00:00
今日は、あらゆる慰めに満ちた神様について メッセージを分かち合いたいと思います。
皆さん、この世の中で何が一番きついですか? 難しいですか?
痛み、苦難ではありませんか?
この世の中には苦難があります。 この世の中に涙もあります。痛みもあります。
本当に難しいことがいっぱいあります。 これは、創世紀3章以来
人間に与えられた、この世に与えられた宿命と言いましょうか。 ところが、キリスト社には特別な苦難があります。
世の中にある苦難、プラス キリスト社だけにある苦難があります。
これが、キリストの福音のために 受けるべき、この世からの苦しみ、迫害があります。
イエス様も、この苦難を担いました。 しかし、イエス様は、ヨハネ16章33節にこう言われます。
あなた方には、世で苦難がある。 しかし、勇気を足しなさい。
私はすでに世に勝っているから、と言われています。 私たちに苦難が問題になるのは、
私たちはイエス様を信じて、神の子供になりました。 神の子供になった時、皆さん、期待することがあったでしょう。
また、主に熱心に奉仕し、教会のために 自分のすべてを尽くして働いたのに、苦難がある時。
主のために熱心に働いたら、何か報いがあるのではないかと思っているのに、
報いではなく、迫害があるとか、苦難がある時、 私たちには、それが躓きになる可能性があります。
特に、最後の時の教会の使命があるんですけど、 これが、回復とリバイバルです。
すべての教会は、新しい川袋に 教会にならなければいけないんですけど、
その働きについて、先輩たちはこう言います。 これは偉大な働きだ。
偉大な働きには、大きな戦いがあるんだ。 その戦いのために、代価を支払わなければならないと言います。
じゃあ、最後の時の信徒たち、教会生活をするためには、
私たちには、この大きな大きな主の宮座のための 苦難があることを、私たちに教えてくださいます。
この世の中で、キリスト社として苦難があるのに、 この上へ、また、いろいろ難しさがあると言った時、
私たちは、信仰生活をどうしようかと思っておられるかもしれません。 しかし、苦難が大きければ大きいほど、慰めが大きいです。
03:11
神様は、慰めの神様ですけど、 あらゆる、すべてに対する慰めの神様です。
私たちは、この神様を信じて、私たちは、このすべてを乗り越えて、勝ち抜いて、 キリスト社らしい、素晴らしい信仰生活ができればと思って、
今日は、あらゆる慰めに満ちた神様に対して、 一緒にメッセージを分かち合いたいと思います。
まずはじめに、キリスト社にある苦難。
第二手もて三書中二節には、キリストイエスに結ばれて、 信心深く生きようとする人は、みんな迫害を受けます。
キリストイエスに結ばれて、信心深く生きようとする人には、 祝福があります。
言ったら理解できるんですけど、迫害があります。
いや、これは少し難しいんじゃないかと思いますね。
この世って何でしょう。
この世の中は、キリストに結ばれて、 信心深く正しく生きようとするなら迫害があるんだと言います。
じゃあ、イエス様はこれをあらかじめ教えてください。
その理由は何なのか。
十五章中八節中九節にあります。
世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に、 私を憎んでいたことを覚えなさい。
あなた方が世に直していたなら、 世はあなた方を身内として愛したはずである。
だが、あなた方は世に直していない。 私があなた方を世から選び出した。
だから世はあなたたちを憎むのだ。
この世って一体何でしょう。
この世の中は悪魔が支配する世界です。
創世紀3章以来、この世の中の主人、 この世の中の神は悪魔になっているんです。
キリスト社にある苦難、どうしましょう。
ですから、3章の水訓、又五章、 十節から中二節に、
気のために迫害される人々は幸いである。
正しく生きようとするのに迫害があります。
しかし、気のために迫害される人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。
私のために罵られ、迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪行を浴びせられるとき、
あなた方は幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがあるからと言います。
06:04
では、キリスト社にはどんな苦難があるのでしょうか。
これをパオルを通して考えていきましょう。
キリスト社には外からも迫害もあるし、 内からも苦難もあります。
では、まず外からの苦難です。
キリストの福音に反対する人、 福音を伝えるときに環境から、
また悪魔、出来からの苦難があります。
第二コリント1章8節9節、兄弟たち、 アジア州で私たちがこう思った苦難について、
ぜひ知ってほしい。
私たちには耐えられないほどひどい圧迫されて、 生きる望みさえ失ってしまいました。
私たちはとしては死の宣告を受けたと思いました。
死の宣告を受けたほど大きな苦難があったという。
もっと具体的に第二コリント11章23節から それを教えてください。
苦労したことはずっと多く、 投獄されたこともずっと多く、
鞭打たれたことも比較的ほど多く、 死のような目にあったことも度々ありました。
ユダヤ人から40人ひとつ足りない鞭を受けたことが子供ありし、
鞭打たれたことが3度あるし、 石を投げつけられたことも1度あって、
難船したことも3度、 一夜、夜眠れなかったことも、
海上で漂ったこともありました。
しばしば旅の中で、川の難、投石の、 投族の難、東方からの難、
異邦人からの難、街での難、あれのでの難、 海上の難、未成兄弟たちからの青難、
苦しい骨折り、しばしば眠らず過ごし、 上渇き、しばしば食べずにおり、
寒さに凍え、裸でいたこともありました。
パウルが受けた苦難はたくさんありました。
皆さん、このような福音を伝えるために苦難があるなら、 教会に来ますか?
その苦難があるんだとするなら、 福音を伝えることをしますか?
事実、パウルはそうしなくてもよかったんです。
ピリポ3章5節から6節を見ますと、
パウルはユダヤ人世界で、 出世、成功する全ての条件を全部持っている人でした。
彼はいくらでも楽に過ごすことができました。
しかし、彼はわざわざ苦労を勝手するような人になってしまったんです。
09:08
なぜ彼はそのようにしたんでしょうか?
イエス様が迫害者であった自分自身を救ってくださり、 神の子供にしてくださり、
地獄に行く者を天国にさせてくださったことの恵みに、
会社の心で、自分自身がこの恵みを受けた私、 どうしたらいいんでしょうと思いながら、
自分はわざわざ迫害を受けながら、 彼は福音のために苦労したので、わざわざ。
私はこのメッセージを準備しながら、
パウルはこのような苦難を受けたのは、 私を救ってくださったこの恵みの感謝のゆえだと、
その表現を私はここに書きながらも、 私の皮膚に実感がありませんでした。
もし私が福音のために当国されるようになったら、 牧師やめるんじゃないでしょうか。
続けて福音を伝えるこの勇気、 その気持ちがあるのかと思ったときに、恥ずかしくなります。
このパウルのように、どれほど大きな恵みをいただいたから、
彼はこんなに苦労したのか、
この恵みを私たちも同じように受けているのに、
なぜ私たちはそのような心が出ないのかということが、
本当に私はこの恵みの福音、 福音の恵みをよくわかっていないもの、
自分が神様から受けたこの祝福を わかっていないものだなということを考えました。
先週金曜日、鳥梨起動会のこの時間で、 この分かち合ったメッセージです。
ダビデは油を注がれてから博愛があります。
油を注がれる前は博愛がなかったんです。
皆さん、神様、油を注いでくださいと祈るでしょう。
何を期待しますか?
油を注がれたら偉くなり、
それによって教会で高く評価させてもらって、
自分は幸せになるんじゃないかと思いながら、 油を注いでくださいと言うでしょう。
しかしダビデは油を注がれてから博愛があったんです。
私たちが覚悟しなきゃいけないことがあります。
神様から恵みをたっぷりいただいたら、 みんなが喜ぶと思うでしょう。
しかし、神様の恵みを受けた人を世の中は嫌がります。
憎みます。
なぜなら、この世の中の神は悪魔だからです。
この世の中の王は悪魔だからです。
だから、私たちは神様から恵みをいただくときには、 覚悟が必要だということです。
ですから、キリスト社は一人で信仰生活しては絶対いけません。
12:05
共同体が必要です。
助け合う、祈り合う、愛し合う相手が必要です。
その協力がなければ、信仰生活はできません。
特に終わりの時期には、それはできません。
また、外部からの迫害もあったと言います。
迫害ではなく、外部からの苦難ですね。
神徒たちと各教会を変えりみるときの いろいろな苦難です。
まず、パウロは福音によって生んだいろいろな弟子たちがいました。
その人たちを育てて、 そしてその人たちがうまく成長して一人前になることを
自分が支えていく親としての苦難がありました。
その苦難に対して彼はどれほどのことをやったのか。
ローマ書1章9節には、その神が証してくださったことですが、
私は祈るときに、いつもあなたたちのために思い起こした。
神様が私の証人だ。
私があなたたちのためにどれほど祈っているか。
自分が生んだ弟子たちのために。
パウロはどれほど祈ったのでしょうか。
また、ピリッポ1章8節には、私がキリスト・イエスの愛の心で
あなたたち一度のことをどれほど思っているか。
どれほどあなたたちのために今私たちはいろいろなことを考えているか。
神様が私を証してくださった。
それほど自分が生んで育てるその一人一人に対して
祈ってあげたり、助けてあげたり、手紙を書いてあげたり、
いろいろなことをしながら、自分が生んでそのままほったらかしていくのではなくて、
その方たちを助けたということですね。
また彼はピリッポ3章18節には何度も言ってきたし、
今でも涙を流しながら言いますが、
キリストの十字架の敵になって歩んでいる人が大勢いる。
キリストの福音から離れている人たちに対しては、
涙を流しながらこの人たちのために祈って、今考えているということです。
またパウロは真事の霊の糧を食べさせるためにいろいろ苦労しました。
皆さん、神徒たちは甘い説教が好きです。
しかし甘い説教は体にあまり良くないんです。
体に本当に良いものは、この真理、苦いメッセージ、これが大事です。
パウロは、神徒たちは聞きたくないと思うかもしれないけど、
正しいメッセージはこの人たちに食べさせるために、
15:02
彼は苦労したということも聖書に書いてあります。
また神徒たちだけではなく、神の家である業界を開拓し、
その業界が安定的にしっかり立ち、福音が述べされるために、
彼は苦労しました。
諸大業界は福音がまだ安定的にセットアップできていない状態だから、
理性キリスト、理性の先生たちがいて、
その人たちがたびたび業界に行って、変なことを教えることによって、
神徒たちがいろいろ難しさを感じることがたくさんありました。
そのように業界がうまく立てられなければどうするかと思いながら、
パウロはそのために彼は夜も昼もこの業界を立てて、
祈ることを熱心にしたと言います。
そうです、神徒たちのために、また業界をしっかり立てるために、
パウロは祈る、またその人たちを訪問して、
慰めてその人たちを立たせる働きを熱心にしたことがわかります。
ところが、第2コリント1章17節に、また異なる苦難があるということが書いてあります。
その内容をよく見ていますと、
頻繁な計画変更によって、神徒たちが、
シトパウロが本当に神の御声を聞いて従っているのか、
私たちには親しみが大事だよ、神の御声を聞いて従うことが大事だよと言ったのに、
自分自身がそうではないのではないかという、
神徒たちに誤解することに応える、そのようなことに対する苦難もありました。
その内容が第2コリント1章12節から2章4節までです。
コリント第1の手紙では、パウロはエピソードにとどまりながら、
これからマケドニアに行って、そしてコリント教会に行くよと手紙を書いて送りました。
しかしエピソード教会に行った時、コリント教会に問題が起こりました。
だからマケドニアに行ってコリント教会に行かないで、すぐにコリント教会に行ってしまったのです。
またその時、コリント教会からマケドニアに行って、
そして2度私はコリント教会に行くと言ったのですが、
それもエピソード教会に来たら、また計画変更がありました。
だったら皆さんはどうしますか。
神の御声を聞いて手紙を書いたと言いながら、
パウロ自身が計画を度々変更してしまうから、
私たちにはもう神様の御声を聞いて従いなさいと言ったのに、自分自身はそうではないのではないか。
パウロは精霊の導きを受けないで、自分の人間的な知恵によって行うんだという非難もありました。
18:01
そこに対してパウロは、私はそうではない。
私は人間的な知恵によって行ったことではなく、
神徒たちにもっと有益になるように、神様の前で、
神徒たちの有益になるように、私は真実で行ったことを弁明しなければいけなかった。
神様に対して、神徒たちに対して、
偽りがない誠実さ、愛を持っている自分自身を対して弁明しなければいけないパウロの立場。
皆さん、神の御教を聞いて従うことよりもっと大事なことは何ですか。
神徒たちを愛して、神徒たちの有益になるように、その人を助けるように、
神様に御前聞いたんですけど、それをまた祈りながら、
神徒たちにもっと有益になるように助けようとするパウロの努力、これがここに現れているんです。
いろいろな意味で、パウロはいつも教会のために、神徒たちのために、
自分の心を尽くしながら、どうしたらもっと上手く立てられるか、
この考え、この熱心、自分自身を考えるよりもっと教会のこと、神徒たちのことを考えたということ、
これが職官では私たちによく教えてくださいます。
ところが皆さん、苦難が怖いのは、自分が強いとき苦難が来たら乗り越えます。
耐え忍びます。
しかし、自分が一番弱くなっているとき苦難が来たら、
ここで私たちは倒れてしまい、つまずいてしまうんです。
悪魔はよく知っています。
私たちが今、力強いのか、信仰が強いのか、信仰が弱くなっているのか、よくわかっています。
イエス様に対して悪魔がいつ試みをやったんですか。
また4章2節を見ますと、
そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると誘惑する者が来て、イエスに言った。
神の子なら、この石でパンを作って食べたらどうだ。
イエス様にも一番弱いとき、悪魔は試みをかけるんです。
だから皆さん、今信仰が良くて、何でも乗り越えて、何でも勝ち抜くようなパワーがあるときには、
悪魔が皆さんを試みることはあまりないかもしれません。
もちろんありますけど。
しかし皆さんが弱くなっているとき、
必ず試みをする悪魔が来るんだということを覚えていきましょう。
私は天道寺さんが警視庁で今、わざわざやっているんですけど、
私は一番祈るんです。なぜでしょう。
その時を狙っている悪魔ですから。
だから、教会の中でとりなし祈りが必要です。
21:02
皆さん、何か良くない病気、苦しみ、
もうコンサニブンもいろいろ連絡があるときに、
私たちは特にそれを祈らなきゃいけない。
祈らなきゃいけないんです。
悪魔が弱いとき来るんですよ。
強いとき来るんじゃない。
もちろん来ますけど。
弱いとき試みが来たとき、私たちはつまずいてしまったり、
倒れてしまうからです。
だから、神道たちのとりなし祈りは何より大事なんです。
2番目、感謝したいのは、
苦難の中で自分の子供をうまく助けられる神様。
ですから、豊かに勝ち抜くことができるようにしてください。
大にこりと1章8節から9節、
アジア州で私たちが受けた苦難について、
是非してほしいと言いながら、
彼は生きる希望も失ってしまい、
死の宣告まで受けたようなこの状態でしたと言います。
その状態でそのままほったらかしていったのか。
いいえ、神様は奇跡的に彼たちを助けてくださったんです。
神様の助けと慰め、
憐れみ、それによって彼たちは生かされたと言います。
神様は皆さんが苦しんでいること、
痛みを持っていることをよく知っておられます。
私たちの嘆きも全部わかっています。
だから、私たちを知っておられる神様は、
私たちを豊かに助けてくださいます。
では神様、なぜ私たちに試みを許されるんですか。
苦難を許されるんですか。
そうしたらパウロはこう言います。
死者を復活させる神様だけを頼りにするようにと言います。
私たちが他のことを委ねるんじゃなくて、
神様だけを頼りにするように苦難があるんだということを教えてください。
しかし皆さん、神様の復活の力を皆さんに教えたいです。
そのときどうされると思いますか。
皆さんが死の状況まで落ち込んでいるときに、
神様を助けられるときに復活の力が何かわかります。
死の経験がない人には復活の命をわからないんです。
だから信仰がいい人でもたびたび、
神様は私たちを訓練される場合があるんだということを
ぜひ覚えていただきたいと思います。
2番目はまた慰め合い。
教会の信徒たちがパウロが福音を述べされるときに
後悔したり反発したり脅威したりすることがありました。
そのためにパウロは心からいろいろな痛みを感じたんですけど、
それで神様が働いたら、彼らがパウロの真心、
自分たちに対する真心を理解し知るようになって、
24:04
復印を受けるだけじゃなくて、
悔い改めをするところまで行ったということを
パウロに教えてくださったんです。
これは聖霊様の助けじゃなければできないんですけど、
そのためにパウロは熱心に祈ったんです。
祈りの答えとして、
信徒たちがパウロがメッセージしたことをよく理解して、
悔い改めに導いてあった。
そのときのパウロの心が第1テサルニケの3書8節です。
あなたたちが主にしっかり結ばれているなら、
そうするなら私は生かされます。
そうじゃなかったら私は死ぬそうな苦しみがあったということでしょう。
子供たちが親の話を聞いて代わってくれるから、
親が喜ぶように、
パウロは信徒たちに対する、
いつも牧者の心を持っていたことがわかります。
このように、
慰めの神様から慰めを受けた経験がある人は、
他の人を助ける力にあります。
皆さん、神様から慰めをいただいて、
この苦難から乗り越えたという経験がある人が、
他の人を助けるなら、
この人も豊かにこの慰めを受け入れて、
乗り越えることができます。
この慰めの力が異なります。
皆さん、聖書の中で、
慰めの人という人がいます。
どなたか知っていますか。
これが首都行伝4章36節にありますけど、
この人がバルナバという人です。
バルナバという名前の意味が、
慰めの子という意味です。
もともとこのバルナバの名前はヨセプでした。
しかし、彼が神様からいただいた、
この様々な試練の中で、
苦難の中でいただいた、
この慰めを自分でしっかり身についているので、
自分も他の人を慰める人になった。
だから、人たちがバルナバという名前を付けたということです。
私は、私たちの教会で、
バルナバがたくさん現れることを祈っています。
バルナバがどれほど大きな役割をしたか知っていますか。
パウルが、もともとサウルでした。
パウルに変わりました。
その時、教会の人たちが彼を受け入れなかった。
それを受け入れるように助けた人、
パウルがパウルになるように助けた人がバルナバでした。
また、戦況良好で彼がつまづいて逃げてしまったマルコ。
だから、パウルはもうマルコは受け入れないと思った。
しかし、このマルコを生かしたのはバルナバです。
だから、マルコが後になって、
マルコによる福音書を書くような立派な人として育てた人がバルナバでした。
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業界には慰めの人が必要です。
つまづいている人、牧師のメッセージからいろいろつまづくことがたくさんあるでしょう。
その時、その人が来て肩を叩きながら、
いいよ、いいよと言いながら慰めて、
その人がもう一度力を出して、
そのために働く人にならせる。
その役目、この慰めの人。
これは、自分が神様から慰めてもらわなかったら、
これはできないことでしょう。
私たちの教会、バルナバがたくさん現れることを願っています。
3番目です。
ところが、苦難が怖くて、苦難が嫌で、避ける人もいます。
福音を述べ伝えたら、必ず3つの部類の人が現れます。
1つの部類は、これを聞いて悟って従う人。
もう1つの部類は傍観者です。
もう1つの部類は敵対者です。
従ってくる人、敵対者は少ないかもしれないけど、
ほとんどの人が傍観者になります。
傍観者になったらどうなるのか。
福音のために苦労したくない。
苦労したくていいでしょう。
しかし、神様からの慰めは経験できません。
そのような人の信仰はいつも生ぬるい、曖昧な信仰になります。
信仰は成長もありません。
礼儀的に何にも体験することができないから、信仰ができません。
苦難がないけど、慰めもないということです。
キリストの福音のために働くこと、
時には内部から外部からいろいろ苦難が多いけど、
苦難が多いほど慰めが多い。
この慰めがこれからの信仰の力になります。
苦難の中で受けた慰めによって、
まず自分自身が信仰が強くなり、神の愛を知り成長できます。
また、苦難を受けた人は分かります。
この人はどれほど辛いか、どれほど難しいか分かります。
よく助けることができます。
また大事なのは、これからどんな苦難があっても、
どんな苦難があっても、
十字架の兵士としてしっかり立てていく。
このような人になるということです。
最後に皆さん、和紙の訓練知ってますか。
親の和紙が子どもの和紙をどう訓練するのかということです。
空の高いところまで取って、ずっと上までいきます。
そして落とします。
だったら子どもの和紙はどうしますか。
死の危険を感じて羽ばたきをします。
そして力がないから、地面にぶつかる直前に
30:07
親和紙が来て、キャーッと蹴散らします。
それで取って、彼が保護してくれます。
もう一度上から落とします。
このように何度も何度も繰り返している間、
肩が強くなる。肩が強い和紙になります。
皆さん、和紙の特徴は、
大夫が来たら、他の鳥は全部大夫を逃げてどこかに逃げるんですけど、
和紙は大夫の上を飛ぶ。
これ意味は、苦難の中でどうしようかというのではなくて、
苦難を上に行って乗り越えて苦難を眺めながら、
苦難を楽しむということでしょうかね。
それをうまくコントロールできる、
そのような素晴らしい和紙になるということです。
神様は、私たちがこの肩が強い和紙のような人になることを願います。
苦難が来ても、いろいろな問題が来ても、
それを上から乗り越えて、
それを全てコントロールできるような、
このような素晴らしい信仰者ができることを願います。
パウロがこの訓練をたくさん受けたから、彼がこう言います。
自分が経験したこの聖書、第一コニト十書十三節です。
あなた方を襲った訓練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実な方です。
あなた方を耐えられないような試練に襲われることではなく、
試練と共にそれを耐えられるよう、逃れる道をも備えてください。
私が地面にぶつかろうとする子供をしっかりキャッチして、
それで守ってくれるように、訓練はするけど保護してくれる。
訓練はするけど、その辛さを慰めてくれる、このような方がおられます。
豊かな恵み、あらゆる慰めに満ちた神様、おられます。
ぜひ覚えていきましょう。
神は絶対全、全知全能です。
また、ローマ書三章二十八節、万事が益になるように、
共に働いてください。
必ず全てを通して、私たちに有益を与えてください。
皆さん失敗しても大丈夫です。
失敗を通してもっと良くなるでしょう。
成功したらもっともっと良いです。
失敗してもいい、成功できなくてもいいんです。
人生の中で神様は長いスパンで私たちを見ておられ、
天国まで考えながら私たちを導いておられる、
33:03
全てを分かっておられる神様。
神様がおられるから、皆さん何をしても大丈夫なんです。
私たちの神様は全てを助けてください。
すぐこれが解決できるかないか、どうしようどうしよう、ではありません。
解決できてもいいし、解決できなくても、
そこから学ぶことがいっぱいあります。
神様はそれを用いて、私たちをもっともっと立派な
信徒として助けてください。
世の中には苦難があります。
神様はこの苦難をよくよく用いてくださって、
私たちに有益になるように私たちを助けてくださり、
私たちはキリストの兵士として、キリストの神父として、
神様は必ず私たちを立たせてくださいます。
創世紀3章以来、世の中には苦難があります。
特にキリスト社人はもっと大きな苦難があると言います。
しかし心配なさらないでください。
苦難には必ず神様の計画があります。
必ず私たちに利益を与えてくださいます。
ですから、主に誓いながら苦難が来るなら、
私たちはどうすればいいですか、ニス様は教えてくださいます。
マタエの5章12節、喜びなさい。
苦難があるんですか、喜びなさい。
以前、私は大学生の時に、
家から箱買いを受けて家へ追い出されて、
武産の大学の時の家塾の家に入ったら、
このシシシのメンバーの信者がいます。
その人はいつも私が帰ってくる時、こう言います。
先輩、喜んでください、喜んでください。
私は辛い思いをしている私に、彼は喜んでくださいと言いました。
そうです、喜ぶべきことです。
その時、私の信仰が立派に成長したものですから。
信仰の成長を私は感じなかったんですけど、
その時、箱買いの中で信仰がますます立派になって、
今もその信仰で生きているものですから。
全員とも苦難の中で苦しんだということで、
皆さん、落ち着いたりつまずいたりなさらないでください。
必ず、神様は私たちを立派にさせてください。
また、ヨハネ16章33節、勇気を出しなさい。
私はすでに世に勝っている。
だから、あなたたちも勝たせてあげるからと言われています。
この神様を信じて、皆さん、今どんな苦労がありますか、
どんな痛みがありますか、どんな問題がありますか、
喜びましょう。
イエス様が勝ってくださったものですから、
私たちを勝たせてくださると信じて、
ぜひとも皆さん、キリスト社らしい、素晴らしい神の子供らしい私たちになっていきましょう。
お祈りいたします。
36:01
主よ、この世の中で本当にたくさんの苦難、痛みがこんなにたくさんあります。
特に私たちがイエス様を信じるから来る苦難と迫害を
本当に耐え忍ぶことに難しい時もあります。
しかし、主が助けてくださり、私たちを本当に全部わかっておられる、
助けてくださる、またこの苦難を通して大きな報いをあるのだということがわかりました。
私のようにすべてをうまく乗り越えていく私たちになりたいと思います。
そして、苦難の中にいる大勢の方々を助ける、慰める私たちにならせてください。
イエス様の源を通してお祈りいたします。
アーメン。