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2017-07-23 35:10

2017/07/23:ヨハネの福音書講解説教(6)神を礼拝するということ

 2017/07/23 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 ~25

00:00
改めて皆さんおはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
暑いですけれども、メッセージに入る前に、いつものように周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
感謝します。一言お祈りします。神様感謝します。
主にあって愛する兄弟姉妹たちが、このように心を一つにして、互いに交わり合い、励まし合い、
慰め合って、またその中で、神を共に一緒に見上げることができる、このお恵みを心から感謝いたします。
どうか、この朝も神様御自身が、今から一人一人我々の礼に、心の中に、全ての生活の中に、主御自身がお語り下さって、
そしてその御言葉通りに生きる、従って生きる力を、上から主よ、お与え下さいますように、お願いいたします。
心の目を開いて下さって、あなたを見る、また主のお言葉を聞くことができますように、悟ることができますように、主よ祝福して助けて下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
はい、ヨハネノ君賞公開説教のシリーズが続いています。今日は6回目ですけれども、
主を礼拝するということ、主を礼拝するということに対して、共に御事の恵みをお受けしたいと思います。
先週はイエス様が公の生涯の中で、最初の記憶を、奇跡を行われたこと、カナでの婚礼でのことを一緒に見てみました。
ところでですね、今日のヨハネノ君賞2章の流れを見ますと、このヨハネノ君賞著者、ヨハネは、カナの宴会の記事があってですね、
そのすぐに、その後すぐですね、13節、ユダヤ人のスイコシの祭りが近づき、イエスはエルサレムに昇られた、と。
ガリリからエルサレムに昇られるイエス様、そしてエルサレムでスイコシの祭りを過ごすために昇られるそのイエス様の記録が、
すぐにですね、はじめの印の後にすぐ、それが続いているわけなんです。
13節から出てくることは、いわゆる宮清めですね、神殿を清めるその事件がありました。
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4つの福音書を見ますと、それを対照してみたらですね、この宮清めのこの出来事は、イエス様の最初の印の後、すぐに起こった方法であることがわかりました。
さあ、その流れをですね、少し考えていただきますと、イエス様ははじめの最初の印、その後すぐに神殿に昇られた。
つまり、それは神を礼拝する、主を礼拝することから始まった、ということがわかるんですね。
これにはですね、その持つ意味が実に大きいと思います。
イエス様のエルサレムで、はじめとの働きは、神殿に昇られたこと、そしてその神殿で神を礼拝するためだった、ということなんですね。
イエス様は神の子として、そして人間イエスとして、唯一の神、作り主神を礼拝するために、エルサレムに昇られた、そして神殿に入られた、ということであります。
ところがどうでしょう。イエス様がですね、水越しの祭りを過ごすためにエルサレムに昇ってみたら、
その神殿の中、その光景はどうだったんでしょうか。
皆さんよくご存じだと思いますけれども、十四節からちょっと見ていきましょうか。
私が読みしますので、十四節からご覧ください。
そして神殿の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと、業外人たちが座っているのをご覧になり、
細縄で鞭を作って、羊も牛も皆宮から追い出し、業外人の金を散らし、その台を倒し、とありますね。
さあ、その光景を皆さんイメージしてみてください。
神殿の外じゃないですよ。神殿の中なんですね。宮の中にとありますから。
その中には、牛、羊、鳩を売る商人たち、多分檻もあったかもしれません。その屋台もあったでしょう。
そしてまた、業外する商人たちでいっぱいでした。
ここが神殿なのか、宮なのか、市場なのか、わからないほどだったようなんですね。
06:07
いろいろ、イエス様の当時の、杉越とかエルサレムの光景とか資料を調べてみたら、若干誤差はありますけれども、
イエス様のこの当時、エルサレム町の人口は約10万人くらいだっただろうと推算しているんですね。10万人ですよ。決して少ない人数ではない。
ところが、この杉越の祭りになったら、エルサレムはイスラエルの皆さん、さあ聞いてみましょう。北にありますか?南にありますか?
エルサレムはイスラエルの南にありますよね。だから大体北の方から、ガリリとかですね、あるいは海の方から、この杉越が近づくとみんな登ってくるんです。
そしてですね、多い場合は、このエルサレム小さな町が20万人くらいになるそうなんです。これはですね、もうキャパをオーバーしたとてつもない人数なんですね。
しかもですね、そのイスラエルの中だけではなく、エジプトに住んでいる人々、ギリシアに、今のトルコに、シリアに、あるいは東の方のヨルダンにですね、住んでいるイスラエル人が年に1回はもうみんな集まってくるんです。
そしたらですね、もう宿がない、もう道が見えないほど、もう人だらけになってしまうわけなんですね。
それはですね、ルカノ福音書だと見ていきましょう。清楚にはその風景を、少しイエス様が12歳のことで記しているんですよ。ルカノ福音書の2章の41節からご覧ください。
イエス様はですね、スイコシの祭りの時にエルサレムに登られたのは、今日のヨルダンの福音書が初めてではないんですね。12歳の時も、その後もですね、毎年登られたわけですよ。ご覧ください。41節から私は読みますね。
さてイエスの両親はスイコシの祭りには毎年エルサレムに行った。だから毎年イエス様は家族と一緒にエルサレムに行かれたわけなんですよ。42節。イエスが12歳になられた時も両親は祭りの習慣に従って宮古へ登り、祭りの期間を過ごしてからキロに着いたが、
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少年イエスはエルサレムに留まっておられた。両親はそれに気づかなかったということなんです。どれだけ人数が多かったんでしょうか。多分ですね、エルサレムに登られて押されてですね、エルサレムの門から出て行ったかもしれません。
しかもですね、44節を見ますと親族も知人もその一行になって登って帰ってくるわけですから何十人もいるわけなんですよね。ところがイエスがその一行の中にいると思ったんですけれども、一日道のりを行ってそれからなかったことは気づいたほど人が多かったわけなんです。
それで見つからなかったんですね。探してみても。それでまた帰っていったわけなんです。それほど人数が多かった。20万人ぐらいの人々が約1週間エルサレムでですね、泊まったり食べたりするわけなんですよ。
さあ、そしたらどんなことが起こるんでしょうか。人はですね、昔も今も変わらないことがあるかなと私は気づくことがありますと、何かの祭りがある。人がたくさん集まってくる。そしたら必ずのように何が立つんですか。屋台が立つ。
日本もそうでしょう。この前17日にハーバランダのメリケンパークにうちの子孫とノア君たちと行ったんですけれども、屋台がいっぱいでした。人もいっぱいでした。この時も実は同じでした。イエス様の時。
20万人がやってくるんですよ。1週間ですよ。そしたら何が起こるんですか。屋台が立って羊を売る、鳩を売る、牛を売る、そして漁がやする商人たちがやってくるんですよ。全国からやってくるんですよ。なぜでしょうか。
頭の回転の早い人はですね、この1週間は1年中一番お金を儲かるビッグのチャンスなんです。逃さないんです。どうしたら神を恋愛することができるんだろうかを考えるんじゃなくて、どうしたらお金を儲かるんだろうかを。この人々もユダヤ人だから。
そして神殿に来て、そしてすぐそこで羊を、あるいは牛、あるいは鳩を飼って、それを生贄として捧げることができるサービスの商売ができたわけなんですね。
たぶんですね、これはイメージですよ。推測してみたらですね、売っている人々が、「皆さん、塔から羊や鳩を持ってくる必要はありませんよ。ここに綺麗なものがあるんですよ。傷もない元気な牛がありますよ。1匹いくらいくらですよ。」って商売する。
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イエス様は、ただ神様のみを礼拝するためにエルサレムに神殿に登られました。その他に目的は一切ありません。神を神として礼拝するためにエルサレムに登られたイエス様。
それと対照的に、そこで商売している人々。そしてそれにですね、うろろしている人々。神を礼拝するどころか、人間の本欲、自己中心、神様に対する冒涜、礼拝に対する無関心、堕落でいっぱいでした。
だからイエス様は、そこで商売する人々、礼拝する人々、またそこにいる人々の心を見抜いてくださって、その心の中にある人間の本欲、自己中心、神への冒涜、無関心等々それを見抜かれて、そして彼らをそこから追い出されたわけなんですね。
この商売する人々は、外国から来る人々のために、礼拝をする。あるいは、遠くから来る人のために、牛とか羊とか鳩を売る、いわゆる人々の便宜のために、サービスを提供しようと思ったかもしれません。
さあ、こういう話ですよ。作り話ですけれど、こういうことは起こるわけです。ガリレア人、シモンというゴリ家族の人が住んでいました。
スイコシの祭りにエルサレムに登ってきます。自分の家の中にある羊の中で、一番いいもの、元気のいいものを二匹、二頭連れて行きます。
なぜ二頭なのか、途中で一匹死んだら、もう何もなくなってしまうから、予備で二匹、ガリレからエルサレムに行くんですよ。
スイコシの祭りは、今のカレンダーでいうと、3月か4月なんですね。調べてみたら、3月、4月のエルサレムの気温は平均20度くらいだそうです。
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ところが、ガリレからエルサレムまでの直線距離は、170キロです。しかし、サマリオを通過しないので、ちょっと回っていくんですね。
西に回っていくか、東に回っていくから、だいたい230キロだそうなんです。今から2000年前ですよ。家族が、親族もいるでしょう。子供もいるわけなんですね。
イエス様も12歳に行かれた。子供もいる。おじいちゃんも、おばちゃんもいる。5人、10人、15人、20人かもしれない。
だいたいこの時は、5人か10人に牛か羊を一頭捧げたそうなんです。
で、その大人数が行くわけですから、ガリレからエルサレムまでは約2週間かかるわけなんです。歩いていくわけなんですね。2週間もかかる。
そのうちに羊がこけて、傷ができるかもしれない。病気にかかるかもしれない。
シモンさんが過労死で羊を持って、エルサレムについた。そして捧げる前に検査をするんですよ。
そしたら傷があって、これダメですね。不合格。そしたらどうするんですか。そこで顔しかない。
これをある人々は、いわゆる羊を悪じゃないでしょうか。生贄は捧げなければならない。
例えばエジプトからギリシャから羊とか牛を持ってくることはできないでしょう。便利でいいじゃないですかと思うかもしれません。
ところが皆さん、大事なのは、これが便利なのか不便なのかの問題ではなく、神を礼拝する人々の心、霊の問題が問われることであります。
何が大事なんでしょうか。主を礼拝すること。神殿のせい、神の家、礼拝の家であるということを忘れてしまった人間の貪欲、罪がここに記されているわけなんです。
ここで私たちは、主を礼拝するということの意味を改めて一緒に考えていきたいと思います。
今日のタイトルは、主を礼拝するということになりますが、主を礼拝するということを皆さん、今日三つでお話をしたいと思います。
第一、主を礼拝するということは、神を神として崇めることです。主を主として崇めることです。
神殿で商売する人々の問題は何でしょうか。神を神として崇めない。主を主として崇めないことなんですね。
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神様を礼拝することには、神を崇めることには、褒めたたえることには、あるいは神を喜ばせること、主を賛美することには、ここにいた人々には関心があります。
皆さん、主を礼拝することはどういうことなんでしょうか。それは、私たちが真実に唯一の神様を神様として崇める。
その方の偉大さを賛美する。全身全霊で神を褒めたたえることではないでしょうか。
また、神を礼拝する、主を礼拝するということは、いつも私は従うべき下部であり、いつも神様は崇められるべき主であることを覚えることです。
ですから、礼拝が礼拝となるためには、神様のみ現れるべきであります。神様のみなだけが崇められるべきであります。
そういった意味としては、説教者も大事ではない。聖書を教える教師も大事ではない。唯一大事なのは、ここに神様がおられるという事実。
そして、その神様の神のみなが崇められるべきである事実が大事なことであります。主を礼拝するということ。
今も私たちは主を礼拝していますけれども、第一に一番大事なのは、主として崇め賛美し礼拝することであります。
二番目、主を礼拝するということは、神様にとらわれることです。神様に全くとらわれることです。
神殿で商売する人々、あるいはそれを黙認して、和色をとって、そういった妻子たち、彼らの問題は何でしょうか。
彼らも一応礼拝に来たからです。ところが、完全に神様にとらわれていないんです。仕事はしているんでしょうけれども、神様に完全にとらわれていない。
まるで礼拝のために集まっているんだけれども、そこには神様がおられないことと同じではないでしょう。
主を礼拝することはどういうことでしょうか。それはもちろん、自己啓発でもありません。教養を高めることでもありません。
あるいは聖書講演を弾くものでもありません。聖書知識を積むものでもありません。
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いくら聖書知識が優れていても、旧約新約を全部暗記していても、誰かが聞かれて答えることができたとしても、
その人が、私たちが神様に完全にとらわれていない、取り扱われていないならば、その知識がその人を滅ぼすということであります。
礼拝すること、主を礼拝するということは、神様に完全にとらわれるということであります。
礼拝ならば、神の御言葉と神の命令、あるときには神の試練を通して、私たちは神様のお取扱いを受けることです。
神様のお取扱いを受けて、捨てるべきことは捨て、取るべきものは取る。
そして、砕かれるべきところは砕かれて、新しくされるべきところは新しくされることであります。
また、自由にされるべきところは自由にされることなんです。
キリスト教の雑誌の中で、クリチャニキ・トゥデイという雑誌があるんですね。
アメリカから始まって、日本もネットはありますけどね、実際に本はあるかどうかまだ見たことはありませんが、
そこにですね、今日のクリチャンの問題を分析した記事がありました。
その中で一つの内容は、これから日本もこういう世代が、特に若い世代が増えるだろうということなんです。
アメリカとか韓国は行くない方向です、進んでいる東京都ですけれども、
今日はですね、インターネットで多くの教会、あるいは先生方の説教を聞くことができるんですね。
英語ができるならば、アメリカの素晴らしい先生方の説教も聞くことができる。
また、メガチャチの場合は、教会の礼拝を生で放送しているところもインターネットで多くあります。
クリックだけすれば、いくらでも聖書講演を聞くことができる。
その中で知識は優れていくかもしれない。
特に若い人の中で、雑誌ですよ、それも想定ですけれども、
日曜日の朝、朝早く起きて教会に行くのはめんどくさい、もう疲れているし、
それですね、適当にですね、2時ごろ起きてですね、パソコンの電源を入れる。
そしてもう顔も洗っていないし、パジャマのそのままですね、ベッドに横になってですね、
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コーラ飲みながらパソコンで礼拝を見て、礼拝をする。
そしてですね、今日はもうこの教会の礼拝を見てみようか、
今日はこの牧師の説教を聞いてみようか、選ぶ。
それで聞いてながら、うーん、この先生もあんまりね、って。
そういうふうに礼拝する世代がどんどんどんどん増えていくでしょう。
日本もこれから増えていくかもしれません。
そこに神をあがめる、神を賛美して、そして神様にお会いして、
そこに自分がとらわれる、取り扱いされるという、礼拝の本質は遠い国のものになっているということであります。
礼拝において神様にお会いすること。
見言葉の前にひれをして、次を食い温め、
自分の孝孫、自分の変わらないところ、固いところを主に取り扱いされて、
時には砕かれて、時には励まされて、時には慰められて、
そういうふうにして主をあがめることが礼拝ではないでしょうか、皆さん。
そしてクリティカルについて雑誌が指摘することの一つは、いわゆる比較文化ですね。
比較する、比べることだけです。
この世の中もそうなんですよね。社員、例えば会社に社員Aさん、Bさん、Cさん、
そしたらAさんはものすごく実績回避、Bさん、Cさんに、
Aさんのように頑張りなさいと。それもできなかったらリストから。
そういう今もポストモダニウムという社会、この世代は、
この比較という意識が我々人間の中にあるんですね。
例えば皆さん、さあ買い物に行くでしょう。
欲しいからどこのスーパーが安いのか、頭の中に皆さん入ってますよね。
肉はマンダイが安い、野菜はラームが安いとかね。それで行くわけ。
いつの間にか心の中に比べるわけなんですね。
それはここで比べていいでしょうけれども、我々は教会を比べる、
牧師を比べる、説教を比べる、あるいは神道を比べる。
その中で何が残るんでしょうか。そこに恵みがあると思いますか。
恵みはありません。がっかりがあるか、あるいは私的があるか、
怒りがあるか、傲慢があるか、どっちからです。
皆さん、主を礼拝することはどうなんでしょうか。何でしょうか。
この礼拝全体の中で、そして唯一の神様にお会いすること。
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神の人格と私の人格がお出会いすること。
そして主をあがめ、神様にお取り扱いをされる。
それを毎日お受けして、そして完全な神の人に新しくされること。
これが礼拝ではないでしょう。
三番目、神を礼拝するということは、神の品性に似ていくことであります。
神の品性を習うことであります。
皆さん、信仰と生活は別々ではないんですよね。
礼拝と生活は別々ではない。
神を礼拝するということを、教会に来て礼拝する、礼拝式、
あるいはお困った部屋で祈りとか賛美とか聖書を読んだり、
あるいは説教を聞いたりすることだけが礼拝と、
それだけが礼拝と思っては、それは間違いです。
それも礼拝でありますが、それだけが礼拝ではないんです。
我々の生活全体が礼拝でなければならないんですね。
それがローマ人の手紙十二章一節二節の御言葉ではないでしょう。
生活全体の中で、その中で神様にお会いすること、
神の品性に習うこと、生きること。
この前水曜日の学びをしましたけれども、
キリストの香りを放つこと、実はそれこそ礼拝なんです。
神を礼拝する者は、神様、イエス様、聖霊様の品性を習っていきます。
変えられます。どんどんどんどん変えられていきます。
神を礼拝すればするほど、祈りをすればするほど、
御霊の品性に似たものに変えられていきます。
簡単に言いましてですね、神を礼拝する、死を礼拝するということは、
神に満たされることです。
神の御言葉に、神の品性に、神の霊に満たされることであります。
聖霊の満たし、聖霊十万の話をよく言いますが、
ふと思い出すのはですね、大体の人々は聖霊の十万、聖霊の満たしとしたら、
何かすごい力、病気を癒やして、遺言をして、
奇跡を起こして、聖書を全部暗記してしまって、
こういった神秘的な特別な奇跡を行うことばかり考えてしまう。
それもあってますけれども、それは一部に過ぎません。
30:03
皆さんよくご存知のガラディア遺体の手紙、
五章二十二、二十三節に、御霊の御は何でしょうか。
この全て、人格なんです。品性なんです。
実は不思議にも、他の箇所にはあるかもしれませんが、
少なくともガラディアの五章二十二、二十三節には御霊の御、
そこには奇跡とか、癒しとかはそこには書いてない。
他の箇所には書かれているんですけれどもね。
だから御霊の御は、愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、誠実、入和、自省なんです。
だから主を霊廃するということは、我々の人格が、品性が、
このように愛の人に、喜びの人に、平安の人に、寛容の人に、
親切の人に、善意の人に、誠実の人に、入和な人に、
自省する人に変えられていくことなんです。
生活において、家庭において、人間関係において、親子夫婦関係において、
このような品性に変えられていくこと、それが主を霊廃することの証なんです。
それに満たされる、それにいっぱいになること、それが主を霊廃するということなんです。
一生懸命に入和して、一生懸命に祈って、一生懸命に奉祀している分、
夫や妻や子供、親を二倍三倍愛して、使えて、寛容して、親切にして、喜んで、使えること、
それが主を霊廃することなんです。
実は、この三番が本当に我々が変えられていくならば、
素晴らしい救いが家庭において、町において起こると信じます。
何が問題でしょうか。何が足りないんでしょうか。
出会いの数が、祈りの時間が、聖書読む時間が足りないんでしょうか。
それも足りないかもしれませんが、十分にやったとしても、
もし二珠の実のように自分の親切さが、愛が足らないとするならば、
そのように二珠の実によって自分の人格が変えられていくこと、
未信者の家族に伝えること、接すること、
それによって、たとわしいキリストの香りを放つということであります。
最後にですね、聖書一箇所を開きたいと思います。
33:03
大野君書五書十六節です。新約聖書の六ページです。
大野君書第五書十六節、一緒にお読みしましょう。
せーの、このように、あなた方の光を人々の前で輝かせ、
人々があなた方の良い行いを見て、
天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。
皆さんここにですね、父をあがめる、これが礼拝なんですよね。
我々が人々の前で光を輝かしている良い行いをするならば、
それを見て家族が見るんですよね。
民信者の家族が、あるいは周りの人々がそれを見て、礼拝するようになるんですね。
特に生活のこと、これ私たちは感化してはいけないというわけなんですね。
三つお話をしました。
主を礼拝するということは、主を主としてあがめること。
そして二番目は、神様に主にとらわれること。
お取扱いをされること。
三日目は、神の品性に、御霊の品性に変えられること。
これこそ主を礼拝することであります。
これからはどうか皆さん。
皆さんお一人お一人が、本当にどこにいても主をあがめる人。
主にお取扱いされる人。
また御霊のような品性に、人格に変えられる。
そして神の栄光をあらわして参りましょう。
お祈りいたします。
35:10

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