00:01
皆さん、おはようございます。
よくいらっしゃいました。
それでは、メッセージに入る前に、一緒にどんな方と挨拶しましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
それでは一言、お祈りいたします。
神様、今日も、主の民が、主に愛されて、支えられて、ここにやってまいります。
私たちの礼拝を、主を生きた生贄として、私たちの献身として、主をどうぞ、お招きくださいました。
今から、神様ご自身が、私たちに、この群れに、主をどうぞ、お語りください。
素直に、御言葉通りに従い、また御言葉通りに行える力を、上から注いでください。
神様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン
今日は、三条推訓シリーズ説教の7回目です。
中心課題は、求説ですね。
求説だけ、よろしかったら、ご一緒に、求説だけ、お読みたいと思います。
私の訓示書、第5章、求説。
三、平和を作る者は幸いです。その人たちは、神の子供と呼ばれるから。アーメン。
今までですね、三節から一つ一つ、八福と言われる御言葉を教えて、ここまでやってまいりました。
ですから、数えてみますと、八福の中で、今日が7番目ですね。
ところが、この三節から始まる、この八福、三条推訓の中のこの八福はですね、それぞれが別々のものではなく、
この全部が緊密につながっていて、これは、いわば一つのものであると言えると思います。
全部つながっているわけなんですね。
例えば、三節から見ていきますと、心の貧しいものが悲しむものになるわけですね。
03:00
自分の罪を悲しんだり、そして、低くなる。
そうすると、その人は本当に、主の前にでも、人に前にでも、にゅうわな人格と信仰を持つ人になるでしょう。
そうすると、その人は、主の御前に減り下っているものだから、世のものを求めるのではなくて、義に憂え渇くものになるのです。
その人は、そして、家様の心を持っているわけですから、哀れに深いものになるわけです。
そうすると、その人はいつも自分の弱さや、自分の罪のゆえに悲しんで、そして、にゅうわな人格を持って、義に憂え渇くものだから、そして、その心がですね、さらにさらに清くなるわけなんですね。
そうすると、その人がいるところ、そこに、その人のゆえに、平和をつくられるということにつながるわけなんです。
そして、いよいよ最後にはですね、義のために迫害されるそこまで、信仰と人格とおこないが成長していく、引き上げられていくということを、今日のこの八の福が私たちに語っているわけなんです。
ですから、これはある意味で、段階的にこの福についてですね、幸いについて、どんなものが幸いなものなのか、語られているわけなんですね。
今日、九節を見ますけれども、この九節は、その前の八節と、本当にですね、深くつながっていると思うんですね。
この八節を私がお呼びします。
心の強い者は幸いです。その人たちは神を見るからたります。
そして今日は、平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるから。
つまり皆さん、この順番には意味合いがあるということです。どんな人が平和をつくることができるんでしょうか。
それは、ただ平和であってほしいなと、それぐらい思う人にそれができるのではなく、実は心が清められた人、心の強い者が幸いなものであって、その人は、
その人がどこにいても、そこに平和がその人によってつくられるということです。
だから、この順番から言いますと、心の清めなくしては平和はありませんということなんです。
06:09
心の清めが平和の前提なんです。
逆に言いますと、穢れのあるところには、まことの本当の平和は、あるいは和解はないということなんです。
例えば皆さん、家庭の中に親子の中で、あるいは夫婦の間で、あるいは誰々の仲間の間に不安がある、平和が破れている。
そうすると、そこには心の清めも平和もないわけなんですね。
これですね、聖書を私たちに教えていただけるんです。
ちょっと開きたいと思いますが、新約聖書の中でヤコブの手紙がありますね。
ヤコブの手紙3章17節を開きたいと。ヤコブの手紙3章17節。
新約聖書の449ページですね。
17節を一緒に読みたいと思います。
しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温純であり、また哀れみと良い御徒に満ち、
悔ひ息がなく、見せかけのないものです。
ここにですね、順番を見ていきますと、上からの知恵は第一に何ですか。純真。
この純真と訳される言葉は清め、あるいは既約聖書に書かれている清潔と同じ意味なんですね。
日本語の聖書は純真と訳されていますが、純粋な心なんですね。
だから第一は清め、清潔があって、その次に何が来るんですか。平和が来るわけ。
だから清めの清潔のあるところに平和があると。
この平和は旧約聖書でシャロームと言うんですね。
このシャロームというものは、この平和、シャロームを好んでいるから、望んでいるから、
ああ、平和であってほしいなと、そう思うだけで得ることはできないわけです。
シャロームというものは、平和というものは、このように悔い改めと、そして清められた礼の上に注がれるのが、与えられるのが平和なんです。
09:13
それが神の恵みなんです。
だから皆さん、またさっき言った日々、十字架の下に近づいて、そこで十字架の秘宝によって心も身も清められたところに、そこに本当の平和が訪れてくるということなんです。
今日も旧説を見ますと、平和を作るものとあります。平和を好むものではありません。
あるいは平和を愛するものでもありません。あるいは平和であってほしいなと思うものでもないんですね。平和を作るんです。
これを英語の成語はピースメーカーという言葉で訳されています。言語の意味をもっとも正しく訳されていると思うんですね。平和を作ると言います。
だから皆さん、漠然と受け身的に、家庭が、うちの夫婦が、教会が、この日本が、世界が平和であってほしいなと、漠然と受け身的な態度を持つのではなく、ここでは平和を作る。
この作るという言葉は言語的な意味と一緒ですね。この受け身じゃなくて、能動的で積極的に自ら進んで平和を作り出す。
この作るという意味は、この作のあの漢字というよりは、創造の作るその漢字を訳されていると思うんですね。
つまり、平和を創造する、平和を作り出すその人が、幸いな人なんです。そしてその人こそが、神の子供と呼ばれるんです。
この二つの関係はですね、とても大事だと思うんですけれども、それをよく頭に入れていただいて考えていただきたいんです。
つまり、イエス様が教えたんですよ。
三国の民の幸い、四穀はですね、平和を作って、平和を創造するその人こそ、神の子供と呼ばれるということ。
皆さん、この九節をこの御言葉通りに加減しないで、この通りに早速にこれを温めて、適応していきたいと思います。
さあ、この御言葉通りに受け入れますと、平和を作る者が神の子供なんです。
12:03
逆に言いますと、平和を作らない者、あるいは平和を妨げる者は、神の子供と呼ばれないと言えるのではないでしょうか。
このように皆さん、平和、あるいは和解、あるいはサロームというものは、いつも自分から私から始まるものなんです。
平和であってほしいな、うちは平和であってほしいな、あるいは教会がこの国が平和であってほしいなというふうにですね、願ったり求めたりするときに、
私たちは大概にですね、妻のゆえ、夫のゆえ、子供のゆえ、あるいは誰々のゆえに、ここには平和がないと、だからトラブルが多いんだと、そういうふうに思いがちではないかなと思うんですね。
ところが今日の御言葉は、私たちが喜び味わえる平和というものは、自分が神様から答えをいただかなければならないということなんですね。
誰かが作ってくれる、それを受け身的に待つのではなく、進んで平和を作り出す、ピースメーカーになるということなんです。
皆さん、ピースメーカーの反対はどういう意味でしょうか。トラブルメーカーですね。皆さんはお家で、夫婦の間、家族の間、職場で、教会で、あるいは学校で、皆さんはピースメーカーですか、トラブルメーカーでしょう。
ある人がそこにいれば、家庭であれ、教会であれ、あるいは何らかの集いであれ、そこにその人がいれば、本当に平和があって、喜びに満ちて、楽しみが満ちる、本当に平和をクリエイティブする人といった、本当に平和を作る人がいる反面、
その人がそこにいたら、そこには怒りが、分裂が、傷が、喧嘩を作り出す、それも見事に作り出す人があったりする。
皆さん、今日の御言葉は、「平和を作る者は幸い。」それをみんな幸いな人生を夢みます。これからの人生は本当に幸いに広がっていただきたいなと思っています。そこに覚えるべきことは、平和を作る者が幸いな人であって、その人が神の子供と思う。
15:10
ですから、この御言葉通りに、私たちの生活に適応するならば、家様を信じている人としては、家政で、夫婦の間で、親子の間で、あるいは社会で、学校で、教会で、本当に平和を作り出す、平和を作る人が幸いな人なのです。
その人こそ、神の子供と、逆に言いますと、そうでない平和をさまさげる者が、もしもあるならば、それが家庭であれ、教会であれ、社会であれ、それは神の子供と呼ばれないと言えるのではないでしょうか。
ですから、みなさん、今日のこの9節は、実はそんなに軽い御言葉ではないと思います。
それに、他にこの平和について書かれている御言葉をいくつか開きたいと思うんです。
まず、ローマ書5章1節としがきたいと。ローマ書第5章1節。新約正書296ページ。それでは、5章1節と一緒に読みたいと思います。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
ここにですね、信仰によって義と認められた私たちですよ。みんな信仰によって、あなたは義人ですよ、と神様に言われました。
その私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、誰と平和を持っていますか?神様と平和を持っています。
今までは敵でした。和解がなかったんですね。平和がなかったんですね。しかし、キリストによって、神様とこの壁が崩れなくなってですね、平和を持っているんです。
皆さん、神様は平和の神です。神様はイエス・キリストをこの地上に送ってですね、十字架につけられてですね、
私たちをこの平和をもたらすために、神様と敵の関係で苦しい苦しい人生を送るのではなく、平和で幸せな人生を送れるように、
18:00
平和の神がキリストを十字架につけて、私たちに誠の平和をもたらしてくださいます。
それをエペソービーという手紙2章14節にですね、よく書かれていると思うんですが、そこを開きたいと思います。
エペソービーという手紙2章14節。
この平和と関しては、このエペソービーという手紙2章の、実は13節からなんですけれども、13、14、15はとても大事な数なんですが、
14節をまずですね、読みたいと思います。いいですか。14節ですよ。一緒に3回。
キリストこそ、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、アメ。
ここにですね、キリストこそ、私たちの何ですか?平和であります。
神様が平和であって、キリストが平和であります。
だから、平和を作るものが幸いなのは当たり前なんです。
当然のことですし、その平和を作るものが神の子供と呼ばれることも、それも当然のことではないでしょうか。
イエス・キリストは、神様と遠く離れていた私たちでした。
闇の中にいた私たちでした。苦しい日々を送っていた私たちでした。
罪をどうしたら、これを一人できるんだろうか悩んでいた私たちでした。
そんな私たちを敵ではなく、友としてくださいました。
子にしてくださいました。
隔ての壁を打ち壊して、平和をもたらしてくださいました。
だから、イエス・キリストご自身が、神様ご自身が平和なんです。平和。
神様もイエス・キリストも平和を願っておられますし、
私たちがイエス様のように平和を作るものになってほしいと、神は願っておられます。
だから皆さん、私たちはあらゆるところで、そこにおいて平和を作るものであっていただきたい。
それではまず、誰と平和であっていなければならないのでしょうか。
まず、自分自身と平和であるべきなんです。
21:01
つまり、それは自分自身のことを愛することです。
皆さんは自分自身のことを愛していますか。
自分自身を本当にこの世の中で一人しかない、大切な大切な宝物だと、価値のあるものだと、自分自身を愛していない人はいないんですね。
歌っているサンビの歌詞のように、君は愛されたに生まれた人、本当にその通りなんです。
愛されるにふさわしい十分な価値が、皆さん、お一人お一人には、
実は皆さん、これを、この事実を信じることが健全な信仰であって、その人こそ幸いな人なんです。
あるいは、少なくない大勢の人々が、自分自身と平和の関係に立っていない人が多いんです。
心が壊れていて、いつも落ち込んでいて、自分自身のことを、もうダメだと、価値のないものだと、生きる価値も意味もないんだと、
もうひどい場合は、それで手首を引いたり、あるいは、自ら命を断ち切る人もいるんじゃないでしょうか。
いろんな理由があるかもしれませんけれども、その中に根本的な課題・問題は、
自分がどれほど、神であられるイエス・キリストが十字架で死んでくださるほど愛されている、それを実は知っていない人。
自分自身と平和の関係でないんです。
敵のような、憎みのような、自分自身を許していない、そういうような関係に立っている。
だからその人は幸いに、幸なものになっていないんですね。
皆さん、まず自分自身を愛してください。
そして自分自身との、このイエス・キリストを信じている者は、イエス・キリストが平和だから、私たちはイエス・キリストを持っていますね。
イエス・キリスト、みさまが宿っておられる。
だから、私たちは自分自身と平和の和解の関係に立って生きているんです。
それをぜひぜひですね、覚えていただきたい。
私の知り合いの僕はですね、毎日ですね、夜のときにですね、いつも自分の体を慰めて、褒めてあげるんです。
24:01
それで、例えば今日もいろんなことを頭回して、考えて、疲れたな、頭をこう撫でたり、
今日も一日もあんまり喋って疲れたな、口をこうね、撫でたり、
今日もいろんなことを祝ったり、あるいはさらあらやしたり、掃除をしたり、大変だったりね。
自分の体をですね、こう慰める。
みなさん、自分が自分自身のことを愛してくれないと、誰が愛してくれるんですよ。
まず、自分自身のことを愛してください。
それが信仰なんです。
信仰はある意味でシンプルで簡単なところから始まるものではないでしょうか。
二つ目、隣人と平和の関係で私はいなければなりません。
さあ、書きました。
第一テサロ日記、五書、十三節、十四節。
第一テサロ日記という手紙、五書、十三節、十四節。
それですね、新約聖書401ページですね。
五書の十三節、十三節だけでいいと思います。
十三節を一緒に読みましょうか。
三、その努めのゆえに愛をもって深い尊敬を払いなさい。
お互いの間に平和を保ちなさい。
ここにですね、お互いの間に平和を保ちなさいとします。
その次の十四節、私が読みますと、
兄弟たち、あなた方に勧告します。
気ままな者をいましめ、精進な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
誰も悪をもって悪に報いないように気をつけ、
お互いの間でまたすべての人に対していつも善を行うように努めなさい。
これが平和を保つことではないでしょうか。
気ままな者をいましめること、精進な者や弱い者を助けて励ますことが平和を保つことなんです。
すべての人に対して寛容であることが平和を保つこと。
もう一ヶ所。ヘブル人への手紙、十二章、十四節。
今日ですね、平和について学んでいますので、
27:01
この歌詞を今日の大野国書校書のところに横にメモしておいていただけたらまた参考になるかと思いますが、
ヘブル十二章、十四節、441ページですね。
一緒に読みたいと思います。
3、すべての人との平和を追い求め、また清められることを追い求めなさい。
清くなければ誰も死を見ることができません。
ですからこの十四節がですね、今日の五章の八節と九節と、
もうそれを一節でまとめていることではないでしょうか。
すべての人との平和を追い求め、また清められることを追い求めなさい。
清くなければ、日本語の正解は清くなければとありますが、これらがなければという意味でもあります。
つまり平和を求めることがなければ、清められることを求めることがなければ、誰も死を見ることができないということです。
これはですね、信じるあたたき信者に本当に強く迫ってくる御言葉だと思います。
清めなくしては、平和なくしては、神を見ることができます。
神の子供と呼ばれることはできない。
これは教会論に繋がれる言葉なんですね。
教会は主の体であります。
一つであって平和を保すべき群れが教会なんです。
もう一ヶ所、ローマ書12章18節。
ローマ人への手紙12章18節。
309ページですね。
よろしいですか、18節。
一緒に3枚。
あなた方は自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
アメン。
皆さん、自分に関する限り、すべてのですよ。
すべての人と平和を保ちなさい。
平和を保ちなさい。
すべての人の中には、このような人々が含まれているんでしょうか。
家族も含まれている。
子供も、妻も、夫も、親戚も、友達も、
あるいは敵も、あるいは自分とも会いたくない人も、
自分を苦しめる人も、嫌な人も、
このすべての人の中に含まれているわけですね。
30:02
だから皆さん、私たちは、
このすべての人と和解を保ち、平和を保つことが、
信仰の基本の基本であって、
神の子供と呼ばれる、
神の国を見ることができる、この恵みがここにある。
皆さんはどうやるのかわかりませんけれども、
私の中には、
特に今よりもっと若い時ですよ。
20代の時には、
この自分を苦しめる人、嫌な人と仲直りするのが、
なかなか難しかったんですね。
許すことも、理解することも、なかなか難しかった。
悩みが多くあったわけなんですね。
ところが皆さん、
私たちが信仰生活をしていけばいくほど、
御霊に満ちあうれ、
イエス・キリストの愛と、
イエス・キリスト御自身に満ちあうれますから、
私たちの内側には、
精霊のここの蕾と、
また平和であられるイエスによって、
満ちあふれるように変えられていくものですから、
そして本当に自分自身が、
全ての人と平和を楽しすけられるように、
変えられていくのではないでしょうか。
それが信仰であって、
そして主御自身が早速に、
その平和をもたらしてくださることを信じつつ、
歩んでいきたいと、そう思うのであります。
三つ目、
平和は神様と平和の関係でいられなければなりません。
さっきのエペストビトリの手紙2章の13から16節を、
もう一度開きたいと思いますが、
エペストビトリの手紙2章の13節から16節、
私が読みましてね、
エペストビトリは神との平和に関して、
とても重要な歌詞なんですね。
エペストビトリの手紙2章の13から16節、
もう一度読みたいと思います。
しかし以前は遠く離れていたあなた方も、
今ではキリストイエスの中にあることにより、
キリストの血によって近いものとされています。
キリストこそは私たちの平和であり、
二つのものを一つにし、
手立ての壁を打ち壊し、
ご自分の肉において敵意を廃棄された形、
敵意とは様々な規定から成り立っている
33:00
イマチネの立法なのです。
このことは二つのものをご自身において、
新しい一人の人に作り上げて、
平和を実現するためであり、
また両者を一つの体として十字架によって、
神と和解させるためなのです。
敵意は十字架によって葬り去られましたため。
ですからここを見ますと、
十字架によって神と和解させる。
私たちがそこに立っているわけです。
だから皆さん、神様と和解させられていないなら、
神様と平和の関係に立っていないなら、
自分自身とも人とも平和の関係に
いることはできない。
皆さん、信者でありながらも、
クリスタンでありながらも、
もしも神様との間に、
手立ての壁のようなものが、
少しでももしも残っている人はいないでしょうか。
それが一割でもあるかもしれませんし、
貪欲であるかもしれませんし、
あるいは微善であるかもしれませんし、
あるいはみだらな罪であるかもしれませんし、
あるいは不信心であるかもしれませんし、
あるいは一通りで、
あるいは平らであるかもしれません。
あるいはほとんどないかもしれません。
ところが神様との間に、
この平和和解の関係を隔てる壁が、
妨げる何かの壁があるならば、
幸いな人生を送ることができないわけです。
それはですね、九百世書の予部がそれを語っているんですね。
予部記をちょっと開きましょうか。
四辺の手前ですね。
予部記二十二章、二十一節です。
これですね、今日の御言葉をですね、
もっとも分かりやすく語っているんですね。
八百七十八ページです。
九百世書、八百七十八ページ。
二十二章、二十一節。一緒に読みたいと思います。
三、はい。
今日のですね、御言葉と全く一緒ではないですか。
同じなんです。
神様と和らぐ、それは神様と平和の関係でありなさい、そう。
そうすれ、そうして平和を得なさい。
36:02
そうしたらあなたは幸せに生きられますよ、という意味なんです。
だから皆さん、私たちがいくら金を持って、いい仕事を持って、
一般に成功して、ありほどの成功をしてとあってもですね、
まことの意味で、神様との平和の関係で立っていない限り、
まことの際は、
だから神の子供と呼ばれるか呼ばれないか、その比較はどこにあるんですか。
私たちが平和を作るものか、平和を妨げるものか、そこにあるかと思います。
ですから皆さん、平和を作るために、平和のために心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、平和を尽くしてください。
平和というものは、もう自動的にですね、自らやってくるのではないです。
平和を作るものは足りますよ。平和を作ってください。
夫婦の間で、今朝、昨日の夜皆さん、夫婦の間で、親子の家族の中で、皆さん平和を作りましたか。
喜びを作ったんでしょうか。どうでしょうか。
職場で、学校で、教会で、皆さんは毎週毎日のように平和を作っているんでしょうか。
ピースメーカーででしょうか、皆さん。
皆さんが踏んでいたその足跡には平和の花が咲いているでしょうか。
皆さんの中にはこんな方はいらせないかもしれませんけれども、ある信者ですね、教会に行ったりはですね、
いつも活気があふれて、喜びと平和があふれるんですね。
しかしその人は家に帰ったら、活気もないし、平和もないし、心に微笑みもないし、
ピースメーカーじゃなくてトラブルメーカーに返信する人がいたりする。
それはある意味で正しい信仰、健全な信仰ではないんですね。
教会であれ、家庭であれ、職場であれ、学校であれ、
そこで神様との間、自分との間、人との間で平和を作るものであること。
これが信仰ではないでしょうか。
その見言葉に基づいてですね、もう一度、旧説を一緒に読んでいただきですね、メッセージを終わりたいと思います。
旧説、マサイの訓示と語書、語書、旧説、一緒に読みたいと思います。
3回、平和を作るものは幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるから、アーメン。
39:03
皆さん、神様が平和です。イエス・キリストが平和です。
精霊様ご自身が平和です。
だから皆さん、どうか皆さんが家庭で、職場で、学校で、教会で、
どうかピースメーカーとして平和を作るものであっていただきたい。
皆さんのゆえに、周りの人々が本当に神様を見出すことができる。
力を、命を得られる。
そして皆さんのゆえに、その人々が本当に力を受けて生きる力を得ることができるようなピースメーカーであっていただきたい。
家庭ででもですよ。職場ででもですよ。教会ででもですよ。学校ででもですよ。
そこで神の御使いのように、神様のイエス・キリストの太子のように平和を作る。
その務めをですね、一生の間、それをさせていただきたいと願っております。お祈りです。