今日は、「神様は謙遜な人を通して働かれる」という対応をもって、メッセージを分かちたいと思います。
教会は、6月聖霊降臨日以降、始祷行伝をずっと分かち合っているところであります。
今日は、「神様は謙遜な人を通して神の御業を行われる」という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
神様は絶対傲慢な人は使いません。なぜ傲慢な人を使わないのか。傲慢な人はサタンだからです。
ですから、神様は謙遜な人を通して働かれます。
ここで、神様の御前で謙遜ということは、倫理・道徳的に優しい人を謙遜と言いません。
自分自身は神様の前で、神様が喜ばれることをできる何にもない、自分が何にもないことを分かっている人。
神様はその人たちを使うんですけど、彼らの特徴は、自分が持っている考えがどれほど正しいと思っても、
神様が言われたら、自分の考えを全部下ろして従おうとするものです。
その人たちは、いつも神様に聞き、従おうとする人です。その人が謙遜な人です。
今日のメッセージでは、二人の人が出てきます。コネリウスとペテロです。
この謙遜な人を通して、神様は人類救いの宮座のために大事な働きを成し遂げます。
皆さんは、皆さんが覚えるのに、私は謙遜な人だと思われますか。
自分は、私は謙遜、他の人に比べて、私は謙遜ではないかと思われますか。
ぜひ、今日のメッセージを通して、自分自身を一度見てみることができればと思います。
神様の見守りは、全人類の救いです。
イエス様が最後の命令、マタイ28章19節
だから、あなたたちは言って、全ての民を私の弟子にしなさい。
全ての民です。
ある選ばれた人だけじゃなくて、ある人は救われるように定められており、
ある人はもう救われないように定められている、そのことではありません。
全ての人、民を私の弟子にしなさい。
また、イエス様が昇天なさる前に、シトギョーデン28節
あなた方の上に精霊が下ると、あなた方は力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤ、サマリアの全道、
また、地の果てにまで、私の明かし人になる。
福音はどこまで行かなきゃいけないのか、ある選ばれた人だけじゃなくて、
地の果てにまで、福音は伝えなきゃいけない。
これから見ていますと、神様の身胸は、ある人だけの救いではなく、
人類全ての人が救われることを願っております。
精霊様が来られた理由は、
イエスキリストが十字架で成し遂げてくださった人類すぐいの御業を、
地の果てにまで、全ての人にまで伝えるために精霊様が来られました。
精霊様が来られて、そのために教会を作られます。
また、聖書を記録されます。
また、これから必要なことを一つ一つ行われるんですけど、
今日皆さんに申し上げたいのは、
精霊様は私たちの間にある全ての壁を取り壊します。
例えば、私と伝道師さんが何か気持ちが悪い、
何かがあります、話したくない、何か避けたい、
その人に福音を伝えることができますか?
できません。
福音を伝えるためには、全ての人の間に通じる、
関係が改善できる、これが前提です。
ですから、精霊様が来られたら、私たちの間に人と人と、
また教会と教会と、また団体と団体、国と国の間にある全ての壁を取り壊します。
精霊様はその働きをまず行ってから、福音を伝えます。
じゃあ、七戸行前2章で精霊様が来られたら、
一番初めに現れたことは何ですか?
意見を語るようになった。
他の国の言葉を語るようになった。
皆さん、これは昔々のバベル島の事件の後、
言葉が通じなくなりました。
その前は言葉が通じたんですけど、
それから言葉が通じないから、人と人との関係がダメになって、
私の国、あなたの国、私の地域、あなたの地域、
それで通じなくなりました。
まずそれを、何をもって解決されるのか、意見です。
意見で語るなら、誰でも通じるように、
何か意味が伝えるように、精霊様がまずなさったんですね。
また、地道教伝3章で癒しを行うから、人々がたくさん集まります。
それで自然に集まった人たちが群れを作ります。
これは教会になりますけど、
その教会を宗教主たちは迫害します。
精霊様はその教会を守るために何をされるのか、
信徒たちに祈らせます。
信徒たちが集まって祈るなら、精霊が働いて問題を解決します。
信徒たちが牢に閉じ込まれたときには、牢から救ってください。
今皆さんにお祈りをお願いしたんですが、隣の国、韓国。
いきなり牧師たちが牢に入るような、
もう西部に対して反対をする人はもう牢に入れてしまうような、
宗教弾圧と言いましょうか。
それが韓国で行われている。
韓国はだんだん共産主義、中国みたいな国になっていくんじゃないかと思います。
韓国の教会はこれから祈らなきゃいけない。
祈るなら神様が働かれると思います。
教会の問題解決は、みんなが集まって心を合わせて祈ることしかありません。
だから教会は祈りのパワー、そこに精霊の働きがあるんだということを
つい理解して祈らなきゃいけないと思います。
この迫害のクライマックスはステパーンの宗教です。
なぜステパーンは宗教されたんですか。
旧約聖書の時代からユダヤ人たちが、イスラエル人たちが一番大事に思ったのは
神殿と立法なんです。
神殿と立法が大事なことは大事です。
しかし神殿と立法は何に、誰を示すものなのか。
これはイエス・キリストです。
神殿はイエス・キリストの体、立法はイエス・キリストの言葉。
ですから神殿と立法は結局イエス・キリストを象徴するものとして
旧約聖書でいろいろ教えてくださった。
イエス様は来られました。
だったら本物が来られたから、今まで影として用いられたのは
これはもう本物を大事にしなきゃいけないでしょう。
しかしユダヤ人たちは何が影で何が本物か分からなかった。
だから自分たちは神殿と立法が大事だと思って
イエス・キリストスタイロステパンを殺したんです。
もし皆さん、全世界を救うために
イエス・キリストの十字架の復活の福音ではなく
神殿と立法を熱心に教えるイスラエル人たちだったら
全世界が救われるようになりますか?
できません。
だからそのことを解決するためにステパノは犠牲されたんです。
それを極力に反対したのがサウルだった。
サウルの迫害によってイエルサリムの神徒たちはみんな散らされました。
この散らされたことが聖書を成し遂げるものになるとは思わなかったでしょう。
その散らされた人々はサマリアに行きました。
では皆さん、サマリアとユダヤはどんな関係があるんですか?
みんな同じ民族です。
十二部族の二つの部族が南ユダ、中部族が北イスラエル。
北イスラエルがアシシラに滅ぼされて連れて行かれ
そこに異邦人を入れて混血にされたので
サマリアは汚い、汚れたとして排斥したんです。
もともと同じ民族なので
それは純粋なものなのか少し雑種類が入っているのかによって
これで大きな分裂が起こって憎しみがあって
それで通じない国になった。
まず福音を通して、それを通じなきゃ
フィリップがサマリアに行って福音を伝えます。
そしたら長い間積み重ねられたその傷が解決できて
和解ができて福音が伝えられ
サマリアに喜びが満ちあわれたということです。
これは本当に福音によって行われた素晴らしいことです。
シドゲーノン9章、先週
同じイスラエル民族だけど
福音を信じる人もいるし
福音を迫害する者がいた。
これがサウルだった。
しかしサウルはヘブライ文化、ヘレニジム文化に幅広い理解を持っている。
バリサイ人として立法学者。
また彼はローマ市民権を持っていて
ローマ帝国の中ではどこに行ってもプリパス。
素晴らしい存在だった。
しかし彼は傲慢だった。
傲慢すぎた。
その人を神様が光として望んで
彼を倒しました。
そして傲慢な人が謙遜な人に変わりました。
そして彼にユダイ人ではなく
あなたはこれから異邦人のための使徒として働きなさい。
任務を任せました。
彼は異邦人を救うために
死ぬまで命がけて一生が働いていく人でした。
このようにして主導経典1章8節
あなたたちの上に精霊が下ると力を受けろ
そして赦されも
そのために精霊様は来られて
私たちの間にあったすべての壁を取り壊していくんです。
最後に残された壁がありました。
これが何かと言いますと
ユダヤ人の心にある先民意識でした。
先民意識ということはなぜ問題なのか
先民意識は
ユダヤ人自分は神様が選ばれた民
清い民だと思いました。
他の民族はこれは獣に過ぎない
地獄の炊き物と思いました。
だから異邦人は哀れも必要がない。
大事なのはユダヤ人だけ。
異邦人とユダヤ人は一緒に交わりもしていけないし
異邦人の家に入ってもいけないし
その上同じイスラエル民族だけど
自分たちは純粋の民族
雑種類になってしまったサマリア人たちは
これから哀れも必要もない。
同じ民族でもない。
一緒に交わりしてもいけない。
排斥しました。
皆さん傲慢な人の特徴は排斥です。
自分は偉い。他の人は全部排斥してしまう。
自分だけが偉い。正しい。
これがユダヤ人の先民意識で
全世界でユダヤ人だけ
こんな考えを持っていった。
この考えを持っていったら
地の果てにまで福音を伝える人になれますか。
当時このような考えを
ユダヤ人キリスト者
また初代業界の神徒たちが
持っていったということです。
神の御胸は
今日教会学校でも言いましたね
神は全ての人々が救われて
真理を知るようになることを望んでおられるのに
彼らは全ての人が救われることは嫌なんです。
自分たちだけが救われ
自分たちだけ偉い民族
神様から祝福された民族だということです。
皆さんこの考えをどのように変えましょう。
皆さんが教会に来る前に持っていた
昔々から持っていた考え
今その考えが全部変わりましたか。
聖書的に全部この考えが変わったんですか。
もし変わらなかったら
それが問題になります。
ユダヤ人たちはその考えは変わりませんでした。
初代業界の人々も
イエス・キリストを信じますけど
この先民意識という考えが変わらなかった。
この考え方を脳の中に入っている
この考えをどのように変えればいいでしょう。
ユダヤ人の街道を回りながら演説
説教しましょうか。
観光でプライドが強いユダヤ人たちが
それを聞いてくださりましょうか。
ステパーノは神殿立法ではなく
イエス・キリストだと言いながら
石打ちで殺されたんですけど
これからユダヤ人の先民意識を捨てるために
どれほどのたくさんの人々が
宗教されなければいけないでしょうか。
先民意識を下ろすのに
これがなければ世界の宣教はできないので
一体神様はこれをどのようにされたのか。
じゃあ今日これを一緒に考えていきたいと思います。
神の働きは人を選びます。
神様は全ての働きの前に人を探します。
じゃあ誰でしょう。
神様はコネリウスを選びました。
じゃあコネリウスはどんな人なのか
これが首都行伝10章であります。
コネリウスはローマの百人大長
ローマの将皇なのです。
違法人です。
しかし彼は神を恐れ謙遜な人だと。
また祈る人だと。
神の御行為を聞いて従おうとする人だということです。
彼に来られるんですけど
彼が何をする時に来られるのか
これは首都行伝10章3節です。
ある日の午後3時ごろ
コネリウスは祈りの中で神の天使が入ってきて
コネリウスと呼びかけるのを幻ではっきり見たと。
今は食べてもいい。なぜでしょう。
立法の時代が終わって今はイエスキリストを通して
恵みと真理の時代が到来したからです。
立法でこれを食べてはいけない、これは汚れたということは
食べてもいいもの、食べてはいけないものを神様が示されて
彼らたちを訓練するんです。
ユダヤ人たちを。
清いものだということを食べる訓練。
清くないということを食べない訓練。
私たちもそうでしょう。
子どもたちにこれはやりなさい、これはやってはいけない。
親がちゃんと基準を聞いて。
これをやってはいいことはもちろんいいことです。
やってはいけないことをやらないように。
やってもいいこともあるし、やってもよくないものもあるということを教えながら
自分たちなりに基準をちゃんと作るように。
神様がある時期には汚れたもの、清いものと言いながら
食べるもの、食べてはいけないものを区別しました。
これは立法の時代でした。
しかしイエスキリストによって恵みの時代に入りました。
恵みの時代ではこれはすべて許されたということです。
神様を取って食べなさいということはこれからは清くなっているということです。
創世紀1章では神様が天地を創造される時に
地を這う者、海の魚、空の鳥、すべて神様が作られた清い非常物でした。
獣たちを天と地にすべて満ち溢れるようにしなさい。
これは創造の命令であり祝福でした。
それらはもともと清いものでした。
しかしある時期神様はこれを食べてはいけない、
これを食べなさいという立法を決めたんですけど
それは訓練の方へんだったということをぜひ理解していただきたいと思います。
神様はこれからイエスキリストを通して万物を新たにします。
イエス様がイオージも清いということは
イオージの神様でもあるということを私たちに教えてください。
ですから神様はこれからユダヤ人だけじゃなくて
イオージを救う計画として神様はこれから働かれるんだということを教えてください。
イエスキリストの忠実化はただユダヤ人だけのものではなく
全世界の人々を救う道だということを教えてください。
ですからユダヤ人、イオージ、誰でも
イエスキリストをシュッと告白する人はすべて救われるようになります。
神様の基準がこのように変わったということは
私たちはもうどこを通して分かるか
いや、聖書を通して分かります。
昔の基準、神様今の働き
なぜ一時期的に食べてはいけないと言われたのか
それも神様の理由があります。
でも今イエスキリストによってすべてを新たにします。
新たにされる時期になって
恵みの時代になって神様はすべてが清いと言われました。
それは神様がすべてを含めて神様になろうとして
すべてを含めて救おうとされる神の計画があるのです。
じゃあ躊躇しているこのペテロ
ペテロは真面目な人だから
これをやってはいけないのに私はやっていいのか
神様はやめなさいと言って
その時皆さん何を考えられますか
今幻で見たこの天使が現れて教えたんだけど
天使なのか天使じゃないのか
私が騙されているのではないかといろいろ思われるでしょう
その時何が大事なのかと言いますと
神様が示してくださる別の印を見れば分かります。
17節、18節に見ますと
コルネリウスが送った人々がペテロの家に到着したのです。
ここでペテロという先生がいますか
私はコルネリウスが送ってここに来ましたと言った時に
なるほど祈りの通り神様がなさったことを見た時に
ペテロが間違いない正しいと思ったのです。
ここで謙遜な人と傲慢な人がここに現れます。
シト・パウル昔のサウルのように
自分が考えたことが一番正しい
これ以外は全部殺さなければいけないというような人なのか
自分の考えがいくらでも間違える可能性があるから
神の見こえがこうであるなら
私の考えを全部下ろして
神様の見こえに聞き従おうとするのか
ここで謙遜なのか傲慢なのか
神様に用いられるのか
神様からは用いられないのかが決められます。
本当に皆さん神様が使うのか使わないのかは簡単です。
傲慢なのか謙遜なのかです。
傲慢なのか謙遜なのかは自分が決めるものですから
自分が決めることによって
これから神様にどう用いられるか
神様はとにかく謙遜な人を用いられると
ここで聖書的な謙遜は
自分はいくら正しい考えを持っていた
自分はいくら世の中で正しいと思っている考えを持っていたとしても
神様がこう言われたら
自分の考えを全部下ろして
神様に従うことができるかできないか
これが傲慢な人なのか謙遜な人なのかにかかってあります。
私はすごく謙遜な人です。
しかしものすごい傲慢な奴だということは分かりました。
皆さん私は礼儀正しい
昔孔子の何かあるでしょう
これを教えてもらって
人の前では謙遜で優しくて
何とかジェントルな姿を見せようと頑張ります。
しかし私の心は絶対変わりません。
かんこでこんなかんこがない
多分妻が私を見て
なんかがっかりしたと思います。
こんな人間見てください
こんな優しい人
こんな優しく見えるんだけど
こんな強いものが入っているのは誰も分かります。
だから分からないということ
神様の前に行ってみれば
これが分からない
神様が何か示されたら
いくら自分の考えが強くても
すべて下ろして従おうとするのかしないのか
そこにすべてがかかってあります。
ペテロは謙遜な人
ローマの百人大将
誰ができるものではありません。
強いものです。かんこな人です。
まだ真面目なペテロ
真面目な純粋なユダヤ人
何か皆さん
神様が幻で示されてくださったんですけど
とりあえず迷ったんでしょう。
しかし彼らは全部下ろしました。
従いました。
その従った人、結果がどうなったのか
二人の出会いの場面が
首都行伝中小24節、25節
次の日、コルネリスの神類や
ペテロがコルネリスの家に到着してみたら
コルネリスは神類や親しい友人を
呼び集めて待っていた。
ペテロが来るとコルネリスは迎えに出て
足元に比例をして
オガンダ
ローマの百品大帳が
ユダヤ人が来るのにその前に
オガンダという姿勢を
聖書が使っていることを見たら
もうこれは本当に
だからペテロが何と言いますか
私も人間だ、私も人間だ、やめてください
と言われるほど彼は
ペテロの前で
もう本当にひれ伏したんですね。
まるで神様を見るように
神の人、人を見た。
神様を送ってくださった人を見た。
今私たちはみんな
主があなたにお命じになったことを
残らず聞こうとして
神の前にいるのです。
ペテロの前じゃなくて
神の前にいると言いました。
百人大帳、コルネリス
どれほど謙遜でしょうか。
それでペテロがメッセージを伝えます。
その時
聖霊様が下りました。
まるでペンテコステの時に
聖霊様が来られたように
コルネリスの家に
聖霊様が来られたんです。
そこでペテロが何と言うんですか。
ペテロは口を開きこう言った。
神は人を分けひたでなさらないことが
よくわかった。
神様は人を差別されない。
誰でも謙遜で
主の見前でひれ伏すなら
神様は恵みを与えてくださるだけじゃなくて
聖霊も与えてくださるんだことを悟る。
神様はユダヤ人だけじゃなくて
異邦人だとしても
イエス・キリストの忠実化の福音を受け入れる人は
誰にでも聖霊様を与えてくださる。
これで異邦人の家、コルネリスの家は
マルクの家のような
ペンテコステのような
聖霊のリバイバルが望みました。
多分、これからそこで
コルネリスの家は家庭業界として
神様に用いられたと思います。
ところが、二人の謙遜な人は