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2025-02-09 29:04

「実行しなさい。そうすれば命が得られる」2025年2月9日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年2月9日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) ヤコブ-19  わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。15. もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16. あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17. 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。18. しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。19. あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
ルカ-28  すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26.イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27. 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28. イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

メッセージ題 : 実行しなさい。そうすれば、命が得られる(ヤコブ-19、ルカ-28)
*信仰は非常に大事です。大事なところに偽物が多いように、偽りの信仰が。偽りの信仰はいくら長くしても?しかし真の信仰には実りが。今日は真の信仰とは?それは理論だけでなく行いが

1.ルカ10章とヤコブ2章を通して・・・ ルカ10章で、ある律法学者がイエス様に質問します。
*ルカ10:25何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができますか?ここ、永遠の命とは救い、天国。信仰の目的!この世は100年、天国地獄は永遠!絶対天国に!百年のこの世の理由、天国準備
#このように大事な永遠の命を得る方法?26節、律法に書いてある、それをどう読むかに掛かっている
―>律法学者に聞いたら?27節、素晴らしい答えを!第1,第2の戒めを・・・そこでイエス様は、28節、実行しなさい、そうすれば命を得られると!<-今私たちが信じている教理と違うのでは・・・。しかし、愛をすることとは知ることではなく実践が大事ではないでしょうか?実際、律法学者の問題は?(それは私たちの問題にもなりますが・・・)知っているが実践が伴わないということです!
#行いが伴わない信仰の問題?
1)悪霊も持っている信仰を私たちも。ヤコブ2:19真の信仰なの
2)行いが伴わなくても良いという悪い風土が。
3)御名が汚され伝道ができない主な理由になる。ここでエペソ2:8,9なぜ行いではなく恵みで救われると?それほど神の恵みが重要。しかしそれによる問題があり過ぎて、ヤコブ使徒は、ヤコブ2:14行いが伴わない信仰で救いができるかと

2.この為に・・・イエス様は例えを通して誤った信仰を悟らせるが、それがルカ10:25-37のサマリア人の例え
*例えの内容?ある人がエルサレムからエリコに、途中で強盗に襲われて奪われ半殺しの状態。その道を通り過ぎる3人の人。祭司長、レビ人、サマリア人。多分強盗に襲われた人は?ユダヤ人。信仰が偉い祭司長、レビ人は当たり前として?しかし同じ民族だったが混血によって軽蔑されたサマリアの人が救いの御業を?<-ここで疑問。祭司長、レビ人は、なぜ通り過ぎたのか?彼らは、教会では第1,2戒めを良く教えたはずなのに・・・異邦人のように取り扱ったサマリア人が
#怖い御言葉・・・「実行しなさい、そうすれば命が得られる」 命=永遠の命、天国を考えるとき?#イエス様の意味ある質問!ルカ10:36この3人の中で誰が強盗に襲われた人の隣人なのか?
*ここで、私たちの問題・・・私たちは自分の隣人を自分が決めて付き合いをする。しかしイエス様は、あなたの隣人は誰かではなく、誰が強盗に襲われた人に隣人なのかと!強盗に襲われた人を助ける立場にいるすべての人が強盗に襲われた人の隣人であると、イエス様は言われる!

3.この例えで、善きサマリア人は・・・イエス・キリストです。
*ユダヤ人と宗教指導者たちから一番嫌がれ見捨てられたイエス様。しかし彼らを救う為に十字架を!また、私たちを救われる為に・・・なぜ、罪過ちで地獄に行くべき私たちを救われたでしょう?Ⅱコリント5:15 ―>私たちはその恵みを頂いたのに?ユダヤ人のように自分の隣人を決めておいて?では教会外にいる人たちは誰が救うのか? @新年は変わりましょう。御力を頂いて・・*人類を愛して、マルコ10:45、マタイ4:23十字架の贖い、教え、宣べ伝え、癒しを通して神様と

00:00
今日は、「実行しなさい。そうすれば命が得られる」という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
信仰は非常に大事です。 もともと貴重なところには偽物がたくさんあります。
信仰は非常に貴重なもので、もう世の中で一番貴重なものだから、信仰にも偽物があります。
これを私たちは、一割の信仰と、十字架の福音で学びました。 一割の信仰はいくら長く熱心にやっても、何にもありません。
しかし、誠の信仰には、神のご臨在と栄光が現れ、また、そこには実りがあります。
今日は、どんな信仰が誠の信仰、正しい信仰なのか、それを一緒に考えていきたいと思います。
答えは、理論だけではなく、行いが伴う信仰が、正しい信仰、誠の信仰です。
それを、ルカの出書と、ヤクボ書を通して、御言葉を分かち合いたいと思います。
今日読んでくださったルカの出書に、ある立法学者がイエス様に質問します。
この立法学者、他の宣書では、立法の専門家と言います。
ルカの出書25節に、彼が先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうと言います。
信仰生活で一番大事なのは、何だと思いますか。
これは、救われることです。
救われることがなければ、信仰生活は何の意味もありません。
私たちは、教養が足りなくて、今教養を学ぶだけに、ここに来たのではないでしょう。
信仰の目的は、救われることです。天国に行くことです。
天国の永遠の命を得ること、これが信仰の目的です。
なぜ、これが大事だと言われるのか。
この世は100年です。
しかし、100年で終わりではありません。人間は永遠に行きます。
人間は神の見姿だから、霊的な存在だから、永遠に行きます。
100年の後に、私たちは死んで終わりだと思うんですけど、全然違います。
聖書は、この後に天国と地獄があると言います。
天国で永遠に生きるか、これを永遠の命、地獄で永遠に生きることは、永遠の罰と言います。
罰の中で永遠に生きるか、地獄の中で、命の中で永遠に生きるか、
これが、生きているこの100年の間に全て決められるんです。
だから、この100年が大事です。
この100年人生の中で一番大事なのは、天国に行く準備をすること、永遠の命を得ることです。
それほど大事なものはありません。
03:02
この世でいくら貧しくても、天国に行くなら大成功です。
これがナザロと金持ちの例えでわかりますね。
この世でいくら成功したとしても、地獄に行くなら、その人は大失敗です。
私たちは必ず天国に行かなければなりません。
ところが、天国の永遠の命は、どのように得られることができるでしょう。
だから、それを立法の専門家がイエス様に聞いたんです。
そこでイエス様は26節に、立法には何と書いてあるのか、あなたはそれをどう読んでいるかと言われました。
これは非常に大事な聖書です。
イエス様のお話は、立法に答えがある。
しかし、あなたがこの立法をどのように読むかによって、
永遠の命を得る場合もあるし、得られない場合もある。
だから、皆さん、大事なのは聖書を読んで、聖書の中に答えがある。
あなたが聖書をどう読むか、自分の考えで読むのではなくて、
聖霊様の照らしによって聖書を読んだら、それがわかります。
永遠の命は聖書の中にありますが、自分の考えで勝手に聖書を読むなら、得られません。
聖霊様の導きによって、正しく読むとき、わかります。
ここが大事です。
あなたがどう読むか、立法学者がこのように答えます。
27節です。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。
また、隣人を自分のように愛しなさいとあります。
これは第一の忌ましめ、第二の忌ましめをお話しします。
これは正しい答えです。
素晴らしいです。
ですから、イエス様が、正しい答えだ、それを実行しなさい。
そうすれば命が得られる。
じゃあ、聖書の中に答えがあります。
しかし、答えを発見したのにもかかわらず、答えをわかったことで終わってはいけない。
これを実行するという、そこまでつながるときに、永遠の命が得られるという、イエス様がお答えをされるんです。
じゃあ、実行することが大事だと。
今、私たちは、イエス様を信じれば救われると信じています。
信仰を持っているなら、救われると思います。
しかし、信仰を持っているなら、必ずやるべきことがあるので、
それを無視して、ただ理論的に信じますと言ったら、救われると思っている、今、私たちの考え方、信仰のやり方に、イエス様が何かを、問題を投げかけているような気がします。
06:07
皆さん、愛というものは、第一の言いましめ、神を愛しなさい。
第二の言いましめ、隣人を愛しなさい。
愛は、知ること、信じることではありません。
愛は、本当に愛すること、実践が伴わなければ、愛ということは、本当に何にもありません。
ですから、私たちが今持っている信仰が、ただ理論をわかって、それを信じればいいという段階で終わったら、私たちは大間違いをしていることです。
正しい信仰は、行いが伴う信仰が正しい信仰だということを、今日、皆さんに申し上げたいと思います。
私たちは、行いを、何と言いましょうか、直ざりにする場合があります。
もし、行いがない信仰であるなら、どんな問題があるのか。
まず、そのような信仰は、悪霊友も持っていると言います。
約文2章中9節に、「あなたは、神が唯一だと信じている。結構なことだ。悪霊友も、そう信じておののいています。」と言います。
私たちが、そのぐらい、理論的に信じていることだったら、そのぐらいは、悪霊も信じている。
じゃあ、皆さん、悪霊は救われたんですか。悪霊は救われていないんです。悪霊は地獄に行きます。
だったら、私たちが、そのぐらいの信仰を持って、今、私が信じていますと言ったら、
私たちは、悪霊のように、地獄に行くしかないような存在になる可能性があるということです。
悪霊が持っている信仰は、正しい信仰ではありません。悪霊は、知識だけで信じています。
また、信仰、信仰と言いながら、行いがなくても、まあ、いいんじゃないかと思っている、このような風潮が問題です。
行いが伴わなくても、まあ、いいんじゃないかという、合理化する信仰の悪臭が、私たちの中にあって、
まあ、行いがなくても、まあ、大抵、まあ、あなただから、いいんじゃないかという、その雰囲気、
そのような流れが、キリスト教が今、ためになっていくことになっています。
また、行いが伴う信仰生活によって、未信者たちに悪影響を及ぼしています。
未信者たちが、神様をどう見ておられるのか、神様を暴読している、無視している。
また、福音伝道をしようとしたら、それが妨げになって、私はそのような教会に行きたくないという、
皆さん、一人の命を救うことは、全世界よりもっと大事なんですけど、
一人の命を救うために、なんとか言うとしたら、ああ、教会は絶対に行きたくない。
09:02
教会何々って、そのような教会に行きたくないという、そのような雰囲気がなぜできてしまったのか、
信じるなら天国に行くから、まあ、生きている間にどうしてもいいんだという、
勝手に過ごしていく、このような流れが、今、キリスト教をためにしている傾向があるということです。
皆さん、行いが伴わない信仰は、これは誤ったことです。
でも、なぜ、救いに対して、信仰だけでいいと言っているのか、
救いに対しては、神の恵みがそんなに大事なものだから、神の恵みがなければ、救いは得られないものだから、
私たちが、救いのために、恵みを恐怖とするだけで、
約本2章14節をご覧ください。
私の兄弟たち、自分は信仰を持っているというものがいても、
行いが伴わなければ、何の役に立つでしょう。
そのような信仰が、自分を救うことができるでしょうか、と言っています。
このために、私たちは行いがなくても、適当に信じるから、神様が私を天国に入れてくださるんじゃないかという、
一般的に、そのような考える傾向があるのですが、
そのようなことが間違えたことを、イエス様が、良きサマリア人のたとえを持って、私たちに教えてくださいます。
これは、ルカの出書の25節から37節までですが、そのたとえの内容は、
ある人が、イエルサレムからエリコに下っていく途中で、強盗に襲われた。
大萩に襲われたということです。
イエルサレムからエリコに下っていたその時に、たぶんこの人は、ユダヤ人ではないかと思います。
強盗は、この人を襲って、殴って、物を全部奪って、半殺しの状態で捨てたところで逃げてしまいました。
その状態の道を、最初は通り過ぎた。
また、レビビトも通り過ぎた。
しかし、彼らはその人を見て、知らんぶりにしながら通り過ぎてしまったということです。
皆さん、最初、レビビト、これはもう信仰生活のリーダーのレベルの人です。
リーダーのレベルの人だったら、私たちが思うには、
ああ、この人は必ず愛を持って、この人を助けてくれたんじゃないかと期待するんですけど、彼らはしてませんでした。
たぶんユダヤ人だと思ったら、自分と同じ民族でしょう。
同じ民族の人が今、半殺しの状態になっているのに、救おうと思わなかったということです。
指導者のレベルがそのように思わなかったと思ったら、
12:03
民全体がそのようになったと思っているでしょう。
ところが、その道をサマリア人が通り過ぎたんですけど、
サマリア人という人たちは、ユダヤ人から根欠だと言って、汚れた者として襲われたものです。
しかし、ユダヤ人の大嫌い、またサマリア人もユダヤ人の大嫌い、
大嫌いの人を高等に襲われた、この人をサマリア人が治療してあげた。
あとのことも全部面倒を見てあげて、そして最後までケアしてくれたということです。
ここで最初、レビビト、その人は神の第一の言いましめ、聖書で一番神様が願っておられるのは、
神を愛すること、隣人を愛することだ、これが最も大事な言いましめのことを知らなかったからですか。
立法の知識がないことではなく、行いがないことが彼らの問題でした。
もし彼らが行いが伴う正しい信仰を持っていたら、決してそのまま通り過ぎてはなかったでしょう。
たぶんその人たちは、聖書をよく教えたかもしれません。
神徒たちに、皆さんそうしなければいけません。高等に襲われた人たちは必ず助けなければいけないよ。
隣人を愛しなければいけません、と強調して教えたと思います。
よく教えたと思います。しかし、教えただけで自分はやってなかったということです。
しかし自分自身は、教えたことによって自分はやっていると錯覚して拒板していたかもしれません。
事実、ユダヤ人とサマリア人は、ソロモン以降、北イスラエル、南ユダヤの時期に、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされました。
アッシリアは根欠政策を行いました。
だから、異邦人たちをサマリア地域、北イスラエルの方にたくさん入れて、
北イスラエルの人と異邦人たちが根欠の状態になるようにやったんです。
南ユダヤはバベロンの捕虜になったので、バベロンは南ユダヤをそのまま保存してくれました。
だから南ユダヤに所属したユダヤ人、ペナミン部族だけは、純粋な民族、上の民族、中部族の民族は根欠になってしまったから、
ユダヤ人、ペナミン部族は、その人たちはユダヤ人でもない、イスラエル人でもない、汚れたものだから、
と言って、そのまま北イスラエルの民族は全部散らばれてしまいました。
残されたものがユダヤ人、ペナミン部族は数が少なかったから、ユダヤ人しかないから、
私たちが今もイスラエルを言っているときにユダヤ部族、ユダヤ人という、一つの部族しか残っていないと言っているでしょう。
15:08
同じ民族だったのですが、そのようなアシリアに支配されたか、バーベロンに支配されたか、
その差によって純粋さを失ったから汚れたと思って、差別して無視する。
このサマリア人が、むしろ、隣人を愛する、その愛を確かに実践しながら、最後まで助けたと言います。
ここで信仰があると言いながら、行いがないユダヤの使徒たち。
しかし、また行いによって自分の信仰を示してくれた、このサマリア人。
一体、二人の中で神様は誰をもっと喜ぶでしょう。
ここで怖い話があります。
実行しなさい。そうすれば命が得られる。
皆さん、この命が得られるということは、立法学者がどうすれば永遠の命を得ることができますかと言ったときに、この命です。
じゃあ、永遠の命はどうすればできますかと言ったら、神の御声を聞いて従うことです。
じゃあ、また今日、約文2章14節。
行いが伴わなければ何の役に立つでしょう。
そのような信仰が自分を救うことができるでしょうか。
17節。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
この御言葉を通して考えるときに、死んだ信仰によって救われ、永遠の命を得ることができるか。
これは皆さん、考えてみていただきたいと思います。
私は以前、昔の方、だいぶ以前ですね。
バブ・チョンス先生が、今は亡くなったんですけど、生きているときに、
彼が病院で周知を受けながら、死んだと言いましょうかね。
死んだんです。
それで、天国の入り口まで行きました。
そこで、天国に入る人に、イエス様が一人一人質問することを聞いたというんです。
愛することを学んだのか、と言われたそうです。
私は、バブ・チョンス先生は有名だけど、その記事は聖書で書いてないんじゃないですか。
だから、私は信じませんでした。
しかし、今日の聖書を読みながら、そうだ、天国は愛する人が入って、愛する人たちの集まりだ。
だから、天国には愛することが一番大事だということを、ここで分かりました。
ここで、イエス様が質問されます。
聖書20、36節です。
さて、あなたは、この3人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うかと言います。
18:07
立法学者は、サマリア人ですと言うべきですけど、彼はサマリア人が嫌いなんで、その人を助けた人ですと答えました。
事実は、ユダヤ人たちは、自分の隣人が誰なのか、隣人が誰なのかを決めておきました。
まずユダヤ人は、同じユダヤ人、ユダヤ侮辱、また異号人だけど、改修してユダヤ教を信じるようになった人たち。
それだけが自分の隣人だと、隣人だと思いました。
それを決めておいたんです。
その以外の人は、全部獣のように、異号人のように敵対しました。
ところが、イエス様の質問が大事です。
誰があなたの隣人なのかと言わないで、誰が高等に襲われた人の隣人なのかと聞きました。
ここで大事なのは、高等に襲われた人を助ける立場にいる人は、みんな高等に襲われた人の隣人なんです。
私の隣人を、私が決めておいて、彼だけ愛することではなく、私の助けを必要とされる人がいたら、
その人はみんな私の隣人だと思って助けることを、神様が願っておられることです。
ですから、聖書に記録があるから、だから聖書を読んだら、永遠の命を得ることはわかる。
しかし、この聖書をあなたはどのように理解し、どのように解釈しているのか。
その隣人だけでも、このような解釈は違うんですね。
だから、あなたは聖書をどう読んでいるか、ということが非常に大事だと思います。
ここで、良きサマリア人はどなたでしょう。
この良きサマリア人は、イエス・キリストご自身です。
なぜイエス様は良きサマリア人と例えられるか。
イエス様は、ユダヤ人たちに憎まれました。徹底的に排斥されました。
イエス様は、どこに行って人を教える時には、必ず宗教主導たちが来て、
そしてイエス様は避難しながら、ある時はイエス様を殺そうともしたんです。
ユダヤ人から徹底的に排斥されたんですけど、
イエス様は、ユダヤ人たちを救うために、十字架を背負ってくださいました。
また私たちは、イエス様を知らないと違法人だけど、
私たち違法人までイエス様は、救うために十字架を背負ってくださいました。
私たちは以前、過ちと罪によって死んでいたものでした。
21:02
何の希望もなく、死んだら地獄に連れて行かれるべきものでした。
しかしイエス様は私たちのために、十字架で贖いの地を流してくださったので、
私たちは救われ、神の子供になり、天国に行くようにしてくださいました。
これがどれほど大きな恵みでしょう。
皆さん、イエス様は私たちに恵みを与えてくださった理由があります。
第2コリエント古書中古説に、その一人の方は全ての人のために死んでくださった。
その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、
自分たちのために死んで、復活をしてくださった方のために、
イエス様のために、イエス様が願われることを行うために、私たちを救われたということです。
事実、以前の私のように、罪や過ちによって死んでいる人、
以前の私のように、空城を拝んでいる人、
また、以前の私のように、劣等感の塊であった人、
そして、この世の中で苦しながら、
また、死んで地獄に行くべき人々を、
その人たちを憐れんで思って、
良きサマリア人のように役割をするために、私たちを救われたんです。
これが、神様が私たちに恵みを施してくださった理由なんです。
ご覧ください。世の中の人々は、今も悪霊、悪しき者たちに襲われて苦労していて、
また、地獄に陥っているところなんですけど、
私たちは救われたから、教会長く通って、信仰も良いし、よく教えているから、
それが何の用がありますか。
まず、人々を救うことが大事ではないでしょうか。
私は、罪や過ち、劣等感に襲われて苦労したものでした。
この私にイエス様は来られて、信仰もくださって、救ってくださり、
今は救いの確信を持って、私は今、教える牧師になりました。
私は、大なる祭司長として呼ばれたんですけど、
今日の例えの、祭司長とレビビットのように、
世の中で襲われて倒れている人々がいるのにも関わらず、
私の言い訳ということは、
教会の中にいる人だけ私は愛しを、教会の外に私はしょうがない。
その意味で無関心して、
私は教会の家族だけ愛すればいいと思って過ごしていたのですから、
私は今日の例えの立法学者と同じようなものだということを告白します。
今日の見言葉によって、私は悔い改めて、
2025年度、これからは、私の助けを必要とされる大勢の方々の隣人になるように、
24:08
祈りながら、精霊様の導きに従っていきたいと思います。
2025年度は変わらなきゃという、私の思いが強いです。
なぜなら、私は2001年から僕会を始めて、
今、2025年ですから、僕会25年を行ったんですけど、
本当に今、私自身、牧師として、いろいろ情けない部分がたくさんあります。
ですから、私は2025年度、新しい決心ということで、
牧師として、本当に歩むべき道を、これからしっかり歩んでいきたいと、
それで、今日のメッセージを通して、隣人を愛し、
隣人に使えるものになりたいと決心しますけど、
正直に皆さんに申し上げます。
私はこのメッセージを準備して、このメッセージをやめようかと思いました。
なぜなら、自信がないからです。正直に自信がない。
教えることは何とか自信がありますけど、
実際、あなたが使いなさい、あなたが愛しなさい、あなたがやりなさいと言ったら、
それはもう、天土井さんお願いしますと言って任せて、
私は何となくやるふりにするようなことは、今までやってきました。
しかし、今日のメッセージは、ここから逃げないように、
今年は何とかあなたはやらなきゃいけないということを、
特に今日の見事は、実行しなさい。そうすれば命が得られる。
実行しなければ命がないということではないでしょうか。
この命は永遠の命と言われるから、
だったら、私たちはカルバン、行理を持ってきて、
信じれば救われる、予定論と言いながら、
何とかこの部分は言い訳を書きようとするんですけど、
今日のメッセージは確かです。実行しなさい。そうすれば命が得られる。
実行しなければ、私は立法学者と同じように、
また、たとえの中で、蔡首長とレビュートと同じような人間になってしまいます。
そうしながら、私は救いの確信があるよ、というような恥ずかしいんじゃありませんか。
ですから、私は今年、2025年度、決心をします。
しかし、私の力ではそれを担う力はありません。
神様の恵みを切に求めます。
また、イエス・キリストの御心を学びたい。
イエス・キリスト、哀れに思われるイエス様の御心をぜひ学びたい。
また、精霊のリバイバル、精霊注文を通して、私の力ではなく、
精霊様の力で、何とか私はこの正しい信仰を貫きたいと思っている心でいっぱいです。
27:05
そして、私は今日来る時に、何とか何とかどうすればいいのかと思いながら、
これから何をするとしても、愛の心でやろう。愛を込めてやろう。
人事を人に言う時にも、愛の心でやること。
これを私は小さなところから実践して、
だんだんだんだんだんだんだん大萩に襲われた人たちを、
愛して助ける良きサマリア人のような人になりたいということ。
これを私は今日のメッセージで、本当に実践していく2025年になりたいと思っています。
どうかどうかそれが本当にうまくなり遂げることができるように、
皆さんのお祈りをよろしくお願いします。
じゃあ、お祈りいたします。
私たちの人生に一番大事な永遠の命、天国の永遠の命、
一番大事なことですけど、私たちはそのために、
一人の人を愛して助ける、一人の人を救う、
そのことをなおざりにしているのではないかと思います。
どうかどうか、今まで私が信じていた救いということが正しかったのか、
救いの確信があると言ったんですけど、それが本当に正しいことだったのか、
いろいろ矛盾の中で、葛藤の中で、今日のメッセージをしました。
どうかどうかしよう。私たちの力ではできません。
イエス様の御心を注いで下さり、
聖霊様の助けを私たちに豊かに与えて下さい。
そして恥ずかしくない、正しいキリスト者にならせて下さい。
イエス様の皆を同意してお祈りいたします。
アーメン、アーメン。
29:04

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