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今日は、「礼拝は心です。礼拝は愛です。」という対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
今日は私たちの信仰の非常に基本的なことを申し上げたいと思います。
これは神様と私たちの関係性についてです。
神様は相乗主、絶対主見者です。
神様は全世界の持ち主です。 人間は神様が作られた非常物です。
神様にはすべてがあります。 神様にはすべての答えがあります。
ですから、ローマ書11章36節には、「すべてのものが神から発し、 神によって成り、神に至るのです。」と書いてあります。
すべてが神から始まって、その神様によって保たれ、 そしてすべての結論は神様が持っておられるということです。
この神様と私たち、 相乗主と非常物である私たちの関係性のために何が大事でしょうか。
これは礼拝というものです。 今日は礼拝の大事さについて、今まで何回も何回も繰り返しお話しましたけど、
今日もこの礼拝の大事さについて考えていきたいと思います。 創世紀1章には神様が天地万物を作られ、人間を作られたと書いてあります。
創世紀2章には、この人間に神様がプレゼントとして、 エデンの園と幸いな家庭を作ってくださったということが書いてあります。
創世紀3章は、その人間が罪を犯した、神に裏切ったということが書いてあります。
そして創世紀4章には、いきなりカインとアベルが礼拝を捧げたという記録があります。
これから見てますと、罪を犯した人間が神に出会うためには、 礼拝ということを通して神に出会うことができるんだということがわかります。
アベルは礼拝をうまく捧げました。 神に出会いました。
カインは礼拝をうまく捧げることができませんでした。 自分の礼拝は受け取れない神様に対して
反発しました。 その反抗感、反発感で自分の弟アベルを殺し、
カインの子孫たちは全部神様から離れてしまいました。 戦争3章4章以降は、カインの子孫の記事は全くありません。
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カインは私たちは神様いらない。 神の恵みと祝福もいらない。
そして自分の子孫たちは全部カインのように過ごしたんです。
私たちは神様から神の恵みをいただけない、神の祝福をいただけない、 そのことは私たちは望みません。
神様が喜ばれる礼拝を捧げて、 神の恵みと祝福の中で生きたいんです。
また私たちの子孫たちも神の恵みと祝福によってうまくできることを見てみたいんです。
ここで大事なのは、礼拝です。 以前教会に来られた平民先生は、礼拝成功、人生成功、
礼拝失敗、人生失敗だと言いました。 じゃあ今日は、神様が願われる礼拝、
神様が願われる礼拝は心を捧げる礼拝です。 また神様を愛する礼拝です。
このメッセージを皆さんに分かち合いたいんですけど、 今コロナによって非常に難しい状況、
この難しい状況をどのように乗り越えていくか。 皆さん、人間がいくら我慢して注意して注意して、
コロナに感染されないように、 注意するんだって感染されないものでしょうか。
私は神様の恵みが必要だと思います。 神様が守ってくださらなければいけないと思います。
そのために、神様によく受け入れられる礼拝を通して、 神様と良い関係性、立派な関係性を保ち、
祝福の中で過ごしたいということが、私たちの心です。
それでまず一つ目に、そのために大事なのは愛ですということです。 聖書は神様と私たちの人間のラブストーリーと言います。
神様は天地万物を作られ、 そして人間を神の身姿で作られたんです。
天地万物を作られた神様が、この人間を神の身姿で作られた理由は何でしょうか。
神様との親しい交わり、神様との恋を分かち合う、 その相手として作られたということでしょう。
神様との親しい愛の関係性の中にいる時、 神様はすべての人間を祝福してくださりました。
その礼がエデンのソノフです。 またその中で幸いなカティーです。
神様は人間を作られた方ですから、 神様が人間を全部分かっています。
何があれば満足できるか、何があれば幸せになるか、分かっておられます。 そのすべての満足を創世記2章で私たちに与えてくださいました。
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しかし創世記3章で人間が神を裏切ったんです。
絶対あってはいけないことなんですけど、 悪魔の誘惑を受けて、悪魔が指示する通り、
神様が禁じられた邪悪の知識の木の実を食べてしまったんです。
神様は裏切られてしまいました。 皆さん、神様は男性だけじゃなくて女性の属性も持っています。
男性が大事なのはお仕事と言います。大体そうだと言うんですけど、 女性が大事に思っているのは愛だと思っているでしょう。
神様も愛を大事に思っています。 愛の対象として作られた人間が、
神様を裏切ってしまいました。 その時、神様は心をとるほど痛かったんでしょうか。
その痛みがよく現れている聖書が創世記3章9節です。 主なる神はアダムに呼ばれた。
アダムにどこにいるのかと言いました。 神様はあなたどこにいるのか探しておられるのに、アダムとエバは神の御家を避けて逃げてしまった。
神様はどこにいるのかと言っているのに、 人間は神の御家を避けて逃げてしまったということでしょう。
人間は神を裏切りました。 しかし神様は変わりがないお方です。
愛のために人間を作られたのに、人間が罪を犯したということで、 人間を見捨てることではありません。
罪を犯しても、自分を裏切ったとしても、 哀れに思って許して愛してくださるんですけど、
その印として与えてくださったのが、 創世紀3章15節です。
私が女の子孫として救い主を送ってあげる。 その方が、おなたたちの罪のために、あなたたちの呪いのために、
全てをあがなってくださるお方を送ってあげると言いました。 神様の御心をよく表現した聖書が、ヨハネ3章16節だったと思います。
神はその一人子をお与えになったほどに、 要愛された一人子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神様の願いは、神様に罪を犯しても、裏切ったとしても、 一人も滅びないことを、神様は願っておられる。
私たちは、イエス・キリストの恵みによって、 罪を許していただき、神の子供として回復された者たちです。
これから大事なのは、移り変わりもない、 全く変わりがない神様のように、私たちも変わらない愛、
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変わらない心を持って、神様を拝むことです。 誰が、神の御心を知って、神様は私たちを愛しておられるように、私たちも神様を愛することができるか、ということです。
皆さん、キリスト社である私たちの人生の成功と失敗は、 ここに全てが書けられてあるんです。
神様は、私たちが神様から離れることがないように、 立法を与えてくださいました。
弱音中4章21節を見ますと、 私たちが神の立法を守ることは、神を愛することだ、と言います。
ですから、私が神様を愛しているのか、愛していないのかは、 今、私たちは、御言葉に対して、この神の立法に対して、
どのような態度を持っているのかを見てみますと、 神様を愛しているのかが、よく見えるでしょう。
特に、礼拝を捧げること、これが大事です。 礼拝というのは、非常物である人間が、
創造主である神様に捧げることができる、 一番美しくて神聖な行為です。
一番素晴らしい愛の表現です。 弱音4章23節には、神様が今もそのように礼拝するものを探しておられる、と言っています。
この礼拝がどれほど大事なのか、 礼拝をどうして、神様との親しい関係性を取り戻した人の、
祝福を考えながら、礼拝成功、人生成功、 礼拝失敗、人生失敗だ、と言っているのです。
2つ目です。 変わりやすい人間、神様のお悩み。
ところが、非常に変わりやすいのが人間の心です。
神様は一千年を一日のように、我慢しておられる、 待っておられる、変わりがないです。
一千年を一日のように、ということは、 全く変わりがないということでしょう。
しかし人間は、三日坊主と言います。 三日坊主と言います。
いくらでも変わりやすいんです。 我慢できない存在の軽さ。
人間の我慢できない存在の軽々さ、 ということでしょうか。
神の見姿で作られた人間は、どうしてこんなことが あるのかと思われるほどなんですけど、
実際、旧約聖書、旧約のイスラエルの歴史を見てみますと、 エジプトからモースによって救われました。
13章、14章、15章のところを見てみますと、 このような記事があります。
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奇跡を通して、エジプトからイスラエル人たちが救われました。
その時、みなさんがミリアムの賛美とか、 ハレルヤ、ハレルヤ、神様、ハレルヤとして賛美を行いました。
三日後、三日後、荒野で水がなくなりました。
水がありませんでした。そしたら、神様を恨み、 猛暴勢に反抗して、そして不平不満を表します。
三日ですよ。三日前にハレルヤとした日が、 三日後にこのように変わります。
また、神様が立法を与えてくださった時、 すべてのイスラエル人たちは神の前で、
この立法を守りますと、誓いを立てました。
みなさん、立法の中で一番大事なのは第一真面目。
あなたは私において他の神があってはならないということです。
しかし、猛暴勢が十回を受けるため山に登った時、
四十日間猛暴勢が現れなかった。四十日でもないでしょう。
その間、猛暴勢が現れなかった時、 猛暴勢はいなくなった。私たちを導く人がいなくなった。
そして、銀の格子を作って、それが我々を導く神だと思います。
私の前で他の神があってはならないと言っている神様の見舞いで、 このような人が変わってしまうんです。
このようにアラノの中でイスラエル民族全体が八回も繰り返し繰り返し、
神様に不信心、恨み、エジプトに戻ろう、エジプトに戻ろうとしたんです。
カナワの地方に入ってからは、私式のところで見てますと、 四十回も繰り返し繰り返し、イスラエル民は神様から離れるんです。
私式で見せてくださる悪循環のサイクルがあります。
神様、イスラエル民に平安と豊穣、豊穣、豊かさを与えてくださるなら、 民の心が神様から離れてしまうんです。
世の中に流れていくんです。
そうしたら問題が生じ、まだ違法人たちによって支配を受けます。
そうしたら神様に助けてくださいと叫びます。
そうするなら神様が死死を送ってくださって、彼たちを救ってください。
だったら神様を喜びながら賛美をします。
そしてまた少し豊かになれば、また変わります。
そして世の中で心が流れてしまいます。
その問題の中で神様に叫びます。
そうしたら神様はまた彼たちを救ってくださいます。
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救ったら彼たちは神様に賛美しながら、ハレルヤと言います。
また生活が少し安定できるなら、 再び心が神様から離れていきます。
このような悪循環が知識の中で現れます。
皆さん、死死の人数が何人か知ってますか? 40人くらいあります。
だったらイスラエル人たちが40回も40回も繰り返し繰り返し、 神様から心が離れたってことでしょう。
ですからヘンリー・ブレカビ先生は、 現在の元にある人間は神から離れようとする傾向があるんだと言っています。
なぜ心が離れるんですか?
世の中に私たちを誘惑することがたくさんあるからです。
もともとはそうではなかったと思います。
なぜなら私たちの悪魔の奴隷になって、 そして現在というものがあります。
現在の欲望があります。
それを誘惑するサタンがいます。
そして世の中に私たちの欲しいものがいっぱいあります。
この3つの要素が絡んで、 そして私たちは罪を犯すようになります。
皆さん、罪を犯したらどうなるのか?
罪は神様から来る全て良いものを遮断します。
塞ぎます。
神様から全て良いものが来なくなります。
また、罪の罰によって呪いが来ます。
悪魔の奴隷になって、数々の霊的な、精神的な、体的な病気といろいろな患いがあります。
その中で私たちは患っていくんですけど、
しかしまた罪の誘惑を勝ち抜くことができない私たち。
この解決する方法は血です。
血の流しがなければ罪の許しがない。
ですからイエス・キリストが私たちの代わりに、
十字架で血を流すことによって、私たちは贖ってくださいました。
全ての人に共通点的に現れる偶像が2つあります。
皆さんにもあるか見てみましょう。
バールとアセラです。
バールはこの世の豊かさ、富、また財物というものです。
私たちはそのことを見たら、優しく神様よりそれを愛するようになります。
バールということは豊かさですから、宝像の神です。
その神、その偶像に私たちは優しく陥っていきます。
アセラということ。アセラは世の中の楽しみ、
乱れのこと、快楽を求めることです。
それをやらせる女神がアセラというものです。
今度は四島目の緊急事態宣言が出されたんですけど、
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なぜ四島目までこのようになっているのか。
国からは、今皆さん放送で東京都知事から、国の首相から、
毎日毎日、我慢してください、我慢してください、
コロナの感染がないようにお願いしますと要求するのにも関わらず、
なぜコロナが立ち切らないのですか。
集まってお酒を飲みたい、楽しみたい、
そのような人間の欲望、
コロナの中でも自分の欲望を満たしたいと思うことではないでしょうか。
もちろんそれだけが根本的な原因ではないと思いますけど、
皆さん、私たちは神を愛し神に仕えるなら、
神様は私たちに完全な満足をくださいます。
幸せと豊穣と健康を与えてくださいます。
神様によって完全な満足を得られない限り、
人間だったら誰がバールとアセラの誘惑を勝ち抜くことができるのでしょうか。
このために大事なのは礼拝です。
キリスト社たちは、礼拝を通して、
神様からすべて良いものをいただくようになっているからです。
ところが、礼拝を捧げながら、なぜ神様から満たされることができないのか。
神を愛して礼拝を捧げるのではなく、
他の目的があって礼拝を捧げるからです。
みんな、礼拝を捧げながら、自分の願いがあります。
神様、これを解決してください。
この問題があります。この病気があります。
私の家庭の中で、子どもの中で、いろいろなことがあります。
私の人生の神様、うまく助けてください。
平安、豊穣、いろいろなことが目的になって、
神様に礼拝するんです。
それが満たされたら、優しく神様から離れてしまいます。
神様は私たちを愛することを願っているのに、
私たちの関心は、神様の愛することではあるのではなく、
神様によって世の中のことを得る、
自分自身の問題解決に関心があるからです。
神を愛するなら、すべてを与えてくださるはずなのに、
目的が違うところにあります。
ここに、神様の苦しみ、悩みがあるのです。
イザヤ1章11節12節
お前たちの捧げる多くの生贄が、私にとって何になろうか?
と主は言われる。
お羊を肥えた、お羊や肥えた獣の死亡の捧げ物に、
私は飽きた。
子牛、子羊、親羊の血を、私は喜ばない。
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こうして私の顔を仰ぎ見に来るが、
誰がお前たちにこれらのことを求めたのか?
私の庭を踏み荒らす者よ。
神様は私たちの心を見ておられるから、
なぜ私たちが礼拝堂に出て、礼拝をしようとするのか、
知っておられます。
ですから、預言者を通して言われます。
私が喜ぶのは愛であって生贄ではなく、
神を知ることであって焼き尽くす捧げ物ではない。
私が願っているのは愛なんだ。
私を愛してください。
他の目的を持って私に礼拝するのではなく、
私を愛して私を礼拝してください。
私はあなたたちのこの立派な儀式、
立派な礼拝を求めません。
あなたの心を求めます。
それを繰り返し繰り返し、
預言者たちを通して教えても悟ることができないから、
彼らたちは礼拝を捧げながら滅ぼされたんです。
結局、アッシリア、バベロンの捕虜になって、
70年間彼らたちは苦しみを受けます。
70年の間に真実なしもべたちの涙、祈りを聞いてくださって、
神様が70年目に彼らたちを帰還してくださいます。
その後でも、終わりに行けば行くほど、
彼らたちの信仰がためになります。
ハガイの預言者の時に、
ハガイの1章4節を見ていますと、
神様の神殿を廃墟のままにしておきながら、
自分たちの家は立派に住んでいると神様は言っています。
神様、何を言いたいんですか。
あなたたちの家は立派にしながら、
神殿は廃墟になっているんじゃないか。
私にこんなに無関心になっていいのかということです。
マラキの時代の信仰は、
この信仰はほとんど形式的になっていました。
誰も神様を大切に思っていませんでした。
捧げる生贄を見たらわかります。
病気になっている動物、
障害を持っている動物、
その一番三つぶらしい動物だけ、
生贄として捧げました。
神様は何と言うのか。
お前たちがそのことを、
あなたの総読に持って行ってみなさい。
彼がそれを受け取ってくれるかと言います。
皆さん、神様が何のゆえにこの世に苦しんでおられますか。
キリスト社たちの神様に対する無関心なんです。
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神様は私たちの心を願って、
創世紀の初めのように親しい愛を持って、
私を礼拝してくださいと願っているんですけど、
人々は礼拝に来るは来るんですけど、
誰に神を愛する心で出てくる人がいないということです。
皆さん、神様には富もいっぱいあります。
神様のお家、家はいっぱいあります。
神様は全てを持っておられるお方です。
全世界の持ち主が神様です。
天の国で神の栄光、神の富、たくさんあります。
神の国では天君、天使の賛美、活性、立派な礼拝があります。
私たちはそのような礼拝を捧げることができますか。
神様にはいくらでもあります。
神様は物質を願っていることではなく、
私たちの心を願っているんです。
心が込めている礼拝、
神を本当に愛している礼拝を願っているんです。
ですから私が喜ぶのは、
愛であって生きねえよではなく、
神を知ることであって焼き尽くす捧げ物ではないと言っているんです。
皆さん、私は神徒がたくさん集まり、
立派な教会の建物、盛大な礼拝の儀式、
そのような教会、そのようなことには私は全く関心がありません。
ダビデのようにテントの中で礼拝を捧げるんだとしても、
神様を愛する心が豊かに込められている礼拝を捧げることができればと思います。
私たちの教会は開拓を始めから求めてきたことは、
カトコム精神、プロンティアス精神です。
儀式は足りないんですけど、
心がいっぱい込められている礼拝、
神を愛する礼拝。
しかし、私が危ないと思っているのは、
6ヶ月間も儀式ができなかったことで、
本質さえもなくなるのではないかという悩みがありました。
私たちは心がある、神様を愛する、また本質がある、
このような礼拝をこれからも充実していきたいと思います。
3つ目に、これからどうすればいいのでしょうか。
正しい礼拝のために。
マラキー預言者はマラキー書で、
神様に無関心な当時の信者たちに、
正しい礼拝が何なのかを教えてください。
それを簡単に申しますと、
初めは心がある礼拝です。
神を恐れうやまいながら真心で捧げる礼拝。
それが神様を喜ぶ正しい礼拝。
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2番目は悔い改めながら、自分の罪を悔い改めながら、
神様と正しい関係性を取り戻して捧げる礼拝。
ぜひともこれを覚えていただきたいと思います。
3番目、神の御言葉に従いながら。
従うということは従順ということです。
愛するということです。
愛する礼拝。
4番目に、神の民を正しく教え、
助け、使えながら捧げる礼拝です。
これと関連して、
一つ私の教会の褒めたいことがあります。
教会の教会学校です。
私は教会学校の教師を通して、
恵みをたくさん受けています。
子どもたちの目線から、
どれほどうまく教えるのか、
どれほど優しく教えるのか、
皆さん、私が教会学校の学生になりたいです。
それほど教会学校、
本当に私たちの教会学校、最高です。
感謝します。
私がこんなに喜ぶんだったら、
神様はどれほど喜ばれておられるのでしょうか。
皆さん、私たち一人一人が、
自分に与えられた役目を、
しっかり担いながら、
神様を他の人に使いながら、
礼拝を捧げるなら、
どれほど神様が喜ばれるでしょう。
皆さん、神様が喜ばれるのを、
皆さん、ご存知でしょう。
第一の忌ましめ、第二の忌ましめ。
神を愛し、隣人を愛する。
神に仕え、隣人に仕えながら捧げる礼拝。
これが大事なんです。
これと関係して、
私がこの教会でどんな役目があるのか、
よくよく考えてください。
そしてその役目を、
しっかり担いながら、
神様に礼拝を捧げるとき、
神様を喜んで喜んで、
受け取ってくださいます。
結論を申し上げます。
今はコロナの時期です。
4度目の緊急事態宣言が出されています。
こんな時代、今まで経験したことありますか?
ありませんね。
じゃあこの時代、神は生きておられます。
生きておられる神様が、
私たちがこの時代に、
どのように過ごすことを願いますか?
怯えながら、どうしよう、どうしよう、
感染されたらどうしよう、
そのような体制で私たちが生きることを願いますか?
また神様は、このようなコロナの時代、
どなたに神様が恵みを与えてくださるのでしょうか?
それを考えながら、
聖書1カ所、今日読んでくださった、
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歴代経の16章9節、
主は世界中いだるところを見渡され、
ご自分と心を一つにするものを、
力を付けようとしておられる。
ここで大事なのは、
神は全世界を見渡って、
今もずっと見ておられる。
コロナの時期を私たちが見ておられる。
ご自分と心を一つにする。
神様は何を願うかということを、
だから神様が願っておられることを、
私たちはその心に合わせてください。
これが大事でしょう。
神様は礼拝です。
心の礼拝。
神を愛する礼拝を願っておられます。
そうするなら、力を付けようとされます。
力は何ですか?
神に出会ってくださるご臨在、
またコロナを勝ち抜くことができる力、
また防御の壁、保護膜になってくださり、
そのような恵みと祝福を与えてくださることです。
皆さんこれからもコロナの事態が続きますので、
私たちは現場で礼拝を捧げ、
また寿務にいる礼拝を平行していきたいと思いますけど、
大事なのは心です。
心を主に捧げる。
愛を込めて心を捧げる。
私たちになりましょう。
そして礼拝成功、人生成功という、
この素晴らしい人生になり、
また私たちの人生成功が、
子どもたちにも伝えられて、
子どもたちにも親を見たら、
礼拝で成功して人生が成功した、
私たちも礼拝を守る者になりましょうという、
立派な伝統、
継承を子どもたちにも与える、
私たちの教会になりましょう。
お祈り出します。
神様、オリンピックの開催を目の前にしておいて、
日本は4度目の緊急事態宣言が出されました。
リーダーたちの苦しみ、
どれほど本当に大変だったでしょうか。
主よ、このような日本を守ってください。
また、コロナの時代も、
私たちがこのコロナの時代を乗り越えていく、
勝ち抜いていく、礼拝になれるように、
主よ、私たちを助けてください。
礼拝成功、人生成功、
私たちは人生の最後に最後に神様に報告する。
礼拝成功、人生成功という、
そのことを報告できる私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈り致します。
アーメン