精霊様をこれからどうなさるかは私たちは分かりません。
祈って見て、導きに従ってみなければ分からないものです。
この働きをうまくやった人はどなたなのか。もちろん、使徒たちなんですけど、
この中で先週は七次を選ばれた。七次の中でステパノがよく従った。
今日はピリポ七次。ピリポ七次がどのように精霊様に従っていて、
精霊様がピリポ七次を通して何を行ったのか、これを一緒に考えていきたいと思います。
これから私たちなんです。私たちが精霊様の指示に従って、これから何をするか、
これは楽しみではありませんか。これからものすごい私たちにも希望があります。
まず、使徒行伝28章の内容を分かってみましょう。
ステパノが殉教されたんですけど、ステパノが殺されることを主導者が言いました。
それがサウル、後にパウルと言われるサウルです。
サウルの迫害によって、とりほど難しかったのか。
使徒行伝8章3節。サウルは家から家へと押し入って教会を荒らし。
家から家に家庭教会がエルサレムにはたくさんあったということ。家から家、家から家。
エルサレム地域に家庭教会がたくさんあったのに、家に家にたじねって言って、それで教会を全部潰したということ。
壇上問わず引き出して牢に送りっこ。もう捕まえたら牢に入れたり、後を見てみますと、それを処刑したりしたんです。
いや、サウルという人は自分が正しい。他の人は全部間違えてある。
自分の正しさがどれほど強かったのか。他の人は全部迫害。あなたはダメだ。あなたは間違えているから、もうあなたは牢に入らなきゃいけない。
まだあなたは殺されなきゃいけないと思うほど、自分に対してはものすごい強い、この正しいと思われる心を持っていた。
そのようなサウルに出会った人は怖くて、逃げるしかなかった。
皆さん、エルサレムに住んでいて、エルサレムだったら今、日本だったら東京でしょ。
東京で安定的な生活をしていた人たちが、サウルにおって、それで散っていかなきゃいけない。
例えば、家を持って行きますか。財産を持って行きますか。自分は持って行けるのは、ただ簡単なものしかなかったと思います。
それでもうみんな散らばっていくなら、その時考えたでしょう。
イエス・キリストを信じることは、私の財産を諦めるほど大事なものなのか。
それである人たちは信仰を辞めた人がいるかもしれません。しかし彼らは信仰を諦めないで、それで散らばっていった。
しかし、ただ逃げていくだけじゃなくて、四節を見ますと、福音を付け知らせながら巡り歩いたと言います。
彼らは、イエス様によって私はこんなに迫害を受けるんだ、嫌だ嫌だ、不平不満をすることではなかったということです。
むしろ、散らばっていきながら転倒したということです。
ここに神様の計画があったんです。
シドギョーダに一瞬発説、精霊があなたたちを望むなら力を受ける。
そして、イエルサレムだけではなく、ユダ、サマリア、そして地の果てにまで私の証人になると言われた、その見言葉が今実現されているんです。
神様は、この迫害を通して神様の身技を今展開しているところなんです。
ここでピリポが、サマリアに行った。
サマリアに行ったということは、今考えたらどこと同じかと言いますと、北朝鮮に行ったということとほぼ同じではないかと思います。
なぜなら、ユダイ人たちはサマリアに行きません。
今日の教会学もこのメッセージをくださったんですけど、サマリア人という言葉は何か意味がよく悪い言葉なんです。
なぜなら、ソロモンの後に国が二つに分けられるときに、北イスラエルで十部族が加担しました。
南ユダというところにはユダ部族、ペナミン部族だけ。
ペナミンは人数が少ないので、ほぼユダ部族が下にいたと言う。
しかし、北イスラエルはアシリアに滅ぼされました。
アシリアに滅ぼされたんですけど、アシリアはこのあんまり良くない国。
イスラエル人たちは奴隷として売られてしまって、イスラエル人が住んでいたこの地域、サマリア地域には違法の人たちをそこに入れて、
残っている人と違法人を何とか根欠のような地域になってしまった。
根欠地がそこから生まれ始めた。
だからイスラエル人たちにはそれがものすごい嫌だった。
南ユダはバベロンに滅びましたが、バベロンからはそのままエルサレムに帰還されていたので、
南ユダの正当性、純粋さは守られた。
だから自分の力ではないんですけど、守られた人と守られなかった人との間に、イスラエル人の間に差別、紛争があった。
ですから南ユダの人はサマリア人、北イスラの人たちを同じ民族を取り扱わない、汚い奴たちと思ったので、
その地域にはユダヤ人はいてはいけない。
だからサマリア人も私たちを差別したということで、ものすごい民族感情が悪くなっているところだったんです。
ユダヤ人は絶対に行かないサマリアに、誰が行ったんですか。
ヨワネ4章に見ますとイエス様が行かれてサマリア女に伝導され、サマリア町に行って伝導されたことがありました。
その地域に今ピリポがいたんです。
行ってはいけないところにいたんです。
本当に福音は全ての壁を乗り越えます。
全ての差別、人間的な壁を乗り越えて伝われていきます。
じゃあユダヤ人が絶対に行かないサマリアにピリポが福音を持って行ったら何が起こったのか。
意外にサマリア人の心には純粋さがあって福音をよく受け入れたということです。
ですから7節8節に見ますと、汚れた霊に取り憑かれた多くの人たちは、その霊が、その悪霊が大声で叫びながら出て行き、
多くの中部の患者や足の不自由な人たちが癒されたということです。
ですから町の人々は大変喜んだということです。
多くの中部の人、中部の人ということは麻痺の状態です。
また足が不自由な人たち、皆さんこのような状況をよく考えてみますと本当に難しい状況だとわかります。
また悪霊に取り憑かれた、そのような人たちがみんな癒された。
だからサマリア地域に喜びが満ちあおれた。
当時だけなのか、今はもともとひどいです。
21世紀は宇宙の時代だと言うんですけど、宇宙ということは本当に本当に難しいことで、
ほぼほとんどこの心配症とか何とか不安とか、この世でよく見てますと、
悪霊を臆病の霊と言います。臆病させて支配する霊。
だからもうほぼこの部分を見てますと、悪霊の働きではないかと言われるこの部分があるんですね。
また体がいろいろな麻痺の状態で苦しむ人たち。
これ、今になってよくこれが理解できますけど、
その人たちがピリッポが伝えるイエス・キリストの福音を受け入れて、癒されて、それで喜びが満ちあおれた。
それから見てますと、イエロサレムには迫害が満ちあおれるんですけど、サマリアには喜びが満ちあおれる。
福音が吐いたところ、また福音が追い出されるところ、それがよく見えてくるところではないかと思います。
ここで私たちは福音を伝えるのに癒しの働き、悪霊が追い出される働きが、これが効果的な転動ができるんだなと思います。
皆さん、癒しが伴われる。自分のいろいろ悪霊に取りつながり、悪霊が出てしまう。
そうするなら、人々の心がイエス様に向かうようになります。
だからこの働きが非常に大事ですけど、これを能力伝導、能力癒して、精霊の力によって病気が癒されることを見て、びっくりしてイエス様を受け入れる。
そのような働き、これが事実、ピリッポによってサマリア地域に行われたということです。
ピリッポの転動によって、サマリアの地域がもう福音で燃え出ていますと報告が、イエルサルメ教会に行きました。
私たちが絶対行ってはいけない。サマリア地域に福音がいた。
そこでピリッポがそこに行って転動した。そこで大きな神の御業が行われた。
行ってみてください、行ってみて。そしてペテロとヨアネがその地域に派遣されていきます。
行ってみたらもう素晴らしいことがあって、だから喜んで喜んで向こうに行って人々に手を置いて祈った。
ピリッポが手を置いて祈ったときには精霊が下ったということはないんですけど、ペテロが、ヨアネが手を置いて祈ったら、精霊様がもう下ってきた。
まるでペンテコステのイエルサレムのように、サマリア地域に精霊の働きが明らかにみんなのところで働き始めた。素晴らしい美話じゃん。
だからイエルサレムで来られたリバイバルが、サマリアにもリバイバルが来た。
で、使徒行伝1章8節通り、精霊が下ったら力を受ける。そしてイエルサレムだけではなく、ユダヤ、今そこではなぜ伝道されていないのか。
神様、精霊様は精霊という名前も知らなくても神を全部勉強して知っているし、またいくらでも伝導できるんじゃないか。
これが問題があるんです。
じゃあ、精霊様は神様の神様にも決まります。
人の心のことは自分の霊しかわからないように神様の深い心にあるものは神の霊しか知らない。
だから私たちが神の身分を知らせてください、精霊様が知らせてくださらなければできない。
これが精霊様の大事さ。
もう一つが何かと言いますと、皆さん、神様の働きには神はすべて経時を通して私たちに神様のことを教えてください。
経時によらなければ神の働きはわかりません。経時には3段階があると知っていますか。
じゃあ、これが理論的なことで簡単に申し上げましょう。
世の中ですべての神様の働きはまず何か事件が起こります。
神様が起こされた事件です。
でもこの意味が何なのか、私とどんな関係があるのかわかりません。
まずある事件、ある行いがあるんです。これは神様が行いました。
これが第一の経時と言います。
第二の経時は何か、聖書です。
この事件がどんな意味があり、この中で神様はどんな身分を持っていらっしゃるのか、それを教えるのが聖書です。
聖書が第二の経時と言います。
例えば、2000年前、イエスがエルサレムで十字架に死んでくださった。
この事件の意味は、この方は救い主だった。
救い主が私たちのために死んでくださった。
この意味を教えてくださるのは聖書です。
聖書がなければ、当時十字架で死んだ人がたくさんいたから、
この中でイエス様が十字架にかけて死んだということは事実だけど、それの解釈は誰も分かりません。
これは第二の経時です。
第三の経時は何か、それがあなたとどんな関係があるのか、十字架が私とどんな関係があるのか、
復活が私とどんな関係があるのかを示してくださる方は聖霊なんです。
だからある歴史的な事実、聖書、聖霊。
この聖霊様がいなければ、十字架ということはあったかもしれないけど、私と関係ない。
しかしそれが第三の経時、聖霊様によって十字架が私のために死んでくださった。
そのために私が天国に来るものになった。
だから私が救われたんだ。だから私は感謝。
皆さん、このような悟りが聖霊による第三の経時によってできるんです。
第二の経時に終わった人がパリサイヴィト。
パリサイヴィトは聖書博士です。
聖書をよく知っているんだけど、この聖書が自分とどんな関係があるのか、
聖書は何を意味するのか、
聖書はすべてイエスキリストについて言っていることですけど、
聖書とイエスキリストの関係を知らなかった。
だからイエスキリストを排斥し、十字架で殺してしまった。
自分の救い主、自分を救うために来られた救い主を、
自分を殺してしまったから、自分の救いはないんです。
こんな愚かなことは第二の経時しかわからない人にあるんです。
第三の経時、これがあるとき、真っ事の信仰、正しい信仰になるんです。
私たちが頭で信じる信仰なのか、心で信じる信仰なのか、
頭でわかっているけど、手足が動かない。
これは頭の信仰です。
この頭の信仰が心の信仰になったときに、
手足が動きますけど、頭から知っていることが、
心で悟ることになること、これが聖霊様が働くことなんです。
聖霊様が照らしてくださるときに、頭で知っていた知識を、
え、これが私のためだった、私のこと、
えーと言いながら涙が出て、もうひざまずいて、
おーしよ、私を許しくださいという人になる理由は、
第三の経時、聖霊様が必要な理由なんです。
真っ事の信仰は、第三の経時が大事なんです。
また私たちの信仰生活は、すべて聖霊によって大事です。
皆さん、救われたと言ったときに、大事な聖書がローマ書中史を記載していて、
口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを使者の中から復活させられたことを信じるなら、
あなたは救われる。
じゃあ、口でイエス様を信じると言っても、
心からで、心から、頭からじゃなくて、心から、
イエスは復活された、私のために十字架で死んでくださって復活された、
これを心から信じて口で言い表すときに、救いが与えられます。
じゃあ、皆さん、私たちが知らないことがあります。
この人は頭で信じて口で言うのか、心で信じて口で言うのかは、私たちは分かりません。
これは神様はご存知です。
ですから私たちは、心で信じていることなのか、頭で信じていることなのか、
これをよく分別しなければいけない。
また働きも同じです。
自分が頑張って働く、これも意味がありますけど、
それじゃなくて、神様が願っている働きは、神様が見せてくださることにした。
これを見せてくださることは、精霊様。
また私たちは、信仰で一番大事なのは、器用さ。
皆さん、謙遜になる前、自分がつい見ていたと分かったら謙遜になります。
自分がつい見ていたと分からなければ、謙遜になりません。
自分がつい見ていたとはどうして知るのか、
神様がどれほどどれほど、私たちが器用になることを願っておられるのか、
だから信仰の器用さが大事なんですけど、
皆さん、事実は、習慣的に行われる罪があるかもしれません。
これをやめようとしても、なかなかやめられない。
なぜ?
自分の努力では罪を勝ち抜くことはできません。
私に一番問題だったのはタバコなんです。
私は大学1年生の同僚の皆さんたちに、「お前もタバコを吸ってみなさい。
嫌だ嫌だ、タバコを吸ってみなさい。」と言いました。
私はタバコを吸い始めて、1974年、大学1年生のときにタバコを吸い始めました。
それが、私は1988年にタバコをやめました。
タバコが好きで好きで、なぜご飯を食べるのですか?
タバコを吸うため。と言われるほど、タバコが好きで好きで。
で、やりました。
これをやめ、教会の執事になったから、タバコを捨てなきゃいけない。
やめたいんだけど、やめられない。
私は3回も失敗しました。
失敗して、またやり始め、また失敗してやり始め、失敗してやり始め。
いつ終わったのか。
1988年、私も知らないうちに、タバコの匂いが嫌で嫌でたまらなくなっちゃった。
精霊様の働きがあったんですね。
だから私はその問題を解決できました。
事実は皆さん、皆さん行ういろいろな間違えた習慣、またいろいろな罪、何か悪い癖、
これを直すためには、自分の努力ではできません。
精霊様の働きがあるように、祈りが必要なんです。
皆さんの祈りに助けられて、私の罪がやっと断ち切られたと言いましょうか。
成果は精霊の照らしがなければいけない。
また礼拝も精霊様の照らし、精霊様の導き。
だから正しい礼拝は精霊に導きによって礼拝すること。
だから信仰のすべての部分は精霊様が照らしてくださるときに、
命がある、まだ影響力がある、生きている、このような礼拝になる信仰生活になります。
なぜなら精霊様が私のうちに働いておられる。
イエス様が故郷で街道に入って、メッセージをするんです。
ヨハネ・ナナシオ中高生、ユダヤ人たちは驚いた。
この人は学問をしたわけではないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのか。
勉強していないイエス様がどうして聖書をよく知っているのか。
なぜでしょう。
知恵の礼、啓示の礼、精霊様がイエス様の中で満たされていたから。
だから学んでもない聖書がジーンと出てくるんです。
またイエス様のすべての働きには、神を使わされた人は神の言葉を語る。
神様が礼を限りなく与えてくださるから。
皆さんイエス様も精霊によって働きました。
だから私たちも精霊によって働かなければなりません。
精霊様がなければ礼力の力はありません。
イエルサレムの迫害によって散らされていくこの人たち。
また、惨状の睡君の心を持つ人。
また、切に求める人に聖霊を与えてください。
聖霊様、素晴らしいです。
私は、ぜひともぜひとも、私たちが生きている間に、
リバイバルを体験していただきたい。
リバイバルを体験するなら、皆さんの信仰生活が変わっていきます。
もう満ちあうれるパワーに耐えられない皆さんの姿。
だから、誰にもどうも、何かイエス様信じてください。
私と勉強会をしませんか。
教会に来てください。
これがもう心からどうしようもない熱情で、もう言うしかない。
イエス様信じてください。
そのような切なる心によって人々を見て、
地獄に行ったらいけません。天国で一緒に行きましょう。
というような心が与えられるのが、聖霊様の切なる心なんです。
私は最近、目指すたびに勇気をいただく聖書があります。
これがまた22章20節です。
彼は傷ついた足を折らず、くすぶる闘心を消さないお方だと。
私はこれをずっと目指します。
じゃあ、傷ついた足。
傷ついた足って誰なんでしょう。
くすぶる闘心、火が消えそうになっていくこの灯。
これは一体誰なんでしょう。
これがこの世の中でダメになった人、失敗した人。
この世の中で不適切な人だと言われた人たちではありませんか。
しかしイエス様はそれを消すことなく、
そのくすぶる闘心を消すことなく、
その人たちを生かして使ってくださる方がイエス様。
イエス様の心はどこにあるのか、関心がどこにあるのか。
この世で失敗した人、この世で病んでいる人、
この世で泣いている人、悲しむ人。
そこにイエス様の心がある。神の御心がそこにあるんですよ。
私はそれを考えるたびに、世の中でダメになっても、私たちは希望がある。
なぜ?イエス様のゆえに。
いくらダメになったとしても、イエス様のゆえに希望があります。
最近もう一つの聖書が加えられました。
これがマルコの中心書、中世紀。
聖書にこう書いてあるのではないか。
家を建てる人たちが捨てた石。
これが住みの親石になった。
家を建てる建築者たちが捨てた石が、
この石がある建物、神様の建物には、
これが親石になって、住みの親石になって、神様はよく使ってくださる。
みなさん、これはもともとイエス様に対する御言葉なんです。
しかし、これを私はあえて、今私の立場から見てますと、
これが私じゃないかと思われます。
私は長い間付き合った宣教団から、
お前は不正確か正しくない、と言って追い出されたような気がします。
そこでものすごい崩れて、気が崩れて、
くすぶる頭身みたい、傷ついた足みたいな。
私はもう本当に、ああ、私の人生、牧会はこれでだめなのか、
と思われた時がありました。
しかし今は勇気をいただいています。
どうして?
建築者たちは捨てた石が神様が作ったという、
他のところには親石になるほど素晴らしく神様が用いてくれた。
もちろんこれはイエス様、イエス様の問題が全くありません。
間違えた宗教を人たちは捨てたことですけど、
私の立場では、私の問題、私のいろいろな過ちによって見捨てられた。
私が徹底的に悔いを改めて、神様、私を生かしてください、助けてください。
私はもう神様にしかいません。
もう過去の悪いことは全部捨てて、
これから私は新しい心を持って主についていきます。
私を生かしてください。もう一度チャンスをください。
切磋に神様についていくなら、
神様が私を他の家の親石として使ってくださるんじゃないかと、
私には希望があります。
人々から捨てられたんだけど、
主は私を捨てておりません。
主は絶対捨てられません。
人は捨てます。しかし主は捨てません。
ここに私に希望があります。
イエス様、関心はどこにあるのか。
人々は私を嘲笑うかもしれません。
お前が何ができるか、お前はダメだ、お前はすでに終わったと言われるかもしれません。
私が日本から失敗して帰ってくる時に、
日本に私の知り合いの人が私の後ろを見て、
お前はもう終わったと言いました。
私は本当に終わったなと悲しみました。
韓国で3年間苦しみました。
それで中石家の福音によって立ち上がりました。
神様、私をまた日本に送ってください。
福岡ではなく、今度は東京で博会ができるようにしてくださりました。
本当にそれはもう考えもなかった。
もう期待もしてなかった。
この神様の恵みでした。
そうです。皆さん、失敗。
また人間はいくらでも失敗しますよ。罪を犯しますよ。
しかし、徹底的に悔い改めて、徹底的に神様についていくなら、
神様がもう一度チャンスをくださると。
これが私たちの希望なんです。
神様の関心は、もう倒れた人、
もう賑わしい人、
この世からもう滅ぼされたと言われる人、
失敗者、本当に悲しむ人、
心が挫けられた人、
その人たち、そこに関心があります。
たしかにイエス様は一番低くなって、
全ての人に使えるために来られたのではありませんか。
だからイエス様はサマリアのような、
差別されたところにわざわざ行ったのではありませんか。
ピリポもセイリー様はそこに連れて行ったのではありませんか。
ナタナエルがこう言います。
ナザレからもっと、どうして、
何かいいものがナザレから出るだろうか。
イエス様はそこで成長されました。
そうです。世の中から見捨てられたところで、
神様の働きはいつもそこにあるんです。
神様は、私たちは見るようには見ません。
神様の見業はいつも低いところ、
かわいそうな人のところに神様の股間心があるんです。