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誠に誠にあなた方に告げます。私の言葉を聞いて、私を使わせた方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに遭うことがなく、死からいのちに移っているのです。アーメン。
主よ、そうです。私の魂は、死からいのちへ移っていることを確信し感謝いたします。
この朝、もう一度、その御言葉を、我らに聞かせて下さいますように。悟る心を、上から与えて下さいますように、お願いいたします。
そして、まだ、その死からいのちへ移される恵み、福音の力に対する確信が、まだない方が、ここにいらっしゃるならば、主よ、どうぞ、
救いへ、死からいのちへ移される恵みに預からして下さい。お与え下さい。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。アーメン。
はい、今日は、このヨハネイの福音書の公開説教、13回目です。死からいのちへ、死からいのちへ、に対して御言葉を共にお受けしたいと思います。
前回は、イエス様が、ベテスラの池にいて、38年も病んでいた、その病人を癒やされた、その出来事を一緒に見てきました。
ところがですね、あいにくその日は、ちょうど安息日でした。
それが、今日の合唱の9節の最後に、「ところがその日は、安息日であった。」と記されています。
じゃあならですね、当時のイエス様がメシアであることを認めない、そのユダヤ人たちは、安息日にはしてはいけない決まりを、100以上の決まりを決めていたんですね。
たくさんありましたけれども、その中に、いくら重病の病人がいても、安息日にはそれを癒やす行為をしてはいけない。
またね、この日のように、この38年間忘れていた人がですね、床を取り上げて歩いたんですね。
そのどんな病人であろうが、自分が横になっていたその床を取り上げることもできない、歩くことすらできない、それに禁じられていたわけなんです。
そんな安息日にイエス様が病人を癒やした、しかもその病人が床を取り上げて歩いたことのゆえに、
そのユダヤ人たちにイエス様は、いわゆる迫害がですね、さらに厳しくなってしまったわけなんです。
いわゆるですね、彼らは間違った信仰、間違った立法主義に縛られていたわけなんですね。
03:03
ところがイエス様は、そのイエス様を非難する彼らに向かって、17節のように語られました。
17節ご覧ください。イエスは彼らに答えられた。
私の父は今に至るまで働いておられます。ですから私も働いているのです。と言われました。
ところがですね、今ユダヤ人はもう殺意を持ってほどイエス様を何とかしようと、処刑にしようと狙っているところに、
まるでですね、火の上に油をかけるようにイエス様は、神様は働いておられる。
しかもですね、神様に対して私の父と呼んでいるんですね。
だから私も働くのだと彼らに宣言するように語られたわけです。
つまりイエス様は、私の父が今も働いておられる病人を癒し、貧しい人、癒しい人々をですね、共にいてくださるのに、
子供である、一人子である私が同じ神様が、父なる神様ができる働きが、私になんでできないんですか、というお話になります。
イエス様のこの話を聞いたユダヤ人たちは、イエス様がもうわざと安息日を犯してしまった。
そして自分が神であると、神のことを主張していると結論を下しました。
そしてですね、十八節を見ますと、このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しく、神を自分の父と呼んでおられたがらである。
ところが皆さん考えていただきたいです。
イエス様は、なぜですね、このように命の危険を犯すほど、私は神の子だ、
神様は私の父だ、という主張をなぜ譲らなかったんでしょうか。なぜ負けなかったんでしょうか。
イエス様はですね、この今日の第五章、また後の第六章を読みますとですね、
彼を、イエス様自身を殺そうとするユダヤ人たちの前においてですね、イエス様は一歩も譲らないです。
もうむしろ、わざと言うように思えるほど、私の父が、私の父がとですね、ずっと語って宣言しておられました。
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ところが皆さん、ここに、イエス様のこの言葉に、キリスト教の最も大事な真理がここに含まれているんですね。
つまりそれは、キリスト教の命というものは、イエスが神の子であるということなんです。
もしも、イエス様が神の子でないならば、それはですね、キリスト教はもう世界的な詐欺集団に過ぎないでしょう。
さあ、それではですね、イエス様が神様の一人子であるという真理を、その事実を、今からですね、逆説に説明させていただきたいと思います。
1、もしイエス様が唯一の神、作り主の神の御子でなければ、イエスはこの世、救う資格も力も全然ない平凡の人間に過ぎないことになります。
2、もしイエス様が神の子でなくなってしまうならば、彼は旧約聖書の預言者たちが預言した来る召し上げなくなってしまいますね。
3、もしイエス様が神の御子でなければ、彼は偽りの者であって、多くの人々を惑わしてしまった、いわゆるサタンの部下に過ぎません。
4、もしイエス様が神の御子でなければ、処刑されることも確かにわかっているにもかかわらず、最後まで自分は神の子供だと主張した馬鹿者に過ぎません。
どうでしょうか、皆さん。この四つを裏返して考えるならば、イエス様は唯一の神の唯一の一人子であり、救い主であり、メシアであることを私たちは認めざるを得ません。
イエス様は神様の一人子であられます。
さて、今日の十九節を見ていきますと、
そこでイエスは彼らに答えて言われた。
まことに、まことに、あなた方に告げます。
子は父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。
父がなさることは何でも子も同様に行うのですと語られました。
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つまり、自分は神様がなされることを私もするのだ、同様に行うのだという話をされました。
そして、いよいよイエス様のこの十九節の話の本論に向かっている中で、それは命と死の話に進んでいるのですね。
そして二十節、それは父がこう愛してご自分のなさることを皆子にお示しになるからです。
また、これよりもさらに大きな技を子に示されます。
それは、あなた方が驚き、怪しむためです。
二十一節、一緒にお読みしましょうか。
父が死人を生かし、命をお与えになるように、アーメン。
それから二十二節を私がお読みします。
また、父は誰をも裁かず、すべての裁きを子に委ねられました。
つまり、神様がこの世を愛しておられて、この世を裁くその権限を、権勢を自分に、イエス様ご自分に神様が任せてくださったと話しています。
つまり、命と死を宣言する審判の力が神様からイエス様に委ねられているという話を、イエス様ご自身が語っているんですね。
だから、二十三節のように話が進んでいます。
二十三節、一緒に読みましょう。
それは、すべての者が父を敬うように、子を敬うためです。
子を敬わない者は、子を使わせた父をも敬いません。
ということです。アーメン。
ですから、誰でも、イエス様、子、イエス様を敬う者は、神様を敬う者になる。
このあるイエス様を背く者は、神様を背く者になるということである。
つまり、イエス様ご自身は、神様と等しい方であるということを、イエス様が語られました。
これはですね、私たちクリスチャーには当たり前のように受け入れますけれども、
当時イエス様の存在を認めなかったユダヤ人たちには、それは神様への冒涜でした。
それはひどい言葉なんですね。
ところが、イエス様は一歩も譲りません。
わけが、真には語られるべきだからです。
愛している皆さん、イエス・キリストが、この世、私たち一人一人を裁くことのできる力をお持ちになっているということは、
12:13
実は良いお知らせなんです。
なぜでしょうか。
イエス様は、私たちみんなが滅ぶことを願う、恐怖の神ではなく、
みんなが救われることを願う、平和の神だからなんです。
そのイエス様の御手には、全人類を命の道と死の道にそれを分ける、宣言する力がイエス・キリストにあるということなんです。
その種が平和の道であること、だから福音は良いお知らせであります。
ところが皆さん、それは良いお知らせである同時に、宣言なお知らせでもあります。
なぜなら、イエス様の前に、中間の道はありません。
命か死か、どっちかなんですね。
中間地帯、グレーゾーンはないのです。
聖書はそれについてはっきりと語っています。
そこを一緒に開きたいと思います。
新約聖書のヘブル人への手紙、9章27節です。
聖書の435ページです。
それではヘブル人への手紙、9章27節を一緒にお読みしたいと思います。
そして、人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっているように、アメン。
ここにですね、皆さんよくご覧ください。
人間には、すべての人にはですよ、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっているんです。
ところが、私たちは一度死ぬことが定まっていることまでは、みんな分かっていますし認めていますね。
ところが、その後の言葉、死後に裁きを受けること、それはまだこの世は認めていない、分かっていない、認めようとしないことが現実であります。
しかし、聖書ははっきりと語っています。
一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている、変更できない。
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ですから皆さん、神の子なるイエス様には裁きの権限が与えられている。
だから私たちには、生きるか死ぬか、二者択一しかありません。
イエス様が、あなたは右、あなたは左と裁かれますと、それは戻すことはできない。
もう一度宣言してもらうことはできない。
なぜならそれは、完全な審判であって、最後の審判であるからです。
この審判権が、この力が、私たちが愛して信じているイエス様に、
そして我々を愛して救おうとしておられるイエス様に、それが与えられていることは、本当に驚くべきことであって感謝なことではないでしょうか。
ところがイエス様は、何を基準にして裁かれるのでしょうか。
わかりやすい話をしましょう。
それは、我々の神様への、イエス様への応答に対して、イエス様は裁かれるということであります。
イエス様を神の子として信じる応答する者には、天国に、パラダイスに永遠に生きると宣言して下さります。
イエス様は神の子であることを認めない否む者には、永遠の死が宣言されます。他の基準はありません。
またその裁きが保留される中間地帯もありません。
ここでもう一つ、イエス様の裁きについて覚えていただきたいことがあります。
それは裁きとか審判とかいったら、今日も聖火大会賛美していただきましたけれども、
世の終わりのこと、天使がラッパを吹くあの時のことだけ限定して考えやすいですね。
しかし聖書はそう語って教えていないんです。
イエス様の審判裁きはもうすでに始まっているんですね。進行中なんですよ。
すでに生きる者と死ぬ者、現時点で我々の応答に対してですよ。
それが分かられている。
生きる者はすでに永遠の命を得ている、持っている。死ぬ者はすでに死を抱えているものであります。
だからイエス様の裁きはすでにもうなされていて、進行中であるんです。
それが今日の24節中心課題ですけれども、そこにはっきりと書かれているんですね。
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よく注意して24節を一緒に読みたいと思います。
24節よろしいですか。一緒に。
誠に誠にあなた方に告げます。
私の言葉を聞いて、私を使わせた方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに遭うことがなく、死から命に移っているのです。アーメン。
皆さん、この日本語の訳はよく訳されていると思いますけれども、最後の言葉をよく注目してご覧ください。
裁きに遭うことがなく、死から命にこれから移されます、ですか。そうじゃないですよね。
死から命に移っているんです。アーメンですか、皆さん。
イエスを神のことして信じている我々には、我々のすべてはすでに死から命へ移っているんです。
どこにいるんですか。命にいるんです。
それを逆に言いますと、イエスを神の御子として認めていない、信者としていないものは、命じゃなくて死に移っているということになります。
何度も申しますが、中間地帯はないんです。
前ですね、ある神徒さんが、結構信じていた神徒さん、女性の神徒さんがですね、自分の両親が亡くなった。
で、私はこの地上で一生懸命祈ったら、もしも中間地帯にいて、もしも天国に移されるかもしれない。
だから私は一生懸命祈ってますよ、と。それは聖書にはないんです。
さっきも読みましたね、ペブルビテの手紙。
一度死ぬことと、死んだ後のことは定まっているんです。
だから皆さん、イエス様の裁き審判は、すでになされているわけなんです。
そして25節にイエス様がこう語られました。
誠に誠にあなた方に告げます。
死人が神の子の声を聞く時が来ます。
それがいつでしょうか。今がその時です。
そして聞く者は生きるのです。
これはですね、そこにいたあのイエス様が、メシアであること、神の子であることを認めないユダヤ人に対するイエス様の、今のこの切なる心からのメッセージなんです。
ユダヤ人皆さんよ、あなた方はね、今死に移っているんだから、神の子の声を今聞きなさいと。
そうするとあなた方は生きますよというメッセージであります。
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後々起こることでしょうか。そうではありません。今のことなんです。
今神の声を聞かなければならない。
今応答しなければならない。
来年に、来年に、後々に、退職後に、死の直前に伸ばしてはいけません。
ここで一箇所ですね、聖書を開けたいと思います。
ヨハネノ福音書3章の18節を開いていただけますか。
ヨハネノ福音書3章の18節、177ページ。ヨハネノ3章18節一緒に読みたいと思います。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者は神の一人子の皆を信じなかったので既に裁かれている。アメン。
皆さん、この神様の御言葉をよく知っていただきたいです。
信じない者は神の一人子の皆を信じなかったので、どうなってますか。既に裁かれています。
後々死んだ後裁かれるわけではないんですよ。今裁かれているんです。今死に死を抱えているんです。
それ私たちは知らなければならないんです。
ちょっとひどい表現かもしれませんが、イエス・キリストをメシアとして救い主として信じる者は、自分のですね、この胸に命と書いてある。
しかし、そうでなかったには死呪いと書いてあると言えるかもしれない。
だから皆がですね、その呪い、死というものが消え去ってですね、命に変わるように、死から命に移されるように、私たちは時が良くても悪くても御言葉を述べ伝えなければならないんです。
さらにこのヨワネの訓書三章の三十六節にこう語られます。三十六節。ヨワネ三章の三十六節。一緒に読みたいと思います。
神を信じる者は永遠の命を持つが、神に聞き従い者は命を見ることがなく、神の怒りがその上に留まる。
留まっているんですね。呪いが、死が、怒りが留まっているんです。それを知らないだけである。しかし私たちは知っている。
だから皆さん、周りの方々に呪いが、神の怒りが留まっているんです。それを神の力によって取り除いていただくために私たちが救われているんです。
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ですから皆さん、イエス様が再臨なさる世の終わりの時が必ず来ます。その時に最後の審判がなされるんですね。
だからその審判は今の自分の生活進行と関係のないものではないんです。既に裁かれている、進行中である、それがイエス様の再臨の時の最後の審判によって完了する、救いが完成するものであります。
それを私たちは知らないだけである。
だから今日の五章に戻りまして、五章の二十八節、二十九節をイエス様が語られました。一緒に読みましょうかね。二十八節だけでいいと思います。
この事に驚いてはなりません。墓の中にいる者が皆、この声を聞いて出てくる時が来ます。アーメン。
これはイエス様の再臨の時に、救いと裁きが完了する、完成される時に、墓の中にいる者がよみがえります。
皆さん、ですから、全ての人に生きるか死ぬか、命か死か、それが決まることは、今日の私の応答によって決まるということであります。
ですから、簡単に言いますと、明日の自分の主にある運命が決まるのは、今日私がこの御言葉に、救いに、どう応答するかによって決まるということであります。
イエス様の裁きは正しいんです。間違いがあります。
だから、その時に悔しいとか、間違いとか、そう言える、訴えられる余地がないのです。
イエス様は私たちの全ての心を見透かされます。
ところが皆さん、こう叫ぶように語っても、世の人々は、命と滅び、命の死に対して、だいたいこういう反応を見せると思うんですね。
まさかそんなことがないだろうね。まさかそんなことはないよね。
ところが、こういう話があります。今から約500、600年前のスペインでの話です。
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あの時、スペインはヨーロッパの強者でした。そして、いわゆる反戦網をたくさん作って、大西洋を支配していた強い国でした。
ところが、ある本に見たら、あの時のスペインのお金のコインには、スペインのすぐ下の海峡がジブラルタ海峡と言いますけれども、
コインにジブラルタの海峡が刻まれていて、その下にこう書かれていたそうです。
スペイン語でしょうけれども、ネープルスウルトラ、ネープルスウルトラという意味は、向こうには何もないという意味だそうです。
向こうには何もない。
あの当時の人々には、大西洋の向こうには何もないとみんなそう思い込んでいたんですね。
ところがその当時、コロンバスという人が船に乗って大西洋を横断して、アメリカの大陸を発見したんですね。
そして解説して、向こうにはあるんですよ。向こうにはある。大陸がある。
それを話をしたら、その後、コインの文字が変わったんです。
ネープルスウルトラ、向こうには何もないが、フルスウルトラ、向こうにはある。
今の時代、似ていると思います。
我々クリスタルが、いくら向こうには死がありますよ、裁きがありますよ、言ってもですね、みんなネープルスウルトラ、向こうにはない、ない、ない。
死んだ後、終わりだよ。何もないよ、とみんな思い込んでいる。
まるでコロンバスの以前の人たちの全く同じなんです。
ある先生が説教師で読んだ話ですけれども、イエス様を信じなくて亡くなられた方たちは、イエス様の前に立たされて裁かれるわけですから、
その時にみんなこう言うんですって、何々したらよかったのに、何々したらよかったのに、何ですか。
奥さんがイエス様を信じましょうと言われた時に、信じたらよかったのに。
友達が教会に行って、イエス様を信じましょうと言われた時に、ああ、あの時に教会に行って信じたらよかったのに、
僕氏のお話を信じたらよかったのに、みんなですね、イエス様の前に立たされて裁かれますよ。
その時、よかったのに、よかったのに、言っても、それは効果がない。
ただ残念がある話。
笑い話であるかもしれませんが、意味あるお話だと思います。
イエス様を神の御子として信じさえすれば、死は移される。
そして今、私たちは死から命へ移っているんです。
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その信仰をお持ちください。
ところが、誰もが今、自分の応答によって、
いわゆるね、この世的に言うならば、自分の運命を変えることができる。
死から命へ変えさせていただける。
しかし、終わりの日には、それを変えることも応答することすらできない。
羊か、野獣か、右か左か、命か死か、分かれるんですね。
ただ皆さん、実は私たちは、今生きている毎日毎日の人生生活として、前味をしているんです。
皆さん、昨日に時間を戻すことができますか?
昨日に帰れますか?帰らないでしょう。そうなんです。同じなんです。
イエス様の日にですね、再現の日が来るということは、戻せない。
明日に帰りたくても帰らないんです。
もしイエス様の前にですね、渡されてですね、いや、もうあの1時間前に戻せるんだったら、
信じることができたのに、戻せない。
しかし、また今は、みんなに、神様は、死から命へ移される恵みのチャンスが、みんなに与える。
そして、そのチャンスがありますよ。それを伝えできる、その恵みを、我々二種が、先に与えてくださっています。
私だけ味わって、私だけね、死から命へ移っているんじゃなくって、みんな移されるように。
時が良くても悪くても、キリストの別だよ。イエス様こそ神の子であり、メシアであること。
これを伝えてですね、みんな救われ、あの死の身元に永遠に生きる命を、今から預かって、歩んでいきたいと願っております。お祈りしましょう。