牧師がこのような心を持っていったら、 牧師は必ず大勢の人に使えることができるでしょう。
今私は、この部分で何か問題があるのではないかと思って、 この八つのことを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
じゃあまず、また以降小三節に、心貧しい人々は幸いである。 天の国はそのような人のものであろうと言います。
ここで心貧しいということは、英語で言えば the poor in spirit です。
霊的に貧しいということです。 人間は霊的な存在です。
だから人間は世の中のことでいくら満たしても満たされない部分があるんです。 これは霊的な部分です。
霊的な部分は神様じゃなければ満たしてくれない。 だから世の中のすべてを持っていったとしても、
この霊的なところに今空いている、穴がなっているなら満足できません。
だからこの神の人は、この霊的なところの穴、空いている空間、 それは神の恵みによってそれを満たしてくださいと、
神様に出て、それを切に求める人です。 そうするなら神様はその空いているところ、
この空いている穴になっているこのところを 満たしてくださいます。
神様に、この自分の心に今何か空いている、 何か足りない、
何か世の中のことをたくさん持っているように見えるんだけど、 満たされない部分があるなら、ぜひ神様に祈りましょう。
求めましょう。 その姿勢を神様が本当に幸いだと思います。 そこに天国を与えてください。
2番目行書4節には、悲しむ人々は幸いである。 その人は慰められるという。
世の中には悲しみがたくさんあります。 しかしここで言われる悲しみは、霊的な悲しみであって、
神の人が何をもって悲しむべきか教えてください。 神の人であるなら、
自分が犯した罪、 罪のゆえに悲しむことが大事です。
神様は私たちを救うために、一人子イエス・キリストを与えてくださるほど、 私たちを愛されたのにもかかわらず、私たちは続けて罪を犯しています。
それによって神様の心を痛ませた。 これは自分自身を感じて、死を私をお許しくださいという悲しみ。
これは素晴らしいことです。神様は喜ばれます。 また神の子供である私たちが、
神様を愛するんじゃなくて、世の中で愛することがたくさんあって、 それを愛するんです。
空情です。 心に空情がたくさんあって、また自己中心的で、神の見事はより自分がやりたいことをやっている。
これが神様がどれほど悲しんでおられるか、 それを知っている人は、神の前で悲しむでしょう。
そういうように悲しむ人は、神様が、 あなたは幸いだ、幸いだ、神様の慰め、天国の慰めが与えられます。
また3番目、後章、後節には、 柔和な人々は幸いだ、その人たちは知を受け継ぐと言います。
柔和な人という人は、温かい人です。 優しい人です。
人々をよく抱いて使います。 相手を判断して、相手が良い、悪い、
言うことによって争ったりしません。 自分に対して悪口をするんだとしても、むしろその人のために祈ってあげて、
謙遜に使ってあげます。 相手と戦うのは嫌なんです。
戦うよりは負けてあげる、譲ってあげる。 この人が、
柔和な人の特徴です。 柔和な人は、このように負けてあげ、譲ってあげたら、
あなたはどうするつもり?と言われるのではありませんか。 しかし彼は、
全てを神様が全部知っておられる。 神様が全部コントロールされておられる。
神の身実に合うなら、いつか神様が満たしてくださることを信じるんです。 だから戦うよりは神に任せます。
代表的な存在が創世記のイサクです。 中東の地域は井戸が命のように、水が本当に大事なところです。
自分が掘った井戸をペリして、アマレックの七次会達が来て、
自分のものだと、これを私たちが持って行く。 だったらイサクは争わないで、
あなたに譲るよと言って、他のところに行って、また掘ります。 またそこに行って、これも私のものだと言います。
だったら、OK、あなたに持って行って。 イサクは争わないで、何か自分を欲しがっている人がいたら、
OK、譲ってあげるよ。負けてあげるよ。 いつもこうやるんです。
このイサクのように生きたら、皆さん、イサクの人生はどうなるんでしょう? 家族はどうなるんでしょう?
しかしイサクは信じていました。 この全ては神様がご存知だ。
神様がくださるんだ。 だから神様をくださるし、神様をご存知だから、
私にも神様が与えてくださるはずだ。 私が譲ってもまたくださるんでしょう。
これをイサクは信じたんです。 だから彼は譲ってあげたんですね。
それを見たこのペリシテの王アビメレクは、 イサクに来て、
和解しましょう。あなたはきっと神様が共におられる。 あなたにはもう耐えられないから、
私たちと和解しましょう。 それによって
イサクは世の中を得た。 人々の心を得たんです。
また神様が与えてくださって、 たくさんの意図を持つようになりました。
世の中を得た人、イサクです。
世の中で譲ってあげて、 わかっていながら負けてあげて、
このような人は世の中の人が大好きです。 そのような人がいるなら尊敬します。
結局、神様の心があるかないか、それを 世の中の人がわかってついてきます。
その人は結局、全てを得る人になります。
4番目、植えかわく人々は幸いだろう。 その人たちは満たされている。
義に植えかわく。 神様が一番願っておられること。
義に植えかわく人。 その人がいたら、神様が喜ばれ、
その人たちに必ず、 気、心理、また神様が一番素晴らしいことを与えてください。
5番目、後書7節を見ますと、 憐れみ深い人々は幸いだろう。
その人たちは憐れみを受けろと言います。 初め、人間が罪を犯して堕落した時、
神様が人間に対してどんな心を持たれたのか、 これが憐れみだったんです。
罪を犯した悔しいこの奴、私が禁止したのに これを抱っこって食べるのか、
お前たちはダメだ、言わなかったんです。 神様はこの人々を憐れんでくださって、
皮の衣を着せられ、恥を隠してくださったんです。 神様は今も罪人たちを憐れんでおられます。
世の中には憐れむ人々がたくさんいます。
イエス様の弟子である私たちは、 この憐れむ心を持つことが大事です。
愛はどこから始まるのか、憐れむ心から始まります。
また、正しい憐れむ心を持っていったら、 必ず自分を犠牲して献身するようになるでしょう。
この憐れみ深い人々を通して、 世の中に神の愛が実現されます。
6番目、後生発説には、心の清い人々は幸いである。 その人々は神を見ると言います。
心の清いということは、 心が純粋で清いという意味です。
また、双心を持っていない。 これもやりながら、これもやろうという、
双心を持つことは、本当に悪いことです。
一心、焦点が一つ、フォーカスが一つ、 一心を持っている人は、
礼儀的な世界で、本当に良い意味があります。 神に出会うことができるし、
神様に見ることができると聖書は言っています。
双心、これもやるし、これもやる。
サタン、蛇が舌を分けて、この話もするし、 他のところに行ったら、この話をする。
ここには、この話をする。 自分の都合が良いところでやっていく。
これは、サタン的な働きです。 神様は、これは喜んでいません。
神は、フォーカスが一つになる人。 これが、神様が一番愛される人です。
7番目は、平和を実現する人は幸いである。 その人たちは、神の子と呼ばれると言います。
平和を実現するというのは、ピースメーカーと言います。 ピースメーカーの反対は、トラブルメーカーです。
私が行くところどころに、争いが起こりますか。 私が行くところどころに、平和を実現する。
もたらすようになりますか。 よく考えてみてください。
今年1年間、私が行くところどころに、 何か争いがあったんですか。平和があったんでしょうか。
これは、よくわかるんですね。 しかし、ピースメーカーになろうとしたら、皆さん大事です。
この人と、この人の間に、ピースメーカーになろうとしたら、 ある片方だけの話を聞いて、「あ、そうだ。あなたが正しい。この人が悪い。」
これだったら、ピースメーカーにはなれません。 ピースメーカーになろうとしたら、
両方、全部聞かなきゃいけません。 この人の立場から聞いて、また、この人の立場から聞いて、
あなたたちの間に問題はこれですね。 これを自分が取り除いてあげて、二人を和解させなきゃいけません。
ある一歩的に、この片方のところだけ、何かうまくやってあげる。
そうしたら、ピースメーカーにはなりません。 むしろ、トラブルメーカーになるかもしれません。
イエス様は神様でした。 神様の御心をよく知っています。
イエス様は完全な人間としてなられました。 人間の都合を全部担っていました。
神のこともよく知っているし、人間のことをよく知っているイエス様が、 忠実家で、人間たちのために、
神様も、罪のゆえに人間と敵になったから、 だから、人間のために、罪のあがないようために、忠実家で死んでくださいました。
この忠実家の和解のためには、神の顔もよくわかって、 何が問題だったのか、人間側で何が問題で、神様が敵になったのかわかって、
それを解決してくださいました。 世の中の真っごとのピースメーカーはイエス様です。
しかし、イエス様は私たちに、あなたはどこに行ってもピースメーカーになれ、 トラブルメーカーになったらいけないよ、と言います。
ですから、神様はどこに行ってもピースメーカーになる人を、神の子と言いました。
これは私たちに対して、一番誇りになる、一番素晴らしい名前です。
私たちはピースメーカーにならなきゃいけない。 ぜひ。
8番目。 金のために迫害される人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。
イエス様を信じる人たちは、神の子供、 天国の市民になります。
天国の市民は、天国の法律、天国のルールに従って生きます。
ところが、世の中の生き方は天国の生き方と違います。 天国のルールと世の中のルールは違います。
だから、私たちはこの世に過ごしているから、神の民だから、 神のルールに従って生きるんですけど、
この世の中のルールもあるんです。 世の中のルールと神のルールが違う場合がたくさんあります。
だから、その衝突の中で私たちがいるから、 神のルールに従う私たちを世の中の人々、世の中は嫌がります。
そこで迫害が生じます。 イエス様に従う人は、世の中の人々がやらないことをたくさんやらなきゃいけないこともあります。
そのことによって、この世の中からはおかしいんじゃないか、 あなたは違うねと言いながら私たちを嫌がり、悪口をし、
そのためにキリスト者は、この世では不利益を受ける場合がたくさんあります。 悔しいでしょう。悲しむでしょう。
ところが、その時イエス様は、 喜びなさい。大いに喜びなさいと言います。
なぜなら、その迫害、世の中のルールと神様のルールが違うところで、
神のルールに従うために、世の中から迫害され、罵られ、いろいろなことを受けられ、被害を受けた時は、
このすべてを神様が報いてくださいます。 この報いがどれほど素晴らしいのか、
喜びなさい。大いに喜びなさいと言います。
この三蔵の水君の八つの心、皆さんはどうですか。
私はこの八つの心の内面性を振り返ってみながら、私に足りないことがよくわかりました。すぐわかりました。
私は木に植えかわく人、木のために迫害をする、
この部分は私はある程度強いんじゃないかと思います。しかし、
乳は哀れみ、平和を実現する、和解させる、この部分は私は非常に足りないような気がします。
今、教会に人が集まらない理由は、ここにあるのではないかと思います。
なぜ私にはこのような心が足りないのか。
もともと私は貧しい家庭に生まれ育ちました。
ですから、私はこの貧しい家庭の中で、私は長男ですから、
私が何とか勉強をうまくやって、成功して、出世して、偉い人になって、
この家庭を何とか生かさなきゃいけない、というような夢がありました。
ですから、必死的に働きました。
会社の時は、私の宛名がありました。
サイティ、コプルソ、何か私が目標していることを手に入れるためには、争いも。
皆さん、人間関係と目標達成ということは、
人間関係をうまくやれば目標達成ができるのは当たり前ですけど、
人間関係を無視して目標達成だけ考えて働くのは、これは絶対ダメです。
しかし、私はその道を選びました。
会社の中でいろいろな争いもあったり、いろいろなことがあったんですけど、
私はそれよりは目標達成のために頑張りました。
これが、僕会にでもいろいろな影響を及ぼしたような気がします。
僕会も目標達成をよく考えて、
人間関係を私はうまく考えないような、いられない弱さを持っている人間です。
また、私の働きも主にマンスーマンとか小グループの働きが主です。
ですから、たくさんの人を集めておいて、それで愛をもって使える、
このような働きには私は弱いです。
このようになったことは、もともと私は信仰生活を始めるときに、
家の反対が多かったです。
その反対を乗り越えて、なんとか信仰を守るためには、
何か私は神様に必死に掴んだり、
また見言葉を必死に掴んでいかなければいけませんでした。
私の父はいつも言いました。
イエスだけは信じないでください。
あなたが願うことすべてやってあげるから、という話もたくさん聞きました。
その時、私は父の怪獣に惑わされないように、また妥協しないように、
なんか私の信仰はもう本当に狭い、細い道に歩むようなものでした。
また、日本の新学校で学びながら、
自由主義、宗教打言論のような正しくないいろんな新学から、
私自身を守るために精一杯頑張ってきたから、
私がある意味から見たら、一匹狼のような信仰になってしまいました。
その中で、保養力もない、愛も哀れみ、入話もない、
真理しかない牧師になりました。
正しいのは正しいけど、人はついてこない。
これが私の今の姿です。
その意味で、人が集まらない教会になったんじゃないか。
私もそうです。
信徒たちの中で、私が信じている真理と、
何かうまくいかない部分があったら、私は厳しくなっちゃうんですね。
そうしたらいけないのに、どうか私が変わらなきゃいけないんですけど、
これから私はどうすれば、入話、哀れみ深い、このような人間になれるでしょう。
聖書を読んでいますと、私のように、もともと寛固な人だったんですけど、
入話と哀れみ深い人になった人がいました。
これがモーセです。
モーセも、生まれの環境、成長の環境の中で、難しさがたくさんありました。
イスラエル人でありながら、エジプトの宮廷で育てられる、いろいろな矛盾さを感じたでしょう。
だからモーセの内面性は荒々しい、激しい人になったと思います。
そこで、エジプトの宮廷で、西洋学を学んだ彼は、自分の民イスラエルを、民を哀れんで、
その民を迫害するエジプトの官吏を、打ち殺したと言います。
人殺しになって、荒れ野に逃げて、40年間、神様からの訓練を受けます。
それによってモーセは、新明記中二書3節を見ますと、
世の中で一番ニューアーな人、謙遜な人になったと言います。
このモーセのニューアーによって、イスラエル人たちが、大勢モーセについていったんじゃないかと思います。
皆さん、何にもないところがあるので、民たちは不満、悪口、不信仰、40年続けて、
それを我慢しながら、イスラエル人たちを導いた、このモーセのニューアーな心は素晴らしいです。
ただ、モーセは、憐れみ深い人でした。
始成筆三十二書で、イスラエル民は、モーセが十回を受けるために、神の山に登ったところで、
イスラエル人たちを空城を作るんです。
それを、これから自分たちを導く神だと言います。
それを見て、神様が、このイスラエル民を全部滅ぼし、
あなたを元にして、新しい私が働きを始めたいと言います。
その時、モーセは、この神様に、この変わらない神様に逆らう、
この民たちを抱いて、取りなし祈りをします。
その時、神様が、分かった、分かった、あなたの思う通りにやってあげる。
本当にモーセは素晴らしい、このイスラエル民族のリーダーでした。
そのリーダーになった秘訣は、ニューアーな人たたかりです。
罪人でも、いい人でも、誰でも、心懐に抱いて、
その人を使えることができる、心広い人だったからです。
事実、このモーセのニューアー、哀れみは、
このイエス様の懇願性でもあります。
イエス様は、マタイ中一章二十八節、
疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私の元に来なさい。
休ませてあげよう。
私はニューアーで謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。
そうすれば、あなたたちは安らぎを得られるよ。
世の中で疲れた人、世の中でいろいろな問題を抱えている人々は、
イエス様のところにいて、みんな安らぎを得ることができ、救いを得ることができました。
癒しをいただくことができました。
このイエス様は、世の中の全ての人をうまく使えるニューアーな謙遜なお方だったのです。
最後は、イエス様は、この人々のために十字架で死んでくださるほど、
イエス様をこの全ての人に使いました。
イエス様のニューアー、哀れみによって、