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おはようございました。改めて皆さん、おはようございます。
今日も第一礼拝にようこそいらっしゃいました。ありがとうございます。
また、突然寝ちゃったけれども、知恵子さんの報酬ありがとうございます。
今日はですね、このシリーズ、連続のメッセージですけれども、
イエス様のたとえ、私たちへの問いかけ、17回目です。
17回もここまでさせていただきました。神様に感謝いたします。
今日は、このルカノーク印象16章の後半に書かれている、
金持ちと貧しい人のたとえの話をしたいと思います。
さやちゃんがいるからね、子供がいるからちょっと子供の話をしたいと思います。
聞いてね。はい。さあ、耳は開いてるから聞こえると思います。
金持ちがいました。
その金持ちはですね、毎日ですね、贅沢して、高い服を着て、
本当に毎日、神戸区みたいな、高い肉や野菜、本当に贅沢にですね、暮らしていました。
ところが、その金持ちの家の前には、ラザラという人がいたんですね。
その人は、もう本当に体中におでちがあって、病気で、もう食べ物がなくて、お金がなくてですね、
もうその金持ちの家から捨てられる食べ物で、もうお腹を満たしたいほどの、本当に貧しい人でした。
ところが、その金持ちも貧しい人、ラザロさんも、二人も死にました。
ところが、二人が行ったところは違いましたね。
金持ちは、今日の歌唱の言葉を借りて言うと、ハデスというところですね。
これはもう簡単に言って、地獄ともわかって理解していいと思うんですよ。
地獄のところ、苦しみの、永遠に苦しみが絶えないところに行ってしまいました。
ところが、ラザロという人はですね、アブラモと一緒に天国にいたんですね。
ところが、今日の話は、実際に起きた話ではなく、イエス様の例え話ですからね。
そこでですね、この金持ちがですね、もう苦しくて苦しくて、
大丈夫です、後からしましょう。
もう苦しくてですね、そのアブラムさんにですね、
もう水を浸して、もう私の、このもう渇いている私を助けてくださいとね、そういう風にお願いしたんですね。
ところが、アブラムがですね、言いました。
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あなたがいるところと、ここは大きな深い淵があるから渡ることもできない。
行くことも来ることもできないんだと。
そしたらですね、金持ちさんがもうアブラムの話を聞かない。
それでですね、いやそしたら、うちの家に行ったら、もう兄弟がたくさんいるから、
何とかもうラザロをこの地上にもう一度送ってくださって。
それでもう本当にここに来ないように、私のいるこの派手すぎ横に来ないように苦しから来ないように、
何とかもう伝えてもらえませんかと言ったんですね。
そしたらアブラムがこう言いました。
今すでに預言者がいる、教師たちがいる、聖書がある。
しかしその話を聞かないならば、
もう死んだ者がよみがえって言って伝えても、聞かないだろうと話をしたんですね。
この話はですね、何が話したいのか。
金持ちは全部悪人で悪い人で、貧しい人はみんないい人なのか。
それで悪い人は地獄に行って、いい人は天国に行った。
そんな単純な話ではないんですね。
大事なのは、人はその行いによって、持ち物によって、その人の性格によって、
あるいは何ができるかできないのか、それによって救われるか救われないのかではなく、
人は誠の唯一の神様を信じて、そのイエス様を信じる人は救われますよ。
それが信仰というものですよという話。
信仰によって人は救われるんですよという話を、イエス様が実はここで話したいということなんです。
人は信仰によって救われる。
だから結果から見て、この例え話から分かるように、
ラザロは貧しかった。この地上でそんなに収穫されなかったんだけれども、
その人がアブラムのところにいることに、そこから彼は信仰によって救われたことが分かる。
しかし金持ちは、そこに信仰があるかどうか書かれていないんだけれども、
結果から見れば、彼は信仰がなかったから救われていなかったということが分かります。
人は信仰によって救われますよという話になります。
さあ、大人の話はここまでし、大人の話をしたいと思います。
大体この流れになりますけれども、
まず今日は、救い、信仰、行い、この3つの関係の話をしたいと思います。
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救い、信仰、行い。
それは知る前に、まず一緒に確認してあげたいところがあります。
それはイエス様がこの地上に来られた目的は何でしょうか。
そして、この教会を2000年前から神の教会を建て上げられた目的は何でしょうか。
皆さん、おぞきだと思うんですね。
神なるイエス様が一人子として、2000年前にこの地上にお生まれになって来られた目的。
3年間働いて、そして十字架に図られて、亡くなって、
そして3日目によみがえられて、そして天に登られたんですね。
その目的は何でしょうか。
私が一箇所聖書を読みします。
皆さま、入れかなくていいです。お聞きください。
マルコノーク印象10章45節には、このようにその目的がちゃんと書かれているんですね。
人の子が来たのも、ここで人の子、これがイエス様を指しますね。
つまり、イエス様が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、
その続きから大事ですよ。
多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためです。
すなわち、イエス様がこの地上に来られたのは、多くの人々に自分の命を与えて、人々を救うためだということですね。
つまり、簡単に言って、住み人を救うためにイエス様が来られました、という話です。
だから、イエス様の働き、それは2つの言葉で表現できると思うんですね。
十字架と復活ですね。
そして教会は、このイエス・キリストを伝えるために建てられた場所です。
教会は、住み人である私たちが救われるようにするところ。
イエス・キリストをお伝えするところ。
十字架と復活をお伝えするところ。
悔い改めと救いと復活を述べ伝えるところが教会なんですね。
これがイエス様がこの地上に来られた、そして教会が存在する究極的で本質的な目的なんです。
その他のことは複数的なものだと思うんです。
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このことを今日覚えながら、今日のたとえを聞いていきたいと思います。
19節から聖書を皆さんご覧いただきながら、聖書を見ながら話をしていきたいと思います。
このイエス様のたとえ話を見たら、金持ちと貧しい人が対照的に書かれているんですね。
さっき少し話をしたように、金持ちはいつも紫の衣、当時2000年前の紫は王様が着る服のシルクみたいな高い高級の素材の服なんですね。
そういったものを着て毎日贅沢に遊び暮らしていたんですね。
ところがその門前にラザローという全身おできの貧しい人がそこに寝ていたわけなんです。
歩くことすらできない。食べ物がない。当然お金がないからね。
金持ちの贅沢から落ちるもので腹を満たしたいと思っていたわけ。
実際満たしていないんです。食べ物がない。
犬がやってきて彼のおできを舐めている。
でもどうすることもできない。本当にみじめな人間の様子でしょう。
一人は金持ちで贅沢に暮らしている。
この地上で本当に人々からあの人は成功したよね。
失敬したよね。本当に金持ちであんなすごい家で暮らしていて、
毎日おいしいものばかり食べて、あの人はいい服を着て、成功したね。
羨ましいね、みたいな人。
ラザローという人はどんな人ですか。
いや、あの人は呪われたかもしれないね。
本当に体の病気があるだろう。何もできない。
犬に舐められても何もできない。本当にみじめ、みっともないね。
醜いね。失敗したみたいなね。
世の中の目から見れば、世の人々の考え方は、この地上の人生で終わりですね。
あどの世界はないとみんな信じて思い込んでいるわけですからね。
そしたら、あのラザローよりは金持ち、名前も書かれていないですね。
金持ちさんの方が羨ましいと思うんです。
祝福されたように見えるんですね。
しかし、イエス様の話には、まず、人の人生はこの地上の人生で終わりではない。
あどの世界があるんだ。死のあどの世界があると、はっきりとイエス様は教えています。
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そしてそこでは、必ず別れるんだという話があります。
ところが、貧しい人ラザローは死んで、天使たちに導かれて、アブラハモのいるところに行かれたんですね。
天国と言えるでしょう。
そこで本当に安らぎを得て、幸いにそこにいるわけなんです。
きっとですね、あの門前にいるとき、おできのだらけで食べなくて、飢え死にしそうな、そんな彼の様子ではないでしょうね。
この辺りからわかるように、あの金持ちが苦しみの中で見ても、羨ましいほどのラザローに変わっているわけなんですよ。
あの自分の前、自分の家の前にいた、あのラザローの同じ人なんだけど、全く違うラザローが、アブラハモのところにいることが見えてきたわけですね。
それでですね、この金持ちはどこに行ったのか。
23節を見ると、ハデスで苦しみながら目を上げるとですね、ハデスは地獄という言葉と理解していると思うんですね。
そこに行って、苦しみも耐えて、死ぬこともできない、炎の中でですね、もう渇いて苦しくて、それが永遠に続くというところになります。
だからね、このラタイ話は、この金持ちがですね、24節から見るとですね、
父アブラム様、私は憐れんでください。
ラザローが指先を水に浸して、私の舌を冷やすように、ラザラをよこしてください。
私はこの炎の中で苦しくてたまりません。助けてくださいとですね。
ところが皆さん、ストーリーは大体皆さんわかりますから、まとめてですね。
大体私たちはこの話を聞くと、金持ちは悪い人、貧しいラザローは良い人に決めつけてしまいやすいんですね。
それで、金持ちは悪い人だから地獄に行って、貧しいラザローは良い人だから天国に行った、もうそれで終わりにした意味。
そういうところがあるんです。
ところがですね、実際にイエス様のこの例え話をよく最後まで見ると、
この地上で彼らが何をしたのか、どんな行いをしたのかは詳しく書かれていないんです。
そして、ラザローは神様を信じたのか、金持ちは神様を信じなかったのか、その話も実は書かれていないわけなんですね。
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正確に言うなら。
だから皆さん、私たちはこの例え話をあまりにも簡単に、金持ちは悪い人、罪人だ、だから地獄に行くんだ、貧しい人は良い人だ、それで天国に行くんだ、
そういうふうに簡単に決めつけることはできないわけなんですね。
皆さん、金持ちだからみんな悪い人で、みんな不信仰の人でしょうか、そうではないでしょう。
あるいは貧しい人はみんな良い人で、みんな天国に行くんでしょうか、そうではないんですよ。
金持ちの中でも良い人もいるし、悪い人もいるし、信仰の人もいるし、不信仰の人もいるわけです。
貧しい人にも同じですよ。貧しい人の中にも信仰の人がいるし、不信仰の人がいるわけなんです。
だからここでの彼らが分かれた場所に行ったのは、金があるかないか、それによって分けられたわけではないんです。
見逃しやすいところがあります。
ここでイエス様は金持ちと貧しい人の彼らの行いを比較してイエス様がお話をしているわけではないんです。
私たちはそれは分かります。イエス様はそれにフォーカスを当てているわけではないですから。
でもイエス様のお話の結果から見れば、ラザロは天国に行きました。
金持ちはハデスに行きました。
なぜでしょう、皆さん。
なぜ金持ちはハデスに行って、貧しい人ラザロはアブラーモのいる天国に行けたのでしょうか。
お金の違いでしょうか、彼らの行いの違いでしょうか。
私たちはこのイエス様の例え、そして救いに対する答えをエペソビトへの手紙から知ることができます。
一緒に聖書をお持ちの方は開きたいと思います。
エペソビトへの手紙、2章、8節から9節です。
エペソビトへの手紙、2章、8節と9節。
私の聖書では374ページです。374ページ。
エペソビトへの手紙、2章、8節と9節。
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エペソと書かれています。
そこの2章の8節と9節。
一緒にお読みしたいと思います。
8節と9節を一緒に読みましょう。
あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
誰も誇ることのないためです。アーメン。
いかがでしょうか、皆さん。
人は何によって救われるのでしょうか。
ラザロは何によって救われて、何のために救われて、
これはアブラムの天国にいて、名前も知らない金持ちは何故救われなくてハデスにいるのでしょうか。
その答えはこの9節に明快に書かれています。
人は恵みのゆえに、これは神様の恵みです。
一方的に神が施してくださる神の行為、それが恵みです。
恵みのゆえに、信仰によって救われるのです。
簡単に言いましょう。信仰は何が信仰でしょうか。
まことの唯一の神様がおられること。
そして人々は罪人であること。
このままではみんな滅ぼされること。
しかし、イエス・キリストを救い主として信じる人は救われ、永遠の命が与えられ、
天国に生き、この地上でも永遠の命の中で生きるということ。
それをその真理を信じる信仰によって救われますよ。
そして9節にまた明快に書かれています。
行いによるのではありません。
皆さん、私たちはみんな神の前では罪人です。
今でも私たちは救われた人は救われたものです。
神の前に人は自分の行いとか自分がやったこと、
例えば金持ちのような成功であろうが、出世であろうが、
どこかの国の大統領であろうが、世界第一の金持ちであろうが、
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あるいは本当に貧しい人であろうが、何もできない人であろうが、
その人の行いとか持ち物とか才能とか職業とか学歴とか、
そんなその人の行いによって救われるか救われないのかではない。
人が救われるのは、ただ神の恵みの上に信仰によって救われるという話です。
神様の正しさ、神様の公義、神様の清さは、
私たちよりはるかに高い、完璧、完全なものです。
だから、いくら私たちが自分自身を心を洗えないんだけど、
心を洗っても洗っても洗っても、ものすごく自分を苦しめて、
もうこの世の俗的なものを全部断ち切って、
山の奥の奥に、例えば富士山の奥に一人で住んで、
もう本当に気よく生きようと、いくら頑張っても、
そういう頑張りの行いによって人が救われるのではない。
では何でしょうか。言葉では言い切れませんが、
神様の不思議な憐れみと愛による恵みがあるんです。
そして神様は、私たちに神様が唯一の神であること、
イエス・キリストが救い主であることが信じることができるような、
不思議な心を主が神様が恵みで与えてくださるんです。
それで私たちは救われたんです。
完璧だから、すごい人だから、救われた方はここにおられますか。
おられるかもしれませんけれど、それによって救われる人はいないんです。
そして何より神様の願いは、一人でも多くの人が、
全ての人が自分が罪人であることを悔い改めて、
イエス・キリスト様を救い主として信じて、
救われることが神様の最大の願いなんですね。
だから手元への手紙の2章4節にこういう言葉があるんですよ。
神は全ての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
神様は、私たち一人一人が、皆さんお一人お一人が、
金持ちであろうが、貧しい人であろうが、
日本人であろうが、アフリカ人であろうが、
誰であろうが、男性であろうが、女性であろうが、
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能力のある人はなかろうが、関係なく全ての人が救われることが、
神様の最大の望みである。
そのために恵みを施してください。
それが神の恵みなんです。
その神様を信じて受け入れる、その信仰も不思議に神から与えられるということなんですね。
さあ、もう一つの話をしたいと思います。
では、私たちは、ここに救われたクリスチャンの皆さん、
私たちは救われたから、それぞれあの時にせいに受けたんだから、
天国に行けるチケットをみんな確保しているから、
とってあるから、この地上では何がどうであっても、必ず天国に行けるんだ。
だからこの地上では大丈夫なんだ、何がどうであっても大丈夫なんだと。
そう生きていっていいんでしょうか。
実際にこの点については、私たちには全てを知り尽くすことのできない不思議さがあります。
そして、テンションというか緊張さがあるんです。
聖書は確かにですね、さっき読んだエペソビテの手紙のように、
神の恵みのゆえに信仰によって救われる。
行いによるのではありませんという見言葉がちゃんとあります。
本当にそうなんです。恵みのゆえに信仰によって救われる。
行いによっていいことをたくさんしたから救われるのではないんです。
あるいは教会を100年来たから救われるのではない。
信じないとですね、もう1000年教会に通っても人は救われません。
ところが同時に聖書は、その信仰にふさわしい身を行いを結びなさいと。
身を結ばないと、その木はもう切り取られて焼かれるよ。
捨てられるよという見言葉が同時にあるんです。
つまり、あなたが恵みのゆえに信仰によって救われましたか。
そしたらその信仰にふさわしい歩みを全うしなさい。
もちろん私たちは完璧になれません。
本当に清く生きようとしても、罪を犯してしまいます。
過ちを犯してしまう、そういう弱さがあるんですよ。
恐れがあるんですよ。足りなさがあるんですよ。
しかしその中で悔い改めに行くことと、
それによって死の憐れみがあって、罪を許されつつ歩んでいくわけなんです。
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ところが救われた人はどう生きるべきなのか。
このような悩みを今の私たちだけ抱えているわけではない。
聖書の著者の中にヤコブという使徒がいました。
このヤコブ使徒も同じ悩みを抱えていたわけなんですよ。
あの初代時代、ADだいたい70年、80年、あの頃。
その当時も私は救われたんだから、支援を受けたんだから、
ヤコブ使徒から支援を受けたんだから、大丈夫。
私はどうでも大丈夫、必ず天国に行くんだからね。
もう自負しているクリエイターがいるんだけれども、
彼らの生き方をどこを見ても、
本当にあの人は信者なのと言われるほどの名ばかりのクリエイターが大勢いたんです。
変わらない。
カタコナなままである。
悔い改めをしようとしない。
信じているんだけれども、本当に信じているんだろうかわからない。
そういう人々が大勢いたので、
もうヤコブ使徒は悩んだわけなんですよ。
それでヤコブの手紙にこのように話をしています。
ちょっと聖書をいただきましょうか。
ヤコブの手紙。
新約の後ろの方。
446ページですね。
447ページ。
信仰と救いと行い、この関係でヤコブ使徒もですね、
もう悩んだわけなんですよ。
本当に信仰によって、恵みによって人は救われるのは真理である。
でも本当に、あの洗礼を受けて、あの信仰を救われた人というのに、
何の、それにふさわしい行いがない。
果たしてその人はどうなんだろうな。
ヤコブ使徒も悩んだわけなんですよ。
それでこのように話をしています。
ちょっと長いですけれども、私がお読みします。
17節からご覧ください。
それと同じように、信仰ももし行いがなかったなら、
それだけでは死んだものです。
他のことは忘れても、この17節は覚えてほしいんですね。
信仰ももし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。
さらにこういう人もあるでしょう。
あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。
行いのないあなたの信仰、私に見せてください。
私は行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。
あなたは神はお一人だと信じています。
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立派なことです。
ですが、悪霊どももそう信じて身ぶるいをしています。
ああ、愚かな人よ。
あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
私たちの父アブラムは、その子イサクを祭壇に捧げたとき、
行いによって義と認められたではありませんか。
あなたの見ている通り、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、
信仰は行いによって全うされ、信仰は行いによって全うされる。
そして、アブラムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされたという聖書の言葉が実現し、
彼は神の友と呼ばれたのです。
人は行いによって義と認められるのであって、
信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
同様に、ユージョウラハブも死者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、
その行いによって義と認められたではありませんか。
魂を離れた身体が死んだものであるのと同様に、
行いのない信仰は死んでいるのです。
いかがでしょうか。
行いのない信仰は死んでいる。
信仰には必ず行いが伴われる。
皆さん、これが聖書の教えなんです。
メッセージを送りたいと思います。
私たちは本当に神の恵みの上に、信仰によって救われるのです。
自分の努力を行いによって救われるのではありません。
だから本当に恵みなんです。感謝せざるを得ないのです。
しかし、救われた者として、
その救いにふさわしい身を結ぶ生活を全うしていかなければならない。
この二つの中に緊張感が、我々はずっと地上にいる間にあるわけなんです。
この二つの事実を、真理を覚えていただきたい。
本当に神の恵みの上に、信仰によって人は救われる。不思議なんだ。
同時に、その信仰にふさわしい行いがなければ、
もしかしたら、あの信仰は偽りかもしれない。
死んだものかもしれないという、この緊張感の中で、
この地上にいる間、天に行くまでに、
この地上で神の恵みの上に、信仰によって救われたことに感謝して、
その救いと永遠の命を喜び、味わいつつ歩んでまいりましょう。
そして同時に、信仰にふさわしい身をこない豊かに結んでまいりたいと願います。
お祈りしましょう。