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今日は、神の国を実現する教会という体で メッセージを分かち合いたいと思います。
先週、礼拝は心ですよ。 礼拝は神様に対する愛ですよということを分かち合いました。
そして、礼拝成功、神聖成功、 礼拝失敗は神聖失敗だということを一緒に分かち合いました。
旧約のイスラエルがダメになった理由は、 礼拝を失敗してからです。
旧約の最後の聖書がマラキ書なんですけど、 マラキ預言者の時代は、神様のご臨在が完全に消えた時代でした。
それから400年間神様が現れない、 そのような時代を旧約の最後にマラキの時代にありました。
その時代の民の状態に対して、ルカの1章79節には、 暗闇と死の影に座っている民だと言っています。
そのマラキ書が私たちに最後に、 正しい礼拝について教えてくださるんですけど、
先週分かち合いました。 心からの礼拝、恐れ敬う心を持つ礼拝。
また、悔い改めながら神様と正しい関係を取り戻して礼拝。
また、神様に忠順して神を愛して捧げる礼拝。
また、神様が任された使命を行いながら捧げる礼拝。
そのような礼拝を神様が喜んでおられるということです。
マラキ書で正しい礼拝の言葉を私たちにくださったこの理由は、
言葉を変えればマラキの時代はそのことができなくて、 神のご臨在が消えてしまい、
彼たちはためになったということになるでしょう。
その見事なのに対して、今私たちの状態はどうでしょうか。
今私たちはうまくやっていますか。
神様が私たちに任せられたこの神の御業を成し遂げながら礼拝を捧げていますか。
神様が私たちに任せられたことは何ですか。
牧師に見せてくださったろうそくの幻です。
それはろうそくが正しく立てられる幻、それは言葉を変えれば教会回復の使命なんです。
教会回復の使命を私たちの教会が担いながら礼拝を捧げるとき、
神様が私たちの礼拝を喜んで受け入れられ、
神のご臨在を私たちに示してくださるということがマラキ書を私が受けた教訓でした。
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私たちはこれをうまくやっているのかということです。
私たちの使命、教会回復。
教会回復はどうすることですか。
どんな教会が回復された教会でしょうか。
一言で申しますと、神様が主人であり、
神様が運営される、神中心的な教会として変わること、これが教会回復です。
今日はこの話を皆さんと分かち合いたいと思います。
最後の時、神様はこのように回復された教会にリバイバルを与えてくださって、大収穫を行われるんですけど、
昔々このような事例がありました。これは諸大業界です。
シドギョデン・リーションには、ペンテコステのリバイバルがあった後、
神中心的に変わった諸大業界を通して、
小アジアとヨーロッパに福音が述べ伝えられました。
その時、神様はその教会を用いてくださいました。
私たちも教会回復の使命を担いながら、神様が喜ばれる礼拝を捧げる時、
私たちを通して、私たちを用いて、神様が最後の時の働きを成し遂げることができると、私は信じています。
ですから、この教会回復に対して、皆さんとメッセージを分かち合いたいと思います。
まず一つ目に、私たちの使命、教会回復ということは何でしょうか。
教会回復は、もともとの教会、もともとの教会の姿、
神様が主人であり、神様が運営される教会として変わっていくことです。
今、自己中心的な教会、人間中心的な教会がたくさんあります。
その教会が、神中心的な教会として変わらなければなりません。
では、自己中心的な教会は何ですか。
自分が自分の人生を主人として、自分の思いのまま過ごしていく、このような信仰、これが自己中心的な信仰です。
すなわち、自分の目的のため、自分の方法で、自分の熱心で、これは皆さん耳が痛いほど聞かれたでしょう。
自分の目的のために生きること、これはご利益信仰、自分の方法で生きること、これは尋問主義信仰、自分の熱心で行う信仰、立法主義信仰です。
このような信仰は、神様が嫌われるんです。
神の手ばかり求める信仰です。
イスラエル民は、このような信仰をやりながら滅亡されました。
なぜなら、自己中心性は神様の前で罪だからです。
イザヤ53章6節、私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの放課後に向かっていった、その私たちの罪を全て主はイエス様に負わせられたと書いてあります。
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では、正しい信仰は何ですか。
正しい信仰は、神中心的な信仰ですけど、
神様を主人として受け入れ、そのお方の御言葉に従って生きることが神中心的な信仰です。
すなわち、神様の目的のために、神様の方法で、神様がくださる力で生きる信仰です。
このような信仰には、神様が共にいてくださるんです。
神様が共にいてくださる信仰、 神様が共にいてくださる境界、皆さんどれほど素晴らしいでしょうか。
その信仰には、ただ恵みと言います。 私は神の恵みがなければいけられません。
神様、あなたが必要です。謙遜に求めます。 その時、神様が彼と一緒にしてください。
ただ十字架と言います。 自分自身が罪別として認め、悔い改めなら自分を捨てることです。
そうするなら、そこにキリストがおられ、生きてくださいます。 ただ聖霊、悔い改めた人には聖霊様が来られるんですけど、
聖霊の導き、聖霊の力によって生きるようになります。 ただ信仰、ただ御言葉。
神様が約束された御言葉を、信仰によって従って生きることです。
このような信仰、ただ恵み、ただ十字架、ただ聖霊、ただ信仰、ただ御言葉、
この信仰の器の中に、神を知り、神を愛する信仰の本質を求めること。
これが正しい信仰ですけど、これを神の御化を求める信仰だと言います。
教会回復は結局、自己中心的な信仰を神中心的な信仰に変えること。
自己中心的な信仰をやっている教会が、神中心的な信仰として教会が変わっていくこと。
これが教会回復です。 皆さん、教会はキリストの体です。
イエス様が頭であり、私たちはキリストの体の一部分部分です。
ですから、教会は神中心、イエス様を中心にならなきゃいけません。
その方を中心として、その御声を聞き、その指示をいただき、
体全体が一つの体として、その指示通り、神の御胸、神の目的を成し遂げていくこと。
その教会を神様が使ってくださるんです。 その教会を通して、神は栄光を受けられるんです。
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ですから、キリストの教会は、絶対、人間が主事になって、主導したり、
信学、業理、伝統、そんなことが主導してはいけません。 神様の御言葉と、精霊様が
動かしてくださる、主導されることが神中心的な教会です。 自分を捨てて、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていく群れ、
その信徒たちによって建てられ、また運営される教会が、まことの主の教会、キリストの教会です。
イエス様はこのような教会を建てるために、この世に来られました。 イエス様が教えてくださった主の祈りの中で、
それを祈りなさいと言っています。今日読んでくださった、マタイの6章9節10節、 だから、こう祈りなさい。
天におられる私たちの父よ、皆があがめられますように、御国が来ますように、
御心が天で行われたように、地でも行われますように、 これを祈りなさいと言います。
また、6章33節では、何より神の国と神の気を求めなさい。 そうすれば、これらのものは全て加えて与えられると言います。
この大事さを知って、 その神の国の実現のために働く人は、
神様が全てを満たしてくださり、その人の全てを責任を持ってくださるという話です。
慎みながら皆さんに申し上げます。ところが今、このような教会がどこにあるんですか?
考えてみてください。私たちの教会も同じじゃないかと思いますけど、 十字架は形だけです。今、礼拝の中でこの十字架を今、仮面の中に入れようとして、
今、私、座っているところなんですけど、 十字架を共通するように見えます。これは形式に過ぎません。
十字架が大事じゃなくて、自分が罪人だと思っているか、 イエス様がいなければいけないと思っているか、それが大事なんですけど、
私たちはただ飾りです。十字架の飾り。 皆さん、教会の中で自分が罪人だということがわからないで、自分が教会の主人のように
教会を動かしたいという人が、とりあえずお家にいるんですよ。 また、聖書より教理、神学、伝統をもっと優先します。
信徒たちが教会に通う目的も、イエス様を愛して、そのイエス様の栄光のために、イエス様の身分を成し遂げようと、あげようと思っていることではない。
宗教心、ただ信仰できる安定感、満足を得るために、
また、不安なこの時代の中で、
ああ、救いが必要なんだ、また助けが必要なんだ、それを求めて教会に来ます。 また、自分を表したい、人々から尊敬を受けたい、評価、また賞賛を受けたいと思っています。
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信徒とお互いに人間的な交わりが好きです。 命の救いということも売却されて、自分の教会を増やすために、大きくするために伝道を利用します。
また、教会お互いに競争もします。 その中で信徒たちは、この業界がいいかな、向こうの業界が自分の中で利益になるかな、
どっちがもっと私に利益になるかと計算しながら、教会を選びます。 そうしたら皆さん、これは自分の欲、自分の貪りを満たすことしか、もう説明ができません。
教会は愛、規制、奉仕、使えると言います。 結局何ですか、それを通して人を集めたいでしょう。
その人を助け、神を愛し、隣人を愛するためじゃなくて、ただ、教会成長が目標なんです。 皆さん、あえて申し上げますけど、今の時代、
特に神が主人であり、信徒たちは神様に謙遜に従って、神を愛する第一の今しめ、
隣人を愛する第二今しめを実践する教会があるのでしょう。 これは教会が神中心ではなく、
人を中心、人間中心、自己中心で転落したということしかないんじゃないでしょうか。 そのような教会に神様がリバイバルとして来てくださいますか。
ですから今、教会が回復しなければいけません。 教会回復は必ず必要なんです。
二つ目です。 聖書の歴史から見るとき、全世界が今のように人間中心、自己中心になったときには、
必ず神様が現れ、その時代を神中心的に変えてくださいました。 まずノアの時代、
創世紀6章1節2節を見ますと、さて地上に人が増え始め、娘たちが生まれた人の子らは、神の子らは、人の娘たちの美しさを見て、
各々自分が選んだものを妻とした。 神様の身群は関係ありません。自分の欲を満たしてくれる姉妹を自分の妻としたということです。
それは、神から離れた、神の子孫たちによって、全世界が自己中心、人間中心として変えていきます。
神の子供さえも、神の法、神の秩序を守らない。 神の国が完全に崩されたとき、
神様は神の国を建て直すために、ノアの家族だけ残して、神に従うノアの家族だけ残して、全世界を滅ぼしてしまいます。
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そして、神の国を新たに建てようとされるときが、ノアの時代でした。
アブラームの時代も同じでした。 ノアの公税の後、ノアの3人の息子、セイモト、ハモト、ヤベト、
その子孫たちが繁栄していくとき、ハムの子孫の中で、ニムロという人が中心になって、神様を無視する世界を作っていきます。
バベル塔を建てながら、創世紀中1章4節、彼らはさあ、天まで届く塔ある町を建て、有名になろうとします。
天まで届く塔を建てて、バベル塔を建てて、神様のようになりましょうと言います。
全世界がこのように人間の国として転落していくとき、神様が統治される神様の国を建てるために選ばれた人物が、
アブラウムでした。 そして神様アブラウムを徹底的に見事場の約束に従う者として訓練されます。
そして神の国の先祖として、女王として神様が訓練されるんですけど、それからアブラウムの子孫、イサク、ヤクプ、ヨセプによって、
神の見事場に従う神の国イスラエル、神の民が建てられるようになります。
しかし神の民イスラエルはカナンに入ったんですけど、民は神様にまともに従順する神の国にはなりませんでした。
指導者エリ最初のこの息子たちがいたんですけど、最初だったんですけど、彼たちはならず者と言いました。
傍若無人として生活します。神の国を破壊します。
その時神様は神様の統治される御国を建てるためにサムエルを建ててくださいます。
サムエルは何と言うんですか。主よ、下僕がここにいます。私に語ってくださいと言います。
そのようなサムエルを通して神の国の土台が据えられます。サムエル3章19節
サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その見事場が一つたりとも地に落ちることがなかった。
サムエル時代は神の見事場が成就された時代でした。これが皆さん神の国の特徴なんです。
そのサムエルを通して神の国イスラエルの初代王としてサウルを建ててくださったんですけど、サウル王は神の国が何なのかを知らないものでした。
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自分が王になったと思って神様が統治されるべきイスラエルを自分が王として自分のわがままで国を統治します。
その時神様はダビデを選ばれ、シトギョーデンチューシャンション22世帝と言います。それからまたサウルを退け、ダビデを王の位につけ、
彼について次のように宣言された。私はエッサエの子、私の心にかなう者、ダビデを見出した。彼は私の思うところすべてを行う。
彼はダビデの幕屋を通して神様に正しい礼拝を捧げながら、徹底的に神の見事場を聞いて従いながら、神の国を拡大していきます。
実現していきます。 その後、神の国イスラエルにダビデのような王様はいなかったんです。
神の完全な統治を受ける王様はいなかった。 だからイスラエルはダメになりました。アッシリアとバベロンに滅亡されました。
彼たちは自分たちが滅亡されたのに、なぜ滅亡されたのか知らなかった。なぜ、礼拝とする儀式を持っていたものですから。
神様が囚人としてわかって従う心を持つ、それを願っている神様の前で、ただ儀式だけ習慣的に行う、そのイスラエルは神の御国になれるでしょうか。
神の国イスラエルはダメになって、御国になった時、神の国の回復のために、
民たちに神の見事場を教える人がいたんですけど、その人がエズラでした。 エズラは御国を成し遂げるために、神の見事場をために教えられたんです。
そして神の見事場に従順することを強調しました。 彼は特に
信仰の結婚、家庭が御国にならなきゃ、教会が御国になることはできないんじゃありませんか。
家庭が御国になるために、リーダーたちが信仰の結婚ができなかったことを気の毒だと思いました。
リーダーたちが神の見事場に従わない、無視するのに、違法人のように生きることを見ながら、エズラは、
エズラ書9章3節にこう言います。 私はこのことを聞いて、衣とマットを裂き、
髪の毛とヒゲをむしり、呆然として座り込んでいた。
そのようなエズラの熱心によって、悔い改めが行われ、神の国が再建されます。
しかし、保領からエロサレムには戻っては来たんですけど、神様が統治される神の国は立たされませんでした。
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そして、預言者マラキーを最後にして、旧約イスラエルは終わりにします。
それからイエス様が来られた時、当時パリ裁人たちがいました。 彼らは立法をうまく守るために規定を作ったんです。
そこまで作って、それで厳しく守ろうとする熱心があったんですけど、神様が統治される神の国に対しては関心がありませんでした。
教理と伝統、人の教訓、そして自分の独権をそれを作ろうとして、人間の国を作るのに熱心だけでした。
ですからイエス様はパリ裁人たちを見ながら、十二弟子を呼び寄せて、彼らを通して神の国を建てようとされましたけど、
イエス様の忠実化と復活を通して悔い改めた人に聖霊を送ってくださり、聖霊様が助けてくださって、神の国、神様の御言葉に従う
無礼を作ろうとしたんです。イエス様が来られて教祖されたのは神の国です。
マルコ一生忠孝説、時が満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさいと言われます。
皆さん大事なのは神の国です。神様が主人として王様として統治され、神の御胸が成し遂げるところ。
そこが神の国です。それをイエス様は教えてください。祈りの始めの部分で求めなさいと言います。
御国が来ますように御心が天で行われたように、地でも行われますように。
じゃあ3つ目です。私たちはどのように教会回復、神中心的な教会を回復することができますか?
私は40年間、数えてみたら私は40年間教会生活をしました。
40年間教会生活をする中で、教会に対して痛みをたくさん持っています。
私が行くところどころ、教会が真とお互いに戦って分裂する教会をたくさん見ました。
韓国でも見ました。日本に来ても見ました。その教会を見ながら、心が散らされるような痛みを感じているところです。
神様は一体どこにおられますか?葛藤もたくさんやりました。
それでもその中で、何か妄反的な教会を見つけることもありました。
その時、そこに行きたいと思う心もありました。 ある時、電動爆発訓練をするんですけど、
電動してイエス様を信じますという人が現れたら、その人にこう言うんです。
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あなたの家から近い教会に行ってくださいと言います。
みなさん、信じますと言っているのに、私の教会に来てくださいと言わないで、あなたの家の近い教会に行ってくださいと言う。
そのように教える電動訓練。 私はその牧師とその教会が羨ましくて、羨ましくて。
みなさん、欲がないんじゃないですか。むさぶりがないんじゃないですか。
むさぶりがない教会。むさぶりがない牧師。 羨ましく思いました。
みなさん、私たちにはみんな、自己中心ではなく、むさぶりがない、欲がない人。
これが本当にいいんだなと思う心を私たちみんな持っています。 だからそれを見たら羨ましく思うんですね。
ある教会は、自分の教会出席して、教会から訓練を受けて、10年以上になった人は、この教会から離れて、田舎の教会に行くか、また他の教会に行くか、海外の教会に行きなさいと言う。
そしてその教会に使いなさいと言う。 自分の教会に最後まで残って、私の教会を支えてくださいと言わないんです。
欲がない教会。 理想的ではありませんか。
また私が韓国で通っていた教会は、金持ちの人が大勢いました。インテリも人が大勢いました。
その人たちがこう言うんです。田舎の教会にはオルガンもないのに、私たちの教会はバイプオルガンもあるじゃないか。
私たちの教会、エアコンやめましょう。 扇風機で今やりましょう。
田舎の教会に全部オルガンが入るまで、私たちは田舎の教会を助けましょうと言います。
そして暑い夏には扇風機で頑張るんですけど、僕先生はこう言います。
暑い夏には涼しい教会に行ってください。 そして秋になって涼しくなれば戻ってきてくださいと言うんです。
欲がない僕先生。欲がない教会。
本当にこんな教会羨ましいなぁと思っているんですけど、皆さん、世の中の人々みんな言うんですよ。
欲がない、むさぶりがない教会と僕は好きなんです。 人が好きだけじゃなりません。神様もその人が好きなんです。
その教会が好きなんです。 しかし私が申し上げたい教会回復は、ただ自分の利益を求めないで、
まだ欲がない、そのくらいの教会を意味することではありません。 神様が統治され、私たちはその神様の民として神に従う教会。
その教会が教会回復なんです。一番大事なのは信仰の主導権は誰が持っているのか。
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皆さん、立派な教会は欲がないように見えるんだけど、主導権が自分たちが持っているなら、それは神の教会ではありません。
神の教会の主導権は神様が持っています。 私たちは神を体験するということを、昨日ケセマネでもメッセージをしましたけど、
私たちは今、金曜記者会で今学んでいるところでしょう。 イワネ公書17節、イエス様はお答えになった。
私の父は今もなお働いておられる。 だから私も働くのだ。 皆さん、主導権はイエス様が持っていませんでした。
主導権は神様が持っていました。 神様が働くから、だから私も働くんだと言いました。
中級説、そこでイエスは彼らに言われた。 はっきり言っておく、子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。
父がなさることは何でも、子もその通りにすると言いました。 そうです。神様が主導権を持って働くとき、私たちはそこに道路者として参加すること。
それが大事なんです。 そのためには神様が今も働いておられます。 命を救うため、教会の回復のために神様が主導権を持って働きます。
私たちはどうするんですか。 神様との親しい交わりの中にいるとき、神様は私たちを招いてくださいます。
主導権は神様にあります。 神様に敏感に反応すること。
私がその反応するとき、神様は私に語りかけてくださいます。 神ご自身と神の目的と神の方法を
精霊を通して、聖書と祈りと環境と教会を通して教えてくださいます。 それを聞いた人は葛藤がありますけど、自分の人生を修正して従うとき
神様が私たちを通して神の身分を成し遂げられる。 皆さん、これがこのようにすることが誠に神中心的な教会、神中心的な信仰なんです。
これはイエス様もそう行ったし、信仰の先輩たちも全部そのようになりました。 神様が主導権を持って神様が導いておられるところに私たちが従っていくとき
神の国が成し遂げるんですけど、神の国はきっと平和と喜びが満ちあうれる神の国です。
しかし私たちが主導権を持って働くならどうなりますか? 戦いがあります。葛藤があります。分裂があります。
だから私たちが主導権を持って何とかやろうとすることを下ろして 神様に従っていく群れ、これが大事だということです。
私たちはこれを使命として持っています。 教会回復の使命を持っています。
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そのために私たちの信仰のやり方、パラダイムが変わっていかなければなりません。
このような次第的な使命、教会回復を担いながら 心から礼拝、おそれを敬う礼拝、悔い改めながら神様と正しい関係を取り戻して礼拝
また、従順して神を愛する心で礼拝捧げるとき 神中心的な正しい礼拝が捧げられると信じます。
その時神様が喜んで懲りんざいしてくださり その教会にリバイバルも送ってくださるでしょう。
この観点から見てますと、なぜ教会に懲りんざいがないのか? なぜ教会に神の恵みがないのか?
これは神中心的な教会になってないからです。 教会がいくら大きく大きいと言っても人間が主人になって人間たちが運営していくなら
そこには神の国ではありません。人間の国、自分たちの国になるだけです。 私たちが神中心的な教会になり、このような使命を担いながら心から神様に礼拝するとき
神様を喜びながらこの礼拝を受け取ってくださり 懲りんざいと神様の恵みが豊かになる私たちになると信じます。
私たちはそのような教会を私たちがまず実践し また私たちに出会うすべての教会が神中心的な教会になることに
私たちが助けていかなければいけない使命があります。 最後に申し上げます。教会はこの世での神の国です。
ある意味から見てますと今の教会がそのまま天国に行きます。 皆さん今の教会は私たちの群れがそのまま天国に行きます。
今私たちの群れ集まりはそのまま天国に行くのにふさわしい姿でしょうか。 もしそうでなれなければここに私たちの嘆きと祈りと涙が必要なんです。
私たちの教会は必ず神の国を実現する教会になりましょう。
今人数が少ないまだ開拓したばかりの教会ですから これは私たちがやりましょうと神の恵みが注げられたらいくらでもできると信じます。
ですからこの世の中で神の国天国を味わいながら 私たちはそのまま天国に行かれる私たちになりますように。
お祈りいたします。 神様今まで私たちは教会に熱心に奉仕しました。
教会に熱心に使いましたが神と神の国ということはよくわかりませんでした。
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ある意味から見ますと熱心に教会に通いながら 教会のメンバーたちよ私を認めてくれ
私を褒めてくれと言ったかもしれません。 それは全部自分の教会自分の国を作ることしか何にもありません。
これから自分自身を捨てて神の国神様が統治され導かれる 神の国を立たせるのに私たちはこれからやっていきたいと思います。
神様恵みを与えてください。私たちの力ではできません。 必ず神中心的な教会になって神様喜ばれる教会
そして日本全国にそのような教会が広がれるように働く私たちにならせてください。
イエス様の源を通してお祈りいたします。 アーメンアーメン