1. 東京ぶどうの木教会 メッセージ
  2. 「心に平安がありますか?」20..
2021-10-18 29:48

「心に平安がありますか?」2021年10月17日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年10月17日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄   聖書の箇所/ヨハネ  わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

00:00
今日は、「心の中に平安がありますか?」という答えをもって、今日のメッセージを一緒に分かち合いたいと思います。
先週開拓3周年記念礼拝で、今後私たちの教会どうすればいいのかということを皆さんに申し上げました。ご理解できたんでしょうか。
今日は今後の計画を実行することによって、私たちに一番必要なことが何なのか、それを一緒に考えてみたいと思います。
あるYouTubeの番組を見ていました。 ある先生がこう言いました。
幸せとは何か。 幸せはどのように得られますか。
私がぜひ知りたかったものでしたから、その先生の講義を最後まで全部聞きました。
答えは、自分が願っていることが成し遂げられるとき、人々は幸せを感じるということでした。
なるほどと思いましたけど、それからその聞いたことを通していろいろ考えることになりました。
願うことが成し遂げられること、それが幸せだと思ったら、
私みたいにあまり願うことがないものは、幸せしやすいんだなという気持ちですね。
また、願うことがいっぱいあって、いくら持っても持っても満たされない人なら幸せになりにくいんじゃないかということも考えました。
もし、いっぱい持っているのに心配が多ければ、これは幸せとは言えないでしょう。
また、名誉権力を持っているのに、それから何とか後が不安になっている、このような状態だったら、
それも決して幸せとは言えないでしょう。
何があったら幸せになれるでしょうか。
今日は、私たちの所有ではなく、心の平安があるとき、幸せになれるんだということを聖書から申し上げたいと思います。
また、これが大事なのは、私たちがこれからビジョンとか使命とか、それを担うことも平安を保って、
そのビジョン、使命を担うときに、それが正しいビジョンの実行、また使命を実行になるんだということも一緒に考えていきたいと思います。
皆さんの心に今、平安がありますか。
まず初めに、この世の中で人間が幸せになるためには、平安が一番大事です。
聖書で禁じる一言があります。
これが、恐れるなということなんです。
なぜなら、恐れということは、悪魔が与えることだからです。
03:04
第二手もて一書七説を見ますと、
神は臆病の霊ではなく、力と愛と資料分別の霊をあなたたちに与えたと。
力と愛と資料分別の霊は、聖霊様です。
臆病の霊は、悪霊なんです。
悪霊が私たちの心に心配を入れます。
不安を入れます。恐れを入れます。
それを私たちは素直で受け取ってしまえば、悪霊が指示する通り、私たちはこの後は展開されます。
だから私たちは、この悪霊が入れる不安、心配、恐れ、
これを、イエスきりの名によって追い出さなければならない。
これを防御しなければなりません。
ですから、イエス様は十字架の前で、
四年の十四章ですね、今日読んでくださったこの聖書です。
イエス様が、怯えている弟子たちに、
これから雰囲気が、だんだんイエス様が何か大変なことが起こりそうな雰囲気だったので、弟子たちは怯えていました。
イエス様は私たちから離れて、どこかに行かれるんじゃないかという不安な状況で、
イエス様が、私はあなたたちに私の平安を与える。
私の平安は、よく与える平安とは違う。
あなたたちは、おびえるな、騒がすな、おびえるなという言葉を下さいました。
ここで、この世の中がくれる平安があり、イエス様をくださる平安があります。
世の中がくれる平安は、世の中のものをたくさん所有することによって与えられる安心感と言えるでしょう。
これは一時的です。あったりなかったりします。これは変動しやすいものです。
しかし、イエス様をくださる平安は、この世の中の所有とは全く無関係なものです。
神を信じることによって、私たちは神を愛される神の子供であり、
神様が全てを持って私たちのことを満たしてくださるだけじゃなくて、
全ての問題を解決してくださるんだということを、
私たちが信じるとき、私たちの心に与えられる何の心配もない、この平安ですけれど、
これは世の中で誰も奪うことがないと言います。
この平安は、神様が共におられることによって与えられることなんですけれど、
ユダヤ人たちは、この平安を一番大事にしたんです。
ですから、朝、昼、ヒドに出会ったら、シャローンと言います。
だったら、シャローンと言います。
平安ですか? はい、平安です。
これが挨拶なんですね。
06:00
だから、私たちに一番大事なことは何なのか、平安だということです。
平安をいつも挨拶のみたいに、韓国人は挨拶をするけど、
ご飯を食べたんですか? ということで、私たちの挨拶なんですけれど、
貧しい国だから、ご飯を食べない場合が多いので、
ご飯を食べた国が幸せだと思ったでしょう。
でも、ユダヤ人たちは、平安があるのかということを聞いたんです。
ユダヤ人たちの国、一番大事なのは、エルサレム。
エルサレムということは、シャロームの街、シャロームの都市、城ということです。
ですから、平安の都市、平安の城という意味でしょう。
世の中にある天国は、エルサレムなんです。
世の中にある天国、天国には何が必要なのか、シャロームが必要だということを意味で、
エルシャロームという言葉を使っているんですね。
シャローム、平安は、私たちにいろいろな面で有益を与えてください。
平安の中で、私たちが何か仕事をするなら、仕事がうまくできます。
例えば、みなさん、心配、悩み、不安の中で賛美をする。
この賛美、うまくできますか。
不安の中で祈る。
もちろん祈りは節になるかもしれないけど、もともと祈りは神様との交わりなんで、
不安ばかりしながら神様との交わりをしようとしたら、
神の手を求めるしかないんですね。
だから、だんだんだんだん自己中心的な信仰になります。
不安の中で心配をいっぱい持って礼拝する、賛美する。
また、不安をいっぱい持って相手を愛する、奉仕する。
この奉仕が正しくできるんでしょうか。
また、この奉仕を利用して何とか利益を求めるような、
このような変な奉仕になってしまうのではないでしょうか。
先週開拓3周年記念礼拝をして、
これから私たちの教会は5年、10年を考えながら、
いろいろ私は皆さんに申し上げたんですけど、
その全てを成し遂げるのに、私たちの中で一番大事なのは、
平安の中でそれを行われることです。
まあ、牧師伝道師が焦って焦って、
早く教会を建てなければ、早く成長しなければと言って、
皆さん、だったらこれ無理やり、平安がなければ、
私たちがやること全てが焦りなんですよ。
まず、責められて競争の中で何とかしなきゃいけないんじゃないかという考えで、
皆さん、この朱の御業で行われるといったら、
この朱の御業が確かにできるはずがないのではないでしょうか。
ですから一番大事なのは、私たちは朱と福井のために働くんですけど、
平安がありますかということをまず聞きたいところですね。
09:01
では、2番目。
神様を下さる平安はどのように、いつ与えられるのでしょうか。
答えは、神様が来られるとき、
神のご臨在、神様との親しい交わりの中で平安があります。
朱は我が牧者、私は何にも欠けることはない。
ダビデのこの言葉。
これはダビデが平安の中でいますということを表した、
この自分の深刻告白ではないかと思います。
この平安は赤ちゃんと子どもたちを見たらよくわかります。
子どもたちはどんな状況の中でも心配しません。
心配は誰がしますか。お母さんがします。
だからお母さんと一緒にいるときは、どんな状況であれ楽しくやってもいい。
しかし、お母さんが見えなければすぐ不安になります。すぐ泣き出します。
子どもたちが本質をよくわかっているんですね。
私たち一番大事なのは、朱が共におられるなら、平安が私たちにあるべきなんです。
朱が共におられるのに平安がないということは、これは正しいご臨在ではないと思います。
朱が共におられるということを私の心の中で確信が与えられ、
朱がおられることによって、私の中でこの神様のご臨在に、この平安がちょーっと臨むときには、
世の中で何にもいりません。あなただけですという心ができるでしょう。
ではこのような素晴らしい神の平安、このシャロムがいつダメになってしまったんでしょう。
これは罪を犯してからダメになります。平安がなくなりました。
皆さん、罪は3つの種類があると申し上げましたね。
関係を破る罪、秩序を破る罪、倫理・道徳的な罪があります。
関係を破る罪ということを皆さん経験したことあるでしょう。
ある人との関係がダメになりました。この人を出会いたくない、この人を考えながらいつも
つらい思いがする。これはもう平安があるはずがないですね。
それをどう解決するべきか。また秩序を破る。上下秩序、神様が立てられた秩序を破るとき、神の保護がなくなります。
神の保護がなくなったら、なんとなく不安になります。また倫理・道徳的に私からもう罪を犯してしまえば、心が怪我されてしまって、
どうすればいいのかということを悩む場合があるのではないでしょうか。平安がいつなくなるんですか。
罪を犯すときになくなります。そして問題が始まります。
一番、創世紀3章でわかりやすい、創世紀3章16節から19節、私が読みながら少し考えていきましょう。
12:08
神は女に向かって言われた。お前は腹身の苦しみを大きなものにする。
お前は苦しんで子を産む。女性たちが子を産むときに腹身の苦しみがあります。
これが何の結果ですか。これは罪の結果なんです。
お前は男を求め、彼はお前を支配する。男性が女性を支配するようになった。
なんとなく男性の支配下にいる女性の立場、これも罪の結果なんです。
そしてアダムに向かって言われた。お前は女の子を従い、取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに土は呪われるものになった。
世の中が今苦しんでいます。地震、津波、なんとか世の中で災難、すべてが罪の結果だということがわかります。
お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とアザミを生え入れさせる。
野の草を食べようとするお前に、お前は顔に汗を流してパンを得る。土に帰る時まで。
食べて生きるために苦労することも、これは事実、罪の結果だということがわかります。
またお前はそこから生まれた土に、地理に過ぎないお前は地理に帰れ。
死ぬことも罪の結果なんです。
だから今私たちが苦労しているすべては、罪の結果によって私たちが問題が来て、その問題によって私たちは苦労しています。
この中で幸せはあり得るのでしょうか。
じゃあどうすれば平安を取り戻すことができるのか。
世の中には平安を破るものが存在します。これ悪魔です。
世の中には悪魔という存在があるから、世の中で完全な平安はありません。
一時的な平安しかありません。しかしでも一時的な平安だとしても、私たちにはこの平安を私たちが取り戻す方法を考えなければなりません。
じゃあどうすれば平安を取り戻すことができるか。
まず、神の御臨罪を解放しなければなりません。
神の御臨罪を回復するときに一番参考になる見言葉が、約部書4章8節です。
神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださる。
罪人たち、手を清めなさい。心を定まらない者たち、心を清めなさい。
私たちは平安がありません。何か問題もいっぱいあります。
だからどうしたらいいんでしょうか。他の人に祈ってください。何かいろいろやりますけど。
15:04
それより、神の御臨罪を自ら回復することが一番大事です。
そのために、今日の聖書は何て言うんですか。
あなたが神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださる。
神様に近づくときに、人たちを気をつけなさい。神は聖なるお方だから、罪を清めなさい。
そして、神様は霊だから、霊は心です。心を清くしなければならない。
二股かける心。神様も愛し、他の人も愛し、このような心で神様に向かっていくなら、
神様と会うことはできません。神様だけ愛する。そのシングルフォーカス。
焦点が一つ。そして神を向かうときに、神に近づくときに、神は近くにしてくださる。
これは、ご臨在が与えられるということです。
神様が来られるなら、神は光の中でおられます。栄光の中でおられます。
満ちあわれる命の中でおられます。だから、ご臨在が与えられたら、私たちの中で豊かな光、命、
神様の祝福が、私たちと共におられるようになるでしょう。
これと関連して、皆さん、先週金曜日の鳥梨起動会で分かっていた見言葉を覚えていますか?
サムエル・ジョーの16章23節です。これを読んでみます。
アクレイがサウルを襲う度に、ダビデが傍らで盾言を奏でると、
サウルは心が休まって気持ちが良くなり、アクレイは彼を離れた。
サウルが患った理由は、アクレイが彼に望んだからです。
その時、サウルは神様に恋愛していなかったと思いますか?
自分が苦しむ時、神を求めなかったと思いますか? サウルも人間です。サウル・オムも神を求めたと思います。
しかし、神のご臨在は彼にはなかったんです。 だから彼は患い続けたでしょう。
しかし、ダビデが神様を求めて恋愛したら、神の霊が豊かに臨んだ。
そして、サウルに臨んでいたアクレイが離れてしまった。 これはみなさん、すごく大事です。
恋愛を捧げるために恋愛の場所に来ていたということで、 みんな主に出会うことではないことがここでわかります。
神に出会いたいなら、条件があります。 これが約部4章8節です。
私は清いお方だから、あなたたちも清くなりなさい。 心が定められない人、
二股かける心、フォーカスが二つ。 神も愛し、他のことも愛している人たち、
18:02
神様だけ愛する心で自分の心を整理しなさい。 これで神を向かう、近づいていく。
心の中で、徹底的な悔い改めと、他の人を許されなかったら許すこと、 否定的静寂的なこと、不純な心をすべて捨てて、
このように主に近づくとき、主が来られます。 その時シャロームが現れます。
なぜ礼拝を捧げたのに、子供たちがいつも言います。 神様に祈った、何もなかった、だから今日行きたくない。
子供っぽいの話ですね。 単純ではありません。今日、約部4章8節をご覧下さい。
神に近づくときには条件があります。 これを私たちがうまくやっているのか考えていきましょう。
そうするなら、御臨罪は与えられます。 御臨罪が与えられるなら、神様の豊かな平安が私たちの中で託されます。
また2番目、もし家庭の中で問題があったりトラブルがあったりするなら、
私たちの中にある平安、しばらくある平安がすぐなくなります。 朝晩、平安があったりなかったりする私たちではありませんか。
その時、たびたび私はどうすればいいんでしょう。 ここで素晴らしい聖書があります。
ピリッポ4章6節7節。
どんなことでも思い患うのはやめなさい。 何事につけ感謝を込めて祈りと願いと捧げ、求めているものを神様に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる陣地を超える神の平和、シャロームがあなたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう。
とりわけ素晴らしい見言葉ですか。 世の中には問題が多いです。
私も親ですけど、子供に問題が生じたら親は死にそうになります。
仕方がないです。親という存在は子供に問題があったら親は死ぬんですよ。
また家庭の中で誰かが少し問題があったら、家庭全体が不安になります。
本当に難しいことです。
じゃあそうしたらどうすればいいでしょうか。
大勢の人は神の愛を疑います。
私が神様にこんなにあったのに、神様は私にこのような平安を与えてくださらないのかという、皆さん言うことも度々ありますけど、
その時は何にも考えずに今日のピリッポ4章6節7節、祈りなさいということです。
神様が祈らせる理由があるでしょう。
だから祈ればいいんです。神様の愛を疑う必要もありません。
じゃあ神の愛を信じながら何にも思い患うことはやめて、何事につけ感謝を込めて、
21:06
なぜ感謝するんですか。
神様が私たちにくださるのは何一つ、私の益にならないものはありません。
絶対善ですから。
すべて私たちの有益のため、利益のために与えてくださるものですから、神を信じ、そして神様に祈る。
そしたら神様がなぜ祈らなきゃいけないのか理由を教えてくださり、解決してくださり、
そして私たちに平安、シャロムを与えてくださるんだということです。
ですから祈りはいつまでするべきですか。平安が来るまで祈るんです。
平安が来るということは神様が解決してくださる確信です。
だから神様が解決してくださる確信が来るまで祈ること、これは大事です。
3番目、もっと大事なのは知ること、信じることです。
新海約でイザヤ26章の3節に、心邪志の厳厳なものを、あなたは全く平安のうちに守られる。
その人があなたに信頼しているからです。全く平安のうちに守られる。
韓国の聖書では平安から平安で守ってくださるという言葉がありますけど、
神様は絶対全です。神様は全知です。神様は全能です。
これは皆さんどんなことがあっても忘れてはいけません。
神様がなさることはすべて私たちの有益のためにくださることだと、
全くここに疑いがあったらいけません。また神様は全知です。
私の過去、現在、将来を全部知っています。
だから今私にいろいろなことをさせるんです。
また全能です。私がすべての困難、問題、すべてを乗り越えるパワーを神様はくださるお方です。
だから信じていいんです。
また私たちが信じるべきことは福音の恵みを信じましょう。
これは基本の基本です。
イエス様がなぜ神の栄光を見捨てて、捨ててこの世に来られたのか。
私を救うために来られた。私を愛して私に平安を与えてくださるために来られた。
十字架で罪と問題、罪の代価、悪魔を滅ぼしてくださり、私たちのすべての問題を十字架で解決してくださったんです。
また私たちに聖霊様、助け主を送ってくださって、すべての面を助けてくださいます。
私たちに助けてくださらないところが何にもありません。
すべての面を聖霊様は助けてくださいます。
24:03
またイエス様は自分の神父キリスト社を迎えるために参りなさい。
そして私たちを一緒に天国で永遠な祝福の中で私たちを入れてくださいます。
ですから私たちは神を信じ福音の恵みを信じるなら、
どんなことがあっても平安を取り戻すことができます。
知ればできます。信じればできます。
だから私たちは知ること、信じることに力を入れなければなりません。
悪魔は私たち平安を破ろうとするでしょう。
しかし十字架のイエスキリストを知るなら、悪魔はすべて無力になる。
すべてもう終わったんです。
イエスキリストに何を言っても出て行け、出て行っちゃうんです。
もっともっと平安を願うなら、マルコ16章20節、
一方弟子たちは出かけて行って、いだるところに選挙した。
主は彼らと共に働き、彼らが語る言葉の真実なことを、それに伴う印によってはっきりと示された。
どうすれば神様は共におられますか。そして神の印を私たち豊かにくださいますか。
主と福音のために働く時です。
主のために福音のために、主の御業のために私たちが働く時に、
神様がますます大きな確信と平安を与えてくださいます。
共におられる印、それが奇跡ではありませんか。それもくださいます。
だから主に近づく、そして主のために働く人に、神様のすべての平安が私たち豊かにあります。
私は大学生の時から教会に通って教会学校の教師をしました。
私は教会学校の教師で、私に預かってくださった教会学校の小さな子供たち、
私はその子供たちの名前をいつもいつも保って、毎日その子供の名前を呼びながら祈りました。
私はその命を預かって、私はその命を守っている、助けている、教えていながら恵みを与えていることは嬉しかったです。
私はその、何でしょうか、主に対するこの命を預かって、その人のために祈っていく、
そこに与えてくださる神の力によって今まで来ています。
だから私は、私が祈るべき人が欲しいんです。私が助けるべき人が欲しいんです。
なぜなら、そのような主と命を救うために働く人には、主が豊かに共におられ、共におられる印をますますくださるから、
この平安がますます与えられたんです。
だから、攻撃的に主のためにいきましょう。それが平安を取り戻す一番素晴らしい方法なんです。
27:06
じゃあ結論を申し上げます。天地を創造された万軍の主が私の父です。
私の父は父のすべてをもって私たちを愛してこられ、助けてくださり、すべてを守ってくださる。
それを知っているなら、それを信じるなら、平安は当たり前のことでしょう。
じゃあこのような平安があるとき、私たちの方針も正しい方針になり、私たちが隣人を愛することも正しい愛になります。
イエス様が愛するように私たちもできるでしょう。心配、悩み、不安の中で焦りの中で愛するんじゃなくて、
本当に本当に主の平安が豊かに望んで、その平安をもって人々に伝えるときに、主が喜ぶ素晴らしい奉仕になり、愛になり、
これが隣人を愛する素晴らしい力になるのではないかと思います。
開拓3周年記念出会いが終わって、そして4年、これから5年、10年に向かって私たちの教会はこれから出発なんですけど、
素晴らしいビジョン、素晴らしい使命、これいいんです。しかしその使命とビジョンを成し遂げる心の中で、あなたは平安をもっていますか?
平安をもっていらっしゃらなければ、今日、ヨハネの中4章27線、私は世の中の平安ではなく、
神、私の平安をあなたたちに与える。世の中が奪うことができない。
怯えるな、騒がすな、言われるイエス様の御声が、私たちの中で豊かに平安として臨むことができれば、これでお祈りいたします。
主を私たちは愛しておられ、ひとり子まで与えてくださった神様の愛、もっともっと知りたい、知りたいです。
その愛の力で、いつも平安の心を保ち、主のみわざの、主のために働く私たちにならせてください。
もし心の平安が消えてしまうなら、直ちにその原因は何なのか考えながら、悔いをあらためて、心を整理し、平安を取り戻す私たちにならせてください。
そして、いつも平安を守ることができるように、主を私たちを助けてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。アーメン。
29:48

コメント

スクロール