2024-04-28 25:35

#ぶどう園のたとえ 24/4/28

マルコ12:1-12からの礼拝説教。2024年4月28日録音。神殿での宮清めの出来事から話が続いています。今日のたとえは、登場人物が誰を指しているのかが明確であるという点で大変興味深いと言えます。それぞれが実際誰を指しているのかをまず学びます。1.たとえの解説、2.学ぶべき教訓、3.聞くべき福音の3つの点から考えて行きましょう。


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新約聖書の丸子の福音1章12章1節から12節をお読みします。
新約聖書丸子12章1節から12節をお読みします。
それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。
ある人がぶどう園を作った。
垣根をめぐらし、ふみわをほり、みはりやぐらをたて、それを農夫たちに貸して旅に出た。
収穫のときになったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを使わせた。
ところが彼らは、そのしもべをとらえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。
そこで主人は再び別のしもべを使わせたが、農夫たちはその頭を殴り恥かしめた。
また別のしもべを使わせたが、これを殺してしまった。
さらに多くのしもべを使わせたが、打ちたたいたり、殺したりした。
しかし主人にはもう一人愛する息子がいた。
彼は、私の息子ならおやまってくれるだろうと言って、最後に息子を彼らのところに使わせた。
すると農夫たちは話し合った。
あれは跡取りだ。さあ殺してしまおう。そうすれば相続財産は自分たちのものになる。
そして彼らをとらえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
ぶどう園の主人はどうするでしょうか。
やってきて農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるでしょう。
あなた方は次の聖書の言葉を読んだことがないのですか。
家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
彼らはこの例え話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、
イエスを捕らえようと思ったが群衆を恐れた。恐れた。
それでイエスを残して立ち去った。
今日はこのところから、ぶどう園の例えと題して見事を取り付けます。
皆さんおはようございます。
4月最後の日曜となりましたが、日差しはとても熱くなりましたね。
京都とか福島では30度を超えるのではないかと言われています。
先週月曜から1週間、雨が降って寒い日もありましたね。
その日私も長袖3枚重ね着して外で動いてましたけど、
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次の日は一転してですね、半袖でもいいような暑い日となりました。
そんな簡単さが大きい週だったので、
皆さん同士、私もちょっとですね、疲れたりしましたけども、
体調を崩す方もいらっしゃったり、
降差もね、飛んできたりかなんかで、
外にいてもマスクしたりとか、
いろいろ健康に気をつけなければいけない週だったようですけれども、
今日そんな中で、ゴールデンウィークと言われてますけれども、
共に見言葉から学んでいきましょう。
今日の話はですね、神殿でのニヤキオメの出来事から続いています。
有名な武道園の主人のたとえです。
このたとえ話の興味深いところは、
他のイエス様のたとえ話と違って、と言っていいと思うんですが、
登場人物が何を指しているのか、
そしてそのたとえの意味が何なのかということがはっきりとわかる、
そういう点で非常に興味深いたとえ話になっています。
そういうわけですから、
今日まず最初に実際このたとえ話に登場する人物たちが誰を指しているのか、
出来事が何を表しているのかということをまず学びます。
そしてその後にですね、
私たちがそのところからどのようなことを学び取ったら良いのか、
学ぶべき教訓とか、また聞くべき福音ということを話してまいりたいと思います。
ちょっと口差のせいか喉がガラガラして、すいません、何か水飲んだりします。
それではまず最初たとえの解説です。
今日の出だしに繰り返しになりますが、このように話が始まっています。
するとイエスはたとえによって彼らに話し始めた。
ある人がブドウを植えた。
そして垣根をめぐらして、また踏み輪を掘り、
塔を建て、戸作人たちに任せて旅立った。
そして収穫の時にしもべを戸作人たちのもとへ使わした。
ブドウの実の取り分を戸作人たちから受け取るためであった。
最初の部分でほとんどの登場人物が出てくるわけです。
場面も設定されています。
ここでですね、大事なことのまず一つはですね、
この彼らに話し始めた彼らは誰か。
イエス様がたとえ話した彼ら。
これはですね、神殿の中でイエス様が話しています。
そしてその彼らというのは先週見た、
祭司長たち、立法学者たち、長老たちのやりとりの続きです。
先週こんな絵もさしましたけども、
いわゆるその前の宮清めから、
先週の何の権威によってお前はそんなことをするのかという、
このユダヤ教のユダヤのサンヘドリン国会議員や裁判長たち、
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リーダーたちがイエス様に問い詰めたところが先週の話でした。
で、まあオチになってしまいますけども、
今日の最後の節、12節ではこんなことが書いてありますね。
この書き括弧を読めるかで読んでみましょうか。
彼らはこの例え話が自分たちを指して語られたことに気づいた。
イエス様はこのユダヤ人のイスラエルの宗教政治のリーダーたちに語られたわけです。
で、そこでですね、
じゃあこの意味を解説していきますけども、
まずブドウ園の主人は誰か?
もう皆さんお気づきのように父なる神様です。
じゃあそこでブドウ園は何か?
ブドウの園、それはイスラエル民族を指します。
このブドウ園の主人は父なる神様、
そしてブドウ園はイスラエル民族を指します。
このアブラハムから始まっていると言っていいでしょうけども、
神の民として神様はこのイスラエルの民を育て上げてきた。
鉄椎にかけるブドウ園のように。
そしてここでいう戸作人たちが誰かというと、
失礼しました。
戸作人たちはこの立法学者、アリサエビとサイシチョウたち、
チョウロたちというこの例え話を聞いているリーダーたちを指しているわけですね。
そこから先なんですけども、その次にですね、
主人が収穫の時にアケマイをこの戸作人から受け取ろうとして、
しもべたちを使わしました。
何度も何度も使わした。
その使わされた人たち、それは誰かというと、
これはイスラエルの歴史の中で登場した預言者たちです。
イザヤとかエレミーとか色々出てきます。
たくさん預言書というのが書かれているんですね。
それが分かるともっと話がよく分かります。
ここで非難されていることはですね、
旧約聖書の時代に神様から使わされた預言者を、
イスラエルの指導者たちは何度も何度も拒み続けて打ち叩いて殺してしまった。
そんなことが起こったということが重ねられているんですね。
なんでそんなことになったか。
神様はブドウ園を大事に育てるようにイスラエルの民を育ててきました。
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そしてエジプトにおいて増やして、キキングから救って増やして、
そして彼らがエジプトでピンチになるという有名な出エジプトの奇跡を持って、
アラノを旅させ、アラノの中でも守って、
そして約束の地の今でいうイスラエルに彼らを40年かけて導き切れたわけですね。
その後ダビデナやソロモンなどの王が出て、王国ができたわけです。
その中で残念ながらイスラエルの民は断るごとに神様に背き続けてきたわけですね。
そして神様に背き続けたイスラエルの民を神様はご自分に立ち返らせるために、
檻に触れて預言者を使わせてきたわけです。
皆さん機会があったら第一列王旗、第二列王旗を読むとですね、
このダビデから始まって、イスラエルがどのように神様に背いたり、
そして南北に分裂していったか、そんな様子が見て取れます。
そういうようにしてですね、神様は預言者を使わせた。
そしてイスラエルの民が食い改めるように介入した。
しかしですね、その中でイスラエルの背きの罪に最も責任があるのを、
神様は、イエス様はここで最秘長、立法学者長老たちに代表される民の指導者たちだったというわけですね。
なぜか、彼らは民を正しく導くどころか、その立場を利用して何度もあるように弱い人たちから搾取をしてきたんですね。
そして、さらに繰り返しますが、そういう中で食い改めるように、
神によって使わされた預言者を打ち叩いて、殺してきたわけです。
それは何に言わずと知れた、神様を拒絶するということであったわけです。
そして実際彼らは最後に、最後の預言者は誰でしたか?
アブテスマのヨハネを受け入れませんでしたね。
ヘロデオが捕らえて、殺すがままにしました。
このちょっと前でイエス様は、アブテスマのヨハネは天からの権威ですか?人からの権威ですか?と聞いて、
それを認めなかったことからも、この指導者たちの堅くなさが見て取れるわけです。
そして言わずもがな、このたとえに出てくる、愛する息子は誰かといえば、イエス様ですね。
このイエス様、そしてイエス様はペテロが、あなたは神の子ですって告白した直後に、
直後にですね、こう予告していますね。
ペテロが告白した直後、それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、
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小老たち、最小たち、立法学者たちに捨てられ、殺され、
3日後に、蘇らなければならないと弟子たちに教え始められた。
全く同じこの3種類の指導者たちが出てきて、
イエス様が一番最初に自分の受難の予告をされた言葉がこれだったわけです。
そして皆さんがお気づきになった、愛する息子、それはイエス様です。
その愛する息子、それはヒュイオスという言葉を使われています。
ヒュイオスアカペトスかな。
それは実はこの有名なヨハネの3章16節の御言葉を、
時代は違いますけれども連想させるイエス様に対する呼び名なんですね。
この有名な御言葉を皆さんで読んでみましょうか。神輪から3、はい。
神は実にその一人子をお与えになったほどに、よう愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
このようにこのたとえにはそれぞれの登場人物が当てはめられていて、
この話を聞いたユダヤの指導者たちは、ますますイエス様を殺そうということになったわけです。
さあそこから学ぶべき教訓ということを少し見ていきましょう。
12章の9節でイエス様はたとえの使命の一つとしてご自分でこう語っておられます。
まあそんな時に、武道園の主人はどうするでしょうか。
やってきて農夫たち、この子作人たちを殺し、武道園を他の人たちに与えるでしょう。
これでいわゆるたとえ話の一つのオチをイエス様は語っているわけです。
ここで何をさしているか。
この農夫たちを殺しというのは、神の裁きがこの民の使命者たちに下るということです。
そしてその後、他の人たちというのはいわゆる違法人です。
神の民とされていなかった違法人に対して、この神の民に加えられるという、そういう門が開かれるということがここで言われているわけですね。
ここから何を私たちは教訓とすべきかということですが、まず最初はですね、私のような牧師、教会の指導者たちが聞かなきゃいけない。
それはこの立法学者たちのような間違いを犯さないということなんです。
指導的な立場で教会で、あるいは救出協会で働く人たちが聞かなければいけません。
それは自分が委ねられている教会や神の民というのは、この神のブドウの園のように神様のものだということなんです。
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ですからそれを自分のものとして好き勝手に扱ってもいけない。
むしろ自分は民の指導者であるならば、神様の御心を学び、何であるかを学び、それを実践してですね、実はパウルも言っているように、教会の中で模範とならなければいけない。
そういう今締めと言いますか、教訓に通じていくわけなんですね。
それがまずキリスト教会の指導者たち。もっと広く言えば国の指導者にもいるのかな。
日本は嘆かしいですけれどもね。そういうことになるわけです。
そして指導者に限らず神の民、私もそうですけれども、新しい神の民、教会の民として学ぶべき教訓があるならば、こういうことです。
それは神様が檻に触れて反逆のイスラエルに預言者を使わせた。
同じように神様は私たちの人生や生活に、檻に触れてあたかも下ってこられて、私たちに触れる、そんなことをなさる神様だということになります。
言い換えればですね、私たちの人生や生活に神様が入り込んでくださる。
先ほども言いましたけれども、何度もイスラエルの民の中で登場した預言者のようなことが起こる。
それは神様は預言者を使わせて、イスラエルの民に目を覚ますように、自分を振り向くように語った、大切なメッセージを語った。
同じように神様は、どんなことは言えませんけれども、私たちの日常生活や人生に、檻で介入してくださる。
その顕著な例がもちろんイエス様なんですけれども、今イエス様は天に変えられ見えません。
精霊なる神様として私たちの家に住んでおられます。
それ自体が私たちのもとに下ってこられて、介入しておられるお方なんですけれども、
それがどうやって神が介入していることがわかるのかということをですね、パターン化することはできません。
マニュアル化することはできない。それをやってしまうとカルトンになってしまいますから。
神といえば、聖書の言葉が響いてきたり、私たちが生活や人生を送っていく中で、
ふと目が開かれたり、発想の転換を迫られたりすることがある。
その時と言えるかもしれません。
これはあくまでも一例で、皆さんが気づいて、
イエス様が私の目を開いてくださったという経験があるということなんですね。
目が開かれて、心が開かれて、イエス様がともにいてくださったんだ。
神様がともにいてくださるんだ。
恵みが実は授けられていたんだ。
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そういうことに気づく時が、神様の介入に気づく時とも言えるかもしれません。
そんなことを考えたり、見つけていくというのが、私はクリスチャン人生の醍醐味だと思います。
皆さんもそんな体験をしていただければと思います。
そして最後、私たちがさらに聞くべき福音は何かということなんですね。
一番大事なこと、今日の御言葉の締めくくりでもありますが、
12章の11節をイエス様がこのように語っています。
あなた方は次の聖書の言葉を読んだことがないのですか。
この鍵カッコを読んでみましょうか。
家を建てる者たちが捨てた石、それが金目の石となった。
これは主がなさったこと、私たちの目には不思議なことだ。
12章11節。
ここに私たちが聞くべき福音があるのではないかと思うわけです。
実はこれは、以前も言いましたけど、詩編からの引用なんですね。
興味深いことは、ここに神殿の絵がありますが、
イエス様はこれをヘロデが建てた当時ですけれども、神殿の中で語っています。
ここで建てられている石というのは、おそらく神殿を指しているんじゃないかと学者の中で言われています。
ソロモンが一番最初に建てた神殿とその祖跡じゃないかと言っています。
だから神殿の中でイエス様は、神殿を建てる時に大事な金目の石の話をしているんですね。
それが話の金目なんですけれども。
当時は石造りの家なので、
ここで言えば四隅に大きくて頑丈な石を、基礎の石として置くわけです。
今でも子建ての家を見ると、竜巻の家を見ると、コンクリートでこうやって部屋が作ってあったりしますね。
最近はあれですか、2×4とか言って建てるので、そういうのはないかもしれないけれども。
とにかく集合住宅、マンションの中でもコンクリートの基盤ということが大事なように、立派な金目石、祖跡を建物の四隅にまず置いたんです。
この金目の石、実はその金目の石が捨てられた、それは実はイエス様だということがこの例えの大事な点なんです。
そして捨てられた石というのは、この神殿を作った時に役に立たないから、この石は祖跡にならない、金目の石にならないと捨てられたということを言っているんですが、
それはまさに神殿の主のような民の指導者たちからイエス様が捨てられて殺されるということを意味しています。
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拒絶されて殺される、この後もイエス様を殺そうとしたということが出てきますけれども。
その殺されたイエス様、しかし皆さんご存知のようにそこで神様の逆転が起こるわけですよね。
イエス様を復活して、そのイエス様を元に新しい神殿である、また違法人も加えられる神の教会、キリストの教会が建てられていく、神の宮として建てられていくということが始まるわけです。
ここで何が言えるか、それはイエス様の身に起こり、また捨てられたイエス様が祖跡になったように、
私たちにとって不利に見える出来事、災いに思えたり不都合に思える出来事も、神様の復活の逆転によって、
それが私たちの人生に生かされていく、そういうように信じることができる、そこが福音なんですね。
こんなことが起こらなければよかった、そういう思われること、しかし逆転の神様、この復活の神様の宮座によって、
そういうことは起こってはいけなかったかもしれませんけれども、しかしそのことを通してさえ、神の栄光が表される、そのように信じることができるわけなんです。
ここに福音があるわけです。これが復活信仰なんですね。
そのまさに祖跡である、希望の祖跡であるイエス様、私たちが信じて歩む、信頼して歩むということに、そのような意味や基いがあるということを覚えておきましょう。
最後に同じこの詩編の見言葉をもとにして、ペテロが書いた見言葉を読みましょう。
ペテロもイエス様を3度知らないと言って挫折しましたよね。
彼がこの見言葉を引用して、新しい神の民について語っている見言葉を見ていきたいと思います。
第一ペテロの2章の6節と9節です。
みよ、私はシオンに選ばれた石、尊い金銘石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。
あなた方は、それを聞いてこの見言葉を読んでいる神の民、法人も含めて神の民、あなた方は神に選ばれた種族、
王である祭祀、聖なる国民、神のものとされた民です。
それは、あなた方を闇の中からご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉をあなた方が告げ知らせるためです。
24:12
私たちの希望となられたイエス様を信頼して、またイエス様と共に居られることを信じて日々歩んでいくお互いでありましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。あなたは、あなたの民に介入してくださる神です。
そして、ついにイエス様を使わし、またイエス様を私たちの心の中に宿すことによって、ご精霊によって私たちと共に居てくださることを感謝いたします。
私たちの身の回りには様々なことが起こり、私たちの身にも様々なことが降りかかりますが、
それらを通してさえ、あなたがご栄光を表してくださることを信じて感謝いたします。
どうぞ、私たちが日々の生活の中で共に歩んでおられるイエス様に、目が開かれ、心開かれ、あなたの恵みに応答して歩んでいく、
そのようなお互いでありますように、そのような教会でありますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは、1分ほど御言葉に応えて、祈る時間を持ちましょう。
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