00:01
みなさん、あらためておはようございます。先週は、教区の高壇・高官礼拝で、また名谷には三島先生、私は神戸福田教会議員でご用意をさせていただきました。
お祈りありがとうございました。それでは、メッセージに入る前に、いつものように周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。ありがとうございます。
それでは、一言お祈りいたします。神様、感謝します。本当に私たちは主を愛しています。
その最高、最高の愛をもって、今、礼拝する我々一人一人を豊かに恵んでくださいますように、お願いいたします。
神様ご自身が、今この時、私たちのこの心の板に、主の御言葉を下につけて、その御言葉によって生きるものとならしめてください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
はい、今日は、両根の福音書の講座会、説教ではなく、明日から金曜日まで、秋の福別喜怒会が開かれますけれども、その第一回目のメッセージとなります。
今回の秋の福別喜怒会においては、新約聖書のヘブル人への手紙11章の1節から、大体29節までになりますけれども、そこと、また、それに応じる荘石の聖書を開いて、
今回の大きなタイトルは、「あなたは信仰によって歩んでいますか?」という大きなタイトルによって、聖書の人物一人一人から、
信仰によって歩むことって何なのか、今私たちが何をすべきなのか、あるいは何が必要なんだろうか、あるいは何が欠けているんだろうか、とかですね、それを学んで、あるいは考えて、あるいは見習って、あるいは実践していきたいと願っております。
今日はその第一回目として、その人物はアベルであります。
03:06
まずもう一回、今日のヘブル人への手紙11章、4節、4節だけを一緒にお読みしたいと思います。
よろしいですか、4節。
信仰によってアベルは神よりも、神が彼の捧げ物を良い捧げ物だと明かしてくださったからです。
彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。
それではここはですね、しおりとかに入れていただいて、創世記をちょっと開きましょうか。
創世記の4章を開きましょう。旧約聖書の5ページです。
創世記の第4章、1節から7節まででありますけれども、しばらく私がお読みしますのでご覧ください。
創世記第4章、1節。
人はその妻エヴァを知った。
彼女は身ごもってカインを産み、私は主によって一人の男子を得たと言った。
彼女はそれからまた弟アベルを産んだ。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土をたたやす者となった。
ある時期によってカインは地の作物から主への捧げ物を持ってきたが、
アベルもまた彼の羊の生後の中からそれも最上のものを持ってきた。
主はアベルとその捧げ物に目をとめられた。
だがカインとその捧げ物には目をとめられなかった。
それでカインはひどく怒り顔を伏せた。
そこで主はカインに仰せられた。
なぜあなたは怒っているのか?なぜ顔を伏せているのか?
あなたが正しく行ったのであれば受け入れられる。
ただしあなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしてあなたを恋したっている。
06:07
だがあなたはそれを治めるべきである。
アメル。
アベルは羊を飼う者、つまり牧畜をした、羊飼いとなったわけですね。
そしてカインは土を耕す者、いわゆる農夫、農業をしたわけなんです。
職業、仕事には何かの上下があるわけではありません。
ただの違う仕事をしていただけです。
ところが3節、漱石4の3節ですよ。
ある時期になってとあります。
だからある時期になるまでは、カインやアベルは神様に捧げ物を捧げていなかったのではないか、それがわかります。
このある時期が彼らが何歳になった時なのかわかります。
確かにある時期になってカインもアベルも神様に捧げ物を捧げて、いわゆる私たちのように礼拝をしたわけです。
その神様に捧げ物を捧げて礼拝をする時に、
当然カインは農夫だから何が手に入りやすいですか。
自分の身の回りに何が多くあるでしょうか。
穀物ですよね。穀物が多くあるわけですし、それが手に入りやすいものです。
またアベルはどうでしょう。
彼は羊を飼う者だったから、普通に羊が自分の周りにいるわけなんですよ。
それで3節からわかるように、カインは土を耕す農夫でしたから、
当時、私の作物から主への捧げ物を持って捧げました。
ところでアベルは4節、よく注意してご覧いただきたいですけれども、
アベルもまた彼の羊の産子の中から、それも最上のものを持ってきた。
09:09
さあここでですね、カインが持ってきた作物、それはどんなものなのかはわかりません。
ここからはね、それが最上のものなのか、枯れたものなのか、
有り余ったものなのか、適当に選んだものなのか、それはわかりません。
この3節だけではわからない。
しかし確かに4節、アベルの捧げ物はわかります。
どんなものでしょうか。
まず羊です。
そして羊の中でも産子なんです。
そしてしかもそれはどういうものですか。
最上のものを持って神様に、2人が礼拝をしています。
カインが礼拝をしています。
アベルが礼拝をしています。
少なくともこの3節、4節から私が知ることができることは、
アベルは羊の中で最も大事な産子、しかもその中で最上のものを持って神様にお捧げしました。
つまりそこにはアベルが喜んで惜しみなくお捧げしたということではないでしょうか。
だからそれを今日のヘブロビットへの手紙のこの図書は、私たちにアベルの礼拝はどういうものなのかを私たちに解説して教えてくれているんですね。
ヘブロビットへの4節、もう一度ご覧ください。ヘブロ11の4節。
申告によってアベルはカインよりも優れた生贄を神に捧げられます。
まず第一の大事なポイントは何でしょうか。申告によってなんです。
そしてカインよりも優れた生贄を神様に捧げました。
ですから神の目にはカインの作物よりアベルの羊の産後の最初のものが優れたものでした。
今日このアベルあるいはカインから教えられる特に礼拝において大事なポイント。
第一、一つ目はアベルのこと、カインのことから分かることは、神様が受け入れられる礼拝があり、受け入れられない礼拝があるということです。
12:14
私たちがお捧げする礼拝、あるいはアベルとカインが礼拝を捧げました。
意見には捧げましたけれども、神様に目を止められたアベルとその捧げ物がありましたけれども、
カインは、カインその自身もその捧げ物も神様が目を止められなかった。
皆さん、礼拝であればどんな礼拝であろうが、神様は無条件的に何でもどんな礼拝でも受け入れられる、
神様に喜ばれる礼拝があり、喜ばれない礼拝がある。
その人、そのある意味で、これはショック感を知れます。
もしも、私たちが今まで神様に捧げた礼、あるいは今日のこの礼拝が、もしも神様に喜ばれないものだったら、
神様に受け入れられないものだったら、それはどれだけショックなことなんでしょう。
神様は外見、礼拝者の外見を見るお方ではない。
心の中心のその魂を、その人格を見られる、また見受けられる。
ですから、礼拝する、礼拝者の私たちの礼が、心が大事である。
ちょっと一箇所ですね、旧約の聖書を開きたいと思います。旧約のイザヤ書を行きましょうか。
イザヤ書第一章、14節からしばらく見ていきましょう。
1127ページです。旧約聖書1127ページ。
イザヤ書一章、14節からです。
15:00
お読みしますね。
あなた方の新月の祭りや礼拝を、私の心は憎む。
それは私の重荷となり、私は追うのに疲れ果てた。
あなた方が手を差し伸べて祈っても、私はあなた方から目をそらす。
どんなに祈りを増し加えても、効くことはない。
あなた方の手は血まみれだ。洗え、身を清めよ。
私の前であなた方の悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
善を成すことを習い、公正を求め、
強いたげる者を正し、身なしごのために正しい裁きを成し、
やもめのために弁護せよ。
みなさん、これはね、
イザヤの時代、ユダの人々、あるいはイスラエの人々は、
神様に新月の祭り、礼拝、たくさんの礼拝をしかけたんです。
そしてそこに、羊とか鳩とかオオシとか、あるいは和牛とか小麦とか、
たくさんの捧げ物が、生贄が裁判の上に捧げられたわけなんです。
しかしどうでしょうか。
神様はあなた方のその新月の祭りや礼拝、そこに捧げる生贄を私は憎むだ。憎む。
目をそらす。もう嫌だ。
すいません、こういう言葉で。もううんざりした。
おもにとなり疲れ果てたとありますから。
なぜでしょうか。その理由は何でしょうか。
神様はもっとA++++のどこかの端島牛みたいな最高の牛肉が欲しいからでしょうか。
牛の問題、羊、そのね、小麦とか、そういう生贄の問題、依然の問題で、
その礼拝している礼拝者が悔い改めていない。
悪を取り除いていない。
ただの通り一遍の形式的で心が込められていない。悔い改めていない。
そういうものを私は憎む。
皆さん、私たちはどうなんでしょう。
願わくは、神を愛して。
18:02
神を慕へ求めて。
神様の御言葉に対する植えかわきを持って、神の御言葉をお受けしないといられない。
もう死ぬほど神の恵みを求める。
そういう心を持って、礼拝する礼拝者でありたい。
そして、その神の恵みと罪許し、愛に感謝して、看護して、感激して捧げる礼拝者でありたい。
まず皆さん、覚えてください。
二人が礼拝をしました。
一人の礼拝は神様に喜ばれましたけれども、もう一人の礼拝は神様に。
今日、今までの礼拝はもう過ぎましたからね、取り戻すことはできない。
これから、私たちの人生にこれから何回神様に、この例えばですよ、この誠実礼拝を何回捧げられるか、私たちにはわからない。
そうするならば、今日のこの礼拝が、カインの礼拝とその捧げ物じゃなくて、アベルの礼拝とアベルの捧げ物のようになる。
礼拝する私たち自分自身と、あるいはお捧げするその捧げ物が、神様に喜ばれるものでありたい。
そういうふうに説に願っております。
二つ目、神様は信仰によって捧げる礼拝を喜ばれます。
信仰によって、聖書を開きましょう。
ヘブル・ビトの手紙、十一章、六節です。
ヘブル・ビトの手紙、十一章、六節。
大きな声で一緒に読みたいと思います。
これを合わせてお読みしましょう。
ヘブル・ビトの手紙、十一章、六節。
三、信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には、報いてくださる方であることとを信じなければならないのです。
アーメン。
皆さん、お聞きしましょう。
何がなくては、神に喜ばれることはできませんか。
何でしょうか。
信仰なんです。
信仰なんです。
第一も信仰、第二も第三も第四も信仰によってであります。
21:09
アベルの礼拝は、そしてそのアベルとその捧げ者は、なぜ神様に受け入れられたのでしょうか。
なぜ喜ばれたのでしょうか。
なぜ目を止められたのでしょうか。
答えは簡単です。
信仰によって捧げた。
漱石4の4節を見たら、主はアベルとその捧げ者に目を止められたとありますね。
アベルにも、アベルが捧げたその捧げ者、羊の産後の中の妻女の者にも主が目を止められたということであります。
これが非常に大事です。
神様はまず、礼拝する私たち一人一人を見られるということであります。
神様をどれだけ愛しているのか、それを見られます。
主の恵みをどれだけ植えかわいて求めているのか、それを主が見られます。
私たちの目と心がどれだけ神様を喜んで期待しているのか、主が見られるということです。
弱音の勲章の見事からアベルの礼拝を言いますと、アベルは礼と誠を持って神を礼拝するものでした。
おそらくですね、そのところからわかるのは、神様に喜んで、自分の羊の中で産後の、
それはまたその産後から羊が生まれてくる大事なものなんだから、
その産後の中で最も最上のものを神様に喜んで捧げたんじゃないでしょう。
私の礼拝なんです。
アベルのような神様を喜ぶもの、神様の恵みをしたい求めるもの、また神様に期待する礼拝者でありたい。
そう願っております。
皆さん、いろいろ皆さんにはご事情がありましてですね、
週に一回この誠実礼拝を大事にして誠実礼拝にだけ、教会に来られる方々がおられます。
それぞれね、都合があるから、ある意味で仕方がないかもしれませんけれども。
いずれにしても、週にたった一回しかないんですね、この礼拝をね。
もし皆さんが週に一回しか教会に来て礼拝していないならば、その方にとっては、
週に神様の前に礼拝するチャンスは、今日のこの一時間半ぐらいしかないんですよ、そうでしょ、ね。
24:08
その礼拝を全うして、神様に捧げる礼拝であれば、この一週間を、今日からスタートするこの一週間を全うすることができる、勝利することができるということであります。
ところが、たった一回しかないこの礼拝を失敗してしまう。
貝のような礼拝になってしまう。
そしたら、この一週間ももう失敗に決まっているんじゃないでしょうか。
アベルのような礼拝者とならしていただきましょう。
そして神様は、礼拝するアベルだけではなく、アベルという人が大事です。
そしてそのアベルが捧げた捧げ物、羊の産後の中の最初のものも、主は目を止められたわけです。
たまにですね、神様は私の心の中の調子を見られるから、もう捧げ物は適当に捧げてもいいと、そういうふうに思われる、あるいは教えられるところがあります。
神様はアベルにも、アベルの捧げ物にも目を止められた。
なぜでしょうか。神様が物が欲しいからでしょうか。そうではない。
その羊は、アベルにとってはもう全部でした。最高のものでした。喜びが込められている。
アベルの心が、神への愛が込められている羊だったか、それを主が見られたわけなんです。
皆さん、これこそ信仰によって礼拝する者の礼拝者、そしてこの捧げ物ではない。
アベルは喜んで、自ら進んで、惜しみなく神様にお捧げしました。
なぜでしょうか。アベルは分かりました。分かっていました。
自分がどんな礼で、どんな心で、どんな心の姿勢で捧げるのか、神様はご存知なんだと、それを知っていたから、
神の前で、神を挟むことはできなかったということですよね。
皆さん、信仰によって歩んでいますか?という質問が今回のタイトルでありますけれども、
アベルは信仰によって礼拝を喜んで、神を愛して、礼拝をしました。
27:14
3番目、アベルは羊の産後の中で、左右の物でありましたけれど、
その羊を放って、そしておそらくその肉とその血をお捧げしたことでしょう。
そしてそのお捧げ方は、おそらく父アダムから習ったことだと思います。
では、そのアダムはどこでそれを習ったのでしょうか。
説を一括開きたいと思います。
荘石の三章二十一説、荘石の三章二十一説を開きましょうか。
一緒にお見せしたいと思います。
荘石三章二十一説、お一緒に。
神である子はアダムとその妻のために、革の衣を作り、彼らに着せてくださった。
さあ皆さん、これはとても非常に大事な、また予表的な、シンボル的な意味の言葉であります。
アダムといえば、神様が食べてはいけない、あのエデンの園の中にある善悪を知る木の実を食べてしまった。
そして彼らは自分たちが裸であることを恥ずかしく思った。
罪を犯してしまった。
そのエデンの園から追い出された。
その後、神様は彼らが裸であることを恥ずかしく思っている彼らに、革の衣ですから、これは動物の革の衣でしたね。
動物をその革で衣を作って、彼らに着せてくださった。
ここからアダムは、自分たちの罪が許される、自分たちの罪を覆っていただく恵みをアダムは分ける。
そして今日の話は、それがまさにイエス・キリストが、子羊なるイエス・キリストが十字架で血を流してくださった。
その裂かれた肉と流された血によって、私たちの罪が許され、罪を覆われたことが私たちには分かる。
30:06
アダムもアベルも、その時もイエス様も神様も精霊様もおられましたから、何らかの形で彼らはそれを分かっていた。
罪を許されること、罪を覆われることは、この捧げ物を捧げることによってなるものなんだと彼らは知っていました。
おそらくはアダムといえば、それを彼らの息子たちと一緒に捧げたのかもしれない。
アベルはそれを分かっていました。
だからアベルは羊、羊の中で、つまりどういう意味なんでしょうか。
これは罪を許されること、罪を覆われることの意味である。
あがないの礼拝でありました。
だからアベルが捧げた礼拝は、罪を覆われた礼拝である。
罪を許され、罪を覆われる礼拝がアベルの礼拝であって、それを主が喜ばれたことであります。
ですから皆さん、私たちも、今日も文字通りの祈りの中でまさにぴったりしたお祈りがありましたけれども、
イエス・キリストの十字架の知識を通して、自分の罪が許されること、
立つことのできない、恋愛することできないこの罪人が、その罪を覆っていただいた。
その信仰によって、神の御前に近づいて捧げる礼拝を主が喜ばれるということであります。
そこには自分自身が罪人であるという告白がありました。
そして神様のみ、自分の罪を許してくださる方、自分の罪を覆ってくださる方であるという告白がそこにある。
アベルの礼拝はそういった礼拝だったのです。
だから主がそこに目を止められたわけなんです。
皆さん、私たちの礼拝はどうでしたか?
信仰によって歩むという生き方はどんなものでしたか?
日曜日に教会に来て、メッセージを聞いて、
今日はわからんね、あるいはまあまあわかりやすいね、
いや今日は厳しいね、いや自分には合わないねとか、
適当にチョイスして聞いて捨てて、よかったなと。
それだけで終わりはいけない。
33:02
子羊なる、イエス・キリストのあの父王によって、
それを頼りにして、自分は罪を許された、罪を覆ってくださった。
そして美とみなされた。
そしてこの世に主の御名に礼拝できる恵みがあるということを感謝して、
どうして感謝できないのでしょうか?
どうしてね、神に対する恵みが兼ねることがあり得るでしょうか?
ないでしょう。
このような礼拝者でありたい、
このようなお捧げ者を主にお捧げしたい、
と思いませんでしょうか?
私たちが捧げる礼拝が、
アベルが子羊を捧げた礼拝のように、
子羊なるイエス・キリストの十字架の父王を頼りにして、
礼拝するものでありたいです。
十字架の父王を通して礼拝するときに、
聖霊様が私たちの心も体も人格も、
いや、両親からも全てを清めてくださる、
この清めの御業が現れる礼拝でありたい。
その時に、私たちは神様を感じることができる、
お会いすることができる、
神の救いと住みる日のその恵みを体験させていただく、
そしてその清くしてくださる聖霊による力が、
私たちの内に入ってくる、
臨大なされることを、
私たちはそういう礼拝でありたいですね。
そう願うのではないでしょうか。
私たち明太の教会の皆さん、
お一人お一人の礼拝が、
このようなあらないと罪許しと、
聖霊による清めの力によって、
礼拝するものでありたいと切に願っております。
礼拝においても捧げ物においても、
信仰によって行ってください。
そして神様に喜ばれる礼拝者で、
明日から金曜日まで、
秋の特別祈祷会が開かれます。
回数は大事なものではありませんが、
6年目となります。
こんなことを考えてみました。
例えばマラソン選手は、
走る筋肉がハッハッとするわけです。
36:01
あるいは野球のピッチャーは、
ボールを曲げるこの肩の筋肉が、
他の人より発達するわけなんです。
では皆さん、
神様を信じる神と聖徒の私たちは、
目には見えないんですけれども、
本当に必要な発達すべき筋肉があるとするならば、
それは何だと思いますか。
私は思います。
それは祈りの筋肉であります。
マラソン選手が40キロも走れるように、
祈りの筋肉が発達した生徒は、
1時間も2時間も、
地の前にひざまずいて、
祈れる、喜んで祈れる。
しかしマラソン選手が何かの結果をして、
1年、2年も休んで、
やっと過労死で走るならば、
筋肉が発達していないんだから、
1キロ、2キロも、なかなか走るのが難しいんです。
同じなんです。
クリシャンが祈りの礼拝の筋肉を、
それをムキムキにして、
発達してするならば、
神前にどれだけ私たちは祈れるんでしょうか。
どれだけ感謝することができるんでしょうか。
アベルのようになりたい。
神様に礼拝するものでありたい。
この式と会が開かれます。
神の御言葉を期待求めて、
出席しようでありませんか。
出席されて、恵まれて、
祈れ、祈れて、
神様が応答してくださる、
素晴らしい福と恵みを、
ぜひ体験していこうではないでしょうか。
お祈りだ。
それでは今日の御言葉を覚えて、
それぞれ悔やため、
あるいは決心の応答の祈りを、
真剣に忍び前に、
しばらくお祈りを捧げていきたいと思います。
しばらく一緒にお祈りいたしましょう。
祈りましょう。