今日は、「心を一つにすることの大事さ」というタイトルを持ってメッセージを分かち合いたいと思います。
先週、ペンテコステのリバイバルが来た時に、このリバイバルの精霊様は、
炎のように一人一人の上へのじょんだと言います。 一人一人が上から火を受けたんです。
その時、彼らは精霊に満たされて、 満たされたら、もうどうしようもできなく、
彼らがそんなに怖かった、許されようもなく町に出て行ったんです。 それで、町の大勢の人々を驚かせるんですけど、
まず彼らは、自分もわからない口の言葉を語った。 遺言を語った。
また、生まれながら足がつかない人がいたんですけど、 彼を癒して立ち上がらせた。
それを通して、エルサレムに集まってきた全世界の人々を驚かせた。
精霊様が来られたら、精霊様が来る前の信仰生活と、後の信仰生活が変わります。
以前の信仰生活は、静かに礼拝を守り、それで聖書を読んで、 それを自分の力で頑張って守って守って守って、
それで神様から祝福されようとする信仰生活です。 しかし、精霊様が来られたら、自分が何とか守ろうとすることではなく、
来られた精霊様の導きに従ったんですけど、 その精霊様は私たちを通して、驚くほどの美業を行ってくださった。
その時がちょうど、ペンテコステ・ゴジュンセツというところで、 ゴジュンセツの祭りを守るために、
ユダヤ人、またユダヤ教に改修した人々が、地中海の周りの国、16カ国から集まってきた。
その人たちが、他の国の言葉ではありませんよ。 自分が分かっている、自分の国の言葉で、
田舎の出身、カリライの出身の弟子たちが、 神の大きな御業を語ることを聞いて、
それがどれほどびっくりしたのか、 神教共同体に集まりました。
皆さん、アメリカのアジオサーリバイバルがあるんですけど、 アジオサーのリバイバルでも異元です。
異元の凄さによって、周りの人たちが集まって、 そこが燃えるほどのリバイバルが起こったと言うんですけど、
これがペンテコステのリバイバルと全く同じです。
この次の日には、生まれながら足が使えなかったある人が、 イエス様の皆によって癒されて立ち上がったんです。
それを見て、約5,000人の人々が、 神教共同体に入ったということです。
本当に信仰生活ということは、もう素晴らしいことです。
命の働きが、その働きによって、 信じる人たちに奇跡が起こることです。
不思議な身業が行われることが、神教生活です。
しかしそれは、私たちがこうしましょう、 今日はエルサレム町に行きましょう、来週はどこに行きましょう、
私たちが計画を立ててやるんじゃなくて、 リバイバルが来るなら、精霊様が私たちを連れて行く。
もうついて行く、従って行くことさえできれば、 精霊様は私たちを通して、
ご自分が計画されている働きをされるんですけど、 私たちは精霊様に用いられることなんです。
だから私たちは分からない。
もうペンテコステのリバイバルのような、 リバイバルが東京に来るなら、
これから私たちの計画は全く意味ありません。
精霊様が持っておられる神の御胸通り、 私たちを使ってください。
私たちが使える従うことさえできれば、
私たちも分からない素晴らしい御業が 東京で行われることを信じます、期待しています。
ではこのようなリバイバルが来た後、 彼らはどうなったのか、
これが今日読んでくださった シトギョーデン2章42節からのことです。
まず彼らは心一つとして集まった。
シトギョーデン2章44節、 信者たちはみんな一つになって、
46節、そして毎日ひたすら心を一つにして、 喜びと真心を持って一緒に食事をした。
一つにして、一つにして、みんな心が一つになった。 そして集まったという。
皆さん、精霊様が働いたら、 精霊様が皆さんの心の中に入っていたら、
精霊様が来られる人々、 同じ霊を持っている人々は集まります。
独長は集まるということです。 悪霊が働いたらどうなりますか?
悪霊は私たちの心を破壊します。 分裂させます。
バラバラバラバラ。 そして散らばります。
ところが精霊様が来られたら、信じる人々は 磁石が引っ張るようにみんな集まります。
当時イエス様を受け入れた3000人、 5000人の人たちが集まりたい。
でも特に集まる場所がないから、 エルサレムの住んでいる神道たちの家じえに集まりました。
ですから集まる人々は、その集まるところを 教会が建てられるんです。
ですから皆さん、教会は精霊様が信じる人々を集めて、 その集めておく場所が教会になりました。
2番目、その集まった人たちは何をしたのか?
霊廃はこうするもんですよ。集まったらこうしてください。 マニュアルとかいうことはありませんでした。
彼らは自然に、42節を見ますと、 使徒の教え、相互の交わり、パンを作ること、祈ることに熱心にした。
集まったら、教会がやるべき、 信仰・共同体にあるべき働きが行われていたんですけど、
それが、使徒たちによる教え、霊廃、 また賛美と祈り、また救済、また信徒たちの交わりでした。
そこに信徒はみんな心を合わせて、 熱心に使えたと言います。
そうしたら、神様はその集まる共同体に 不思議な見業を起こさせてくださった。
使徒たちによって、多くの不思議な技と 印を行われているのであろう。
その教会を通して、不思議な見業が行われた。
世の中の人々は、もう滅多に見ることができない 不思議な見業。
また、聖霊様によって、子どもたち、 若者たち、老人たちは幻を見、夢を見、予言を知る。
もう神の見心がみんなに照らされたと言います。
そこに、その共同体に神様が人を送ってくださった。
こうして、主は救われる人々を日々、 仲間に加え、一つにさせてくださった。
リバイバルが来たら、伝道は誰がしますか?
リバイバルが来ると、伝道は神様が直接行われる。
もちろん、伝道は私たちもしなければいけません。
ところが、新しい顔袋の教会になり、リバイバルが来るなら、 聖霊様が自ら伝道を行われる。
その伝道を、御輪際伝道と言います。
神の御輪際に人々が引っ張られてくるんです。
もう、街を歩いた人が隣の教会に引っ張られるように入っていって、 そこで涙を流しながら、悔いを改める。
これ、誰が何を言ったことではありません。
神の御輪際に引っ張られて、伝道が行われる。
素晴らしくありませんか?
私はこの場面をいつも考えながら、 ぜひとも、リバイバルが私たちの教会に来るようにと思います。
その後、中老家族から集まった信徒たちはどうしたんですか?
自分の国に戻ったでしょう? 自分の家に戻ったでしょう?
それで、自分の国に戻って行って、何を言うんですか?
イエルサレムに行ったの。
イエルサレムに行ったら、何か聖霊様がリバイバルとして来られたのに、 そこに集まった人々が分からない言葉を語りました。
また、私の国の言葉で語りました。
また、そこにいたら足が使えない人が癒されました。
その街々に行って、自分の国に戻って行って、それを噂で語り続けるんです。
そうしたら、周りの国が全体的に神様の見業をみんな聞くんです。
それによって、何か私たちもこのことがあるかなと思うんです。
その後、人たちが2人ずつ各地域に回ります。
ペトローとヨハネとか、回ります。
その人たちと手を組んで、それであちこち転道が行われた。
ピリポ七次はサマリアに行きました。
七次なのにサマリアに行って、不思議な見業が行われます。
サマリアからまたカイサリアに行きます。
その行く前に、またエチオピア公館に転道します。
それでエチオピア公館によって、アフリカの初めにエチオピアがキリスト教国になります。
また今日、教会学のメッセージでありましたけど、アンティア教会。
アンティア教会は誰が伝道したことではありません。
ペンテコステのところにアンティオ教から来た人たちが自分の国に帰って、
そこで自分たちが自ら教会を建てたんです。
それで教会ができたと噂を聞いたら、
もうイエルサレムでびっくりして、そこでペテルとヨアネを派遣することがありました。
そしたら、その派遣された使徒たちと、そこで散らされている人々が手を組んで、
それで一緒に伝道して、各地域に教会を建てられたんです。
そのようにしてイエス・キリストの福音が、
小アジア、ヨーロッパ、アフリカまで広く広く、効果的に述べ伝えられたんです。
皆さん、このすべてが行われたことで、一番大事なキーワードが何か。
一つになって、一つになって、ということです。
きっかけは一つになって、心一つにして、ということです。
もともと人間は、もうお互いに愛し、心一つになったでしょう。
しかし、創世紀3章以来、チェンヤクの知識の木を食べてからは、
人間はみんな自己中心的になります。
アダムとエーヴァンも、もともと私の骨の骨、私の肉の肉と言われるほど、
もう愛が溢れる夫婦でした。
しかし、チェンヤクの知識の木を食べてからどうなるのか。
アダムはこう言います。
あなたが私にくださった、この女が私に食べなさいと言って、私が食べてしまいました。
自分の妻を非難します。
愛じゃなくて、非難する相手になったということを見てみますと、
みんな自己中心になって、自分の考えが強いということがわかります。
その後、人間が心を一つにして生きることはできるか。
それが本当に大事なのか。
しばらくは可能かもしれません。
皆さん、結婚するときはみんな仲がいいし、愛するでしょう。
結婚して間もないときから、みんな自分の主張。
私はこう思う。私はこう生きた。
あなたもこうやってほしい。
違う、私はそうしたくない。
私は私のやり方で生きたい。
それによって喧嘩して、それで別れる場合がどれほど多くあるのでしょうか。
なぜなら、人間は自己中心的だからです。
世の中、みんなどんな家庭でも、いくら愛が深いところだとしても、
自己中心性があるから、私はこう思う。
私は違う。私の価値観はそうではない。
だから、みんなバラバラになりがちです。
ところが、今日の諸大業界は、心一つにして集まってお互いに仕え、
みんな神を賛美し、祈り、仕えるから、
その雰囲気がまるで天国のようになりました。
皆さん、今私たちの状況を考えてみてください。
心が一つになる場合があるんですけど、そうではないときがたくさんあります。
教会もそうでしょう。
教会も、見てみますと、心が一つになった場合もあります。
しかし、そうではないところもある。
皆さんの家庭の中にいて、夫婦の間でも、
心が一つになっていいときもあるんですけど、
バラバラになって、心が良くないときもたくさんあります。
みんな自分の考えがあります。
みんな自分がこう思うということがあります。
しかし、諸大業界はどうしてこれができたんでしょう?
人の教えにみんな従ったんでしょうか?
祈りと賛美の中で、恋愛の中で来られる聖霊様によって満たされたでしょうか?
とにかく、神様は心一つにして、
お互い愛する環境、または雰囲気、共同体があるなら、
神様がそこに来られ、祝福してくださるということです。
皆さん、もともと神様は賛美一体です。
賛美が一体になって存在しており、
神様は信仰、共同体を一番愛しております。
ですから、私たちが心一つにして神に礼拝するなら、賛美するなら、祈りをなら、
神様がいくらでもその共同体を祝福してあげたいと思っておられる方です。
神様は共同体を愛します。
皆さん、リバイバルが来るなら、共同体が一つになるんですけど、
それを見ながら、私たちが切に求めることがあります。
私たちは、教会がそのことができることを切に祈っているし、
これからもたくさん行われることを願っているのですが、
それが何かと言いますと、
今日読んでくださったマルコ二書の中部の患者を癒したこの実験のことです。
私はマルコ二書、この部分が大好きです。
なぜなら、私は大学生の時、宣教団体で訓練を受けながら、
悔い改めと精霊体験をいただいた時がありました。
その時、私に聞こえてきた聖書がマルコ二書五説、
こよ、あなたの罪は許された。
私は神様から、こよ、あなたの罪は許されたという話を聞いたんです。
私はマルコ二書五説が、私の救いの確信、精霊体験の証です。
じゃあ、マルコ二書の内容は何でしょうか。
イエス様はカファラナウンにおられる時に、
イエス様がある家におられるという噂が、もう全部広まっていきました。
そうしたら、おびただしい人々が集まりました。
じゃあ、イエス様がどこに行かれたら、おびただしい人たちが集まる。
なぜでしょう。
問題がたくさんあるからです。
問題がたくさんある。
そうしたら、イエス様は教えられたということは、
福音書を記録パターンだと、私は申し上げました。
なぜ、人々がこんなに難しさ、または問題がたくさんあるんですか。
当時、ローマの植民地でした。
貧しかったです。
貧しい家庭に病気がたくさんあり、病がたくさんありました。
また、彼らは宗教的な義務を行わなければなりませんでした。
また、その上、悪霊の働きがエルサリ、イスラエルにたくさんあったということです。
しかし、その神道たちを助ける人がいません。
もっともっと助けるように任命された人たちが、宗教指導者なんですけど、
宗教指導者たちは、儀式だけで守りなさいということで、
宗教的な負担をかけるばかりで、
神道の人々を助けることは全くありませんでした。
助ける能力さえ、彼たちはありませんでした。
だから、みんな助けられなくて、病気があったら貧しいところで、
そのまま苦しんでいる状況です。
その時、イエス様が現れました。
その噂を聞きました。
おびだたしい人たちが集まりました。
ここで、人々が、今日の聖書の記事には、
4人の人たちが、お友達を徒歩に担いで、それで運んできたんです。
運んできたのに、イエス様のところに行こうとしたら、
人々がいっぱいで、イエス様がどこに行こうとはできなかった。
人々に阻まれて、イエス様がどこに行こうとはできないから、
どうしようと思いながら、彼らは、
イエス様が来られるあたりの屋根を剥がして、吊り下ろした。
イエス様は彼らたちの信仰を見て、
こよう、あなたの罪が許された、と言われたということです。
ここで大事なのは、どうして中腹の患者、
皆さん、中腹の患者ということは、全身麻痺の状態、
体が麻痺の状態で、全く動けない。
だから、何をしようとしても、周りの人の手伝いがなければ、
自分からは何もできない人ということです。
その人が礼拝参加したでしょう。
バリサイ人たちが行う毎週毎週の既視的な礼拝には、何にもなかった。
しかし、精霊様が共におられるイエス様の礼拝には、
そこには、おびただしい人々が癒され、助けられ、
いろいろな奇跡が行われ、悪霊が出ていくという話を聞いたから、
彼らがイエス様のところに来たんです。
しかし皆さん、おびただしい人たちが集まったとしても、
みんなが癒されることではありませんでした。
信仰がある人だけ癒された。
おびただしい人たちがみんな癒されるのではなくて、信仰がある人だけ。
今日の人は、中部の病気を癒されたんですけど、
この4人の人たちには、どんな信仰を持っていったのか。
私はぜひこれを学んで、私たちもこの信仰を持ちたいと思って、
皆さんにこれを強調したいと思います。
イエス様は、ヨハネ11章40節に、
あなたが信じるなら、神の栄光を見るであろう。
神の栄光は何ですか?奇跡なんです。
奇跡。病気を癒されるこの奇跡です。
さあ、彼があなたが信じるなら、4人の人はどんな信仰を持っていったのか。
ですから、ここに1つになる信仰。
1つの信仰を持っていった。
まず、この人を愛して、この人を必ず癒さなきゃいけないと思っているこの心を、
4人が同じような心を持っていた。
この人を愛しているから、この人を必ず癒してあげたい。
この愛。
これを聖書は、愛によって働く信仰と言います。
じゃあ、4人の人が同じような、この人を必ず癒したい。
また2番目に、この4人の人は、イエス様に出会えば必ず治るんだ、
この確信を持っていったんです。
出会っても、癒されるかないかは別だよ、と言うなら皆さん、
屋根を剥がすまで、吊り下ろすまで、そんな無礼なことをやらないでしょう。
イエス様に出会えば必ず治るんだ、ということを確信を持っていった、4人が。
しかし、イエス様に行くところが人々によってはまられているから、
屋根を剥がして吊り下ろそうと、ある人がこう言いました。
4人が、OK、そうしましょうと言いました。
皆さん、これはもともと難しい信仰です。
信仰を発揮する方法論まで、4人が同じ心を持っていた。
これは難しいでしょう。
まあ、みんなイエス様に出会えば癒される。
しかし、ああ、人が多いから、これは行くことができないから、
今日やめよう、明日やろう、と言う場合が多いし、
屋根を剥がして吊り下ろそうと言ったら、
ダメだよ、あなた何言っているのか。
こんな、他の家の人の家を剥がすこと、こんなことをやってはいけないよ。
4年の中で、誰一人こう言うべきだったのに、誰も言わなかった。
他の家の人の家を剥がす、この無礼なことをやってはいけないと言うべきなのに、
一人もそのようなことを言わなかった。
では、イエス様は、この人たちの無礼な行動を見て、どのように働かれたのでしょうか。
イエス様は、彼たちに何を見たのでしょう。
彼たちの礼儀正しさを見たんですか。
いいえ、日曜5節、イエス様は、その人たちの信仰を見て、
中部の人に、こよう、あなたの罪は許されたと言う。
イエス様は信仰だけを見たんです。
愛によって働く信仰、必ず生かさなければと思う信仰、
方法論まで一つになった信仰、その信仰を見られ、喜ばれたんです。
イエス様は喜ばれて、それで罪を許しと、病気の癒しを宣言されたんです。
ですから徳を担いて、運ばれてきた人が立ち上がって、
そして自分の徳を担いて、歩き出した。
それを通してイエス様は、罪の許しの献身者、癒しの献身者ということを、
すべての人に伝えることができた、ということです。
ここで大事なのは、先章は、中部の人が信仰があったのか、なかったのかは、書かれておりません。
中部の人は信仰がなかったかもしれません。
しかし、運んできた4人の友達は信仰を持っていた。
結局、4人の友達の信仰によって、中部の人の病気が癒された、ということです。
自己主張を私はこう思うという、このような人たちが、
全部代わって、精霊様の御声に静かに口を閉じて従う群れにならせてください。
そうするなら、私たちの群れを通して、どれほど大勢の人々は助けられ、癒され、救われ、
そして周りの人々の光になり、力になる教会になれるでしょうか。
私たちの祈りはこれなんです。
ぜひともぜひともマルコ二書のような徒労者、四人のこのお友達のような徒労者が教会にたくさん現れるようにしてください。
人数が多い、少ない、関係ありません。
四人のような徒労者が教会にいるんだとするなら、その教会は大勢の人々を癒されるでしょう、救われるでしょう。
これが伝道につながるでしょう。私は伝道しましょう、伝道しましょう。
皆さん、これを許して聞いてください。
みんなが自己中心な人だと言いましょう。
ある人が教会に来ました。この人が自己中心にならない可能性があるんですか。ありません。
100%自己中心になります。
私たちが変な信仰を持っています。
この群れにある人が来たら、私たちみんな変な信仰を持っているようになるでしょう。
だから、まず私たちがどんな信仰を持っているのか、これが大事なんです。
集まってくる、導かれてくる人が私たちを見て、その信仰が正しいと思って、そのような信仰を持つようになるからです。
生まれる赤ちゃんが父親、母親のようになることは当たり前でしょう。
だから私たちの共同体が、まず神に従う群れ、心一つにして集まる群れ、
神様を信じる群れ、信仰に満ちあうれる群れになれれば、
これから伝導されてくる人々は、正しい信仰、立派な信仰、神中心的な信仰を持つようになるでしょう。
まず私たちの共同体がそのようになっていきましょう。
その共同体に比べて、私は今自身どうなっているのか、私の信仰は今正しいのか、
ぜひぜひ考えながら、悔い改めを通して、神様が用いられる教会が、私たちが作っていく。
これが新しい川袋の教会です。ぜひともそのような教会になり、
それで大勢の人々を癒して、助けて、救う教会になりましょう。
そうじゃなければ教会、意味あるんですか?意味ありません。
私たちは神様に、また周りの人々に役に立つ教会に、ぜひなりたいと思います。お祈りいたします。
主よ、私たちに精霊十万を与えてくださり、私たちの心が一つになり、
神様が喜ばれる働きをたくさん行われ、愛する人々をみんな生かされる、癒す教会にならしてください。
このような教会、本当に主よ、私たちを通して、成し遂げてください。
イエス・キリストの皆を通してお祈りいたします。アーメン、アーメン、アーメン。