってくださるから、愛をくださるから、
また私たち二世たちにも大丈夫、大丈夫と思いませんか。 私はそれを考える時、主を感謝します。
その愛と憐れみで私たちの家族をもっともっと我慢してください。 愛と憐れみを施してください。
私たちが鳥なしのりを持ってうまく助けて、うまく成長できるように助けるから、 神様もっともっと我慢してください。
21:08
このように祈る心が私たちの中に生じます。 神を知る時、神を信じる時、希望があります。
なぜ?待ってくださることをわかっているから。 だから待ってくださる神様を考えるから、私の子供、私の家族、私の教会、
うまくできていないんだけど、 待ってくださる神様を考えるなら、希望が生じます。
祈る気持ちになります。 主をどうかどうか、どうかどうか、もっともっと力を与えてくださいと祈ります。
ところが私たち子供たち、今年非常に頑張りました。 ユナちゃんはいろいろな分野で
力を発揮しました。 こころさまと言いたい。
またミノリちゃん、 今年1年間、受験勉強で非常に頑張りました。
私は良い結果が出ると信じます。 またアユミちゃん、大きく成長しました。
私はアユミちゃんが成長することを見ながら、本当に女性らしい美しい 内面性を見ることができ、これからまた楽しみになります。
皆さん、サクちゃん、今日聞いてたんですけど、 私はもう写真しか見ることができないので、
たびたび写真を見せてもらって見ることは、 まずはじめに赤ちゃんが仰向けに寝ているところから、
なんとか裏返しができ、 まずそこから腹張りになって、それから今座って長く座っている状態までいます。
私はそれが当たり前じゃないかと思ったんですけど、 私が子供を2人育てる時までは知らなかった。
サクちゃんを見て、これは当たり前じゃないんだってことをやっとわかりました。 サクちゃん頑張りましたね。
足をパタパタパタパタしながら、なんとかファッと、 いやーこれを見ているとき、
サクちゃん、ご苦労様と言いたい。 またそれをずっと我慢して面倒を見てくださった、この母とおばあちゃんにお疲れ様でしたと言いたい。
また私たちの子供たちを面倒を見てくださった、 この父母の皆さん、本当に祝福します。
また私は子供たちを健康に守ってくださり、 またお年寄りの皆さんを守ってくださる神様の保護膜、
防御の壁を考えるときにいつも感謝します。 また私たちの教会、足りないことばっかりですけど、
これで礼拝を6年間、 もういつも礼拝を毎週毎週行うことができ、
24:04
毎年毎年、もっともっと死に近づくことができるように 助けてくださった神様に感謝します。
今年は野外礼拝まで行うことができて本当に感謝しました。 このすべてを恵みを与えてくださった神様に感謝します。
物足りないことばっかりですけど、来年度も続けて続けて我慢してくださり、
無限に憐れみと恵みを与えてくださる神様を信じるから、 私は感謝しかありません。
ここで私は、主よ、新しい顔袋ができるまで待ってください、 我慢してください、いうような祈りをします。
皆さん、私たちは主のうちにいるなら、いつも希望があります。 主から離れないでください。
主のうちに留まることさえできれば、私たちにはいつも希望があります。 宝刀息子になってはいけません。主のうちから離れてはいけません。
主のうちにいつも留まる私たちになりましょう。 私は最後に四辺の106の48節を一生に唱えたいと思います。
四辺の106の48節、せーの、 イスラエルの神、主をたたえよ、
ようようとこしえに、民は皆、アメンと答えよ、 晴れるや、ということです。
お祈り出します。 主を今年1年間与えてくださった恵みに感謝します。
また、物足りないことしかない私たちですけど、 今日のメッセージを通して、神様は決して諦めない。
最後まで最後まで、憐れみと恵みをいつも与えてくださる、 無限の愛の神様であることを信じて感謝します。
今年できなかった分、来年度もっともっと新しい力をくださり、 新しい恵みをくださって、できるようにしてくださることを信じて感謝します。
是非とも、新しい川袋を成し遂げ、 新しい葡萄酒、リバイバルが与えられる、その時を待ち望んでいます。
その時が早く来るように、私たちを助けてください。 イエス様の皆を通してお祈り致します。アメン。
26:33

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