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2025-08-31 40:28

「聖霊様、神様の大きなプレゼント」2025年8月31日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年8月31日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)使徒言行録8:1-8 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。8 町の人々は大変喜んだ。

 

 メッセージ題 : 聖霊様、神様の大きなプレゼント (使徒8:1-8)
*使徒言行録は、イエス様の公生涯、十字架と復活以来、キリスト者の間に何が起きたのか?教会はどのように発展していたのか?今の教会が何をモデルとして働くべきなのか?従って、今も使徒言行録29章は続くと・・・*大事なのは、そのすべては彼らが計画を立てて行ったことではない。では教会は何をすればいいでしょう。祈って聖霊様に従うこと。その人がステファノとフィリポ

1.まず、使徒8章の内容・・・
*サウロによる迫害、使徒8:3どれほど酷かったのか!キリスト者はエルサレムから避難するしか。ところが4節、彼らは不平不満しないで福音を伝えながら避難したと。5節にフィリポはサマリアに
*サマリアはユダヤ人であるなら絶対行かない地域!歴史的な理由によって、差別!しかし・・・福音はすべての壁を乗り越える!そこで福音を伝えたら、7-8節、大きな御業によって、喜びが!
*ここで、福音を伝えるとき、なぜ、聖霊の働きが必要なのか?能力伝道、能力癒し、効果的な伝道は聖霊で。その地域で働いていた魔術師シモン!驚いて、お金で買うようにして下さい?#ペトロは、魔術師シモンを叱りながら・・・ 聖霊様は、神様からの大きなプレゼントであると!

2.なぜ、聖霊様は神様のプレゼントであるのか?
*聖霊は神様!この世の何によっても買えないお方、得られる方法はただ、神様の恵みだけで! #この聖霊様の大事な働きは? 1)Ⅰコリント2:10,11聖霊様がいなければ神様に対して知ることも、用いられることもできない! 
*啓示の3段階! 
>啓示の第1段階)神様は人類の歴史の中である事件を行われる。それがどんな意味があるのか?
>啓示の第2段階)その働きと解釈を聖書の記録で教えて下さる。例)ノアの洪水?出エジフト事件?イエス様のお生まれ?十字架と復活の事件?その事件がなぜ行われたのか、聖書を通して神様の御旨を。しかし私とどんな関係?
>啓示の第3段階)聖霊の照らしによって、その事件が私を救う為であることを悟らせる。
ここで、第3段階の聖霊の啓示がなければ?なぜパリサイ派の人は、イエス様を知らなかったか
#私たちの信仰は、ただ聖霊によって!救いも、ローマ10:9,使役も、ヨハネ5:19,聖化も、Ⅱコリント3:18、礼拝も、ピリッポ3:3 聖霊によって真の信仰が。*イエス様も聖霊で、ヨハネ7:15,3:34

3.では、神様はどんな人に聖霊様をプレゼントとして与えて下さるのか?
1)使徒2:38 悔い改めて聖くなった心に! 
2)マタイ5:3-10 山上の垂訓の心を持つ人に!
3)1)+2)の上、ルカ11:13 切に求める人に! 
→最近、恵まれている御言葉?マタイ12:20
傷ついた葦は誰か?くすぶる灯心は誰か?イエス様について行くなら希望が。また、マルコ12:10捨てられた石はイエス様ですが・・・私たちも同じ立場!サマリアのようなところ!人々は見捨てるが、神様は決して! *神様のご関心はどこにあるのか?この世で駄目になった人、低い人、卑しい人、可哀そうな人に。@聖霊様、何にもない貧しい教会、サマリアのような日本に来てください

サマリー

このエピソードでは、聖霊がもたらす神様の賜物について語られており、使徒行伝の背景やキリスト教徒の信仰の発展が取り上げられています。また、ピリポがサマリアで行った伝道とその結果について詳しく説明されています。聖霊様の役割と神様からの大きなプレゼントとしての意義が話されており、シモンの驚きやペテロの警告を通じて、聖霊がどのように人々を導き、神様との関係を深めるかが探究されています。精霊様の重要性とその贈り物についても語られており、特に悔い改めた人々に与えられる精霊の働きや、信仰の道を歩む中での希望について考察されています。また、聖霊様が貧しい心を求める教会や日本に訪れ、希望と救いをもたらす重要性についても取り上げられています。

聖霊と信約の教会
今日は、聖霊様、神様の大きな賜物という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
使徒原稿録、また使徒行伝は、イエス様の後生涯、またイエス様の忠実化と復活の後、
イエス様を信じるキリスト者たちに何が起こったのか。
また、どのように信約の教会が生まれ、発展していったのか。
また、現在、私たちが住んでいる今の時代、教会が何を目指して、何をロールモデルとして働かなきゃいけないのかが、使徒行伝で明らかになっています。
ですから、ある先生はこう言います。
今は使徒行伝29章だという。使徒行伝はもともと28章しかないんですけど、使徒行伝28章の最後が曖昧に終わるんですよ。
パウルがローマで何とか家を鎮退して、そこから教えたということで終わってしまう。
この後どうなったんですかという。この後が今の私たちだということで、
使徒行伝29章だという話をする先生もいらっしゃいます。
大事なのは、使徒行伝は使徒たちが計画を立てて、これからここに行こう、このようにしようと言って、
自分たちが計画を立ててやったことではない。
彼らたちがただやったのは、精霊の指示に従って動いただけなんです。
それをやったのに、小アジアの地域、ヨーロッパの地域に伝導ができた、世界選挙が行われた。
ですから自分が計画を立ててやったことではありません。精霊の導きに従っただけなんです。
ここで教会で一番大事なことは何なのか。これは祈ることです。
祈って、精霊の導きを感じて従う。これだけです。祈って従う。祈って従う。
祈って従えば、神様が私たちがどうするべきなのかを教えてください。
私たちがこれから3年後、5年後、教会はどうする、何か今の難民、これが1年後難民になる、
こんなことは自分の頭で言って、これは全くチンポン主義に過ぎません。
サウルと迫害
精霊様をこれからどうなさるかは私たちは分かりません。
祈って見て、導きに従ってみなければ分からないものです。
この働きをうまくやった人はどなたなのか。もちろん、使徒たちなんですけど、
この中で先週は七次を選ばれた。七次の中でステパノがよく従った。
今日はピリポ七次。ピリポ七次がどのように精霊様に従っていて、
精霊様がピリポ七次を通して何を行ったのか、これを一緒に考えていきたいと思います。
これから私たちなんです。私たちが精霊様の指示に従って、これから何をするか、
これは楽しみではありませんか。これからものすごい私たちにも希望があります。
まず、使徒行伝28章の内容を分かってみましょう。
ステパノが殉教されたんですけど、ステパノが殺されることを主導者が言いました。
それがサウル、後にパウルと言われるサウルです。
サウルの迫害によって、とりほど難しかったのか。
使徒行伝8章3節。サウルは家から家へと押し入って教会を荒らし。
家から家に家庭教会がエルサレムにはたくさんあったということ。家から家、家から家。
エルサレム地域に家庭教会がたくさんあったのに、家に家にたじねって言って、それで教会を全部潰したということ。
壇上問わず引き出して牢に送りっこ。もう捕まえたら牢に入れたり、後を見てみますと、それを処刑したりしたんです。
いや、サウルという人は自分が正しい。他の人は全部間違えてある。
自分の正しさがどれほど強かったのか。他の人は全部迫害。あなたはダメだ。あなたは間違えているから、もうあなたは牢に入らなきゃいけない。
まだあなたは殺されなきゃいけないと思うほど、自分に対してはものすごい強い、この正しいと思われる心を持っていた。
そのようなサウルに出会った人は怖くて、逃げるしかなかった。
皆さん、エルサレムに住んでいて、エルサレムだったら今、日本だったら東京でしょ。
東京で安定的な生活をしていた人たちが、サウルにおって、それで散っていかなきゃいけない。
例えば、家を持って行きますか。財産を持って行きますか。自分は持って行けるのは、ただ簡単なものしかなかったと思います。
それでもうみんな散らばっていくなら、その時考えたでしょう。
イエス・キリストを信じることは、私の財産を諦めるほど大事なものなのか。
それである人たちは信仰を辞めた人がいるかもしれません。しかし彼らは信仰を諦めないで、それで散らばっていった。
しかし、ただ逃げていくだけじゃなくて、四節を見ますと、福音を付け知らせながら巡り歩いたと言います。
彼らは、イエス様によって私はこんなに迫害を受けるんだ、嫌だ嫌だ、不平不満をすることではなかったということです。
むしろ、散らばっていきながら転倒したということです。
ここに神様の計画があったんです。
ピリポのサマリア伝道
シドギョーダに一瞬発説、精霊があなたたちを望むなら力を受ける。
そして、イエルサレムだけではなく、ユダ、サマリア、そして地の果てにまで私の証人になると言われた、その見言葉が今実現されているんです。
神様は、この迫害を通して神様の身技を今展開しているところなんです。
ここでピリポが、サマリアに行った。
サマリアに行ったということは、今考えたらどこと同じかと言いますと、北朝鮮に行ったということとほぼ同じではないかと思います。
なぜなら、ユダイ人たちはサマリアに行きません。
今日の教会学もこのメッセージをくださったんですけど、サマリア人という言葉は何か意味がよく悪い言葉なんです。
なぜなら、ソロモンの後に国が二つに分けられるときに、北イスラエルで十部族が加担しました。
南ユダというところにはユダ部族、ペナミン部族だけ。
ペナミンは人数が少ないので、ほぼユダ部族が下にいたと言う。
しかし、北イスラエルはアシリアに滅ぼされました。
アシリアに滅ぼされたんですけど、アシリアはこのあんまり良くない国。
イスラエル人たちは奴隷として売られてしまって、イスラエル人が住んでいたこの地域、サマリア地域には違法の人たちをそこに入れて、
残っている人と違法人を何とか根欠のような地域になってしまった。
根欠地がそこから生まれ始めた。
だからイスラエル人たちにはそれがものすごい嫌だった。
南ユダはバベロンに滅びましたが、バベロンからはそのままエルサレムに帰還されていたので、
南ユダの正当性、純粋さは守られた。
だから自分の力ではないんですけど、守られた人と守られなかった人との間に、イスラエル人の間に差別、紛争があった。
ですから南ユダの人はサマリア人、北イスラの人たちを同じ民族を取り扱わない、汚い奴たちと思ったので、
その地域にはユダヤ人はいてはいけない。
だからサマリア人も私たちを差別したということで、ものすごい民族感情が悪くなっているところだったんです。
ユダヤ人は絶対に行かないサマリアに、誰が行ったんですか。
ヨワネ4章に見ますとイエス様が行かれてサマリア女に伝導され、サマリア町に行って伝導されたことがありました。
その地域に今ピリポがいたんです。
行ってはいけないところにいたんです。
本当に福音は全ての壁を乗り越えます。
全ての差別、人間的な壁を乗り越えて伝われていきます。
じゃあユダヤ人が絶対に行かないサマリアにピリポが福音を持って行ったら何が起こったのか。
意外にサマリア人の心には純粋さがあって福音をよく受け入れたということです。
ですから7節8節に見ますと、汚れた霊に取り憑かれた多くの人たちは、その霊が、その悪霊が大声で叫びながら出て行き、
多くの中部の患者や足の不自由な人たちが癒されたということです。
ですから町の人々は大変喜んだということです。
多くの中部の人、中部の人ということは麻痺の状態です。
また足が不自由な人たち、皆さんこのような状況をよく考えてみますと本当に難しい状況だとわかります。
また悪霊に取り憑かれた、そのような人たちがみんな癒された。
だからサマリア地域に喜びが満ちあおれた。
当時だけなのか、今はもともとひどいです。
21世紀は宇宙の時代だと言うんですけど、宇宙ということは本当に本当に難しいことで、
ほぼほとんどこの心配症とか何とか不安とか、この世でよく見てますと、
悪霊を臆病の霊と言います。臆病させて支配する霊。
だからもうほぼこの部分を見てますと、悪霊の働きではないかと言われるこの部分があるんですね。
また体がいろいろな麻痺の状態で苦しむ人たち。
これ、今になってよくこれが理解できますけど、
その人たちがピリッポが伝えるイエス・キリストの福音を受け入れて、癒されて、それで喜びが満ちあおれた。
それから見てますと、イエロサレムには迫害が満ちあおれるんですけど、サマリアには喜びが満ちあおれる。
福音が吐いたところ、また福音が追い出されるところ、それがよく見えてくるところではないかと思います。
ここで私たちは福音を伝えるのに癒しの働き、悪霊が追い出される働きが、これが効果的な転動ができるんだなと思います。
皆さん、癒しが伴われる。自分のいろいろ悪霊に取りつながり、悪霊が出てしまう。
そうするなら、人々の心がイエス様に向かうようになります。
だからこの働きが非常に大事ですけど、これを能力伝導、能力癒して、精霊の力によって病気が癒されることを見て、びっくりしてイエス様を受け入れる。
そのような働き、これが事実、ピリッポによってサマリア地域に行われたということです。
ピリッポの転動によって、サマリアの地域がもう福音で燃え出ていますと報告が、イエルサルメ教会に行きました。
私たちが絶対行ってはいけない。サマリア地域に福音がいた。
そこでピリッポがそこに行って転動した。そこで大きな神の御業が行われた。
行ってみてください、行ってみて。そしてペテロとヨアネがその地域に派遣されていきます。
行ってみたらもう素晴らしいことがあって、だから喜んで喜んで向こうに行って人々に手を置いて祈った。
ピリッポが手を置いて祈ったときには精霊が下ったということはないんですけど、ペテロが、ヨアネが手を置いて祈ったら、精霊様がもう下ってきた。
まるでペンテコステのイエルサレムのように、サマリア地域に精霊の働きが明らかにみんなのところで働き始めた。素晴らしい美話じゃん。
だからイエルサレムで来られたリバイバルが、サマリアにもリバイバルが来た。
で、使徒行伝1章8節通り、精霊が下ったら力を受ける。そしてイエルサレムだけではなく、ユダヤ、今そこではなぜ伝道されていないのか。
精霊様の贈り物
それが最後に伝道される地域。これすごい意味があります。サマリア地の果てにまで今伝道が続いているでしょ。
これは全部精霊様の働きによる素晴らしいことだ。本当に大事です。
それを見て、その地域にもともと魔術を行いながら偉大な人だと言われていたシモンが、精霊の働きを見て驚いてしまって、
魔術よりはるかに素晴らしい精霊様によって、彼はそこで洗礼を受けて、使徒たちについていくものになった。
それで素晴らしいぞ。こんなこともあるの、こんなこともあるの。
だからシモンが、お金出しますから、私も精霊によって何かできるようにしてくださいと言った。
そうした時に、ペテロが有名な話をする。
あなたが精霊の浜、神様の大きな賜物である精霊様をお金で買おうとするから、あなたは滅ぼされる。
ああ、こんなことがないようにしてくださいと言うんですけど。
ここで私たちがくださったことが、精霊様は神様の大きなプレゼントだということです。
では、なぜ精霊様をプレゼントしてくださるのでしょう。
精霊様は神様です。
皆さん、神様をお金で買いますか。
人間的な努力、人間的な何か報酬を払ってから精霊様は来られますか。
こんなことは一切ありません。
精霊様はどなたが送ってくださるのか。精霊様は神様が送ってくださる。
だから、神様が私たちからお金をもらって精霊様を送ってくださる。
ありえない、ありえないことです。
だから精霊様は、世の中で何によっても買うことができない素晴らしいお方だから、神様から恵みとして与えられる。
プレゼントとして与えられます。
だったらここで、どなたにプレゼントをくださるんですかということは大事なんですけど、精霊様じゃなければいけないことがあります。
精霊様じゃなければ神様に対して誰も知ることができない。
なぜなら、霊力の部分を精霊の解釈なしで知る人もいないし悟ることもできない。
また、霊力の神の御業は精霊の助けがなければ絶対できません。
だから神を知ることも神の働きも精霊様がいなければできない。
聖書の解釈
神様、精霊様は精霊という名前も知らなくても神を全部勉強して知っているし、またいくらでも伝導できるんじゃないか。
これが問題があるんです。
じゃあ、精霊様は神様の神様にも決まります。
人の心のことは自分の霊しかわからないように神様の深い心にあるものは神の霊しか知らない。
だから私たちが神の身分を知らせてください、精霊様が知らせてくださらなければできない。
これが精霊様の大事さ。
もう一つが何かと言いますと、皆さん、神様の働きには神はすべて経時を通して私たちに神様のことを教えてください。
経時によらなければ神の働きはわかりません。経時には3段階があると知っていますか。
じゃあ、これが理論的なことで簡単に申し上げましょう。
世の中ですべての神様の働きはまず何か事件が起こります。
神様が起こされた事件です。
でもこの意味が何なのか、私とどんな関係があるのかわかりません。
まずある事件、ある行いがあるんです。これは神様が行いました。
これが第一の経時と言います。
第二の経時は何か、聖書です。
この事件がどんな意味があり、この中で神様はどんな身分を持っていらっしゃるのか、それを教えるのが聖書です。
聖書が第二の経時と言います。
例えば、2000年前、イエスがエルサレムで十字架に死んでくださった。
この事件の意味は、この方は救い主だった。
救い主が私たちのために死んでくださった。
この意味を教えてくださるのは聖書です。
聖書がなければ、当時十字架で死んだ人がたくさんいたから、
この中でイエス様が十字架にかけて死んだということは事実だけど、それの解釈は誰も分かりません。
これは第二の経時です。
第三の経時は何か、それがあなたとどんな関係があるのか、十字架が私とどんな関係があるのか、
復活が私とどんな関係があるのかを示してくださる方は聖霊なんです。
だからある歴史的な事実、聖書、聖霊。
この聖霊様がいなければ、十字架ということはあったかもしれないけど、私と関係ない。
しかしそれが第三の経時、聖霊様によって十字架が私のために死んでくださった。
そのために私が天国に来るものになった。
だから私が救われたんだ。だから私は感謝。
皆さん、このような悟りが聖霊による第三の経時によってできるんです。
第二の経時に終わった人がパリサイヴィト。
パリサイヴィトは聖書博士です。
聖書をよく知っているんだけど、この聖書が自分とどんな関係があるのか、
聖書は何を意味するのか、
聖書はすべてイエスキリストについて言っていることですけど、
聖書とイエスキリストの関係を知らなかった。
だからイエスキリストを排斥し、十字架で殺してしまった。
自分の救い主、自分を救うために来られた救い主を、
自分を殺してしまったから、自分の救いはないんです。
こんな愚かなことは第二の経時しかわからない人にあるんです。
第三の経時、これがあるとき、真っ事の信仰、正しい信仰になるんです。
私たちが頭で信じる信仰なのか、心で信じる信仰なのか、
精霊による信仰の重要性
頭でわかっているけど、手足が動かない。
これは頭の信仰です。
この頭の信仰が心の信仰になったときに、
手足が動きますけど、頭から知っていることが、
心で悟ることになること、これが聖霊様が働くことなんです。
聖霊様が照らしてくださるときに、頭で知っていた知識を、
え、これが私のためだった、私のこと、
えーと言いながら涙が出て、もうひざまずいて、
おーしよ、私を許しくださいという人になる理由は、
第三の経時、聖霊様が必要な理由なんです。
真っ事の信仰は、第三の経時が大事なんです。
また私たちの信仰生活は、すべて聖霊によって大事です。
皆さん、救われたと言ったときに、大事な聖書がローマ書中史を記載していて、
口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを使者の中から復活させられたことを信じるなら、
あなたは救われる。
じゃあ、口でイエス様を信じると言っても、
心からで、心から、頭からじゃなくて、心から、
イエスは復活された、私のために十字架で死んでくださって復活された、
これを心から信じて口で言い表すときに、救いが与えられます。
じゃあ、皆さん、私たちが知らないことがあります。
この人は頭で信じて口で言うのか、心で信じて口で言うのかは、私たちは分かりません。
これは神様はご存知です。
ですから私たちは、心で信じていることなのか、頭で信じていることなのか、
これをよく分別しなければいけない。
また働きも同じです。
自分が頑張って働く、これも意味がありますけど、
それじゃなくて、神様が願っている働きは、神様が見せてくださることにした。
これを見せてくださることは、精霊様。
また私たちは、信仰で一番大事なのは、器用さ。
皆さん、謙遜になる前、自分がつい見ていたと分かったら謙遜になります。
自分がつい見ていたと分からなければ、謙遜になりません。
自分がつい見ていたとはどうして知るのか、
神様がどれほどどれほど、私たちが器用になることを願っておられるのか、
だから信仰の器用さが大事なんですけど、
皆さん、事実は、習慣的に行われる罪があるかもしれません。
これをやめようとしても、なかなかやめられない。
なぜ?
自分の努力では罪を勝ち抜くことはできません。
私に一番問題だったのはタバコなんです。
私は大学1年生の同僚の皆さんたちに、「お前もタバコを吸ってみなさい。
嫌だ嫌だ、タバコを吸ってみなさい。」と言いました。
私はタバコを吸い始めて、1974年、大学1年生のときにタバコを吸い始めました。
それが、私は1988年にタバコをやめました。
タバコが好きで好きで、なぜご飯を食べるのですか?
タバコを吸うため。と言われるほど、タバコが好きで好きで。
で、やりました。
これをやめ、教会の執事になったから、タバコを捨てなきゃいけない。
やめたいんだけど、やめられない。
私は3回も失敗しました。
失敗して、またやり始め、また失敗してやり始め、失敗してやり始め。
いつ終わったのか。
1988年、私も知らないうちに、タバコの匂いが嫌で嫌でたまらなくなっちゃった。
精霊様の働きがあったんですね。
だから私はその問題を解決できました。
事実は皆さん、皆さん行ういろいろな間違えた習慣、またいろいろな罪、何か悪い癖、
これを直すためには、自分の努力ではできません。
精霊様の働きがあるように、祈りが必要なんです。
皆さんの祈りに助けられて、私の罪がやっと断ち切られたと言いましょうか。
成果は精霊の照らしがなければいけない。
また礼拝も精霊様の照らし、精霊様の導き。
だから正しい礼拝は精霊に導きによって礼拝すること。
だから信仰のすべての部分は精霊様が照らしてくださるときに、
命がある、まだ影響力がある、生きている、このような礼拝になる信仰生活になります。
なぜなら精霊様が私のうちに働いておられる。
イエス様が故郷で街道に入って、メッセージをするんです。
ヨハネ・ナナシオ中高生、ユダヤ人たちは驚いた。
この人は学問をしたわけではないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのか。
勉強していないイエス様がどうして聖書をよく知っているのか。
なぜでしょう。
知恵の礼、啓示の礼、精霊様がイエス様の中で満たされていたから。
だから学んでもない聖書がジーンと出てくるんです。
またイエス様のすべての働きには、神を使わされた人は神の言葉を語る。
神様が礼を限りなく与えてくださるから。
皆さんイエス様も精霊によって働きました。
だから私たちも精霊によって働かなければなりません。
精霊様がなければ礼力の力はありません。
イエルサレムの迫害によって散らされていくこの人たち。
精霊の働きと悔い改め
この心を歓迎して悲しくて悲しくて、
イエス様を信じることによって私の人生がダメになったと思われるそのところで、
彼らちはイエス様を恨む、不平不満をしないで、
歩き回りながら伝道したと言う。
どうしてですか。
精霊様なんです。
皆さん本当に大事なのは、精霊の働きがあるなら私たちは絶望はありません。
恨む、不平不満ありません。
精霊の働きについていくなら、
私たちは非難しながらも伝道するほどのこの影響力ある人になります。
では神様はどんな人に精霊を与えてくださる。
これが大事なんです。
世の中でお金で買えないものはほとんどないんですけど、
神様はお金で買えません。
神様はどのように私たちが得ることができるか、
それが神様が恵みとして与えてくださるんですけど、
まずはじめ、悔い改める人に精霊を贈ってください。
本当に大事なのは悔いだという。
迫害と信仰の力
使徒下伝2章38節。
悔い改めなさい。
めいめいイエスキリストなによってバブテ様を受け、
罪を許していただきなさい。
そうすれば他者として精霊様が与えられる。
じゃあ一番大事なのは、一番分かりやすいのは精霊なんです。
二番目、三畳の水君の心を持っている人。
又は五章。
心貧しい人は幸いだ。
悲しむ人は幸いだ。
気に上がおく人は幸いだ。
心清い人は幸いだ。
気のために迫害される人は幸いだ。
じゃあミルさん、気のために迫害される。
ミルさん、迫害されたことありますか?
私はイエス様を信じるときに家から追い出された。
それほど私の家はキリキスト教が大嫌いな家なんです。
追い出されたときに、私に強く働いた方がいるんで、精霊様。
精霊様が私に、またマルコの十章二十九節、三十節。
私のため、また福音のために、家、兄弟、家族、父、母、捨てた人は誰でもこの世で迫害を受けるが、
永遠の百倍を受ける、また永遠の命を受ける。
その通り、私には精霊様が強く働きました。
その迫害の中で、私は精霊の力を感じながら毎日助けてもらいました。
不思議に、その時、学校から大きな奨学金も受けました。
ミルさん、家から追い出されて、父が狙っているのは、
お前が学費がなければ、お金がなければ、もう学校に登録金を払わなければ、学校に行けないでしょう。
だから、お前は必ず私の前にひざまいて来るはずだと思ったのに、
私は家から追い出されたそのところで、学校から連絡を受けた。
学校に来てください、と言ってみたら、
学校から当時、韓国の五六、五一六、前の朴大統領が与えてくれる奨学金がくれた。
私がその対象になった。
その表現はいくらなのか。
当時、韓国国立大学は、6ヶ月の登録金、核費が15万円、
家塾費が1万5千円、私がもらったのは35万円をもらった。
核費を払って、家塾費を払って、教会で毎週感謝献金をしました。
それほど残ったんです。
それを大学院卒業までもらったんです。
大学の時には35万円、大学院は50万円。
そのお金で全部勉強できました。
不思議なんですよ。
皆さん、信仰の本当の味を知りたいなら、福音のために薄貝を受ける立場になってみたら、
本当にわかります。
限りがない神様の恵みが与えられて、
何一つ足りないものがない。
いつも心から聖霊様の働きが満ちあうれて、
祈りと礼拝と賛美と、全てが心から燃える心で信仰生活して、
それで私は牧師になったかもしれません。
本当に薄貝世の中で聖霊様が一番多い。
だから、木のために薄貝される人々は幸いである。
なぜ? 聖霊様が来てくださるからです。
また、ルカの中一章、中三節には、
お前たちが悪者でありながら、子供たちは良いことをくれるんじゃないか。
まして、天の神様が求める人たちに聖霊を与えてくださらないか。
だから、求めなさい、探しなさい、叩きなさい。
そうするなら、聖霊が与えてください。
じゃあ、まず、悔い改める人。
失敗からの希望
また、惨状の睡君の心を持つ人。
また、切に求める人に聖霊を与えてください。
聖霊様、素晴らしいです。
私は、ぜひともぜひとも、私たちが生きている間に、
リバイバルを体験していただきたい。
リバイバルを体験するなら、皆さんの信仰生活が変わっていきます。
もう満ちあうれるパワーに耐えられない皆さんの姿。
だから、誰にもどうも、何かイエス様信じてください。
私と勉強会をしませんか。
教会に来てください。
これがもう心からどうしようもない熱情で、もう言うしかない。
イエス様信じてください。
そのような切なる心によって人々を見て、
地獄に行ったらいけません。天国で一緒に行きましょう。
というような心が与えられるのが、聖霊様の切なる心なんです。
私は最近、目指すたびに勇気をいただく聖書があります。
これがまた22章20節です。
彼は傷ついた足を折らず、くすぶる闘心を消さないお方だと。
私はこれをずっと目指します。
じゃあ、傷ついた足。
傷ついた足って誰なんでしょう。
くすぶる闘心、火が消えそうになっていくこの灯。
これは一体誰なんでしょう。
これがこの世の中でダメになった人、失敗した人。
この世の中で不適切な人だと言われた人たちではありませんか。
しかしイエス様はそれを消すことなく、
そのくすぶる闘心を消すことなく、
その人たちを生かして使ってくださる方がイエス様。
イエス様の心はどこにあるのか、関心がどこにあるのか。
この世で失敗した人、この世で病んでいる人、
この世で泣いている人、悲しむ人。
そこにイエス様の心がある。神の御心がそこにあるんですよ。
私はそれを考えるたびに、世の中でダメになっても、私たちは希望がある。
なぜ?イエス様のゆえに。
いくらダメになったとしても、イエス様のゆえに希望があります。
最近もう一つの聖書が加えられました。
これがマルコの中心書、中世紀。
聖書にこう書いてあるのではないか。
家を建てる人たちが捨てた石。
これが住みの親石になった。
家を建てる建築者たちが捨てた石が、
この石がある建物、神様の建物には、
これが親石になって、住みの親石になって、神様はよく使ってくださる。
みなさん、これはもともとイエス様に対する御言葉なんです。
しかし、これを私はあえて、今私の立場から見てますと、
これが私じゃないかと思われます。
私は長い間付き合った宣教団から、
お前は不正確か正しくない、と言って追い出されたような気がします。
そこでものすごい崩れて、気が崩れて、
くすぶる頭身みたい、傷ついた足みたいな。
私はもう本当に、ああ、私の人生、牧会はこれでだめなのか、
と思われた時がありました。
しかし今は勇気をいただいています。
どうして?
建築者たちは捨てた石が神様が作ったという、
他のところには親石になるほど素晴らしく神様が用いてくれた。
もちろんこれはイエス様、イエス様の問題が全くありません。
間違えた宗教を人たちは捨てたことですけど、
私の立場では、私の問題、私のいろいろな過ちによって見捨てられた。
私が徹底的に悔いを改めて、神様、私を生かしてください、助けてください。
私はもう神様にしかいません。
もう過去の悪いことは全部捨てて、
これから私は新しい心を持って主についていきます。
私を生かしてください。もう一度チャンスをください。
切磋に神様についていくなら、
神様が私を他の家の親石として使ってくださるんじゃないかと、
私には希望があります。
人々から捨てられたんだけど、
主は私を捨てておりません。
主は絶対捨てられません。
人は捨てます。しかし主は捨てません。
ここに私に希望があります。
イエス様、関心はどこにあるのか。
人々は私を嘲笑うかもしれません。
お前が何ができるか、お前はダメだ、お前はすでに終わったと言われるかもしれません。
私が日本から失敗して帰ってくる時に、
日本に私の知り合いの人が私の後ろを見て、
お前はもう終わったと言いました。
私は本当に終わったなと悲しみました。
韓国で3年間苦しみました。
それで中石家の福音によって立ち上がりました。
神様、私をまた日本に送ってください。
福岡ではなく、今度は東京で博会ができるようにしてくださりました。
本当にそれはもう考えもなかった。
もう期待もしてなかった。
この神様の恵みでした。
そうです。皆さん、失敗。
また人間はいくらでも失敗しますよ。罪を犯しますよ。
しかし、徹底的に悔い改めて、徹底的に神様についていくなら、
神様がもう一度チャンスをくださると。
これが私たちの希望なんです。
神様の関心は、もう倒れた人、
もう賑わしい人、
この世からもう滅ぼされたと言われる人、
失敗者、本当に悲しむ人、
心が挫けられた人、
その人たち、そこに関心があります。
たしかにイエス様は一番低くなって、
全ての人に使えるために来られたのではありませんか。
だからイエス様はサマリアのような、
差別されたところにわざわざ行ったのではありませんか。
ピリポもセイリー様はそこに連れて行ったのではありませんか。
ナタナエルがこう言います。
ナザレからもっと、どうして、
何かいいものがナザレから出るだろうか。
イエス様はそこで成長されました。
そうです。世の中から見捨てられたところで、
神様の働きはいつもそこにあるんです。
神様は、私たちは見るようには見ません。
神様の見業はいつも低いところ、
かわいそうな人のところに神様の股間心があるんです。
聖霊様の訪れ
皆さん、私たち教会は何にもありません。
ここに来たらコーダーもありません、マイクもありません、ピアノもありません。
もう全く何にもないところです。
しかし何にもない。
だから貧しい心で死を求める。
謙遜な心で死を求める。
なぜこんなになったのか、徹底的に悔い改めながら、
徹徹に徹徹に死を求めるなら、
主は私たちに聖霊を贈ってくださいます。
聖霊様が来られるなら、
その御声に聞き従う者になれるなら、
これから私たちは希望があります。
私たちを使ってくださいます。
じゃあ信仰は、神の礼的な働きは、
聖霊様がいらっしゃらなければ何にもできません。
聖霊様が来なければなりません。
聖霊様はどこに来られますか?
かわいそうなところ、何にもないところ、
貧しい私たちの教会のようなところに来てくださると私は信じます。
また、礼的なサマリオのような地域が日本なんです。
礼的なサマリオのような日本に、
聖霊様が来てくださることを信じています。
神様の関心は、私たちのような小さな教会と、
日本に関心があると信じます。
ここで神様に叫び求める声があるなら、
聖霊様を受け入れる心を準備する者がいるなら、
聖霊様はいくらでも来てくださるでしょう。
そこにピリポのように私たちが用いていきたいと思います。
お祈り出します。
イエルサルムから行った迫害を避けて散っていった群れに、
聖霊様が共におられるなら、避難する道が伝道の道になったように、
差別され見捨てられたサマリアに大きな喜びが与えられたように、
どうかどうかしよう。
何にもない教会、小さい教会、貧しい教会、私たちの教会、
また霊的なサマリアのような日本に、
聖霊様は来てください。
そして私たちに救いと癒しの大きな喜びを与えてください。
すべての人が力を受け、すべての人が癒やされ、
すべての人が聖霊様によって喜ぶことができるように、
私たちを通して働いてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン、アーメン。
40:28

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