00:00
皆さん、おはようございます。
よくいらっしゃいました。
今日もメッセージに入る前に、隣の方々にアクセスしたり、挨拶しませんか。
よくいらっしゃいました。おはようございます。
それでは、一言お祈りいたします。
神様、主の神が死にあって、共に礼拝を捧げる、この幸いな恵みを感謝いたします。
イエス様だけが、私たちの救い主です。
あなただけが、私たちの命であり、道であり、真理であり、光であることを信じます。
今、静まって、主のお恵みを、お言葉を追い求め、
生まれ変わっている我ら、この一堂の上に、主をどうぞ、あなたの希望のメッセージを、聖霊のお言葉をお語り下さいますように、お願いをいたします。
そして、この街道から帰る際には、本当に希望に満ち、聖霊に満たされて帰ることができますように、主をどうぞ祝福してください。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
今日は、人の働き第四回目のメッセージであります。
私たちは、父なる神様を信じます。
私たちは、一人ごとなるイエス・キリストを信じます。
そして、私たちは、神の霊である聖霊様を信じます。
新世界の賛美の歌詞に、三つにいまして一人なるという歌詞がありますけれども、その通りであります。
今日の人の働き第二章は、いわば聖霊降臨の章と言われます。
聖霊に満たされた神の民が、どういう風に神様に用いられ、祝福されるのか。
その素晴らしい光景が、ここに記されているわけなんですよね。
ところが、今日取り次ぐ、この者も皆さんも、今日の御言葉をいただくときに、
03:02
最も大事なのは、秩序的に知るだけではなく、その上で、私たちみんな、聖霊に満たされるクリスチャンでありたい。
その願いを持って、渇きを持って、今日、聖霊様が語ってくださるその御声に耳を傾けていきたいと思うのであります。
今日は三つ、大きく三つ、この聖霊の御立ち、御存説の日の聖霊降臨のその意味が、一体私たちにどういう意味があるのか。
そのことについて、三つを申し上げたいと思います。
その前に、デスクトップに一部礼拝のパワーポイントがあるから。
その一、御存説の聖霊降臨は、約束の成就です。その約束は誰の約束でしょうか。
約束は神様の約束、家様の約束の成就です。
ですから皆さん、今日の一節に御存説の日になってとあるんですよね。
だから、聖霊様が集まっている人々に望まれたことが、この御存説という日になって望まれたということは、
偶然ではなく、神様の永遠なる計画によってそれがなされたということですよね。
つまり皆さん、神様は私たちを救うために、この人類を救うために見守って、
そしてこの宇宙半物を神の片手に回復するために、神様は永遠からのプランをお持ちになっているということなんですよね。
そしてそのプランを神様は、今日はこれをやってみようか、ちょっとダメだな、明日はあれをやってみよう、
そういうふうに、必要もなく、計画もなくで何かをやってしまうのではなく、
神様は計画を持っておられ、それを順を追って徐々に目的を実現していくこと。
それを、いわば全身的の救済と言うんですね。
いきなりに何かをやってしまうのではなくて、神様のプランがあって、徐々に順番を追って、神様の救いの目的を成し遂げていくわけなんですよね。
06:03
皆さん、家を最近、春になって新築の家があちこちあるんですよね。
家を建てるときに、最初から屋根を作る家はないんですよね。
まず、どこから作りますか。この土台から作るわけなんです。順番があるわけなんですよね。
一番最初から、壁に紙を張ったり、ガラスを入れたり、電気を入れたりするところ。
順番がある通りに、人間の営みにも人間のことにも順があるように、神様の偉大な救いの計画にも順番がある。
神様は、創業も人類の救いも、神様の計画があるということです。
ですから、家様をこの地上に送られたことも、精霊様を送られたことも、家様が再び遮りなさることも、全て神様の計画によってなされるということなんですよね。
正確に言いますと、ガラス屋の手紙に、時が満ちて、という言葉があります。
時が満ちて、家様が2000年前に、この地上に来られたわけなんですよね。
神の時があるということです。
ですから、神の時に、神なる家様がこの地上にお生まれになったことのように、神の時に精霊様がこの地上に来られた日、その日がご存説の日で、ペンテコスペの日であるということなんです。
ところが、これは既に旧約時代にその約束が語られたわけなんですよね。
これを聖書として書きたいと思います。旧約聖書の終わり頃に、ヨエル書という聖書があります。
ダニエル、オセア、その次がヨエル。ヨエル書、2章。
まず、17節から18節、それから29節を私がお読みしていますね。
旧約聖書の1494ページです。聖書のお持ちの方は開いていただいて、私が読みます。
ヨエル書、第2章、2節、すみません、17節から18節。
09:07
主に伝える妻子たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で泣いて言え。主よ、あなたの民を憐れんで下さい。
あなたの譲りの地を貴国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないで下さい。
国々の民の間に、彼らの神はどこにいるのかと言わせておいてよいのでしょうか。
主は御自分の地を妬むほど愛し、御自分の神を憐れまれた。
それから2章の29節。28節と29節を一緒に読みましょうか。
28節と29節を一緒に読みたいと思います。
その後、私は私の霊を全ての人に注ぐ。
あなた方の息子や娘は諭言師、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、私は下辺にも端辺にも私の霊を注ぐ。
このようにですね、イエス様がお生まれになる前、
いや、この5節の日の約600、700年前にですね、
既にですね、聖霊様を送ってくださる約束があった。
行けないのがあってですね、それが神の時になって、このセンテコステの日に聖霊様が来られたということなんです。
そしてこれは、900の予言書だけではなく、イエス様も約束なさったんですね。
そこそこ開きたいと思います。
ルカモー福音書24章49節です。
新約聖書のルカモー福音書24章49節。
新約聖書の171ページです。
この歌詞はですね、イエス様が天に引き上げられるその直前に弟子たちに残されたイエス様のお言葉なんですね。
それでは49節一緒に読みましょうか。
3、はい。
さあ、私は私の父の約束してくださったものをあなた方に贈ります。
あなた方は糸高きところから力を着せられるまでは居屋に留まっていなさい。
12:06
このようにですね、イエス様は父が神様が約束なさった聖霊を見給おう。天の力をあなた方が着せられるまで待っていなさい。
とですね、約束はなさって、そしてその日になってですね、聖霊が求まれたということです。
ですから皆さん、この今日のですね、この糸長書に記されているこのペンテコステの御殉節の日の聖霊降臨はですね、
神様の救いの計画によってなされたことでありますから、唯一にここに教えたことなんです。
つまり皆さん、私たちはですね、聖霊様によってですね、強く力をいただくことを信じます。
そしてそれが昔も起きて、今も起きて、これからも起きることを信じます。
ところがこの当時ですよ、糸の働きのこの当時、この御殉節の日の御殉節のこの聖霊降臨というこの事件は二度とは起こらないことなんです。
つまりそれはですね、家様の誕生は何回でしたか?一回でした。
家様が定日下で亡くなられたことは何回ありましたか?一回ありました。
家様が蘇られたことは何回ありましたか?二回でしたし、一回なんですよね。
家様が天に昇られたことは何回ありましたか?一回だけです。
家様が再臨なさることは何回あるでしょうか?一回だけです。
同じくその救いの全身的な計画、救いの中に、聖霊降臨の事件も一回だけのことなんです。
それは神の計画であるからです。
ところがですね、そう言われると、そしたら今日の力だらけのこの御殉節のこの出来事は、私たちと何の関係もないのではないかと思われたかもしれませんが、決してそうではありません。
なぜなら、すべてのクリーチャーは、イエスをキリストとして信じるすべてのクリーチャーは、聖霊に満たされなければならないからです。
聖霊の満たしを受けなければならないからです。
なぜなら皆さん、聖霊様は神の霊なんですよね。
そして私たちは霊の存在なんです。
ですから、神の霊である聖霊様とのこの一致の交わりをなくしては、クリーチャーとして歩むことができますか、できないでしょうか。
できないですね。
ところが皆さん、ただ聖霊を受けることと、聖霊に満たされることとはまた全く違います。
15:13
つまりですね、イエス様を作り主として信じるすべてのクリーチャーのうちには、聖霊様がおられます。
これは間違いありません。
おられます。
それは皆さん信じてください。疑う必要はありません。
自分はイエス様を信じています。
聖霊がおられるだろうか。
そんなことはないですね。
確かにイエスをキリストとして信じる人の内側には、聖霊様がおられる。
しかし、おられることと、逃がされて全く支配を受けることとは、
聖霊様は自分の内側におられるんですけれども、聖霊の全く支配を受けずにいられます。
そして聖霊様がおられるんだけれども、聖霊の能力を、聖霊の力を制限することもあります。
そして、聖霊様がおられるんだけれども、聖霊を悲しませることもあり得るということです。
いないわけではないんだけれども、聖霊様と一致になりきっていない信者があり得るということです。
なぜでしょうか。
聖霊の力を制限つけているからです。
聖霊の全く支配を受けていないからです。
また、この肉の聖が生きていて、聖霊様、ちょっと待っていてください。
ちょっと静かにしていてください。
私がやるから、あなたはもう黙っていてくださいと。
で、自分が生きるから、聖霊様を悲しませる。
いないわけではないんです。
しかし、聖霊様は悲しんでおられる。
制度にも書かれているんですよね。
ですから皆さん、聖霊の満たしを受けること、聖霊に満たされるということは、
聖霊の全く支配を受けること、100%聖霊によって納めていただくことなんです。
自分の思いも、自分の言葉も、自分の感情も、自分の行いも、自分の人格も、生活も、決断も、
すべてを聖霊に委ねて、全く支配を受けていること、それが聖霊の満たし。
だから皆さん、聖霊に満たされているから、聖霊様の支配を受けることができるんです。
聖霊の能力を、その力を受けることができるんですね。
満たされること、あふれること、いっぱいになることを皆さん、何かがいっぱいになっていることを皆さん経験したことはあるでしょうか。
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あるんですよね。いろいろな生活の場で、何かが香りとか、何かがいっぱいになっていることを経験したことはあるかと。
聖霊のその霊が、自分の人生すべての場にいっぱいになって、あふれていることです。
こういった意味でですね、すべてのクリスチャンは、聖霊の満たしを受けなければならない。
ところが、さっき少し申し上げたように、イエス・キリストを救いのちで信じて救われた人には、聖霊様がおられるわけです。
ところが、私たちが何かですね、悪事をしたり、ちょっと間違ったりしたら、聖霊様が、お前は嫌だって家を出る、そういうことはありません。
そしてですね、ちょっと聖霊に気にしたら、聖霊様がまた戻ってくるということも決してありません。
永遠に私たちと共におられ、私の内側に、その境界に、聖霊様はいつも共におられるわけなんです。
ところが、さっきも申し上げたように、聖霊の満たしを受けている信者とそうでない信者は、確かにその信仰の歩み方が違うということなんです。
ですから皆さん、私たちは本当に聖霊に満たされていなければならない。
ところが、大きい2番ですけれども、今日の御言葉に見ますと、4節の最初のところです。
私が読みますね。すると、「皆が聖霊に満たされ。」とあります。
先生の言葉に、1挙の14節の後半に、こういう言葉がありました。
「皆心を合わせ祈りに専念していた。」とありましたね。
皆心を合わせて祈りに専念していたときに、皆聖霊に満たされたことは、これは本当に深い意味があるということではないでしょうか。
この皆という言葉に注目していただきたいと思うんですね。
ここに集まっていた約120人の人数の中に、1人か2人、ペテロか、あるいは誰か、マリアさんとかだけが、聖霊の満たしを受けたわけではない。
21:00
ここに集まっていた皆が聖霊に満たされました。
だからこのシンヤスの教会、エルサレム教会には、本当に全ての人々が救われる奇跡が、
イエス・キリストに従う奇跡が、癒される奇跡が、回復される奇跡が起きたわけなんです。
その力は、神と一人一人が皆聖霊に満たされていたからです。
一人も外れている人がないんです。
皆も聖霊降臨に当たりましたね。
外れではないんです。当たりなんです。
このように聖霊様は、救いの霊であり、生かす霊であり、命の霊であり、光の霊であります。
ところが先週の、さきほど読みました14節の、皆心を合わせ祈りに専念していたという言葉。
そして彼らが心を合わせて、祈りに専念していました。
屋上の間に集まっていました。120人くらいの人々が集まっていたわけなんです。
ところがちょっと想像してみましょう。
彼らが屋上の間に集まって、祈りに専念していたとありましたね。
そしたら彼らが120人の人が、食事もしないで、トイレにも行かないで、絶対に動かないで、
何もせずにずっと祈りばかりっていたんでしょうか。仕事ないと思います。
祈りもして、見言葉も語り、見言葉も教えていただいて、そしてトイレにも行ったり、あるいはお家に何かあったら帰ってきた人もあるかもしれません。
ここに専念したいということは、他の何よりそれを優先にして、それを一番最も大事にして、それをやり抜けたという意味なんですよね。
ところが皆さん、今日の2章の2節をよく注意深く読みますと、
すると突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
ここに、この神社学聖書は、彼らのいた家とありますが、他の聖書には、彼らの座っている家とも訳されているんですね。
つまりそう見ますと、彼らは座っていたということは、イザヤ人は伝統的に祈るときは、私のように立って祈っていたんですね。
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それが普通の祈りの思想です。だからこのときに、彼らがもし祈っていたならば、立っていた家と書かれていたかもしれません。
しかし、彼らの座っていた家と訳されているのは、彼らが座って御言葉をいただいているその場面だと、そう思われることもあります。
つまり、もう簡単に言いますと、彼らはそこで礼拝をしていたんですね。
死を礼拝をしているときに、死を賛美して、祈って、御言葉を語って、教わっているときに、聖霊様が望まれたということなんです。
この御存説のこの意見は、礼拝のときに起こったということなんです。
礼拝を捧げている死のために、神の礼が望まれたということなんですよね。
ですから皆さん、この御存説の聖霊降臨はですね、礼拝をしている神道の上に、礼拝をしている教会の上に望まれた事件であります。
突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こりました。
そして炎のような明かれた舌が現れました。
その事が起きたのです。
いつこんな事が起きるか、彼らは知りませんでしたけれども、
集まって、祈って、賛美して、御言葉を学んで、そして約束を待っていたときに、死のときに、聖霊が望まれたということです。
ですから皆さん、彼らがですね、120人が、礼拝の場を守り続けていたことが、何より大事なことなんです。
礼拝を守っていく。死を礼拝するその場を守っていた。
イギリスにですね、ロイド・ロンズという有名な先生がいますけれども、その先生はこういう話をしました。
もし私たちが、ある日曜日の礼拝を一回徹底したとしましょう。
ところが、その礼拝に、自分が徹底したその礼拝に、神様からの今までもなかった素晴らしい恵みが起こり、そして聖霊の力が注がれたとしましょう。
しかし、自分がその日に、その礼拝に徹底したら、どうなるでしょうか。
というメッセージを言ってですね、そして、礼拝の場を、死の礼拝を守りましょうというメッセージを語りました。
皆さん、本当にそうなんです。
この大人だらけ、この時代に、神と皆さんはですね、礼拝を守ることを、命を懸けて守っていたんですね。
27:06
捕まえられたら、処刑されるわけなんですね。子どもも大人も処刑されるわけなんです。
よく映画で見られるようにですね、あのコロステウムでですね、猛獣の餌食にされることも、も、複数にありました。
また、昔の記録を見たらですね、ネイロとか、本当に凶悪なローマ皇帝の時代のですね、もうやかにもですね、
そのコロステウムでいろんな競技をして楽しんでいたわけですよね。
でも、火をつけるためには、松明をつけるためには、油が必要なんですよね。
ところが、油はそんなにですね、安いものでないから、油を作るためにどうしたのか、皆さん知っていますか。
あの時のクリーチャーを捕まってですね、どこすら無しですけれども、人間の皮を剥くんですね、全部。
そして、それを絞って油を作って、それで松明を照らしてですね、
彼らのローマ市民がですね、あのコロステウムでこの競技を楽しんでいたわけです。
にもかかわらず、彼らは礼拝をしなければならないから、礼拝を守るのではなく、
死を愛せるから喜んで、礼拝の場を守った。
そして喜びに満たされて、死をしたい求めるその群れの上に、聖霊様が来た。
先週の月曜日にですね、三文屋にあるキリショに行ってきました。
水曜日に学んでいるヨガネのクリーチャーの本をですね、買いに行って、
そして帰ると思ったら、そろそろお昼の時間になったからですね、
あるどんかつ屋さんに行ってですね、一人で食べていたわけなんですけれども、
あの食堂の店員さんはちょっと面白かったですね。
とても元気よくて明るかったんですけど、お客さんからですね、
すみません、キャベツおかわりください。
そしたらその店員さんがですね、喜んでと言うんですね。
そして他の店員さんが何かをですね、もうなんとなく言うんですけど、
そしたら喜んでと言ってですね、味噌汁ください。喜んで。
お冷やをください。喜んでと言うんですね。
それでですね、もう30分食べていてですね、もう何回もですね、喜んで喜んで喜んで喜んで、
それを聞いてですね、帰りの際にちょっと思いつきました。
あの食堂の店員さんさえも、お客さんに、他の店員さんに頼まれて喜んで喜んでそれをしている。
30:10
ところが自分は、神様にあるいは人に何か頼まれたときに、
その礼拝のために、あるいはその奉仕のために、本当に喜んで喜んでとしているんだろうかと思わされました。
皆さん、この人らだらけのこの120人はですね、喜んで喜んで参拝して喜んで集まっていた。
そのときに、その群れの上に精霊降臨が起きたわけです。
それを心に留めようではありません。
3つ目、精霊に満たされた人は、精霊の実を結ぶというわけです。
皆さん、精霊十万、精霊の満たしは理論でもなく、教理でもなく、
精霊の満たしは人格であって、精霊十万は生活であって、精霊十万は実であって、
そして精霊に満たされた真相を、等で精霊の実を結ぶわけなんです。
例えば皆さん、今日は女性の方で、どの製品の香水を使って教会に来ましたか。
例えばですよ、シャネルナンバー5の香水を使ったとしましょう。
その人が歩くところにいるところに、その香水の香りがするわけなんです。
今日の二次の恋愛のセッティングのために、今井会館に二次ごろに行ったら、一階に何かお母さんたちの打ち合わせがあったんですね。
だからドアをちょっと開けてみたら、ふわっとたくさんの香水の香りがふわっといて、ちょっとびっくりしましたけれども。
そうなんです。精霊に満たされていると精霊の人格が出ますし、精霊に満たされていますと精霊の愛が出てくる。
精霊の実が結ばれるということではないでしょうか。精霊書をちょっと開きたいと思いますね。
ガラテア時代の手紙、第5章、22節、23節です。新約聖書の371ページです。
それでは一読みを見たいと思います。
ガラテア時代の手紙、第5章、22節、23節、3回。
「しかし御様の実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、乳は犠牲です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
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ここに九つの精霊の実がありますけれども、それを一々説明するのではなく、これをよく皆さん目として考えてみますと、
この精霊の実はバラバラのものではなくて、これは一つなんですよね。
それが一つであって、それを絞って一言で言うならば、それは命と言えるのではないでしょうか。
精霊の実は命なんです。
なぜなら、神の霊は命であって、イエス・キリストは命であって、叱りであるから、神の霊である御様様、精霊様も命の霊であります。
それでですね、ちょっと精緒に書き立ってみましょうか。
新約聖書の「ゆがねの福音一卿」、一卿四節。一卿四節、一緒に見たいと思います。
三拝、この方に命があった。この命は人の光であった。この方はイエス様です。イエス様は命であります。
だから精霊様は三名いたいですから、精霊様も命ではないでしょう。
皆さんこのように、精霊様は命の霊なんです。
ですから精霊の満たしは命の満たしなんですよね。
だから皆さん、精霊に満たされている神徒からはですね、その人から命が出るんです。
死が出るのではなく、闇が出るのではなく、命が出るんですね。命が出てきて人を生かすんですね。
だから精霊に満たされた神徒の口からは人を生かす言葉が出てきて、精霊に満たされた神徒の手は人を生かす善が出てきて、
精霊に満たされた神徒の人格からは人を生かす命の人格が出てくるんです。
何より精霊に満たされた神徒のその人からはですね、人を生かす救いの福音が出てくるでしょう。
もうシンプルです。簡単です。
自分が精霊に満たされているかどうかはですね、自分が人を生かす人かどうか、それを見ればわかります。
自分の言葉が、自分の行いが、自分の人格が、自分の生活が見えるところ、見えないところで、
果たして人を生かしているんだろうか、人を殺しているんだろうか、それを見れば精霊の人なのかわかるわけなんですよね。
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ところが皆さん、一般的に健康な元気な人はですね、食欲が結構あるんですよね。
今、うちの長男の子供がですね、体はちょっと細いんですけれども、結構食欲があるんですよね。
もちろん二番目のひきまちゃんも同じように、結構食欲があるんです。
それは元気であるという証拠なんですよね。
元気な人は食欲があるんです。
しかし、あまり元気な人は食欲がないんですね。あまり食べないんですよ。シャワーの半分くらいしか食べない。食欲がない。
皆さん、霊的にも同じだと思いませんか。
霊的に健康な人、霊的に健全な人はですね、渇きがあって、何かに対するこの欲することがわかる。
つまり、精霊の満たしを受けたいという、それは食欲じゃなくて何と言いましょうか、霊欲と言いましょうか。
この霊的な凡欲があるんですよね。
精霊の満たしを受けたい。祈りたい。礼拝を捧げたい。恵みを受けたい。御言葉を学びたい。その欲があるんですよ。健全な欲があるんです。
だからですね、霊的に健康な信者はですね、元気な信者はですね、朝教会に行って恵まれてもですね、またですね、渇いてですね、また恵みを追い求めるんです。
いつもその霊的な欲が旺盛なんですよね。そしてですね、いつもこのように祈るんです。求めるんです。
神様、あたしにはあなたの精霊の満たしが必要です。
神様、あたしにはあなたの恵みが必要です。あたしは上渇いています。神様、満たしてくださいと追い求めるのではないでしょう。
先週、ある一人の先生にお会いしていろいろと話をいただきました。
その先生を会うたびにですね、私はいつも感じるのは、この先生は本当に精霊に満たされていて、いつも人を生かす、慰め抜きのように慰める先生だなと、
私はいつもですね、それを感じてですね、自分の魂がですね、生かされて慰められるんですね。
いろいろ話を聞いて、本当に励まされました。慰められました。
そしてですね、本当に自分の霊がちょっとひょんぼりしていたんですけれども、精霊様を通して、精霊様がこの先生を通してですね、私の魂を生かしてくださったんですね。
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そしてですね、帰りに来る中でこう思いました。
ああ、僕も人を生かす、魂を生かす、精霊に満たす、嫌にならなければならないと、そういうように思ったわけなんですよね。
皆さんはいかがでしょうか。
皆さんは、人を生かし、人を慰め、勇気を与え、希望を与え、そのような生かす霊に満ちている精霊のクリスチャンでした。
そのために、追い求みよではありませんか。
私も精霊に満たされて、精霊様が語られるように、精霊に満たされて精霊様が慰められるように、精霊に満たされて精霊様が人を救うようにしよう。
私もあなたの霊で満たしてくださいと、追い求みよではありませんか。
皆さん、精霊の満たしは、実際であって、人格であって、喜びであって、命であって、救いであります。
巨大教会の人たちは皆、皆、精霊に満たされました。
この皆に、私たちも皆、そこに入りたいんですね。
彼らが礼拝をしているときに、賛美をしているときに、祈っているときに、彼らは精霊に満たされました。
精霊の満たしを追い求め、期待を求める者には、賜が与えてくださると、ルカモンフィニションに約束されているんですね。
どうか皆さん、精霊の満たしを追い求めでありませんか。
精霊に全く被害を受けて、神の心にかなった、本当に幸せな進行の道を歩もうではありませんか。
最後に、こういう話をして、メッセージを終えたいと思いますが、
時々テレビのニュースを見たら、飛行場で鳥が飛んで、飛行機とぶつかるという事故が起きたりするんですよね。
ところが、飛行機は低空飛行をするときには、ぶつかったり、フローティアルのエンジンのところに鳥が入ったりするんですけれども、
1万、2万キロ航空飛行をしているときには、鳥とぶつかることは、そんなことはありません。
つまり、私たちが本当に精霊に満たされていなくて、浅い精霊の満たしを受けて、この世で生きていると、鳥にぶつかる。
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カラスにぶつかって、宿命にぶつかるような、いろんな煩わしいことが起こるでしょう。
しかし、精霊に満たされていると、低空じゃなくて、高空で飛んでいるわけですから、
鳥にぶつかることなんて一切ないんです。
だから、本当にスムーズに飛行ができるように、精霊に満たされている信者は、
いつも喜んで、そして全てのことを乗り越えて歩むことができるんですね。
精霊に満たされれば、魂を生かす人になります。
精霊に満たされれば、罪を打ちかす人になります。
精霊に満たされれば、全ての呪いを鎖から自由にされます。
精霊に満たされれば、神の仕事を自分にもできる人になります。
精霊に満たされれば、人々を救う人になります。
何より、精霊に満たされれば、神の栄光を見る人になり、
自分が変えられ、夫婦が変えられ、家族が変えられ、そして教会が変えられる、
この国が変えられる、その出発点は、精霊の満たしになります。
ですから皆さん、精霊に満たされた人が幸いな人です。
どうか皆さん、精霊の満たしを受けることは、選択肢ではありません。
神の見所であります。
どうか皆さん、皆、精霊に満たされたこの御言葉のように、
私たちもお湯求めてですね、死をあなたの霊で満たして、
全く支配を我らにしよう、お与えくださいと、祈りに求めるがありませんか。
お祈りいたします。