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2022-06-19 36:34

「神中心的な生活の為に」2022年6月19日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2022年6月19日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

マタイ 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

イザヤ53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
ガラテア,23 霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23.柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

Ⅰコリント13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

ヘブライ だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

Ⅰコリント2:3,4 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。4.わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。

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今日は、神中心的な生活のためにという対応をもって メッセージを分かっちゃいたいと思います。
私たちの教会のDジェムは、また私たちの教会の使命は、 回復とリバイバルです。
皆さん、これは今までずっと聞いておられたことですね。 これをイエス様は、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきだと言いました。
新しいぶどう酒はリバイバルです。 それは、新しい皮袋に入れるべきだということは、回復された教会を意味します。
私たちの教会は、回復された教会として神様に認めてもらいたい。 これが一番の私たちの使命であり、求めることです。
回復されたら、私たちに神様が、神のときにリバイバルを送ってくださるでしょう。
私が頑張るんじゃなくて、神のリバイバルの力によって私が働きます。 そして、神の御業が成し遂げられます。
ここで、回復された教会になるために、 教会のいろいろな要素が回復しなければいけないんですけど、
一番根本的な回復は、 自己中心的な信仰を神中心的な信仰に変えなければならないということです。
では、神中心的な信仰とは何でしょう。 私たちはみんな、自分の目的のために、自分の道と自分の方法、
また自分の熱心で何かをやっています。 信仰生活もそうしています。
これを、神様の目的のために、神の道と神の方法を通して、 また神様が与えてくださる資源を通して、信仰生活することを意味します。
このように過ごしていけば、私が頑張るんじゃなくて、主が働きます。 これを、イエス様は、葡萄の木に枝がつながっていれば、
木が枝に葡萄の実を与えてくださるんだということを説明しました。 そのようにして、これから葡萄の木の生活をしなさい。
神中心的な生活をしなさいと、私たちにイエス様が教えてくださいました。 私たちは、自己中心的な信仰生活、
自己中心的な生活をしてはいけません。 なぜなら、
イザヤ5図3書6節にこう言います。 私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かっていた。
その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。 イエス様が十字架で死んでくださった理由は、私たちの罪のゆえなんですけど、
私たちの罪は何か、自分の道に行って、自分勝手にやったということ。 自己中心性なんです。
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自己中心性イコール罪なんです。 だから、私たちは自己中心的な考え方、生活、信仰をしてなければなりません。
ところが事実、 教会の神と皆さんは、今まで
職場の生活、勝手にの生活、またその上、教会の生活を熱心にやってきました。
みんな今頑張っているでしょう。 教会のために自分ができることを全部尽くしてやっていらっしゃるんじゃないですか。
何が間違えたんですか。 だから、この部分を
この私が、この博士が、うまく説明すればよかったんですけど、 なかなか説明が難しくて、今までうまくできなかったので、
私が語っているこの信仰生活が難しく考えられたんじゃないかと思って、 今日はこれをもっとうまく理解しやすい、
何かメッセージができないかなと思って、1週間工夫しました。 そして、神中心的な信仰、神中心的な生活はどうするのか、
これを今日皆さんがわかりやすく、これからも 新しい川袋の教会になるために一番基本になる、これをこうすればいいんだということを
皆さんに確かに提示したいと思って、今日のメッセージを準備しました。 今日の項目をよくよく考えて、これから神中心的な信仰といったら、
これをやれば皆さんOKだと思います。 ぜひともこのような観点から聞いていただければと思います。
神中心的な生活は、まず神様の目的のために生きる生活です。 神の目的のために生きるということは、言葉を変えれば、
神様を喜ばせるために、 神様の栄光のために生きることです。
事実は私たちは非常物です。 非常物が創造主神様のために生きるということは、これはもちろん当たり前のことですけど、これは人生の中で一番美しいこと、一番生き甲斐がある仕事なんです。
ではどうすれば神様が喜ばれ、神様が栄光を受けられる、 こんな素晴らしい信仰生活ができるのか。
では、普遍的には神様の目的は何ですかと言ったら、 一番分かりやすい聖書全体が2つを言っています。
聖書全体が私たちに教えてくださるのは、 第一の忌ましめ、第二の忌ましめです。
まず、自分のすべてを美して神を愛しなさい、これです。 そうしたら神様が栄光を受けられます。
神様が喜ばれます。 また、隣人を自分のように愛しなさい。
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これをやれば神様が大喜びです。 だから私たちは神の栄光のために、神を愛する、また隣人を愛する、
この2つを私たちが行わなければなりません。 じゃあ、神を愛することをどうするんですか。
神様をあがめ、神様に本当に使えることです。 主の目的が何かを分かって、それに真心全霊で
そこに尽くしていくことです。 そのためにまず何をするんですか。
礼拝なんです、礼拝。 神様を拝むべき拝。
私たちがすべてを通して、礼拝中心的な信仰、 教会中心、礼拝中心、
これが何があっても神様、何があっても教会、 何があっても礼拝を守る。
皆さんこのような信仰になる人を神様が一番喜ばれます。 礼拝者。
2番目、隣人を愛して何をするんですか。 隣人を愛して使える救済の活動をする。
また隣人が病気になった時に癒しのために祈ってあげる。 助けて隣人をとにかく私たちが天国に導く
ためにやっていくすべてが隣人を愛することです。 皆さんこのようなことなさっているでしょう。
マッタイの28章19節、あなたたちは行ってすべての民を私の弟子にしなさいと言いました。 大宣教命令。
キリスト社ならなんとか周りの方たちを助けたい。 病気にかかったら祈ってあげたい。
何か私が何かその人をために救済の活動をしたいと思っていませんか。 天国に導いていきたいと思っているでしょう。
これがすべて隣人を愛する心から出ることです。 その働きを神様は非常に喜ばれます。
ですから私たちは礼拝者、使命人として 生きることが神様喜ばれ、神の栄光のために生きることと同じです。
ご理解できますね。また特別にある個人、ある業界には 神様は特別なビジョン、使命を与える場合があります。
その使命のために生きることも神の目的のために生きることです。 アフラーモニー神様は
神様がある一つの何か民を作りたかった。 信仰を持っている民を作りたくて
あなたは生まれ育て父の家を離れ私が示す地に行きなさい。 カナンに行ってカナンの土地の上へ信仰の民を作ろう。
これがアフラーモニーの使命でした。 そのためにアフラーモニーは自分の人生を尽くしてその働きをしました。
モーセには神様が今エジプトで苦しんでいるイスラル民をあなたは導き出して救い出して
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アラノで私を拝むようにしなさい。 シチュエジプト、この使命がモーセの使命でした。
パウルにはあなたは異邦人の世界に行って異邦人たちを救う働きをしなさい。 異邦人の世界選挙が
パウルのための命令でした。 ペテロにはあなたはユダヤ人に福音を伝えてイエスキリストを述べ伝えなさい。
ユダヤ人向けの働きがペテロの使命でした。 私の使命は何かと言いますと
職大の幻を通して日本の教会を回復しなさい。 そして日本にリバイバルを送るようにあなたの働きをしなさいということが神様は私に与えてくださった使命です。
ですから私たちは普遍的な使命があり 個人と教会に特別に与えられた使命があります。
それを持って そのために働くことが神様の目的のために働くことになります。
しかし 神様は私には特別に何とか言ってません。 使命とか招きとかビジョンとかくださいませんでしたと言ったら
みなさん簡単です。今直している教会 その教会が持っているビジョンが教会に来られた皆さんのビジョンです。
そこにこれからやっていけばいいんです。 私たちはご自分の家庭、お仕事、まだ学生たちは勉強を通して
この目的を成し遂げるために勉強すればいいんです。 ああご育てをしているのでご育てしている私の主婦が
専業主婦なのに専業主婦は何ができる? 使命とか言うのは難しいよ。
簡単です。 家庭を通してご主人を通して子供たちを通して
今日言われたこの目的を成し遂げるために祈って子供を育てればいいんです。 このように神の目的のために生きるなら
神様が約束をください。神様が私に特別くださったのがマタイの6章33節です。
何よりもまず神の国と神の気を求めなさい。 そうすればこれらのものは皆加えて与えられる。
神の目的のためにあなた自身を尽くしていきなさい。 そうするなら
あなたが願う必要なことすべては私が責任を持って与えるからってことです。
私はこの見事ばをいただいて職場の生活では伝道するために会社に行きました。
新学校に行ったところでは一人の人も日本の方を弟子にしたいと思って祈りました。 もう言葉ができないから祈るしかないでしょ。
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祈ったら今田さんが来ました。 今田さんは初めに苦労したと思います。日本語ができないから。
非常に苦労した。 そうです。祈って伝道して万数万をしながら何とか何とか
下手くそですけど神様の命令に従いたくて従いたくてずっと祈り続けました。
神様は私たちのこの本当に下手くそな働きを喜んで受け止めてくださって私に大きな祝福をくださったんですけど
祝福は何かと言いますと人なんです。 神様は私にたくさん、私の日本に親戚友達一人もいません。
しかし今私は日本で大勢の私の同僚者、私と一緒に一緒に過ごすお友達をたくさん与えてくださいました。
これが私の本当に祝福でありこれから私の財産でしょう。 そうです。神様たくさん与えてくださいました。
神の目的のために生きてください。そうするなら神様がすべてを加えて与えてくださいます。
ところが神の目的は神の道によって成し遂げられます。
以前の私はこの部分をよくわかりませんでした。 神の目的だけわかって一生懸命命がけて頑張ろうとしました。
しかし神の目的は神の道を通して成し遂げられたことを私が韓国で浪人しているときに神様が私に集中的に教えてくださいました。
神の目的は神の道、神の方法で成し遂げられる。 普通私たちが生きる方法は自分の熱心です。自分の才能です。
また沈脈とかこの世の中のいろいろなやり方を通して働く。 これは一般的に陳本主義と言います。
しかし神様の働きは陳本主義を通しては絶対できません。 神の目的は神の道を通して成し遂げられます。
そうするとき神様が栄光を受けられ私たちは大きな祝福が与えられます。
神様アブラムにあなたを通して大いなる国民が与えられると言いました。
ところが10年経っても子供一人くださらないんです。 だから
待つことができない。我慢することができなくて この世の中のやり方
奥さんができなければ他の女性を通して子供を得る方法を選びました。 そして得られた子供がイシュマイルでした。
アブラムが陳本主義を使った理由は神様を信じることができなかったから また神の時神の方法を待つことができなかったからです。
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結局イシュマイルからイスラム圏が生まれ それによって最後の時にキリスト社会がたくさん
殉教され迫害されるきっかけになりました。 今もキリスト社会はイスラム圏が最後に一番迫害するでしょう。
世の中の災いが続けている理由はここから来ました。 信仰の先祖が不信仰すればその影響は余裕限りなく続けられます。
だから私たちは陳本主義 指導のやり方を使ってはいけません。
神の道 神の方法を通して働かなければなりません。 神の方法は何ですか?
神様との親しい交わりの中で PLO
Prayer, Listen, Obey 祈って聞いて従う
これが神の道、神の方法です。 そうする時神を体験するまたブドウの木の生活ができます。
そうするため必ずこうしなければなりません。 神の御声を聞いて従うなら神の御胸が成し遂げられます。
神の御声を聞かないで自分勝手になったら自分の願いは叶えるかもしれませんけど 神様の願いは叶えられません。
ですから私たちは毎週金曜日鳥梨の祈りの時間で この部分を今集中的に訓練しているところであります。
初めは神様と親しみの中で PLO の生活、これが神の道だということです。
2番目の道はイエス様がヨハネ14章6節に 私は道であり真理であり命であると言いました。
私を通らなければ誰も神に手を合うことはできないと言いました。
イエスキリストが道だということは何ですか? イエス様がなさるこの後ちょっとついていけば
これが神の道だということでしょう。 じゃあどうすれば私たちはイエス様についていく信仰生活ができるか?
じゃあそのために もしそれがうまくできない場合はこのような質問をしてみてください。
イエス様なら今の状況でどうされるかなぁということです。 今このようなことを
私だったら勝手にしますけどイエス様だったらどうされるかなぁということをまず考える。
その時必ず何かピッとくることがあります。 そしたらその通りやろう。
自分の考えを下ろしてイエス様だったら今の場面どうするかなぁと思って
そこで神様を下さるこのことを用いて働くことです。 そうする時に皆さんはイエス様についていくことができます。
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私たちは聖書をたくさん分かって、聖書を勉強をたくさん知ってから、聖書をよく分かるならやりやすいでしょう。
しかし聖書をちゃんと分からなくてもイエス様だったらどうされるかなぁと思ったら聖霊様が教えてくださると思います。
そしてイエス様についていったらどうなりますか。イエス様は牧者、私は羊。
それで詩編の23編の2節3節が思い出せる。主は私を青草の腹に休ませ、憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は皆にふさわしく私を正しい道に導かれる。
神の見こえを聞くのにあまり自信がなければ、皆さんよく使ってください。イエス様だったら今この場面どうされるかなぁということです。
質問して従う。これが大事です。
また神の道3番目。聖霊の9つの実りに従って生きることです。
からでは古書22節23節に霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、乳は節制です。
これらを禁じる掟はありません。 じゃあ皆さん神の道は愛で行うことです。
神の道は寛容で行うことです。 神の道は忍耐で行う。
神の道は乳和で行うことです。 もし皆さんの家庭で夫に対して
長く忍耐する心で夫に接してみてください。そこに神様が働きます。
子供に対して乳和な心で 子供を接してください。
そうするなら子供の間に神様が働きます。 隣人に対して愛を持って働いてみてください。
そうするなら神様がその人を伝導したり、癒やしたり、そこでたくさんのことを行ってくださるでしょう。
コリント第一の13章2節3節にこう言います。
たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていったとしても、
たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、愛がなければ無に等し、
全財産を貧しい人々のために使い尽くしてはそうても、
誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ私たちは何の益もありません。
愛が大事だと。偉そうな私益より愛を持って働きなさい。
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これを愛で働く。私たち信仰の道、方法は愛なんです。
私たちは愛を持って使える。そうするなら神様が私たちを用いてよくよく働いて下さいます。
また3番目、神の目的は神様が下さる力、資源によって担うことができます。
私たちの力ではできません。モーセの使命は出中エジプトでした。
出中エジプト、200万人を連れて出中エジプトするのにモーセの力が役に立ちますか?
全然役に立ちません。神様の力じゃなければいけません。
パウルの世界選挙、自分の力ではできません。
私たちの力ができないだけではなく、私たちの力で行うことを神様が願っておりません。
なぜなら、自分の力でやるなら自分を誇るでしょう。
自慢晴らし、傲慢になって、サタンにやられてしまいます。
ですから私たちは神の力で行うことを神様が願っておられます。
では神様の資源、神の力は何ですか?
神の恵みによって働くことです。
神の目的は私たちの力ではできません。神の恵みがあるとき可能です。
ですから私たちは切実に、切実に恵みを求めなければなりません。
恵みが望んでいたら、この愛の中には何をしてもできます。
恵みがなければ、いくら頑張っても何もできません。
だから神様の恵みが成し遂げるんだということは、やっと私たちが分かるようになるでしょう。
だったら私たちはどうするんですか?
恵みを求めなければいけません。
ヘブラー書4章16節、だから哀れみを受け恵みに預かって、
地義にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
皆さん、神様に仕えることは自分の力ではできません。
恵みが必要です。
恋愛を守ること、これも恵みが必要です。
隣人を愛すること、それも自分が偉そうにやったら駄目です。
神の恵みが必要です。
奉仕、伝道、救済、人を天国に導く、私はできません。
神の恵みが全てを行います。
だから恵みの座に恵みをいただくために、私たちは主の前に徹底祈らなければなりません。
3番目、神の茂みは何か?
聖霊の現れと力です。
パウロが第一コリント2章3節にこう言っています。
そちらに行った時、私は衰弱しておそれに取り憑かれ、ひとく不安でした。
24:05
私の言葉も私の宣教も知恵にあふれた言葉によらず、
聖霊と力の証明によるものでしたと言います。
コリント教会に行った時、パウロは非常に怯えた、不安だった、
どうすればわからなくなった。
なぜなら、皆さんコリント地域に行って誰も信じていなければ、
そこに行って福音を伝えるのはパウロの力でできますか?
できないからです。
イオン人たちの世界に行って自分は福音を伝えたら、
みんな信じてくれる人は世の中にいません。
皆さん、道教で福音を伝えようと考えてみてください。
私は道教で福音を伝えようとする考えさえももうダメだなと思います。
できません。今、滅多にできません。
だからパウロは、精霊の現れがなければ、神の力がなければ、
コリント地域には福音が伝えないので、
精霊の現れがないかどうかと思って不安、心配、衰弱したということです。
皆さん、精霊の現れということは精霊の賜物です。
精霊の賜物は、神の目、神の口、神の手です。
神の手ではなくなる奇跡が起こるでしょう。
神の目で見たら、人の心をよくよく見えるでしょう。
だから神様の力が現れなければ、パウロ自身自分としては何にもできないから、
だから精霊の現れがなければどうするのかと思いながら、衰弱して不安だったと言います。
精霊の現れによって伝導しようとしたら、
皆さん、不思議な力によって誰に伝導するべきなのか、
伝導する相手を神様が示してください。
そしてその人に行ってみれば、その人の問題を教えてください。
その問題を精霊の知恵によって語るときに、
その人の問題が解決でき、またその人が持っている病気が解決できるならびっくりするでしょう。
だったら心を開くんですよ。
その時、これはイエス・キリストが十字架で行ってくださったと言えば、
その人は、ああそうですか、イエス・キリストを受け入れるようになるでしょう。
これが全部精霊の現れと力が行うんだということです。
正直に私、池袋にたびたび出るたびに、私、宣教師じゃないですか。
牧師じゃありませんか。牧師、宣教師がこの人たちに福音を伝えるべきなのに、
人の顔を見たら怖くなります。
私がこんな話をすれば、この人がどう反応するかと。
恐れ、不安、衰弱、悩み、そうです、できません、私たちの力では。
27:06
主の力がなさいます。
だから、パウロは精霊の現れと力によって、自分は全てを行ったということです。
3番目、神の資源はリバイバルです。
精霊様が大規模で来られることです。
神様をリバイバルして来られて、人間の力ではできない大きな身技を成し遂げるんですけど、
私たちが期待するのは大収穫です。
私たちの力でできるのは、落ちている方を拾う、このレベルですよ。
しかし、神の技は収穫です。
その働きは私たちはできません。
だから、神様が最後の時の大収穫のためにリバイバルを送ってくださるのに、
リバイバルを受け入れる器、その境界を回復できる境界、
それが私たちの境界に与えられた使命なんです。
私は1979年度、イエス・キリストを受け入れました。
その時、初心者でした。
今、深夜さんとほぼ同じような気持ちで、初心者の時に韓国のリバイバルがあったんですけど、
リバイバルが消えようとする最後の最後の瞬間、リバイバルの力が残っているその時、
私は新しい信者として、教会に行きました。
しかし、私には心から祈りたくてたまらない。
祈る恵みが来たと言いましょうか。
恵みが来て、祈りたくてたまらないんです。
だから、私は初めに行った教会に、冬寒い時、
教会の地下室で、一人で、そんな寒さの中で、
真っ暗の中で、私はジャムドームを敷いて、それで、
よっとーし、教会の地下室で神様に祈りました。
本当に、新しい信者が、どうしてそんなことをやりますか。
僕先生がびっくりして、私がいつもいるのかないのか、
いつもチェックしてみるほど、先生が私を本当にかわいがってくださったんですね。
私は祈ることをメーモしておいて、祈りの手帳を持っていました。
普段、学生たちは英語単語帳を持っているんでしょう。
私は単語帳を持っていません。
祈りの手帳があります。
祈りのリストがいっぱい書いてあって、
それを英語の単語を覚えるように、格好に行ったり来たりしながら、
地下室で祈る時に、いつも使いました。
本当に、神様は私のこの祈りを、ほぼ聞いてくださったんです。
今考えたら、それがせめて、神の手を求める信仰だったんですけど、祈りだったんですけど、
30:05
でも、神様が不思議に聞いてくださり、
私に不思議な体験をさせてくださりました。
皆さん、祈りは祈りで学びます。
祈りの世界、これは私たちに限りがない世界なんで、
私は少しその祈りの味を、神様が味わわせてくださりました。
今、私が勃開していることも、当時祈っておいたことが、今働いていることがたくさんあるでしょう。
皆さん、祈りは積み上げなければなりません。
今すぐ成し遂げられなくても、祈りを積み上げ、積み上げ、積み上げと言うなら、
一生を通して、それが徐々に徐々に解決できます。
実現できます。
だから、祈りは積み上げるべきです。
私の一生のために、子供の一生のために、家族の一生のために、
教会のこれからの一生のために、私たちが祈りを積み上げなければなりません。
はじめは、ほとんど神の手を求める祈りでしょう。
しかし、神様が祈りの態を変えて下さいました。
そして、私たちの祈りを、神の手じゃなくて、
神の御母を求める祈りとして変えて下さいました。
神様は、私を韓国で2年間浪人する間に、
いろいろなことをたくさん教えて下さいました。
皆さん、祈りはたくさんやらなければなりません。
だから、祈りの時間をたくさん設けるのは、非常に大きな意味があります。
どう祈るのか。はじめは、いろいろなリストを作って、祈りの態を持って祈ります。
次は、意言で祈る。皆さん、意言できるでしょう。意言で祈るんです。
意味も分かりませんけど、意言は私の霊と神様の間に祈ることなので、
意言でたくさん祈ることは意味があります。
また、あるときは祈りの態がないまま、神様の御前で比例していることだけです。
神様を崇め、神を愛するから、神様を待ち望むだけ、もう祈ることもいりません。
だから、リストを持って祈って、意言で祈って、
ただ神様を愛するから、神を会いたくて会いたくて、
神の栄光を見たくて見たくて、主の前で比例していく。
この祈りを重ねて、重ねて、ずっとやっていくことです。
神は霊なので、霊の世界は無限の世界なので、
私たちは祈りを通して、霊である神様との接することができます。
そこの中で行われることは、おこなりしか誰も分からないでしょう。
自分の神様との間のこの愛の体験、これをたくさん用いることは非常に大事です。
最後のとき、本当に神様が私に、昔々、この本当に盛り上がった、熱かった、
33:05
この祈りをもう一度回復させてくださいという意味で、
私は天道寺さんに、祈祷印を作りましょう、祈祷印を作りましょうと、
いつも天道寺さんにお話ししているところなんですけど、
私は最後のとき、シメオンとアンナ、皆さんご存知でしょう、ルカの2章に現れる。
イエス・キリストが来れる直前、シメオンとアンナの祈りがありました。
シメオンは誰ですか、おじいちゃんです。アンナはおばあちゃんです。
おじいちゃん、おばあちゃんが、神様を待ち望んで切に切に祈るとき、
イエス・キリストを送ってくださいました。
私たちの教会、最後の最後のおじいちゃん、おばあちゃんたちの、
シメオンとアンナのような祈りの教会になりたいと思っていることは、
私の願いであり、希望であります。
ですから、神様の御業は祈りで成し遂げられると言います。
私だけが祈るなら、神様が来られ、
神様の目的は、神様が自ら成し遂げてくださいます。
この以外でも、神の資源はたくさんあります。
イエス・キリスト様の名前の力、
御言葉の力、精霊の油注ぎ、
ありとあらゆる手段を、神様は私たちに力として与えてくださっています。
この力が、祈りと共に働きます。
祈るたびに、その力が働いて、
そして、神様の大きな御業が成し遂げられるのです。
今日は、神中心的な生活、神の目的のために、
神の道と神の方法に従って、
神様の資源によって、私たちが行うことができるんだ、
ということを申し上げたんですけど、ご理解できたんでしょうか。
ぜひとも、神中心的な信仰は、
神の目的が何なのか、
神の道は何なのか、
神様の資源は何があるのか、
それを全部成し遂げる方法は、祈りだということ。
それを用いて、ぜひ、ぜひ、
この説教は忘れないで、
これをぜひとも皆さん覚えて、実践していただければと思います。
神中心的な生活へ行くなら、
葡萄の木に枝が繋がっているなら、
葡萄の実り、喜びの実りが豊かにあふれるように、
私たちの信仰生活で、また私たちの勝手に職場、
また勉強場で、
神様が喜びがあふれる証をたくさん与えてくださるでしょう。
だから私たちの教会の名前が、東京葡萄の木なんです。
葡萄の木の生活を実践する私たちになる。
そして、豊かな喜びの実りがいつもいつもあふれるように、
私たちはお願いします。
36:01
お祈りいたします。
神様、短い私たちの人生、
もったいない私たちの時間、
誤った信仰をやめて、
人生を無駄遣いごとやめて、
正しい信仰、正しい祈り、
正しい生活ができるように導いてください。
そして、神様を喜ばせる、
神の栄光のために生きる私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン、アーメン。
36:34

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