今日は、「目からうろこが落ちたサウロ」という歌いをもって メッセージを分かち合いたいと思います。
信仰生活で何が大事なのかということは、 聖書はそれをどのように取り扱っているのかを見ればわかります。
それは、どのように聖書は繰り返し繰り返し 私たちに教えていらっしゃるのか、それを見ればわかります。
聖書で一番強調していることは福音書です。 福音書は4冊あります。
4冊を通してイエス様の生涯を繰り返し教えてくださいます。 なぜなら、それが一番大事だからです。
私たちの信仰と私益と生活の完全な模範がイエス・キリストだからです。
ヘブラリー書12章2節には、私たちの信仰の 生死者であり感性者であるイエスを見つめながらという言葉を使います。
アルファヨオメガ、私たち信仰のすべてはイエス・キリストです。 ですからイエス・キリストが模範です。
このイエス・キリストをどのようにすれば私たちは完全に理解できるか、 立体的に理解できるか、だから福音書が4冊もあります。
だから強調するものは繰り返し教えてくださるんだ。 聖書で一番大事なのは福音書です。
また大事なのは孟聖古書です。 創世記、出世辞典記、礼碧記、民宿記、新明記。
これを見てますとほぼ同じような内容が繰り返し繰り返し書かれてあります。 その中には
宗教、また堕落、救い、実戒と立法、また神殿、聖幕とまたこの礼拝というような内容が、 これを創世記から繰り返し繰り返しあります。
私たちはどうすれば、どのように信仰生活すればいいのか、 孟聖古書を見たらよくわかります。
だからユダヤ人たちは子供たちが成人するまで孟聖古書を覚えさせるということ。 立碧という方たちはそのほぼこれを覚えている。天才的な頭を持っている方ですね。
これが大事ということ。 また次にサムエル記、列王記、歴代記。
これは上下、上下、上下と言いながら歴史書が繰り返し書かれてあります。 それはどんな意味があるんでしょう。
これは世の中で全てを持っている王様だとしても、 この王様が盛んでいくか滅ぼされていくか何にかかってあるのか、
神様との関係性に書かれてある。 神様によく聞き従った王様は盛んでいき、 神様の見越え聞かなかった王様は滅ぼされたということが列王記、これは全部サムエル、列王記、歴代記を通して教えてくださいます。
その中で、ある一人の個人に対して聖書で3回も繰り返し記録したところがあります。
これは始動行伝9章、22章、26章で同じ記事が繰り返し書かれてあります。 それがサウルという人が変わったということです。
サウルという人の戒心と言いましょうか。 その内容、それを聖書が繰り返し書かれたことは強調することなんで、
これが大事だよということは私たちにいろいろな意味があるので、 なぜサウルのことを3回も同じ記事を繰り返し書かれているのか。
サウルの戒心、これが私たちがこれから変わっていかなきゃいけないことであり、 その戒心のともに彼はどうなったのか、それを教えてくださることだからです。
今日はこれを少し考えて、私たちがどうすればいいのか聞いてみたいと思います。 サウルはどんな人なのか。
サウルはヘブライ人でした。 ヘブライ人なのに彼の生まれは今のトルコの地方でタルソというところで生まれました。
トルコの地方、そこはヘレニズム文化の中心地で、 そこで彼は生まれ育ちながら自然にこのヘレニズム文化、
またキリシャ文化の文化と哲学を学びました。 また彼はそこでローマ市民権を持っていました。
サウルはもともとベナミン部族で、サウル王の部族です。王家なんです。 また彼はそこで厳しい立法を学びました。
また成長した時にはエルサレムに行って、 バリサイビトであり、ラッピであるカマリエル文家で勉強した、
当時生徒的な学びをしたものです。 ですから彼はキリシャ文化、ヘレニズム文化、
またヘブライ文化、また立法をよくよく知っている、 本当にエリットの中のエリートでした。
首都圏伝26章で、彼がベストスという王の前で何か議論をするとき、 ベストスが何というのか、パウロ、
お前は頭がおかしい。学問をしすぎておかしくなった。 勉強しすぎてあなたはおかしくなったと言われるほど、
パウロは当時のローマの総督たちもよく知っている人でした。 有名な人でした。
そのような全てを知っているような、もうエリットの中のエリット。 そのサウルは今何をしているのか、これが旧書の1節、2節あります。
サウルはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意義込んで大祭司のところに行き、 ダマスクの書会とあての手紙を求めた。
もともとサウルはエルサレムのキリスト者たちを迫害しました。 これは人滅することが自分の使命だと、それが神様が喜ばれることだと思いました。
ですからキリスト者を見つけたら、もう全て連れて牢に入れたり殺したりしました。 だからサウルを避けて、もうキリスト者たちはみんな逃げていきました。
そうしたらサウルは逃げていたこのキリスト者さえも捕まえて、牢に入れようとして、 ダマスコに行く、ダマスコのキリスト者を逮捕できるような、
そのことを大祭司に文書を求めたということです。 とにかくキリスト者たちを全部殺す、この働きができないように人滅することがサウルの目標でした。
神の立法を一番よく知っているという、神様に対して一番よく知っていると言われるこのサウルは、
神様を信じるこの人たちを徹底的に迫害する、このような過ちを犯すようになっています。
どうしてサウルはこうなったのか。立法は分かるんだけど、立法が誰を示しているのか。
先週申し出した、刑事の第1刑事、第2の刑事、第3の刑事、第3段階の刑事、
聖霊によって、今聖書に記されている方がイエスを示しているんだということを、聖霊によって悟ることができなかった人は全部こうなんだ。
立法は分かるけど、立法はイエスに対して記録しているものなのに、イエスは知らない。
またイエスを知っていると言っても、イエス様と親しい関係性を持つことではなく、文書だけでイエスを知っている。
これが全部このような過ちを犯しやすい人たちなんです。
サウルは自分なりの論理、自分なりの確信を持って、教会を徹底的に迫害しました。
このようなサウルに対してイエス様はどうされたのか。
私たちだったら、皆さんこんなことあるでしょう。私も最近いろいろあります。
例えば、自分の子供をいじめている、何か格好の子供がいるとか、会社の中で誰かがいじめている人がいたら、
親の気持ちでは、死を、彼を捌いてください。彼に何とか天罰を起こしてください。何とかこのような祈りをしたくありませんか。
キリストたちを殺したり、何か対応したり、牢につけ込んだり、ものすごい迫害しているこのサウルだったら、
私たちはどうしたいんですか。死を早く殺してください。殺してください。捌いてくださいと言いたいんですけど、
イエス様はどうされたのか。3節。
ところがサウルは旅を続けて、タマスコに近くに行ったとき、
ドチデン、イエス様は彼に現れました。
イエス様がサウルに現れる、そのような場面を聖書は、ドチデン天から光が彼の周りを照らしたと言います。
イエス様がサウルの出会うために来られたということです。
来られたということです。その光がどれほど強かったのか。
それからは彼は目がよく見えないようになりますけど、目の病気で苦しむんですけど、
イエス様の光を見た人はもう目が見えなくなるんですね。
それから馬から落ちてしまって、それで自分の目を何か手で包んで、
ああ、見えない、見えないと言うすると、そこで声が聞こえた。4節。
サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。
サウルはびっくりします。主よ、あなたはどなたですか。
そしたら、私はあなたが迫害しているイエスである。
天から光で現れたお方が、サウルが一番嫌われる、
一番この部屋が全部沈滅しなきゃいけないと思われたイエスなんです。
なぜサウルをこのようにしたのか。
すでにイエスは十字架で死んでしまったのに、
弟子たちはイエスは十字架で死んで終わったんじゃなくて、
蘇られた。生きている。
皆さん、普通の考えで死んだら終わりなのに、死んだ人が生きておられ、
蘇られて生きておられるということを伝える弟子たち。
生きておられることの意味をいろいろなことで人々を教えている弟子たち。
これあり得ない。
これ全部嘘をついている。
こんなことを理性的に考えてみろ。
死んだ人が蘇った人がいるのか。
サウルはそれで徹底的に考えたので、その嘘をつく人たちは許せないと。
だからそれを通して今ユダヤ教を分裂しているんだと。
何か変なことで導いている。
だからいたんだと思って誰がこのような厳しい働きをした。
ところが復活されたイエスに出会ってから、
今まで復活したと証言する弟子たちの話が全部正しかったということが分かりました。
またキリストその人たちを迫害するのは神に逆らうことであり、
イエスを迫害するんだということを分かりました。
復活されたイエス様は光として望まれた時、
サウルは自分が犯したすべての罪・過ちを悟って道端で倒れてしまいました。
その時復活されたイエス様は迫害者サウルに何と言われるのか、
これシトギョウデン26章の記事ですけど、
私たちが地面に倒れた時、
サウル、サウル、なぜ私を迫害するのかと言いながら、
次に、トゲのついた棒を蹴るとひどい目に遭う。
トゲについた棒を蹴るとひどい目に遭う。
どんな話ですか。
イエス様がサウルの罪・過ちを叱るよりは、
彼の愚かな行動によって彼がトゲがついた棒を蹴る。
このようなつらい、もう本当に難しい生活をしているんだということをわかって、
彼を助けてあげたかった。
直接聞いたことがないから、
そのトゲについた棒を蹴ったらあなた大変だよ。
そんなことやってはいけないよ。
サウル、サウル、そんなことやめて、やめて。
このイエス様の見越えの中で、彼が何を感じたということです。
以前、私はソンド・シングの話をしました。
ソンド・シングは、インドにキリスト教が入ってくる。
ヒンド教、ヒンズー教を信じている彼らたちに、
キリスト教はこれは信じてはいけないと思うので、
聖書を燃やすことが自分の使命だと思って、
ソンド・シングは聖書を燃やしていました。
その時、彼がものすごいつらい心で、
イエス様を博愛する人は、みんなつらい思いをするんですよ。
彼が自殺しようと、
鉄路のレールで自殺したいと思って、
やっていたところがたびたびあったと言うんですけど、
その時、イエス様に会った。
イエス様の見越えを聞いたんですけど、
その見越えがどれほど優しくて、
愛に満ちあふれた、その見越えを聞いて、
それでソンド・シングは変わります。
そして彼は毎年、
ティベットの地方でもう遺言を書きながら、
彼は毎年イエス・キリストの福音を伝えたと言われるほど、
イエス・キリストの見越えを考えれば考えるほど、
体全体に感じるこの愛の心、
考えも想像もできないほどの恵みと愛の見越え。
たぶんサウルもそのようなことを聞いたんじゃないかと。
サウル、サウル、なぜあなたはそんなことをするの?
今、トゲについた棒を蹴ったら、あなた痛いんじゃないか?
大変じゃないか?
それをやり続けたらあなたはどうなるの?
地獄に行くよ。やめなさい、やめなさい。
と言われるイエス様のこの愛の声。
それをサウルは聞いたんです。
その見越えが救いの見越えであり、愛の見越えであり、
本当に彼を責めて、叱って、彼を裁く心ではなく、
彼を助けたい、あなたを救いたい、
あなたを良くしてあげたいという、
自分は迫害者なのに、迫害する自分に
愛の声をかけてくださるイエス様のこの愛の声に
彼は感動しちゃうんです。
それで彼は変わる。
この事件を通してサウルはイエス様がどれほど忍耐深く、
慈しみ深いお方なのかということを悟るようになります。
それで彼は自分の弟子、手も手に手紙を書く時にこう言います。
第一手も手一章十三節から言います。
以前の私は神を謀得する者、迫害する者、
暴力を振るう者でした。
しかし信じていない時、知らずに行ったことなので哀れみを受けました。
そして私たちの主の恵みが、
キーストイエスによる信仰と愛とともに
溢れるほど与えられましたと言っています。
だからサウル、サウル、
トゲのついた棒を蹴るのはあなた痛いよ。
痛いでしょう。やめなさい。
と言われるイエス様の見声がサウルの心を響きました。
では今日の八節九節です。
サウルは地面に起き上がって目を開けたが何も見えなかった。
人々は彼の手を引いてタマスコに連れて行った。
サウルは三日間目が見えず食べも飲みもしなかった。
サウルはこの三日間目が真っ暗になって何も見えない。
この三日間の時間をタマスコに入って過ごします。
この時間はサウルの強くて残忍な自我が砕かれる時間でした。
皆さんこれはまるで予言者ヨナが神様は二宮に行きなさい。
そこで悔い改めの福音を伝えなさいと言った時に彼が嫌だと思って
逃げたでしょう。
その時に彼が三日間大きな魚の腹の中に入って
真っ暗の中で彼が三日間悔い改めたことと同じだ。
この三日間の時間、この固いもうものすごい残忍なこの自我が
徹底的に砕かれて人が変わる時間だった。
その時神様は他のところでまた別のことを準備をしていた。
実際に言ってみますと、タマスコにはアナニアという弟子がいた。
主がアナニアに行って立って直線通りと呼ばれる通りに行きなさい。
ユダの家にサウルがいる人がいる。彼は今祈っているよ。
そこでアナニアは理解ができませんでした。
サウルという名前はもうキリスト者はみんな知っている。
キリスト者がサウルによって今みんな散らばって逃げているところですから。
迫害者サウル、その人がタマスコに来るという噂は聞いたんだけど
あなたはそのタマスコに彼に会いに行きなさい。彼が今祈っているんだと。
皆さんだったら行きますか?
私を殺すために来る、このサウルに私が迎えていて神の御声を伝えるために行くと言ったら
それは難しいでしょう。
躊躇している彼に神様が主は言われた。
行け、あの者はイオージンやオーダチ、まだイスラエルの子らに私の名を伝えるための私が選んだ器である。
私たちを迫害するために来ているこのパウル、サウルを神様が彼を通してこれから行ういろいろな神の計画を聞いたときに
アナニアは驚いたんです。
迫害者が伝道者になれると思いますか?
いろいろ話をしたいところなんですけど
彼は神の御声に聞き従う。これから見てますとアナニアは謙遜な人なんです。
謙遜な人。人の前では謙遜だけど主の前で謙遜な謙虚な人、これがアナニアだったんです。
アナニアは自分の考えを全部下ろして、自分が怖いと思っているこの感情も下ろして神の御声を聞いて従うんです。
皆さん、聞き従うことがパワーなんです。
私たちの能力は何ですか?私たちの能力はありません。
私たちがどうすれば能力を発揮することができるのか。御声に聞き従うならそれが能力なんです。
それでアナニアはサウルに行きました。
サウルに行って、中7節を見ますと、兄弟サウルと言います。
あなたがここに来る途中現れてくださったシューイエスは、あなたが元通り目が見えるようになり、また精霊に満たされるために私を使わされた。
アナニアは兄弟。パウルを兄弟と言います。
そして彼のために祈ってあげて、目を開け、また精霊に満たされるようにしてください。
それから彼は洗礼を授けてくれた。
このぐらいタマスコには神様に従う弟子がいたということ。
これが皆さん本気なんです。
私たち教会、いつもやってますけど、礼拝やってますけど、もしシューが来られて、
今私たちが一番嫌がるところであなたは行きなさいと言ったら、
誰も行かない。
だったら私たち教会は、もう神様の前には何の意味もない教会。
アナニアのように、自分が嫌なことだとしても、怖いことだとしても、
シューが行きなさいと言った時に、はい行きますと言って従う。
一人が行ってとしても、その教会はものすごい大きな意味がある教会になるでしょう。
シューに聞き従う群れがいるのか、これが大事です。
アナニアはよく聞き従いました。
聞き従うことがパワーです。
その時、どんなことがありましたか、中発説です。
すると、たちまち目から鱗のようなものが落ち、サウルは元通り見えるようになった。
そして彼が起きて洗礼を受けたと言います。
ここで、その有名な日本のキリスト者たちは、
ほぼこのことをよく何度も言いましたね、私に。
目から鱗が落ちる、目から鱗が落ちる事件。
サウルの目から何が、鱗が落ちた、どんな意味ですか。
彼が今まで傲慢、偏見、自己気に満たされた、そしてこの満たされたこの鱗。
それが落ちた時に、正しく見えるようになる。
今、私たちはどんな鱗が、今、私たちの目の中にある。
今日、教会学のように、あなたが考える、自分の偏見、それを書いてみましょうということをやりたいと思う頃です。
今日、子どもたちよくやりましたね。
ああ、素晴らしいと思いました。
とにかく私たちには今、鱗があります。
何か目が見えない、正しく、正しい信仰ができない。
目の鱗があったら、これの家に全部ねじれて見える。
何か偏見、何か正しく見えるんじゃなくて、何か少しおかしく見える。
このような状態で、いくら熱心に信仰生活し、いくら頑張るんだとしても、神様の前に正しい信仰ができるんでしょうか。
主に役に立つものになれるんでしょうか。
彼はやっと、これが落ちてしまいました。
また、霊的な目が開かれて、霊の世界、神の世界を見ることができました。
正しい信仰はいつからできるのか。
目から鱗が落ちてからできます。
私たちは、この目から鱗が完全に落ちてますか。
少し落ちそうになって、まだポロポロポロとして、鱗がついていますか。
これは完全に落ちるものになりますように。
本当に本当にそれが大事なんで。
その日からサウルは新たに生まれるものになりました。
彼は新しい人生を過ごす日になりました。
そこから聖書は、サウルの名前をパウルとして記録します。
サウルの意味は何ですか。
偉い人、偉い、偉大な人。
パウルは何ですか。小さな人。
偉い人が小さなものに変わってしまいました。
私たちの目から鱗が落ちるように、そして正しく見えるように。
これは本当に礼儀的な世界を見たい、神を見たい。
また私たちの信仰を正しくやりたいと思ったら、目から鱗が落ちる。
これを切に切に求めていきたいと思います。
そこでサウルは変わりました。
サウルが変わったということは、一人の人の変化に留まることはありませんでした。
神様がサウルを選ばれたには、もっと大きな計画と身旨がありました。
これは中古説です。
いけ、あの者は異邦人や王たち、またイスラエルの子らたちに、
私の名を伝えるために私が選んだ器であろうと言いました。
神様が選んだこの特別な器、サウル。
目から鱗が落ちてから変わりました。
鱗が落ちたら、たちまち彼は迫害者が伝導者に変わります。
今まで見えなかったことが見たから、見た通り彼は覚醒をもって動き始めます。
それをどうして皆さん、周りの人がみんな戸惑ってしまいます。
えっ、この人迫害者だじゃないですか。
迫害者が伝導する。
今どうなっているんだろう。彼が今、気が狂ったんだろうか。
周りの人がむしろ戸惑っているような状況。
彼は完全に変わりました。
曖昧に変わったんじゃなくて、完全に変わりました。
なぜ聖書が3度もこれを記録しているんでしょうか。
私たちが鱗を改めて変わるんだとしたら、完全に変わらなきゃいけない。
鱗改めは適当にやって、変わったのか変わってないのか、約わからないような状態で、
自分は鱗を改めた、私は新たに生まれた、
私はこれからは全然違うものになったと言いながら、昔のことばかりやっている。
だったら神様がどう思われるんでしょう。
しかしサウルは、完全に変わったんです。
聖書はそれを強調したい。
新たに生まれた、新たに生まれた、新しいものになった。
サウルはこのように変わったんです。
それから変わる人生はものすごい。
昔と108度が変わった働きができました。
今日はこれを持って、このようにサウルのように礼儀的な無知によって、
神様に敵対し、福音を敵対し、立法を全部しているふりにしながら迫害し続けた、
このような人たちが目から鱗が落ちて福音に従うためには、
そこには神徒たちの働きがあったということです。
神徒たちの愛とお祈りと助けと関心がありました。
どんなことがあったのか、まずステパーノです。
サウルが主導になってステパーノを殺すんです。
その時、ステパーノの前でサウルが殺せと言いながら、
彼は荷物を持っていて、石を投げて殺すようになったんですけど、
その時ステパーノがサウルを見て何と言ったのか。
首都宮で七種六十説、こう言います。
それからひちゃまずいて、主よ、この罪を彼らに負わせないでくださいと大声で叫んだ。
そしてステパーノは眠りについた。
彼はサウルの前で、彼に今石投げて殺すこの場面で、
この人を殺したこの罪をサウルに負わせないでくださいと。
ステパーノはそのような祈りをしてから死んだということです。
皆さん、この世はどんな祈りですか。
敵も愛する。
神様が山上の水君であなたの敵も愛しなさいと言われた。
皆さん、敵も愛するところでパワーが生じます。
ものすごい大きなパワーが生じます。
だから私たちは自分を愛する人だけ愛するのではなくて、
敵も愛するこのようなところまで私たちの信仰が進んでいかなきゃいけない。
そのぐらいの信仰になれば、
その信仰はこれからものすごい大きなパワーを発揮するようになる。
これがサウルを変えたんです。
パウルに変えた。
またアナニアです。
アナニアは信仰を持って神の御言葉に従いました。
もう迫害者サウルが来ているのに、
あなたはそこに行って彼のために祈ってあげなさい。
怖くてダメです。私じゃなくて他の人を使ってください。
というところなんですけど、
アナニアは神の御声を聞いて、
信仰を持って御声に従いました。
信仰を持って命を懸けて御声に従うところに、
パワーが生じるんです。
みなさんこれが全部パワーです。パワーにつながる。
どんなことでも変えろ。
どんな奇跡でも起こるようなすごいパワーがアナニアに装置付けられました。
それを持って祈るときに、
彼の目から鱗、そして洗礼を受けるようになった。
素晴らしい働きがアナニアができました。
またそこにはバルナーバの祈りがありました。
サウルを変わりました。パウルになりました。
迫害者が伝道者に変わりました。
いきなり伝道するから周りの人がみんな戸惑います。
それでユルサラムに行ったら、
ユルサラムに人たちもみんな兄弟たちも、
迫害者が来てるんだと思って逃げるんです。
このパウル、これを兄弟と交わりができるようにしてあげないといけないのに、
どうすればいいのか。
そこで働いた人が、慰めの人。
私が以前、韓国で3年間浪人していました。
私の出身業界でメッセージをさせてくださったので、私がメッセージしました。
それを誰が見たのか。
ホスクチプサニムがそれを見たそうです。
このホスクチプサニムはそれを見て、
この人をカンニチ業界の牧師として学ばなきゃと思いながら、
ホスクチプサニムが精一杯頑張って、
韓国で浪人している私を日本に連れてきて、
同居で牧会ができるように道を開いてくださった。
私はホスクチプサニムがバルナバだと思いました。
この真ん中に仲介をしてくださる方の誰かがいなければ、
サウルが今、兄弟たちに受け入れられたと思いますか?
できなかった。
まだサウルがそれでも受け入れられなくて、
自分のふるさとタルソで3年間浪人している時に、
アンディオキア教会でもうリバイバルが起こって、
ここで教師が必要なのに教える人がいない。
だからバルナバがタルソまで行って、
サウル行きましょう、行きましょう。
そしてアンディオキア教会の教師として彼を連れて行く。
このような仲介の働き、これがバルナバ。
バルナバの役割がなかったら、今のサウルはいなかったと思います。
皆さん、この働きもすごく大事なの。
また教会が迫害者が来るんだって話を聞きながら、
この一番残忍な迫害者のために、
教会全体が、このサウルの主を変えてくださいと祈ったでしょ。
その祈りが聞きられた。
神様の働きがあった時に、パウルがこの世に変わった。
一人の人が変わるまで、一人の人が主に用いられるまでは、
大勢の人々の助け、祈り、
また、いろいろな仲介の役割、いろいろな支えが必要なんです。
イエルサレム、また諸大業界の人々は、みんな祈りを持って、
それで、一人の人サウルをパウルになるように助けたんです。
この生徒たちの力がなかったら、今のパウルはいなかったと思います。
私は、ステパノ、アナニア、バルナバという名前は、ここで出て、
少し出てから、もうこれから二度も出てきません。
しかし、パウルの名前はずっと出るから、パウルは偉くて、
またステパノ、この日はすぐ忘れてしまうんですけど、
神様が見られるのには、このステパノ、アナニア、パウルは、
サウルに対して偉大な牧者の働き。
神様は、この命の書、祝福の書に書かれて、
もう天国に行ったら、ものすごい大きな祝福をいただくようになるでしょう。
私が参考になるように、一つ皆さんに申し上げたいと思います。
アメリカの有名な福音伝道者である、ディエル・ムディという人がいます。
彼は19世紀半ばで、全世界に福音を伝えるんですけど、
彼を通して救われた人たちが、100万人以上、
100万人を超える人たちが、ムディによって、
このイエス・キリストを受け入れました。
彼がどのように立派なムディになったのか。
もともと、アメリカのボストンにある教会で、
教会学の教師、私たち教師と同じように、
エドワード・キンボールという教会学の教師がいました。
ある日、教会にある少年が来ました。
その少年は、血を読みもできない、書きもできない、
読み書きもできない人が来ました。
彼は職業は何かというと、グッジ屋で働く者でした。
この少年ムディ、血も読めない。
その人を、キンボール先生が彼を受け入れます。
それで、彼のために聖書を買ってあげ、
また、血を教え、その少年のために祈り、祝福してあげます。
教師としてやるべきことを全部やりました。
その少年がキンボール先生の助け、教え、祝福の祈り、
それによって養われて、
それからこの人が優れた福音伝道者になりました。
100万人を神様に導く素晴らしい人。
今、私たちは今まで何人くらい神様に導いたと思いますか?
その一人の人が、もう神様から成長できればこんなになるんですね。
私たちはムディのように、100万人以上伝道する、
そのような働きは私たちはできません。
しかし、キンボール先生のように、子供たちのために聖書を買ってあげ、
祈ってあげ、祝福してあげることは私たちはできます。
ムディのような働きはできないけど、キンボール先生のような働きは私たちはできる。
皆さん、私たちはステパノ、アナニア、
パウロのような素晴らしい働きはできないけど、
ステパノとアナニアのような、またバルナボのような働きは私たちはできるかもしれません。
だから私たちは、もうバルナボのような、ステパノのような、アナニアのような、
すぐ名前が聖書に記録してすぐ消えてしまったんですけど、
そのような人だとしても、パウロのような偉い人を育てる、
おろすごい大きな役目がありました。
また、中小41節、こう言います。
預言者を預言者として受け入れた人は、預言者と同じ報いを受け、
正しいものを正しいものと受け入れる人は、正しいものと同じ報いを受ける。
皆さん、パウロを助けた人は、
事実、パウロの受ける報いを天国で私たちは受けるようになる。
ムーディ先生は素晴らしい働きをしたんだけど、
ムーディのようなことはできないけど、
ムーディを育てるように力を足したケンボル先生は、
ムーディが受ける祝福、自分は全部報いを受けるでしょう。
皆さん、私たちは毎日毎週毎週、
今、何か人々を助けたり、何とか祈ってあげたり、何かやりますけど、
これが私たちは何なのか、私は名前が出る偉い、
みんなが認めてくれる素晴らしい働きは欲しがるんだけど、
見えないところで静かに静かに、ある人のために祈って助け、
また役に立つ働きをちょこちょこやっていく、
この人たちはあんまり私は無視する傾向があります。
しかし違います。神様にはそれがすべて記録されて、
パウルが受ける祝福を皆さん、アナニアが受けるようになる。
キンボル先生はもうムーディが受ける祝福をキンボル先生が受けるようになる。
どうやったら私たちが毎週毎週与えられる、
一人一人、また今日の子供たち、
今、皆さんムーディのような血がよみもかきもできない、
このような人も素晴らしい人になることを考えたら、
今、素晴らしい私たちの子供たち、これからどれほど素晴らしい人になるでしょう。
また私たち二世たち、どれほどのものになるでしょう。
私はいつも佐久ちゃんのために、祈るために、
佐久ちゃんのこの声を、笑う声をずっと見ています。
この子がどれほど素晴らしい子になるだろう。
分かりません。
しかし、私たちがずっと祈ってあげ、祝福してあげ、
何か助けてあげ、使えてあげるなら、
私たちの子供たち、私たちの二世たち、
みんな素晴らしいものになると私は信じています。
その人のための役に立つ上力者、神の闘労者になりましょうということです。