1. 名谷教会
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2016-08-14 39:47

2016/08/14:歴史から学ぶ信仰

2016/08/14 聖日礼拝

尹善鎬牧師

コリント人への手紙第一 10:1-13

00:01
皆さん、おはようございます。
今日も暑い中、よくいらっしゃいました。
では、レッスン中に入る前に、お隣の方々と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。とうとうお祈りをさせていただきます。
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
主よ、今日も朝から暑い一日ですけれども、
暑さに負けずに、主の御化を求めて、主の教会に集まっている愛する巨大姉妹たち、
一人一人を覚えて、主よ、あなたの恵みを豊かに注ぎて下さいますように。
神の御言葉を聞き、学ぶ、その中で私たちの霊の目が開かれて、正しく悟る、
そして、イエス様のように変えられていく、主よ、あなたの民として、
あなたの子供として、本当にふさわしく生きる生き方を、主よ、あなたが全う発展させることを信じます。
今からの御言葉に、主よ、耳を傾けます。どうぞ、主よ、お語り下さいますように。
イエス様の御名によって、お祈り致します。
アーメン
はい、今日はですね、第1古臨頭、10章ですけれども、ここから、歴史から学ぶ信仰。
もちろん、この歴史は、聖書の歴史であります。
特にですね、集約聖書は、歴史を知るっている聖書が多いんですね。
荘石とか、あるいは、スエジプト、ミンスクとか、他の歴史書もたくさんありますけれども、
その聖書の歴史は、最初に多くのことを教えています。
例えば、このようになりなさいという模範を教えていたり、
あるいは逆に、このようにしてはいけない、という今しめも教えていました。
ところが、最も大事なのは、その模範とか、あるいは今しめ、
そういったものを読んだり、聞いたり、話んだり、黙想したりして、
03:04
自分自身がイエス様のように変えられていくことが大事です。
いくら知識をたくさん持っていたとしても、
あるいは、聖書クイズ大会に行って、トップになったとしても、
イエス様のように変えられていく。
そして、私たちの内側におられる聖霊様が助けてくださって、
変わらせてくださることを信じて、期待して歩むことが信仰ではないでしょうか。
それが、いわば聖化なんですよね。清められることです。
今日開かれています第一コリント実章では、
シト・ファウルがコリント教会の神徒さん一人一人を覚えて、
彼らを教えるために、ファウル先生は旧約聖書の中で、
特に、あらまでのイスラエの民の様々な事件と言いましょうか、
歴史を並べて、そしてコリント教会の生徒たちに今しめているわけなんですね。
そしてそれを、なぜあの時にそれがあったのか。
それはこのためですよと、ファウル先生はこのように解釈していました。
それがまず、六説を一緒に読みたいと思います。
六説、ご一緒に。
三、これらのことが起こったのは、私たちへの今しめのためです。
それは、彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないためです。
それから十一説も一緒に読みましょうか。
これらのことが彼らに起こったのは、私たちへの今しめのためであり、
それが発生されたのは、世の終わりに。
ありがとうございます。
このようにですね、今から七説から並べてありますけれども、このようなことが起きた。
それはなぜ起こったのか。
それは、世の終わりに望んでいる私たち、つまり私たちだけですね。
小林道教会の生徒だけではなく、今日ここに集っている私たちへの教訓とするためである。
今しめであるということなんですね。
ですからこの朝、私も皆さんも心を低くして、
この朝、イエス様が神様が私たちに語ってくださる今しめとして、
あるいは教訓として、あるいは恵みとして受け止めていただきたいと願っております。
06:03
では、今日の御言葉は小林道教会の生徒。
そして、読んでいる私たちに何を今しめているのでしょうか。
まず第一は、七説を一緒に読みたいと思います。
三、あなた方は彼らの中のある人たちに倣って、偶像崇拝者となってはいけません。
宣書には、民が座っては飲み食いし、立っては踊ったと書いてあります。
さあ、これを知るために、出絵読むときに行きましょう。
出絵読むとき、三十二章。一説からです。
旧約ステート152ページです。
エジプト記三十二章。
さあ、このときは、
モーセが実界と立法を神様からいただくために、
シナイさんの頂上に登っているその四十日間の間でした。
そしてアロンとタミは、そのシナイさんのふもとにとどまっているときでした。
これを読みますね。タミは一説です。
タミはモーセが山から降りてくるのに手まぼっているのを見て、
アロンのもとに集まり、彼に言った。
さあ、私たちに先立っていく神を作ってください。
私たちはエジプトの地からすでに登ったあのモーセというものがどうなったのか、私たちにはわからないから。
それでアロンは彼らに言った。
あなた方の妻や息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持ってきなさい。
そこでタミは皆、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持ってきた。
彼がこれを彼らの手から受け取り、もみで肩を作り、芋のこぐひに言った。
彼らはイスラレルよ、これがあなたをエジプトの地から連れ登ったあなたの神だと言った。
そこで彼らは飲み食いをして、六説を見たら飲み食いをしてパームレタとなる。
イスラ神は、主導者モーセは神様に出会って、じっかりと大事な見言葉を誘っているうちに、
09:04
そのふもとで、あのエジプトにいるときに見たり触ったり触れたりしていた、
あの金の耳のぐうずを作って、そして拝んだり飲み食いしてパームレタにいたわけなんですね。
これをパオロ先生は引き出して、コリント教会の信徒たちに、
ぐうぞ崇拝者となってはいけませんよと語っているのは、
コリントという町にもギリシャとかローマの数多くのぐうぞがあったわけなんですね。
アポロとかリウスとか、さまざまなぐうぞが、もうその都市、国家自体がぐうぞ国家になっていたわけなんですね。
そのコリント教会の信徒たちは、クリシャになった後にも、
彼らは何らかの形でこのぐうぞ崇拝をやめていなかったわけなんですね。
荒野でのイスラエの詐欺と、コリント教会の信徒たちとの共通点は、
神様の子供になって新しく生まれたのにもかかわらず、
昔の七橋、漢宗を剥き切っていないということ。
未練があったんでしょうか。あるいは懐かしく思ったんでしょうか。
そういう人が多くあるから、それに影響を受けてしまったんでしょうか。
今日の私たちはもちろん、イスラエの詐欺とかコリント教会の人々のように、
金の孔子とかアポロとか、そういったぐうぞに拝んだりすることはないでしょう。
では、今日の私たち、神様を信じている私たちが、
気をつけなければならないぐうぞは、どういったものがあるでしょうか。
包括的に申し上げますと、神様よりもっと愛するもの、それがぐうぞという言葉であります。
一つ目は、時には私たちは、自分自身をあまりにもとても愛している。
神様を愛していることより、自分をもっと愛している。
だからといって、自分を大好きにしないでくださいという意味ではありません。
12:00
神様のことより、自分のことがもっと大事です。
いわゆる、自己愛ということなんですよね。
時にはこの自己愛というものが、ぐうぞにもなることがあるということです。
だから、今日の十二節、これはこの十一節までの御言葉全体に適用している言葉として、
倒れないように気をつけていただきたいことであります。
次は、何がぐうぞになり得るでしょうか。
それは、家族がぐうぞになり得るということです。
神様より家族が先である。
だからといって、また家族が大事ではないということではありません。
聖書は、実戒であなたの父と母を敬いなさいとはっきりと教えていますから。
ところが、私たちが忘れてはいけないことは、
神様がおられるから家族がある。
神様が祝福してくださったから、家族の祝福がある。
神様が守ってくだされば、家族の幸せもあるということであります。
ところが、時々、もしも私たちが、
家族のために信仰や教科や神様を犠牲させるのであれば、
そのときは少なことも、そのときは家族がぐうぞになっているということではないでしょうか。
次は、金や富がぐうぞになることがあるということ。
今日の一般的な価値観は、お金さえ持っていれば万能という時代になっています。
だから、生きる目的がお金や富であって、
それをこのためには何でもするという価値観が満喫している時代に、私たちは生きているのです。
こんな時代に私たちは、この余的な価値観に染められることがないために、倒れないために、
目を覚ましていて、影響を受けないようにして、気をつけていなければならない。
仕事をすること、働く目的、お金を稼ぐ目的、それはもちろん、家族を支え、食べていくためでしょう。
しかし、私たちの人生は、それ以上の最も価値ある神様からの責めがあるということです。
15:04
それを知って、そのために働く、そのために仕事をするという、
私たちの人生が富や金に縛られることがない聖書的な生き方になるということであります。
次は、伝統や何かの慣習、習わしが偶像になり得るということであります。
先ほど見ました、イスラエルの谷が、エジプトで430年間そこにいたわけですから、
もう長い間、そのエジプトの偶像に慣れてしまっていたわけです。
もう町にいたら、金の格子の様々なパロの偶像がたくさんあったわけです。
それを430年間ずっと見たり、聞いたり、触れたりしてきた。
だから彼らは、アロンと谷は、エジプトから出たにもかかわらず、市内産で金の格子を作ったというのは、
エジプトで見た金の格子の偶像の形を覚えていたわけです。
しかもそれを作れたということであります。
離れましたけれども、脱出しましたけれども、
彼らの考えの中には、意識の中には、そのエジプトでの偶像崇拝が、
もう考えに、頭の中に身についていたわけです。
知らずうちにそれが自分の中にあったわけです。
だから不思議に彼らは、あの市内産でその金の格子を作ってしまったわけです。
コリント教会の信徒たちも同じだったと思います。
イエス様は信じる前に、たぶんコリント教会の信徒たちはアポロとか様々な神殿に行って、
そこで拝んだり、飲んだり、食べたり、食べたりして、
そういった昔の習慣が、彼らの肌についていたわけです。
それを断ち切っていく。そしてそれが、いざとしたらそれが出てくるということであります。
18:09
アポロ先生はコリント教会の信徒たちに、偶像崇拝者となってはいけませんと言いましています。
皆さんはイエス様を信じる前のこの世的な習慣や習わし、伝統やそういったものが、
もしも身についてはいないでしょう。
もしも知らずうちに、この99.5%のノンクリシャンの偶像のこの国に生きているうちに、
私たちが見たり聞いたり触れたりしているうちに、
この非聖書的な神様に喜ばれない何かの懐中が、
もしも私たちの意識の中に、身体の中に、考えの中にそれがついているならば、
しかもそれを知らない、気づいていないならば、
神様によって私の目を開いてくださって、
もしもそういったものが私の中についているならば、
それを断ち切ることができますように、追い払うことができますように、
縛られることがないようにしよう、私を悟らせてください。
断ち切る信仰を与えて、強めを与えてくださいと祈るべきではない。
このように第一は偶像崇拝に対する今決めであって、
その次、八節を一緒に読みたいと思います。
八節を一つに三回、
また私たちは、
民宿記をちょっと開きましょうか。民宿記、25章、一節です。
278ページです。
私はこれにしますね。
イスラエルはシッティムにとどまっていたが、
民はモアブの娘たちと乱らなことをし始めた。
娘たちは自分たちの神々に一人を捧げるのに、民を招いたので、
21:06
民は即死、娘たちの神々を拝んだ。
こうしてイスラエルはバールベオルを慕うようになったので、
主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。
そして九節。
この神殿で死んだ者は2万4千人であった。
イスラエルはまだカナーに入っていないシッティムにとどまっていました。
そこはモアブのところでしたね。
そこでそのモアブ人の娘たちとも簡易の罪を犯してしまったわけです。
ところがそれはこの肉体の関係だけで終わるのではなく、
それは霊的な罪も犯されることでありました。
そのモアブの娘たちが拝んでいる神々に誘われる。
そしたら男性はもう弱いので、もうそれで負けてしまって、
即死、娘たちの神々を拝んでしまった。
肉体の罪だけではなく、霊的な罪も同時にここに行われてしまいました。
それをパオロ先生は敷き出して並べて、
簡易をすることがないようにしましょうと今示しています。
1世紀のギリシアとかローマは性的にとても堕落した国でした。
以前ギリシア、ローマ、聖地巡礼にいたときに
エペソに行ったことがありますけれども、
トルコのエペソにいたら、他のペルガモとかピラデルピアより
エペソはあの頃の建物の遺跡がかなり多く残っている方なんですけれども、
テレビとかにも出てくるエペソにいたら
あのと1世紀の巨大な図書館の建物が残っているんですよ。
観光でもよく行くところですが、そこにいて、
あのときに街道をしてきたトルコの選挙主先生に聞いたことがあります。
その巨大な図書館があって、狭い道路があって、
その道路を挟んで図書館の手前には
それほど大きな誘拐がそこにあって、
だからもうコリント、エペソ、あの1世紀のローマ、ギリシアはですね、
もう姿勢的に堕落して、下院の罪を普通に犯していた事態であります。
24:04
だからコリント教会に、特にこの下院婦人口のことを、
第1コリント、第2コリントにファウル先生は何回も繰り返して今示しているんですけれども、
皆さんこんにちは、いかがでしょうか。
私たちが生きているこの21世紀も、
特に神様からの祝福であるこの生が、
シャタンの仕業によって堕落、罪のものになっている時代であります。
30年40年前にはですね、もう想像もできなかったことが、
不数に不数に蔓延しているではないでしょうか。
戦場的なテレビやCMやそういったものでいっぱいである。
同性愛者、女装男子、そういったものは普通にテレビに見ている。
そしていつの間にかですね、それを楽しんでいる。
鈍感になっている。
こういうふうにこれが励くいきますと、
後からはですね、それが罪ではないというふうに思われる時代になり得るということではないでしょうか。
立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
私たちの考え、私たちの体は自分のものではなく、神様のものである。
精霊様が宿っておられる清い神殿であるということをいつも意識して、
私たちが見るもの、聞くもの、読むもの、接するものが清いものでなければならない。
この清めを守るためにはですね、自動的にできるわけではないんです。
もう必須で必須で戦わなければならない。
あるなら何とかして神の人を堕落させようとする、こんな時代に私たちは生きているからです。
宗教崇拝、それから簡易について読み始めた後、宗説でパオロ先生は何を読ませているのでしょうか。
宗説を一緒に読みましょうか。
今日の五輪答、十書、宗説、三輪答。
私たちは、
【観客】三輪答、三輪答。
アーメン。
三つ目は宗を試みることです。宗を試みること。
27:02
さあ、民数記に行きましょうか。民数記の二十一章。民数記二十一章の四節です。
九百ページの二百六十九ページです。
それでは私が読みます。四節。
彼らはホルサンからエドムの地を迂回してアシの海の道に旅立った。しかし神は途中で我慢できなくなり、神は神と孟子に逆らって行った。
なぜあなた方は私たちをエジプトから連れ登って、この荒野で死なせようとするのか。
パンもなく水もない。私たちはこの惨めな食物、これはマナですね、惨めな食物に飽き飽きした。
そこで人は神の中に燃える蛇を送られたので、蛇は神に噛みつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
その後ですね、精度の蛇を作ってそれを見る人は生きられましたけれども、
イスラエルの神はエジプトを脱出して進んで行く中で食べ物がなかった。
その時も呟いていましたね、孟子に神様に。
ああ、エジプトの時にはニラも食べて、シイカも食べて、ニンニクも食べて、お肉も食べてよかったのに、
何も食べ物がなくて、ここまで連れ登って死なせるつもりですか。
孟子に神様に呟いて。それを今日の一晩、パオロ先生は、
死を試みる、試みる、テストという意味ですね。
それはイスラ神がこう呟いたら、テストしたら神様はどうするのか、反応を見てみようという試みることであります。
これを今日の御言葉は、これぞの御言葉は、これを習ってはいけない罪と言っているわけですね。
特に皆さん私たちが、死とや死を試みることをしてはいけない。避けるべきであります。
もしですよ、もし、本当は実は自分の心はこうでないのに、
30:08
相手がどう反応するかを見てみるために、別の心を出す。
そしてその相手がいいか悪いかを判断してみようと言ってテストをする。心を見る。
というのは神様に喜ばれるものではないということであります。
なぜなら、それは人をつまずかせる。
イエス様はおっしゃいました。
人をつまずかせる者は、薄の息を首につけて海に投げ込んだほうがいいよと、
それほど保障法を使って人をつまずかせてはいけませんと、言いましめていますね。
皆さんもちろん私たちにこういうことはなかったでしょう。
実はそうではない。なのに本音と建前として。
それが時には美徳になることもあるかもしれませんが、
もしもそれが神様を信じるクリシャンとして、時にはそれが神様に喜ばれるものではない。
そしてそれが本音と建前が人をつまずかせることであれば、
神のかたしによって作られた神の人をつまずかせることであるから、
その人の中にある精霊様をつまずかせる精霊様神様を試みることでありますから、
私たちはやめなければならないということではないでしょうか。
皆さん、特にこの日本の世界は本音と建前でどれだけストレスを受けているのでしょうか。
学校とか会社とか社会。
どこか教会の中でも、もしも、そんな方はいらっしゃいないと思いますけれども、
もしもですね、信徒たちもお互いに一緒にやって交わりを持っていく中で素直でない。
二心を持っている。そんな心の姿勢で関係を持っているならば、それは兄弟を姉妹を試みる罪である。
しかしそれは神様を試みる罪になるということ。
私たちは知らなければならない。
神様が求められた心は素直な、素直な心であります。
その次に行きましょう。
四心にいることについて語った後、十説。大気孤輪と十の十説。
小泉さん。
また彼らの中のある人たちが。
33:05
さっきも見ましたように、民筋にですね、イスラヤ民がアラノを通ってカナーに入るまで、神様の大きな祝福もありましたね。
雲の柱、また雲の中にある火の柱を持って彼らを導いてくださった。
天れ行くとか様々な敵から守ってくださった。
食べ物がないときにはですね、マナが与えられて。
最初ですね、こんなに美味しいものは今はなかった。みんな喜んでいたのに厚焼きと言った。
肉が食べたい、神様はですね、うすらをぶるして。
毎日ですね、もう匂いがするほどうすらを食べていた。
でもまたつぶやいて、水がないつぶやいて、熱いつぶやいて、敵があるつぶやいて、つぶやきの連続の日々でした。
それをパウロ先生は、個人と教会の信徒たちに言いましめるために、
彼らの中のある人たちがつぶやいたのに倣って、つぶやいてはいけません。
彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
イスラエルの民はモーセに対して、そして同時に神様に対するつぶやきでした。
皆さん、モーセは神様がイスラエルのために、神様が与えられた指導者です。
そうしたならば、モーセに対するつぶやきは結局、誰に対するつぶやきになりますか?
神様に対するつぶやき、恨みになるわけないです。
その結果、私たちはよく言います。
あのつぶやいていたあの民は、あのあらので苦労ばっかりしていて、
結果的に祝福の時間内に入ることができなかった。
あらので、残念ながら、悲しいんだけれども、
その第一世代の中に、ただヨシワとカレブ、二人だけが祝福の地に入ることができた。
コリンド議会の手紙第1、第2を見たら、
コリンド教会の中にあらゆる形でヒトパールに対するつぶやきがありました。
それは外から入ってきた偽物によるヒトパールに対するつぶやきか、
パンの種のように広がっていたわけです。
ヒトパールはコショコショコショ。
それが一人が二人、二人が四人が四人に、広まって広まっていたわけです。
その時にコリンド教会の中に、つぶやいてはいけませんよ、それをおばめるがなくて、
36:04
ああそう、そうなんだ、そうなんだ、ああいいですよって、乗っかっていた筐体になっていたわけです。
それが教会の中に広まっていたわけです。
どんな形であろうが、神様に対して、そして神様の人に対するつぶやきとか恨みは、神様は喜ばれません。
つぶやきと恨みは、人に対して、その以前に自分の魂に毒をまき散らすことと同じなことであります。
せと一括を書きましょう。
新約聖書の約五の手紙、五章中節、四百五十ページです。
新約の四百五十ページ、五章中節、一緒に読みましょうね。
兄弟たち、互いにつぶやきあってはいけません。裁かれないためです。
みなさい、裁きの主が徳智のところに立っておられます。
御言葉もこの通りです。
どんな理由があけがあろうが、兄弟たち、互いにつぶやきあってはいけません。
裁かれないためですと今示しています。
もちろんですね、生きていく中で誰にもつぶやきたくなる時がありますよね。
夫に妻に、誰々に、両親に、友達にですね、そういう時がある。
ところが、そのつぶやきというそういう気持ちが、感情が、自分を縛ってしまうことがないように、
そのつぶやきがあるゆえに、自分の魂に感謝が感謝がもうなくなってしまうことがないために、
あとは目を覚ましていて、つぶやきをやめて、感謝をあらわさなければならない。
さあ、最後に今日の合意式講理の10章の11節、それから12節を一緒にお読み下さい。
11節と12節です。ご一緒に3回。
これらのことが彼らに起こったのは今示のためであり、
それが伺われたのは世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。
39:03
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
アーメン。
皆さん、今私たちが偶如不安をしていない、寒意をしていない、
心を見ぬことをしていない、つぶやきをしていないかもしれない。
ところが、私はこうしていませんよと立っていると思う者は、倒れないように気をつけて立って。
今日の御言葉を覚えて、これは自分への今示だと受け止めていただきまして、
清めの道を、聖霊様助けをいただいて、全うしていきたいと思います。
お祈りしましょう。
39:47

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